旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part Uy










Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








第六護衛船団司令官としてヒ71船団を
 引率し昭和19年9月12日、海南島東方にて
   海防艦”平戸”と運命を共にし戦死された
     梶岡 定道 海軍中将の使用された海軍
      高等官用の背広徽章と刻印入りのホイッスル


















        ◆ 梶岡 定道 海軍中将 ◆
           
              (略 歴)

 愛媛県出身  海兵39期 (67/148)
 明治24年5月18日生

明治44年 7 月18日 任海軍少尉候補生・阿蘇乗組
明治45年 4 月19日 常磐乗組
大正元年 12月 1 日 任海軍少尉
大正 3年 12月 1 日 任海軍中尉・砲術校普通科学生
大正 4年 5 月 26日 水雷学校普通科学生
大正 4年 12月13日 第15艇隊附
大正 5年 8 月 19日 秋津洲乗組
大正 6年 12月 1日 海大乙種学生
大正 7年 4 月15日 海大専修学生
大正 7年 8 月15日 海大航海学生
大正 7年 12月 1日 任海軍大尉・満洲航海長
大正 8年 4 月 1日 満洲航海長・分隊長
大正 8年 11月20日 青島航海長・分隊長
大正 9年 10月20日 知床航海長
大正 9年 12月 3 日 佐世保鎮守府附
大正10年 1 月15日 木曾艤装員
大正10年 4 月30日 木曾航海長・分隊長
大正10年 11月10日 筑摩航海長・分隊長
大正11年12 月 1日 春日航海長心得・分隊長心得
大正13年12 月 1日 海軍少佐 水路部部員
大正14年 3 月 9日 水路部部員・副官
大正15年 11月15日 浅間航海長・分隊長
昭和 3年 6 月 15日 那智艤装員
昭和 3年 9 月 10日 那智航海長・分隊長
昭和 4年 11月 30日 任海軍中佐・ 陸奥航海長・分隊長
昭和 5年 12月 1 日 春日教官・富士教官
昭和 9年 4 月 1日 航海学校教官
昭和 9年 4 月 1日 航海学校教官・海大教官
昭和 9年11月15日 任海軍大佐 ・鳴戸特務艦長
昭和10年11月15日 長良艦長
昭和11年12月 1日 春日艦長
昭和13年 6月15日 木曾艦長
昭和13年12月15日 横須賀港務部長
昭和15年11月15日 任海軍少将 ・佐世保防戦司令官
昭和16年 4月10日 横須賀防戦司令官
昭和16年 7月 1 日 第四艦隊司令部附
昭和16年 7 月21日第六水雷戦隊司令官
昭和17年 7 月11日 横須賀鎮守府出仕
昭和17年 7 月14日 第十八戦隊司令官
昭和17年 9 月 1 日 羅津方面特根司令官
昭和18年 10月10日 軍令部出仕
昭和18年 10月20日 待命
昭和18年 10月25日 予備役
昭和19年 1 月10日 充員召集 軍令部出仕・海軍省出仕
昭和19年 4 月 8 日 第六護衛船団司令官
昭和19年 9 月 12日 戦死 (享年53歳)・任海軍中将


梶岡提督が座乗され運命を共にした海防艦”平戸”の
同型艦の択捉型海防艦の択捉です。

          ≪性能諸元≫

基準排水量 : 870t
全長 :      77.70m
水線長:     76.20m
全幅 :       9.1m
吃水:        3.0m
機関 :22号10型ディーゼルエンジン2基2軸
                    4,200馬力
燃料 :      重油
最大速力 :   19.7ノット(36.48km/h)
航続距離 :   16ノットで8,000海里
乗員 :      150名
兵装
 ・三年式45口径12センチ平射砲 単装3基
 ・25mm連装機銃2基
 ・九四式爆雷投射機1基
 ・爆雷投下台6基
 ・爆雷36個
 ・掃海具
同じく同型艦の”福江”の勇姿です。

