旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part Uz_2













Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








 昭和十八年に第二次ブーゲンビル島沖航空戦
  で戦死され軍神になられた歴戦の中攻隊搭乗員
    金田 吉一 (特務)中尉(戦死後に大尉)の資料
           (七五一空 第六分隊長)

〜支那事変の重慶爆撃以来の歴戦のつわもの
  マレー沖海戦で陸攻機の機長を務めて雷撃を敢行〜




マレー沖で殊勲を挙げたベテランの中攻隊の機長を務めた金田中尉の
遺品です。最期は米軍との地獄の物量戦で消耗させられたラバウルか
ら出撃し…第七五一海軍航空隊の第四中隊第一小隊長機の機長とし
て”ろ号作戦”に参加、昭和18年11月8日の”第二次ブーゲンビル島
沖航空戦”で一式陸攻11機で薄暮攻撃を敢行、被墜し自爆して果て
機長以下全搭乗員が戦死しました。金田機と同様にもう1機、野坂 通夫
大尉機も被墜し自爆しています。この他に未帰還3機を出し合計5機を失
いました。その戦果は、米軽巡”バーミンガム”大破(魚雷2本命中、爆弾
1発命中)でありました。
この通礼軍衣姿の海軍特務少尉が戦死された金田 吉一 中尉
(戦死後大尉に特進)です。優しい目をされた好男子です。
軍艦”長鯨”乗組みの航空科下士官時代です。
胸に航空優等章を佩用しています。
  軽巡”球磨”の飛行科員時代
     (一等飛行兵曹の頃)
 大根布基地時代(航空兵曹長)です。襟階級
 章の金線が将官のように異様に太く見えます
 がは航空科識別線のせいと思われます。軍帽
 にも識別線見えます。

感状や勲記類に写真や資料類です。
偵察出身の古参搭乗員の金田大尉は、支那事変で重慶爆撃に参加し、マレー沖海戦
では九六式陸上攻撃機の機長を務めて雷撃を敢行し戦史に残る英国の誇る二戦艦を
航空機だけで屠るという偉業を成し遂げた松永 貞市 海軍少将の率いる第二十二航空
戦隊の一員として緒戦の大勝利に貢献しました。…その後も南方作戦を転戦しラバウル
航空隊で熾烈なるソロモン航空撃滅戦を生き延た
歴戦の古参搭乗員も昭和18年11月
8日の第二次ブーゲンビル島沖航空戦に式陸攻で出撃…敵艦へ雷撃を敢行後に敵弾を
被弾し帰投不能を悟り自爆…金田機長以下全搭乗員が壮烈なる戦死を遂げて軍神に列
せられました。…敗戦後の日本では顕彰される事の無い軍神達ですが…このサイトの続
く限り…この祖国防衛の戦いを続けてくれた金子大尉以下の勇士達の勇気ある行動を
顕彰し続けます。


功六級金鵄勲章です。やはり重慶爆撃など参加の
日華事変の戦闘の功労に対してものと思われます。


勲六等旭日単光章の勲記です。


元山空の九六式陸攻隊は第十五航空隊を基幹戦力に
支那方面艦隊の第二聨合航空隊に所属して重慶爆撃
に参加しました。
まさに金田大尉の輝かしい軍歴の中でも燦然と
光る重慶爆撃の感状です。当時の支那方面艦
隊司令長官の嶋田 繁太郎 海軍大将からのも
のです。
真ん中が嶋田大将ですが…実に豪華な顔ぶれです。


霞空の練習生時代の訓練で撮影した偵察写真(連続空中写真)
です。金田一水とあり、金田大尉の一等水兵時代に撮影した写真
である事がわかります。


金田一等水兵の記載が読めます。水兵から叩き上げて下士官
になり特務士官にまでなられた方です。重慶爆撃やマレー沖
海戦の攻撃では機長として中攻隊のベテランの士官として活躍
しておりますから、同じような叩き上げで有名な大空のサムライ
坂井 三郎 元海軍中尉よりも更に上の期の航空兵です。


見事に貼り合わせて連続写真が出来上がっています。
上空からの偵察写真の撮影も一から叩き上げて一人前
の航空偵察兵になっていくのは今も昔もどの業種も不変
ですね。
大正時代の空中連続写真です。今から少なく見積もっても
85年以上前の写真ですから…よく残っているもの毎回、こ
れらの古い品々を紐解くときに感心します。
荒川沖より土浦に至る軍線連陵とあります。P桜沢二曹、O金田一水は
PはパイロットでOはオペレーターの略でしょうか、金田大尉の一等水兵
時代の航空写真です。霞ヶ浦海軍航空隊時代のものと思われます。






霞ケ浦海軍航空隊の水兵時代です。機関科水兵
に兵科水兵が混じっています。後に皆が航空兵・
飛行兵となります。
ペンネントに霞ケ浦海軍航空隊と記されています。この時の
金田大尉は…まだ一等水兵でした。航空兵の道を歩み出し
たばかり同期同班の集合写真です。右下が金田一水です。


土浦に荒川沖駅(現在のJR東日本・常磐線の同駅)です。昭和13年
に廃止された荒川沖競馬場を見る事が出来ます。こちらが東口になり
阿見町(土浦海軍航空隊の方向になります。)
戦前は霞ヶ浦駐屯地と同じく朝日分屯地まで続いていた専用線が
ありましたが敗戦で軍用の路線は廃止され今では路線の跡だけが
残っています。


上は現在の荒川沖駅西口の全景です。下は
霞ヶ浦駐屯地と同じく朝日分屯地まで続いて
いた専用線の跡です。

   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



佐世保海軍航空隊廣分遣隊時代の若き日の金田大尉です。
右腕の臂章が見えないので二等または三等航空兵曹だか
階級は不明ですが、左臂の特技章を拡大すると昭和7年9月
制の航空術章である操練・偵練教程章を付けているのが判り
ます。廣分遣隊勤務中の下士官時代でこの廣分遣隊は昭和
6年6月1日に呉海軍航空隊として独立し開隊します。従って
当時の金田航空兵曹は呉海軍航空隊の前身である廣分遣隊
時代から勤務していた事が判ります。
写真自体は昭和7年11月の撮影の様です。


呉海軍航空隊時代の配給券を綴った配給券帳です。既に
一空曹の記載がありますので下士官の最高峰である一等
航空兵曹にまで昇進しているのが判ります。


中身は4〜5枚程度が使われているだけです。
呉海軍航空隊時代の配給券です。廣海軍共済組合購買所
とありますが、これは和6年6月1日にさ佐世保海軍航空隊
廣分遣隊を独立させて呉海軍航空隊開隊させたからです。
因みにこの呉空時代が潜水母艦”長鯨”や軽巡洋艦”球磨”
の乗組時代と思われます。呉空は水上機基地が主体であり
周辺の瀬戸内海、土佐湾沖、山陰地方沖の哨戒や呉鎮守
府に所属する艦艇への艦載(水上)機の調達に従事しました



講演会用資料です。ガリ版刷りで民間で講演する際に何を
話せばよいのかが書かれてあります。






軽巡洋艦”球磨”の飛行科に配属となり実家訪問飛行を行い
撮影した記念の写真です。中々、粋な事をしてくれます。
潜水母艦”長鯨”の後に軽巡”球磨”の乗組になった
ようです。恐らく一等飛行兵曹の時と思われます。
確か近代化が図られた昭和7年になり初めて球磨は水上機を
搭載した。この写真の撮られた昭和8年10月2日です。恐らく
球磨での初めての航空隊員になられたと思われます。
風景から御実家は農家のようです。写真の裏に”郷土訪問記念
軍船 球磨第一號機搭乗”昭和八年十月二日 空中撮影 の記載
があります。今から78年前に撮影された写真です。実に良い笑顔
を見せております。
基本的に海軍では航空機による郷土訪問などはかたく禁じられて
おりました。しかし黎明期から中期に掛けては多くが目こぼしで故郷
を訪問したようです。医療従事者がカゼや体調不良な時に働きなが
ら点滴を受けたり投薬をうけたりするように多くの航空兵が役得とし
て体験していたようです。中には家族に知らせてあり身内が家の屋
根に上って手を振ったり…地元の人達が大勢集まり万歳を三唱する
微笑ましい風景もあったようです。


ありし日の軽巡”球磨”です。


      ◆ 軽巡洋艦 球磨 ◆

        ≪ 性 能 諸 元 ≫


 排水量  基準:5,100トン、
        公試:5,500トン
 全 長      162.10m
 全 幅      14.17m
 吃 水      4.80m
 機 関      90,000hp
 最 大 速     36.0ノット
 航 続 距 離   5,000海里(14ノット/hr)
 乗 員       447名
 兵 装       14cm砲 7門、
            8cm高角砲 2門
            53cm連装魚雷発射管 4基8門
 搭載機      水上偵察機 1機 (近代化改装後)

尚、球磨は昭和9年12月12日から昭和11年12月18日まで旅順基地を
起点に中国沿岸警備を行い。昭和12年9月8日から17日は日華事変で
華中作戦に参加します。どの時期まで球磨に乗組だったかは定かでは
ありませんが…昭和15年の重慶爆撃に至るまでに舞鶴空に所属し…多
分、そこから臨時で石川県金沢市近郊の河北潟で大根布基地(水上機
)での勤務(飛行兵曹長として)をしています。恐らく球磨の乗組は昭和9
年から11年前期位の乗組を終えて舞鶴空の基地から大根布(臨時)基
地に分遣されたものと推察しております。
軽巡”球磨”は日米戦の開戦後は…その高速を利して主に兵員輸送艦として
の任務に従事しました。また主な行動範囲が南西方面に限局されていた事も
あり…大戦後期まで生き延びる事ができましたが、基地航空隊の雷撃訓練の
目標艦として行動中の昭和19年1月11日、ペナン島沖西方で英潜水艦”Tally
-ho”の雷撃を受け撃沈します。




