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旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part Ur











Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








貴重な戦時資料 光海軍工廠の正門の銘板




よく残っていたものです。光海軍工廠正門の鉄の銘板です。実際には
予備の3〜4個あったストックの看板の一つだったそうですが、当時、
工廠で働いていた方が敗戦後に記念に持ち帰った銘板です。持ち主
の方は、戦後、ここの工具や機械類を使い工場を営んでおったそうで
す。高齢となり後世に残したいと謂う想いが強かったようで、縁があり
貴重な遺産を受け継ぐ事が出来ました。鉄製でずっしり重い銘板です
。縦が約70cmで幅約20cm、厚みが約1.5cm〜2cmあります。
山口県光市にあった光海軍工廠(跡地は現在・新日本製鉄及び武田薬品)は
75万坪の広大な敷地を持ち主に砲熕、製鋼、水雷、造機、爆弾の各部があり
海軍の兵器生産を行っていました。昭和15年10月1日に創設され呉鎮守府に
属していました。横須賀、呉、佐世保、舞鶴、豊川、広の海軍工廠に続き7番目
の海軍工廠として活動していました。
光海軍工廠は、敗戦の前日である昭和20年8月14日の正午過ぎに
米軍のB29の5波に渡る執拗な延べ 156機による凄まじい猛爆を受け
て一日にして壊滅しました。この日の空爆により、動員学徒・女子挺身
隊を含め738名(軍人51人、軍属554人、動員学徒133人) が尊い命を
失っています。既に敗戦は翌日であり、この光海軍工廠大空襲が本当
に必要な空襲だったのかは熊谷大空襲と同じで米軍の実験的な意味
あいが強い虐殺に近い性格が強いとしか思えません。








無残な惨状です…。










戦後、昭和30年頃の造機部浅江地区工場跡
昭和30年頃の工廠跡地の展望です。


ありし日の光海軍工廠

上の地図の赤い★印が正門のあった場所です。
記録に残る正門の銘板です。全く
同じものである事が判ります。
右から初代工廠長の妹尾 知之 中将、左は二代目・田村 英中将

田村 英 海軍中将の中佐時代の一種軍衣を
収載したページを上のバーナーをクリックする
と開きます。


昭和18年4月23日、光市制祝賀会
(前列右から妹尾中将、佐々木県
知事、重枝市長です。)
左は、昭和15年11月5日光海軍工廠開庁祝賀式(旧本部庁舎前)。
右は市民の祝賀旗行列(2万人以上が参加)です。
右は昭和18年10月1日の開庁三周年記念式
昭和17年8月15日、光工廠初製魚雷の記念式


光海軍工廠の工員の略帽章!


以下は開廠当時から主計士官として勤務した方
が所持した写真から追加した画像です。
主計科士官として光海軍工廠の開廠以来ずっと携わってきたようです。




光海軍工廠の本部庁舎です。この建物は今も
武田薬品光工場に残っています。
戦後の生き残り武田薬品光工場で使われている本部庁舎




写真の所持者だった主計少佐です。(上では通礼軍衣姿で
座り、下では二種上下に軍帽の眼鏡の軍人です。)














主計少佐で光海軍工廠の独特の意匠のマークが印象的です。


官舎でくつろぐ姿でしょうか。








公用車です。


各種の野球大会やテニス大会の優勝旗や
カップが飾られております。


爆撃中の米軍機が撮影した徳山空襲の様子です。
爆撃で凄まじい黒煙を上げているのは徳山の第三燃料廠です。
ここ山口県のこの近くでは、昭和20年5月10日と7月26日、8月
14日の3度に渡り大空襲を受けています。一度目が徳山港の第
三燃料廠、二度目が徳山市内を…そして三度目が敗戦の前日の
8月14日で光市の光海軍工廠です。


こちらは同じく山口県の宇部市の米軍撮影の写真です。
この宇部もまた昭和20年7月から8月に掛けて数度の
空襲を受けています。
最大のターゲットは、帝国燃料興業工場(宇部油化)でした。







