旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_4










Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








珍しい礼装用ペンネント 13点(額装用)




礼装用のペンネントを額装用に厚紙をベースにあしらったものです。
古い珍しいものが13点あります。ただし作ってからかなりの年数が
経過した為、ベースとなる下地の厚紙が朽ち果ててボロボロになっ
ています。ペンネント自体は生きているので新しい紙に張り替えをす
ると綺麗に再生できると思います。
軍艦 安芸、軍艦 霧島、軍艦 富士、軍艦 丹後、軍艦 秋津洲、軍艦 扶桑、
軍艦 相模、軍艦 津軽、大湊要港部、横須賀海兵団、佐世保海兵団、舞鶴
海兵団など13点。
明治・大正〜に主に活躍した軍艦が…中に霧島や扶桑のように
昭和に入り大東亜戦争も戦った帝國海軍を代表する主力戦艦も
含まれています。




戦艦”富士”です。日露戦争では主力戦艦として三笠を旗艦とする
第一艦隊第一戦隊に所属。旅順港閉塞作戦、黄海海戦、日本海
海戦と主な作戦に全て参加しました。

戦艦”丹後”です。元々は、ロシア海軍が建造した戦艦ペトロパヴロフスク級
の1隻”ポルタヴァ”(Полтава)。姉妹艦に”ペトロパヴロフスク”と
”セヴァストーポリ”がありましたが…ともに日露戦争において日本海軍に戦
没しました。この艦だけが戦没を免れ日露戦争時に鹵獲された8隻の戦利艦
の1隻として”丹後”と改名してから再就役しました。第一次世界大戦が勃発
すると日本とロシアは同盟国になったため、大正5年4月4日に日本海軍から
除籍後、ロシア海軍側に返還された。

防護巡洋艦”秋津洲”です。設計から建造までの全てを初めて日本
国内で行った巡洋艦です。

戦艦”相模”です。元は、ロシア海軍の戦艦”ペレスヴェート”
(ロシア語:Пересвет)で、日露戦争において鹵獲し
た艦です。日露親善のためロシア側に返還することになり大
正5年4月4日に日本艦籍から除籍し”ペレスヴェート”に艦名
を戻し、ウラジオストクで引き渡されました。

戦艦”安芸”です。日露戦争中に臨時軍事費(明治37年度)で計画され
戦艦”薩摩”とともに建造された薩摩型二番艦です。

二等巡洋艦”津軽”です。日露戦争の戦利品で鹵獲した艦でロシア名は
”パルラーダ”(Паллада)です。日露戦争後に”津軽”として帝国
海軍に編入され、第一次世界大戦にも従軍しています。

戦艦”扶桑”です。扶桑型戦艦の一番艦。日本独自の設計による我国
初の超弩級戦艦です。昭和19年10月25日のレイテ沖海戦のスリガオ
海峡夜海戦にて4本の敵の魚雷を受けて足が止まった後、集中砲撃を
浴びて艦長(阪匡身 海軍大佐)以下総員戦死し生存者ゼロの悲愴な
る最期を遂げています。

戦艦”霧島”です。金剛型戦艦の四番艦。開戦時は”比叡”と共に
第三戦隊第二小隊を編成、真珠湾攻撃・インド洋作戦・ミッドウェ
ー海戦に参加。昭和17年11月15日、第三次ソロモン海戦で米艦
隊と交戦。砲撃は至近距離から行われ”霧島”の砲塔には、ヘンダ
ーソン基地艦砲射撃のため三式弾が準備されており、対艦戦闘用
の徹甲弾は使用できなかった。やむを得ず三式弾で米戦艦”サウ
スダコタ”への攻撃を開始。”サウスダコタ”は日本艦隊から42発の
命中弾を受け、上部構造物にダメージを受けた。電気系統の障害に
より射撃不能となり戦場から離脱した。しかしその後方にいた戦艦
”ワシントン”等からの初のレーダー照準による集中砲火を”霧島”は
受ける。きわめて近距離での射撃のため戦闘開始後わずか7分にし
て9発が”霧島”に命中。後部の砲塔二基は破壊され、艦橋にも大き
な被害を負い、さらにその一弾が舵取機室を破壊し艦上は大火災を
発生。”霧島”は左に旋回を続けて戦列から脱落。火災の鎮火には
成功したが、蒸気パイプ破損し高圧蒸気が噴出した為、機関科員の
ほとんどが戦死するなど被害は甚大を極め遂に艦は停止しました。
艦長(岩淵 三次 海軍大佐)は総員退艦を命じ、キングストン弁を開
いて、0130(15日午前1時30分)戦艦”霧島”はサボ島西方11マイル
の地点に左後部から自沈しました。退避した乗員は照月 (駆逐艦)な
どに救助されました。この”霧島”は大東亜戦争に参加した日本戦艦
12隻中、唯一戦艦同士の砲撃戦により沈没した艦でありました。











