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旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part Ut











Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








第751航空隊(中攻隊) 飛行長で、開戦当初は
  シンガポール爆撃で活躍されニューギニアで戦死
    された軍神・柴田 弥五郎 海軍中佐(少佐)の品々




中攻隊(九六式陸攻→一式陸攻)である第751航空隊の飛行長をされ
ニューギニアで戦死された柴田弥五郎少佐(戦死後、中佐)の遺品の
数々です。
通礼軍衣袴です。どちらも保存状態が良く美品です。



    ◆ 柴田 弥五郎 海軍中佐(略歴) ◆

 海軍兵学校56期 

 福岡県糸島郡前原町出身

 修猷館中出身

館山航空隊付、霞ヶ浦航空隊友部派遣隊付、
空技廠飛行実験部部員、美幌航空隊飛行隊長、
751航空隊飛行長など歴任。

大東亜戦争開戦時、鹿屋空飛行隊長
昭和16年12月10日 シンガポール爆撃に参加。
以降、以下の攻撃にも参加したと思われます。

1月20日
・午後3時30分 海軍航空部隊シンガポール爆撃

1月23日
・午後4時15分 海軍航空部隊シンガポール爆撃

1月24日
・午後4時15分 海軍航空部隊シンガポール爆撃

1月31日
・午前11時20分 海軍航空部隊シンガポール、
            スマトラ攻撃

昭和18年1月14日 第751航空隊の飛行長として
カビエンにあってニューギニア方面で作戦中、戦死
(任海軍中佐)され軍神となられました。

旧型の佐官マントです。


第一ホックに痛みありますが、それ以外は
頭巾の欠品無くきれいです。


柴田少佐の一種軍衣です。使い込まれていますが虫食い
等も無く良好な状態です。少佐襟階級章も初付です。


仕方の無いことですが…元は初で萩市の遺族より一括りで出
た品のようですが一気に業者間で転売され、正衣及び通礼服
は福岡、旧型マントは広島、航空写真や紙物資料は四国、
その他は島根と瞬く間に西日本の広範な地域にに広がり販売
され、再び一つに集めるのは大変でした。またとても全てを回
収する事は出来なく…日華事変から大東亜戦争と戦って戦死
され軍神になられた方だけに残念でなりませんでした。


柴田少佐が使われていた七連略綬と勲章吊金具です。


夏肩章(大型)とマント用の襟章です。


新しい方の少佐肩章には裏に柴田
の金文字で記名が捺されています。


上の”こにし”とある肩章は海兵53期の先輩で小西 雄二 海軍中佐
13空飛行隊長で昭和15年6月10日に重慶爆撃で戦死され軍神とな
られた方より昇進祝いか形見分けでいただいたものと思われます。
(勿論、この小西中佐も中攻隊の爆撃機乗りです。)


非常に美しく状態の良い軍帽です。


外部は非常に奇麗ですが内部の方が汚れが目立ちます。
帽子箱には柴田中佐のイニシャルでY・Sと上海のホテル
のシールが貼られています。




爆撃目標であるシンガポールや敵地の爆撃目標
の航空写真に未使用も含むドイツのエネルマン
蛇腹式カメラ用のフィルムとケースが6枚、当時の
紙ケースに入っています。




同じ鹿屋空の九六式陸攻です。同隊で飛行隊長を勤めていた柴田少佐
の機体だったかもしれません。編隊飛行をしながら飛翔する姿が美しい
九六式陸攻の生写真です。


インドネシアのGelangの航空写真です。




テーガはシンガポールにある現在もインドネシア空軍
の主要航空基地です。当時は英国空軍RAFのTengah
駅として知られていました。




同じくシンガポールの主要目標であったセレター基地です。




同じくシンガポールの主要目標のSembawangです。




これ以下は、南京や重慶など日華事変の頃の
爆撃目標用の航空写真のようです。










これ等の早見が効く性能表や性能データはガリ版刷りの紙を持ち歩くより
コンパクトで見易く写真撮影して束にして持ち歩き機内で見たようです。


















こちらの大型地図は陸軍の富集団(第25軍)が用いた
シンガポール攻略用の爆撃目標を記した地図です。











自啓録より…ある局地戦闘機”紫電”の
   海兵71期(40期飛)士官搭乗員の日記等

     (大先輩の資料よりの御紹介)

