旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_21












Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








     【精巧手作り舟艇シリーズ】

1/25 海軍陸戦隊 武装大発(大発動艇)
   (上海陸戦隊 十四米特型運貨船)


〜チーク材による船体と精巧手作り真鍮製の武装〜




今回の匠の作品はオール真鍮製の兵器ではなく
オール・チーク材による大発に武装は手作り真鍮
製といつものオール真鍮と違う…新たな新鮮な作
品となっています。勿論、今回も世界に一つだけの
こだわりの作品となっております。
海軍の上海特別陸戦隊仕様です。この他に戦闘車両搭載仕様や
陸軍の武装大発仕様に噴進砲搭載仕様など、それぞれ上部構造
を変えることにより、陸海の違うバージョンを楽しめるようになって
います。この艇後部の楊錨機は完全可動に後部の7.7mm機銃は
左右入れ替え可能が見えます。また艇の前方ハッチはクランクで
開閉可能で可動します。
上海特別陸戦隊バージョンですが、人形の方はあいにく
陸軍の兵士になっています。この大発で幾つかのパター
ンのシュチェーションを楽しめるようになっておりますが
四パターンのうち三パターンが陸軍なので人形は陸軍の
兵士になっています。



オール・チーク材で仕上げた大発に武装は手作り真鍮製です。
上海特別陸戦隊仕様ですが、この他に 戦闘車両搭載仕様や
陸軍の武装大発仕様、噴進砲搭載仕様など、それぞれ上部構
造を変え-ることにより、陸海の違うバージョンを楽しめるように
なっています。





20mm自動砲(陸軍の九七式自動砲)










上の写真が実際の上海特別陸戦隊の武装大発です。













以下、匠の製造工程の画像を少し紹介します。




























奇跡のキスカ島撤退作戦で当時
 第五十一根據地隊の先任参謀を勤めた
   安並 正俊 海軍中佐(敗戦時、舞鶴防備隊
    副長 兼 第二十一海防隊司令)の軍衣二点




安並 正俊 海軍中佐は、海兵50期(高知海南中出身)。
昭和13年12月1日、隼(魚雷艇)艇長、昭和15年5月15日
駆逐艦”弥生”艦長、同年10月15日、駆逐艦”若葉”艦長を
歴任し、中佐に昇進後、キスカ島の海軍第五十一根拠地隊
先任参謀として奇跡の撤退作戦を主導。安並中佐は陸軍の
藤井中佐と共に撤収作戦打ち合せの為、幌筵へ派遣されて
おり、現地のキスカでは安並参謀のもたらした取り決め事項
にしたがって7月11日以降、全員が毎日浜へ集合し、救出艦
隊の入って来るのを待ちました。こうして約6千名の陸海守備
隊将兵が無駄死にすることなく昭和18年7月29日、日本艦隊
は突入し撤退を完了し…見事にケ号作戦は成功しました。















キスカ作戦の成功の後、安並中佐は昭和18年10月5日に駆逐艦
”不知火”艦長に!…同年11月11日、舞鶴防備隊副長に転じます。
そして敗戦まで同職にあり 第二十一海防隊司令を兼任します。
安並中佐が司令を務めた第二十一海防隊の上部組織は第一護衛艦隊
で司令長官は田結 穣 海軍中将、参謀長は鳥越 新一 海軍少将です。
この二人はともに本務は舞鶴鎮守府の司令長官と参謀長です。安並中佐
も本務はあくまで舞鶴防備隊副長でした。この第二十一海防隊には
新南、志賀、生名、第27号海防艦、第194号海防艦、第198号海防艦な
どが配備され舞鶴・新潟−元山・羅津・雄基(現先鋒)間を結ぶ日本海の
横断航路を確保し他の海防隊と共にソ連が対日参戦に際し、隷下海防艦
の一部が敗戦による停戦命令に反しても朝鮮・樺太に入港し、邦人救出
を敢行しました。










海軍 操縦者用零式縛帯と零式落下傘




先の大戦の後半戦で海軍のパイロットが
使用した零式操縦者用縛帯です。









70年以上の前の落下傘とは思えないような
鮮やかな色と艶をまだ保っている零式落下傘
二型です。下のマネキンが装着している零式
操縦者用縛帯とセットで入手しました。



