旧軍関連・戦前資料収載品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
海上自衛隊の第三術科学校の校長を
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長野県の諏訪市から蔵出しで出た品です。海機44期(コレスは 海兵63期、海経24期)の岡武 知己 海将補の海自の制服と旧軍 時代の海軍少佐の一種軍衣です。 |
戦後、多くの旧陸海軍の軍人が職を失いました。 旧軍人の公職追放が終わり…海上自衛隊と名を 代えた海軍組織が再建されると決まった時に再 び制服を着る道を選ぶ人とそうでない道を選ぶ人 と道が別れました。この時に岡部元海軍少佐は再 び海上自衛隊と謂う新組織の制服を着る道を選ば れました。そして昭和40年7月16日に一等海佐( 大佐)で第三術科学校副校長より校長に就任し 海将補(少将)に昇進します。翌年である昭和41 年12月15日に校長職を辞しておりますので、これ が最終職で勇退されたものと思われます。昭和7 年4月1日に海軍機関学校に入校し海軍の飯を食 うようになり昭和11年3月に卒業して敗戦まで13 年間の海軍生活に終止符をうち…戦後の空白期 間の後に再び海自の制服に身を包み将官にまで のぼりキャリアを終えています。…現在の海自に は医官ですが女性の将官もおるそうです。また空 自にも女性将官が輩出されているそうで…時代の 変遷を強く感じさせます。 |
岡部海将補が校長に副校長を勤められた第三術科学校は 千葉県柏市の海自・下総航空基地にあり主として航空機の 整備・基地運用・施設工事に関する術科教育を行う学校で あり、現在も年間に約千五百名が学び全国の基地・施設・ 艦船に赴任しています。多くの主要ポストを旧海軍出身者が 占めてまいりましたが、それも1980年代半ばを前後に世代 交代が一気に進み、戦後の防大や一般大学出身者に取って 変わるようになりました。 |
海軍士官短剣と剣帯等はイメージで別人の物を合わせて 撮影しています。岡部海将補が旧海軍時代に敗戦の日ま で使用されていた少佐一種軍衣です。 |
珍しい米国から里帰り品の
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アメリカから里帰りした日本海軍で使用された信号旗です。でかいです。 旗は長さだけでも3mある大型旗です。軍艦用なので当然ながら…赤と 白色はプリントではなく、赤の生地と白の生地を縫い合わせたものです。 紐の先のフックは切り取られています。大きいので家の中で撮影するよ り庭で拡げて撮影しました。この画像の信号旗(回答旗)が最も大きく、他 の二点の信号旗は一回り小さく長さも1.5m程です。 |
回答旗 (CODE)とは他船との信号内容の了解や信号終了の時
に掲げる旗です。受信側 が信号を解読したらこれを全揚します。 そして送信側の信号旗が降ろされたら半揚して次の信号に備え るという使い方をします。 |
回答旗とゴム印で押されており、別に手書きの英語の文字が 書かれています。入手した米兵が書いたものと思われます。 素材や作りは一般の旧海軍の旗と同じ作りです。こちらの大型 の回答旗は長さから考えても相当の大型艦(戦艦や大型空母) でしようされたものと思われます |
こちらもオマケでいただいた回答旗です。上に掲載されたものより 一回り小さなものです。小型艦で使われたものと想像します。微妙 に上の大型の回答旗に比べると薄手で弱そうに見えるのでもしか したらこちらは戦後の民間船の回答旗かもしれません。 |
回答旗の回の字が一文字あるのが判ります。 |
昭和16年5月22日内令572号に基づく帝國海軍の各種信号旗です。 プラモデル用のデカールの見本から取ったものなので折り返しで貼り 付けの形になっています。 |
こちらも約1.5m位の大きさの信号旗です。一瞬、艦所別名 区別旗の中の海防隊旗かもと思います。しかし戦後の物で あれば数字旗の3となります。微妙な品です。 |