上は金田 大尉所持のアルバムです。以下、
アルバム内部の写真の紹介です。

金田大尉の霞空の練習生時代の教官である中村兵曹と御一家




金田大尉は、下士官時代に潜水母艦”長鯨”の水上偵察機
要員として乗組みをしていました。この時のアルバム写真が
残されています。非常に珍し写真も多く…以下に紹介します。
一般に公開されていない長鯨の写真です。軍機の為背景が
消されて投錨の港が判らないようになっています。アルバム
の記載などから推察すると昭和6年から昭和8年の前期まで
の間を長鯨の乗組であった事が判ります。

        ◆ 潜水母艦 長鯨 ◆

         ≪ 性 能 諸 元 ≫


 排水量 基準:5,160トン、
       公試:7,678トン
 全 長    125.4m
 全 幅    16.215m
 吃 水    6.283m
 機 関    ロ号艦本式缶5基
         パーソンズ式ギアードタービン2基
         2軸 7,500馬力
 最 大 速   16.0ノット
 航 続 距 離 10,400海里(14ノット/hr)
 乗 員     399名
 兵 装     50口径三年式14cm連装砲2基
          40口径三年式7.6cm単装高角砲2基
 搭 載 機   水上偵察機 1機 (昭和5年以降)


航空機は昭和2年度に一度搭載し、昭和5年度より常時、一四式水上
偵察機を1機搭載した。射出機は搭載されず、デリックで水上に降ろし
て運用していた。昭和15年ころには九四式水上偵察機を搭載していた
と謂います。金田大尉が乗組みの時の昭和7年は 第一次上海事変に
参加しています。金田大尉が球磨に転属した後、昭和8年11月15日に
第一艦隊第一潜水戦隊の旗艦となります。その後日米戦の開戦まで
海軍航海学校練習艦や海軍兵学校の練習艦などを務めて、昭和15年
11月15日に第六艦隊第二潜水戦隊の旗艦。昭和16年に第三艦隊第
六潜水戦隊の旗艦となるります。開戦後は…同年12月9日にカムラン
湾で警泊。昭和17年1月4日はサマール島に陸戦隊を輸送。 同年4月
10日より 海軍潜水学校の訓練艦に。昭和18年1月15日に第八艦隊第
七潜水戦隊の旗艦兼母艦に復帰。 同年4月1日に南東方面艦隊に編
入。11月29日、第六艦隊第十一潜水戦隊の旗艦兼母艦。以後内海で
訓練に従事。昭和19年8月、沖縄への輸送任務に2回従事。昭和20年
に入り瀬戸内海が機雷で封鎖されたため6月に舞鶴港に移動。同年7月
30日に敵艦載機の攻撃で艦橋に直撃弾を受け中破、そのままの状態で
敗戦を迎えました。艦橋は戦後に修理され復員輸送に従事しました。そ
の後は日立造船向島造船所で解体され、昭和22年初めに解体が完了
しました。船体の一部は同所の浮き桟橋に利用されたといいます。
金田大尉らが長鯨に搭載して飛行していた一四式水上偵察機です。


            ◆ 一四式二号水偵 ◆

                ≪主要性能≫

  全 長:    10.59m
  全 幅:    14.22m
  全 高:     4.15m
  自 重:    1,880kg                           
  全 備 重 量: 2,750kg
  最 高 速 度: 178km/h
  乗 員:      3名
  発 動 機:   ロレーヌ 450馬力発動機
           水冷W型12気筒 450hp
  続 距 離:   1,150km/9時間
   武 装:    7.7mm機銃×1(後方旋回)
           爆弾30kg×4又は110kg×2



同じ飛行科の搭乗員達。























長鯨の電信員の水兵のようです。






昭和6年度…於 台湾南東洋上、演習の合い間を利用して釣られた鱶(サメ)です。
水兵帽のペンネントを拡大すると確かに長鯨が読めます。


今も昔も艦載機の事故は尽きないもののようです。
人がいて操作する機械がある以上…事故は永遠に
ついて回るものと考えるべきです。













右から二人目で飛行帽をかぶり座っている方が金田大尉(下士官時代)です。
昭和六年度の長鯨飛行科員一同の集合写真です(宿毛港)。








現在もこの微古館は存在しますね!


















長鯨乗組時代の写真です。前列左から二人目が飛行兵曹時代の
金田大尉です。右胸の下に航空優等章を付けています。





昭和五年度、長鯨の看護科員の集合写真です。
水兵のペンネントに大日本軍艦長鯨の艦名が記されています。



長鯨通信士 海軍中尉 華頂侯爵と記載あります。


このお方は宮様で伏見宮 博信王です。伏見宮家の皇族で後に臣籍降下し華族
(侯爵)となられたた海軍軍人です。臣籍降下後のお名前は、華頂 博信 様と仰
いました。(正直な所、こんな老朽艦に中尉時代とは謂え…宮様が勤務なさると
は思いませんでした。)


            ◆ 華頂 博信 海軍大佐 ◆


 東京府東京市出身、貴族議員、勲一等侯爵
 明治38年5月22日生

                 (略 歴)

大正14年7月14日   海軍兵学校(53期)を卒業。任海軍少尉候補生。

大正15年12月1日   任海軍少尉、山城乗組。

大正15年10月19日  勲一等旭日桐花大綬章受章。

      12月 7 日  臣籍降下し、華頂の家号を賜り侯爵に列せられた。
              この際、実兄である華頂宮博忠王の死により断絶
              していた華頂宮家の祭祀を継承。

昭和7年12月      重巡”愛宕”分隊長。駆逐艦”曙”水雷長
              駆逐艦”漣”水雷長、軍令部員等を歴任。
昭和10年        貴族院議員に就任。

昭和14年10月     海軍大学校教官。

昭和20年7月15日   海軍水雷学校教官。
   同年8月15日   敗戦(海軍中佐)

   同年9月 5日   任海軍大佐。

   同年11月     予備役編入。

*戦前に侯爵が造らせ、昭和6年に完成した邸宅は所在地である
 神奈川県鎌倉市によって保存されています。以下(旧華頂宮邸) 

クリックで鎌倉市の公式サイトにアクセスします。



芸者さんでしょうか…サイン入りの写真です。





演習中に戦闘食であるお握りを食べる艦上の
水兵たちの姿を撮影しています。





実に大海軍らしい写真です。










海軍らしく日本全国津々浦々の港に停泊し水上機
を飛ばし写真撮影をしています。


現在の山口県長門市油谷湾です。



この時代の喜界島の空中写真も珍しいです。


喜界島役場の公式HPに以下をクリックでジャンプします











奄美大島の民家です。


のんびりした南国の島の様子が写真よりも伝わります。
左端に制服の巡査もおります。









これも珍しい空中写真です。潜水母艦である迅鯨にイ号潜水艦が横付け
している姿を長鯨の艦載機が空中から撮影しています。





同じように水上走行中の潜水艦を真上から撮影した写真です。






重巡を撮影した写真です。

























寫眞の裏に”安東縣〜新義州”とあります。鴨緑江の上空を飛ぶ軽巡”由良”(右上)の九〇式
二号水偵二型です。恐らく鴨緑江の左が安東縣で右が新義州と謂う事だと思います。
河川を行く日本の民間汽船です。日の丸を掲げて社旗と煙突にMのマークが
見えます。満鉄の関連会社の汽船では無いかと想像します。
写真が古くて不鮮明なので拡大しても鮮明でありませんが…。
第六大生丸と書かれている気がします。



呉海軍航空隊の正門と司令部庁舎と思われます。
市民が大勢居りますので海軍記念日などの祝日で
の一般開放のお祭りの様です。


呉空の航空機格納庫の落成式と思われます。既に右端に
複葉機があって神式でお祓いの儀式がなされています。


この呉空は主に水上機基地がメインの航空隊でしたが滑走路もあり
この呉飛行場では大戦後半では、第531海軍航空隊(天山による雷
撃隊)、第634海軍航空隊(母艦を航空戦艦”伊勢”・”日向”として
瑞雲装備)この634空は水上偵察機”瑞雲”で錬成の筈が機体が整
わうず、呉飛行場で九九艦爆で飛行習熟練習をしていたエピソード
があります。この時、艦爆”彗星”の部隊も存在しましたが、こちらは
岩国飛行場で錬成を行っている事から…陸上機の飛行場としては
余り向かない条件の良くない飛行場であったものと思われます。戦
後も使用される事無く工場用地となっています。





こちらも珍しい写真です。呉海軍航空隊の集合写真で
後方は本部庁舎と思われます。


何とか水兵のペンネントから呉海軍航空隊が読めます。


星印が現在の虹村公園です。この公園から海側
の工場地帯一帯が全て呉海軍航空隊の基地だっ
た場所です。水上機のスロープと陸上機の滑走路
の両方があったようですが滑走路があったにして
は非常に小さいタイトな飛行場と謂うイメージがし
ます。またすぐ呉港なので大型船があればとても
離着陸が厳しいのかもしれません。