梶岡 定道 海軍少将は第6水雷戦隊司令官として日米戦を迎え
ウェーク島攻略作戦に参加。横須賀鎮守府出仕、第18戦隊司令
官、羅津方面特別根拠地隊司令官などを勤め、昭和18年10月に
予備役となります。しかし昭和19年1月に充員召集され同年4月に
第6護衛船団司令官に就任して竹一船団など末期の悲惨な日本
商船輸送船団の護送指揮を執りましたが、同年9月に戦死し海軍
中将に昇進されました。この竹一船団は、大戦中の日本軍の護送
船団の一つで竹船団とも呼ばれました。四方を海で囲まれた日本
は兵員や武器・食料を外地の部隊に補給するのも、また石油や資
源を輸入するのも商船による輸送に頼るしか術はありません。しか
し圧倒的優位に通商破壊戦を潜水艦で行う米海軍の前に日本の
輸送船団は大型化し集合し大船団を組む事で護衛艦を集中して守
るしか手だてがありませんでした。しかし日本海軍では本来、潜水
艦の天敵である駆逐艦・駆逐艇・海防艦など爆雷を積んだアンチ・
サブマリンは…殆どにソナー(超音波探信儀)を搭載しておらず敵
潜水艦を狩る事が出来なかった事は敵潜水艦の跳梁を許す結果
と日本保有の輸送船団(商船)だけでなくあらゆる海軍の艦船が敵
潜水艦の餌食となり多くの艦船を失い結果として敗戦に至る道筋を
早めたと謂えるでしょう。竹一船団は、こうした中で集団護送方式を
採用した初めての大輸送船団でした。この竹船団と呼ばれた一連
の輸送船団のデビューは、2個歩兵師団をフィリピンと西部ニューギ
ニアに輸送する任務から始まります。昭和19年4月17日に上海を出
港した竹一船団(第6護衛船団)は、4月26日と5月6日に米海軍の
潜水艦の攻撃を受け、4隻の輸送船が沈没、3,200人以上の日本兵
が戦死しました。残存船団は目的地を変更し、ハルマヘラ島に人員
と物資を揚陸しました。この船団の背景は以下、

昭和18年9月、日本海軍と日本陸軍は、絶対国防圏と称する防衛線
の設定を合意しました。絶対国防圏はマリアナ諸島からカロリン諸島
を経由して、西部ニューギニアのヘルビング湾(現チェンデラワシ湾)
からバンダ海とフローレス海までを最前線と定めました。この時点で
は防衛線に陸軍部隊はほとんど配備されていなかった為、中国戦線
と満州から部隊を輸送して、航空基地の防衛に充てる計画でした。
中部太平洋方面(マリアナ諸島やカロリン諸島)への増援作戦は「松
輸送」、豪北方面(西部ニューギニアなどオランダ領東インド東部)へ
の増援作戦は「竹輸送」と命名されました。しかし、船腹不足から、増
援部隊の輸送は遅れました。中部太平洋方面の防備が最優先とされ
た為、特に豪北方面へ配備予定の部隊が後回しになり、昭和19年4
月になっても必要な転用兵力は中国に残っておりました。遅れていた
豪北方面への増援作戦(竹輸送)が加速されたのは、昭和19年3月
末のホーランジア空襲とパラオ空襲での大被害でした。西部ニューギ
ニアやフィリピン南部への連合軍の急進撃をおそれた大本営は、4月
4日、パラオ行きを予定していた第35師団の第二次輸送部隊(2個歩
兵連隊基幹)を西部ニューギニアのマノクワリへ、ハルマヘラ島行きを
予定していた第32師団をフィリピン南部のミンダナオ島へと送ることに
しました。4月9日に大本営は作戦を発令し、この2個師団を運ぶ竹一
船団が上海で編成され、この2個師団は昭和14年に編成されたもので
これまで中国戦線で戦歴を積んだ精強な兵団でした。「竹一船団」とい
うのは、竹船団の一回目を意味しました。この第35師団の3個歩兵連
隊のうち歩兵第219連隊は、師団司令部とともに第一次輸送部隊とさ
れ、松輸送の東松5号船団に乗って4月初旬に先発、同月下旬に無傷
でパラオへと進出しています。さらに、大本営は4月10日頃になって再
び計画を変更し、第32師団を当初の予定通りのハルマヘラ島に送るこ
とにしました。大本営は、前線への部隊の海上輸送が次第に困難にな
っていることに頭を痛め、これ以降に予定していた絶対国防圏への増
援部隊は、連合軍の侵攻前に間に合わないおそれがあると考え始め
ていました。そこで、第32師団を、ミンダナオ島よりも緊急性が高い豪
北方面の第2軍への増援に充てることに決定。正式な目的地変更は、
船団出航後の4月25日に発令されました。