旗には3の文字がスタンプされていますが、戦後の物であれば数字旗で3を示しますが (下の国際信号旗)…大戦中のものであれば上の昭和16年5月22日内令572号やそれ 以降の昭和18年改定の海軍信号規程で見ても艦所別名区別旗の中の海防隊のもの となります。このオマケも上のオマケ同様に薄手のものなので一番上の大型の回答旗と 違い戦後の民間船で使用されたものかもしれません。 |
昭和18年12月5日に戦死(または殉職)された
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私の持つ資料では戦死(殉職が戦病死か不明)時期は判るものの 場所や原因が特定できません。まあ最も死亡率が高い期とされた 海兵70期です。戦死率も異常に高かったのは謂うまでもありませ んが、彼の同期生で有名な人は、やはり菅野 直に関 行男の両大 尉でしょうか…。話は脱線しましたが鳥居中尉は静岡志太中を卒 業し海兵70期に卒業の一カ月後に運命の日米開戦があり…いきな り戦場に投げ出されました。 |
上の左右は海兵入学前の鳥居中尉の学生時代の写真。 真ん中が海兵の四号生徒時代の写真です。 |
鳥居中尉の少尉候補生時代の一種軍衣(短ジャケット)です。 兵学校生徒の短ジャケットの生徒襟章(錨マーク)を外し、桜花 章の無い一線だけの少尉候補生襟章と両袖に袖章を付ければ 少尉候補生の時期しかない軍装の出来上がりです。それと軍帽 の帽章が生徒帽章から桜葉の抱き茗荷による海軍士官帽章に 代ります。彼等は少尉に任官するとこの短ジャケットを一般士官 ・准士官の軍衣に代えます。 |
襟に襟階級章の取り外し跡が残っています。 |
鳥居中尉の写真アルバムです。殆ど海軍兵学校時代の写真で 占められています。当然と謂えば当然で他の期と違い遠洋航海 も糞も無く卒業して少尉候補生になってすぐに日米戦が開戦と なり…各地で激戦が繰り広げられる渦に巻き込まれています。 |
第70期は昭和16年11月の卒業です。従って昭和12年の入学になります。 このアルバムは主にその年、入校したての四号生徒の頃のものです。既に 4年制だった海兵はドンドンと短縮されて70期も3年に短縮されています。 昭和16年以降の73期にもなれば2年4か月に短縮されて卒業させていま した。 |
質実剛健の海兵生徒たちの実習の模様などアルバムから ほんの一端ですがうかがえます。 |
鳥居中尉の海兵入学前の写真です。 |
今も昔も桜の季節の江田島の海軍兵学校は美しい。 戦後は海軍は解体されましたが、海上自衛隊として 生まれ変わり…現在はその伝統を海自が継承してお ります。 |
海兵70期の鳥居生徒の所属した班の記念写真です。凛々しい目を した文武に優れたエリート達が教官達と寫眞に収まっています。 |
凛々しい海兵生徒時代の写真です。 |
今も昔も海軍にカッターは切り離せない存在です。手に豆を作っては潰し 尻の皮が剥けて痛む尻を浮かしながら…少年は青年となり海の男に育っ ていくようです。 |
拡大すると接舷した小型船より生徒達が答礼をしながら次々と 上がってくるところのようです。 |
雨で濡れた艦上で雨合羽姿で作業していますが どうもカッターを下しているようです。 |
艦尾です。右奥に下したカッターが遠ざかって いくのが見えています。 |
白色短ジャケットに夏肩章が凛々しい海兵生徒達です。 下は夏の間の訓練や水泳で真っ黒に日焼けした顔が 逞しい生徒達の写真です。 |
為本 博篤 海軍主計中将のマント |
高知出身、海経2期を首席で卒業した為本 博篤 海軍 主計中将のマントです。御多分に洩れず業者等により 全国に四散した品の一つで…何となくまた手に入れて しまった品です。 |
中将昇進は昭和20年ですが…マントの襟章は階級章でなく 古いタイプの旧型のように桜花章を三個付けて将官マントで 使われていたようです。ご覧の様に桜花章の取り外し跡が 三個あります。またテーラータグは海軍の高級軍服テーラー の東京・山田屋です。 |
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為本 博篤 主計中将の 勲記等の資料等が収載 されたページがバナーの クリックで開きます。 |
