旧軍関連・戦前資料収載品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
空母”隼鷹”、戦艦”長門”の艦長を歴任された
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渋谷閣下の普段、使用された軍帽です。 |
軍帽は余り保存状態が良かったとは 謂えず型崩れに内部の虫食いなどが 散見されます。 |
◆ 渋谷 清見 海軍少将 (略歴) ◆ 明治28年 9月27日生、高知県出身、海兵45期 (33/89) 大正6年11月24日 海兵卒・海軍少尉候補生 (磐手乗組→利根乗組) 大正7年08月01日 任海軍少尉 大正7年12月01日 海軍砲術校普通科学生 大正8年05月23日 海軍水雷学校普通科学生 大正8年12月01日 不知火乗組 大正9年03月25日 霞乗組 大正9年12月01日 任海軍中尉 ↓ 以降、主に駆逐艦や特殊 な特務艦や砲艦、給油艦 などの勤務、日陰街道を 歩かれております。 昭和4年11月30日 任海軍少佐 ↓ 各巡洋艦の航海長を歴任 (由良、青葉、磐手)し横 鎮附、航海学校教官 昭和10年11月15日 任海軍中佐 ↓ 戦艦・巡洋艦の航海長や 副長などを歴任(陸奥、 愛宕)し給油艦”佐多”艦長 になる。 昭和15年11月15日 任海軍大佐 昭和16年09月20日 軽巡洋艦”球磨”艦長 昭和17年11月14日 横鎮附 昭和18年01月15日 海軍水路部第二部第三課長 昭和19年01月10日 海軍航海校教頭/研究部長 昭和19年02月21日 空母”隼鷹”艦長としてマリアナ 沖海戦を戦う。隼鷹は昭和19 年末に米潜水艦の攻撃を受け て大破。 昭和19年12月20日 戦艦”長門”艦長 昭和20年04月28日 任海軍少将 昭和20年05月20日 第3特攻戦隊 司令官 (佐世鎮管下):長崎県大村 昭和20年11月05日 予備役 昭和60年02月20日 歿 (享年89歳) |
渋谷閣下の剣帯です。かなり使い込まれており 油気がなくなり革に皺が寄り亀裂が入っており 保存状態が悪かった感が否めません。しかしまだ 革に硬化が見られずしなやかさがあるので保革 油などの手入れで多少、蘇ると思います。 |
バックルカバーの皮部分の裏に”渋谷”の ネームが薄れかけて見えます。 |
非常に状態の良い三種戦闘帽です。内部に渋谷閣下の 名前があります。昭和19年第二衣療廠です。 |
長門の艦長を降りられて敗戦までの3ヶ月は長崎県 大村にあった第三特攻戦隊の司令官を勤められて おりました。この略帽を被られておったものと想像し ます。この第三特攻戦隊は、その戦力の全てが特攻 艇”震洋”による部隊です。即ち水上特攻部隊の司令 官として大村に赴任されております。本土決戦に向け て悲壮な覚悟をなされていたものと想われます。 |
提督の佩用された略綬です。 |
提督が使用された少将の襟章です。 一つだけ対で無く片方しかありません。 |
提督が所持されていた礼装用の海軍兵学校の帽章です。 他に所持している礼装用の帽章よりシャープで金糸の編み 込みが細かい感じがします。 |
一緒に所持されて仕舞われていたホイッスル です。英国製の随分と立派なものです。 |
渋谷提督が艦長として乗組みマリアナ沖海戦で死闘を 演じた空母”隼鷹”の敗戦時の画像です。 |
捷一号作戦の後に艦長となった渋谷閣下ですが既に 長門には戦う戦場は用意されず、いたずらに米軍の空 襲や攻撃の標的になるばかりでした。 |
一式陸攻11型(G4M1)の前部7.7mm機銃用窓の固定枠 |
ステンレス製です。ずつしりと重量感がありますが 状態も良く65年以上の歳月が経過した事を感じさ せない美品です。 |
このパーツの機体は、戦後にガダルカナル島で発見され 所属、搭乗員も判明しています。戦友会などの会報では 広く紹介されておりますが、ご遺族の御意向もあり詳細は 伏せさせていただいてます。 |