最初の竹一船団の護衛任務で第六護衛船団の旗艦を勤めた
急設網艦”白鷹”です。この時の隷下の護衛艦は上海〜マニラ
間は、輸送船「和浦丸」、「御月丸」、「伯剌西爾丸」、「天津山
丸」、「第一吉田丸」「但馬丸」、「亜丁丸」、「陽山丸」、「満洲
丸」、「福洋丸」、「帝海丸」「河南丸」、「雲海丸」、「帝香丸」ほ
か1隻の計15隻を駆逐艦 ”朝風”、”白露”、”藤波”、”栗”が
(4月22日以降に合流)、砲艦 ”安宅”(4月22日まで)、”宇治
”(4月23日まで)第22号掃海艇、第101号掃海艇(4月23日以
降)、第37号駆潜艇、第38号駆潜艇、特設駆潜艇”第七玉丸”
と非常に浮動性が高く一定しない戦力で船団として連携した護
衛網を構築するには難があったと思われます。またマニラ〜ハ
ルマヘラ間は、輸送船 「和浦丸」、「御月丸」、「伯剌西爾丸」、
「天津山丸」、「帝海丸」「但馬丸」、「亜丁丸」、「陽山丸」の計
8隻を護衛艦(旗艦”白鷹”以下)駆逐艦 ”五月雨”、”白露”、
”藤波”、第102号哨戒艇、第104号哨戒艇、第38号駆潜艇、
特設捕獲網艇”興嶺丸”の8隻が守りました。
上海からマニラ間で竹一船団を襲った米潜水艦”ジャック”
竹一船団は、上海から経由地マニラへ向けて4月17日に出航した。
このときの編制は輸送船15隻と、護衛の急設網艦「白鷹」以下、駆
逐艦3隻、海防艦3隻、その他6隻であった。輸送船は第32師団用
に5隻、第35師団用に3隻が割り当てられ、ほかマニラまで同行す
る船が7隻あった。2個師団以外に海軍の第107・第108防空隊な
どが乗船していた。連合軍のシギント機関は、竹一船団の出航を知
らせる暗号無電の解読に成功しており、通信解析により船団の針
路が南であることも察知していた。シギント情報にもとづき、米海軍
潜水艦”ジャック”が竹一船団へと向かい、4月26日午前、ルソン島
北西沖で目標を発見。艦長のトミー・ダイカー中佐は攻撃位置へ機
動を試みたが、日本の潜水艦が現れて回避しなければならず
失敗。数分後、日本の航空機が”ジャック”を発見して攻撃を加えた
が、船団は特に進路を変えようとはしなかった。”ジャック”は、
”白鷹”の煙突から出る排気煙を目印にして、昼頃には再び船団に
接触することができた。日没1時間前に”ジャック”は浮上して攻撃を
仕掛けようとしたが、またも日本軍機に攻撃されてしまい、失敗する。
日没後にもう一度浮上攻撃を仕掛けた”ジャック”は、月も沈んだ闇
の中で攻撃を成功させた。日本の護衛艦艇の警戒が厳重で、船団
内部への侵入は困難だったため、”ジャック”は長距離から3斉射、
合計19本の魚雷を船が密集しているあたりへ放った。その結果、
貨物船”第一吉田丸”(5,245トン)が被雷して瞬時に沈没。同船に
は第32師団のうち歩兵第213連隊主力など約3,500人が乗船してお
り、連隊長の小池安正大佐以下2,586人が戦死した。その他の船は
4月29日にマニラへと入港した。なお、アメリカ海軍の資料では、別に
1隻の輸送船を損傷させたされています。