〜敗戦末期の青春群像〜




昭和20年の元旦より敗戦まで記載された日記とアルバムです。
海兵出身23歳の若き局地戦闘機”紫電”の戦闘機乗りです。
同期生や仲間の名前の記載がありますが、当人の名前があり
ません。日記の記載から海兵71期生で山陽の出身の方であり
戦後も生きられた事までは判明しています。当時の記録等から
戦闘402飛行隊の中隊長 川本力大尉(40期飛)と推定しており
ます。
この川本大尉の海兵71期は名曲である
”同期の桜”の作詞者を生んだクラスであ
り、真継不二夫氏撮影の広報写真集『海
軍兵学校』で凛々しくそして真摯で涼しげ
な目を持つ海兵生徒の顔を広く紹介した
作品に描かれたのもこの71期です。因み
にあの写真集の顔をとして小島 威 生徒,
西田 潤 生徒、八島 準二 生徒の三名は
いずれも航空隊で機上にあって壮烈な最
期を遂げております。


昭和20年の元旦からスタートする自啓録です。
年始から皇國の勝敗を決する年、先ず自己の
勝負に勝ちたいと23歳の若き青年士官が抱負
を記載しています。現在の23歳と言えばまだま
だ子供で社会人といっても未熟な人が殆どの
状況ですが…この時代では既に熟成した感す
らあります。考えてみれば十代で必死に敵兵と
戦っている同胞がたくさん居た時代です。


毎日の出来事と所感が記載されています。
姫路出身の方です。燃料不足の中十分な
訓練もままならず可動機も配備定数も不足
の無い無い尽くしの中、優勢な敵機動部隊
の艦載機や硫黄島から飛んでくるP-51を
迎え撃ち戦死者や訓練においても殉職者が
続出、敵の跳梁を抑えられないもどかしさが
文面からも覗えます。