為本 博篤 海軍主計中将 の軍帽が収載されたペー ジがバナーをクリックで開 きます。 |
為本 博篤 主計中将の 御子息の為本 博信 氏 の海軍兵学校の生徒軍 衣を収載したページが 開きます。 |
滋賀航空隊司令で敗戦を迎えた
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海軍中尉から航空屋一筋の別府 明朋 海軍少将の寫眞アルバム が二冊です。別府少将は山口県出身(海兵38期、海大甲21期) です。ハンモックナンバー149名中の122ですので成績はビリに近 い方の方でした。明治22年元旦の生まれです。海軍中尉から航空 術研究員となり横須賀空附となり、以来…航空畑一本で昭14年12 月21日に海軍大佐で予備役となるまで空母赤城副長、佐伯空司令 館山空司令、空母蒼龍艦長等を歴任し館山空司令で現役生活を終 えています。日米戦開戦の2か月前に約2年ぶりに充員召集され空 母飛鷹艤装員長から大戦中は、空母飛鷹艦長、空母千代田艦長、 空母大鷹艦長を歴任し昭和19年3月20日に横鎮附になります。同年 5月10日に針尾海兵団長、10月15日 任(予備)海軍少将。11月 1 日、浦戸空司令。昭和20年 3月 1日に海軍総隊の舞鶴鎮守府部隊 隷下の第23連合航空隊司令官兼滋賀空司令。同年6月30日、第23 連合航空隊の解隊に伴い兼任は解除され滋賀航空隊司令として敗 戦を迎えます。昭和20年9月15日に 充員召集解除され軍服を脱ぎま した。戦後を生きて昭和43年1月16日に79歳で逝去。…パイロットと して活躍された頃は横須賀空飛行隊長に霞ヶ浦空教官を大正時代の 海軍航空の黎明期を支えた航空マーク持ちの生え抜きの提督と謂え ます。 |
別府閣下の二冊の写真アルバムです。戦後になり貼りなおされた のかアルバム表紙に記載された薄れた文字の内容と違い…紙で 貼りなおされた”海軍経歴”と謂うのが一番近い内容のようです。 もう一つの方は紙を貼り命名する前の状態のアルバムです。 |
貴重なのは帝國海軍でもっとも古い航空隊である横須賀海軍 航空隊が開隊されたのが、大正5年4月1日です。丁度、別府 閣下が当時、海軍中尉で日本初の水上機母艦”若宮”乗組み で航空術研究委員を仰せつかり一年、横須賀空に転じて来た のがまさに開隊のこの日でした。以来、10年近く横須賀空でキ ャリアを重ねた別府閣下の記録は、まさに日本海軍航空の黎 明期の記録そのものと謂えます。後に霞ヶ浦海軍航空隊がで 来た時にも初期の教官として黎明期の創設にかかわってきた 方です。これ等の写真は約100年前のものであります。遠い遠 い黎明期の時代へタイムスリップするかのように収載された写 真の一部を紹介しますので見て感じて見て下さい。 |
海軍の軍人として提督にまでのぼりつめた閣下の原点となる キャリアのスタート地点の江田島の海軍兵学校です。 |
一番左は海兵入学前の学生時代…1908年とありますが下に明治39年 7月3日の記載がありますので1906年の間違いだと思います。続いて中 央の写真は明治40年から43年までの海兵生徒時代の写真です。右の 写真が明治44年に海軍少尉に任官した時の正装の記念写真です。 |
大正6年から9年の海軍大尉時代の写真です。28歳から31歳の 青年士官時代です。横須賀空の副官から横須賀空飛行機隊長 心得の頃で横須賀空で教官をされながら海大選科学生そして 海大甲種学生へとキャリアを重ねていた頃です。 |
左と中央は海軍少佐時代で大正14年(1925)の記載があり ますので横須賀空飛行隊長時代か、その後の 軍令部出仕 や造兵監督官として欧米出張をされた頃と思われます。また 右の写真は昭和4年(1929)2月11日の記載があります。紀 元節で正装をされています。海軍中佐で横須賀空の副長を されている時です。この翌年に佐世保空副長を1年務めた後 は、昭和6〜8年の間は軍艦勤務で出雲副長、赤城副長をさ れています。下は昭和7年(1932)とあります。出雲副長時代 のもので空母”赤城”副長に転じた同年の11月15日までの 写真と思われます。 |