第四航空戦隊 機関長 宮崎 幸武 海軍大佐
              ( 航空母艦 龍驤 )
  が所持していた開戦劈頭の航空生写真とコピー




海軍機関学校第27期出身で航空マーク持ちの宮崎海軍大佐が
所持していた写真です。尚、この大佐は、開隊間もない霞ヶ浦
海軍航空隊にて機関学生教程を修了しております。開戦時は、
第一航空艦隊(司令長官:南雲忠一中将)第四航空戦隊(司令
官:角田覚治少将)の四航戦機関長(四航戦幕僚)として空母
龍驤
”で開戦以来…印度洋作戦、アリューシャン作戦など参加
しました。四航戦は、空母”龍驤”を戦隊旗艦として特設空母”春
日丸”(後の空母”大鷹”)と第三駆逐隊の駆逐艦”帆風”、”汐
風”を従えて、緒戦を戦いました。南雲艦隊から離れ真珠湾作戦
とミッドウェイには参加しませんでしたが緒戦の南方攻略作戦を
支援し画像のとおり東南アジア各地を転戦しているのが判ります
。また文面よりも当初半年から一年が向かうところ敵なしのまさ
に破竹の勢いだった事を裏付けます。
まさに開戦記念日となる昭和16年12月8日より印度洋作戦中
の昭和17年4月6日までの生写真とコピーの記録となります。
第四航空戦隊幕僚であった宮崎大佐が空母”
龍驤”が移動す
るごとにその写真を記録しています。フィリッピンのダバオから
はじまり同ルソン島のレガスピー湾、ベトナムのサイゴン、そし
てシンガポール、スマトラ島横のシンケップ島、ガスパル海峡、
バタビア沖海戦、ビリトン島、ジャワ海、ペナン島、印度洋(作
戦)と転戦しているのが良く判ります。
開戦時、昭和十六年十二月八日(開戦時)の
第四航空戦隊の幕僚は以下となります。

角田 覚治 (司令官・39)
小田切 政徳 (首席参謀・52)
吉冨 茂馬 (航空参謀・55)
岡田 恰 (通信参謀・57)
石森 市五郎 (機関参謀・機39)
宮崎 幸武 (機関長・機27)

尚、軍医長と主計長の氏名等が不明です。
昭和16年12月8日よりフィリピン攻略作戦に参加し
更に南下して南方攻略作戦を支援していきます。











昭和17年1月19日、アナンバス攻略作戦に参加!
同年2月10日、バンカ・バレンパン攻略作戦に参
加。同月13日にはバンカ海峡で九七式艦攻により
商船8隻を撃沈。翌14日にもバンカ海峡にて九七
式艦攻にて魚雷艇母艦1隻、特務艦1隻、砲艦1隻
を撃沈せり。またその翌15日には、ガスパル海峡
にて九七式艦攻をもって連合国艦隊を爆撃を行い
損傷を与える大活躍をしています。



東洋に置ける大英帝国の一大要塞であった為、
思い入れが深いのか記載量が多いのが判ります。

















昭和17年年3月1日、カリマタ海峡で米駆逐艦”ポープ”
を爆撃により大破させ、セマラン港を爆撃する。以下の
画像と思われます。
龍驤の艦載機である九七式艦攻の250kg爆弾(25番)直撃
で沈む1万トン急商船です。上の二枚は駆逐艦です。




ジャワ海 適砲艦撃沈(龍驤砲果)とあります。
即ち八九式12.7cm40口径連装高角砲 6基
の片側の3門で砲撃して沈めたと言う事でしょ
う。流石は闘将・角田司令官です!







シンガポールを攻略しマラッカ海峡を抜ければインド洋です。










九七艦攻による爆撃で仕留めた商船と思われます。
昭和17年4月1日より始まったインド洋作戦では商船9隻を
撃沈しています。この作戦の後、5月20日にアンダマン、
ビルマ攻略作戦に参加しています。



