旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_8














Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他











この海軍士官トランクと軍帽ケースに納めらた品が今回入手した
望月(旧姓 伊藤) 勇 海軍(航空)大尉の遺品の全てです。
軍帽ケースには痛みがありますが軍帽が残っておりました。また本来は正衣袴一式などが
納められていたトランクですが…こちらには剣帯と襟カラー以外は軍服は無く紙物資料に
アルバムに写真類、航空手簿に勲章、階級章(襟章に肩章)に略綬、釦類などが詰め込ま
れていました。この望月大尉の華やかな経歴を考えれば…とても希少な遺品であり本来で
あれば遊就館に納めて展示されるべき逸品と考えます。




もっとも戦死された時に近い中尉時代の
望月 勇 分隊長の写真画像です。


旧姓の伊藤を名乗
った下士官時代の
写真です。


13空の空曹長時代の写真です。
既に歴戦の強者の風格が漂って
います。
昭和4年、空母”鳳翔”戦闘機隊の一〇式艦戦をバックにした集合写真です。今となれば古き
もっとも良い時代の海軍にあった栄光の時を切り取ったような写真ですね。
マーシャル諸島です。
マーシャル諸島のクェゼリン環礁の北部に位置する
のがルオット(ロイ)-ナムル島です。
クェゼリン環礁の現在の衛星画像

                 ◆ 望月 勇 海軍大尉 ◆

                      (略 歴)

 明治39年生、佐賀県出身、撃墜記録:10機
 (旧姓 伊藤)

大正14年、海軍に入隊。大正15年11月、9期操練卒業。最初は大村海軍航空
隊に次いで空母”鳳翔”に配属。以降、空母”加賀”、再び大村海軍航空隊に転
属の後、昭和7年11月から昭和11年11月までの間、横須賀航空隊へ勤務…そ
してこの時期にかの有名な”ひねりこみ”技法を最初に編み出し確立し全軍に普
及させました。こうして日本海軍航空隊の巴戦の圧倒的な強さを確立した功労者
として高い名声を得ました。また単機格闘戦では無双の名手として知られていま
した。昭和11年11月、空曹長。大村航空隊にまた転属。日華事変勃発で第13航
空隊に転属し、上海公大基地で活躍します。昭和13年1月、7機の撃墜スコアを
記録して本国に帰還。各地の航空隊で教官を務め、昭和16年10月に航空特務
少尉となり、昭和18年3月に第281航空隊(司令 所茂 八郎 中佐)の分隊長(特
務中尉)として進出したのが北千島の幌筵島の武蔵基地です。この基地に配属
された零戦16機のメンバーは実に豪華でした。12空で飛行隊長だった所茂 八郎
中佐が司令、飛行隊長は蓮尾 隆市 大尉、そして飛曹長時代の日本最高の撃墜
王で北海道・樺太の産んだ英雄の一人である岩本 徹三 中尉が存在しておりまし
た。また荻谷 信男 上飛曹など後に名をなす撃墜王が顔を揃えておりましたが、
この後に201空でラバウルに転じた岩本飛曹長や荻谷上飛曹等と…281空に転じ
た望月 中尉とに同じ歴戦の古豪の間でも運命の別れ道が生じたようです。
      岩本 徹三 中尉         荻谷 信男 少尉

昭和18年12月、マーシャル諸島クェゼリン環礁の北にあるルオット基地に
進出。以来、252空の一部の零戦と531空の天山と共に来襲する敵機動部
隊と戦い、時にギルバード諸島方面に攻勢を掛けるも次第に稼働機を失い
昭和19年の1月では稼働機が零戦25機にまで減少。海軍は航空隊員を救
出するべく潜水艦、飛行機での救出作戦を考え実行に移すも悉く失敗しま
した。そして昭和19年1月30日にクェゼリン環礁攻略のため敵機動部隊襲
来しルオット基地に払暁より
3波延べ120機が襲来し、全機全力迎撃の末…
全機を喪失します。
同日の昼からルオット島に繋がるナムル島の航空隊居
住区に艦砲射撃が開始され隊員に甚大な被害がでました。同島には有力な
陸兵の部隊は存在せず、翌31日にルオット島・ナムル両島に敵米軍が上陸
を開始すると当日中にルオット島飛行場は陥落、居住地区のナムル島も初
日の艦砲射撃で航空隊の隊員の大多数が戦死しており、2月3日に総員が
玉砕し米軍はナムル島の占領を宣言しました。昭和19年2月6日、玉砕と認
定され、望月中尉の波乱に満ちた名戦闘機パイロットとしての人生に幕が
降り大尉に昇進しました。まだ僅か38歳と謂う若さでした。公認撃墜数は9
機でした。…281空は進出から僅かに2カ月で壊滅し解隊しました。空に生き
た単機格闘戦の名手が戦闘機で死ねず…敵の艦砲射撃や陸戦で玉砕とは
…さぞ無念の想いだった事と想像します。(尚、余り知られてはいませんが、
この荻谷 少尉は生涯撃墜数32機ですが…空戦のデビューは、昭和18年の
末から戦死される昭和19年2月までの僅か3か月の間に過ぎませんでした。
ラバウルの204空に転じ初撃墜18年12月16日のマーカス岬攻撃時です。
翌年1月末に253空に転じてからは、凄まじいハイスピードでその天性の才
能を開花させました。特に1月20日のラバウル邀撃戦では単機で5機撃墜を
果たし、ラバウル上空で残した僅か13日間で18機撃墜という撃墜ペースは
日本最高の高密度撃墜記録であり、彼をしのぐ人は居ません。そんな不世出
の逸材も激闘に次ぐ激闘の末、昭和19年2月13日のラバウル邀撃戦で遂に
還らぬ桜となりました。時代背景や条件さえよければ…何処まで記録を伸ば
した事か…激戦のラバウルに仇花のように短く咲き散った為、多くに知られ
る事が少ない撃墜王の一人です。)


