旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part Uz










Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








〜珍しい海軍耐錆鋼の特攻短刀〜

       (登録証付)




特攻短剣です。航空兵に限らず、特攻・震洋艇や人間魚雷・回天と
全ての特攻兵器に乗る隊員に贈られました。


藤原兼永作の耐錆鋼…特攻短刀です。この様なステンレス短刀に登録
許可が下りるのは奇跡に近い思われます。逆に日本刀はごまんとありま
すが許可証のある不錆刀はまずお目に掛かりません。まして特攻短刀と
なれば尚の事で…非常に珍しい物と思われます。
何の変哲もない短剣です。その使用目的が特攻短剣と謂う以外は…。
短刀袋も短刀も…長い事供養をされていたようで線香の匂いがしみついて
おります。海で逝かれたのか…空で逝かれたのかは不明なれど御遺族は
その直前まで仏壇に上げて供養をされていたのだと想像します。








本名=河村永次郎(刀匠銘・藤原兼永)氏。
戦前の刀匠でも有り、ステンレス刀の実現に尽力された人です。
今回のステンレス短刀は(天照山鍛錬所)で作られた物では無く
息子の寛氏を先手に兼永刀匠、自らが鍛刀作成した物です。
天照山鍛錬所等で大刀の製作が始まる以前の、思考錯誤してい
た時期の物と思われます。作っては壊し又、破棄した数十本の中
で完成し満足の出来る作品に仕上がった一口で有るようです。こ
れを特攻短刀に仕込んであります。











珍しい海軍雷撃機の主力を
   なした九一式航空魚雷の
    安定器(ロール安定制御システム)




昭和17年11月に東京航空計器で製造された九一式魚雷の安定機です。
この安定機は九一式縦舵機(ジャイロスコープ)に本装置(主コントローラ)
、補助バルブ(出力ブースター段)で構成されます。最も重要な部分は本装
置ですが、全て組み込まれた安定機は中々、出て来る事の少ない珍しい
品だと思います。また現存数をそう多くないと思われます。時々、安定機に
組み込まれる各種縦舵機(ジャイロスコープ)が出てくる事があります。
以下のバーナーをクリックすると縦舵機の説明をしているサイトへジャンプし
ます。
                      ↓












小型の圧搾空気用のボンベが接続されれいます。真ん中に
ジャイロコンパスが組み込まれて本体を成しています。
 


安定機の収納箱の銘板のシリアルNo.と安定器の製造番号の刻印
619が一致しており箱と本体が後家合わせの品で無い事が判ります。
海軍の刻印に豊川海軍工廠の検定印が打刻されています。
組み合わせている各パーツに其々、刻印や検定印が認められます。

我国が世界に先駆けて開発し実用化した画期的な航空魚雷である九一式魚
雷は、帝國海軍が航空機からの投下用に設計した航空魚雷です。先の大東
亜戦争における初の機動部隊どうしの歴史的海戦において使用されました。
別名”九一式航空接魚雷”です。九一式魚雷(改2)はその驚くべき高性能から
世界各国からの称賛を得ました。またこの魚雷は以下の二つの際立つ特徴を
持っておりました。

 @尾部に水中突入時に飛散する木製の空中姿勢安定板を装着した(昭和11
   年)。

 Aローリングを安定制御する角加速度制御システム(PID制御)を備えました
  (昭和16年)。これは航空魚雷にとって最大のブ障壁を突破した形でした。
   これらによって九一式航空魚雷は、高度 20m、速度 180 ノット (333km/
  h) で、しかも浅い軍港で発射できるようになり、さらに、九七式艦上攻撃機
  の水平最高速度 204 ノット (378km/h) を超える加速度降下雷撃で、波立
  つ荒れた海でも発射できるようになりました。

直径は、450mmでありました。兵器として制式採用された九一式魚雷に実際
に使用されたのは、本体設計として5形式、頭部として5形式あり、頭部重量
213.5?526.0kg で搭載する炸裂火薬量 149.5?420.0kg、その水中走行速度は
42 ノット (77.8km/h) で射程距離は 2,000mと1,500m でした。

九一式魚雷は、我国に於けるほぼ唯一の航空魚雷でした。したがって、単に
航空魚雷といえば、九一式魚雷の事を指しました。…他の型式の魚雷である
九三式魚雷と九五式魚雷は艦船および潜水艦で使用され、九七式魚雷は甲
標的で使用されました。