紫電11型に乗って本土決戦に備え筑波空より、敗戦ギリギリで
京都府下の福知山航空基地(石原飛行場)に進出した戦闘402
飛行隊の海兵71期の若い23歳の川本大尉の日記。技量不足
ながら稼働率の低い紫電を駆り空襲があれば迎撃に上がります
。訓練だけで殉職するもの、離陸に失敗し整備する列機に突っ
込み整備兵5名を巻き込んで死なす者。10機迎撃に上がりP-
51と戦い、ほぼ8割がたが帰還しない劣勢の中、この日記の方
もP-51を1機確実撃墜を経験します。しかし整備不良や機体不
足で碌に練成を得ないまま多くの仲間を失いながら敗戦の日を
迎えます。厚木に呼応し決起しようとする同期生もいる中、心配
し面会に来る父親の痩せ細り小さな背中に軍人を辞めて実家に
戻り農業に入る決意をします。その揺れ動く8月15日から実家
に帰る24日までの純粋で真摯な想いは…今の日本人が失った
責任感や愛国心の全てが輝いていました。この方が紫電隊の
中隊長ですが、飛行隊長は戦後に日本航空のパイロットとしても
有名な藤田怡与蔵海軍少佐です。開戦の時は、空母”蒼龍”で
初空戦デビューで敵1機撃墜をし零戦で大暴れしたパイロットで
す。敗戦までに39機撃墜(不確実50機)記録を残しています。
ミッドウェイでは上空直掩隊として一日で10機を撃墜する奮戦は
、日本の戦闘気乗りの一日の撃墜最大レコードとなっています。
この方は戦犯になるくらいならと支那に渡り大暴れするかと考え
たようです。結局、兵下士官・准士官・予備士官を帰郷させて
最後に兵学校出の現役士官が基地を去りました。彼は後日、
姫路基地の司令を自転車で訪ね人事関係の処理を行い、6年間
全ての海軍生活を終えたと記載し筆を置いていました。
この日記を読み感動を覚えるのは…改めて当時の素晴らしい
人間教育です。両親及び肉親を愛し目上の者を立て国家と民
族同胞を愛する強く純真な心…しかし是は海兵が特別だった
からではありません。確かに海兵は特に全国から英才が志願
し今で言えば東大、京大、一橋大に匹敵する最難関受験校と
謂えるでしょう。しかも文武両道に優れ視力・聴力その他でハ
ンデの無いものしか採用されない事実上、東大の上をいった
超最難関の学校と言って過言でなかったでしょう。海兵や陸士
出の若き士官だけでなく…当時の学生は予備學生として學徒
出陣で様々な形で戦場に赴きましたが、皆…純粋で同じような
立派な若者でした。そこに現在の日教組教育の産んだ弊害は
皆無であり…親父狩やホームレスを殺したり弱い者が更に弱い
者を見つけ虐めるような卑怯な真似をしたり、日教組教師のよ
うに義務を忘れ権利意識ばかりを剥き出しにした生き方しかで
きない風潮などまるでない時代の戦前教育がそこにありました。
教育勅語を中心に神道の謙虚な教えが当時の若者達に脈々と
受け継がれました。そしてこれが敗戦後の奇跡の復興を起こし
た世代を育んだ事です。しかし彼等が消えると同時に愚かな
日教組教育の弊害をモロに受けた世代が日本の中心となり…我
国はドンドンと悪い方向に落ちていっています。
65年前までは海軍兵学校、陸軍士官学校…共に今の日本か
ら失われた引き締まった真摯な顔がありました。彼等は等しく
凛々しく…そしてその目はとても涼やかでした。この時代…俊
英と言われた将校生徒達だけでなく他の多くの学生・生徒・
児童が等しく國を想い父母を敬愛し純粋でした。
敗戦の8月15日前後の記載です。


昭和17年海兵を卒業し士官候補生として卒業式を終えて
以下の画像のように少尉候補生として艦隊勤務に配属さ
れた71期生。卒後約3年の短い海軍軍人生活は…彼等
が最前線の矢面に立った時は、無いもの尽くしの敗戦を
目前とした時期でもありました。満足に飛行訓練もできず
搭乗員全員に行き渡らない戦闘機…そして燃料不足…。
しかし与えあられた状況で不満もこぼさず最善を尽くそう
とする姿と心意気は…今現代を生きる私の胸を打ちます。
今の日本人が失ってしまった美しい日本と日本人の原点
がここにある気が致します。





















戦闘402飛行隊が本土決戦に備え筑波より移動してきた
福知山基地(石原飛行場)のあった現在の地図です。
上は福山基地の復元予想図です。下は航空写真です。
非常に大掛かりな飛行場である事が判ります。
搭乗員待機所(掩体壕)とその内部の画像です。


飛行隊指揮所の入り口付近
旧飛行隊司令所跡を見学
する見学者達。




ハセガワから売りに出されている戦闘402飛行隊の
局地戦闘機 紫電 11型甲(川西 N1K1-Ja)です。
紫電改に比べ中翼のままで脚が長くなり離着陸時
の事故の絶えない機体でした。発動機の故障も多
く非常に扱いにくい飛行機と言われいます。低翼に
改良し脚の問題を解決した紫電改ですら発動機の
問題は解決せず稼働率が悪い戦闘機でした。戦後
坂井三郎氏が雑誌「丸」に紫電改をテストをしたレ
ポートが載っていましたが…散々な評価でした。対
して陸軍の四式戦”疾風”を褒めていました。疾風と
紫電・紫電改は同じエンジンですが航続距離も短く
ベテラン搭乗員でも制御の難しい局地戦闘機を無
理矢理採用する位であれば…陸軍に頭を下げてで
も大東亜決戦機とまで謂われた名機・疾風を海軍も
採用するべきだったと思いますが…。若く練成不足
の搭乗員は可愛そうですね。疾風や他の機体であ
れば殉職せず済んだ方も多かったと想像します。