空母”鳳翔”戦闘機隊
時代の所 大佐(大尉
時代)です。
二八一空司令 所 茂八郎 中佐(戦死後、大佐)

同じく戦死された所 茂八郎 大佐とは…同じ空母”鳳翔”戦闘機隊以来の
顔馴染なので長いつきあいで…同じ死に場所を得る形となりました。
非常に判りやすい図です。飛行場基地のあるルオット(ロイ)島と地続きで航空隊の居住区と
なったナムル島です。この島の玉砕に至るまでの状況をもう少し詳しく整理します(以下)。


このクェゼリン環礁を含むマーシャル諸島は第一次世界大戦で日本の委任統治領となり以来
ずっと日本が統治してきた地域です。主体となるクェゼリン環礁の守りは、クェゼリン島にクェ
ゼリン守備隊として第六根拠地隊(秋山 門造 少将)隷下の第六十一警備隊(山形 政二 大
佐)の約1,500名、陸軍所属の海上機動第一旅団機動第二大隊(阿蘇 太郎吉 陸軍大佐)約
670名を主力として構成されていました。このほか約5,500名の将兵や人員がいましたが第一
海上機動旅団第三大隊員約250名と南洋第一支隊の一部約100名を除けば残りは航空部隊
の地上要員や海軍設営隊、山九から派遣された作業員、日本銀行関係者で殆ど戦闘力はあ
りませんでした。秋山 少将はタラワ戦の教訓から海岸線だけでなく内陸にトーチカや戦車壕
を構築するよう命令したが島の地盤は珊瑚礁のため掘削が困難なうえ海抜はきわめて低く1
mでも掘れば海水が湧きだしてしまい地下陣地の構築はできなかった。地上構造物も土台石
のない掘っ立て小屋みたいなもので椰子の木で掩蔽壕を構築するのがやっとの状況でありま
した。

総指揮官 秋山 少将の下、クェゼリン島の防備地区は南北に区分され、南部は阿蘇 大佐が
全陸軍部隊と陸戦隊、地上要員を指揮し、北部は山形 大佐が陸戦隊以外の全海軍部隊を
指揮を執りました。一方、環礁の北部に位置するルオット島(ロイ島)には第二十四航空戦隊
(山田 道行 少将)司令部が置かれ、ルオット島に飛行場が、東隣のナムル島に関連施設が
置かれていました。しかし守備隊の状況は、クェゼリン島と比べて余りに貧弱で第六十一警
備隊分遣隊約 400名を中心とし、その他航空要員や設営隊などを合わせて約2,900名が所
在していたものの陸軍部隊の駐屯はありませんでした。山田少将が全部隊の指揮を執りまし
た。序盤の戦闘は1月初旬にフェニックス諸島およびギルバート諸島からの第57任務部隊(
ジョン・H・フーヴァー少将)の陸上航空部隊の航空機によってマーシャル諸島への航空攻撃
で幕が切って落とされました。次いで第二幕は1月30日の早朝、第58任務部隊が約750機の
艦載機をもって制空権を確保するためマーシャル諸島各地への航空攻撃を行い、第57任務
部隊の航空機もこれに呼応して空襲を開始しました。この攻撃で日本軍機の殆どが地上にお
いて撃破され、若干数の零戦による散発的な迎撃があった程度で、日本軍の航空部隊は午
前中までにはほぼ壊滅しました。その後、戦艦や巡洋艦を主力とする水上部隊が昼夜分かた
ずマーシャル諸島の要地に対して艦砲射撃を繰り返し、空と海からの攻撃によって通信施設
や滑走路、弾薬、在泊艦船なども悉く壊滅状態となりました。事前攻撃は翌1月31日にも行わ
れ、この日の攻撃ではエニウェトク環礁も攻撃対象に加えられました。一連の攻撃のうち、ル
オット島への攻撃はある程度手ぬるいものでありましたが、これは同島の航空施設を占領後
直ちに活用するためでありました。1月30日から2月1日にかけてマーシャル諸島の主要島嶼
に来襲した艦載機の数はルオット島145機、クェゼリン島103機、ウォッジェ島325機、マロエラ
ップ島130機、エニウェトク島120機の計723機に及びました。またこれとは別に陸上機30機が
ミリ島を、34機がジャルート島を攻撃しました。ウォッジェ環礁には日露戦争時の戦艦”三笠”
や装甲巡”春日”から陸揚げされた15センチ砲が配備されており、艦砲射撃の為に接近した
駆逐艦”アンダーソン” (USS Anderson, DD-411) が日本側の砲撃を受けて損傷しました。
陸上からの反撃とは対照的に空からの反撃は殆どなく、タラワからマーシャル方面への爆撃
の途中に第58任務部隊の上空を通過しようとしたB-25の一隊が日本機と間違えられて攻撃
され、1機が撃墜されるという日本側にとって嬉しいハプニングがありました。全体的に反撃が
散発であったので戦闘配置は若干緩めの体制がとられていましたが、しばしば艦内放送で気
を緩めないことを強調する放送が流されたと記録されています。