昭和7年の上海で行われた紀元節での観兵式に出席した 前後の写真と思われます。この時、上海陸戦隊が編成され た年であり…出雲が所属した第三艦隊が2個戦隊・1個水雷 戦隊に上海特別陸戦隊を指揮下に置いておりました。この 日の式典でテロ犯罪が行われ多くの陸海軍高官が死傷しま した。…今も昔もテロリズムの恐怖は無くなりませんね。 |
袖章だけで襟階級章が無い時代の海軍士官ですので 大正8年10月以前である事が判ります。中尉が多いの で別府閣下の同期生たちでしょうか…大正2年12月か ら大正6年11月末日の海軍中尉時代の写真と思われ ます。 |
アルバムの写真を拡大すると格納庫を建設中の大工さん でしょうか…職人の姿が水上機の後ろに見えます。 |
大正6年(1917)の記載があり横須賀空の副官時代 (海軍大尉)の頃の写真と判ります。右の写真は水 上機の合間に見えているのは富士山なので下の 海は相模湾と思われます。 |
ショートF5飛行艇と黎明期の日本海軍の搭乗員と関係者達です |
拡大すると機体にShort Brothersという文字が読めます。大正9年に海軍は 爆撃用の飛行艇の国産化をめざし…ショート社とライセンス契約を結び完成機 を8機購入しています。その翌年の大正10年にセンピル教育団の来日とともに 更に4機を追加購入しています。この時の12機の1機と思われます。ドット技師 らが英国より来日し指導し…その後に横廠や広廠と愛知航空機などで62機が 生産され一五式飛行艇と命名され、昭和5年頃まで現役で使用されました。 |
大正4年6月に海軍中尉だった別府閣下は航空術研究委員となり 翌大正5年4月に横須賀空附になり、以来、艦隊空附などを経て 大正6年12月に大尉任官、横須賀空に籍を置いて海大選科学生 に海大甲種学生。大正12年に海軍少佐に任官し横須賀空飛行隊 長、兼霞ヶ浦空教官をされております。 |
大正9年(1920)、横須賀空飛行機隊長心得 (海軍大尉)の頃の通礼装での記念写真です。 |
大正8年(1919)の横須賀空の分隊長時代(海軍大尉)の時に 撮影された写真です。スリットの先の水面に水上機、沖合に大 型艦が煙を出して航行しています。右の写真は大正13年(19 24)の横須賀空飛行隊長(海軍少佐)の時の写真でショート飛 行艇が優雅に飛翔している姿をとらえています。 |
日焼けした水兵のペンネントを拡大すると横須賀海軍航空隊と読めます |
なんのキャプションも書きこみも無いので不明ですが 寫眞を拡大すると海軍中将時代の鈴木 貫太郎 閣下 の通礼装の姿を認めました。恐らく大正7年から11年 の間だと思われる集合写真です。当時、別府閣下が まだ大尉時代のものと思われます。 |
大正12年(1923)、横須賀空飛行隊長心得兼霞ケ浦空 教官時代です。長男と記載があります。女の子のようで すが男の子です。 |
大正13年(1924)、八丈島の記載があります。後ろに 見えるのは八丈富士でしょう。この頃、八丈島に空港 は無いので草原の様な空き地で離着陸したと思われ ます。八丈島に海軍の空港が開設されたのは昭和2年 (1927)の事になりますから…この写真が撮影された 3年後の事となります。機体は三菱の一〇式艦上戦闘 機と思われます。 |
別府閣下の横須賀空飛行隊長(海軍少佐)時代 の写真です。下の画像の最後列左から二番目の 方が閣下です。 |
山下 源之助 海軍大将です。連合艦隊司令長官の後に 軍令部総長になられましたが…その時の写真と思われま す。恐らく大正9年から大正14年までの間でしょう。当時、 別府閣下が大正14年3月から翌15年7月まで軍令部出仕 で欧米出張をされていますのでその時のものと思います。 山下大将は大正14年4月に軍令部総長を辞めて軍事参議 官に戻られているので…まさに大正14年3月20日から大将 が軍令部総長を辞する4月までの僅かな期間に撮られた一 枚と思います。下の写真は直筆のサインがされています。 |