マニラからハルマヘラ間で
竹一船団を襲撃した米潜水
艦”ガーナード”です。


5月1日、竹一船団は、ニューギニアへ向けてマニラを出た。沈没した
「第一吉田丸」の代船として「帝海丸」が引き続き参加することになり
輸送船8隻を、急設網艦”白鷹”と駆逐艦3隻、哨戒艇など5隻が護衛
の任に就きました。船団は、第3南遣艦隊が重要船団用に用意してい
た、これまで使ったことが無く、したがって待ち伏せのおそれも無いは
ずの安全と期待された航路をたどった。アメリカのシギント機関は、日
本側の予想に反し再び船団の動向をつかんでいた。5月2日には、分
析担当官は船団の規模について、輸送船9隻と護衛艦7隻で、第32師
団(12,784人)と第35師団を輸送中であると推定していた。また日本
陸軍の船舶通信を暗号解読した結果、船団の航路や速度、目的地、
正午ごとの位置までわかっていた。この並みはずれた諜報活動の成
果は5月2日に担当司令部に届けられ、アメリカ海軍の潜水艦部隊が
待ち伏せの配置につけられました。5月6日、竹一船団は、強烈な潜水
艦の襲撃に見舞われた。アメリカ潜水艦”ガーナード”は、セレベス海
のスラウェシ島(セレベス島)北東端付近の地点で、日本船団を待ち伏
せていた。”ガーナード”艦長のハーブ・アンドリュース中佐は、航空機
を警戒して潜航襲撃することにし、4時間かけて射点につくと2隻の船に
対して6本ずつの魚雷を発射。第一斉射では1本だけが目標に命中し、
第2斉射は狙った船にはあたらずただ1本は別の船に当たった。アンド
リュース中佐は艦を回頭させると後部発射管からも魚雷を放ち、3隻目
の輸送船を仕留めました。日本駆逐艦の1隻が反撃に向かってきたた
め、”ガーナード”は攻撃を終えました。その駆逐艦は100発以上の爆
雷を投下したが、高速航行したままだったのでソナーを有効に使えてお
らず、”ガーナード”には損害を与えませんでした。日本側は、陸軍第七
飛行師団の九九式双発軽爆撃機1機と九九式軍偵察機3機を飛ばして
対潜警戒中だったが被害を受けるまで”ガーナード”を探知することは
できませんでした。2時間後に”ガーナード”が潜望鏡で確認すると、日
本側は兵員と物資の救助作業の真っ最中であった。その夜、”ガーナ
ード”は、損傷して航行不能になりながらも浮いていた輸送船の1隻を
雷撃。以上の”ガーナード”の攻撃で沈んだのは被雷した順に貨物船
「天津山丸」(6,886トン)、輸送船「亜丁丸」(5,825トン)と「但馬丸」
(6,995トン)でありました。幸い、瞬時に沈没したのは「亜丁丸」だけで
、「第一吉田丸」の被害に懲りて小銃や歩兵砲まで事前に筏にくくりつ
ける徹底した対策をしていたことから、人的損害は計700名弱で済んだ
ものの、やはり物資の多くは海中に没してしまいました。大損害を受けた
竹一船団はスラウェシ島北端のバンカ泊地へ一旦退避したのち、5月9
日にハルマヘラ島のワシレへと入港。大本営は作戦続行を断念し、兵員
と物資はすべてワシレで揚陸され船団は5月13日にマニラへと引き返し
ました。復路では損害は無く、5月20日にマニラに到着した。5月21日、
大海指第382号により護衛部隊は解散しました。