                引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

写真は、空母”赤城”の飛行甲板上の九一式航空魚雷です。
旧帝國海軍を代表する航空機搭載用魚雷であり…日米戦の
開戦の端緒となったハワイ真珠湾攻撃に使われた世界に誇る
余りにも有名な傑作兵器であります。
長槍のような魚雷を腹に抱いて飛ぶ艦攻”天山”の雷撃装備の編隊
です。魚雷は箱型安定板が付いているのが判ります。


九一式魚雷改三の構造図です。

九一式航空魚雷、安定器(ロール安定制御システム)の本装置

安定機の仕組みです。

   『引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
























昭和19年、四式安定板付き雷撃装備して飛ぶ艦攻”流星”。
逆ガル式の主翼が優雅さを演出する美しい機体です。


昭和17年10月26日、南太平洋海戦、機動部隊九七式艦攻の雷撃


昭和17年8月8日、ガダルカナル泊池攻撃、四空所属の一式陸上攻撃機の雷撃


昭和17年5月8日朝、珊瑚海海戦、航空母艦瑞鶴の九七式艦攻 (B5N2)
の雷撃。手前の水しぶきは九一式魚雷の水中突入による。







海軍軍楽兵礼装 軍衣




珍しい海軍の軍楽兵礼装軍衣です。
横須賀軍需部の再用品ですが、ほぼ未使用状態のような美品です。
六号、昭和11年12月製。74年前に作られた礼装軍衣…よく保存さ
れたものと感心します。
襟の金モール製の桜は、左右共、完全。これが、一つは兵。
二つは、下士官を意味します。この金モール製の桜は海軍兵
学校生徒のチェリーマーク(優等賞)とサイズと謂い同じ物で
す。虫食い虫なめがややありますが補修等無く。肩章は欠で
すが、取り付け用のループは完全です。







海軍 軍楽兵肩章(下士官用)




非常に珍しい軍楽隊用の下士官の肩章です。
軍服には紐で取り付けるようになっています。
残念な事に片方のベロが破損しています。
組紐は絹製です。
海軍軍楽隊の緋色の礼装用の軍服につける肩章です。




釦から下士官用である事が判ります。


         ↑
後で入手した礼装用の軍袴
を掲載したページが開きます。







珍しい二式艦上偵察機(D4Y1-C)の銘板




二式艦偵11型の銘板です。生産数は艦爆”彗星”と一緒に組み
込まれてしまい正確な実数は知られていませんが謂われてる俗
説では300機とも350機とされています。生産数が少ないので
銘板も出回る事が少なく希少なものと思います。銘板のシリアル
番号は312号です。340〜350機の生産としても最末期の生産ロ
ットと思われます。
十七試艦爆として試作された五機のうち三・四号機を改造の上
実用試験の意味で空母”蒼龍”に搭載、ミッドウェー海戦で索敵
に出動した。その機は母艦の撃沈で失われたものの、その高速
性能は高く評価され、艦爆”彗星”の誕生の前一足先の昭和17
年7月に制式採用されました。比類なき高速性能を誇った後継の
艦偵”彩雲”が誕生するまで太平洋の全域で使用された名機と
謂えます。
東海飛行機は主に航空発動機を製作した会社で
現在は、アイシン精機としてトヨタなど自動車部品
やミシンなどを手掛ける企業として生き残っていま
す。
横須賀海軍航空隊に配備された二式艦偵11型”ヨ-25”
です。この型は下の画像のように望遠鏡式照準器を操縦
席のキャノピーに見えないので初期生産型の機体だと判
ります。対して後期の生産型は照準器が付くので彗星と
見分けがつきません。尚、下の写真は昭和19年にマリア
ナ諸島で撮影されたもので両翼に増槽と爆弾倉に当たる
部分に半分埋め込むように330Lの落下増槽を搭載して
います。この状態を”偵察過荷”仕様と呼び約3,400kmの
最大航続距離を誇ったと謂います。




上は、離陸直前の二式艦偵の写真です。以下は以前に入手した
彗星または二式艦偵の別の銘板です。



海軍艦上爆撃機 彗星 (D4Y1)または、
   二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)の銘板