朝焼けか夕陽か判別付きませんが水平線の彼方、左に沈む英国
商船、右に手前は帰投する駆逐艦”島波”。その奥は大型艦で
味方の戦艦だと思われます。金剛、比叡、榛名、霧島の四戦艦
がインド洋に参戦して来ていました。このうちの何れかでしょう。
昭和17年4月6日の日付があります。”朝飯前の商船狩”と記載
されています。緒戦の大勝利にまだまだ湧き立っている頃です。
この”朝飯前の商船狩”が僅か数年も経たないうちに自らの身に
起きる等とは、まだ夢にも思い描きもしなかった頃と思います。
空母”龍驤”の飛行甲板より3人の海軍々人が沈みいく
敵国商船を見ています。右と中央の二名は双眼鏡で見
ているようです。インド洋らしく半袖半袴の防暑衣に二種
戦闘帽姿のようです。このショットを写しているのが恐ら
く宮崎大佐本人と思われます。宮崎大佐は、その後将官
へ昇進する事無く戦後も生きておられました。昭和38年
5月30日逝去されておられます。四航戦は一航艦(南雲
機動艦隊)がミッドウェイ攻略作戦(MI作戦)で壊滅した
時、その支援作戦としてアリューシャン攻略作戦(AL作戦
)を展開し空母”準鷹と共にダッチハーバーを攻撃しまし
た。ミッドウェイで一航艦が壊滅後は四航戦も解散します
。この時に宮崎大佐は空母機動部隊から離れたようです
。龍驤はその後、新編成の機動部隊である第三艦隊の
第一航空戦隊に組み込まれガダルカナルを巡る死闘が
繰り広げられたソロモン海で第二次ソロモン海戦を戦いま
した。この海戦では、南雲第三艦隊の支隊として原忠一
少将指揮の下、空母”龍驤”、重巡”利根”、駆逐艦”
時津風”、”天津風”の計4隻でガ島攻撃に向かいました。
米軍が占領したガダルカナル島の飛行場を零戦15機、
九七式艦攻5機を上げて攻撃しています。そしてこの写真
が撮られた約4ヶ月後の昭和17年8月24日に敵空母
”サラトガ”の攻撃隊の爆弾が四発命中し左舷に一本の
魚雷が命中し大火災の後、ガダルカナル島北方海域で
同日の18:00に沈みました。幸い艦載機は母艦が火災
で着艦不能の為、近くのブカ基地に降りるか不時着しま
した。艦載機25機をこの海戦で失いましたが全員が戦
死でなく生存した搭乗員もおりましたのでミッドウェイのよ
うな優秀な搭乗員を丸ごと失うような大被害には至らな
かったものの軽空母とは謂え制式空母をまたも失う結果
となりました。


ありし日の空母”龍驤”です。

改装後、龍驤の武装です。

八九式12.7cm40口径連装高角砲 6基
九六式25mm60口径二連装機銃 2基
九三式13mm76口径4連装機銃 6基

尚、開戦当初は零戦の配備が間に合わず
九六式艦戦18機・九七式艦攻12機+補用
機で南方攻略戦に臨みましたが、AL作戦
時には、零戦が間に合い零戦16機・九七
艦攻21機、計37機を搭載して戦いました。



      ◆角田 覚治 海軍中将◆

新潟県出身、海兵39期、功二級、

開戦からAL作戦までを司令官として戦った
闘将 角田 覚治 中将です。四航戦司令官
として開戦の日にダバオ飛行場を空母”龍
驤”で空襲させています。その作戦指揮は
所謂、アウトレンジ戦法で航空畑出身と違
い砲術科出身ですが…与えられた情況と
兵力を最大限活用し敵にダメージを与える
能力に非常に長けた指揮官でした。インド
洋作戦で航空機が発艦できない悪天候で
は空母を敵基地に近ずけて、龍驤の高角
砲で砲撃を行うなど破天荒である敵を殲滅
する猛将でした。南太平洋海戦で空母”翔
鶴”がやられ南雲司令長官より指揮権が
委譲されるや座乗の空母”準鷹”を最大戦
速で突進させ敵空母”エンタープライズ”を
退けさせ”ホーネット”を大破せしめた上に
鹵獲を企図し曳航を命じるが不能の為、魚
雷により沈めた等、その闘将ぶりは有名で
あります。南雲機動部隊が壊滅し四航戦が
解散後…基地航空隊で再編された第一航
空艦隊司令長官として昭和18年7月にマリ
アナ沖海戦を支援するが(あ號作戦)、いた
ずらに航空兵力を失うのみの結果となり、
再編された機動部隊も壊滅しました。その
後、指揮する船も航空機も無いままテニア
ン島で地上戦に突入。昭和19年7月31日に
”今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類
の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム”の訣別電
を最後に玉砕をされております。享年53歳。