戦闘402飛行隊の飛行隊長(指揮官)を務めた真珠
湾以来の猛者である藤田 怡与蔵 海軍少佐です。

     ◆藤田 怡与蔵 海軍少佐(略歴)◆

大正6年11月2日、中国天津市生まれる。

大分県立杵築中学を卒業後、海軍兵学校(66期)
第33期飛行学生を経て、戦闘機搭乗員。開戦時、
空母「蒼龍」に乗り真珠湾作戦に参加。第二次攻
撃隊制空隊小隊長として初陣を飾り、P-36 1機を
撃墜した。ミッドウェイ海戦では上空直掩隊として
10機を撃墜するなど奮戦するも、味方の対空砲火
により被弾してパラシュート降下を余儀なくされる。
漂流4時間後に救助され九死に一生を得る。その
後、空母「飛鷹」乗り組みとなってソロモン航空戦を
戦う。築城海軍航空隊に転じた後、硫黄島航空戦
、台湾沖航空戦、フィリピン航空戦、本土防空戦を
指揮官パイロットとして戦い抜いて敗戦を迎える。

生涯撃墜機数:39機、不確実入れて約50機。

戦後、日本航空に入り民間機パイロットとして活躍。
昭和52年に退職するまで生涯総飛行時間一万八千
三十時間を数えた。

平成18年12月1日、肺癌のため89歳で死去。
「零戦搭乗員会」(現在は「零戦の会」)の
元代表世話人としても知られた。


由良川と石原駅の鉄道線路に挟まれた
河川敷に飛行場があるのが良く判ります。


米軍の爆撃攻撃用の航空写真です。
所属の親基地である姫路飛行場(鶉野飛行場)です。所
属は筑波空となります。元々、この飛行場にあった姫路
海軍航空隊(姫路空)は、すべての稼動機を特攻によっ
て失った為、部隊を維持できなくなったは解散。残された
姫路飛行場は、本土決戦の時まで温存が図られた筑波
海軍航空隊や特攻要員の岡崎海軍航空隊の駐留基地と
して用いられました。隣接する川西飛行機が米軍空襲部
隊の標的となったことから、これら紫電を使う戦闘402飛
行隊などは温存の為、分散して新設の飛行場のある福知
山(石原)に置きました。尚、当時、川西航空機では最大
規模の工場として甲南・宝塚・鳴尾・姫路工場があり、これ
等では全機種を製造していました。姫路工場がこの隣接す
る鶉野飛行場で筑波空の本隊として戦闘403飛行隊を配
備し、鳴尾工場に隣接する福知山(石原飛行場)に戦闘
402飛行隊を分散しました。姫路の飛行場も福知山の石原
飛行場も…戦後、滑走路は放置される一方となりました。
姫路の施設跡には神戸大学農学部が新築されましたが、
石原の方は密林というか自然に回帰しました。
鶉野飛行場と石原飛行場以外に近隣する京都府下の
峰山飛行場と三木飛行場の航空写真です。いずれも
米軍の爆撃攻撃用のもので日本の空が既に制空権を
失っている事が良く判ります。


後日、入手した川本大尉の海兵71期時代の教科書です。
ガリ版の教範で「安式航跡儀教科書」、「高層気象」、「防毒兵器取扱操法」
の三点が綴られています。表紙には「航海」と題されています。













航空搭乗員の酸素吸入器(マイク内臓)




珍しい酸素吸入器です。大東亜戦争の末期
で高々度の迎激戦となり酸素が必須となり離
陸からマスクを付けている姿が多かったと聞
きます。また零戦でも3.5Lの酸素タンクを3本
積んで蒼空に駆け上がっていきました。
この酸素吸入器は数種類ある酸素吸入器
の中でも変り種の黒いベルベットで覆われ
たマスク付き酸素吸入器です。
下のような状態でありましたが、マスク上に
アルミ管がありそれにゴムチューブが繋がっ
ていて酸素が来る仕組みです。片方の配線
は、マイクに繋がっています。ゴムが経年の
劣化で所何処で切れています。テープで補
修し繋げてみました。ベルベットもかなり落ち
てきています。