機体名等ありませんが、空技廠で02.9.28
は皇紀2002年(昭和17年)の9月28日を
意味しますので艦爆”彗星”の試作機か高
速偵察機として誕生した二式艦上偵察機
一一型ものと思われます。
時期的に見ても彗星や二式艦上偵察機の銘板は、
非常に珍しいものと思います。
昭和15年にDB 601Aエンジンを搭載した試作型が5機
生産されました。昭和17年、試作型のうち3,4号機は
爆弾倉にカメラを搭載した偵察機に改装され空母”蒼龍”
に搭載され、一機が南方作戦中に墜落し、残る一機は、
運命のミッドウェイ海戦に参加し米機動艦隊発見という
大きな戦果を挙げたましたが、帰投後に母艦と運命を共
にしました。量産は、昭和18年6月からで機体強度を向上
させた艦上爆撃機”彗星”一一型(D4Y1)として生産され
ました。







立川飛行機株式会社の銘板2枚




立川飛行機株式会社とは、大東亜戦争以前は立川飛行機
という社名で主に帝國陸軍向けの航空機を製造している企
業として知られており、航空機製造活況当時は地元民に「た
ちひ」「たっぴ」と呼ばれ、今も当時から住んでいる人からは
、そう呼ばれています。現在は立飛企業株式会社として生き
残り…東京都立川市に本社を置く不動産賃貸業を営む企業
です。関連会社に新立川航空機株式会社があり、株式を相
互持ち合いしています。
立川飛行機は陸軍機専用メーカーである。中島飛行機の”隼”、”疾風”
”呑龍”や”ロッキード 14L”輸送機などのライセンス生産を大規模に行
っていた。特に一式戦”隼”は…その半数が立川で製造されました。
陸軍の練習機・偵察機などの開発試作を得意としました。昭和5年に陸
軍航空技術研究所のある立川に工場を移転した為、依頼される事が多
かった。最初は初等練習機”赤とんぼ”などを開発・製造していたが、長
距離輸送機のライセンス生産・開発を通じて技術を取得し、大戦末期に
は高高度機の開発にも挑戦しました。立川飛行機は、大戦後、工場を
接収されました。その後、航空一部再開によって航空機製造を再開しよ
うと新立川は、R-52練習機、R-53練習機を製作しましたが、いずれも
時代遅れの技術であり量産には至りませんでした。さらに、フランスから
設計者を招いてR-MH-310練習機を製作しましたが、操縦が非常に難
しい機体であり、やはり量産には至らなかった経緯があります。
機種は不明の部品銘板です。上が昭和17年で下の銘板が
昭和19年の物です。共に陸軍の星章とシリアルナンバーに
検査印が刻印されています。











帝國海軍を代表した高角機銃(対空機関砲)
       九六式二十五粍三聯装銃架の銘板




帝國海軍を代表する対空火器でした。既にそのスピードも火力も
米軍機の機動の前では時代の遅れの感が強く有効な対空火器と
は謂い難い代物でした。銃架に張られていた銘板を記念にはがし
た物と思われます。横須賀海軍工廠で製造年月日昭和19年10月
とシリアル番号が刻印がなされています。兵器としての性能の良し
悪しは置いておくにして…帝國海軍の栄光と終焉を見つめた代表
的な兵装と謂えます。


襲い来る敵艦載機を迎え撃つ代表がこの高角機銃でした。
単装、二連装、三連装と多彩にハリネズミのように艦艇に装
備されました。大口径火砲の対空火砲である三式弾の弾幕
を抜けられると12.7糎高角砲と25粍高角機銃だけが頼みの
綱の防空兵器でした。



男たちの大和/YAMATO…ロケセットから!







海軍九六式二十五粍高角機銃の弾倉
     と各種 九六式二十五粍高角機銃弾




かなりの重量があり、25o弾が満載の時には、
更に重量があると思います。三連装の弾倉を交
換する時は、大変な労力が必要だったとものと
想像されます。








上の画像は、戦艦”長門”の25粍連装機銃と右端は、
前部機銃弾庫。弾庫には、このように25粍機銃弾が
搭載されていますが、一般に戦艦や巡洋艦の場合、
機銃一門につき2000発が基準搭載量とされていま
した(通常弾1500発、曳光弾500発)。