下は第二次ソロモン海戦で敵の攻撃を受けて炎上する
断末魔の空母”龍驤”を空撮した画像です。龍驤の前に
護衛の駆逐艦らしき小型艦が一隻、左後方に退避しな
がら戦場海域を高速で離脱せんとする駆逐艦らしき小
型艦が見えます。時津風と天津風と思われます。







高名な彫刻家 日名子実三 氏が親交深い
 井上 成美 海軍大将に贈った艦長賞の銅製彫刻メダル




艦長賞 皇紀2596年 比叡艦長 井上成美と記載され戦艦比叡の
シルエットが表に描かれています。裏は西洋風の戦士が半裸で盾
を持ち剣を振るう姿が描かれ左下に実三のサインがあります。
残念なことに共箱が痛みがあります。残骸の表蓋の裏には
日名子実三氏の直筆のサインに捺印があります。


表蓋には艦長牌 日名子実三氏原型
製作の文字が読み取れます。
井上提督と日名子実三氏との出会いは、提督が
中佐時代にイタリア駐在武官として渡欧するので
すが、この時期に日名子氏は、大正15年からメダ
ル制作の精巧な技術を習得するためイタリア、フラ
ンスへ遊学中でした。同じ郵船”宮崎丸”に乗り合
わせ知り合いとなります。この時、井上中佐の風貌
に芸術家として興味を持った日名子氏は航海中に
胸像のモデルになってほしいと申し出たといいます。
ローマへ着いてのち、井上の宿舎を訪ねて胸像を
作りました。これが昭和三年、日名子氏がローマで
作った最初の作品との事でした。井上中佐は大佐に
昇進し帰朝後に練習戦艦”比叡”艦長を勤めます。
この艦長は、昭和8年11月15日から昭和10年8月1
日までの間です。この艦長賞のメダルは、皇紀2596
年(昭和11年)と刻まれております。戦艦”比叡”艦
長を解かれた翌年に日名子氏が井上大佐に贈った
ものである事がわかります。幾つのメダルが製作さ
れたのかは定かでありませんが、日名子氏のサイン
と捺印のある品は珍しく出所も井上閣下の出身地で
ある宮城県ですので恐らく井上閣下に贈られた品で
あってもおかしくないものと想像します。
ありし日の練習戦艦”比叡”と中将時代の井上閣下です。

           * 井上 成美 海軍大将 *

宮城県仙台市出身、海兵37期、海軍大学校甲種第22期学生。
ご存知のとおりリベラル派の三羽烏(山本、米内、井上)と謳わ
れた最後の海軍大将です。有名な方なので説明は割愛します。


意外と分厚く重みがります。裏面に緑青が浮いています。


日名子実三氏と氏がデザインした
JFA日本サッカー協会のシンボル
マークの八咫烏です。
霊獣の八咫烏は、日本神話の中で神武東征の際にタカミムスビ
によって神武天皇の元に遣わされ熊野国から大和国への道案内
をしたとされる3本足の烏です。ボールを押さえている三本足の烏
は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽を
シンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、
八咫烏が天皇の軍隊を道案内をしたということもあり、この烏には
親しみがありました。旗の黄色は公正を、青色は青春を表し、はつ
らつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇
を表現しているそうです。

  ◆日名子 実三 (ひなご じつぞう) ◆
 
 大分県臼杵市出身、1892年〜1945年
 東美卒、享年52歳。

戦前の日本を代表する彫刻家の一人です。
様々なメダルや傷痍軍人の戦傷奉公杖な
どのデザインも日名子氏によるもので…小さ
なメダルから下の八紘之基柱のような巨大な
塔に至るまで多くの作品を世に残しています。


皇紀2600年(紀元2600年、昭和15年)の記念事業の一つ
として建設された「八紘之基柱」が戦後、「平和の塔」と改め
られ、一帯は「平和台公園」として整備されています。この
塔の正面に刻まれた「八紘一宇」(秩父宮の御真筆)と塔の
四隅に配されていた像(信楽焼)の一つ武人像が、進駐軍
の命により軍国主義の象徴として撤去されましたが、講和
後に歴史的文化・芸術遺産として復元されました。因みにこ
の武人像は神武天皇を模したと謂われています。
霊獣の八咫烏がシンボル化されたと言えば宮崎県の
八紘一宇の塔(現在は、平和の塔)が頭に浮かびます。
この塔も設計施工監督に南省吾氏(日名子氏と臼杵中
同期)が当たっており、四隅に立つ四神像は日名子氏の
作であり八咫烏も日名子氏の作です。