まさに機種のこの穴の部分に 使われたパーツです!! |
葉巻の愛称で親しまれた美しい機体の一式陸攻です。敗戦までに 2千8百機以上が生産されました。双発の攻撃機・爆撃機としては 海軍で一番生産され活躍した機体と言えます。緒戦の大勝利の栄 光と敗戦期の桜花を抱いた哀しい特攻も敗戦使節を運んだ緑十字 機もまさにこの一式陸攻でした。この大東亜戦争での大日本帝國 の栄枯盛衰を名機・零戦と共に象徴する機体と言って過言で無いと 思います。 |
海軍兵学校、最期の四号生徒(最後の入学生)
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海軍兵学校は昭和20年3月に最後の少尉候補生 として少尉任官先のある第74期生を卒業させまし た。そして同年4月最後の新入生となる77期生を 入学させました。同年10月に廃校を前にして最後 の一号生徒である第75期生を卒業扱いとしました 。卒業しても任官するべき海軍が無い卒業生です 。そして3号(76期)、4号生徒には、其々に2学年 、1学年生徒教程を修業した修業証書を手渡し、 海兵予科生徒とされる78期生(4048名)にも予科 生徒の何等かの修業証をだしたのかもしれません が、定かでありません。しかし海兵の前身である 海軍操練所が海軍兵学寮と改称し、明治9年に 東京・築地に移転し海軍兵学校が開校されて以来 69年に及ぶ伝統の歴史に終止符が打たれました。 この修行証書は77期生の4号生徒でオ705分隊 坂井司郎(福井県出身)のいただいた証書です。 坂井生徒は、満州帝國新京第二中学を卒業し敗戦 4ヶ月前の20年4月10日に同期3771名と共に最後 の4号生徒として入学した第77期生の一人でした。 証書の右隅に鉛筆書きで3/705とあります。つま り生徒番号705分の3と言う事です。 |
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廃校前に卒業扱いとなった最期の
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海兵75期生の巻脚絆です。菱型片布に期と名前が書か れています。昭和20年10月の廃校に併せて卒業扱いと なりました最上級生徒(一号生徒)です。 |
熱田中学出身の福井博生徒のものです。同期3378名と 共に昭和20年10月1日に海兵を卒業しました。任官するべ き海軍が無く…その後、どう生きられたのでしょうか。 |
珍しい海兵のチェリーマーク 全3点
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海軍兵学校在籍中、学業・技術の特別秀でた生徒に授与され 兵学校襟章の奥に付けた海軍兵学校優等章(通称:チェリー マーク)です。ける |
時々、チェリーマークを白黒写真で付けた海兵生徒を 見る事がありますが、実物を手にしたのは初めてです。 |
桐箱の表に「賞章」と書かれています。 |
下は上と違う別に入手したチェリーマーク二対です。 |
後日、このチェリーマークの所持者だった 軍人が判明致しました。このチェリーを収 めた賞章のオリジナルの収納箱も手に入 れバラバラにされた品を回収しました。 |
平成21年1月31日に逝去された
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上は海兵入学前の和田氏です。 兵庫三田中の出身でした。 |
海兵生徒の和田氏…チェリーマーク二個に 胸にメダル4個を付けています。彼は66期の 恩賜短剣拝受者6名の1人で220名の卒業生 のTOP6に入っていた秀才でした。ハンモック ナンバーは 4/220 だったと思います。 |
66期は戦争備え240名まで100名以上も入学枠を増員させた 期でした。4年の年限も半年早く繰り上げて卒業しはじめた期 でした。67期では8ヶ月繰上げて69期では3年に短縮されまし た。 |