戦前資料:横浜刑務所の建築落成時に関係者に
         配布されたと思われる写真アルバム

          ”横浜刑務所の威容”
      
〜昭和拾壱年六月 落成記念〜
                         


(海軍の要請でトラック島やテニアン島・ウオジェ
 島に囚人を受刑者部隊”赤誠隊”と”トラック島
 図南報国隊”として送り出した横浜刑務所…。)










横浜刑務所は、法務省矯正局の東京矯正管区に属する刑務所。
下部機関として横須賀刑務支所、横浜拘置支所、小田原拘置支
所、相模原拘置支所の4ヶ所の支所を持ちます。






新設された横浜刑務所の立ち上げから携わった初代所長の東邦彦氏です。左
上は戦前の制服姿の写真で右上は戦後の写真です。

東氏は兵庫県姫路市で陸軍軍医の家庭に生まれます。東京帝大法学部を
卒業し司法試験と行政試験の両方の高等文官試験に合格するがどちらにも
いかず行刑典獄の道に入った変わり種であります。というのも司法省の行刑
の最高位は刑務所長ですが地位は高等官三等で長く勤めても勅任待遇を得
るのが精一杯です。帝大出の司法試験・行政試験合格者は普通は、司法官
試補になり判事補を二・三年勤めた後に行刑に転じ、その後にまた裁判官に
戻れば勅任官への途が開けます。この道をわざわざ蹴り出世の無い道を志望
した東氏は刑務所と同時に採用通知が来た内務省の高等文官の通知を持っ
て母親が涙ながらに『どうか刑務所をなど勤めず内務省に勤めておくれ。』の
懇願を退けて念願の刑務所長の職に就きました。この強い想いの原点は帝大
の前に学んだ旧制松山高等学校にありました。当時、松山の下宿の二階から
監獄の囚人が手足に鎖を付けられた囚人が農耕作業をさせられる様子を眺め
”名典獄・有田四郎助氏”の書物などを読み漁り、人情・慈悲を基調とした教化
遷善の囚人指導を目指す人となりました。こうして帝大卒業後一年で看守長、
四年で典獄補、五年で29歳の若さで刑務所長・典獄と期待を背負って行刑界
のプリンスとして最短距離の道を歩みました。そしてそのまま遂時刑務所を歴
任し行刑に関し司法部内で指折りの存在になっておりました。この戦犯の容疑
も酷いもので敗戦の前年食糧と医薬品の不足でジャワ各地の刑務所で囚人が
栄養失調で亡くなった事を咎められたもので、当時の食糧事情を考えると敗色
濃厚な占領地にあって制空権も制海権すらも敵に奪われ物資・食糧の全てが
不足し地域によっては日本兵が飢餓で死んでいる中に囚人の栄養を一行刑課
長の力で何とかする事など不可能な話であり、戦犯に問われる事自体が無理
難題のような話でありました。まさに東氏のような善意の人であるがゆえに
戦争の犠牲者と誰の目にも写ったと謂われています。そしてその事が彼を死刑
囚という冤罪から自らを救う事となりました。

