旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_22












Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








元帥海軍大将 山本 五十六
 聯合艦隊司令長官が昭和十四年
  の就任時に次男 山本 忠夫 氏に
   残した”常在戦場”と刀身に彫りの
    ある形見の短刀(茎の表に五十六
        花押、茎の裏には、為 忠夫)




鑑定書等と一緒にある白鞘の短刀です。山本 五十六 海軍大将が
昭和14年に第26代の聯合艦隊司令長官に就任した際にまだ幼い
次男に妻・礼子さんを通して贈った形見の短刀です。
旧越後長岡藩の士族らしく”常在戦場”は藩祖以来の藩風・藩訓
です。その誇りを刻みまだ幼い6歳の次男に授けております。



















戦後に昭和の激動期の警察展で展示された時の展示品の
説明が残っています。展示品番号十九



茎の表に五十六 花押が彫られています。

















霞ヶ浦海軍航空隊の副長時代の山本 五十六 海軍大佐
(当時)の写真です。大正13〜14年頃で40歳頃の写真に
なります。



左の写真は、この形見の短刀をいただいた次男の山本忠夫さん
の昭和十九年の疎開先の和歌山県の塩谷国民学校の六年生の
時のものです。山本長官には御家族として奥様の礼子(旧会津藩
士の三女)さんとの間に長男の義正氏、次男の忠夫氏、長女の澄
子さん、次女の正子さんの四名のお子さんが居られました。奥様は
昭和16年12月3日に山本長官が青山南町の自宅を出られたのをが
最後の別れとなりました。昭和18年4月18日に戦死され…暫く後に
国葬が盛大に行われました。昭和19年2月に既に成人されている
長男の義正氏と長女の澄子さんを除き、3名の遺族が和歌山県の
御坊に疎開されました。東京の自宅は昭和20年5月25日に空襲で
焼失されました。戦後は奥様が保険の外交員をされ一家の生計を
支えました。次男の忠夫氏は成人し、NHKで働き既に定年退職され
ております。








完全手作り真鍮無垢材削り出しシリーズ
       (1/25 スケール)


特四式内火艇 ”カツ”
  (竜巻作戦指揮官車仕様)


世界で一台の真鍮ミニチュアー




匠の今年最後で最大の作品です。とにかくでかくて重いです。
重量だけでも約6kgあります。全長は約50p。大きいだけでな
く夢が一杯詰まった作品です!上は特四式から九七式四十五
糎航空魚雷を外し状態の画像。下は搭載した特四の画像です。
操舵席の左右には九三式十三粍機銃が左右に装備されています。




ずっしりとした重さを感じる九七式四十五糎航空魚雷です。
1/25で18mm径もあり…スクリューの二重反転も忠実に
再現、魚雷は側面に転がして発射するのでフィンも含め…
丈夫に造られたそうです。そして上の画像のように魚雷専
用の展示台も作成してくれております。



九五式軽戦車二台分の下部転輪を使われたようです。
後部誘導輪のキャタピラアジャストシステムも装備して
おります。





操舵手の軍服は竜巻作戦の計画時の操舵手として震洋特攻隊服
が一番妥当と考えて匠が制作して下さいました。また
操舵室だけは
装甲板を装備している唯一の場所です。前方防護窓の開閉に操舵
室の可倒。操舵輪の可動でワイヤーを引っ張り…舵を切ります。
操舵手は操舵椅子に蟹股で座り、正座椅子のような座り形で操舵
輪を動かし操縦します。





右上は、ディーゼル六気筒百二十馬力の統制型エンジンです。見事に
三菱 A六一二〇VDe 空冷直列6気筒ディーゼル エンジンを再現。円筒
の気密室カットモデル内に収め上部より観察できるようになっています。













製作された匠の動画説明のダイジェストです!



また匠の制作過程を画像と共に紹介します。













フロントの舵輪で後部の舵を可動、実車もワイヤーを伸ばし動かしますが
銅線も釣り糸も伸びますので、スムーズに左右に切れませんので何回か
のチャレンジの結果、途中さしつかえないところで遊び調整用のスプリング
をワイヤーにつけ苦労した結果…匠が可動を実現させました。














匠拘りの一品(1/25 スケール)

  
特攻兵器 伏龍と五式撃雷


嗚呼、人間機雷 伏龍特攻隊




匠の作製した鎮魂の特攻兵器1/25の伏龍です。



1/25の伏龍です。ゴム引きの潜水服は難しいのでカーキ色の布で
服を造り着せたそうです。靴は鉛で…その他は真鍮製。五式撃雷を
含め初期型の伏龍を見事に再現されております。