海軍兵学校の卒業証書です。運命の日米戦の開戦の3年前です。 そして少尉候補生として練習艦隊で海外遠征をします。良い時代 の海軍士官だと謂えます。 |
上下の位記・任記は入手しませんでしたが 同時に出た和田氏のものです。 |
66期も航空隊で搭乗員をされていた方は敗戦時に 少佐に進級されている方もおりました。和田氏は通 常の水上艦艇の勤務でしたので大尉まではアルバ ムでも確認をしておりますが、恐らく少佐に昇進せ ず敗戦を迎えたと考えます。売りに出されていた位 記・任記にも大尉までしかありませんでした。 |
海軍大尉で海軍は無くなり…職業軍人としての道は断たれました。 その後、和田氏がどのような人生を送られたのかは知りません。公 職追放後に創設された自衛隊に身を寄せた人、大学に入りなおし 全く別の人生を生きる人。様々ですが…どのような人生を送られた のでしょうか。確かこの期では海幕長を輩出していたようです。和田 氏は高齢になられてからは海兵66期会や他の海兵の期別会などで 活動を行い、政局談義なども行い執筆活動もされていたのでマスコ ミ関係や学術関係の方に進まれた方なのかもと思いました。 |
以下、和田大尉の個人アルバムより紹介 |
海兵66期生の集合写真 |
紀元二千六百年特別観艦式(昭和15年10月11日)於:横浜 |
和田氏の練習艦隊での遠征後は昭和14年 2月26日〜5月12日が重巡”熊野”乗組み、 同年6月5日少尉任官。術科講習を筑波空 でされております。次に就役したばかりの最 新鋭重巡”利根”乗組みで航海士を勤めて おられます。 |
重巡”熊野”の准士官以上の記念写真(S14.5.1) |
上は昭和14年8月30日撮影の利根の 初代一次室士官の記念写真です。下 は彼が図示し書き残した文章です。や はり真更の新鋭艦に乗る感激が伝わっ てきます。 |
流石に絵の描写も上手いものです。 |
ピカピカの少尉殿です。 |
紀元二千六百年(S15)は連合艦隊旗艦の 戦艦”長門”の乗組みとなります。 |
S15.9.18の戦艦”長門”40cm主砲塔の脇 で写した記念写真です。上に第二砲塔が 見えています。流石に40cm主砲はでかい ですね! |
中将時代の山本五十六GF長官です。 当時は第一艦隊司令長官を兼務して いた時です。 |
昭和15年当時の及川古四郎海軍大将です。 余り人気のある軍人ではありませんが、当時 の和田氏は偉く傾倒していたようです。まあ 現在と当時では評価が全然違うのでしょうが。 |
これが上の写真のキャプチャーで 和田氏が書かれていた当時のもの です。崇高とまで持ち上げています。 |
昭和16年正月明け、海軍中尉に昇進した和田氏です。 佐世保鎮守府附きとなります。 |
上下とも佐世鎮での記念写真です。 |
S16の春から夏にかけて結核か肺炎で入院を していた時の写真です。 |
S16.11.3(明治節)戦艦”金剛” の乗組みになっています。 於 有明湾 |
戦艦”金剛”では、副砲の担当士官として勤務していたようです。 |
戦艦”金剛”乗組みの時と思われます。 |
大尉になられた和田氏です。 |
大東亜戦争の開戦でインド洋作戦に参加した時の写真です。 |
対駆逐艦横曳曳航給油実施状況(第一次印度洋機動作戦)。これと 似た写真を奇しくも現在、自衛隊が対テロ対策支援で平成13年(2001 年)より現在もインド洋にて米軍等の艦船に洋上補給(給油)を行って おります。…67年前に同じインド洋で帝國海軍の空母機動艦隊が全く 同じ作業を行いながら戦闘を重ねていたわけです。 |
右上はマストに戦闘旗が翻る写真です(S17.3.7 クリスマス島砲撃)。 左上は第一次印度洋機動作戦のチラチャップ港攻撃に進撃する写真です。 |
右上は第二次印度洋作戦でジャワ南西海面にて戦艦油送船逆縦曳曳航給油 の実施している珍しい写真です。戦艦”金剛”の船首側からタンカーを見ている 感じです。まだ給油のガイドになるロープを渡している段階のようです。左上の 画像は印度洋上における空母”蒼龍”です。 |