水中障害物の調査を終えた後、ルオット沖の米第4海兵師団の将兵は輸送船から戦車揚陸
艦に移乗して、2月2日 9時ごろから上陸を開始しました。第4海兵師団内で担当区域は、第
23海兵連隊がルオット島に、第24海兵連隊がナムル島に上陸になっていました。上陸前に
は経験不足と疲労から隊の秩序が乱れていたもののコノリー少将が秩序回復より上陸を優
先させて混乱を回復させました。その混乱は30分程度続きましたが、事前攻撃によって日本
側の指揮官の山田 少将が既に戦死し、戦力を大幅に低下させられてていた為、ルオット島、
ナムル両島の日本軍にもはや反撃する戦力も火力もなく、ルオット島では唯一生き残った47
o速射砲がM5軽戦車を撃破した程度で、残存部隊は海岸線で銃剣突撃を行って、午後まで
には殆どの残存兵が玉砕。翌2月3日には早速、アメリカ陸軍航空隊機が飛行場の使用を開
始しました。一方のナムル島では、少数の日本兵が椰子の木の丸太に隠れて僅かな抵抗を
試みましたが、火炎放射器と爆薬による掃討戦で相次いで粉砕され、翌日までに全滅しました
。ルオット・ナムル両島は陸橋と砂州でつながっており、地上戦闘員は前述のように第61警備
隊分遣隊が両島合わせて400名しかおらず、ルオット島が陥落した時点で防衛は困難で決着
は着いていました。それでも一部の兵達は、島の南東端に立てこもって激しく抵抗しました。
また、9時過ぎには貯蔵弾薬庫からのものと思われる大爆発が立て続けに起こり、第24海兵
連隊の将兵に相当数の死傷者が出たと記録されています。僅かな兵力でも諦めない不屈の
日本兵の気力の戦いが一矢報いますが…しかし戦力の差は如何ともし難く、2月3日正午まで
には…主だった戦闘も終わりを告げました。そして2月3日、11時18分にナムル島の占領が宣
言されました。ルオットとナムルでの彼我の死傷者の数は、日本軍側の戦死者数が2,540名
と捕虜11名、アメリカ軍は戦死313名、負傷者545名を数えました。281空に生存者が皆無の
為…望月 中尉も所茂 司令の最後も全く不明です。

上は、クェゼリンで日本軍守備隊を攻撃する米兵です。下は凄まじい砲爆撃で
灰燼に化してしまったクェゼリン島の惨状です。
下は米軍機の猛爆撃をを受けるルオット島の飛行場と基地です。
一般に撃墜王とは国により定義が若干異なりますが撃墜スコアーを3機以上とか
5機以上としますが、我国では5機以上とする旨が主流のようです。まあ3機にして
も5機にしても無事に生きて飛んで帰り…尚且つ互いに命を懸けた死闘を大空で
演じる訳ですから生きて帰ること自体が…また生き続けること自体が至難の技の
時代と謂えます。特に日本のように緒戦はともかく中後期では圧倒的に劣勢で米
軍の物量の前では成す術も無く多くの歴戦の搭乗員が命を擦り減らし櫛が欠ける
ように欠けていきました。そして末期には特攻です。この中を生き残り尚且つ、圧
倒的に性能も数も全てに勝る敵機を撃墜して生き残った人々に…いやその途中
で命を失いながらも勇敢に戦った全ての日本陸海軍の航空将兵を賞賛すると共
に改めて国を護る為に矢面に立って戦われた事に感謝の意を表せずにはいられ
ません。便宜上、撃墜王と呼びまた個人の記録として撃墜機数・撃墜スコアーを
掲載しますが、この事が其々の方の優劣を決める訳では決して無いと考えており
ます。そうでなければ整備員や後方支援の基地の人間は、全く戦闘に参加もせず
無能の誹りを免れなくなります。現実には搭乗員が戦闘機で戦闘をする為には、
日夜、機体の整備をする整備兵が居り燃料や機銃の銃弾を運び輸送する人々が
居て初めて活躍できます。パイロットの中には戦闘機搭乗員だけでなく、偵察機
や爆撃機の搭乗員もおりますが、彼等の多くに撃墜スコアーなど存在しません。
時々、撃墜記録だけを抜き出して比べるような本や雑誌、サイトなども存在します
が…如何にナンセンスな事だか理解できます。