この恐ろしく未熟な潜水器具で…訓練中も多くの事故死を
出しました。また水中で上陸してくる敵の舟艇を海底から五
式撃雷で一突きする設定ですが…無理のあるのは運良く
直上を通過しない限り…水中での抵抗を排除して棒状の機
雷を当てて起爆させる事は至難の業です。また成功した場
合も攻撃した本人を含め近くにいた伏龍隊員は爆発の水圧
で亡くなるか…彼等が持つ機雷が誘爆する可能性が高く…
非常に実用性が乏しい特攻兵器でした。この訓練を志願で
なく命令で実行しなければならなかった当時の予科練の若
者の心中を思いやれば…暗澹たるものが想像されます。
自分が普段、手入れをしたダイビング器材で潜水をするの
は余り躊躇しませんが、誰が何時整備したか分からないよ
うな機材で潜れと言われると怖くて拒否します。特にこの未
熟な半循環式の装備は…恐怖以外に感じられませんね。
左上が潜水服に潜水兜に鉛の重しが入った潜水靴です。右上が問題となる
潜水具です。左上の装具でヘルメット潜水と謂って海上からホースによって
空気を連続して送気する方法ならば…昔から潜水士が潜る方法なので問題
ありませんが…この右上の半循環式の酸素供給システムの呼吸装置です。
背中に酸素瓶2本を背負い、苛性ソーダを詰めた吸収缶を胸に提げ…呼気中
に含まれる二酸化炭素を吸収缶で除去して再び吸入する方式ですが…余り
にも作りがお粗末で蛇管の外れや吸収缶の破損で海水が内部に流入すると
苛性ソーダ(NaOH)は海水と溶解し高熱を発する強アルカリとなり、これが潜
水ヘルメット内に流入し隊員が吸い込むと肺・気管支を焼き七転八倒し悶え
苦しみ死に至ります。…スキューバー潜水をする人間として…想像しただけで
も恐ろしい死に様だと思います。こんな安全性も不確かなものを兵器として採
用し多くの若者の命を奪いしました。…特攻にも色々とありますが、赤トンボや
下駄ばきの水上偵察機の特攻なども無茶苦茶ですが…それよりも酷いのが、
この伏龍と謂えます。敵と遭遇する遥か以前に海に入り待機し呼吸するだけ
で死ぬ可能性が高いのですから…制式採用した軍部の判断を疑います。


このまだ少年の面影を残す予科練の若者達が
訓練中に各地で事故に遭い殉職しました。


この伏龍の製作に関しては匠は少し躊躇していたそうです。
何故、このような特攻兵器を造ったのか?…当時の追い込
まれ方は、そこまで厳しく…このような未熟な潜水具を使って
まで…計画を推し進める必然性があったのか?…この不完
全な潜水具で訓練中に多くの殉職者を出すような悲惨な事故
を多発させた事実。勿論、敗戦により実戦に投入されないまま
終わりましたが…こんな兵器で海の底を歩いても、ちいさな波
やうねりでも隊員がひっくりかえり、とても敵の船底に機雷を突
き刺す事など不可能と素人目にも思われます。こんな非現実的
な兵器を開発した当時の状況がいたたまれなく…製作はまさに
鎮魂の想いからから始まったそうです。










敗戦の前日…昭和20年8月14日に
 タウイタウイ島で戦死された第三南遣艦隊
   第三十二特別根拠地隊 第三十三警備隊
     司令官 池田 敬之助 海軍少将(海兵34期)
       が士官短剣に仕込んだ先祖伝来の鎧通し




敗戦の前日、昭和20年8月14日にタウイタウイ島で戦死された
32特根の第33警備隊司令の池田 敬之助 海軍少将(東京・海
兵34期)が海軍士官短剣に仕込まれていた伝来の鎧通しです。
残念な事に士官短剣の外装は既に5年前に高値で売却されて
おり、軍刀の外装の方も同時に処分されたようです。上の画像
にある位記と刀剣の登録証に戦後すぐに遺族が埼玉の浦和警察
署に提出した刀剣保管証のコピーと池田閣下が大佐時代の昭和
17年5月に刀剣と歴史の編者に横須賀で記した一文のコピーで
す。
鎧通し姿の厚く…良く斬れそうな戦国期頃の末古刀頃の刀身です。
海軍外装から外され、総鮫包みの豪華な外装に納められています。
鮫鞘や柄には、ほとんど痛みが無く、良い状態です。