マイクから伸びた配線のジャック部分の
根元に七型送話器と刻まれています。








上が黒いベルベットで覆われたマスク付き酸素
吸入器の図です。下はその他に海軍で使われ
た酸素吸入器です。


現在医療用で使われている酸素吸入器の一部です。
左が人工呼吸器や麻酔器など一般に使われるマスク
で右が病棟や外来で一般に使われるマスクです。軽く
て丈夫な素材になっています。







戦艦 武蔵 初代艦長の有馬 馨 海軍中将の軍帽等




有馬閣下の軍帽です。





       ◆有馬 馨 海軍中将(略歴)◆

宮崎県出身、海兵42期・海大25期

昭和11年12月1日 任海軍大佐 第二艦隊参謀
                     海大教官
                     支那艦隊参謀
                     教育局第二課長
                   巡洋艦”熊野”艦長
                    戦艦”比叡”艦長
                     佐世保鎮守府附
昭和16年9月15日      戦艦”武蔵”艤装委員長
昭和17年8月5日       戦艦”武蔵”初代艦長

昭和17年11月1日 任海軍少将
                     軍令部出仕
                     海兵教頭・副校長
                     呉練習戦隊司令
                    第四根拠地隊司令官
                    第二海上護衛隊司令
                    第四艦隊参謀長
                    南西方面艦隊司令部附
                    第31特別根拠地隊司令
                    南西方面艦隊参謀長
                    第三南遣艦隊参謀長

昭和20年11月1日 任海軍中将
昭和24年1月16日   復 員

昭和31年1月23日   逝去(享年62歳)

帽子箱の中にあった士官短剣用の刀袋


正衣や通礼衣のシャツのネックカラーとサスペンダー








勲四等瑞宝章と勲三等瑞宝章の勲記です。


昭和18年5月頃に撮影された武蔵と大和、兄弟戦艦の勇姿です。
手前右が戦艦”武蔵”で奥の左側が戦艦”武蔵”です。







珍しい幻の海軍戦傷奉公杖 二点




陸軍の戦傷公杖はたくさんありますが
こちらは幻と言われる海軍の戦傷公杖
です。
所謂、十五年戦争と言われる期間では陸海軍の出兵が相次ぎ
名誉の負傷者が急増しました。これに伴い…負傷兵の方々に杖
を送る事が決まり、杖で定評がある老舗の銀座タカゲンに作製
依頼されました。当初は傷兵保護院、次いで軍事保護院、後に
陸軍省が戦傷公杖の担当をする事になりました。保護院時代の
杖は数も少なく、単にストレートの棒で四角形に作製し、傷病兵
には茶褐色、失明者には白色の棒に房紐を取り付けた杖が使
用されました。陸軍省が担当になってからは、もう少し立派なも
のにとの声が掛かり高名な彫刻家である日名子実三氏に杖の
握り部分のデザインが依頼され良く見る陸軍の戦傷公杖のデザ
インが決定されました。それが鷲の姿で羽根が後ろに曲げられ
た握り易い荒鷲の形です。材質はアルミ合金。正面には陸軍大
臣と彫られ陸軍の星章がありました。当初はシリアル番号及び
実三の銘が刻まれていました。棒は、まざくら材を使用しました。
当時は、木材も不足気味でしたが、特別な軍需品用としてさくら
材の特別配給を受けることができました。しかし戦争が更に激し
くなり、杖の数もかなり増えてきた為、陸軍省は入札制に切り替
えました。この事に日名子実三氏が立腹され、他店が入札に応
じた為、これ以後の製品の杖の握り部分には実三の銘が入って
いません。昭和19年頃になると海軍でも同様の杖を戦傷者に贈
ることが決まり、海軍省から海軍用戦傷奉公杖作製の依頼が銀
座タカゲンにあり、再び日名子実三氏に握りのデザインを依頼し
海軍用奉公杖が作製されました。海軍の握りは錨を半分に割っ
た形の非常にスマートなデザインとなりました。正面には海軍大
臣と彫られ側面には桜花が一個ずつ付き裏面に実三の銘が刻ま
れました。海軍省の奉公杖は作製中から日本本土への空襲が激
化し、二回目位の納入の後は倉庫が空襲を受け焼失。その後、
敗戦となり、実際に海軍の負傷兵の方々に配られたかは不明で
出回った数も非常に少なく幻の奉公杖となりました。製作した銀
座タカゲンも昭和20年5月の東京大空襲で焼失し僅かに残った
海軍の戦傷公杖は2〜3本あるのみとの事です。