こちらの宮崎 大尉は、撃墜スコアーが10機で勿論、一般的な定義では撃墜王に
なります。しかし大空のサムライで有名な坂井 三郎 中尉が64機だから、もっと凄
いだとか、西沢 広義 中尉が150機だ…岩本 徹三 中尉が202機だから一番凄い
という比較や問題でない事は、誰でもお気づきになられる事です。ただ撃墜数は
個人の試験の成績と同じようにあくまで個人記録として残され正当な評価の対象
とされるものです。この為、あえて当サイトでも撃墜スコアーを記載してまた時に
それだけの戦果を挙げた撃墜王として判りやすく紹介する事が多々ありますので
改めてここで記載しておきます。


敗戦時の海軍兵学校教官を勤められ敗戦後はビキニへ回航される
軽巡”酒匂”の機関長として米海軍へインストラクターを勤められた
山野 平 海軍少佐の遺品の写真にあった戦艦”長門”乗組みの時
の写真です。前列左から二番目が大尉時代の山野少佐です。その
隣、前列中央で大勲位菊花大綬章を佩用されている方が音羽侯爵
(朝香宮正彦王 殿下)です。殿下も望月大尉らと共に戦死されまし
たが…数少ない皇族の戦死された方の一人であります。

クェゼリン島で玉砕戦で戦死…享年30歳の若さでした。
その後、音羽家は継承者を欠き音羽侯爵家は廃絶となり
ました。

音羽 正彦 侯爵(朝香宮正彦王 殿下)と大勲位菊花大綬章です。


日本ニュース 第196号
      クェゼリン・ルオット両島の陸・海軍部隊玉砕





士官剣帯は日常で使われた品のようで、かなり使い込まれています。
しかし革はまだまだしなやかで現役で使える状態です。士官短剣が無
いのが残念です。
     通礼衣用から一種、正位用まで襟カラ―各種と夏用の軍帽カバーです。
              望月空曹長の記載がはっきり読めます。
望月大尉の使用されていた軍帽です。外より中に痛みがあります。


佩用されていた略綬に中尉の階級章です。(望月大尉は中尉で戦死され
大尉に昇進されています。)貰った慰問袋でしょうか、この中に入れられて
おりました。
小型肩章は虫食いだらけで保存状態が悪いですが、大型の方は極めて保存状態が良いです。




何故か一緒にあった海軍少将の襟階級章です。軍服からの
取り外し品のようです。何方から頂いたものか不明です。


中尉の襟階級章も虫食いだらけですが略綬はまあまです。



二種用の士官金釦の大小に印鑑などです。
望月大尉が所持した全ての勲章が略綬通りに揃いで残っています。








          功五級金鵄勲章と勲五等双光旭日章           功五級金鵄勲章と勲五等双光旭日章     



非常に興味深い郵便包みです。下に掲載した感状が一緒に
納められ郵送されたものと想像します。送り主は、軍艦 飛龍
飛行長の和田 鉄二郎 海軍少佐…後の153空司令で敗戦
後に比島で戦病死され海軍少将になられた方です。送り先
は、大分県大分海軍航空隊 准士官 望月 勇 殿とあります。
昭和14年に送られたものですが…一緒だった13空時代に和田少佐と望月空曹長が
昭和12年9月19日に共に出撃し南京空襲時に敵戦闘機隊と空中戦になり…一二空
と共同して14機を撃墜し我軍に喪失なしの武勲をたてた時の感状です。望月大尉が
戦死認定されたのは昭和19年2月6日です。38歳の若さでしたが…153空司令 和田
大佐もまたその一年後…フィリッピンで153空要員の指揮を執って最後はクラーク基
地の西方の山中に籠りゲリラ戦を展開し現地で敗戦を迎えましたが、昭和20年10月
29日、41歳の若さで帰国する事叶わず戦病死されております。13空で上下の差はあ
っても一緒だった戦闘機乗りの二人が戦地こそ違えども奇遇にも共に似たような境遇
に追い込まれて本来の戦闘機乗りの戦いでなく地上戦の陸戦で戦死された事は…何
か因縁めいて考えさせられました。…この感状に話を戻すとこの日、第13航空隊の飛
行隊長 和田 鉄二郎 少佐の率いる九六式艦上戦闘機12機、九六式艦上爆撃機17
機、九五式水上偵察機16機は、南京城外の大校場飛行場その他を爆撃しました。
その際、要撃してきた敵戦闘機約40機と交戦して、その約半数以上を撃墜し、地上施
設に甚大なる損害を与えました。そして、同日午後にも、九六式艦戦10機、九六式艦
爆11機、九五式水偵11機をもって、再び南京飛行場を攻撃しました。感状はこの日の
活躍に対して贈られたものです。

但し、こちらは見るとお判りの様に下書きに使われたもののようで参加部隊のナンバ
ーが入れられておりません。この包みが折れないように丸ボール包みに成っている事
から本物の感状の写しが和田少佐から送られたのだと想像します。何しろこの下書き
の感状自体は折れが多く適当に置かれていた事が見て取れます。送られたものは恐
らく額装されて飾られたかしたものと想像します。