さる高名な航空コレクターの方から譲り受けた零式縛帯と零式落下傘
です。このマネキンの装備一式の中で縛帯と落下傘のみ譲り受けました。
丁度、落下傘を海軍のパイロットがフル装備した姿になります。
八九式や九七式の操縦者用落下傘が腰の位置で落下傘をぶら
下げる形である所謂、座席型落下傘であるのに対して…この零
式落下傘は御覧のように空挺の一式や四式落下傘の様に背負
式になっています。下の画像のスタイルが最もスタンダードな
九七式や八九式縛帯と落下傘の組み合わせです。その下は、
当サイトで元々、収載している陸軍の九七式縛帯と落下傘です。
大戦の開戦当初から中頃までは上の座布団代わりに
座席に敷いた九七式や八九式の縛帯と落下傘のセット
が主流でした。これ零戦をはじめ多くの日本軍機が使用
した尻下に傘を位置し、両腰骨上前側のD環で傘と帯を
連結するもので乗降の際は縛帯から外して座席に残して
座布団様に使用し…中にはここに小便をする搭乗員も多
かったようです。…大戦後期になると下の画像の様な零
式縛帯と落下傘が主流となります。
この零式は背負式の傘を両肩前側のD環で傘と帯を連結するタイプで
乗降の際も搭乗員と常に連結しており、搭乗員の生還を高める工夫が
なされています。搭乗後自動開傘索の茄子環を飛行機の操縦席脇に
ついているD環に懸けて留めます。
下が従来からの九七式や八九式を使った零戦
などの座席です。左上の画像は後期の零戦や
雷電、紫電改などの座席形式で零式落下傘を
装備させた座席です。また右上の写真は有名
な写真で橘花にテスト飛行で乗り込もうとする
志賀少佐を背後から撮影したもので零式落下
傘をつけているのがよくわかります。
従来の九七式縛帯と落下傘を使った座席の
画像と下は…私の所持している九七式縛帯
と落下傘です。
私の持つ陸軍の九七式縛帯と落下傘のセットです。
因みに落下傘鞄や落下傘嚢はよく出てきますが意外と
珍しく出て来ないのが下に掲載した縛帯嚢です。完全な
形で残存する物はまず無いので珍しいものです。方布が
残念ながら剥がされています。 陸軍航空隊の星章が印
されています。



零式縛帯と九七式縛帯との違い…区別は傘との連結をする
D環位置と腰に位置する金具が亀の甲羅様の五角形なのが
九七式縛帯でであり、菱形の四角形なのが零式縛帯です。
縛帯は戦後70年以上の歳月を経た品にしては総じて美品。
僅かに両肩のベルト通しの釦が錆びて痛みがある程度です。
落下傘も経年の劣化も見られず美品です。保存状態が
非常に良かった事を示します。





落下傘収納鞄はオリジナルでなくオマケの後家合わせです。
海軍空挺用の一式落下傘(特型)のものです。嬉しい事に
この海軍の落下傘部隊用の一式縛帯と落下傘のセットを所
持しておりましたが、落下傘鞄が欠でした。これで揃い完品
となりました。下に所持している一式縛帯と落下傘の画像を
掲載しました。
よく見ると薄れていますが、堀内部隊 三ノ二 一水 塚田重雄
と読めます。堀内部隊と謂えば堀内 豊秋 海軍大佐の中佐時
代に司令を務めた横須賀鎮守府附第一特別陸戦隊です。この
横一特は、日本初の落下傘部隊として…昭和17年1月11日に
メナドへの奇襲降下作戦を行いセレベス島メナド郊外のランゴ
アン飛行場に敵前降下し334名の隊員で敵を制圧し占領を成
功させた事で有名な部隊です。その隊員の一名の落下傘鞄で
ある可能性が高いと思われます。
下は陸軍の空挺用の一式落下傘です。こちらは落下傘鞄は
あるのですが陸軍の一式縛帯がありません。
陸軍一式落下傘(ニ型)鞄です。三菱電機 郡山工場と昭和19年
2月10日の記載があります。郡山の三菱電機は、戦時中に落下傘
の製造・補修をしていたそうです。
私の所持する空挺の一式落下傘を紹介したので空挺ついで
として珍しい陸軍の四式縛帯と落下傘も所持しているので紹
介します。上の一式落下傘は日米戦の開戦前後から装備さ
れた最新の背負式の落下傘です。それまでは九二式同乗者
用落下傘を腹側に装着していました。
左上の画像が一式落下傘で降下中の空挺兵です。
真ん中と右上の画像は九二式同乗者用落下傘を装
着した画像です。最も最新の世界初の吊索開傘の
四式縛帯と落下傘が以下となります。









