旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part Ux











Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








山本 五十六 連合艦隊司令長官と
 同期(海兵32期)の武田 維幸 海軍少将
   の所持された第一種軍衣袴と士官外套




かなり保存状態が悪く虫食いの進んだ海軍少将
第一種軍衣袴です正衣袴一式と通礼衣、外套な
ど勲章や軍刀、指揮刀、勲記等の紙物以外がま
とめてヤフオクで出されたものです。
























      ◆ 武田 維幸 海軍少将 ◆
             (略 歴)

 明治14年10月12日生 愛媛県出身

 海兵32期 (54/192)


明治37年11月14日 海軍少尉候補生(海兵卒)
                 韓崎丸乗組
明治38年 1 月 3 日    須磨乗組
明治38年 8 月 31日 海軍少尉
明治38年11月 21日    橋立乗組
明治39年 9 月 7 日     3艇隊附
明治40年 9月 28日 海軍中尉
                 宗谷乗組
明治40年12月 20日     砲術校普通科学生
明治41年 4月 20日     水雷校普通科学生
明治41年 7月 31日     初春乗組
明治42年10月 11日     周防分隊長心得
明治43年 3 月 11日     秋津洲水雷長心得
                  分隊長心得
明治43年 3 月19日 海軍大尉
                 秋津洲水雷長
                 分隊長
明治43年 5 月23日 海大乙種学生
明治43年12月 1 日     水雷校高等科学生
明治44年 5 月23日     15艇隊艇長
明治45年 6 月14日     1F参謀
大正 2年12月  1 日     白露駆逐艦長
大正 3年 12 月 1 日     水雷校教官
                  副官
大正 5 年 4 月 1 日 海軍少佐
                   横鎮附
大正 5 年 4 月11日      佐鎮附
大正 5 年 8 月 1 日      筑波水雷長
                  分隊長
大正 5年 10月 11日      筑波水雷長
                  分隊長
                  水雷校教官
大正 5年 12月 1日      技本部員(二部)
大正 8年 12月24日      技本部員(二部)
                   海大教官
大正 9年 10月 1日      艦本部員(二部)
                   海大教官
大正 9年 12月 1日 海軍中佐
大正 9年 12月17日     佐工廠検査官
                  造兵部部員
大正11年 11月 1日      造兵監督官
大正14年  7月 1日      舞要部員
大正14年 12月 1日 海軍大佐
昭和 2年 11月 1日      呉工廠総務部長
昭和 6年 12月 1日 海軍少将
                  軍令部出仕
昭和 6年 12月15日        待命
昭和 6年 12月21日       予備役
昭和14年 10月12日       後備役
昭和16年  4月 1 日       予備役
                    退役

昭和48年 4 月22日      歿 (享年91歳)



士官外套も一見すると良いように見えますが
下部と背面を中心に痛み虫食いがあり…残
念な状態です。
黒に近い濃紺絨製で頭巾付きです。肩章支紐は私製の
ようです。状態ですが、画像のように虫食い等が多く
良くありません。


海軍兵学校32期卒業192名中…提督に出世した
方は以下の32名です。確率は約17%で同期6人
に一人が将官です。略歴を見ていくと…陸軍ほどで
はありませんが、無天ではやはり厳しく最低でも海
大乙種学生で卒業が求められているのが判ります。


元帥海軍大将 山本 五十六

   海軍大将 塩沢 幸一
          嶋田 繁太郎
          吉田 善吾      大将4名

   海軍中将 井上 継松
          大野 寛
          河村 儀一郎
          鈴木 義一
          新山 良幸
          野辺田 重興
          堀 悌吉
          前原 謙治
          松下 薫
          和田 信房
          和波 豊一      中将11名

   海軍少将 太田 質平
          片山 登
          木田 新平
          相良 達夫
          柴山 司馬
          瀬崎 仁平
          武田 維幸
         富岡 愛次郎
         長井 実
         広田 穣
         増田 乙三郎
         松本 忠左   
         三戸 基介
         御堀 伝造
         山内 豊中
         山口 清七
         吉武 純蔵      少将17名



下は一緒に出品されていた同一人物の正衣袴一式と通礼衣です。







海軍の軍醫となった藤井 信雄 医師の
     アルバムより軍醫誕生から軍醫少佐まで

(海軍軍医学校〜遠洋航海〜艦隊勤務〜
 そして海軍潜水学校勤務〜海軍病院勤務
  まで貴重な写真で見る先の大戦前後の古き
    良き時代の帝國海軍の一側面と軍医生活)