       ◆ 和田 鉄二郎 海軍少将 ◆

新潟出身  海兵51期
 功三級

明37年1月31日生

         < 略 歴 >

大正12年 7 月 14日  任海軍少尉候補生
               八雲乗組
大正13年 4 月 12日  比叡乗組

大正14年 12月 1 日  霞ケ浦空附
大正15年 3 月 24日  霞ケ浦空飛行学生
大正15年 12月 1 日  任海軍中尉
               横須賀空附
昭和 2 年 7 月 20日  霞ケ浦空附
昭和 4 年 5 月 7 日  赤城乗組
昭和 4 年 11月 1 日  加賀乗組
昭和 4 年 11月 30日  任海軍大尉
昭和 5 年 11月 1 日  赤城乗組
昭和 6 年 11月 2 日  霞ケ浦空附
昭和 9 年 11月 1 日  龍驤分隊長
昭和10年 10月 21日  龍驤飛行隊長
昭和11年 11月 16日  霞ケ浦空飛行隊長
昭和11年 12月 1 日  任海軍少佐
昭和12年 7 月 11日  13空飛行隊長
昭和12年 9 月 5 日   13空飛行隊長
               第三艦隊司令部附
昭和12年 11月 15日  霞ケ浦空飛行隊長
昭和13年 12月 15日  鳳翔飛行長
               飛龍艤装員
昭和14年 4 月 1 日   飛龍飛行長
昭和14年 7 月 15日   大村空飛行長
昭和14年 12月 5 日   蒼龍飛行長
昭和16年 9 月 1 日   翔鶴飛行長
昭和16年 10月 15日  任海軍中佐
昭和17年 6 月 1 日   宇佐空飛行長
昭和18年 3 月 20日  霞ケ浦空飛行長
昭和18年 11月 5 日  523空司令
昭和19年 7 月 10日  第61航空戦隊参謀
昭和19年 7 月 15日  兼第一航空艦隊参謀
昭和19年 10月 15日  任海軍大佐
昭和19年 11月 15日  153空司令
昭和20年 10月 29日  戦病死 (41)
               任海軍少将


この感状の日の攻撃は、国府軍の空軍が手に入れた予想された南京周辺の
米最新鋭機のホークV約50機を殲滅する事が目的でした。作戦を指揮したの
は第二聯合航空隊の指揮官三竝 貞三 海軍少将で水偵16機に護衛された艦
爆17機を囮として攻撃してくる最新鋭のホークV部隊を伝家の宝刀の九六式
艦戦で叩きのめすと謂うもので…作戦が天候不良のために遷延されていまし
たが、この9月19日に決行されました。朝、指揮官の和田 鐵二郎 少佐の九六
式艦爆を先頭に離陸を開始しましたが、肝心の九六式艦戦が飛行場のぬかる
みで離陸に失敗して上がる事が出来た機体は僅かに12機だけでした。しかし
作戦は予定通り実行に移され、AM10:00南京郊外の敵基地から邀撃に上が
ったホークVを含む複葉機のボーイング218戦闘機が18機が囮に食いつき、こ
のうち水偵隊が4機を撃墜し、南京上空で九六式艦戦は21機を撃墜、ここに水
偵隊も加わり7機を撃墜しています。更に午後3時に再び九六式艦戦10機と囮
の九六式艦爆を発進させました。そして午後4時過ぎに南京上位でホークVの
邀撃隊と空中戦に入り7機を撃墜しました。翌日から5日間、南京及び近郊の基
地飛行場に空爆が開始され残敵も邀撃戦の都度、九六式艦戦に撃墜され南京
に置ける制空権は完全に日本のものとなりました。…その一連の活躍を改めて
第三艦隊司令長官の長谷川中将が称えたものあります。


横須賀に住む遺族への戦死通知です。
扱いは全て佐世鎮の人事部です。
佐世鎮からの各種戦死に関する書類
遺品調書です。この内容の物が後日、遺族に届けられます。




横須賀市が戦死による除籍を行った認許証です。




搭乗員名簿(戦闘機隊)と名刺二点です。








中々、出て来ない搭乗員名簿です。中は鉛筆書きです。










以下の4枚の写真だけが別に朝日新聞 上海通信局の大判封筒に
入れられていました。ここの記者が撮影した写真を望月空曹長(当
時)に送ったものと思います。


読売新聞社が導入した読売六号機です。メッサーシュミットBf108 タイフーン
です。登録記号はJ-BACCで同じ登録記号で満州航空機があります。この
満空機導入の時の全金属製模型を入手しています。以下です。
戦前に満空で勤務されていた関係者のお宅から
出た珍しいJ-BACCの登録記号の入った記念の
メッサーシュミット Bf108 タイフーンの全金属製
模型です。残念ながら台座がありません。代用し
て撮影しました。
日本では読売新聞社がベルリンオリンピックの写真原稿輸送のために昭和11年
8月に1機を購入、ベルリン〜東京3日間の連絡飛行を企画したが、ソ連上空の
飛行許可が下りず、結局船便で輸入され国内では「よみうり6号機」として使用さ
れました。登録記号J-BACCは、満州国でも同様で満州航空で採用されています。

愛機でしょうか九六式艦上戦闘機をバックに撮影です。       一種軍装の望月飛曹長です。


一枚だけ二空曹の任記がありました。昭和6年11月1日です。
大村海軍航空隊の頃と思われます。


航空手簿です。大正15年2月の九期操練から卒後の大村
海軍航空隊から空母”鳳翔”までの戦闘機乗りの卵から若
鷲誕生〜熟練に至る経路までの四年間を網羅しています。
当時は、旧姓の伊藤 勇の名で記載されています。
操練九期のスタートからです。右下には硫黄島で戦死された市丸少将の名前が教官としてあります。