夜間ですが非常に多くの市民達が司令部庁舎の前におります。







この地の相撲大会のようです。一般市民の中に大勢の海軍軍人が見学
しています。非常に賑やかでお祭りのようです。

















非常に珍しい初任准士官講習の集合写真と思われます。一緒に写るのは
同じ舞鶴海軍鎮守府籍の兵科准士官と思われます。裏面に鉛筆で11.1.25
卒とありますので、昭和11年1月25日に講習を修了した事だと考えます。
通常、兵曹長に昇進するまで下士官の時代の籍のあった地域で講習を受
けますが、准士官講習は3ヶ月余の短期講習です。しかしこの成績が新任
准士官の席次を構成したと謂われております。(よく考えると水兵時代の
金田 大尉の兵籍地が呉なのか舞鶴なのか横須賀なのか判りません。写
真には地名の記載が無い為、呉や横須賀鎮守府の可能性も否定できまま
せん。)
金田 海軍航空特務中尉は、生存されていれば戦時ですから当然、特務大尉
更にその上の特選少佐に昇進したと思われます。昭和18年後期以降ですか
ら特務士官の階級名から「特務」との呼称が削除されましたが、海軍廃止まで
特務士官制度は存続し、必要に応じて「特務士官たる〜尉」と区別されてい
おりました。また、飛行予科練習生出身者(操縦練習生・偵察練習生出身者
を含む)に限り特務士官たる大尉から士官たる大尉への任用制度が創設され
ます。その後、昭和20年に特務士官たる中尉、少尉から士官たる中尉、少尉
に任用できるよう制度が拡充されました。しかし適応をうけられたのは大尉
への任用のみで10名に満たないものでした。しかし特選制度で昭和2年頃に
なると主計特務大尉から士官たる主計少佐に昇進したものが現れました。当
初は、予備役編入寸前に特進する名誉少佐でありましが…昭和12年に至り
現役中に昇進する者が出て来ました。敗戦による海軍消滅までに、戦死者を
含め海軍の各科で約1800名程が少佐に昇進しています。また、昭和17年に
は兵科で2名、機関科1名の3名が現役海軍中佐へ昇進を見ています。
この中佐が水兵・下士官より叩き上げで士官学校である海軍兵学校を経ない
で昇進した海軍軍人の最高位です。尚、非常に珍しいこの3名は、機関科の
特務士官から(特選)海軍中佐に昇進した酒井 常十 氏。兵科の特務士官か
ら同じく昇進したのは、三澤 千一 氏と壇原 袈裟由 氏の2名です。この内、
壇原 中佐は敗戦まで現役士官として勤務されていた事が確認されています。
この面構え…予科練とも違う、まさに四等水兵から叩き上げ
で准士官に登りつめてきた男の気概が感じられるようです。

呉空の九〇式水上偵察機二号です。
僚機を撮影したものと思われます。

◆ 九〇式二号水上偵察機二型 ◆

      ≪ 性 能 ≫

      E4N2(二型)

 全 長:   8.86m
 全 幅:   10.976m
 全 高:   3.967m
 全 備 重 量:1,800kg
 自 重:   1,252kg 
 主 翼 面 積:29.66u 
 最 高 速 度:232km/h
 乗 員:   2名
 発 動 機:  中島 寿2型改一
       空冷9気筒 580hp
 航 続 距 離:1,019km
 武 装:    7.7mm機銃×2、
       爆弾60kg

佐世空の九〇式二号水上偵察機二型です。



昭和12〜14年頃の舞鶴海軍航空隊の集合写真
旗を拡大すると舞鶴要港部、部技大会、優勝とあります。
優勝記念の集合写真に通礼軍衣姿で勲章を佩用してい
る金田 大尉の姿があります。既に航空特務少尉に昇進
しています。


ペンネントに舞鶴海軍航空隊が読めます。
昭和10年10月1日に開隊した舞鶴海軍航空隊は、定数・水上偵察機6
でスタートした純然たる水上機基地の航空隊でした。








初期の舞空の水上基地の写真と思われます。水上機と格納庫に兵舎や庁舎などが
見えます。空き地が目立ちますが、その後に基地施設が建設されたものと思われま
す。…当時の昭和10年末から昭和12年位までの写真と推察され珍しいものだと思い
ます。



舞空の幹部達の写真です。中央に座った方が舞鶴空の第二代司令山田 道行 海軍 中佐
(後に第24航空戦隊司令官としてクェゼリンで戦死さ れ中将に特進されます)と思われます。
右端の方は特務少尉に昇進後の金田大尉かも
しれないと思いますが…写真が不鮮明で判りに
くいです。


呉空か舞鶴空なのか判別しませんが共に水上機部隊でも小部隊
であり水上機も非常に限られた小数の機数しか持たない地味な
部隊でした。
この舞鶴空も昭和19年12月15日に解隊し、本土の偵察航空隊は
東西2個の海上護衛航空隊に集約されました。舞鶴空は佐世保空
を主幹とする第九五一海軍航空隊の舞鶴派遣隊に改編され、僅か
9年でその短い歴史に幕を閉じ解散したとなっていますが、実際に
は、九五一空への編入はなく、司令部を廃止し舞鶴鎮守府直率の
水上飛行隊として敗戦まで同基地で存続し運営されたようです。


この大根布基地とは、現在の金沢市の郊外、石川県河北郡内灘町にある大根布
と思われます。この日本海側の内灘砂丘は鳥取砂丘に次ぐ日本第二位の砂丘で
しられますが、霞ケ浦のような水郷地帯である河北潟に水上機基地を海軍が作っ
ていたとは知りませんでした。また記録を探してもありません。この周辺では戦前
内灘砂丘には ”北陸の宝塚”といわれた一大パラダイス”粟ヶ崎遊園地”が一世
を風靡し大戦が始まるまで華やかな地だったそうです(内灘町の公式HPより)。
敗戦前に現在の航空自衛隊小松基地の前身となる小松海軍航空隊が開隊して
存在しましたが(昭和19年9月)、他の予科練部隊から陸攻専修を転属させたもの
であり…翌20年には3月に予科練教育凍結され、19連空解散し舞鶴鎮守府第23
連合航空隊に編入され解隊されました。戦後は進駐した米軍がレーダー基地を設
置した。昭和33年に返還されるが自衛隊と民間共用の飛行場として今も運用され
ています。幹部の写真の顔を見ると判るのは舞鶴空の幹部達です。恐らくは舞鶴
空は、全期間を通して水上偵察機のみからなる純粋な偵察専門部隊であり、軍
都・舞鶴の防衛及び日本海側の各都市の防空のために設置されたました。この為
周辺の日本海側の北陸三県をも防空圏のテリトリーとしたと思われます。この大根
布基地はそうした流れの中の活動で臨時に設けられた仮設水上基地と思われま
す。ここを起点にして金沢市や能登の七尾や富山市などの空中写真が撮影され残
っていますので舞鶴海軍航空隊の臨時分遣隊の仮基地だったと思われます。
見てお判りのように水辺をそのまま利用して特に工事をして手を加える
事無く短期間の間、民家等を借り受けて宿舎等にしたと考えられます。
海と違い基本的に大きな波が無いので水上機には安定した良い発着
場だと思います。しかし下の写真でも判るように天幕の柱代わりの部分
に電燈を取る用意をしており、後方には探照灯(サーチライト)も持ち込
んでいるので自家発電機など最低限の装備は舞鶴より陸路で持ち込ん
だか陸軍から借り受けたものと想像します。
大根布空時代の金田 大尉です(右端…兵曹長時代)。
左端の方が舞鶴空の第二代司令だった山田 道行 海軍
中佐(後に第24航空戦隊司令官としてクェゼリンで戦死さ
れ中将に特進されます)。山田 中佐の司令として在任期
間は昭和11年
12月1日から昭和12年5月19日までです。
以降は呉空の司令に転出します。従ってこの写真の展開
時期は昭和12年の5月までの間で写真に全く雪が見られ
ない事を加味すれば撮影地が北陸である事を会わせて考
えれば昭和12年の3月末から5月頭までの春と推察します。
昭和14年3月1日現在では、水交社名簿にも航空特務少尉及び中尉の
名簿に名前がありません。この時点までは航空兵曹長のままであった
事が判ります。昭和14・15・16・17年までの間で特務少尉から特務中尉
へ昇進されています。


陸軍と共同作業がなされています。この北陸には飛行場が無く
有効なる防空網が取り残された裏日本であります。敗戦の間際
になり小松に現在の空自の小松基地(民間共用)の前身となっ
た小松海軍航空隊が開隊されましたが、すぐに敗戦となりました
。小松飛行場は戦後、米軍が使用した後に現在の状態に至って
おります。


大根布の民家の脇で山田司令を中心に仮基地の海軍将兵19名と
金沢第九師団の工兵第九聯隊の兵士11名が記念の集合写真で
写っている珍しいワンショットです。前の5人の白色作業衣の5名は
水上機の出し入れ作業で濡れ無いように胸まであるゴム防水作業
用の物を履いているのが判ります。
上下の陸軍兵士の襟の聯隊番号は9である事が読めます。
金田航空兵曹長が笑みを浮かべて写っております。
昭和12年8月1日の時点であると仮定すれば海軍に協力して工兵を送ったのは
工兵第九連隊(金沢)連隊長 野中 利貞 陸軍大佐(陸士18期)と思われます。
副官 藤野 政義 陸軍大尉、第一中隊長(久野 周重 陸軍大尉)、第二中隊長(
小坂 外茂吉 陸軍大尉)、機材小隊長(竹内 清 陸軍少尉)…。
当時、空中から仮説基地を置いた河北潟の大根布(現在の河北郡
内灘町大根布)を写した航空写真です。
基地を置いた場所を拡大しました。潟に舟が2艘、浜辺に
1艘置いてある辺りが仮基地となった場所です。