完全品の四式縛帯と落下傘です。ここまでの美品は中々、お目に
かかれません。高千穂空挺隊(第二挺進団)や義烈空挺隊(挺進
第一聯隊)など大戦後期の挺進聯隊は全てこの新型の四式落下
傘を装備しました。

四式落下傘世界に先駆けて我国が採用した吊索優先の開傘
方式でこれによりノロシとなり不開傘が絶無といわれた。戦後、
米軍がこれを真似てT-10を開発したと言われています。たまに
四式落下傘は米軍の落下傘を真似たとか参考に下と謂う記載
を見掛けますが、全くの勘違いで真逆の話です!
上下ともに四式落下傘を背負って飛行機に登場するシーン
を撮影しています。下では腹側に不開傘に備えて九二式同
乗者用落下傘を副傘として付けているのが判ります。これに
小銃や弾薬など装備品を持つと優に装備品の重さは50sは
超えるので飛行機に搭乗するのも一苦労です。








海軍 八九式同乗者用落下傘




こちらの同乗者用落下傘も上の零式縛帯と落下傘の
譲って下さった高名な航空コレクターの方からの品と
同じです。
真ん中の画像は同乗者用の縛帯をカポックの上につけて
同乗者用の落下傘を持っているものです。主に単座機で
無く艦攻や艦爆や偵察機など多座機の偵察員や通信員
などが使用しました。右端の縛帯は中田商店で掲示して
いる八九式同乗者用縛帯の実物写真です。











落下傘収納鞄はオリジナルでなくオマケの後家合わせです。
八九式落下傘(三型改)のもので…米国からの里帰り品のよ
うです。








九州の某資料館より出た
 海軍 局地戦闘機”紫電改”の尾輪
        (川西 N1K2-J)




九州の某私設資料館から紫電改の尾輪として
委託品で出品された品です。

出所と謂われている某私設資料館です。
館長さんは乙飛18期で香取空の艦攻”流星”乗りで
神風特別攻撃隊第七御盾隊流星部隊の特攻要員だ
った方です。
自宅の住居を改造したような資料館ですが…館長さんの
平和への願いと尊い犠牲を払った仲間への鎮魂の想いが
強く感じられます。





タイヤには、BSマーク、5−3、200X75、口と刻印が有ります。
特にホイールには刻印等ありません。このサイズ的には紫電改で
も問題ありません。海軍を示す刻印がまるでないので同サイズを
使用している陸軍機の疾風に飛燕、鍾馗の尾輪の可能性もあり
断定できません。しかし…館長さんに敬意を払い紫電改の尾輪と
謂う事で収載して掲載します。
フロントシャフトにベアリングがあり脱着が可能です。
疾風の尾輪はタイヤがソリッドで溝が無しでホイール
は8本スポークなので同じです。私的には疾風の尾輪
のように感じています。












第二十五代 海軍機関学校長
     平岡 巌 海軍機関中将の
          勲三等瑞宝章 勲記




御覧のようにかなり痛みのある勲記です。平岡中将は
鹿児島県出身、 海機17期 ハンモックナンバーは4/61
です。技研電気研究部長から艦政本部第三部長を経て
昭和13年に海軍機関中将に。同時に海軍機関学校の
校長に、日米戦の開戦前に軍令部出仕になり待命、昭
和17年3月に予備役。戦後の昭和40年3月28日に79歳
永眠されています。