<東 邦彦 氏 略 歴>






























下の画像は現在の庁舎です。






























































下の画像は現在の木工場です。
下の画像は、昔は無かった筈の製麺工場です。
中々、評判の高い製麺された麺類です。






同じ敷地にある下部組織の横浜拘置支所の現在の画像です。





















横浜刑務所内に建つ古い石碑。”赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘”とあります。
赤誠隊は対米戦直前、南洋のテニアンなど二島に、図南報国隊はトラック諸島に
飛行場建設のため派遣された網走刑務所やここ横浜刑務所などの囚人部隊で
す。碑は昭和十七年に殉職看守らの合同法要の際に建立されました。戦後になり
連合軍の進駐を前に一度破壊され土中深くに埋められました。 戦争協力の責任
を問われる可能性のある文書や証拠の物品はことごとく焼却処分されましたが、石
碑は燃やしようがないから埋めたもようです。「囚人部隊」海外派遣の事実は一度
は抹殺され、碑は東京五輪開催の昭和39年になって掘り出され復元されました。
病死した看守ら職員十一人の名は碑の裏側に刻まれていますが、受刑者の死者は
人数すら正確に把握されていません。
一度破壊され修復の跡が判る石碑。そして右は横浜刑務所
庁舎前にある東 邦彦 撰文です。


左上が表で右上が裏面です。裏面には殉職した職員の名前が刻まれています。


昭和十四年、対米開戦をにらみ飛行場建設を急ぐ海軍の要請で司法省は前例のない
受刑者二千人の南洋派遣を決めました。テニアン島とマーシャル諸島ウオジェ島の二
島に各千人。戦時中の刑事行政をまとめた「戦時行刑実録」(矯正協会編)によると、
道内の刑務所は網走の百三十六人を筆頭に札幌三十人、函館二十二人、旭川(支所)
十九人の計二百七人を選抜。刑期の残りが一年半以上ある約三百人の希望者の中か
ら、五十歳以下で猛暑の重労働に耐えられる頑健な者に絞り込んだ。予想外に南洋希
望者は多かった。「罪人でなく、一兵卒として国のために働くことに誇りを感じたと思う。
任務を果たして仮釈放の期待もあっただろう」。元札幌刑務所看守長で、著書「北海道
行刑史」にテニアン派遣を記述した重松一義さん(77)=東京都府中市、元中央学院大
教授=は言う。厳寒の北海道を出発、横浜港発の輸送船で四〇年二月、上陸した。
炎熱下の密林で巨木を倒し、砕いたサンゴなどを敷いて舗装した。網走勢は人数も多く
美幌飛行場建設の経験から手際の良さは群を抜いていたという。当時小学生の宜野座
朝憲(ぎのざちょうけん)さん(77)=那覇市、沖縄テニアン会会長=は、遠くから受刑者
を見た。「粗末な小屋が並び、網走の重罪人がいると父から聞いて子供心にどきどきした
」集団赤痢や腸チフスで二十四人の死者を出しながら、飛行場は真珠湾攻撃直前の
四一年十月、完成した。四三年春にテニアンに配属された海軍第一航空艦隊の戦闘機
パイロット宮坂栄治さん(81)=宗谷管内枝幸町=の記憶は鮮明だ。「滑走路は全長
二千五百メートル。広くて立派な飛行場だった」と回想する。だが惨敗したミッドウェー海
戦を経て戦力はどん底状態。「ゼロ戦や爆撃機が三十機程度。搭乗訓練も月五、六回し
かなかった」

 宮坂さんがヤップ島に転属した後、テニアンは陥落した。米軍は滑走路を拡張し、「囚人
部隊」が二年を費やした飛行場は日本本土爆撃の最前線となった。

 四五年八月六日、テニアンを離陸したB29「エノラ・ゲイ」が広島に原爆を投下、三日後
に長崎が被爆した。井上茂さん(78)=旭川市=一家は戦前から農業移民でテニアンへ。
勤労奉仕で飛行場造りにも参加。占領後に島の洞穴を転々とし、最後は家族四人で投降
した。「収容所内の新聞で広島のキノコ雲の写真を見たが、まさか自分の島から出撃した
とは。情けなかった」、「囚人部隊」は日本に帰ったのか−。四一年、任務を終えた受刑者
を、第三の飛行場建設が待っていた。トラック諸島春島へテニアンから先遣隊約百人が移
り、残りはいったん横浜港に戻り再び向かった。重松さんは「トラックは輸送船撃沈や餓死
で大きな犠牲を出した。北海道の受刑者も相当数含んでいたのではないか」と言う。炎熱
下の重労働で建設した飛行場が、やがて日本空爆に使用される運命を知ることもなく南洋
に果てた受刑者もかなりの数に上るとみられる。「日本人のツアー客はあまり来なくなった
」と女性観光ガイドのデボラ・フレミングさん(50)。テニアンの滑走路は今も島北部にひっ
そりと横たわる。