昔の写真と以下の現在の衛星写真を見比べるとよく判るのは
現在は水害対策なのか集落よりかなり水辺までを埋め立てし
ている事です。集落と畑の違いの道路ギリギリが昔は河北潟
の水辺との境のようでした。
調べると戦後の昭和30年代から23年掛けて大規模な干拓灌漑工事を
推し進めた結果、河北潟は戦前の約三分の一にまで縮小し、水質も悪
くなり汚染により豊かだった生態系は崩れ…中々、往時の姿には戻ら
ないようです。本サイトでは毎回、先の大戦で日本の為、日本人の為、
アジアの同胞の為に戦って多くの名も無き日本人が戦死されました。心
無い支那や朝鮮の手先として活躍する日教組を代表とする労組、マス
ゴミなどの政治プロパガンダで貶められ…その英雄的な献身ぶりも行為
も全く顕彰もされず捨て置かれてきた現在までの悪しき状況を打破し真
実を伝える為、ネットを利用して戦死された方も、生存され復員し寿命を
全うされた方を含めて後世の日本人に語り継ぐために真実を掘り起こし
紹介しています。…しかしこうして本来の目的と全く別なのですが見えて
くる事に戦前と戦後の対比で歴史や人の想いだけでなく…国土や環境
そのものが人の手により大きく様変わりしている事です。多くは環境破
壊でありますが…過去の美しき姿を知ると戦後の日本人の愚かさが見え
て来るような気もします。問題は失敗に学び改善したり、時には元に戻す
事が出来る勇気のような気もします。…しかし人とは莫大な金を掛けて…
自然を破壊し…結果出来た干拓地も農地が減反で減る中で何の意味が
あったのかが問われる。…しかもこの国の食糧自給率は4割にしか満た
ない。




下の河北潟の画像をクリックすると
”河北潟水質浄化連絡協議会”の
公式サイトに飛びます。
          ↓



金田大尉は操縦専攻で無く偵察専攻なので自分で
撮影した発電所の上空からの写真です。
こちらの発電所は今も北陸電力福岡第一発電所として現存して
おります。地元の中日新聞北陸本社の新聞記者の方からお教え
いただきました(当時は、金沢電気瓦斯の水力発電所でした)。
下の福岡第一発電所の画像をクリックすると”北陸電力 福岡第
一発電所”を紹介するサイトに飛びます。
                   ↓



鶴来発電所とありますが、現在の北陸電力福岡第一発電所です。





民家の中に無線機を展開して臨時の通信施設を開設しています。


































地元の中日新聞北陸支社の記者の方の情報でこの複葉機の翼が写る
写真は戦前の小松市街では無いかと…その下の戦前の写真と比べる
とまさしく川の流れと謂い住宅等の配置も同じような気がします。
地図と空撮写真を見比べて下さい。駅から広がる市街地とそのバックに
ループを書くように川が大きな中洲のような広い土地が見えます。この
地図と符合するのが判ります。ご指摘された通り戦前の小松市と思われ
ます。


能登半島の現在の七尾市です。左側が七尾湾で港だと思われます。


富山市です。…越中、能登、加賀の国を水上機で
当時の金田 飛行兵曹長殿は空撮して回っていま
す。非常に贅沢な空の散歩という感じがします。








富山市の神通川でしょうか。後ろには残雪の残る絶景の立山黒部です。


こちらは石川県と富山県の間にある富山県の高岡市です。


水郷地帯の北陸の田園風景らしい空中写真です。奥に
見えるのは立山連峰か白山山系でありましょうか、こちら
も調べた結果、どうも富山県の旧新湊市で現在の射水市
だと謂う事です。写っているのは放生津潟という潟湖で現
在は埋め立てられて富山新港という港になっているとお教
えいただきました。ここが開港する前は周囲は水田地帯で
ありましたが、その開港工事に伴い周囲は工業用地と化し
…この潟湖を掘削して新港が造成された為、現在はこの写
真のような昔の面影をほとんど残していません。
下は現在の伏木富山港の富山新港です。
現在の姿です。上の田園風景からは想像がつかない変貌ぶりです。






よく撮影し残してあったものです。非常に珍しい昭和初期の
金沢配水所の空中写真です。
こちらは現在もある施設と思いましたが地元の中日新聞北陸支社の記者
の方からの情報で現存する施設と写真の施設は違うものと判明しました。
すなわち写真にある金沢配水所は既に無くなっています。










金沢水源地とあります。こちらも現存しており金沢市末浄水場
と呼ばれています。地元新聞である中日新聞北陸支社の記者
の方から情報をいただきました。登録有形文化財にもなってい
て特徴的な建屋もそのまま残っているそうです。
下の末浄水場の画像をクリックすると”金沢市末浄水場”
を紹介する金沢市企業局のサイトに飛びます。
                 ↓






館空の写真がありました。金田中尉は中攻隊で最期を迎えております。


★これ等のアルバムに写真が残る時代は、戦時とは謂え本当に
まだ余裕のある時代だったと謂えるでしょう。これが一気に国力
の持てる全てを使い果たし戦った総力戦たる大東亜戦争に至っ
ては殆ど写真すら残っていません。


金田大尉がいつも持ち歩いたお守りでしょうか。
日本三大稲荷の一社で有名な祐徳稲荷神社の
武運長久のお守りです。
佐賀県鹿島市にある祐徳神社の画像です。


    
    
〜日米戦開戦前後の金田(特務)中尉(戦死後:大尉)の動向〜


昭和15年10月1日に陸攻48機で編成された元山海軍航空隊(司令・伊沢 石之助
海軍大佐、飛行隊長・三原 元一 海軍少佐)に所属しました。これは第十五航空隊
を基幹戦力として編成(陸攻48・艦戦48)。支那方面艦隊第二連合航空隊に所属し
ました。

昭和16年1月15日 第十一航空艦隊を新編し、二連空は第二十二航空戦隊に改編
。以降、第二十二航空戦隊(22航戦)は、”4月10日の対米戦”を意識して内南洋諸
島(パラオ、サイパン、トラック、マ−シャル諸島)で各地を巡回しつつ訓練に励みま
す。

昭和16年4月末、部隊は…上海を経由して漢口に進出します。そして同年4月29日
に恩施攻撃を実施。5月3、9、10、16日の4日間、九六陸攻54機による重慶爆撃を
敢行。また7月25日には、一部に一式陸攻が到着し配備が始まります。8月11日に
一式陸攻による初陣の出撃が行われました。8月30日、31日の連日で約80機によ
る重慶・成都爆撃を実施しています。以降は本格的な対米英戦準備の為、これが
帝國海軍航空隊の陸上攻撃機による中国奥地に対する戦略爆撃の最後となりまし
た。 その後、同年9月1日、館山飛行場に帰還。10月9日、台中飛行場に進出。
また11月24日、海南島経由サイゴン近郊ツダウム飛行場に進出します。そして運
命の日米戦開戦に伴い、マレー方面に元山空の九六陸攻36機が司令の前田 孝成
海軍大佐、先任分隊長・石原 薫 海軍大尉のもと進出します。

昭和16年12月10日、マレー沖海戦に参加します。そして美幌空・鹿屋空と協同で
英東洋艦隊旗艦である戦艦”プリンス・オブ・ウェールズ”及び巡洋戦艦”レパルス”
を撃沈すると謂う歴史的快挙を成し遂げます。その経過は、以下



重慶爆撃と重慶市内





大空を往く九六式陸攻の大編隊!!
下は、陸攻内部の様子です。


帝國海軍を代表する名機であり栄光の翼と謂える九六式陸攻です。
金田中尉(当時、特務少尉)はマレー沖海戦に参加しました。所属は松永少将率いる
第一航空部隊の甲空襲部隊(中西 一二 少佐指揮)の雷撃隊第二中隊(中隊長:高井
貞夫 大尉)の三個小隊の一つ第二小隊長機の機長でした。金田中尉の第二中隊は、
九六式陸攻8機、第一中隊(中隊長:石原 薫 大尉)は9機で18機が雷装。この他に捜
索隊の第三中隊(中隊長:二階堂 麓夫 大尉)の9機と爆撃隊の第四中隊(中隊長:牧
野 滋次 大尉)の9機、合計18機が爆装していました。この金田中尉の甲部隊の他に
乙空襲部隊(九六陸攻 24機 )と丁空襲部隊(宮内 七三 少佐指揮)の一式陸攻 25機
の合計76機の中攻隊が参加しました。昭和16年12月9日15時15分、イ-58潜水艦の発
見した英国東洋艦隊に近藤 信竹 中将の第二艦隊が追撃を試みるが日本の戦艦部隊
は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。近藤中
将は水上部隊による追撃を断念し航空部隊と潜水艦部隊に後を託しました。松永 貞市
少将指揮下の第一航空部隊(海軍第二十二航空戦隊)が攻撃準備しますが、あいにく
悪天候で危ぶまれる中、松永少将は17時30分に陸攻(陸上攻撃機)部隊を三波二分け
発進させました。しかし、天候がますますひどくなり、やむなく松永少将は各隊に引き返
すよう命令しこの日の攻撃は中止となりました。翌12月10日6時25分、まず索敵機9機
を発進させます。予想では4時間後に敵艦隊を発見できる筈でした。索敵機の発進後、
攻撃隊も各基地から出撃。索敵機からの報告を手がかりに、各航空隊が現場に急行す
る手はずが取り決められました。まず7時55分にサイゴンから(甲部隊)元山航空隊(九
六式陸攻26機。魚雷装備17機、爆弾装備9機)が出撃。続いて8時14分にはツドゥムか
ら(丁部隊)鹿屋航空隊(一式陸攻26機。全機雷装)が出撃。直後の8時20分にツドゥム
から(乙部隊)美幌航空隊(九六式陸攻33機。雷装8機、爆装25機)が出撃した。最後の
機が離陸したのは9時30分のことでした。一方でZ部隊(英国東洋艦隊)は朝になってか
ら日本軍のコタバル上陸を知らされ、針路をコタバルに向けました。7時18分にスーパー
マリン・ウォーラス偵察機を発艦させ、駆逐艦”エクスプレス”とクアンタン方面を偵察した
が日本軍を発見できなかった。日本軍を発見できなかったZ部隊本隊も再び南へ引き返
します。日本軍も本命の東洋艦隊はなかなか発見できなかった。10時52分、サイゴンに
引き返す途中の4番索敵機が帰還中の”テネドス”を発見し、500kg爆弾を装備する元山
航空隊の爆装陸攻隊が戦艦と見誤って攻撃したものの命中弾は得られませんでした。
11時45分、3番索敵機(機長・帆足正音予備少尉)が待望の東洋艦隊主力を発見し、約
15分の間に司令部に以下の3つの電文を打電しました。