S17.4.9 トリンコマリー攻撃の当日、英国艦隊を追撃している日本艦隊です。 |
S17.4.5 コロンボ空襲当日、機動部隊に接近したPBYカタリナ 飛行艇を直衛戦闘機が撃墜し海上でまだ黒煙を上げて炎上し ている写真です。 |
戦艦”金剛”副砲台部員全150名の部下全員(S17.1.3 於 仏印カムラン湾) |
写真の上部が検閲で修正されているのが判ります。 流石に戦時下になると違いがでます。 |
中央に座っているのが全て和田分隊長です。 |
下は和田大尉が九六式陸攻に乗り公務で何処かに出掛ける写真です。 |
和田元少佐が戦後に寄稿された文章とプロフィールがありましたので紹介します。 |
和田 孝雄 元海軍少佐が 拝受された恩賜の短剣 |
大先輩の海軍研究家であるTF様から譲り受けた和田少佐の 恩賜の海軍士官短剣です。海軍でも陸軍でも恩賜軍刀・短 剣組は非常に名誉な事であり優秀な成績を残した者しか、そ の栄誉は与えられず…これ等を拝受した者は将来の栄達が 半ば約束されたも同然でありました。 |
上質な桐箱の外装に六つ折りの高級和紙の目録と典型的な恩賜短剣です。 |
銀ハバキの物と金ハバキの物とがあります。 この年度は金ハバキを使用されたようです。 |
戦前の至宝と謂われた名刀工の堀井俊秀の謹作ですから納得の 力作です。俊秀の作は数あれど…俊秀が納得の謹作は数が限ら れるものと思います。俊秀は名誉ある恩賜軍刀や短剣はより丁寧 に入魂の作なのでしょう…俊秀謹作の銘が刻まれています。 |
珍しい海軍の短現の修了徽章
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短現とは、所謂、二年短期現役士官制度のことです。 大正14年に軍医科・薬剤科士官の一部を任官後二年 間だけ現役で勤務させ、二年服役後は予備役に編入 した制度です。これ等は戦時に急に確保が出来ない 軍医士官を最低限の必要人数を確保する目的で開始 されました。後に昭和13年からは主計科にも拡大され 一般には人数の多い主計科の短現が有名です。こち らは海軍経理学校に本チャンの主計士官がおります ので海軍内部でも相当に反対意見が強かった中、支那 事変の拡大で陸軍が根こそぎ人材を徴兵する事から優 秀な大卒の人材を確保する為、強引に推し進められて きた経緯があります。二年現役中でも希望者はそのま ま現役を継続しました。昭和16年には歯科医科士官が 翌17年には法務科士官に制度が拡大しました。また戦 争が拡大し大東亜戦争に突入すると二年の現役が明け ても即再召集されました。昭和16年末の大東亜戦争以 降はこの修了徽章を手にした士官は殆どいないと思わ れます。制度が開始されて大東亜戦争が始めるまでの 間、昭和2年〜昭和16年までの14年間で数少ない短現 を実施された方がいただけた物と言えます。 |
この制度を使って海軍に入り戦後も有名になれた 方の中で特に中曽根 康弘 元総理や来栖 弘臣 元統幕議長などが良く知られています。 |
一般に短現というと陸軍の師範学校出の先生を 5ヶ月間だけ現役兵として入営させ除隊と共に 下士官(伍長)に任官させる制度ですが、5ヶ月 の兵役で終ると教員に復職でき同時に第一国 民兵役に服するので人気のある制度でした。ま た陸軍としては児童を教える小学校の先生に 軍隊経験を体験させる事で国防観念を植え付 かせ普及を目的とした部分があります。 |
學徒出陣で海軍飛行予備学生(特攻要員)
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文武両道に優れた少年像が浮かび上がります。 |
福島県の喜多方尋常高等小学校を卒業後、県立会津中学校に進んでいます。 |
柔道二段の猛者で800m走も一等賞です。 |
早稲田高等学院文科に進んでいます。旧制高等学校 卒業ですので、大学予科修了と同じ学歴となります。 |