       北海道新聞
        ”2008.08.05:国のため…信じた囚人 北マリアナ・テニアン島”
                                            より転載

玉砕したテニアン島。島民約三千人と、北海道出身
を含む兵士約八千人が戦火に消えた。そして皮肉
にも苦心して作った飛行場は日本軍が使うよりも米
軍が日本本土爆撃に主に使用し日本を敗戦に追い
詰めました。広島、長崎に原爆を投下した米軍B29
爆撃機の発進基地テニアン。大戦直前、その飛行場
建設に網走や札幌、函館各刑務所はじめ全国から
約千人の囚人部隊が動員された。日本の南洋進出
を担った北マリアナの小島は米軍占領後、本土空襲
の拠点に転じる皮肉な運命をたどりました。
受刑者が建設しB29が発進したテニアン
北部の旧滑走路。今は使用されておらず
ただ静けさが支配する。
炎天下、広大な飛行場用地を手作業で整地
する囚人部隊…。


テニアン島は第一次世界大戦後、日本の委任統治領に。
面積100平方キロ、サトウキビ生産量は東洋第2位を誇
り、1万5千人の日本人町を形成。米軍侵攻で日本の軍、
民間死者数は計1万1千人を超えた。現在は北マリアナ
諸島(米国自治領)の一部。人口約3千人。


かって横浜刑務所長時代、昭和11年5月の横浜刑務所新築落成記念と
刑政文庫の発刊祝いを兼ねて文鎮を参列者と全職員配った品です。
そこには1598年ウスラ僧院を転用したオランダのアムステルダム女子
懲治場門頭にある上の言葉が掲げられ刻まれていた。この博愛主義に
満ちた言葉こそオランダが近代自由刑発祥の地と謂われるに至った行
刑の至言であり、ヒッぺルをして『自由刑の歩みの中の決定的前身』と
まで評せしめたものです。


             引用転載 ”東邦彦の行刑思想 重松一義”より
またこの文鎮の存在が東氏を戦犯による死刑から重労働15年の刑
に減刑せしめた理由となりました。オランダ関係軍事裁判も更にインド
ネシアの刑務官の幹部研修用にインドネシア語で著した『行刑学大綱
』や彼を知る現地人や日本の司法関係者による減刑運動で裁判所が
彼の良識ある過去の業績を調べ直し死刑が奇跡的に回避されました。
その後、彼は巣鴨プリズンに再収監され、昭和23年4月に戦犯容疑で
逮捕されて以来、昭和29年9月に6年ぶりに仮釈放され自由となりま
す。この時、53歳で再び法務事務官として復帰します。昭和35年2月に
59歳で辞職されるまで名古屋矯正管区長・中部矯正研修所長を併任
されておりました。



アルバムの最後のページに貼られていた第七回の品評会
の入場券が四枚です。戦前の物で左読みです。戦後になる
と下の画像のように名前を変えて横浜矯正展となった品評
会です。


毎年一回全国の刑務所で受刑者がつくった家具や革製品、食品などを
展示即売する「横浜矯正展」が横浜市港南区の横浜刑務所で開かれる。
不況や製造業の空洞化で「ものづくり」の受注減に悩む同刑務所は、「刑
務作業の技術力を市民に知ってもらう機会にしたい」と話す。
会場では
横浜刑務所でつくった家具や細うどんの他、横須賀刑務支所のせっけん、
市原刑務所のみそ、しょうゆ、函館少年刑務所の「獄」のロゴ入り製品な
どの品が並び…手作りの漆塗りや靴、革製品も割安で手に入る。
普段は
立ち入れない刑務所内の工場を見学できるツアーも先着順で参加できる。
また、横浜少年鑑別所の心理技官による「性格テスト」なども受けられる。










高橋 三吉 海軍大将の南画山水図 掛軸









      ◆ 高橋 三吉 海軍大将 ◆


 明治15年8月24日生、岡山県出身

 海兵29期、海大10期

           (略 歴)