敵主力見ユ、北緯四度、東経一〇三度五五分、針路六〇度、一一四五
敵主力ハ三〇度ニ変針ス、一一五〇
敵主力ハ駆逐艦三隻ヨリナル直衛ヲ配ス、航行序列、キング型、レパルス、一二〇五

司令部はすぐさま各攻撃隊に電文を転送し、各攻撃隊は敵東洋艦隊主力めがけて殺到
しました。主力上空に最初に到達したのは美幌航空隊の爆装隊の一部8機と元山航空
隊の雷装のいずれも九六式陸攻隊であった。爆装陸攻隊は”レパルス”を目標に投弾。
うち1発が命中。ただし、”レパルス”の損害は軽微でした。雷装陸攻隊は二手に分かれ
て”プリンス・オブ・ウェールズ”と”レパルス”の両艦を狙いました。”レパルス”はテナント
艦長の巧みな操艦ですべての攻撃を回避したものの、舵効きの悪い”プリンス・オブ・ウ
ェールズ”には間もなく攻撃が集中され左舷後方に2本の魚雷が命中。うち1本の命中し
た衝撃は”プリンス・オブ・ウェールズ”に重大な損傷を与えました。魚雷命中による損傷
に加え、衝撃で湾曲した推進軸は回転する太鼓のバチの様に周囲を殴打して破壊の限
りを尽くしました。この時に隔壁が破壊されたこともあり、”プリンス・オブ・ウェールズ”は
早くも多量の浸水が出現し見る見るうちに速力が低下。また、缶室や機関室、発電機室
などにも浸水が及んで、電力供給途絶により後部にある4基の両用砲が旋回不能になり
対空射撃等に甚大な影響が出ました。そして舵機も故障して操艦も不如意になりました。

13時50分に戦場に到着したのは鹿屋航空隊の一式陸攻隊でした。この第二波攻撃で
機動能力を落とした”プリンス・オブ・ウェールズ”は右舷に4本、”レパルス”は左右舷に
計5本の魚雷をそれぞれ受け、対水雷防御に欠ける”レパルス”は被雷後約4分を経た
14時3分ごろに沈没しました。この頃、”プリンス・オブ・ウェールズ”には大量の浸水が
生じ傾斜がひどくなりました。その後間もなく、美幌航空隊のうち第一波攻撃に参加し
た機を除く機が”プリンス・オブ・ウェールズ”と駆逐艦を襲い、”プリンス・オブ・ウェール
ズ”に500キロ爆弾1発を命中させました。爆弾は最上甲板を貫通し内部で炸裂した為
同艦の船体中央部の飛行機甲板は全体が盛り上がるほどの損傷を受け、さらに通称
「シネマデッキ」に収容されていた負傷兵に多数の死者が出ました。

その後、”プリンス・オブ・ウェールズ”は左舷への傾斜がひどくなり、駆逐艦”エクスプ
レス”が乗員救助のために右舷に横付けして乗員の収容を始めた。トーマス・フィリッ
プス大将は幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振
りました。14時50分、”プリンス・オブ・ウェールズ”は左へ転覆し艦尾から沈没しました。

日本軍の攻撃で”プリンス・オブ・ウェールズ”が沈んでから間もなく、オーストラリア第
453飛行隊のブリュースターバッファロー11機が戦場に到着、上空直掩を行いました。
駆逐艦”エクスプレス”が”プリンス・オブ・ウェールズ”の乗員を救助している間、駆逐艦
”エレクトラ”と”ヴァンパイア”が沈没した戦艦”レパルス”の乗組員を捜索し、”エレクト
ラ”が571名、”ヴァンパイア”が”レパルス”の艦長と従軍記者を含む225名を救助しまし
た。また駆逐艦”テネドス”は無事にシンガポールに帰還しました。

戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐 春記 海軍大尉は両艦の沈没した海域に
再度飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対し敬意
を表しました。

尚、この戦闘で日本側は、陸上攻撃機未帰還3機。その他…帰投時に不時着大破した
陸攻1機、偵察機未帰還2機の6機を失っています。しかしこの戦闘で参加機の多くが被
弾し、うち30機以上が深刻な被害を受けており…如何に英戦艦2隻の対空砲火が熾烈
を極めたかを物語る証拠となりました。英国側は英東洋艦隊の6隻中、戦艦2隻(戦艦”
プリンス・オブ・ウェールズ”、巡洋戦艦”レパルス”)を失い司令長官のフィリップス大将、
リーチ大佐ほか将兵840名が戦死しています。残存の駆逐艦4隻は無事にシンガポー
ルに帰還しました。



嗚呼、堂々の中攻隊が空を往く


九六式陸上攻撃機の編隊
日本軍機の猛攻撃を受け轟沈する戦艦”プリンス・オブ・ウェールズ”
と戦艦”レパルス”の両艦。
攻撃にさらされる英東洋艦。巧みな操舵で爆撃を回避
する戦艦”レパルス”と逆に集中攻撃を受ける戦艦”プ
リンス・オブ・ウェールズ”。
沈ずみいく戦艦”プリンス・オブ・ウェールズ”に横づけ
して乗員を救助する駆逐艦”エクスプレス”。


マレー沖海戦とマレー戦線



巡洋戦艦”レパルス”
戦艦”プリンス・オブ・ウェールズ”





金田大尉が所属した元山空の九六式陸攻です。二本線の帯が
記載されているので中隊長機と思われます。



the Battle of offMalay マレー沖海戦




Sinking of Prince of Wales and Repulse (マレー沖海戦)




『マレー沖海戦』




  
〜マレー沖海戦以降の金田(特務)中尉(戦死後・大尉)の動向〜


昭和17年1月30日、ジャワ攻略以降、元山空はボルネオ島クチン飛行場に進出。
蘭印作戦を支援。同年2月2日までに九六陸攻を計31機が終結します。
シンガポール、マレー半島、スマトラのパレンバンが日本側の手に落ちた為、これ
までその航空作戦を担当していた22航戦は、2月22日以降、美幌空以外が蘭印
方面の作戦支援に組みいれられます。西部ジャワに対する攻撃と歩調を合わせる
22航戦は、元山空の33機と、2月24日にゲルンバンに移動。3月7日、ツダウムに
帰還。3月10日、元山空はビルマ作戦参加の為サイゴンへ移動。13日,バンコク
に進出しビルマ攻略作戦を支援します。その後、22航戦に美幌空(九六陸攻36機
)、元山空(九六陸攻36機、艦戦36機)、21航戦の鹿屋空、23航戦の高雄空、そし
て24航戦の千歳空、一空、25航戦、四空、26航戦の木更津空、三沢空など計9個
航空隊による陸攻機総数372機と謂うこれまでに無い過去最高となる戦力が集結
します。そんな中、牧野 滋次 大尉の率いる元山空の1個中隊が高雄空に転属と
成ります。

昭和17年4月20日、陸攻隊、ラバウルへの転戦開始され、先遣隊 9機がラバウル
着(以後、戦闘機隊と別行動)。このように東南アジアから転用された元山空の第
一陣となる陸攻9機がラバウルに到着し、残りも随時…ラバウルに到着し徐々に終
結します。これ以降、熾烈なるラバウル海軍航空隊での連合軍との物量戦、出口な
き凄まじい消耗戦に飲み込まれていきます。

昭和17年5月1日、ブナ・カウナ飛行場に元山空の九六陸攻が16機到着。
同年5月7日、重巡”衣笠”の水上機が敵艦隊を発見。ラバウルより離陸した陸攻が
07:35に戦艦2、重巡2、駆逐艦2の陣容の敵と接触。09:00に元山空の陸攻26機
が250s爆弾2発の爆装出出撃。また別に雷装の陸攻12機が出撃しました。爆装の
陸攻隊は、高度4000mより4隻の敵艦船に対して爆撃を開始。1隻に2〜3弾の命中
を見て沈没を報告します。この戦いに参加した元山空機では、3機が被弾するが軽
微な損傷で終わります。これが所謂、珊瑚海々戦です。因みに米側では命中弾は
認められておりません。 (これとは別に歴史上初の航空母艦同士の航決戦であり
…陸上機や艦艇同士の砲撃戦等が含まれない純粋な航空母艦同士の艦載機同士
による戦闘としては歴史上最後のものとなります。…こちらの戦いでは米豪連合軍
側は正規空母である”レキシントン”が撃沈、”ヨークタウン”を中破という被害に対
し、日本側は、小型空母の”祥鳳”を失い、正規空母の”翔鶴”が中破し艦載機81機
と多くのベテラン搭乗員を失いました。)この空母決戦とは別にラバウルの基地攻撃
部隊(山田 定義 少将の指揮する第25航空戦隊)が…7日の未明にラバウルから
九六陸攻6機、ツラギから九七式大艇4機を索敵に出し、巡洋艦と駆逐艦からなる
クレース隊を発見して攻撃を行いました。ラバウルから雷装の九六陸攻12機、爆装
の九六陸攻26機、ラエからの零戦12機が攻撃を行いましたが結果として命中弾を
得る事はありませんでした。攻撃隊の陸攻隊も4機が未帰還となった他、多数の損
傷を出しました。

