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旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part Us











Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








海軍飛行予備學生出身(予學13期?)
           村瀬 金蔵 海軍中尉の
            思い入れ深き青春のアルバム

〜敗戦末期の青春群像〜




思い入れの深さがアルバムの表紙に溢れています。
アルバムの表紙に敗戦時の御自身の階級であった
海軍中尉の襟階級章と袖章をあしらっています。


表紙を開くと大村海軍航空隊の所在地のある地図と
居並びエンジンを始動した零戦の写真が貼られてい
ます。自らの乗機が零戦だったのでしょう。
裏には昭和19年8月に少尉任官に際して叙任された
正八位が貼られています。恐らく13期前期の飛行予
備学生と思われます。


増槽を吊りペラを廻し出撃準備を終えた列線の零戦群
まさにこれから離陸体制に入る所でしょうか。


寝る子は育つと謂いますが、まだあどけなさが残る搭乗員です。


写る人の殆どが少尉か中尉です。飛行予備学生の
13期、14期が中心と思われます。










上の一種と二種略防(白線・黒線二本入り)と違い白線を入れて
いない士官用艦内帽を被った左の飛行服姿の士官。写真からも
古い時期の程度の良い略帽であると見て取れます。


昭和20年3月以前の写真と思われます。所持者の村瀬中尉の
少尉任官が19年8月ですから19年秋以降〜20年3月までの約
半年間の間に撮影されたものと推察します。飛行服が冬用で
ありませんので9月〜10月といった時期と考えます。






カポックにも飛行服の袖にも味方識別の日の丸が縫い付けて
ありますので、撮影時期は昭和20年3月から敗戦までの約5ヶ
月間余りと思います。カポックに十四年式拳銃直接さしている
のが判ります。ランヤードも見て取れますがトリガーの部分が
縛帯に隠れて前期型か後期型かまでは判別できません。


まさに青春グラフティーそのものです。


予學(海軍飛行予備學生)は昭和18年9月末入隊の13期
(約5200名)をピークに14期が約3300名、15期が約2800
名が入隊、他に海軍飛行予備生徒1期約2200名が巣立っ
ていますが最も多くの戦死者を出したのは13期生で4人に
1人以上が戦死する計算の約1600名が戦死。内特攻によ
るものが約450名です。14期では練成途中だった為かぐっ
と減り約400名が戦死(特攻による戦死は約160名)で同期
8人に1人が戦死した計算になります。13期は自ら志願した
學徒(大學・高専)です。14期は所謂、學徒出陣によって現
役入隊した全国の約3300名が、また約2200名が予備生徒
一期生で入隊しています。


神風特別攻撃隊で特攻戦死者となった海軍士官には、ベテラン搭乗員で兵から叩き
上げの特務士官や海軍兵学校出の所謂、本ちゃんの士官、予備學生(予備生徒)が
いました。しかし士官の特攻死の85%を予備學生(予備生徒)が占める結果となって
います。つまり海軍中央は、ベテラン搭乗員たる特務士官上がりの士官や将来の海
軍を担う提督候補の海兵出の将校を出し惜しみ…一般大學・高専からの志願者を主
に一億総特攻の魁として使ったわけです。


どうもこの三種姿の少尉は、海兵73期の金田秀中尉によく似て
います。金田中尉は敗戦時に福山海軍航空隊に所属していまし
たが海兵卒業が19年3月22日、少尉任官で一緒であってもおか
しくないと思います。






笑顔がまだあどけない青年というより少年に近い士官達!










季節は冬では無いと思われます。飛行帽で飛行服は夏季用の薄手を人によりセパレート
タイプとツナギタイプを着ています。殆どが中に一種軍衣を着てマフラーを巻いています。
上のほうに三種や防暑衣を着込んでセパレートの飛行服を着ている方がおられますので
撮影された季節は初夏〜秋と想像しています。






良い笑顔をされています。


この時代に生きた若者は、これ等學徒から飛行予備學生となり敗戦まで
に、この制度で海軍に入隊せるもの約1万5千名に及びました。そして
このうち約2500名(特攻によるもの約660名)が戦死を遂げております。
今の時代の若者に無い真っ直ぐな瞳が印象的です。


この方がアルバムの所持者だった村瀬元中尉
(写真は少尉の時)と思われます。


雪渓の上を飛ぶ赤とんぼの編隊です。寒そうですね!