単独飛行から編隊飛行へ…独り立ちに向けて雛鳥が若鷲にならんとしています。


艦上偵察機の搭乗も始まり同乗者の名が記載されるようになりました。
そして霞ヶ浦から大村海軍航空隊へ
大村空から空母”鳳翔”戦闘機隊に移ります。




昭和4年、空母”鳳翔”戦闘機隊の一〇式艦戦をバックにした集合写真です。
丁度、記載された内容の事がこの飛行甲板での写真の同時期であります。


ありし日の空母”鳳翔”です。



写真アルバムが一点とアルバムに貼られていない裸の写真類が多数です。
以下はアルバムに貼られていない写真から軍関係と望月大尉に関連する
写真のみピックアップして紹介します。
 准士官の空曹長の時代です。昭和11年〜13年
30〜31歳の頃と思われます。
 搭乗員らしく足もとは
航空半長靴です。
 搭乗員としても一番あぶらが乗った最盛期だ
ったのでは無いでしょうか。
空曹長時代(昭和11年〜16年)の支那の戦場〜国内各地の航空隊で教官をされていた頃の写真です。






教官として後進の指導をしていた時の集合写真です。



片翼帰還で有名な樫村兵曹機です。同じ13空で昭和12年12月9日に起きた事なので
望月空曹長も心配しながら、この一連の出来事を皆で見ていたのでしょう。つなげると
頭上を取り過ぎて着陸するまでの写真となります。実際には4回着陸をやり直しており
ますが…多分、4回目の写真なのでしょうか??
近づいてくるのをカメラマンは撮影しています。
カメラマンの頭上近くに差し掛かってきています。
九六式艦戦の左翼の翼端三分の一が千切れているのがよく判ります。
高度も下げてカメラマンの頭上…そんなに遠くない距離を通り過ぎています。
右翼の日の丸のマーキングが美しく感じます。
カメラマンの真上です。ピンボケしていますから撮る方も撮る事に
必死でピントを合わせてる暇がなかったのでしょう。
ここでこのカメラマンの頭上を乗り越えたところです。
着陸に移るところで必死に左へ傾く機体をコントロールしようとしているのでしょうか。
樫村兵曹はこの時4回も着陸態勢をやり直したと謂います。下は尾部を千切れた状態
ながら無事に怪我もなく帰還後の樫村機を見に集まる一三空の基地関係者達の姿が
写っています。


       ◆ 樫村 寛一 海軍少尉 ◆

 大正二年七月五日生、香川県出身
              (丸亀中学卒)

 第二十四期操縦練習生

”片翼帰還の樫村〜空の英雄”と一世を風靡し
その名を轟かせたエースパイロットの一人です。
あの撃墜王 坂井三郎 中尉と同じ歳で同じ時に
海軍に入隊しました。なんと水兵から飛曹長まで
昇進まで全て同じだったそうです。大村、横須賀
、鹿屋航空隊を経て昭和12年10月に13空に転
属。南郷隊に属し11月22日の南京攻撃で初陣デ
ビューを飾り二機を撃墜します。12月9日の南昌
攻撃でカーチス戦闘機の一群と空中戦になり1機
を撃墜した時、前方から迫った別の1機と空中衝
突をし、墜落しかましたが地上スレスレでコントロ
ールを取戻します。片翼が三分の二近く切断され
ましたが、抜群の操縦技量で基地まで帰還を果
たしました。着陸も難航し4度着陸をやり直し接地
と同時に転覆し尾部から切断したが本人は怪我
一つしなかった。この奇跡の生還は新聞で取り上
げられ瞬く間に「空の英雄・片翼帰還の樫村」と謳
われ、海軍のみならず全国民にその名を広く知ら
れました。その後、撃墜スコアー8機で昭和13年
3月に横空へ移動し帰国。14年末から3か月間、
12空に転じて柳州・桂林攻撃に参加して横空に帰
還。17年12月に582空付けに転じてラバウルへ、
そして激闘のソロモン戦線に出動。昭和18年3月
6日、ガダルカナル島の西に浮かぶルッセル島の
飛行場付近まで長駆進出した五八二空の零戦隊
は迎撃のFワイルドキャット十八機と戦闘に突入、
樫村兵曹長は巴戦で一機撃墜したが高度が低下
し海面に撃墜し戦死されます。まだ29歳の若さで
した。(生涯公式撃墜スコアー12機)



動画サイトのYoutubeに樫村機のニュース映像が
ありましたので引っ張ってきました!