残念ながら士官短剣の外装は5年前に売却されありません。








池田閣下は、昭和5年12月より昭和6年12月まで戦艦”金剛”艦長
を務めた後、横鎮附となり同年12月21日に予備役に編入。昭和10
年5月、海軍大臣官房編纂事務嘱託。昭和13年4月、後備役編入。
昭和15年12月、海軍大臣官房編纂事務嘱託、及び海軍省事務嘱
託。昭和16年4月、予備役。昭和17年1月、充員召集。同年1月30日
、第六根拠地隊司令部附。同年2月23日、第五十二警備隊司令。同
年4月1日、第六十三警備隊司令。同年9月21日、横鎮附。同年11月
10日、第十一特別工作部附。 





















遺族が埼玉の浦和警察署に提出した刀剣保管証のコピー





池田閣下が大佐時代の昭和17年5月に刀剣と歴史の
編者に横須賀で記した一文のコピーです。




池田閣下の作詞された歌が下の観艦式です。
作曲された当時は海軍大佐ですた。昭和5年
末から1年間戦艦"金剛"の艦長を務められて
おります。この曲の作曲者である佐藤 清吉 海
軍軍楽隊長で”江田島健児の歌”の作曲者で
もあります。




      観艦式


作詞:池田 敬之助
作曲:佐藤 清吉


一、
御稜威あまねき大君の
錦の御旗 陽に映えて
白銀の波しずしずと
進む御召艦の尊さよ
二、
砲筒の響き天を衝き
万歳の声海を蔽う
ますら武夫の真心を
皇御帝に捧げつつ

三、
四方は海もて囲まれし
秋津島根の守りなる
誉れは高きいくさぶね
みそなわすこそ目出度けれ

四、
弥栄え ゆく国のため
幾千代かけて仇波を
鎮めつくさん欣びを
いざや歌わん諸共に



尚、こちらの池田閣下は…音楽映像方面にマルチな
才能を発揮されたようで昭和五年の日活太秦作品で
日本海々戦二十五周年を記念し、海軍省の全面的な
後援の下に製作された大作映画”撃滅”の監修も手掛
けておられます。残念な事に現在はこの映画は縮刷
版しか保存されていないようです。恐らく昭和3年12月
から昭和5年12月まで軍令部出仕から海軍省人事局
に出仕されております。この期に戦艦”金剛”の艦長に
なられているので…この海軍省への出仕の時期に映
画の監修をされたものと推察します。


         映画 『 撃  滅 』


 
昭和五年日活太秦作品 縮刷版
 (昭和五年四月十五日浅草富士館封切)

           スタッフ

原作・顧問: 小笠原長生(海軍中将)
 監 修  : 池田敬之助(海軍大佐)
総 指 導 : 古田中博(海軍中佐)
総 指 揮 : 池永浩久
 脚 色 : 清水龍之助
 監 督 : 小笠原明峰
 撮 影 : 青島順一郎

       キャスト

乃木大将、池田成章・・・山本嘉一
池田宏平少尉・・・中野英治
その友・新井少尉・・・南部章三
その友・・・大日方傳
廣瀬中佐・・・菅井一郎
伊東海軍々令部長・・・高木永二
小笠原軍令参謀・・・楠英二郎
巡洋艦信濃丸艦長・・・小杉 勇
同・航海長・・・一木礼二
和泉艦長・・・廣瀬恒美
伊地知三笠艦長・・・浅岡信夫
安保砲術長・・・谷 幹一
布目航海長・・・佐藤圓治
池田夫人・・・牧きみ子
池田宏平少尉の妹・・・夏川静江
その友達・・・濱口富士子


撮影隊は海軍々人と寝食を共にしながら撮影に臨み
駆逐艦夜襲のシーンは遠く大島沖に十数隻の艦船を
出動させて実戦さながらの場面を現出。旗艦三笠に
は常盤艦が非常に良く似ているというので同艦を使用
したりと、日本海々戦の生きた史料とするべく史実の
再現に力を注いだようです。








昭和19年12月9日、木村 昌福 海軍少将
  の指揮でレイテ増援輸送作戦(多号作戦
   ・オルモック輸送作戦)の最終の9次作戦で
     負傷された関 重美 海軍少佐の軍装品三点
              (海機42期)




関 重美 海軍少佐の軍服です。一種軍衣が二着と外套が一着です。
関 重美 海軍少佐は海軍機関学校第42期(昭和5年入校の昭和8年の
卒業)でレイテ増援輸送作戦(多号作戦・オルモック輸送作戦)で
木村 昌福 海軍少将のもとで作戦行動をし昭和19年12月9日、最後
の9次作戦で負傷されています。