大正14年12月 1日   任海軍少将
               軍令部参謀(第二班長)
大正15年11月 1日    聯合艦隊参謀長
               兼第一艦隊参謀長
昭和 2 年 8月24日   美保ケ関事件
昭和 2 年12月 1日   軍令部出仕
昭和 4 年11月30日   任海軍中将 
               海軍大学校々長
昭和 7 年 2月 8 日   軍令部次長
昭和 8 年11月15日   第二艦隊長官
昭和 9 年11月15日   連合艦隊司令長官
                兼第一艦隊司令長官
昭和11年 4 月 1 日   任海軍大将
昭和11年 12月 1 日   軍事参議官
昭和14年 4 月 1 日    待 命
昭和14年 4 月 5 日    予備役


昭和41年 6 月15日    逝去 (享年83歳) 









野間口 兼雄 海軍大将 の自筆”能忍自安”額用めくり















     ◆ 野間口 兼雄 海軍大将 ◆


 慶応2年2月14日生、鹿児島出身

 海兵13期、海大甲5期


           (略 歴)


明治42年12月 1 日  任海軍少将
                第一艦隊参謀長
大正 2 年 1 月10日   海軍軍務局長
大正 3 年 4 月17日   呉海軍工廠長
大正 3 年 5 月29日   任海軍中将
大正 4 年 12月13日   第六戦隊司令官
大正 5 年 12月 1 日   海軍兵学校々長
大正 7 年 12月 1 日   舞鶴海軍鎮守府長官
大正 8 年 12月 1 日   第三艦隊司令長官
大正 9 年 8月 16 日   任海軍大将
大正 9 年 12月 1 日   海軍教育本部長
大正 12 年 4月 1 日   軍事参議官
大正 12 年 5月 15日   横須賀鎮守府長官
大正 13 年 3月 10日    待 命
大正 13 年 3月 20日    予備役
昭和 6 年 2 月 14 日    後備役
昭和 11年 2 月 14日    退 役

昭和 18年12 月 14日    逝 去(享年77歳)









水谷 千万吉 海軍中将の肉筆一行書









     ◆ 水谷 千万吉 海軍中将 ◆


 慶応3年11月 3日生、愛知県出身

 海兵19期


           (略 歴)


大正6年 6 月 1 日  任海軍機関少将
              (朝鮮総督府平壌鉱業所長)
大正11年 4月 1 日  燃料廠平壌鉱業部長
大正11年11月10日  海軍軍令部出仕
大正11年12月 1 日  任海軍機関中将
                 待 命
大正12年 3 月31日     予備役
大正13年 12月20日  任海軍中将
昭和 4 年11月 3 日     後備役
昭和 9 年 11月 3日     退 役

昭和17年 8 月 22日     逝 去 (享年74歳)









二百分の一スケール真鍮製(小西社製)

        丁型海防艦(第二号型海防艦) 














             性能緒元             
 排 水 量  基準:740t
 全 長  69.5m
 水 線 長
 全 幅  8.6m
 吃 水  3.05m
 機 関  蒸気タービン1基1軸 2,500馬力
 燃 料  重油 240トン
 最 大 速 力  17.5ノット
 航 続 距 離  14ノットで4,500海里
 乗 員  141名(計画)
 兵 装 (計画時)
45口径12センチ高角砲 単装2基
25mm三連装機銃2基
三式迫撃砲単装1基[1]
三式爆雷投射機12基
爆雷投下軌条1基
爆雷120個
 同 型 艦  143隻(計画)            
 67隻(完成)























金属製洋上模型  
 インターナショナルスケール 1/1250

       可愛い小西社製のミ二日本艦隊




小さな1250分の1スケールも数を並べると結構、迫力が出てきます。
戦艦”武蔵”に空母”隼鷹”も護衛の巡洋艦群の中に鎮座しています。




病院船”氷川丸”と”あるぜんちな丸”です。


新たに加わった軽巡と駆逐艦、潜水艦の1250分の1です。













最近発売されたばかりの連合艦隊司令長官”三船敏郎”の
冬服バージョンです。襟の階級章が貧乏臭くもう少しお金を
掛けて欲しい所ですが…凛々しい三船敏郎さんのイメージ
がしっかりできていて連合艦隊司令長官の威厳が感じられ
ます。
海軍士官短剣と軍刀は手抜きせず立派な出来です。



遅れて発売された連合艦隊司令長官”三船敏郎”の夏服バージョンです。