ピンボケですが当時の上海公大基地の飛行場の様子を撮影した写真です。
基地を離陸せんとする九六式艦戦…ピンボケが惜しい。
飛行服姿で九六式艦戦で写るのは望月空曹長でしょう。
上の左右は編隊飛行で上昇中の九六式艦戦。
民間のセスナ機と一三式艦上攻撃機の珍しいツーショット。
朝日新聞社が導入したデハビランドD.H.80プスモス機です。
J-BAXAは登録記号です。中々、珍しい写真です。
一三式艦上攻撃機です。腹に抱えているのは増槽でしょう。
左右の翼下に爆弾の懸吊架が見えます。
九五式艦上戦闘機です。着陸か離陸のどちらかで失敗したのでしょうか?
素人目にも足は弱そうですね…。


カーチス P-36(輸出仕様のホークV)でしょうか。撃墜機か鹵獲機を撮影したものでしょう。



写真アルバムです。(以下、アルバム内から一部を紹介します)
大正14年に海軍に入隊、佐世保海海兵団を振り出しに第九期操練
第九期操練の霞ヶ浦時代です。
大正14〜15年はまだ日本の航空界は黎明期の頃です。








まだ笑顔があどけない…。
左から二番目が若かりし頃の望月練習生です。














珍しい不時着機の写真です。マーキングから霞空の所属が判ります。
















卒業で霞ヶ浦より大村海軍航空隊へ転属します。
大村海軍航空隊時代です。


立派な下士官に成長されています。右の臂章の上に善行章二線が見えます。






水兵たちを連れての遠足でしょう。何処かの神社や大社を参詣したもようです。




観艦式でしょうか…大勢の市民が港を埋める多数の軍艦を見学しています。


















       テニス御家族など一般民間人と一緒に楽しんでいるようです。         奥様とお嬢様です。
航空隊らしく空き時間にテニスや野球に他の兵科にに比
べ優雅です。一人の優秀なパイロットを育て上げるのに
掛かる国費も相当なものです。パイロットは士官や兵下
士官の階級差を問わず…大切なエリートです。
この方のシャツの左胸のマークが海軍の飛行マーク
興味深いのは、こんな時代から洒落た小物まで使わ
れているのに驚きました。
離着陸に失敗したのでしょう。機首部がぐッシャリと潰れて穴になった
部分にプロペラの残骸が見えます。戦時でなく平時の錬成中も航空隊
の事故はパイロットの死と高額な飛行機の損失を伴います。
これだけ破壊されていれば搭乗員も生きている事は無いでしょう。


非常に珍しい写真です。着艦に失敗して舷側の高角砲に引っ掛っている艦載機です。
この様子では機首は潰れても操縦席は辛うじて無事の様なのでパイロットは
重傷を負っても存命だったものと思われます。しかしこの高角砲の要員がこの
場所に居たら…巻き込まれて殉職した可能性もあるでしょう。
拡大してみた飛行甲板
左手前が鳳翔、遠くに戦艦らしき大型艦が二隻、そして右は赤城と思われます。


空母”鳳翔”




大改装前の三段式の頃の空母”赤城”



望月大尉が三空曹時代に乗艦していた空母”加賀”の大改装前の
三段飛行甲板の時代の写真です。
この空母”加賀”の勤務を最後に望月大尉は母艦勤務する事は二度と
ありませんでした。以降は支那大陸で国府空軍と戦い…帰国後は国内
で教官生活に日米戦の海戦で既にロートルの教官であった望月 特務
中尉にも零戦に乗り最前線で米軍と戦う命令が降ります。そして北千島
からルオットに進出し3カ月…玉砕して果てます。







戦前・戦中資料:

     宮内高等官奏任官大礼帽(正帽)と
      珍しい宮内高等官奏任官小礼帽(通礼帽)と
                 宮内奏人官正衣袴(大礼服)




上が宮内高等官奏任官大礼帽(正帽)、下が宮内高等官奏任官小礼帽(通礼帽)






宮内高等官奏任官大礼帽




様式でも雅ですね…ベルサイユの薔薇を見ているようです。







宮内高等官奏任官小礼帽(通礼帽)です。
この宮内高等官小礼服の奏任官小礼帽ですが、これは不勉強
で全く知りませんでしたが、とても珍しいものです。宮内官には
特にこのような小礼服(通礼服)の制式が定められており、文官
における通常礼服(燕尾服)、陸海軍における礼装(通礼装)に
準じるものだそうです。四大節以外の宮中拝賀等で使用される
との事です
この正帽には、駝鳥の毛はもとからありません。残念ながら痛みが
結構あります。付属品等に欠品はありません。海軍では通礼服は
良く使われており、陸軍でも九八式軍衣の時代は同様によく使って
いましたが、文官でも同様にあるものなのですね。本来は文官が先
なのでしょうが…。雅な世界ですね。


この下の制服が宮内高等官小礼服です。ある研究者の方の所蔵品です。
この制服はイギリスの宮中服(court dress)を参考にして作られたものと
考えられれているそうです。宮内官大礼服は帝政ロシアやドイツ帝国など
の影響を受けていると謂われますが、宮中でもこうした形で英国の服制の
影響が色濃く現れているとの事です。
佩用例です。



宮内奏人官正衣袴(大礼服)
下に所蔵している一般文官で奏任官の正衣袴(大礼服)を掲載し
ましたが、やはり宮内奏人官正衣(大礼服)の方が豪華です。














以下は以前、収集し収蔵している各種・文官の正衣袴です。
宮内省以外の国家公務員の奏任官の正衣です。
左の腰の飾りが欠落しています。胸に勲章掛が縫い付けされてます。テーラー
タグは、三越呉服店です。