こちらの東京都江東区の浄心寺の境内にある大正14年に建立
された蔵魄塔という慰霊塔(関東大震災の犠牲となった多くの
人々の遺灰を合祀し供養した) も日名子氏の作品です。身体を
折り曲げた女性が半球形の墳墓を抱くセメント作りの大作です。


戦傷奉公杖と(財)帝國軍用犬協会のメダル
   など日名子実三氏のデザインによるその他作品












昭和14年 ”協会賞” メダル径 41o
上下の二点とも共箱付きで、共に”日名子実三氏”デザインの
レリーフです。”参加賞”のメダルの方には、”実三”の文字が
あります。とても美しい品です。
第4回軍用犬展覧会 ”参加賞” メダル径 41o







潜水艦用の四十五口径十二糎砲L型改一(単装)砲架銘板




昭和18年製の四十五口径十二糎砲の砲架の銘板です。
「L型改一」という型式の砲架ですが、潜水艦用の記載が
あるので単装砲架です。呉海軍工廠製で3484のシリアル
No.が刻印されています。
四十五口径十二糎砲の潜水艦用は、尾栓で三年式と十一年式
の二種類があります。

         <四十五口径十二糎単装砲の性能データ>

         (砲 身)                (砲 架)
   (口径)   (重量) (尾栓) / (型式)(構造)(俯仰角)  (重量)
                3年式    単装 架構式 -5〜30度 
45口径120mm 2.910kg                         5.690kg
                11年式   単装 架構式 -7〜75度 


         (弾丸重量)  (初速)   ( 射 程 (仰 角) )
*11年式    20.4kg    825m/s    14.278m(30度)


*潜水艦の搭載砲は既に大正時代より対艦や対地を想定にしていません。
 全て対空装備です。四十五口径十二糎単装砲には二種類がありますが、
 俯仰角が30度しか取れない三年式を昭和18年の後期に増設する筈もなく
 この銘盤に使われた砲が高角砲として使用が可能な十一年式と考えるの
 が妥当だと思います。また大正期や昭和初期に三年式を搭載していた艦
 は、十一年式等に切り替えたと考えられます。



以下は、実際に四十五口径十二糎単装砲を搭載した潜水艦です。
L4型(呂60型)の潜水艦です。このシリースでは初期に
四十五口径三年式十二糎単装砲を搭載していました。
この上下は特中型(呂29型)潜水艦です。このシリーズも
四十五口径十二糎三年式単装砲を搭載していました。


海大6型b(伊174型)です。シリーズはイ174と175の二艦です。
イ174はトラック方面で戦没。画像のイ175は、昭和18年でギル
バート方面で米護衛空母”リスカム・ベイ”を撃沈する戦果を挙げ
た艦ですが昭和19年2月にウオッゼ東方面で米駆逐艦により戦
没しました。このシリーズにも四十五口径十二糎単装砲が搭載さ
れていました。
海大7型(伊176型)です。シリーズの十隻がありましたが
訓練中に水没した伊179潜を除く全ての艦が大戦中に戦い
沈没させられました。このシリーズにも四十五口径十二糎単
装砲が搭載されていました。


こちらは特型駆逐艦以前の駆逐艦や特務艦、海防艦、水雷艇
掃海艇など実に数多くマルチに搭載された四十五口径三年式
十二糎砲です。(G型砲)



これは水雷艇鴻型や掃海艇19號型に搭載された四十五口径
十一年式十二糎砲のG型(砲)です。


上はイ69号の八八式十糎単装高角砲です。砲架の構造などは
大体基本的には同じような形だと思われます。
米軍が捕獲して本国に送った海軍の十一年式十二糎砲です。
写真に下にアバーディーン試射場、1945年4月11日というデ
ータが焼き込まれています。そしてJapanese 120mm Naval
AA Gun, 11 Year Modelという名称が書かれています。潜水
艦では砲尾などを防水加工して、まさにこの砲そのものを搭載
していました。