下は早稲田での成績表です。さすがに甲乙丙の表記です。 殆どが甲で僅かに乙があり優秀な学生さんといえます。 |
入手しませんでしたが第十三聯合航空隊司令部の発行したガリ版刷の 粗末な要務予備学生教育参考資料です。宮澤氏の印が捺されています。 |
宮澤氏が予備飛行学生として入隊した第十三聯合航空隊は昭和20年 3月には練習航空隊から特攻を中心に行う実施部隊に改変されていま す。この部隊は白菊を特攻機として編成され、高知航空隊(菊水白菊 隊)、鈴鹿航空隊(若菊隊)、大井航空隊(八洲隊)、徳島航空隊(徳島 白菊隊)の四隊を指します。これが所謂、白菊特攻隊でありました。昭 和20年5月24日の菊水七号作戦をかわきりに高地空(菊水白菊隊)が 二日に別れて35機が出撃し18名が戦死。徳島空(徳島第一白菊隊)は 14機が出撃し22名の戦死者を出しました。その後、菊水八号・九号・十 号作戦まで130機余りの特攻機が出撃し沖縄の敵海域に到達し特攻死 (戦死)と認定されし者…110名(56機)に及んでおります。 |
昭和21年の郷里の福島県の教員適格の判定書です。 戦後、無事に復員し教師として戦後の人生を歩まれた ようです。(この方の軍歴は職業軍人に当たらないの で公職追放に引っ掛からなかったようです。) |
後に教員を辞めて会社勤めをされたようです。 |
嗚呼、學徒…。 |
先の大東亜戦争では日本の若者はほぼ全員が何らかの形で 戦争に駆り出されました。幼いうちから軍人として奉公を決めて 陸軍幼年学校から陸軍予科士官学校、陸軍士官学校へ進んだ 若者達、また海軍三学校と呼ばれた海軍兵学校・海軍機関学 校・海軍経理学校などに進んだ若者もおりました。また海軍の 予科練や海軍特別年少兵、陸軍の少年飛行兵、少年戦車兵な どで成人に達する前に戦場を駆け抜けた多くの若者もおりまし た。しかし大東亜戦争は、我国がこれまで直面した如何なる 戦争より厳しく激しい消耗をかす国難でありました。末期には學 徒出陣として多くの學生が學生服を軍服に、ペンを銃に持ち替 えて陸で海で空で壮烈な戦いを繰り広げました。…この國難の 時代、日本は民族の生き残りを賭けて戦いましたが、今では遊 ぶ事と平和や安全は水のように当たり前で無料に近いと考える 国民が大勢を占める中、今の中・高校生〜大学生に相当する 若者がお國の為に、民族同胞の為に若い命を桜花のように儚く 散らしました。學徒に限らずこれ等の多数の若者達の尊い犠牲 の上に現在の平和と繁栄がある事を我々、戦後を生き平和と繁 栄を享受する日本国民は努々等しく忘れてはならないものと肝 に命ぜねばならないと思います。 |
何処の大学か判りませんが、時期としては…もうすぐ学徒出陣が 目の前に迫っている時期と思われます。下の画像では、金釦献納 供出の運動が学内で行われています。また別の一枚では、休暇 返上!!とあり”今や學生蹶起の秋、我等奉皇國救國に挺身せ ん 勤勞鍛錬同士募集” と書かれています。 |
上の写真は多分、元々の大学の掲示板の ある門から入ったメインの通路に詰め所の ような木造のバス停の雨宿りのような物が 作られています、通過する学生が中に詰め て座っている学生達に敬礼をして通り過ぎ ています。中で中央の人物が答礼をしてい るのが判ります。表札があるので拡大して みました。なんとか報国隊とまで読めます。 |
敗戦国の悲哀を見る
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粗末なガリ版すりの復員列車証明書です。 徳島から古河の二等列車です。海軍少尉 塚田七郎とあり徳島海軍航空隊の所属が 記載され海軍省の印が押されています。 徳島海軍航空隊は海軍飛行予備学生の 訓練基地として知られています。昭和20年 3月からは沖縄特攻への基地と化していま した。白菊や九六式艦戦を使用した3ヶ月 間の特攻で同年6月末には稼働機を失い 航空基地として活動を休止せざるおう得な い状況でした。この塚田少尉は、運良く生 き延びた学徒出陣の少尉殿だったと思わ れます。 |