海軍航空隊に所属され空の宮様と呼ばれた 山階宮武彦王殿下の写真です。直筆の署名 があります。1925(大正14年)の記載があり ますので別府閣下が海軍少佐で横須賀空飛 行隊長の時に殿下よりいただいたものと推察 します。写真自体は少尉任官の頃のもので、 大正9年か10年位の撮影時期と推察します。ま た下の写真は殿下の中尉時代で賀陽宮邦憲 王の王女佐紀子女王と御結婚された時のもの (大正11年)と思います。この後、大正12年の 関東大震災で悲劇が起こり初子懐妊中の 佐紀子妃殿下が薨去されました。以来、武彦王 殿下は心を病み塞ぎ込まれてしまいました。 |
山口県の県人会の集まりのようです。 |
別府閣下を中心に右に人を挟んで奥様とお子さん が写っております。女学生が後ろに並んでおります ので女学校の関係の式典の記念写真でしょうか。 |
昭和5年(1930)の横須賀空の副長(海軍中佐)時代です。横に おられる大佐が当時司令をされていた原 五郎 大佐(後の海軍 中将)です。この年の11月1日に別府中佐は佐世保空副長で移 動します。 |
佐伯空の司令になってすぐの写真です。司令で着任した時が 昭和9年2月でまだ中佐でした。この年の11月に大佐に進級し て館山空の司令に転じます。従って昭和9年2月15日から同年 11月14日までの短い時期の写真だと推察します。 |
昭和9年(1934)、佐伯空の写真です。拡大すると陸海の軍人の 集まって式典をしています。この年の2月15日に司令として佐伯空 に空母”赤城”副長から転じています。 |
別府閣下は飛行艇がお気に入りのようです。記念写真の 右端には奥様と末のお子様。飛行艇の操縦席の外には 長男の坊やが写っております。 |
同じく昭和9年に鎮海海軍航空隊へ行かれています。 |
別府司令は佐伯空の飛行艇が停泊しているのでこれで 来られたものと推察します。他の多くの要人たちは下の 戦艦比叡のランチで到着したようです。 |
桟橋を渡り基地に向かう海軍士官の一行の中に 元帥海軍大将で軍令部総長を務められた伏見宮 博恭王 殿下のお姿がありました。 |
昭和9年の南豊相撲協会春場所記念とあります。 別府閣下の佐伯空の司令時代です。 |
海軍大佐で館山空司令時代の写真と思われます。予備役へ の編入が昭和14年12月21日です。館山空司令は昭和10年 11月15日から1年間。昭和13年4月25日から11月15日まで の約半年間があります。途中の昭和11年12月 1日より空母 ”蒼龍”艤装員長、昭和12年 8月16日から空母”蒼龍”艦長 を同年12月1日まで勤められております。 |
台上で観閲し行進する将兵の敬礼を受けて答礼する 別府館山空司令のすぐわきで修正されたようにモジャ モジャしたのがあります。恐らく写真撮影を任された人 でしょう。民間の写真館の方に御願いしたのかもしれ ません。軍服でなく違和感があるので削って修正した ものと推察します。1936(昭和11年)の記載があります。 |
昔も今も変わりません。軍隊も学校も…地域の名所・旧跡・寺院に 遠足で出掛けます。右の拡大した画像は特務士官がマントでしょう か一人は肩にかけて一人は腕にかけて何やらお土産を見ながら 歩いている感じです。 |
こちらも予備役編入前の昭和10年から14年の 間の頃の写真と思われます。真ん中の方は少し 濱口 雄幸 首相に似ている感じがします。 |
中島の九〇式二号水上偵察機を背に記念撮影 です。予備役編入がこの年の年末でした。11月 15日館山空司令から横鎮附となり12月15日に 待命。21日に予備役です。現役時代の最後の 記念写真のようです。 |
こちらの写真は開戦後の写真と思われます。別府閣下が 海軍大佐で予備役に編入されたのは昭和14年12月21日 です。約2年のブランクの後の昭和16年10月25日に充員召 集を受けカムバックします。これが開戦の約1か月半前の事 です。すぐに同年の11月15日に空母”飛鷹”艤装員長に! 開戦後の昭和17年7月31日、空母”飛鷹”艦長として同年の 11月21日まで勤めて横鎮附になり、昭和18年 1月 9日に 水上機母艦”千代田”艦長に就任し空母化の工事に尽力し 途中、同年8月15日から9月1日まで空母”飛鷹”艦長を兼任 するも昭和19年2月14日まで空母”千代田”艦長の職にあり 18年11月に改装工事完成(航空母艦に艦種変更)を行い… 約3か月の間、軽空母として習熟を担当されました。千代田は この年の6月にマリアナ沖海戦に参加し、10月のレイテ沖海 戦で戦没します。別府閣下は空母”千代田”艦長から、間を置 かずに空母”大鷹”艦長を勤めます。空母”大鷹”は父島の沖 合いで米潜水艦の雷撃を受けて横須賀で修理中で、その間 の艦長職が最後の空母勤務で艦上勤務となりました。以降は 敗戦まで地上基地の航空隊司令となります。 |