タイ海軍の練習艦”クメロン”に残る四十五口径
十一年式十二糎砲です。











零式航空羅針儀二型




九九式艦爆や九七式艦攻、中〜大型機に
搭載された零式航空羅針儀二型です。
接続の簡単なソケット式の配線も残存しています。
このすぐ直下の画像の二つの金属棒にソケットが
差し込まれ配線されます。計器版では裏の部分に
当たりますが。
この品は東京航空計器の製作ですが、同じ品を
横河電気製作所でも製作していました。
ソケットに配線をかました画像です。


この海軍の零式航空羅針儀二型は、他に改一・二の二種類があり
改一は晴嵐に取付けられました。またこのニ型は陸軍では九八式
航空羅針儀乙と同じものです。
銘板に年月日がありませんが、東京航空計器(現在のトキメック)
の製品で海軍と豊川工廠の検定印が見られます。コンパス内の
リキッドも抜けてなく生きています







珍しい海軍造兵少佐の一種軍衣




薄手合服生地の極美品です。
珍しい造兵科(蝦茶色)の造兵少佐の大型襟章初付


テーラータグは高級将校・将官御用達の”植久”です。
総裏地の薄手生地の合服で襟口、袖口のほつれやすところも
程度が良いです。右袖章あたりの極小虫食いが残念ですが、そ
れ以外には虫食い等なく、裏地、袖裏地も健全で極美品です。
早川仁海軍造兵少佐のお品であったようです。







学徒出陣で戦死された
 第十三期飛行科専修予備学生出身
   の森 亮吉 海軍大尉の士官用外套




第十三期海軍飛行専修学生(昭和18年9月 5.199名)で
海軍航空隊入りした森亮吉氏は、佐賀県出身で福岡の
西南学院からの学徒出陣です。昭和20年2月7日に零式
水上偵察機でサイゴンから仏印カムラン沖を油槽船団護
衛中に戦死しました(936空所属)。
森大尉(戦死後特進)は詫間基地で三座水上機で実用機教程を終えて
水偵要員となっています。この13期は全国7万人の志願者から選抜され
た約5200名でした。昭和19年9月から土浦・三重航空隊で基礎教育を
受け、飛行要務専修者217名が三重航空隊で教育を受けています。
厳密には、学徒出陣組と言われるのは14期以降を指します。尚、13期
は、5200名のうち1605名が戦没していおります。
また所属した第936航空隊は、臨時編制の混成隊で元々は占領間
もないシンガポールに派遣されマラッカ海峡の哨戒やスマトラ方面へ
の船団護衛に従事していました。昭和18年10月に水偵隊へ改編され
、引き続きマレー周辺の哨戒任務を続行していました。昭和20年1月
には933空要員が追加されて消耗した部隊に補充がなされましたが、
以後は無く敗戦までマレー近辺に取り残された部隊となりました。
零式水偵です。敗戦まで長きに渡り船団護衛や対潜哨戒に任務を
こなしました(別名:零式三座水上偵察機)。
下駄履きの為、最高速度も376km/hとふるいませんが胴体に
爆弾倉を持ち60kg爆弾なら4発、250kg爆弾1発を搭載しまし
た。敗戦までに約1450機が生産されています。











海軍大臣を勤めた 財部 彪 海軍大将
       の勲章年金之證書と古写真二枚





        ★財部 彪 海軍大将★

宮崎県都城市出身
(慶応3年4月7日〜昭和24年1月13日)

海兵15期(同期に岡田啓介、広瀬武夫、
小栗孝三郎、竹下勇)。明治44年、海軍大将
加藤友三郎内閣で海軍大臣となり、その後、
4内閣(第2次山本内閣、加藤高明内閣、
第1次若槻内閣、浜口内閣)において海相を
勤める。昭和5年、ロンドン海軍軍縮会議に
おいて若槻禮次郎とともに全権となり,同条
約を成立させた。しかし、海軍軍令部は大不
満であり、濱口内閣の処置を統帥権の干犯
であると、犬養毅・鳩山一郎らが率いる政友
会と協同し内閣を攻撃した(統帥権干犯問
題)。このことが原因で、予備役に編入され、
実質的に引退することとなる。