零式艦上戦闘機三二型
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翼端が特徴的な零戦三二型です。 |
四角の2枚が製造年月日まで同じです。丸い電動燃料ポンプも年月が同じです。 |
海軍 八九式写真銃改ニ |
海軍のルイス式旋回機銃型の写真銃です。雷撃機などの後部機銃の 訓練に使われました。ネジを巻いて引き金を引くと、約180秒撮影が 出来ました。写真を現像して、標的に命中したかどうか判定が出来ます。 |
写真銃で欠品が多い銃身上の風防も健全です。 |
また良く抜き取られて欠品になっている時計ですが入手元の前のオーナーが 欠品だった実物時計を某有名軍装店から購入し取り付けしたようです。 |
銘板には六桜社(現在のコニカ)、シリアルNo.は第7807号となっています。 |
リアサイト手前の銘板には、主鏡玉 24698 副鏡玉 11968の刻印があります(以下)。 |
シャッターレリーズは、長さが異なった3本が入っています。 |
リアサイト、フロントサイトなどがパーツボックスに入っています。 他に感光していると思われる中身入りフィルムも2本あります。 |
サイズは、銃全長75センチ、箱28.5×84センチ×高さ20センチです。 |
海軍 大型物量落下傘嚢 |
銃器、弾薬、食料などを空中から大量に 補給する際に使用した物量落下傘です。 |
直径が58cmと大型です。 |
検定布には、昭和19年2月13日製造 藤倉航空工業株式会社 製造に型式K落下傘、シリアルNo.1800677に海軍の錨の 刻印、 豊川海軍工廠の検定刻印があります。 |
海兵七十三期 金田 秀 海軍中尉の所持品 |
金田中尉は、愛知一中から海兵七十三期へ進学されました。 昭和19年3月22日に同期生902名と卒業されています。卒後 は、航空畑に行かれ福山海軍航空隊に所属されたようです。 上記の写真から判るように水上機(二式水戦)の搭乗員だっ たようです。元々、海軍航空隊 福山基地は、昭和17年に 水上機搭乗員教育所として滑走台を三箇所持つ水上機用基 地でありました。昭和20年3月1日に福山海軍航空隊となり、 敗戦直前の8月10日に福山空 神風特別攻撃隊”菊水偵隊” が編成されております。またこの基地は、計画は中止となりま したがイ-400のパナマ運河攻撃やウルシー泊地攻撃で搭載 機の晴嵐を訓練した事でも有名です。また零式水上偵察機な ど速度の遅い下駄履きでの特攻も福山航空隊から出撃してお ります。尚、福山は、昭和20年8月8日にB29の91機による 大空襲を受けており福山海軍航空隊も壊滅的被害を出してい ます。 |
同期生等の名刺です。 |
後日、入手した金田中尉の写真です。 |
この見張り台を後ろにした写真は珍しいです。 |
戸塚 道太郎 海軍中将が
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戸塚道太郎海軍中将が所持していたN作戦天候表です。 |
資料は年号が不明ですがN作戦と言う作戦名は、大戦初期 に付けられた作戦名に出てきます。日にちは、11月7日から 12月3日まで、最低雲の高さ・風速などが書かれています。 三亜は、海南島最南端の港です。1941年のベトナム進駐の 支援爆撃作戦の可能性が高いと思われます。 |
戸塚道太郎海軍中将:昭和6年に多摩艦長、10年に那智 艦長、11年に館山航空司令、13年に横須賀航空司令、 18年に第十二航艦司令長官、19年に航空本部長、昭和 11年の館山空司令時代に九六式陸攻の長距離爆撃隊を 育成。長距離爆撃機の集中爆撃を確立されました。南京 及び重慶爆撃で有名な方です。 |
上は、中将時代の戸塚閣下です。 下は、第一航空隊司令時代(大佐 時代)から第一聯合航空隊司令(少 将時代)で世界初となる長距離渡洋 爆撃隊を見送っている写真です! |
大空を往く九六式陸攻の大編隊!! |