中央の右に写る方はキスカの奇跡の撤退作戦を指揮された 木村昌福海軍中将の少将時代と思われます。恐らく木村閣 下も別府閣下も横鎮附で出仕している昭和17年11月しかも 24日から12月4日までの間と思われます。尚、ど真ん中でシ ブく和服で決めてられる方(下)は元帥海軍大将の古賀峰一 閣下で、この時は横須賀鎮守府司令長官の職にあった時と 推察されます。大将は海軍乙事件で戦死されて元帥府に列 せられました。 |
戦後に別府閣下が月刊 丸 の別冊「戦史と旅(平成9年1月15日発行)」 に寄稿した小文の”体験的空母論”です。 |
その後、別に寄稿したものが見つかり掲載しました。 |
昭和19年5月から9月末日までの針尾海兵団長 時代の写真と思われます。 |
昭和19年(1944)とあります。既に海軍(予備)少将に 昇進されています。浦戸海軍航空隊司令時代と推察し ます。閣下は昭和19年11月1日に解隊したばかりの浦 戸空(高知県長浜町)の初代の司令として着任されま したが松山空より甲飛14期約一千名を皮切りに教育航 空隊としてスタートしますが、昭和20年3月に閣下が 第23連合航空隊司令官兼滋賀空司令に転じられてか らは米軍の本土上陸に備えての陸戦訓練と震洋艇な どの特攻の訓練が主体となったようです。 |
1945(昭和20年)の記載と第23連合航空隊司令部幕僚との 記念撮影です。司令官である閣下の左の方が参謀長でしょう。 第23連合航空隊は…本土決戦を迎える海軍総隊の中で舞鶴 鎮守府部隊の中の航空部隊の位置付けでした。直轄部隊の 滋賀海軍航空隊の司令も兼任されました。またこの他に三保空 と小松空を隷下にし3個航空隊編成でした。しかし敗戦の年の3 月に産まれたばかりのこの第23連合航空隊は僅か4ヶ月余りの 6月29日で解散し、三保空・小松空は解隊され滋賀空は舞鶴鎮 守府の隷下を離れて、横鎮隷下の第20連合航空隊(久邇宮朝 融王中将)に転出されました。同年6月30日から敗戦まで滋賀空 司令のみの役職を務めて同年9月15日に充員召集解除されてい ます。ここで閣下の38年に及ぶ海軍軍人としてキャリアが終わり ました。 |
滋賀空の司令部要員でしょう!滋賀空も開隊当初は 通常の予科練と飛練の併存する練習航空隊の予定 でした。しかし他の航空隊と同様に切迫した戦況の中 で滋賀空では人間ロケット特攻兵器・桜花の搭乗員の 育成が開始されます。また滋賀空に配備予定でだった 桜花43乙型と桜花43型練習機は共にジエットエンジ ンを搭載し長距離の飛行を可能でした。地上から発射 の際は別のロケット装備の台車(カタパルト)に搭載し 前方が高くなったレール上を急走行しながら射出する という必殺の特攻兵器でしたが、桜花43型練習機は配 備され6月には射出実験に成功していましたが、肝心の 桜花43型乙は最後の最後まで基地に配備される事無く 終わり敗戦を迎えました。 |
閣下のアルバムにあった不明の写真です。ひょっとして 比叡山の山頂に作られた桜花の発射基地を見上げて 写したものか?…それとも浦戸空司令時代の高知の山 々の風景なのかなどと想像しました。 |
こちらの写真が敗戦前の最後の滋賀空司令部要員の 集合写真と思われます。全員が三種軍装で写っており ます。既に別府閣下も56歳、髭に白いものが混じって おります。敗戦後、別府閣下は戦後をしっかりと生きら れて先に掲載したように月刊丸の別冊誌に小文を寄稿 されました。そんな閣下も昭和43年1月16日に79歳で 逝去されております。 |