海軍時代は、日露戦争は、大本営作戦参謀
明治42年 海軍次官に。大正時代に第三艦隊
司令長官、 旅順要港部司令官。、舞鶴鎮守府
司令長官、佐世保鎮守府司令長官、横須賀鎮
守府司令長官を歴任し海軍大臣になる。昭和7
年4月7日に予備役編入。 昭和12年4月7日 に
退役。



仲良く二人で写る野間口・財部両海軍大将です。



        ★野間口 兼雄 海軍大将★

鹿児島県出身、慶応2年2月14日〜昭和18年12月24日
海兵13期、海大卒後イギリス駐在等を経て、海軍省副官
兼海相秘書官として山本権兵衛大臣に仕えた。巡洋艦の
艦長などを歴任後、軍務局先任局員を経て第1艦隊参謀長
となり、佐世保鎮守府参謀長、海軍砲術学校長、呉鎮守府
参謀長、軍務局長、呉工廠長、海軍兵学校長、舞鶴鎮守府
長官、第3艦隊長官を歴任し、大正9年に海軍大将、さらに海
軍教育本部長、軍事参議官を経て、大正13年に予備役に
編入されし昭和11年に退役。



こちらも豪華な豪華な写真です。海軍四大将が
並んで正衣袴で記念撮影をしています。
左から山下 源太郎 海軍大将(海兵10期)正二位勲一等功三級男爵、
山本 権兵衛 海軍大将(海兵2期)従一位大勲位功一級伯爵、斉藤 實
 海軍大将(海兵6期)従一位大勲位子爵、財部 彪 海軍大将(海兵15
期)功三級…錚々たる顔ぶれに息を呑みます。実在し目前に彼等が座
っておられたら言葉も無い状態になるものと想像します。









呉海軍病院 第十病室の改増築の青図




呉海軍建築部の印が設計図の右隅にあります。
大正十二年二月十七日の日付けもあります。
















海軍三式13o航空機銃用徹甲弾カット及び
 同焼夷弾U型カットと海軍九七式航空機銃用連環




無可動実物拳銃の加工輸入も手掛ける専門業者さんから出た品です。
内部が銀色の方が海軍三式13o航空機銃用徹甲弾カットです。
大戦後期に
零戦を始めとする海軍戦闘機に搭載された「三式13粍航空機銃」に使用され
た弾頭のセクションモデルです。弾種は徹甲弾。普通弾も開発先の仕様と同じく
弾芯は鉄ですが、この弾芯は銃用鋼を熱処理したものが使われております。
程度は水没品だったのか薬莢から出ていた部分の銅被甲表面に荒れが生じて
います。また弾底から見える鋼製弾芯の底も錆が出ています。
中身が銀色の方が海軍13o航空機銃焼夷弾U型カットです。
弾種は旧日本軍独特の焼夷弾U型です。他国では危険すぎ
るとの事で採用を見送れた品です。内管は銅合金製と鉄製に
錫鍍金が確認されていますが今回は銅合金製タイプです。
弾芯は着弾時に慣性で区画された充填薬を押し潰し2薬の
化学反応(爆発)を促進させる役目もするので硬鉛だけでは
強度不足だったのでしょうか被甲と同様の銅合金で先端は
平らですが通常弾の様に覆われています。内側は空気中に
晒されていない為か非常に程度が良く綺麗との事です。
説明文は専門業者さんの受け売りをほぼそのまま転載です。




海軍九七式航空機銃用連環です。零戦等の海軍戦闘機に
搭載された7粍7 九七式固定航空機関銃用の連環(リンク)
です。刻印は見当たりませんが、英国等で製造されたビッカ
ースのものとは違い、国産の特徴である板厚のある素材が
使われています。部分的に僅かの錆跡があるものの、程度
は非常に良い方で防錆の黒染めもほぼ残っております。
弾薬を連環に装着するとバネ効果の為外すのにかなりの力
が必要です。国産の連環は非常に見つけ難く希少なもので
すので、コレクター間では珍重されているもので出回る事は
稀なそうです。







一枚の写真から…




宮里 秀典 海軍中将の少将時代
の御写真です。昭和18年5月とあり
ます。第十一特別工作部長をされ
ていた時と思われます。

 鹿児島県出身、海兵30期

開戦前に戦艦”大和”初代艦長を
勤めた方(艤装員長)です。船舶
救難本部長、船舶警戒部長で敗
戦、そして予備役になっています。
















なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!