一式陸攻の翼材の一部です。大先輩からのいただきものです。
レストア中の外板の一部です。
河口湖自動車博物館・飛行館でレストア中の一式陸上攻撃機
22型 12017号機 です。


青竹色が鮮やかに残っています。ジュラルミンに錆や
腐食がみられますから当時の物と思われます。








何処の航空技術廠か不明ですが
    海軍航空技術廠の技術徽章




何処の航空技術廠のものか判りませんが
海軍航空廠の技術徽章です。下は千歳に
あった第41海軍航空廠の徽章です。












懐かしの80(ハチマル)ヒーロー
 名車アーカイブ エフトイズ 食玩
   Nostalgic Hero
 1/72スケール




カーマニア、旧車愛好者に絶大な人気を誇る「ノスタルジックヒーロー」
「ハチマルヒーロー」編集部の全面協力を得て、輝かしい日本の名車を
1/72スケールでリアルに再現した新食玩シリーズがスタートしました!
1981年の名車3種をピックアップされ、往年の名車とともに、時代の雰囲
気を味わえます。
ソアラ 2800GTにセリカXX 2800GTの高根の花だった
往年の名車に…斬新だったシティR はモトコンポも再現
されています。そしてGSX11100S カタナ…と懐かしいで
すね…。






































愛用の腕時計




随分前に亡くなった父が使っていた時計で唯一…遺品として
私が使っているのがオーデマ・ピゲのロイヤルオークです。車
好きだった父が残した愛車もあったのですが…古すぎて処分
したので動く形見はこの時計だけになりました。この時計は、
初代のロイヤルオークで約42年前に父が購入して愛用してい
たものです。数年前に動かなくなり修理に出しましたがスイス
の本社での修理するようで…修理代もえらい高かったので驚
きました。形見の品でなければ修理せずほかっておいたかも
しれません。
父の愛用の時計は…今や私の愛する時計の一つとなり
この先、何十年かは時を刻み続けてくれるものと思いま
す。そしてまた形見分けで後継されていくのでしょう。












何時頃入手したものか失念してしまいましたが海軍の砂時計です。
時間は約30秒ほどです。ケースの横に錨マークとNO.670と刻まれ
ています。上蓋の上にも28と刻まれています。














海軍第三燃料廠(徳山燃料廠)の軍属略帽章です。








〜 脱 線 〜




*今回このページの曲に取り上げた昭和の歌謡曲
全盛の時代に大ヒットを連発した大スター・ジュリー
こと沢田研二の”危険な二人 ”です。当時の姿を動
画で今見ても…本当にセクシーでカッコいいです。
まさに大スターであり、カリスマ性に溢れていました。
この曲は昭和48年4月にリリースされた6枚目のシン
グル曲です。沢田研二としてはオリコン1位になった
1曲目のシングル曲となります。65万枚のレコードを売
り上げたヒット曲となり、この年の第4回日本歌謡大賞
を受賞しています。
そんなジュリーも今や65歳です。…昔の面影は薄れ
老いは無残ですね…。鳥取県出身で現在の奥さんは
女優の田中裕子さんです。
昨年の暮れに44年ぶりとなるザ・タイガースをオリジナル
メンバーで再結成してコンサートを開催して話題になった
のが記憶に新しいところです。









危険な二人

























今、見ても全然古さを感じさせず…逆に若い頃に
見た時よりもセクシーでカリスマ性を感じます。
本当にカッコいいですね。今はこんな素晴らしい
昭和の大スターの様な方が本当にいなくなりまし
たね。…なんとも寂しいものです。











〜 脱 線 2 〜




平成26年7月、我愛機 CB1100FD…まだまだ元気です!












いつもお世話になっている大先輩から頂いた
横須賀土産のコースターです!















海軍刀の菊水紋彫の銀ハバキです。
陸具の靖国刀に対して海軍では菊水刀が有名で人気が高いようです。
菊水刀には茎に菊水紋彫りの銘とこの菊水紋彫りの銀ハバキが定番
です。…その人気にあやかって贋作を売る悪い業者も多いようです。