旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_9














Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








開戦前より中攻隊で活躍、高雄空から四空へ転じ、
 昭和17年2月20日のニューギニア沖海戦で散華した
  海兵66期 三谷 明 海軍大尉の海兵生徒時代愛用の品々




昭和17年2月20日のニューギニア沖海戦で戦死された三谷海軍大尉の
海軍兵学校時代の生徒軍帽と最後まで愛用されていた士官剣帯です。
凛々しい海軍少尉時代の写真です。海兵66期卒
上の一式陸攻は三谷 明 海軍中尉(戦死後、大尉)が所属した四空の機体です。
昭和17年8月8日、ガ島沖の米艦船に雷撃を行う三沢空と四空の一式陸攻






三谷中尉が四空で最後を共にした一式陸攻…九六式陸攻と同様に日本海軍を
代表する傑作中攻でしたが…余りに防禦力を軽視した為、ソロモンの海は日本
中攻隊いや零戦など戦闘機他の航空機もまた防禦を考えず…ソロモン・ガダル
カナルは日本陸海軍航空機の墓場と化しました。特に対戦闘機では猫に狙われ
る鼠のように中攻隊の消耗と被害は悲惨を極めました。



かねてより用意されていた三谷中尉の遺書です。内容から昭和16年の7月
前後で高雄空より抽出され第三航空隊で広大な太平洋諸地域を僅か3機
の中攻で偵察を強行していた時期と思われます。この後、同年7月25日に
漢口に進出し九七陸攻を一式陸攻に乗り換えて成都を空襲を行い9月に
高雄空の所属に正式に戻ります。
下はお父上が戦後に”級友追悼録 江田島の契り(海兵66期会)”に寄せたものです。





経歴の中でバリックバパンで戦死となっていますが、これは明らかに
何かの間違いで正確には右上の同隊の同期生の追悼文にあるよう
にラポール(ラバウル)東北東460海里の海域の敵機動部隊を攻撃
を敢行し四空の出撃17機の一式陸攻のうち15機が未帰還(13機撃
墜、2機不時着)と壊滅的被害と引き換えにラバウルを死守しました。
この攻撃で三谷中尉は戦死され大尉に昇進されました。この時、進出
したばかりの零戦隊に増槽が未到着で遠距離にあったレキシントンを
中心とした敵艦隊の攻撃に戦闘機の護衛が全くつけられず…攻撃に
出た中攻隊17機はF4Fワイルドキャットの餌食になりました。この時、
不運にもラバウルには航空魚雷が到着しておらず、爆弾を抱いての
攻撃を余儀なくされました。必殺必中の雷撃であればいざ知らず急降
下爆撃が出来ない中攻隊では…防弾装備なくワン・ショット・ライター
の有難くないニックネームを頂戴していた日本の中攻隊は死にに行く
ような攻撃でした。…その後、この四空は8月にも壊滅的打撃を受け
てまさしく四空(死空)を呼ばれ内地に帰還し隊名を第702海軍航空隊
再び、昭和18年5月に再進出するも10月過ぎには戦力を擦り減らして
12月に解隊を余儀なくされます。まさしくラバウル航空隊の所謂、ソロ
モン航空撃滅戦の始まりで戦死されたのが三谷大尉等の四空の中攻
隊の英霊の方々と謂えます。
燃料投下中の一式陸攻




開隊したばかりの四空を壊滅状態に追い込んだ空母”レキシントン”です。
約2カ月後の珊瑚海海戦(昭和17年5月8日)で敵討ではありませんが…
日本海軍の艦載機により下の如く大火災を起こし、味方駆逐艦の雷撃処
理で自沈します。