下は戦前の司法省の勅任官の正衣袴(大礼服)です。
勅任官ですので将官相当になります。
所持者だった方は、従三位勲三等 福岡安治 元大審院検事です。
剣刺もきれいなのでベストから出して撮影しました。
非常に美しい状態です。








御本人の写真です。



非役有位四位以上勅任官の正衣です。これも
中々出てこない品で珍しいものです。
一般の勅任官の正衣は、良く出ますが本品は、背面の肩部に桐紋が
2箇所ある型で珍しいものと思います。惜しい事に前開きの第5釦が
欠で、第6、8釦が五三桐の釦に換えられています。
宮内省高等官の大礼服です。襟と袖の赤は、式部職または、主殿寮
を表しています。式部職書記官または、奏任官と思われます。
宮内省式部職奏任官の正衣です。任官数も少ないので
非常に珍しい正衣だと思われます。全体的にややモール
の脱落が見られますが、裏地に当時の使用によるとみら
れる擦り切れ等の痛み(特に前裾部) も見受けられます。
虫食いは、両袖口の赤羅紗部に米粒大の虫食小穴が各
1箇所あります。過ぎ去った歳月を思うと状態としては、美
品だと思います。
これは同時期にオークションで売りに出ていた宮内省式部職奏任官
の正衣袴・正帽一式です。中々、出てこない品です。






各種・文官の正衣袴・正帽の佩用例です。







田尻 唯二 海軍中将 自筆 額装用めくり







    ◆ 田尻 唯二 海軍中将 ◆


 佐賀県出身 海兵23期 海大6期
 功五級

          (略 歴)

明31年1月14日  任海軍少尉
明31年9月 1 日  八重山乗組
明32年9月29日  任海軍中尉
            摩耶乗組
明39年9月28日  任海軍少佐
明40年4月 5日  海大甲種学生
明44年12月1日  任海軍中佐
            元帥大将 井上 良馨 副官
            海軍省出仕
明45年1月22日  海軍省軍務局局員
大 3年12月 1日  淀艦長
大 4年12月13日  任海軍大佐
            音羽艦長
大 5年 1 月28日  筑摩艦長
大 8年11月20日  金剛艦長
大 9年11月12日  横須賀空司令
大 9年12月 1日  任海軍少将
大11年11月 1日  霞ケ浦空司令
大12年11月 6日  馬要司令官
大13年12月 1日  任海軍中将
大13年12月20日  軍令部出仕
大14年 3 月 2 日   待命
大14年 3 月20日  予備役
昭11年11月23日  後備役
昭16年 4 月 1日  予備役
昭16年11月23日   退役










宇川 済 海軍中将 自筆 一行書




竹密不防流水過としたためられた額装用めくり

     ◆ 宇川 済 海軍中将 ◆


 長野県出身 海兵28期 海大10期
 功五級

          (略 歴)

明35年 1月18日  任海軍少尉
明36年 5月14日  白雲乗組
明36年 9月26日  任海軍中尉
明41年 4月20日  海大乙種学生
明43年12月 1日  任海軍少佐
            海大甲種学生
明45年 5月22日  三笠分隊長
大元年12月 1日  生駒砲術長
大 3年 3 月23日  砲術校教官
大 3年 8 月18日  砲術校副官
大 4年 12月 13日 任海軍中佐
             第六戦隊参謀
大 5年12月 1 日  呉鎮参謀
             望楼監督官
大 8年12月 1 日  任海軍大佐
             横鎮附
大 9年 2 月17日  海大教官
             軍令部参謀
大11年12月 1 日  八雲艦長
大13年 4 月15日  榛名艦長
大13年 9 月 1 日  呉人事部長
             呉鎮人事長
大13年12月 1 日  任海軍少将
大14年 2 月 2 日  横鎮参謀長
昭 2年 12月 1 日  第一遣外艦隊司令官
昭 3年 12月 10日  任海軍中将
             第五戦隊司令官
昭 4年 11月 30日  軍令部出仕
昭 5年 6 月 10日    待命
昭 5年 6 月 20日   予備役
昭10年 1 月 22日  久迩宮別当
昭52年 12月16日    逝去(享年97歳)








小西製のシリーズ…装甲巡洋艦”日進”と”春日”です。

















             性能緒元             
 排 水 量  基準:740t
 全 長  69.5m
 水 線 長
 全 幅  8.6m
 吃 水  3.05m
 機 関  蒸気タービン1基1軸 2,500馬力
 燃 料  重油 240トン
 最 大 速 力  17.5ノット
 航 続 距 離  14ノットで4,500海里
 乗 員  141名(計画)
 兵 装 (計画時)
45口径12センチ高角砲 単装2基
25mm三連装機銃2基
三式迫撃砲単装1基[1]
三式爆雷投射機12基
爆雷投下軌条1基
爆雷120個
 同 型 艦  143隻(計画)            
 67隻(完成)



















小さな1250分の1スケールも数を並べると結構、迫力が出てきます。
戦艦”武蔵”に空母”隼鷹”も護衛の巡洋艦群の中に鎮座しています。




病院船”氷川丸”と”あるぜんちな丸”です。


新たに加わった軽巡と駆逐艦、潜水艦の1250分の1です。