              ”銀座タカゲンのコラムより引用抜粋”





海軍大臣が読めます。
ステッキの握りの裏(丁度、片側の錨の部分に)に
”実三”と
日名子実三氏の名前が刻まれています。




こちらは、上のとは違う別の海軍戦傷杖です。
全長約88cmの海軍戦傷奉公杖
日名子実三のデザインで、実三の銘と海軍大臣
の刻印があります。握り部分はアルミ製ですが経
年の経過で黒っぽくなっています。木製部分に小
キズ、杖先の鼈甲部分には虫食いがあります。







哀しい徽章…空襲で焼けた海軍技術有功章




表面の七宝が熱で殆ど溶けています。
元が美しい徽章だっただけに無残です。







津田 静江 海軍中将が為書きし贈った日の丸




満州国海軍司令官を勤められた津田 海軍中将が
武運長久と今本 久一郎 氏に為書きし贈った日の
丸です。左の方に島田 剛太郎 という方が為書き
をされています。津田閣下と今本氏の関係は不明
です。

      ◆ 深田 静枝 海軍中将(略歴) ◆

明治16年4月1日-に福井県福井市生
海兵31期

明治37年1月、戦艦”初瀬”乗組みを皮切りに艦隊勤務
を主に海軍少将まで行う。昭和5年5月21日に第二遣外
艦隊司令官、昭和8年4月20日に旅順要港部司令官、
同年9月1日、海軍省軍令部第三班長、10月1日に 海軍
軍令部第三部長、昭和9年11月15日-に任 海軍中将、
駐満州国海軍部司令官、昭和10年11月15日に海軍軍
令部出仕、昭和11年3月28日 待命 、同年3月30日に
予備役編入、昭和13年2月10日 海軍省事務嘱託、昭和
14年3月10日 興亜院華中連絡部長官、昭和16年5月7
日-に辞任、昭和39年9月13日 死去 (享年81歳)

日の丸の所持者だった今本 久一郎 氏は昭和20年
7月にレイテ島で戦死されています。部隊はこの野戦
高射砲第76大隊で階級は軍曹でした。香合と戦友会
の名簿と遺品となる日章旗が遺族も亡くなり業者に引
き取られ売りに出されたようです。







戦前資料:全國体育デーの入場券




戦前は11月2日が全国体育デーでした。現在は無くなり
変わりに体育の日が10月10日に祝日として制定されて
います。この券を見ると今も残るライオン歯磨口腔衛生
部が後援をしており、券の裏側は正しい歯磨きの知識み
たいな事が書かれています。







海軍工廠の職員が使用した腕章と鉄帽の帽章です。


腕章には工廠の紋章があり、片側にNO.222が印字され加藤の判が捺されています。




帽章のオレンジに近い黄色は海軍の鉄帽で
よくステンシルで描かれる錨の色とほぼ同じ
です。





















こちらは箱附きの技術名誉章(舞鶴海軍工廠)
上の徽章は横須賀海軍工廠のものです。












一枚の写真から…




宮里 秀典 海軍中将の少将時代
の御写真です。昭和18年5月とあり
ます。第十一特別工作部長をされ
ていた時と思われます。

 鹿児島県出身、海兵30期

開戦前に戦艦”大和”初代艦長を
勤めた方(艤装員長)です。船舶
救難本部長、船舶警戒部長で敗
戦、そして予備役になっています。






























なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!