独逸第三帝國…赤軍迫る崩壊の終末期に
 三国同盟軍事専門委員兼伊国大使館付武官
  として1945年4月20日…独潜水艦を手に入れる
   べく独逸海軍最高司令官 デーニッツ元帥とギリギリ
    の折衝を続けてベルリン包囲網が閉じる寸前に北欧
     に向け脱出に成功した阿部 勝男 海軍中将の所縁の
                          仮勲記等紙物が二点




こちらの阿部閣下は…岩手県出身で一関中から海兵(40期)に
入學、海大22期甲優等で卒業し米国駐在などを経てロンドン会
議全権随員、帰朝後は巡洋艦”多摩”艦長、空母”龍驤”艦長、
空母”加賀”艦長を歴任し海軍軍令部第三部長、海軍省軍務局
長を歴任し昭和16年11月から三国同盟軍事専門委員としてドイ
ツに駐在し日米戦が開戦しても敗戦帰国までずっ欧州勤務であ
りました。昭和17年11月、海軍中将に昇進し、更にイタリア大使
館付武官を兼務しました。昭和20年4月、ドイツ敗戦が確実にな
った為、スウェーデンに移駐し日本の敗戦を迎えました。翌21年
3月予備役に編入され帰国しました。一般的な帝國海軍の将官
とは全く別な異質な体験をして同盟国二カ国の没落を見守り…
本国もまた何も出来ないまま壊滅的被害を受けて敗戦し帰国さ
れています。…実に異質な体験と謂えるでしょう。
4月15日、ドイツの崩壊を見越し東京の軍令部はベルリン脱出
寸前の阿部 勝雄 海軍中将宛に緊急電報を発信しました。その
内容は…「残存するUボートをできるだけ多く日本に回航するよ
うドイツ海軍に要請し、その実現に努力せよ。」とのものでした。
この要請に独海軍総司令官デーニッツ元帥は、燃料不足を理由
に拒絶の意を示しました。しかし、指令を果たす為に、阿部中将
は、その後…ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と折衝を行い
再度交渉を行ったが、デーニッツからは要望には応じられない旨
、4月20日午前11時30分に最終的な拒否回答を受けました。
その日、阿部中将は総統官邸に赴き、ヒトラー総統の最期となる
誕生日を祝う記帳を行った後、デーニッツからの最終回答とベル
リンから脱出する旨打電し、ベルリン包囲網が閉じる寸前に…
ハンブルク方面への脱出に成功しました。その後、彼はスウェー
デンに無事に移駐し日本の敗戦をこの国で迎えます。まるで映画
の世界のお話のような逸話です。海軍の軍人として提督までにな
った方が外交官のように欧州で自国の戦争に一切かかわる事の
出来ない不思議な人生と運命は…まさに小説のようであります。
昭21年3月26日に帰朝された阿部閣下は…それから僅か
二年後の昭23年 5月26日にまだ57歳の若さで逝去されま
した。
上は同時にヤフオクに出品された紙物です。高額になった
ので入手を諦めました。博物館級の資料(?)とは思いませ
んが面白い歴史ロマンを感じさせる一品と謂えます。
まさに阿部閣下は、三国の栄光と挫折…哀しい崩壊を見つめて
きた生き証人と謂えると思います。

ヒトラー総統の最期となる誕生日を祝う記帳を行いに阿部閣下は4月20日
に総統官邸に出向いた。その10日後にベルリンは陥落しヒトラー総統は自
決しました。
敗戦前にこのU-ボートを出来るだけたくさん手に入れろと阿部閣下への
指令もかなり無理のある命令で…謂われたデーニッツ元帥も図々しい申
し出でさぞ固まったものと思われます。

陥落直前の首都ベルリンの悲惨な様を目撃した阿部閣下は
この一年後…廃墟となった帝都に帰朝し何を想ったのでしょ
うか…。







予科練の生まれる前、帝國海軍の航空黎明期の
 貴重なベテランパイロットの飛行記録(手簿)や写真等

     (昭和2年1月以降、昭和9年10月30日まで)