海軍 九六式二十五粍高角機銃弾(機関砲弾)の発火済み使用榴弾です。



上のと別の海軍九六式二十五粍高角機銃榴弾









こちらも別の弾頭の無い薬莢のみ









九六式二十五粍高角機銃 焼夷通常弾




ヘッドスタンプに”S 10/17(17分の10)
 錨マーク 豊 可”の刻印があります。
オリジナルの緑色がきれいに残っていま
す。 



同じく別の九六式二十五粍高格機銃榴弾です。




一番下の画像でわかりますが弾頭の底部に
一箇所穴が開けられています。
刻印は、弾頭の信管部に”ト D PY"とまた
弾殻には”可”のみ、薬莢部にはリロードを
示す刻印がないので初回使用の薬莢と思わ
れます。雷管部は無しです。









珍しい鉄製の九六式二十五粍高角機銃弾の薬莢




上に出したような通常の黄銅製薬莢はわりと見かけるもので
すが、この全体に黒く汚れて見えるこれは鉄製で非常に珍し
いものです。海軍では陸軍よりも早く鉄製薬莢を生産してい
た様で、8糎クラスやその他でも見受けられます。ただ25粍
は末期にしか見られない様で、また鉄製の為か現存している
物も非常に少ない様です。戦艦”大和”の最後にも対空武装
に搭載された弾薬もこの様な鉄薬莢だったと思われます。


ほぼ全寸で小さな朽ち込みの錆跡や変色、傷が全体に
ありますが暗灰色(殆ど黒)の防錆燐酸皮膜が残った比
較的程度の良い物です。肩部に小さな凹みと莢口部に
小さな割れが見られます。
爆管部(雷管)は真鍮製で末期の製品の為か
刻印は莢底共に見当たりません。







戦時中、三菱重工を抑えて国内TOPシェアの航空機
 生産数を誇った中島飛行機所澤支所の工員鑑札(門鑑)




中島飛行機は、日本の航空機・エンジンのTOPメーカーで創業者は
元海軍機関将校であった中島知久平氏。エンジンや機体の開発を
独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備
え、大東亜戦争終結までは三菱重工業を凌ぐ東洋最大、世界有数
の航空機メーカーでありました。
中島飛行機の所澤支所の存在を私は確認しておりません。
しかし西武池袋線の”ひばりが丘駅”は、昭和15年頃、中島
飛行機の関連工場への貨物引き込み線が完成(昭和35年
頃撤去)しています。その引き込み線は現在の西東京市に
あった中島航空金属田無製造所まであり、そこから更に中
島飛行機武蔵野工場まで専用線がありました。敗戦後に殆
どが撤去されていますが…所沢や田無や武蔵野市周辺は
広大な中島飛行機の産軍複合体の巨大工場施設という感
じでした。周辺は関連会社や下請け会社が林立し敗戦期の
空襲は凄まじいものだった事が今も伝えられています。
飴色に光る木肌が年季を感じさせます。工員だった方が
戦後も保管して来たのでしょうか…。時代を感じさせます。







七粍七 九七式固定機関銃の薬莢




零戦等の機首に内蔵され代表的な7.7mm機銃の薬莢です。
場所や時期は不明ですが…撃墜機より回収されたもので海
没品らしく変形、変色、破損がみられます。一部の莢底に刻
印が確認でき”7.7 ヨ 2−U”とあります。横須賀海軍工廠
で皇紀年号2602年(昭和十七年)第二期製造区分(5〜8月
)と読み取る事が出来ます。
20mmと7.7mm機銃弾は陸海軍を合わせた日本空軍
を代表する弾薬で常にその栄枯盛衰と共に存在しま
した。