二着ともに高級士官御用達の植久製です。どちらも海軍少佐の
襟章付きです。こちらの方が程度がよく、きれいです。



外套は海軍軍装部製の既製品ですが、使用感の無い上質な生地で
縫製されています。





この紙は外套のポケットに残されていたもので
被害状況をメモした紙です。発動機、酸素工場
といった記載があり…機関科士官らしく被害状
況調査をしていることが見受けられます。



もう一着の一種軍衣も植久製ですが、こちらの方は
襟と裾の黒縁…そして内側にも痛みがあります。



この関 少佐の軍装品も大東亜戦争を海軍の
中堅士官として祖国の為に生命を賭して戦っ
た日本人の品です。








米原 綱明 海軍中佐(海兵五八期)の書物等




米原中佐の海兵時代の蔵書や読書した本のリストを
書いた冊子、お子さんの手帳です。
米原 綱明 中佐は、山口県出身で防府中から海兵五十八期
に進み昭和5年11月に卒業。開戦時の昭和16年は東港海軍
航空隊の第二飛行隊長(当時、少佐)として九七式大艇12機
を率いてパラオやダバオに進出。南方で活躍されました。



こちらは卒業して海軍士官として任官後のものです。







戦後のもので郷里の山口県で旧軍人の引揚げや家族の
手伝いをなされていた時の名簿や資料です。




















大先輩の海軍研究家から譲り受けた
  和田 孝雄 元海軍少佐(海兵66期)
    が拝受された恩賜の海軍士官短剣









大先輩の海軍研究家であるTF様から譲り受けた和田少佐の
恩賜の海軍士官短剣です。海軍でも陸軍でも恩賜軍刀・短
剣組は非常に名誉な事であり優秀な成績を残した者しか、そ
の栄誉は与えられず…これ等を拝受した者は将来の栄達が
半ば約束されたも同然でありました。







上質な桐箱の外装に六つ折りの高級和紙の目録と典型的な恩賜短剣です。




























銀ハバキの物と金ハバキの物とがあります。
この年度は金ハバキを使用されたようです。






戦前の至宝と謂われた名刀工の堀井俊秀の謹作ですから納得の
力作です。俊秀の作は数あれど…俊秀が納得の謹作は数が限ら
れるものと思います。俊秀は名誉ある恩賜軍刀や短剣はより丁寧
に入魂の作なのでしょう…俊秀謹作の銘が刻まれています。











和田少佐の海軍時代の写真や
海兵時代のチェリーマークなどを
掲載したページは下のバナーを
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         ↓








愛用の腕時計




随分前に亡くなった父が使っていた時計で唯一…遺品として
私が使っているのがオーデマ・ピゲのロイヤルオークです。車
好きだった父が残した愛車もあったのですが…古すぎて処分
したので動く形見はこの時計だけになりました。この時計は、
初代のロイヤルオークで約42年前に父が購入して愛用してい
たものです。数年前に動かなくなり修理に出しましたがスイス
の本社での修理するようで…修理代もえらい高かったので驚
きました。形見の品でなければ修理せずほかっておいたかも
しれません。
父の愛用の時計は…今や私の愛する時計の一つとなり
この先、何十年かは時を刻み続けてくれるものと思いま
す。そしてまた形見分けで後継されていくのでしょう。












何時頃入手したものか失念してしまいましたが海軍の砂時計です。
時間は約30秒ほどです。ケースの横に錨マークとNO.670と刻まれ
ています。上蓋の上にも28と刻まれています。














海軍第三燃料廠(徳山燃料廠)の軍属略帽章です。








〜 脱 線 〜




平成26年11月19日午後5時56分、元キャロルのメンバー
でミュージシャンのジョニー大倉(通名:大倉洋一、本名:
朴雲煥(パク・ウナン))が肺ガン闘病中の肺炎で62歳の若さ
で亡くなられた。このページのBGMは…ジョニー大倉の死
を悼み…彼が作詞を担当したCAROLの代表曲の一つで
である名曲…”ファンキーモンキーベイビー”に決めました。




平成21年に悪性リンパ腫が見つかり治療。昨年、肺ガンが
見つかり治療しながらもステージで歌う姿を見せてくれまし
たが…10月に併発した肺炎が悪化して帰らぬ人となりまし
た。…心からお悔やみ申し上げます。





























〜 脱 線 2 〜




平成26年7月、我愛機 CB1100FD…まだまだ元気です!












いつもお世話になっている大先輩から頂いた
横須賀土産のコースターです!















海軍刀の菊水紋彫の銀ハバキです。
陸具の靖国刀に対して海軍では菊水刀が有名で人気が高いようです。
菊水刀には茎に菊水紋彫りの銘とこの菊水紋彫りの銀ハバキが定番
です。…その人気にあやかって贋作を売る悪い業者も多いようです。