こちらの方が藤井 信雄 醫師です。卒業大学は
不明ですが醫専でなく大学醫学部を卒業され海
軍軍醫中尉として海軍軍醫学校に入校。卒業し
て海軍軍醫の道を歩んでおります。

弟さんに御家族です。御実家は醫院であり開業醫の
御子弟で後継ぎの御長男のようです。


当時の日本における数少ない若きエリートの一人と
謂えるでしょう。現在のように誰もが高校・大学に進
学するのが当たり前という時代でありません。ほんの
一握りの優秀でそこそこの財力が無ければ進学でき
無かった時代です。しかし…以下の写真を見られても
判りますが…この当時のある一定以上の恵まれた地
位、経済力のある少ない層ですが、今の時代から見
ると華美でなく非常に質素で真面目である事が良く分
かります。はたして徴兵制も無く…何をしても自由で物
質的にははるかに恵まれた戦後の現代に生きる我々
が彼等より幸せでありましょうか?…彼等の精神的な
豊かさ…決して物質的には豊かとは謂えないけれど…
真摯に生きる者の目が物語る心の豊かさを感じてなり
ません。…それは敗戦後、日本人が失った誇りであり
真の意味で国を愛する気持ちや同胞を愛し自己犠牲を
厭わない崇高な心では無いでしょうか。…いつの間に
か…戦後の日本は特攻精神に至る悲壮さ残酷さばか
りに目を向けて…純粋な自己犠牲の崇高な精神を多く
の日本人が持っており、末期の特攻ばかりでなく…ず
っと以前から行われてきた日本男児の戦い方、根底に
流れる武士道の精神の素晴らしさまでを全否定してし
まい民族としてのアイデンティティを戦後の日本人は
ドンドンと失い続けた気がします。そしてそれは明治生
まれの方が消え、大正生まれの方が消え、昭和も戦前
、戦中の時代を知る人々がドンドンと消える中…もっと
もっと希薄になっているように感じます。…一度、多くの
日本人、特に若い世代の方には歴史を学び、その上で
戦前の日本人の匂いを嗅いで…日本人の色濃いアイデ
ンティティを感じて欲しいと思います。





上の二枚は海軍軍醫学校のある築地界隈で撮影された
ものと思われます。

海軍軍醫学校の昭和8年卒業の甲種学生の同期生と思われます。







真ん中の方が陸軍中尉の軍醫と思われますので
同じ大学醫学部の同期生で陸軍に行かれた方の
ようです。

天長節の記念撮影







偉い髭の方のように思いますが同期の軍醫中尉です。老けています(苦笑)ね。
昭和8年3月4日夜、信雄 遠航送別会と中華料理屋の
メニューに記載され家族で記念撮影しています。当時で
はかなり裕福な家庭である事が判ります。後に弟さんの
一人が海兵を卒業して海軍士官になられているようです
。またもう一人弟さんが医者になっております。
昭和8年の練習艦隊による遠洋航海に参加しています。
軍艦”磐手”と”八雲”で司令官は百武 源吾 海軍中将
でアメリカ西海岸を回っています。藤井軍醫中尉は物見
遊山の感覚だったと思います。この練習艦隊のメインは
兵学校60期・機関学校41期・経理学校20期の卒業の
士官候補生たちです。








百武司令官と艦長





〜  シアトル  〜
(3月28日〜31日)









さよなら”シアトル”と記されています。






〜 TACOMA 〜
 (4月1日〜3日)















”さよならTACOMA”と記しています。


バンクーバー(ワシントン州)










                                           











←途中で切れていますが
  ゴールデンゲート通過と
  記載されています。
                      


多くの在米邦人や日系人が大歓迎で練習艦隊の
海軍さんを歓迎しています。この時より10年を経
ずして運命の日米戦が開戦し…多くの日系人が
財産を失い収容所に収監されます。



〜 ロサンゼルス 〜










スタジアムで歓迎の催しでしょうか。司令官の挨拶です。


















アルバム内、唯一写真に写る米海軍士官たちです。











〜アカプルコ〜
(4/30〜5/6)
