三谷中尉がラバウルを出撃した時、黎明期で零戦は
やっと10機程度しかも増槽が届いてなく、九六式艦
戦では足が届きませんでした。そしてまだラバウルに
は航空魚雷も到着していない状態で一式陸攻のみ
17機の強行爆撃を空母”レキシントン”の艦隊へ向け
て1220出撃しました。(1200に接敵の大艇が1機先行
して発進しています。)1435に第二中隊が敵主力部隊
を発見し攻撃の入電がラバウルに届きます。続いて15
00、第一中隊が同様に攻撃を入電。1615に至り、『15
30爆撃終了、防御砲火熾烈数機自爆ス、一隻撃沈16
00』の報告があったまま詳しい報告は一切入らず、夕
方になって二機が基地に帰着し、この他に1機はラバ
ウルの湾内に、もう1機がニューアイランド島東方のヌ
グリア諸島のヌガーバ島に不時着しました。そして他の
13機は遂に帰還しませんでした。出撃全機が失われた
四空では不時着した生存者の証言と米軍側の記録から
哨戒に出ていた大艇二機はともに敵戦闘機に撃墜され
攻撃隊の第二中隊9機のうち2機が爆撃前に敵戦闘機
に落とされ、残る7機は爆撃を敢行したものの敵の回避
により命中せず、7機は爆撃後全機が敵戦闘機に撃墜
されました。残る第一中隊8機は爆撃前に敵戦闘機の
攻撃で3機が撃墜され、5機が爆撃を試みたが、またも
や敵の回避によってかわされました。そして5機のうち
4機が帰投し2機が無事に基地に帰着し、2機が不時着
しました。そしてこの攻撃で被弾した陸攻のうち2機が
体当たり攻撃を試みてうち1機が敵空母”レキシントン”
の真横1800m、高度60mでレキシントンの右舷集中砲
火の中を機銃を連射しつつ突入したが、惜しくも同艦の
手前約15mの海上で力尽き撃墜し大火災を真横でおこ
しました。日本側の生還者はこれを空母の火災と認識し
報告にあげています。またもう1機もまたレキシントンの
900m手前で駆逐艦の対空砲火で仕留められ本懐を遂
げられず海中に没しています。
海兵生徒時代の軍帽です。顎紐の片方の糸が切れておりますが
総じて美品と謂えます。こちらは生徒時代しか使われなかった為
か、剣帯に比べ痛みが少ないです。









以下は…同人のバラ売りされた遺品の軍装品です。肩章と軍帽と功四級金鵄勲章
と勲六等単光旭日章の叙勲の仮記のセットと少尉候補生一種軍衣と中尉の一種
軍衣のセットです。この時期に所用で地方に出ていた為、一括りで入手する事が
出来ませんでした。名のある英霊の品だけにバラ売りされ全国に四散するのを見る
と…慙愧の念に堪えません。
やはりこうした品は遺品であり…国の為に亡くなられた英霊・軍神の品ですから
一括りとして後世に残すか供養すべき物だと毎回、強く思います。
こうした遺品をオークション等で入手し着相して歩いたり軍歌を歌い遊ぶ
愚か者がおるようですが…嘆かわしい事です。是非、大切に扱っていた
だきたいと切に願うばかりです。







昭和12年8月15日、杭州空襲で被弾
 自爆戦死された第二航空戦隊 空母”加賀”
  安 仙三 海軍大尉(戦死後、少佐)の御遺族に
   空母”加賀”から贈られた遺影用の大判写真と
                           エンタイヤ




安大尉は、水戸中学から海兵56期進まれ航空畑に進まれ空母”加賀”
航空隊分隊長で昭和12年8月15日に杭州空襲に出撃し国府軍戦闘機
の攻撃で被弾し帰還不能を悟ると自爆をし戦死されました。敵占領地で
捕虜になった場合…相手が残虐な支那人である場合は、筆舌に絶する
前日の14日に蒋介石の国府軍が上海市内に無差別爆撃を行い…一般市民二千人
を殺傷する暴挙を行い…これを誤爆だと嘘で塗り固めた。その翌日、8月15日…この
日、東支那海の馬鞍群島沖に達した空母”加賀”から九四式艦爆、 九六式艦爆、
八九式艦攻が上海周辺飛行場を爆撃する為、発進しました。この日…台風の影響
で艦が小さい空母”龍驤”と”鳳翔”からは揺れが激しく攻撃隊を発艦出来ず…加賀
の攻撃隊だけの出撃となりました。その数は、九四式艦爆が16機、 九六式艦爆が
13機、八九式艦攻が16機の計45機でした。また陸上からも鹿屋航空隊の九六式陸
攻14機が台北から、九州の大村から木更津空の九六式陸攻20機が南京に向けて
世界初の渡洋爆撃を敢行しました。この時の鹿屋空の14機は無事に帰還を果たしま
したが木更津空の20機は、4機を撃墜されました。そして加賀攻撃隊は、九四式艦
爆隊が寧波近辺の曹娥基地の攻撃し対空砲火で1機を失うものの地上の敵カーチ
スA-12シュライク6機を撃破しました。また帰還までに1機が海上に不時着するが乗
員は味方駆逐艦に救助されています。九六式艦爆13機は、南京基地空爆に向かい
こちらは天候不良で全機引き返した為、無事に帰還しました。しかし八九式艦攻16
機は二隊に分かれ杭州基地空爆に9機(指揮官 岩井 庸男 海軍少佐)が、広徳基
地空爆に7機が向かいました。このうち杭州に向かった9機はホークVの迎撃で6機
が撃墜、2機不時着と壊滅的被害を受けました。この中に安大尉も含まれています。
45機出撃し途中引き返した13機を除くと32機が攻撃に参加、うち10機を失う被害を
出しています。第一航空戦隊の鹿屋空・木更津空の九六式陸攻それぞれ14機と10
機を出撃させましたが4機を失いました。14日〜16日の3日間で両隊は稼働機を半
減させるい被害を出しいています。…戦闘機の護衛の無い爆撃機の末路は憐れで
艦載機も…またその後も渡洋爆撃が継続された中攻機隊も大きな被害を出し続け
ました。当時、源田実等を中心に蔓延していた戦闘機無用論は…その後、海軍内
で吹き飛んでいきます。
戦死された安 少佐は海兵56期。同期生では珊瑚海海戦で米空母
”サラトガ”を撃沈後に戦死された翔鶴飛行隊長 高橋 赫一 大佐や
当サイトで遺品を展示しているニユーギニアで戦死された751空飛
行隊長の柴田 弥五郎 中佐がおられます。