大正から昭和にかけて日本海軍の航空黎明期に霞ヶ浦
海軍航空隊と空母”鳳翔”を中心に様々な機種に搭乗し
たベテランのパイロット青木幹夫氏の飛行手簿二冊に写
真と私物の手帳です。昭和期の各年代の海軍士官名簿
に名前がないので恐らく特務士官になられておいでだと
思われます。


大正11年11月1日付で開隊した霞ヶ浦海軍航空隊は
陸上機の操縦教育を行い、飛行術練習生教程を実施し
ました。手簿の一番初めが昭和2年1月の記録からです。
勤務地は、空母”鳳翔”で既に飛行時間は376時間に達
しております。日米戦の開戦は、この14年後ですが恐ら
くこの時点で現役で軍人をされておれば特務士官である
事は間違いが無いと思われます。第3期飛行術練習生〜
第9期飛行術練習生までの航空兵・下士官と推察されま
す。いずれにしても主に艦上攻撃機や爆撃機が中心なの
ですが艦上戦闘機、偵察機、水上機、…黎明期で大きな
区分や括りをしていなかった時代のせいもあり様々な機
種に乗られております。これが昭和も進み予科練が出来
はじめると専攻がはっきりと分かれて戦闘機、偵察や爆撃
機や雷撃機、水上機など専門外の機種を乗る事など滅多
になくなりますが…それ以前の時代の搭乗員ですのであり
とあらゆる当時ある機体は殆ど操縦桿を握っているようで
す。




二冊の飛行手簿です。中には飛行目的、搭乗機種、同乗者、
飛行時間などが記載されています。一冊目が昭和2年1月から
昭和6年12月末まで、2冊目が昭和7年1月から昭和9年10月
末までが記録されています。この方は霞ケ浦海軍航空隊と空
母”鳳翔”の艦載機航空隊の二つの隊を行き来しています。後
半は主に予科練生や飛行学生の士官や予備士官の教官を務
めております。
下の左が一冊目の初めです。右下が二冊目のはじまりです。


空母”鳳翔”での総着艦回数が昭和8年12月11日
調べの段階で67回となっています。
二冊目の最終ページです。


以下は一冊目です。主に霞空と空母”鳳翔”の勤務です。










霞空の赤とんぼ
教官と空を飛ぶ霞空の赤とんぼ


二冊目となります。途中からは教官業務になって同乗の
士官や下士官の違うな名前が目立つようになります。















以下は、青木氏が操縦桿を握った飛行機達です。
               一〇式艦上戦闘機                一〇式艦上偵察機

一〇式1号艦上偵察機
                 一三式艦上攻撃機                        一三式水上練習機
一三式水上練習機

一三式艦上攻撃機
堂々の一三式艦上攻撃機の大編隊(空中分列式)
観艦式で礼砲を撃つ戦艦”長門”の上空を飛ぶ一三式艦上攻撃機の編隊
一三式艦上攻撃機

三葉式の一〇式艦上雷撃機
一〇式艦上雷撃機

アブロ504k練習機


上下とも霞空のアブロ504K練習機





三式艦上戦闘機

九〇式水上偵察機の陸上機型
八九式艦上攻撃機
九二式艦上攻撃機




九〇式機上作業練習機




九五式水偵


この青木氏が主に乗られていたのが日本初の空母となった鳳翔です。
複葉機全盛時代の空母です。世界の航空機が急速に伸びて海軍が
航空戦が主体となる時代を迎える手前の夜明けの頃と謂えるでしょ
うか…
下は三段式甲板時代の空母”赤城”です。







海軍航空機用発火栓(プラグ)未使用品一点
  (AIA 愛知化学工業株式会社 製造)