同年5月11日、元山空の陸攻19機によるポートモレスビー爆撃。
   5月18日、元山空18機によるポートモレスビー爆撃。対空砲火で13機が被弾。
   5月19日、元山空18機によるポートモレスビー飛行場攻撃。このポートモレス
          ビー攻撃は…翌月まで計6回出撃する。

この後も元山空は6月1、1、18、26日に陸攻18〜20機によるポートモレスビー攻
撃を反復実施します。6月30日、元山空は一度、内地(三沢飛行場)に帰還。
ガダルカナル島奪還に向けて内地航空隊がすべて出動したため、一部を木更津
飛行場に移して哨戒に従事。

同年9月20日、元山空では別行動中の戦闘機隊を分離、第二五二海軍航空隊に
改編します。

同年11月1日、海軍航空隊再編成。…第七五五海軍航空隊に改称されます。(作
戦部隊が番号航空隊となる三桁の番号の航空隊呼称で初めの桁が機種を表し陸
航部隊は7がつく事になりました。この為、 751空(鹿屋空)、753空(高雄空)、
701空(美幌空)、702空(四空)、703空(千歳空)、705空(三沢空)、707空(木更
津空)、752空(一空)、755空(元山空)と呼称が変更しました。

金田(特務)中尉(戦死後・大尉)は、再編成の時に755空(元山空)では無く、751
空(鹿屋空)に所属が変わったようです。この751空は、改称後にニューアイルラン
ド島カビエンに進出します。そしてここで苛烈なるソロモン航空戦に参加します。し
かし連日の出撃で戦力を疲弊し消耗し切った為、一時…テニアン島に後退し戦力
の回復を計ります。そして…昭和18年9月、再びラバウルに進出し、ブーゲンビル
島ブインを基地としてソロモン航空戦に再び参加します。そして運命の第二次ブー
ゲンビル島沖航空戦を迎え被弾の後、自爆して果てる壮烈な戦死を遂げます。



第七五一海軍航空隊の第四中隊第一小隊長機の機長として”ろ号作戦”
に参加、昭和18年11月8日の”第二次ブーゲンビル島沖航空戦”で一式
陸攻11機で薄暮攻撃を敢行しました。金田機は敵弾により被墜し結果的
に自爆して果て金田機長以下全搭乗員が戦死しました。金田機と同様に
もう1機の一式陸攻が…野坂 通夫 大尉機も被墜し自爆しています。この
他にもこの日の攻撃では…未帰還3機を出し合計5機を失いました。その
戦果は、大本営発表では、戦艦3隻、巡洋艦2隻他撃沈でしたが、実際の
戦果は…米軽巡”バーミンガム”大破(魚雷2本命中、爆弾1発命中)だけ
でありました。この戦闘の流れを説明します。以下、

             

           〜第2次ブーゲンビル島沖航空戦〜


昭和18年11月8日朝、ラバウルを発進した索敵機はタロキナ岬沖に輸送
船10隻、駆逐艦7隻とその上空に多数の警戒機を発見と報告しました。
敵の第2次上陸部隊の出現と認識した第1航空戦隊(1sf)は艦爆26機(
瑞鶴10機、翔鶴16機)と零戦40機(瑞鶴10機、翔鶴15機、、瑞鳳15機)
及び基地航空部隊の零戦31機の最強の攻撃隊が瑞鶴 零戦飛行隊長
納富 大尉の指揮の下に敵輸送船団撃滅を期して出撃しました。
10:00、タロキナ沖に輸送船等が8隻、巡洋艦4隻、駆逐艦7隻の敵船団
を発見、上空にP-38、F4U、F6Fなど合わせて約60機の戦闘機が船団
上空を護衛し待機してました。零戦隊はその中に突入していき空中戦が
開始され、艦爆隊はその間隙を縫うように急降下爆撃を開始し輸送船団
を攻撃しました。日本側は輸送船等2隻、巡洋艦3隻を撃沈し、巡洋艦1隻
と駆逐艦2隻を撃破、敵戦闘機12機を撃墜したと報告しましたが、日本側
の損害は零戦7機、艦爆12機が未帰還でした(米軍側の実際の損害は、
輸送艦2隻を撃破したのみに過ぎませんでした。)。
更に、空母”翔鶴”の彗星が10:20、モノ島西方30マイルに”戦艦3隻、
駆逐艦4隻を発見す”と報告。次の当直で索敵に出た空母”瑞鶴”の彗星
も14:30に、先に”翔鶴”の彗星が報告した位置の西方約40マイルに”戦
艦3隻見ゆ、針路300度、速力20ノット、上空に飛行機なし”と打電。これ
はモノ島西のタロキナ沖の輸送船団の支援部隊でした。第一航戦(1sf)
では、敵艦撃滅のチャンスと捉え…ベテランの艦攻9機(瑞鶴4機、翔鶴
5機)を”翔鶴”艦攻飛行隊長 小野 大尉の指揮の下に、15:30出撃。更
に基地航空隊からの751空の一式陸攻11機(雷装)がやや遅れて16:
00にラバウルを出撃しました。これが金田(特務)中尉の一式陸攻隊でし
た。17:00、敵艦7隻を発見し、17:10頃、まずは一航戦の艦載機の雷撃
が開始されました。戦果として全部撃沈したとの報告でしたが、当時、夕
闇に近く天候は不良で雷光、雷鳴がある雨の中でした。引き続いて金田
中尉らの陸攻隊11機が突撃し雷撃を敢行しましたが、敵艦の防禦砲火
は物凄かったと謂われております。結果として艦攻2機が未帰還になり
艦攻隊長の小野 大尉が戦死。陸攻機5機(内2機が被弾後に自爆)が
未帰還になりました。この頃、新型の米国の軽巡は、最新の口径15.2
センチ砲3連装4基を搭載していました。その砲弾は口径12.7センチの
高角砲の砲弾よりも2倍も重く、その破壊力は4倍と謂われています。そ
してこれらの砲弾には…VT信管が装着され射撃する為、その命中率は
格段に向上していて…日本側の攻撃に肉薄する雷撃機の被害は恐ろし
いほどに急増しました。

この時の米敵艦隊の構成は、以下です。

 軽巡3隻・駆逐艦4隻(米艦隊司令官 デュポーズ少将)

 軽巡”サンタフエ”(旗艦)、”バーミンガム”、”モビール”、また駆逐艦
 ”ジョンロジャース”、”ハリマン”、”マッキー”、”モーレー” 計7隻


米軍側の記録からは、日本機約40機が雲の切れ目から我艦隊を発見し
攻撃をしかけてきた。17:17、魚雷1本が”バーミンガム”の右舷後部に
命中し、10分後もう1本が左舷艦首に命中し、爆弾1発が4番砲塔に当
たったと記録している。夜に入って接触中の陸攻が”17:45、敵艦1隻、
尚炎上、漂流中”…と報じたので、更に陸攻4機、艦攻7機が追加発進し
たが、結局、敵艦を発見する事は出来ませんでした。

大本営はこの日の戦闘を”第2次ブーゲンビル島沖航空戦”と呼んで、
次のように発表しました。

撃沈: 戦 艦 3隻、巡洋艦 2隻、駆逐艦 3隻、輸送船 4隻

撃破: 戦 艦 1隻、巡洋艦 3隻

撃墜: 飛行機 12機以上 

日本側の期待を込めた不確実な戦果が…過大に評価される傾向が既
に強くなっています。実際の戦果とは相当に解離している訳で、この情
報の不正確さは敗戦まで遂に改善される事はありませんでした。尚、
この体質は今も尚、継続されているように気がします。
米軽巡洋艦 バーミングハム(USS Birmingham, CL-62)です。
歴戦の強者…金田大尉等がその命と引き換えに大破させた船
です。


ブ島沖航空戦の戦果発表<断乎敵撃滅>



日本海軍の誇る中攻隊の柱は九六式陸攻から一式陸攻に移ります。
ラバウルから全戦域で陸攻は一式陸攻に入れ替わりました。
よく九六式陸攻は魚雷に…そして一式陸攻は葉巻に例えられ
ますが…共に美しい機体だと見惚れてしまいます。一式陸攻の
復元機は河口湖自動車博物館で見る事が出来ます。
金田中尉が最後に務めた751空は鹿屋航空隊が戦闘機部隊を第253航空隊として分離し
陸攻専門部隊としたものです。この部隊は激烈なるソロモン航空消耗戦の真っ只中に放り
込まれ・・・まさしくラバウル海軍航空隊の興亡のように消耗します。昭和17年末にソロモン
諸島北端のブカ島に進出。レンネル島沖海戦(第二次攻撃)などに参加。
昭和18年4月1
日付で改編され南西方面艦隊・第二一航空戦隊に編入。南東方面支援の為、ニューアイ
ルランド島カビエン基地に進出。イ号作戦で部隊の一部をブカとバラレに進出するもソロモ
ン航空戦ですぐに戦力を消耗、昭和18年5月半ばに部隊は戦力回復の為、一部の部隊を
ブカ島に残しテニアン島に後退して補充再建を図ります。
同年9月、部隊主力はラバウル
西(ブナカナウ)飛行場に再進出・・・連日の攻撃を繰り返すソロモン航空戦に参加、そして
再び戦力を消耗し昭和19年2月、トラック島大空襲により内南洋の戦力増強の為、テニア
ンへの移動を命じられ残存11機の一式陸攻が雷装し司令以下幕僚とともに移動。整備員
等の地上員は船便で約400名がトラックに向かうも途中で米軍の攻撃を受けて総員戦死。
2月23日、751空はマリアナ諸島に来襲した米機動部隊を全力で迎え撃つも再び戦力を
消耗。3月4日、航空隊の空地分離方式を採用。攻撃第704飛行隊を編成。テニアンより
この隊もぺリリュー基地に後退し戦力の回復を図る筈が、ここにも米機動部隊の来襲し
11機の残存機がわずか5機になりダバオに緊急避難するも再びぺリリュー基地に進出し
戦力の回復を図るが予科練出でで送られてくる搭乗員は離着陸がやっとのレベルでとても
敵を攻撃できるレベルになく再びダバオへ後退。そして6月のマリアナ沖海戦でまた戦力を
消耗、751空は7月航空部隊再編により解隊となります。