この八九式艦攻で出撃し杭州上空で戦死されました。
8月14〜16日は、この九六式陸攻も攻撃に参加し被害を出しています。
当日の馬鞍群島沖の加賀から艦載機攻撃と
台北と大村からの渡洋攻撃の略図です。
六番爆弾を六発抱いて爆撃に向かう木更津空の九六陸攻
左上の画像は台北に帰投した九六式陸攻…73発被弾していた。右上は
大陸で撃墜された九六陸攻の主翼。


軍艦加賀の安大尉に送られた郵便筒です。戦死され受けとり手が
居ないので遺族のもとに加賀先任衛兵伍長から転送されています。


遺影用に集合写真から大尉の部分を引き伸ばし遺族に送られたものです。
この日筧橋を攻撃した九四式艦爆(上)と八九式艦攻(下)


安大尉が発艦し二度と帰る事が無かった空母”加賀”です。
この日の攻撃で被害を多く出した上が九四式艦爆、下が八九式艦攻。
そしてこの下は加賀の九六式艦攻です。


この上下の複葉機が国府軍が採用し加賀の攻撃隊と渡洋爆撃隊(中攻隊)
を攻撃したカ―チス ホークVです。







戦前資料:大日本航空婦人会趣旨と
        霞ヶ浦海軍航空隊に慰問した
         女優
岡田 嘉子を囲んだ記念写真




写真の女優 岡田 嘉子は、大正〜昭和初期のサイレント映画時代のトップ映画女優
でありました。奔放な恋愛遍歴とソビエト連邦へ亡命するなど波乱の生涯を送ったこ
とでも知られ、戦後にドラマ化されたりもしたそうです。

















廣島出身で母方の祖母にオランダ人の血が入っている為、魅力的な美貌
の女優・アナウンサーとして活躍したが奔放な恋愛遍歴と…仕事の上でも
当時のお騒がせ女優であったらしく…最後は赤の男性とW不倫の果てに
昭和12年1月3日、樺太の国境線を越えてソ連に亡命しました、しかし因果
応報のように男性の方は、程なくして銃殺され岡田 嘉子もまた劣悪な環
境の刑務所に10年近くも幽閉され…平成四年にモスクワで89歳の生涯を
閉じました。



















































小西製のシリーズ…空母”大鳳”に”蒼龍”、戦艦”山城”、”扶桑”、”金剛”です。








小西製のシリーズ…装甲巡洋艦”日進”と”春日”です。


















             性能緒元             
 排 水 量  基準:740t
 全 長  69.5m
 水 線 長
 全 幅  8.6m
 吃 水  3.05m
 機 関  蒸気タービン1基1軸 2,500馬力
 燃 料  重油 240トン
 最 大 速 力  17.5ノット
 航 続 距 離  14ノットで4,500海里
 乗 員  141名(計画)
 兵 装 (計画時)
45口径12センチ高角砲 単装2基
25mm三連装機銃2基
三式迫撃砲単装1基[1]
三式爆雷投射機12基
爆雷投下軌条1基
爆雷120個
 同 型 艦  143隻(計画)            
 67隻(完成)



















小さな1250分の1スケールも数を並べると結構、迫力が出てきます。
戦艦”武蔵”に空母”隼鷹”も護衛の巡洋艦群の中に鎮座しています。




病院船”氷川丸”と”あるぜんちな丸”です。


新たに加わった軽巡と駆逐艦、潜水艦の1250分の1です。