旧軍関連・戦前資料収載品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
海軍 イー六六五號磁石式卓上電話機
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銘板に沖電気製でシリアルNo.と海軍の 刻印そして豊川海軍工廠の検定刻印が あります。 |
沖電気製のイ-六六五號卓上電話機の画像 です。海軍の陸上施設などの机の上で受話 器を上げ取っ手を回し交換を呼ぶ人の姿が 浮かんでくるようです。 |
栄光に輝く戦艦 三笠 の礼装用ペンネント |
状態は非常にキレイです。 |
額装していたのか裏は糊り付けの痕が残っています |
海軍 二號救急嚢 |
御召艦上の昭和天皇(大元帥)陛下の御写真 |
写真の劣化が進み残念ですが、拡大すると昭和天皇と思われます。 まだ昭和初期の若かりし頃のようです。軍艦の主砲の大きさから戦 艦クラスであるのは間違いないと思われます。 |
海軍大将の書二点(掛軸と色紙) |
東郷平八郎元帥の直筆の掛け軸です。 |
軸は本象牙です。名和又八郎海軍大将の鑑定印が押してあります。 |
下も塩沢大将の色紙への為書の書です。開戦時の軍事参議官 で山本五十六連合艦隊司令長官の国葬の司祭長を勤められた 方でも有名であります。 |
戦前資料:西園寺家と原 敬 の肉筆署名封筒 巻子装 |
西園寺家と原敬の肉筆署名封筒が象牙軸先の巻子に表装されて桐箱に 収められています。書状はありません。巻子の寸法は29cm x 95cm。 |
原敬の手紙の方は、内相(内務大臣)時代 で大正政変で西園寺公の後を受けて第三 代立憲政友会総裁に就任する約2ヶ月前の ものです。相手は弁護士で衆院議員でもあ った岩崎勲です。この方は大正15年に政友 会幹事長の時に収賄で起訴され昭和2年1 月に判決を前に病死されています。 |
西園寺家の封筒は神奈川湯河原の消印 が昭和5年1月24日、京都の聖護院の 消印が翌日の1月25日です。この年の11 月24日に静岡の別荘である坐漁荘で最 後の元老と言われた西園寺公望公が92 歳で死去されています。 |
◆ 西園寺 公望 ◆ 従一位、大勲位、菊花章頸飾、公爵。 嘉永2年10月23日〜昭和15年11月24日 日本の公家華族、政治家。立憲政友会第2代総裁。 第12・14代内閣総理大臣。 本姓は藤原。正式には藤原公望(ふじわら の きんもち)。 大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、 「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した。 そして森鴎外ら第一級の文人たちを招じ雨声会と称した サロンを主催した。 西園寺はフランスで身に着けたリベラルな思想と名門公家 の責務として皇室の藩屏たらねばならない意識というある 意味で相反するものを共に有していた。そしてこの相反す る二つを整理し融合したことから独特な世界観、政治観を 持つ政治家へと成長した。このことは時に彼を優柔不断に 見せたが、後述する天皇への諫言は極めて適切であった といえ、西園寺の政治家としての真骨頂を感じられる。 西園寺は絶対天皇制の持つやがては皇室の存続をも危う くさせる危険性を早くから見抜いていた。西園寺のような 感性をもった政治家を他に見出すことは難しい。 生涯権力や金銭に対する執着は乏しく、この淡白な性質 は上級公卿に生まれた育ちの良さからくるものであったと いえよう。この点で彼は終生の政敵山縣有朋とは対照的 であった。 昭和12年の第一次近衛内閣成立以降は次第に政治の 表舞台から退き、反対し続けた日独伊三国軍事同盟成立 の2ヶ月後の昭和15年(1940年)11月24日に死去した。 享年92歳。贈従一位。 最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのや」 であったと伝えられる。期待していた近衛文麿に離反され 、首相に推薦したことを最後まで後悔していたという。 昭和16年(1941年)には近衛内閣のブレーンを務める孫の 西園寺公一が、ゾルゲ事件に関与したとして逮捕されている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
原敬の封筒は大正3年4月25日、盛岡の消印でと 東京中央で翌日の4月26日です。下にも4月27日 東京日本橋の印があります。 |
◆ 原 敬 ◆ 通称名”はら けい” 岩手県盛岡市出身。安政3年2月9日 〜大正10年11月4日。正二位大勲位。 幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣。 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や 井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用された が、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し 、大正7年に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民 宰相」と言われている。大正10年11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて 、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。享年65歳。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
戦前資料 北米に移民した日本人のパスポート |
戦前資料 長春小学校(女学校)
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海軍施設本部受註工場などの木製指定看板 |
海軍省の内局にあった建築部は昭和16年8月に 廃止され、外局である海軍施設本部に改編されま した。受注工場または建設会社の木製看板です。 表裏とも同じです。(サイズ 90.8×22.8× 厚さ3.5cm ) |
予科練の戦友会で配布された
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解体された霞ヶ浦航空隊の隊舎の瓦に、 日の丸と詩を書いて配布したものです。 大きさ:24cm×41cm×13cm |
退色が進んでいますが右側だけ の海軍機関中将の肩章です。 |
京都航空機乗員養成所監視員の腕章です。 グライダーの滑空免許を持った人が各地で 少年飛行兵や予科練などを目指す少年達を 対象としてグライダーの訓練を行い、将来の パイロット養成をした会の指導員の腕章です。 |
中島の九〇式艦上戦闘機の)の木製精密模型です。 プラモデルなどの購入キットによる組み立て品では ありません。翼や機体はもちろんのこと、車輪や 着艦フックにいたるまですべて手作りとなっておりま す。それだけに大きさが 80mmx130mm の割りに 迫力を感じます。 |
昭和初期の頃の古き良き海軍時代の 母艦主力戦闘機です。源田サーカスで 知られた源田実大佐の率いた三機編隊 の使用機としても有名でした! |
贈呈 長野地方海軍人事部の判が押された 昭和18年の海軍航空読本です。これを見て 憧れて予科練を目指した軍国少年も多かっ た事でしょう。 |
各種海軍の機械や部品の銘板 |
なんとも可愛い自衛隊限定販売の 大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ ーズのキューピーです! |