こちらはアルバムの最後に貼られたカラー写真です。
戦後に名古屋で撮影されたもののようです。零戦52
型と三式戦”飛燕”を展示したようです。フジカラーと
73年5月の記載がありますので昭和48年5月に撮影
されたものと判ります。
定かではありませんが昭和38年にグアム島の密林内で発見され米軍
の協力で航空自衛隊に寄贈され復元された航空自衛隊浜松南基地に
ある零戦五二甲型(製造番号4685)と思います。
この写真を撮った時、既に戦後28年が経過していました。村瀬元中尉は
何を想い何を感じてアルバムの最後にこの写真を収めたのでしょうか?
お孫さんが書いたのか零戦の写真の上に薄くブルーのクレヨンのような
もので塗った後が少し残っています。







第221海軍航空隊の零戦乗りが
      使用し搭乗員用の小型魔法瓶




単座機など搭乗員が片手で飲めるタイプの小型の魔法瓶です。
寒気の強い航空を飛ぶ搭乗員の体温を暖め喉を潤す為の物
ですが、片手で釦を押すと蓋が開いて口を付けて飲む事が
出来ます。魔法瓶のベルトに、”二二一空 佐藤”と記載されて
います。
本体は真鍮にニッケルメッキが施され、ガラスの魔法瓶を保護して
います。外側はキャンバス布に茶色の塗料が塗ってあります。
大きさは、高さ31センチ×13センチ×10センチの大きさです。



               ◆第221海軍航空隊(嵐)◆

第221海軍航空隊(嵐)は、昭和19年1月15日に鹿児島県の笠之原基地にて
開隊された零戦を主体とする艦戦の航空隊です。その所属は、第一航空艦隊
(62航戦)でした。司令は水上機出身の姫野一郎少佐(後に中佐)、飛行隊
長は塩水流俊男大尉で定数艦戦54機、補用18機でした。同年2月から訓練
が開始されましたが零戦の配備が遅れ同月末の可動機は零戦10機に過ぎま
せんでした。6月末、零戦21型14機、52型24機に増えました。この間、東号
作戦で一時的に霞ヶ浦へ8機、木更津へ16機が短期展開し米機動部隊の
来襲に備えたりしましたが、何事も無く練成は進み同年7月10日付で4個飛行
隊を擁する大部隊に改編され二航艦に編入され、司令が斉藤正久大佐に副
長が榊原喜与二中佐、飛行長は岡本晴年少佐が任命されました。編入された
部隊は戦闘308、312、313、407飛行隊で各飛行隊の定数は48機でした。そ
して308、312、313飛行隊は笠之原基地で412は鹿児島基地で練成を重ねま
した。8月中旬になり戦闘312飛行隊の零戦51機臺灣の新竹基地へ進出し、
防空・船団護衛任務に当たりました。10月12日米機動部隊の臺灣来襲で戦闘
312飛行隊は片木圭二大尉以下延べ43機の零戦で迎撃したがの撃墜と引き
換えに15機を失いました。また15日に戦闘804の月光に先導され陸攻4機を
直衛した零戦16機(うち戦闘312の零戦は11機)が敵機動部隊を襲撃したが
零戦2機を失い引き返しています。また翌日にも塩水流俊男大尉が指揮する
零戦14機が艦爆1と陸攻3機を直衛して出撃するも悪天候で引き返しています
。一方、九州にあった221空は捷号作戦の発動で臺灣沖航空作戦に参加する
為、新竹・台中の各航空基地に10月18日までに70機が進出。同じく23日には
221空の計60機の零戦がフィリッピン・ルソン島のアンヘンレス飛行場に進出。
翌24日にはルソン島東方に進出した米機動部隊に出撃しました。このフィリッ
ピンから死闘が繰り広げられ、ホロ島やメナドにも進出、モロタイ島奇襲作戦を
繰り広げ、12月の改編で新たに戦闘303、304、315、317飛行隊を加え6個
飛行隊編成に拡大され末期の比島航空決戦の主力制空部隊なりました。しか
し年末までに空戦、地上防空戦で次々と消耗を余儀なくされ壊滅に至ります。
昭和20年1月8日、221空司令八木勝利中佐と残存搭乗員は臺灣へ転進。地
上勤務者は佐伯忠雄少佐の指揮の下、陸戦隊になって敗戦まで大多数が山
中でゲリラ戦を行い多くが戦死しました。
昭和19年4月、練成中の221空・戦闘407飛行隊の搭乗員達








名和 又八郎 海軍大将の長男である
   名和 武 海軍技術中将の署名のある
     日の丸寄書(海軍技術将校の寄書多数)







  ◆ 名和 武 海軍技術中将(略歴) ◆

福井県出身、名和 又八郎 海軍大将の長男
(義兄に滝川 具和 海軍少将がおります。)

明治25年11月28日生

大正 6年 7月     東京帝大工学部卒

大正 6年 7月 24日 海軍造兵中技士任官
              (横鎮付)
大正 8年 7月 14日 海大選科学生

昭和15年11月15日
 海軍造兵少将
              (呉工廠電気部長)
昭和17年11月 1日 海軍技術少将
              (艦本第三部長)
昭和19年 5月 1日  海軍技術中将
              (技研電波研究部長)
昭和20年 2月15日 第二技術廠電波兵器部長
                    通信兵器部長

昭和20年11月20日   予備役

昭和47年 6月22日    歿 (享年79歳)