一つのアルバムの最後尾に貼られた直筆の紙です。 ハンモックナンバーが149名中の122番と胸を張るよ うに堂々と書かれております。即ち全ての海軍人生 38年に何等悔いが無いという事でしょうか…。海兵38 期…別府閣下の同期生には稲垣 生起 海軍中将や 戸塚 道太郎 海軍中将、栗田 健男 海軍中将、五藤 存知 海軍中将などがおられました。写真アルバムで 振り返る閣下の経歴は…まさに海軍の航空屋そのも のであるという印象です。 |
〜閣下の戦後や家族との写真〜 |
御子息たちと霧島連山を旅行されて登られた写真です。 |
御婦人たちの集まりの集合写真です。恐らく右上の お子様を抱いている方が閣下の奥様と思われます。 時期としては大正12〜13年頃と思います。 |
昭和甲戌の記念撮影です。右上は昭和甲戌を記念して 多くの著名人が写真に収まっています。昭和甲戌年は 昭和9(1934)年3月になります。干支は60年で一回りし ますから昭和ではこの時、一回だけとなります。その次に 訪れたのは平成6年(1994)でした。その次は2054年に なります。流石に平成の御世はどうなっているのでしょう か…陛下が御存命であれば平成66年と相成ります。 |
頭山満に東郷平八郎元帥、徳富蘇峰に斎藤実、近衛文麿 に山下源太郎など錚々たる顔ぶれが並んでいます。 |
こちらももう1冊のアルバムの 最後に貼られていたパンフレッ トです。関門海底トンネルが開 通したのは昭和14年(1939)で 昭和17年(1942)7月1日、関門 鉄道トンネルは、世界最初の海 底鉄道トンネルとして、貨物営業 を開始しました(旅客列車は11月 15日運転開始)。山口県出身の 別府閣下にとっては非常に興味 深い関心事であったのでしょう。 |
(寫眞帳からの取外れ寫眞シリーズ)
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この10数枚の取外れ寫眞ですが…よく見ると家族写真の学生さんと 上海陸戦隊の水兵さんの顔がそっくりです。拡大してみたところ…。 |
ご覧の様によく似ています。もしかしたら兄弟かもしれません。 と謂うのは右上の拡大写真の制服の方は明らかに商船学校 か高等海員養成所の学生のようです。であれば高等商船学校 ならば海軍予備員として予備士官になり、高等海員養成所の 出身者や普通商船学校の学生であれば同じく予備下士官にな れました。左上の方は士官でも下士官でもなく水兵ですので似 ている別人と判ります。下の写真からもお判りのように一家で よく似てらっしゃいます。 |
ゲリラ雷雨で窓が開いていて写真が濡れて上に置いてあった紙が 張り付いてしましました…(v_v) しかしこの写真も珍しい一枚です。 下の拡大写真からも判るように海軍が解体され、海軍水路部は運 輸省の所管になり…戦後すぐの昭和23年5月に海上保安廳水路 局が誕生します。その翌年、昭和24年6月に名を海上保安廳水路 部になり…以来、平成14年4月1日に海洋情報部に名を変えるま で半世紀以上…海上保安廳水路部が存在しました。その創設当初 の写真と思われます。因みに旧海軍水路部(兵部省海軍部水路局 )が明治4年9月12日です。以来、百年以上の歴史を刻む水路部 …これを記念して毎年、9月12日が水路記念日となっています。 |
車のバンパーの上に海上保安庁のコンパスマークが 光っています!!戦後に上の写真の方のどちらかが 海上保安庁に入ったものと想像しています。 |
こちらは明らかに霞ヶ浦海軍航空隊の水上班の写真です。 練習水上機がずらっと列をなす姿は圧巻ですね! |
地上整備員をコクピットに上げて発動機をチェックしている 搭乗員の姿のようです。ずっと奥まで皆同じ光景が続いて います。 |
九〇式水上初歩練習機です。ゴム長だけの地上整備員と 防水サロペットで水中への誘導も行う地上整備員が二人 一組で一機を担当しています。 |
後席に乗っている搭乗員は教官なのでしょう。 |
整備員の横…フロート上にはウェスと一緒に工具が見えます。 |
右上は九三式陸上中間練習機(赤とんぼ)、左上は九〇式 二号機上作業練習機です。 |
赤とんぼのエンジンと翼の間を拡大すると先に駐機してある 赤とんぼの前で寛ぎ座る整備員たちの姿が見えました。 |