戦前資料:港務獣医官肩章




港務獣医官と一見、聞き慣れない名称ですが、港務部といえば元々は
県に属していましたが、港湾行政統一の目的で農商務省の植物検査所
とともに税関へ併合せられました。日本及び日本の権益が及ぶ地域に
入る動物は検疫所に一度収容され税関獣医官の診察を受けます。この
統一前は、其々の都道府県の港務部として検疫行政を担当した現場の
獣医官が制服で付けた肩章になります。官級は、奏任官三等です。
明治38年3月29日に港務部設置官制を改正し、獣類検疫港の港務部に
港務獣医官および同官補を新設し、輸移入獣類の検疫・結核病検査を
主管させる(従来は警察部が実施)。の記載が当時の官報にあります。
明治42年、明治41年の牛疫流行の結果、韓国・清国・西シベリアからの
畜牛輸入廃止論が高まる→ 検疫・輸入方法の改革へ。明治42年、
二重繋留検疫制度の開始 航海日数を2日として、輸出港・輸入港で
それぞれ9日の繋留検疫を実施。韓国へは検疫官を派遣。…とあります。
平成22年の宮崎口蹄疫問題で我国は…大揺れに揺れましたが、やはり
今も昔も朝鮮半島からの畜産品の輸入は畜産ガンばかりです!…隣人・
隣国を選ぶ事は出来ませんが…大陸の性質の悪い国…支那とロシアに
半島の醜悪な国…南北朝鮮と性悪な諸国に取り囲まれて…何とも我国が
可哀想でなりません。
判任官俸給令(明治43年勅令第135号)には、以下の記載が書かれています。

第七条 警視庁、北海道庁、府県及監獄判任官並税務監督局属、税務署属及
      専売局書記ニハ別表最低額以下八円迄ノ月俸ヲ給スルコトヲ得但シ
      港吏、港務医官補、港務獣医官補、港務調剤手及府県通訳ハ此ノ限
      ニ在ラス

…医官補や獣医官補などは判任官待遇で、医官及び獣医官は奏任官待遇だっ
たようです。恐らく絶対数は少ないでしょうが薬剤官や歯科医官も同様だったと
思われます。文武官の任命に付ても、奏任官以上は勅裁を經ますけれども、
判任官以下は行政官廳に於て其の任免を專行しています。
獣医官の数も当時から多いとは思えないので…中々、
珍しい官吏の肩章だと思います。
オリジナルの箱に名前と何かの印がおされていますが
薄くて難読です。下の名前が豊である事は確かなよう
で、これだけ判ります。







頑住吉製 完成品の二十六年式拳銃(合成樹脂製)




合成樹脂製ですので非常に軽いのですが…稼働してこれまた
合成樹脂製の弾丸を装填したり遊べます。文鎮タイプの置き物
の二十六年式はありましたが見た目も精巧な模型は初めて見
ます。非常に楽しい品で子供が喜んですぐ壊しそうな感じの品
です。


二十六年式は、Sアクションオンリーで実用性の高い拳銃です。
威力の点で時代遅れとなり冬装備の敵兵の外套を撃ち抜けな
い弱さが問題で次第に姿を消しましたが…明治26年に制式とし
た国産回転式拳銃 であり、日本で最初に無煙火薬を採用した
拳銃です。生産が終了し、多くが各種南部拳銃や九四式自動
拳銃に移行する中、操作が容易で扱い易すく回転式で故障も
少なく大東亜戦争の終結まで愛用され長く使用され続けました。
全ての製造期間において美しい仕上げが施されていたため、戦後に
進駐した米兵の間でも26年式拳銃は戦利品として人気があり、多数
が残されているため米国内でも現在も手頃な価格でで入手できるよ
うです。






中田商店で出している二十六年式拳銃用の拳銃嚢
と合わせて見ました。
レプリカ品の組み合わせですが中々、良い味を出しています。







今は無き嵐山美術館で売られた琵琶湖で引揚げられた
零戦の翼材で作ったキーホルダーです。この美術館か
ら閉鎖で貴重な品々が散逸してしまいました。特に近郷
近在のマニアが入れ替わり立ち代わり略奪して…あの
ありようを見ると収集品が散逸しないように受け入れ先
を遺書と共にはっきりさせて置く事が肝要だと痛感させら
れました。個人のコレクションルームの域を超えない物な
らいざ知らず…公然と全国からお客を迎え入れる博物館
や資料館にした場合、オーナーの死後の経営状態の悪
化等を考慮に入れないと開館するのは簡単だけども…自
分の死後、数年で閉館して展示品はバラバラに国内外に
散逸では全く意味を成さないどころか、初めから何もしな
い方が良かった…と謂う事にもなりかねません。このキー
ホルダーや各地の潰れた博物館や資料館の遺残品を見
るたびにそうした想いが去来しては消えていきます。




















海軍工廠職員用の帽章で、造船関係の職員用のようです。
金属のプレス品で、制帽や鉄帽などに着用していたようです。









なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!