下は、陸攻内部の様子です。 |
下が大佐時代の戸塚閣下です。 |
下は、多摩艦長時代に出された招待状 です。たまたま貰い物であったので掲載 しました。(御提供 monamona115yo様) |
伊藤 愼一 海軍整備兵曹長の
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全て同一人物の品をばら売りにされた物を幾つか入手した ものです。帽子缶に名前が残っています。軍帽は識別線が 無いものですので昭和17年4月の廃止以来、敗戦まで使わ れていた物と想像します。敗戦まで生き残られた方だと少尉 に昇進していたかもしれません。 |
非常に状態の良い二種戦闘帽です。余り使用しなかったようで 汚れも型崩れもありません。 |
大正時代から昭和にかけて水兵・下士官
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陸軍では中佐や少佐などまで叩き上げで昇進 した将校が結構、おられましたが…貴族趣味が 強く排他的で差別的な部分の強い海軍では、 特務大尉までがほぼ最高位であると言って過言 で無いでしょう。この新庄少佐のように兵学校を でないで特務の肩書きが消える少佐まで上った 人は珍しいと言えます。多分、最高位だと思われ ます。余程、優秀だった方だと思います。 |
拝領の扇1つ(箱付き)です。扇は明治天皇御製の 歌が書かれています。扇は破れもなくきれいです。 |
大正時代の下士官時代の物です。位記や勲記 などありませんが、その後…兵曹長になり特務 少尉〜特務大尉に上りつめ海軍少佐まで進級 したようです。兵学校を出ず叩き上げでは、 最高位なのではないでしょうか。 |
海軍兵・下士官用の衣嚢(外嚢のみ) |
ボロですが完全品の海軍兵・下士官用の 衣嚢の外嚢です。佐世保軍需、昭和18年 10月に入籍番号佐志飛10162、木村実と 記載があります。 |
衣嚢の持ち主が使っていた砲手のベルトです。 |
金具に特徴ある海軍の刻印こそありませんが 砲手のベルトと同じです。艦攻か偵察機の 機銃手だったのでしょう。 |
大湊警備府の903空は艦攻と偵察機の航空隊です。艦攻は主に 北海道・美幌か樺太の大泊基地に進出していたので大湊基地と ありますので偵察機の搭乗員だったのかと想像されます。 |
海軍 テ1号無線レシーバー(沖電気製) |
海軍のテ一号無線レシーバーです。 |
昭和17年6月、沖電気製の刻印に桜の刻印あります。 |
コード、ソケットも完全です。 |
海軍 軍楽兵肩章(下士官用) |
非常に珍しい軍楽隊用の下士官の肩章です。 |
軍服には紐で取り付けるようになっています。 残念な事に片方のベロが破損しています。 組紐は絹製です。 |
海軍軍楽隊の緋色の礼装用の軍服につける肩章です。 |
釦から下士官用である事が判ります。 |
海兵団の酒保の食券(志る古) |
当時米兵がお土産に持ち帰った品で里帰り品です。「海兵団食券」とその 下に「志る古」とメニューが読めます。裏には持ち帰った米兵の名前が書き 込んであります。 |
中島の九〇式艦上戦闘機の)の木製精密模型です。 プラモデルなどの購入キットによる組み立て品では ありません。翼や機体はもちろんのこと、車輪や 着艦フックにいたるまですべて手作りとなっておりま す。それだけに大きさが 80mmx130mm の割りに 迫力を感じます。 |
昭和初期の頃の古き良き海軍時代の 母艦主力戦闘機です。源田サーカスで 知られた源田実大佐の率いた三機編隊 の使用機としても有名でした! |
贈呈 長野地方海軍人事部の判が押された 昭和18年の海軍航空読本です。これを見て 憧れて予科練を目指した軍国少年も多かっ た事でしょう。 |
各種海軍の機械や部品の銘板 |
なんとも可愛い自衛隊限定販売の 大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ ーズのキューピーです! |