〜パナマ〜








八雲の乗組の時の写真です。




遠洋航海で軍艦”八雲”乗組の後、最初の勤務となる海兵団
です。画像が荒くて引き伸ばしてもペンネントが読めず…何処
の海兵団勤務なのか不明です。




和服の方は偉い方です。名前は不明ですが海兵団の軍医長か
海兵団長あたりの大佐かはたまた提督と思われます。



最初の勤務が駆逐艦”波風”のようです。昭和9年天長節の記載
があります。第13代艦長の瀬戸山 安秀 少佐の時で第一駆逐隊
に艦は所属し主に北方の海洋にあって千島、北海道方面の交通
保護に当っています。左上の写真も”於 大湊”とあります。








海軍でスキー訓練とは、珍しい気がします。










重巡”衣笠”の乗組の時のイベントがあった際でしょう。
家族を招待しております。皆、楽しそうです。今の海自の
イベント全く同じようなものです。






重巡洋艦”衣笠”乗組となっております。






左上は、衣笠艦長の畠山耕一郎 大佐。右上は衣笠の醫務科員の記念撮影です。
何時の写真か不明なのですが畠山艦長の任期が昭和10年11月15日から昭和
12年3月末日までですので…昭和10年から11年の短い間の海上勤務だったと
推察されます。



上海海軍陸戦隊と記しています。昭和12年の
第二次上海事変の時と思われます。



呉鎮軍醫科尉官会とあり、呉鎮守府に勤務したようです。








昭和11年6月、佐世保海軍病院に勤務時代の写真です。
左上は上司の武井軍醫少佐、右上は鏈山軍醫少佐。
佐藤軍醫大尉(左)は同期で無く先任のよう。右は研究室の記載があります。




伊71号潜水艦の軍医長として乗り組みです。左上は艦長の永井少佐。
右上は先任下士官のと一緒に写っています(於:伊予灘)。後で写真に
記念のサインをもらっています。下はありし日の伊71号潜水艦です。珍
しいカラーで復元した写真です。


大竹に移転前の呉の海軍潜水学校です。ここの軍医となっています。
横の方が軍医長の板倉軍醫中佐です。藤井医師も軍醫大尉に昇進して
います。衛生部員の下士官・水兵と一緒に有名な六号潜水艇前で記念
撮影されています。
昭和12年、御夫妻で佐久間艇前で写っています。
左は軍艦千代田進水式当日に官舎前で。右は潜水学校の庭の菊畑で板倉軍醫長

左上が、ありし日の第六潜水艇と右上は沈没時の佐久間大尉の遺書です。

第六潜水艇が訓練中に事故を起こし、乗員14名全員が殉職しました。この時
内部の艇員がいずれ持ち場を離れず亡くなっており、持ち場以外にいた者も
潜水艇の修理にあたっておりました。佐久間艇長はガスが充満し死期の迫る
中、明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、次にこの事故が潜
水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次の遺
言を書いています。

”謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ”

そして”左ノ諸君ニ宜敷”と斎藤実海軍大臣ら当時の海軍の大幹部等の名を
列記し、12時30分の自身の状態を、”12時40分ナリ” と記し絶命しました。
その遺書は39ページにも及んでおりました。この佐久間大尉の遺書は、当時
…国内外で大きな反響を呼びました。欧米の海軍国では、同じような潜水艇
事故に際して、殆どが脱出しようとした乗組員がハッチに殺到し重なり合う悲
惨さでありました。中には…生存を賭けて殺し合う事態も発生しておりました。
この為、佐久間大尉以下の六号艇の話は世界中で大きな感銘を与え多数の
弔電が海外から届いたと謂います。




昭和11年10月、元寇防塁址に知人夫妻とその御両親と。右は潜水学校の練習生と博多へ


海軍工機学校の教程演習とあります。昭和13年と思います。
手前のマントの方が手窪軍醫長とあります。敵前架橋訓練


江の島・鎌倉〜遠足



昭和12年の海軍記念日、銀座のパレードとあります。

何処か不明ですが松風荘にてとあります。右上の方は
沓掛教官と記載があります。


海軍軍醫学校の高等科学生として半年間入校します。

高等科学生終了の謝恩会です。(於 神楽坂)
昭和14年3月と思われます。


水交社で私服で同期生で記念撮影です。同期で東京で集まったのでしょう。


病院長と思われる田辺大佐です。正門前で写って
います。正門の表札から佐賀県にあった嬉野海軍
病院であるのが判ります。
嬉野海軍病院の五病とあります。第五病棟という事かと
思います。そして看護術競技で二等賞とあります。