防御力ゼロに等しい一式陸攻を駆って、日米攻防たけなわのソロモンの大空に
出撃をくり返すこと二百余回―。搭乗員の墓場といわれたラバウルで中隊長、
小隊長、つぎつぎと戦死して、愛するペアもまた暗夜の海上に未帰還となり声
なき死闘の中で万余の銃火をくぐりぬけ生還を果たした空の男の感動の空戦記
を残した蔵増 実佳 元海軍中尉(敗戦時)のこの『望郷の戦記』の中に金田中尉
の戦死された日の記載があります。この本の著者の蔵増 元海軍中尉は、大正
3年生、鳥取県倉吉市出身。昭和8年5月、呉海兵団に入団。同9年2月、第24
期操縦術練習生として、霞ヶ浦航空隊に入隊。以来、大村空、空母「龍驤」乗組
横須賀空をへて、昭和18年3月、第3艦隊司令部付。同18年4月、751空に属し
カビエンに進出後、ラバウルへ・・・以来、ソロモン・ニューギニアの死闘に参加。
戦後は、組合立厚生病院、県立厚生病院、保健所等に勤務。元鳥取県厚生部
参事。救護施設大平園副園長などをへて、倉吉病院ケースワーカーをつとめら
れました。
記載によれば既に751空の搭乗員ペアの48組のうち半数以下の20数組
にまで減少した中、昭和18年11月8日朝にモノ島付近に英主力艦キング
ジョージ型三隻を基幹とする敵有力部隊が出現の報告が入り艦爆約30機
が零戦70機の護衛を受けて出撃、甲巡4隻を炎上させて駆逐艦1隻に輸
送船1隻を撃沈。しかし敵艦隊は駆逐艦4隻を従えた主力艦は撤退せず
遊弋している為、午後三時半、雷撃隊の発進が下令される。艦攻9機に
751空の一式陸攻6機に702空の一式陸攻6機の計21機が出撃。先発の
触接機から『敵艦隊の位置、ムッピナ岬二百四十度四十カイリ』の報が入
る。午後5時25分、指揮官機より、ト連送を傍受し指揮所で司令以下かた
ずを飲んで戦果を待った。続いて第二次雷撃隊として751空は夜間組を総
動員して4機が発進した。いずれも著者の蔵増 飛曹長は参加せず徹夜し
て攻撃隊の帰還を待った。21機の雷撃隊は帰還した時には相当に数が
減っていて751空の第一次の6機は半分の3機しか帰還せず、最後に着陸
した触接機の栗原飛曹長によれば・・・『先発の艦攻隊が、午後5時5分頃
に突入し、主力艦3隻にそれぞれ1・2本の魚雷を命中させて艦を停止させ
ました。5時25分頃に751空の6機の雷撃で3隻とも大火災をとなり、1・2番
艦が沈没し始めました。5時45分頃、701空の6機の雷撃で残る3番艦も約
2時間後に沈没しました。』との事。第二次攻撃で発進した4機は、モノ島付
近で敵船団を発見し雷撃を敢行するも戦果は確認できず、こちらも半数の
2機が未帰還となり751く空は一夜にして5機を失う結果になりましそしてこ
の戦闘で第一分隊長の野坂 大尉と第六分隊長の金田中尉、他に准士官
の5名の歴戦の分隊士が戦死されました。・・・これが当時、パバウルにあっ
た日本側の751空いた隊員たちの知る第2次ブーゲンビル島沖航空戦の顛
末です。実際の戦果と生き残った将兵のみた戦火が解離するのは仕方の
無い話です。特に一式陸攻は防護力はゼロに等しく、米軍からワン・ショット
ライターと呼ばれるほど撃たれ弱かった機体です。激しい戦闘の最中、厳し
い対空砲火を火のように浴びながらの戦火確認は正直、正確さを欠くのは
仕方なく多くの生存者が別の角度から同じ戦果を別のものとして認識して
カウントする傾向にあるので・・・味方の欲目も働き死んだ戦友のはなむけ
にも大きなカウントをするのは生き残った者の特に日本人らしい行動のよう
な気がします。
ラバウルでの751空の准士官宿舎
昭和18年9月、751空の准士官以上搭乗員の集合写真です。
前列中央が佐田 中佐(司令)、この多くがあっという間に戦死
しまさに櫛の歯が抜けるがごとく消耗しました。この中に金田中
尉も写っています。




金田 大尉が運命を共にした名機・一式陸攻です。
この名機も最期は…ロケット特攻機”桜花”を腹に抱いて
出撃する悲しい末路を辿りました。


葬儀や除籍に遺族が使われたのでしょうか…呉海軍
病院の封筒に”金田様死亡診断書四通在中”とありま
す。


★当サイトで紹介した金田大尉のアルバムの内容が北陸 中日新聞
 の記事になりました。一面のTOPで大きく扱われたので驚きです。

下のバナーをクリックするとWeb版で掲載
された記事を見る事が出来ます(但し期間
限定で設置は数ヶ月程度だそうです)。







      中部太平洋方面艦隊司令長官
           南雲 忠一 海軍大将の手紙

  〜真珠湾奇襲からミッドウェイ海戦
     まで第一航空艦隊を指揮して戦っ
      た提督。…当時、世界初で世界最強を
       誇った空母機動部隊を指揮した指揮官〜




有名な南雲中将の手紙です。差出相手は日本燐寸会社専務取締役
の本多一太郎氏です。時候の挨拶と共に”上海戦線”や”味方陸軍”
などの内容が踊ります。年は不明ですが11月12日とあり、佐世保の
軍艦 由良とあることから…昭和12年12月以降の南雲少将(当時)が
第八戦隊司令官時代のものと思われます。昭和12年8月に上海上陸
作戦に出動し、陸軍の上海派遣軍司令官である松井石根大将が乗艦
し8月22日に上海に到着し…11月まで揚子江の作戦に従事しました。
この時の昭和12年11月12日に記載した手紙と思われます。この後、
すぐに水雷学校の校長として異動しました。


          ◆ 南雲 忠一 海軍大将 ◆


  従三位・勲一等・功一級

  山形県米沢市出身、士族

  明治20年3月25日生、海兵36期、海大18期


                <略歴>

明治41年11月21日 海軍兵学校卒業
明治43年1月 任海軍少尉
明治43年5月 装甲巡洋艦「浅間」乗組
明治44年4月 砲術学校普通科学生
明治44年4月年8月 水雷学校普通科学生
明治44年4月年12月 任海軍中尉、戦艦「安芸」乗組
大正 2年5月 駆逐艦「初霜」乗組
大正 2年12月 海軍大学校乙種学生
大正 3年5月 水雷学校高等科学生
大正 3年12月 任海軍大尉、戦艦「霧島」分隊長
大正 4年12月 駆逐艦「杉」乗組
大正 5年12月 第四戦隊参謀
大正 6年4月 第三特務艦隊参謀
大正 6年12月 駆逐艦「如月」艦長
大正 7年12月1日 海軍大学校甲種学生
大正 9年11月26日 海軍大学校卒業
大正 9年12月 任海軍少佐、駆逐艦「樅」艦長
大正10年11月 第一水雷戦隊参謀
大正10年12月 軍令部第一班第一課参謀
大正13年12月 任海軍中佐
大正14年6月
大正15年2月
欧米出張
大正15年3月 砲艦「嵯峨」艦長
大正15年10月 砲艦「宇治」艦長
昭和 2年11月 海軍大学校教官
昭和 4年11月30日 任海軍大佐、軽巡「那珂」艦長
昭和 5年12月 第十一駆逐隊司令
昭和 7年10月 軍令部第一班第二課長
昭和 8年11月15日 重巡「高雄」艦長
昭和 9年11月15日 戦艦「山城」艦長
昭和10年11月15日 任海軍少将、第一水雷戦隊司令官
昭和11年12月1日 第八戦隊司令官
昭和12年11月 水雷学校長
昭和13年11月15日 第三戦隊司令官
昭和14年11月15日 海軍中将
昭和15年11月1日 海軍大学校長
昭和16年4月10日 第一航空艦隊司令長官
昭和16年12月 ハワイ作戦で機動部隊を指揮
昭和17年1月20日
〜22日
ラバウル・カビエン攻略支援
昭和17年2月19日 ボートダーウィン攻撃
昭和17年3月 ジャワ海掃討戦
昭和17年4月 インド洋作戦
昭和17年6月 ミッドウェー作戦開始
昭和17年6月5日
〜7日
ミッドウェー海戦
昭和17年7月14日 第三艦隊司令長官
昭和17年8月24日
〜25日
第二次ソロモン海戦
昭和17年10月26日
〜27日
南太平洋海戦
昭和17年11月11日 佐世保鎮守府司令長官
昭和18年6月21日 呉鎮守府司令長官
昭和19年10月20日 第一艦隊司令長官
昭和19年3月4日 中部太平洋方面艦隊司令長官兼
第十四航空艦隊司令長官
昭和19年6月〜7月 サイパン島防衛戦を指揮
昭和19年7月6日 サイパン島守備軍…最後の総攻撃前
に司令部壕にて自決…(享年57歳)
昭和19年9月2日 任海軍大将