名和中将の最後の勤務となった第二技術廠
は空技廠(海軍航空技術廠)の支廠が電波
本部と統合され技術研究所の一部を取り込ん
で昭和20年2月に改編された組織です。技術
中将になられたのが19年5月です。技術研究
所の居られましたので、この多数の技術将校
や技師の書き込みを見るとその何れかで働く
工員や職員が徴兵され出征する時に書かれ
たものと推察されます。







航空無線機の通話用L一型転換機
        の面白い手作りのレプリカ




マニアが自作で作ったL1型転換機です。
ソケットも銅板、アルミの手製、転換機は
木製と思われます。「L1型転換機」「ひし
形にM」の刻印が入っています。プラスネ
ジが使用されています。
思わず童心に返り満面の笑みがこぼれそ
うな品ですね。ありそうでないアイテムな
ので自作したのでしょうね。




実際の使用例の画像です。







でかい〜伊号179潜水艦設計図(複写)




現物の伊号179潜水艦設計図から原寸大の
白焼きから起こした複写設計図です。
縦75センチ横220センチの巨大な設計図です。












昭和18年7月14日に国東半島沖伊予灘でイ179は訓練中に
事故で沈んでいます。画像は同じ海大7型の同系艦である
イ182の画像です。







海軍士官礼装用の短靴




ありそうであまり無い一品です。
経年劣化により深ゴム部に伸びが。また靴底の一部に補修痕が
見られますが全体としてまずまずの状態だと思います。









「坂の上の雲」登場人物で知られる
    佐藤 鉄太郎 海軍中将の
肉筆短冊










              ◆ 佐藤 鉄太郎 海軍中将 ◆

慶応2年7月13日〜昭和17年3月4日。海軍中将。山形県鶴岡市出身。
旧制鶴岡朝陽学校より海軍兵学校第14期入校。入校時成績順位51名
中第6位、卒業時成績順位45名中第5位。日清戦争に砲艦「赤城」航海
長として参加。その際、艦長が戦死し代わりに艦の指揮を執る。その後海軍
大学校教官などを経て、日露戦争には上村彦之丞率いる第2艦隊参謀と
して参加。仮装巡洋艦香港丸・日本丸の南洋派遣に同行[1]。日本海海
戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り、的確な意見具申を行ったことで勝
利に貢献した。日露戦争後に海軍大学校選科学生在籍のまま同時に
海軍大学校教官に任命されると言う一見すると矛盾の様に見える人事を
拝命するが、当時は海軍大学校が開設されて日も浅い事から学生のまま他
方自己の専門分野を他の学生に教授する事例も存在した様である。軍令
部次長や海軍大学校校長、舞鶴鎮守府司令長官などを務めたが、
加藤友三郎と軍縮を巡る見解の溝が埋まらず大正12年に予備役に編入さ
れる。昭和9年勅選の貴族院議員となる。陸軍の東條英教陸軍中将と並
ぶ戦史研究の大家と称されていた。
 
               出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







航空機搭載用の三號二次電器十八型四連
 (横須賀海軍工廠造兵部製造 昭和十年)
       所謂、二次電池(バッテリー)です。




航空機内に持ち込めるように作られた小さなサイズの
バッテリーのようです。大型機などの機内で無線機・
送受信機などの電源として使われた物と推測します。
サイズ:縦13cm横13.1cm高さ21.5cmです。


この小さなバッテリーでは大東亜戦争以降の大型機の無線などの
電装系を長く維持するのは無理だと思われます。無線搭載の初期
に使われたか、予備電源で搭載したもので自動車同様にエンジン
にダイナモをつけて発電し機内のバッテリーに充電し使った筈だと
考えます。







松本 荘吉 画伯の描いた水彩画『海軍兵学校』
                  (1985年)




松本荘吉画伯の1985年の作品”海軍兵学校”です。
戦後の絵ですが…この水彩画の描く原風景を見ていると何処からか
…若く凛々しい海兵生徒達が唱和する五省が聞こえてきそうな気が
します。

 一、至誠に悖る勿かりしか

 一、言行に恥づる勿かりしか

 一、気力に缺くる勿かりしか

 一、努力に憾み勿かりしか

 一、不精に亘る勿かりしか  

”スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ海軍(船乗り)”





画伯の水彩画が描いた角度とまさに同じ写真です。
バックにそびえる古鷹山と夏の積乱雲が印象的です。
左は大講堂、右は赤レンガの生徒館です。下の左が
教育参考館、右が西生徒館です。…現代の江田島を
訪れると時が止まったかのような…この原風景があ
ります。残念な事に今は帝國海軍の海軍兵学校では
なく海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校となっ
ております。

















一枚の写真から…




宮里 秀典 海軍中将の少将時代
の御写真です。昭和18年5月とあり
ます。第十一特別工作部長をされ
ていた時と思われます。

 鹿児島県出身、海兵30期

開戦前に戦艦”大和”初代艦長を
勤めた方(艤装員長)です。船舶
救難本部長、船舶警戒部長で敗
戦、そして予備役になっています。




























なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!