前列右から福田軍醫夫人、森薬剤部長歩夫人、田辺院長夫人
伊藤(旧)第二部長夫人、中村(新)第二部長夫人、一之瀬副官
夫人、後列右から武田(前)副官夫人、竹越軍醫夫人、春子(奥
さん)、福田軍醫令嬢…所謂、婦人会と謂うものでしょう。

官舎にて春子夫人と一緒に。

宮様をお迎えした日とあります。下の伏見伯つまり
伏見宮博英王様(昭和11年に臣籍降下され伏見
伯爵を名乗られました。)この時代ですから臣籍降
下されても宮様である事は変わりなく丁重に御持て
成しされたようです。
左手前の若い方が伏見伯です。昭和18年8月21日にセレベス島
南部ボネ湾上空で乗機が撃墜され戦死されます(海軍少佐に特
進)。この時期が昭和14年か15年と思われるので戦死される3〜
4年前の写真と思われます。


春子夫人の姿が…戦時色が色濃くなった事が
表情のまだ穏やかさとは別に進んできた事を
痛感させます。


築地病院皮膚泌尿器科外来にて。海軍病院であった築地病院は
現在の聖路加病院や国立がんセンターとして存在しています。
銀座を歩く中岡教官と柴田教官とあります。
昭和15年秋養気軒〜佐世保海軍病院〜
昭和16年1月、愛生園にて、左が事務長で右の方が
光田園長とあります。ここは昭和6年に出来た”国立
らい療養所長島愛生園”です。敗戦後は国立療養所
長島愛生園となりました。下のバーナーをクリックする
と愛生園の公式サイトに飛びます。
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昭和16年11月9日、対嬉野海軍病院野球部戦で8対1で佐世保
鎮守府海軍病院野球部の勝ちとあります。日米戦が開戦する
僅か1か月前です。




昭和17年11月28日の記載があります。

少尉候補生になった弟さんと思われます。

軍醫少佐になられています。…勤務地に変更なければ佐病勤務のままでしょうか。
アルバムは4冊…ここで終わります。昭和17年後半〜昭和18年
と思われます。…敗戦まで約2年余り…戦地や艦隊勤務に出ず
無事戦後を生きられたのか判りません。







海軍航空隊用の咽喉送話器(マイク)




送信機のマイク部分だけです。まあ咽頭送話器の場合
それがメインなのですが、これに装着の皮部分と接合
する配線となります。よく出てくる大戦後半の一番改良
されて小型化された進化したツインタイプで無く比較的
初期で大型のシングルのタイプです。
東洋通信機株式会社 昭和18年9月の刻印が
アルミの缶状の外箱にも本体にもあります。
ベークライドの側が喉に当たる部分です。逆側は配線が
取り付けられる方になります。


シングルタイプで以下のように使われました。



海軍航空隊 咽喉型送話器(ツインタイプ)




海軍のパイロット用の咽喉型送話器が二点です。
上下とも60年の歳月の経過を感じさせないコンデションです。
先に上で掲載したシングルタイプを進化させた
改良型です。



海軍航空隊 受信器(レシーバー)




こちらは飛行帽の耳当ての中に入れた受信機です。


三菱電機と読めます。



海軍航空隊 無線電話機の通話用
 L一型転換機のマニア手作りの精巧なレプリカ




マニアが自作で作ったL1型転換機です。
ソケットも銅板、アルミの手製、転換機は
木製と思われます。「L1型転換機」「ひし
形にM」の刻印が入っています。プラスネ
ジが使用されています。
思わず童心に返り満面の笑みがこぼれそ
うな品ですね。ありそうで出てないアイテ
ムなので自作したのでしょうね。
まさに遠目から見ると実物そのままに見えます。
中々、大した力作だと感心します。
三式空一号無線電話機…管制器と送受信器の関係を図示した例です。
実際の使用例の画像です。