元は”航空機用発火栓”と記載された
”AIA 愛知化学工業株式会社”の箱に
発火栓(点火プラグ)が一本一本パラフ
ィン紙に包まれ梱包された未使用品の
デッドストック品の中の1本のようです。
AIAの刻印に海軍の錨マークの刻印、検定印と思しき難読の
刻印が二個、17年8月の刻印もあります。キャップにはアイチ
とカタカナが浮き彫りされています。
AIA 愛知化学工業株式会社は、昭和11年10月に
愛知時計電機株式会社から化学部門が分離独立
し、愛知化学工業株式会社として独立した子会社。
本社は愛知時計電機株式会社内にあって資本金
100万円で(名古屋市南区千年字船方15番地)に設
立されました。取扱品目は航空機用点火栓、安全ガ
ラス、強化ガラス、接着剤です。親会社になる愛知
時計電機(株)は九九式艦上爆撃機をうみだした事
で有名な航空機メーカーでもあり、特に艦上爆撃機
を多く手がけ「艦爆の愛知」と呼ばれました。また本
業の時計だけでなく魚雷発射管などの水雷兵器や
通信機などを製造した軍需企業の歴史もある会社で
ありました。そして戦時中の昭和18年に航空機部門
は、愛知航空機株式会社を設立し独立しました。
この航空機発動機のプラグを作った愛知化学工業
株式会社は現在も健在でアイカ工業株式会社とし
て生き残っています。




全長76.4o、先端部直径17.6o
このプラグが使われたのは愛知航空が製造
関与した海軍機で九九式艦爆、彗星、零式
水上偵察機、二式練習飛行艇、瑞雲、流星
、晴嵐、等になります。


九九艦爆
艦爆”彗星”
水上攻撃機”晴嵐”
零式三座水偵
水偵”瑞雲”
二式練習飛行艇
艦攻”流星”







一枚の写真から…小栗 孝三郎 海軍大将
           の中将時代の毛筆署名写真




小栗海軍大将の海軍中将正装の写真です。恐らく大正6年から大正12年の
間に撮影されたものと思われます。この写真は北海道の小樽市内の旧家よ
り出て来た写真との事で…その旧家は、元小樽新聞社の記者宅で同大将が
記者に寄贈したものと思われます。台紙に毛筆字で「呈田中君 小栗 孝三
郎」の文字が記されているのが判ります。因みにこの小樽新聞は現在の北海
道新聞です。朝日新聞と同様で道新も困った反日過激新聞として知られてい
ます。まだアカである事が進歩的で知的であると勘違いされた時代の残像を
引きずっているかのような…アナクロニズムと国賊の極致としか感じませんが
この旧小樽新聞はあの石川啄木が記者を務めていた新聞としても有名です。

      ◆ 小栗 孝三郎 海軍大将 ◆
 
             (略歴) 
 
 慶応4年8月4日生、石川県出身(大聖寺藩士族)
 
 明治22年 4 月 20日  海軍兵学校卒業(15期)
 明治33年 12月 6 日   海大甲種学生
 大正 2 年 5 月24日   任海軍少将
 大正 5 年 6 月23日   海軍省軍務局長
                将官会議議員
 大正 6 年 6 月 1 日   任海軍中将。
 大正 9 年12月 1 日   第三艦隊司令長官
 大正 10年12月 1 日   舞鶴鎮守府司令長官
 大正 12年 4 月 3 日   任海軍大将
 大正 13年 2 月 25日   予備役編入
 昭和 13年 8 月 4 日   退役
 昭和 19年10月15日   逝去(享年76歳)


輝かしい栄光に包まれた帝國海軍には海軍大将
は77名しかおりません。うち5名は戦死によりこれ
までの戦功と戦死に対する顕彰として大将に特進
した中将(遠藤 喜一、南雲 忠一、高木 武雄、
山縣 正郷、伊藤 整一 各海軍中将)です。実力は
世界一位と謂われた日本海軍のTOPを飾った77
名の一人です。








1/100スケールの真鍮ロストワックス鋳造品
 (イブシ仕上げ)海軍の八九式12.7糎連装高角砲




中々味わいのある海軍の八九式12.7糎連装高角砲です。











海軍工廠職員用の帽章で、造船関係の職員用のようです。
金属のプレス品で、制帽や鉄帽などに着用していたようです。









海軍零式輸送機の終戦連絡機…200分の一スケールです。











なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!