霞ヶ浦海軍航空隊の九三式陸上中間練習機…赤とんぼです。 |
詳細不明の艦内帽 |
今まで見た事が無い帽子なので面白いと想い購入しました。 生地は一種の艦内帽と同じ感じです。帽の本体は略帽と謂う よりはアンパン帽のような形態です。これに頸部から両耳そ して咽頭部を防御するように同じ生地の覆いが連続で附いて います。まるで消防の刺子の消火帽のようです。しかしそんな 厚手で丈夫な生地でもないので用途と共に不明の帽子です。 |
厨房や機関科で使うようなアンパン帽は白色タイプしか知りませんし 何よりも首周りにこのような物がありません。或は趣味で誰かが創作 したのかとも考えましたが…いずれにしても不明で面白いものです。 |
一枚の寫眞から |
敗戦後の昭和20年8月27日に東京湾で米艦隊に降伏の 打ち合わせを行なう軍使を運ぶ艦としての役目を与えられ た駆逐艦”初桜”です。。その時の模様を収めたショットで す。手前に浮かぶ艦が米駆逐艦DD-449”ニコラス”です。 この脇を通り過ぎて降伏調印式が行われる米艦隊旗艦の 戦艦”ミズーリ”にむかいました。軍使を乗せているのでま だ軍艦旗を掲揚し武装も撤去していませんが、その主砲の 砲口は東京湾の反対側を向きギリギリまで仰角を下げてい るのが見て取れます。この駆逐艦”初桜”は橘型駆逐艦の 1隻で昭和20年5月に竣工したばかりの艦でした。 |
一枚の寫眞から(2) |
こちらは上の駆逐艦”初桜”を別のショットで捕えた写真です。 |
一枚の寫眞から(3) |
こちらは呉で敗戦を迎えた橘型駆逐艦”楡”です。楡は昭和20年1月 に竣工した艦で撮影の直近まで呉港の防空を担当した警備艦でした。 武装は前部主砲の防楯を除き撤去されています。 |
艦の真ん中の煙突の後ろ辺りに”NIRE”と記載されているのが判ります。 |
イタリアの老舗ミニカーメーカーRIO(リオ)社のジオラマシリーズです。 フィアット 201 1925 (ムッソリーニ総統の護衛兵フィギュア付)とVW ビートル 1939 大島駐独大使フィギュア付き の二点です。 |
フィアット 201 1925 (ムッソリーニ総統の護衛兵フィギュア付) |
VW ビートル 1939 大島駐独大使フィギュア付き |
何時頃入手したものか失念してしまいましたが海軍の砂時計です。 時間は約30秒ほどです。ケースの横に錨マークとNO.670と刻まれ ています。上蓋の上にも28と刻まれています。 |
海軍第三燃料廠(徳山燃料廠)の軍属略帽章です。 |
〜 脱 線 〜 |
*今回このページの曲に取り上げた昭和の歌謡曲 全盛の時代に大ヒットを連発した大スター・ジュリー こと沢田研二の” 追 憶 ”です。当時の姿を動画で 今見ても…本当にセクシーでカッコいいです。まさに 大スターであり、カリスマ性に溢れていました。 |
この曲は昭和49年7月にリリースされた10枚目のシン グル曲です。沢田研二としてはオリコン1位になった 2曲目のシングル曲となります。58万枚のレコードを売 り上げたヒット曲となりました。 |
そんなジュリーも今や65歳です。…昔の面影は薄れ 老いは無残ですね…。鳥取県出身で現在の奥さんは 女優の田中裕子さんです。 |
昨年の暮れに44年ぶりとなるザ・タイガースをオリジナル メンバーで再結成してコンサートを開催して話題になった のが記憶に新しいところです。 |
追 憶 |
今、見ても全然古さを感じさせず…逆に若い頃に 見た時よりもセクシーでカリスマ性を感じます。 本当にカッコいいですね。今はこんな素晴らしい 昭和の大スターの様な方が本当にいなくなりまし たね。…なんとも寂しいものです。 |
〜 脱 線 2 〜 |
平成26年7月、我愛機 CB1100FD…まだまだ元気です! |
いつもお世話になっている大先輩から頂いた 横須賀土産のコースターです! |
海軍刀の菊水紋彫の銀ハバキです。 |
陸具の靖国刀に対して海軍では菊水刀が有名で人気が高いようです。 菊水刀には茎に菊水紋彫りの銘とこの菊水紋彫りの銀ハバキが定番 です。…その人気にあやかって贋作を売る悪い業者も多いようです。 |