当時、手紙を書いたのがこの第一艦隊第八戦隊旗艦の
軽巡洋艦”由良”であります。長良型軽巡洋艦の四番艦
であります。

             〜サイパンでの最期の訓示〜

『サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、
 在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に
 皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時
 を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふ
 に資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生
 報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有
 すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死
 進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮す
 るを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋
 の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて
 虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを
 悦びとすべし 』

サイパンに於ける最期の自決の様子は諸説あるものの…定説では司令部
壕の中で昭和19年7月6日に中部太平洋方面艦隊参謀長の矢野 英雄 海
軍少将らと自決されました。最期を目撃した陸軍参謀によれば、7月6日午
後10時ごろ、司令部にて第四十三師団長の斎藤 義次 陸軍中将が中央に
南雲中将が右、第四十三歩兵師団参謀長 井桁 敬治 陸軍少将が左に正
座。日本の方角を向き、割腹と同時にそれぞれの専属副官が後頭部を撃ち
介錯しました。南雲中将の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」とい
う問いに対して「どうぞ」だったと伝えられております。




日本海軍遂に出動!〜真珠湾奇襲攻撃と運命の日米開戦〜
















マリアナ沖海戦の敗退...サイパン島玉砕




マリアナ沖海戦で米軍の攻撃を受け必死で回避運動を
する空母”瑞鶴”と駆逐艦2隻…。
VT信管による対空砲の前に次から次へと撃墜される日本の攻撃機
眼前で行われている戦闘機雲の様子を眺める米空母の
戦闘指揮所の米兵達。
サイパンに上陸し日本軍と戦う米兵
悲劇のバンザイクリフ…。







旧型の甲種 軍人傷痍記章 准士官以上

   (大正12年勅令199、昭和6改正)




珍しい旧型の傷痍軍人徽章です。同じ旧型の下士官
以下はたまに見掛けますが…准士官以上は余り見掛
けません。
オリジナルの元箱も完全です。徽章は、楯をかたどった
形になっています。甲・乙の2種があり甲種は戦闘また
は、これに準じる公務に基因した傷病についての者に
乙種はその他の陸海軍将兵に授与されます。
准士官以上の徽章は暗色金属で桜花・文字・側面をが金色
です。対して下士官以下の徽章はこの部分が全て銀色で違
いが判ります。









戦前・戦時資料:三矢 宮松 帝室林野局長官
           (元朝鮮総督府警務局長)
                    の自筆書簡3通




日本の内務官僚だった三矢 宮松 氏の帝室林野局長官時代の自筆書簡が三通です。
三矢氏は朝鮮総督府の警務局長も務めました。







              ◆ 三矢 宮松 帝室林野局長官 ◆

明治13年10月23日〜昭和34年1月10日。出羽国庄内県鶴岡町出身の日本の
内務官僚。明治13年10月23日、出羽国庄内県鶴岡町(現・鶴岡市)に生まれる。
東京府立四中卒業。旧制一高卒業。明治40年7月、東京帝国大学法科大学法律
学科独法科卒業。11月、高等文官試験行政科合格、内務省入省。入省後は主に
文部、警察、土木畑を歩んだ。大正14年6月、奉天軍閥警務処処長干珍との間に
『三矢協定』が結ばれる。昭和7年9月、一転涜職罪で起訴される。昭和9年11月
無罪判決が下される。昭和12年7月、内務監察官兼内務省参事官。昭和13年9月
朝鮮総督府警務局長。昭和15年9月から12月まで帝室林野局長官に就任。以後
横浜正金銀行、帝国ホテル各監査役などを務めた。
昭和21年10月、公職追放となる。敗戦後は根津美術館長に就任。昭和34年1月
10日、死去する(享年79歳)。墓所は鶴岡市の本鏡寺。
戒名『雙松院殿日光東嶺大居士』










戦前・戦時資料:

  敗戦時、広南汽船 熊野丸(海軍徴用船)
     の機関長を務めた相馬 錠之助 氏の
      船員手帳及び機関士免許等の紙物資料




広南汽船の熊野丸の機関長だった方の品です。広南汽船は
日之出汽船の子会社で東京から近海の伊豆七島や小笠原
諸島などを航路とした船会社と思われます。同じ広南汽船所
属の日吉丸が小笠原諸島・父島の二見湾の海底20mに眠っ
ており何度か潜って見ていますが船はバラバラで悲惨な状態
です。この機関長は敗戦後まで生き残ったようですが…幸運
な方と謂えます。海軍に徴用された輸送船ですが一等機関士
免許がある機関長なので当然、海軍(特務)士官待遇となり
ます。


以下のバーナーをクリックすると日吉丸の
画像のあるページが開きます。


明治43年の古い一等機関士の免状です。


昭和19年〜20年を日本近海で民間船員を務める事は非常に高い
致死率を覚悟しなければなりませんでした。一般の海軍兵士や陸
軍兵士に比べても民間徴用船員の死亡率は異様に高いものでし
た。まして機関士ともなればまず米軍機の爆撃や米潜水艦の雷撃
を受けたら助かる訳が無い部署と謂えます。




既にこの船員手帳のお写真がかなりの高齢を感じさせます。
敗戦後に船員をした記録の記載がありません。敗戦後の引退
をされたものと想像されます。この船員手帳が昭和19年のも
のです。この年で66歳になります。昭和20年の敗戦の時は…
67歳でした。御奉公は辞めて十分に楽隠居されるべき歳です


昭和20年5月に熊野丸の機関長になる前は昭和19年9月から
昭和20年3月まで同じ広南汽船の稲荷丸の一等機関士を務め
ています。









菅沼 恕人 海軍大佐(海兵35期)の勲記類




菅沼 恕人 海軍大佐の勲記類です。菅沼 大佐は、海兵35期
愛知県出身です。同期には野村 直邦 大将、高須 四朗 大将
に近藤 信竹 大将がおられます。勲三等旭日、勲三等と勲四
等瑞宝の三枚の勲記に満州・上海事変従軍記章の章記の四
枚です。
勲三等瑞宝です。
海兵31期と謂えば明治41年4月30日未明、卒業後の遠洋航海に
際して台湾高雄港内で巡洋艦”松島”が爆沈し少尉候補生33名が
殉職する事故が起きた事が頭に浮かびます。
勲四等瑞宝です。
勲三等旭日です。


満州・上海事変従軍記章の章記(昭和六年及至九年
事変従軍記章)です。


以下のバナーをクリックすると 菅沼 大佐の
正衣を掲載したページが開きます。
             ↓







最近、日本と日本人に希望と誇りを与えてくれた
 JAXAの”はやぶさ” 1/72のデスクトップフィギュア




2010年…日本人の胸を熱くした”はやぶさ”です。小惑星の表面から
物質のサンプルを持ち帰ることを目的に開発された小惑星探査機です
。小惑星イトカワから1,500個程度の地球外物質を搭載の帰還カプセ
ルで2010年の6月13日、地球へ持ち帰った功績により多くの注目を集
めました。
今後の宇宙探査においても期待されているはやぶさを塗装済み
完成品で立体化。手の平サイズの小スケールながら緻密に再現
された造形は実物の雰囲気を余すことなく再現しています。












小惑星探査機「はやぶさ」帰還編




はやぶさが最後に撮影した写真 hayabusa Return Earth











最近発売されたばかりの連合艦隊司令長官”三船敏郎”の
冬服バージョンです。襟の階級章が貧乏臭くもう少しお金を
掛けて欲しい所ですが…凛々しい三船敏郎さんのイメージ
がしっかりできていて連合艦隊司令長官の威厳が感じられ
ます。
海軍士官短剣と軍刀は手抜きせず立派な出来です。



遅れて発売された連合艦隊司令長官”三船敏郎”の夏服バージョンです。

















四分の一スケールの手作りの真鍮製模型です。今回黒塗りを
御願いして製作者から戻って参りました。真鍮のそのままの色
も美しく楽しめますが…こうして黒塗りされると実物のベルグマ
ンのようです。上海の街を駆け抜ける海軍陸戦隊の勇士達の
姿が脳裏に浮かぶようです。
































今は無き嵐山美術館で売られた琵琶湖で引揚げられた
零戦の翼材で作ったキーホルダーです。この美術館か
ら閉鎖で貴重な品々が散逸してしまいました。特に近郷
近在のマニアが入れ替わり立ち代わり略奪して…あの
ありようを見ると収集品が散逸しないように受け入れ先
を遺書と共にはっきりさせて置く事が肝要だと痛感させら
れました。個人のコレクションルームの域を超えない物な
らいざ知らず…公然と全国からお客を迎え入れる博物館
や資料館にした場合、オーナーの死後の経営状態の悪
化等を考慮に入れないと開館するのは簡単だけども…自
分の死後、数年で閉館して展示品はバラバラに国内外に
散逸では全く意味を成さないどころか、初めから何もしな
い方が良かった…と謂う事にもなりかねません。このキー
ホルダーや各地の潰れた博物館や資料館の遺残品を見
るたびにそうした想いが去来しては消えていきます。




















海軍工廠職員用の帽章で、造船関係の職員用のようです。
金属のプレス品で、制帽や鉄帽などに着用していたようです。









なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!