戦前資料:大日本帝國憲法発布記念章




明治22年の大日本帝國憲法発布式に参加した
奏任官以上の者に与えられた近代日本の最古
の記念章です。


共箱は蝶番の壊れも無く明治22年から現在まで
121年の長い時間を過ごした模様です。菊の御
紋章も美しく色褪せ退色もありません。


残念ながら綬に痛みがあります。
貰いもの画像の授与証です。


大日本帝國憲法発布式
明治22年2月11日の紀元節、帝都・東京は…夜来から降り続いた雪により一面の銀世界
になっておりました。午前10時40分、この日の為に当時の金で約400万円の巨費(現在の
価値で約1600億円)と6年の歳月をかけて作られた宮中正殿(宮殿)で憲法発布式は挙行
されました。内外の顕官がきらびやかに居並ぶ中で、玉座についた陸軍第元帥正衣袴姿の
明治天皇(当時38歳)。その横より三条実美が進み出て、一貫の巻物を差し出します。これ
が憲法発布勅語であります。明治天皇はそれを開いて声高らかに読み上げました。続いて
枢密院議長・伊藤博文が捧げた憲法原文を手にして、帝國臣民の代表である第二代・黒田
清隆 総理大臣に原文を授けました。この憲法発布式典は僅かに約10分間程で終わり、参
列者は印刷された憲法を戴いて退出しました。









戦前資料:護憲派の重鎮で五・一五事件で
       凶弾に倒れた犬養 毅 元首相の直筆の手紙




手紙は郵送されたものでなく手渡されたもののようです。日付けが無く何時頃の
ものか判断に苦しみますが…封筒の裏に印があり手掛かりになります。犬養 毅
は、大正13年…晩年の70歳のとき、余生を過ごす”白林荘”を信州諏訪郡富士見
村に建てました。そして翌年の5月28日から政界を引退し富士見高原に建てた
”白林荘”に隠棲します。封筒には…その”白林荘”の印があります。この事より
この場所(白林荘)で大正14年6月以降に書かれたものである事が推察できます。



               ◆ 犬養 毅 ◆

                  (略 歴)

安政2年4月20日〜昭和7年5月15日

岡山県生まれ。政党政治家。勲一等旭日桐花大綬章。号・木堂。
父は岡山藩士。慶応義塾に学ぶ。郵便報知新聞の記者として西南
戦争に従軍。東海経済新報記者をへて、立憲改進党創立に参画。
大同団結運動で活躍。

明治23年、第1回総選挙で衆議院議員に当選、以後第18回総選挙
まで連続当選。第1次大隈内閣文相、第2次山本内閣逓相をつとめ
る。

大正11年、革新倶楽部を組織し、13年に加藤高明らと護憲三派内閣
を結成、逓相に就任。昭和4年、立憲政友会総裁。6年、首相となるが
翌7年に五・一五事件で暗殺される(享年76歳)。









































予科練をイメージしてアルミの削り出しで作った物
と思われます。中々、味わいがあるマークです。


















一枚の写真から…




小笠原 長生 海軍中将の写真
肥前国唐津藩藩主で老中・小笠原 長行の長男で明治6年に
家督を相続した大名です。学習院から攻玉社を経て海軍兵学
校に進みました。お殿様ですから爵位持ちます(子爵)。
海軍中将正二位勲一等功四級子爵。昭和33年9月20日逝去。
提督は大正10年に予備役編入し宮中
顧問官を昭和20年11月まで任じれら
ておりました。写真は昭和11年とあり
ますので宮中顧問官をされておられた
時期のものです。







一枚のネガと写真から…




G.I.が乗り込み見つめているコクピットは、何処の基地の飛行場か不明ですが
機体は銀河です。操縦席に乗り…銀河の風防あたりのみが写っていますが
何処かの海軍基地だった場所でしょう。







一枚のプレートから…




内外汽船株式会社 春日丸 進水記念プレート
昭和11年9月に進水した春日丸は海軍に徴用されました。
昭和18年3月13日アンダマン諸島 ポート・ブレア
(Port Blair)港内でオランダ潜水艦O21の発射した魚雷を
受けて沈没しました。この際、船員21名が死亡しています。







海軍工廠の職員が使用した腕章と鉄帽の帽章です。


腕章には工廠の紋章があり、片側にNO.222が印字され加藤の判が捺されています。




帽章のオレンジに近い黄色は海軍の鉄帽で
よくステンシルで描かれる錨の色とほぼ同じ
です。





























こちらは箱附きの技術名誉章(舞鶴海軍工廠)
上の徽章は横須賀海軍工廠のものです。





































なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!