旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_19














Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








海軍工作学校長(沼津)
 梅林 正義 海軍少将(海機23期)
   の佩用された少将肩章と将官飾緒




随分前に入手した梅林少将の肩章がヤフオクに出てきました。
呉の有名な高田帽子店の共箱に収められております。遺品同士
は惹き合うと謂いますから見つけては四散したものが一つになる
ようにしていますが…いつも不思議な感じがします。






 
上のバナーをクリックすると
梅林閣下の軍装品を収載し
たページがひらきます…。














こちらは共箱ではありません。一緒に入手した将官飾緒です。
こちらは海軍の将官用の飾諸で梅林閣下の肩章と共に入手
しましたが、梅林閣下の佩用された飾緒とは限りません。














小田中 精一郎 海軍(機関)大佐(海機17期)
   の位記や晩餐招待状に寫眞や軍事郵便等




随分前に四散して時々、ヤフオクで転売を繰り返される小田中
海軍(機関)大佐の一連の品の一部です。上の梅林閣下のよう
にベースで軍服・軍帽などの軍装品にアルバムや勲記等の核と
なる遺品があると遺品を一つに寄せ集める意欲が湧くのですが
核となるのが軍帽とマントの襟部分と襟章と僅かな紙物資料で
すので食指が伸びませんでしたが…御子息で医師の小田中健
一氏の東京医専(現在の東京医大)の卒業証書がありましたの
で…今回、手紙類など紙物資料だけ手に入れてみました。特に
楽しみだったのが御子息が軍医になられているものと想像して
おりましたが、築地の海軍軍医学校からの手紙、その後は海軍
潜水学校に学ばれている事が判りましたので胸のつかえが一
つ取れた気がします。





小田中大佐の正八位から従五位までの位記です。この
正八位から海軍機関少尉として小田中大佐の海軍軍人
としてのキャリアがスタートしたと謂って過言でないでし
ょう。







恐らく海軍機関中佐で叙せられたと思われます。



海軍機関大佐で叙せられた思われる従五位です。
小田中大佐の最終は正五位だったと思います。



          ↑
上のバナーをクリックで以前入手し
展示している小田中大佐の関連品
のあるページが開きます。



昭和17年7月の海南島に於ける二種軍装の寫眞です。
58歳とありますので予備役での勤務と思われます。この
後、昭和18年には民間で船に乗られて定年後の第二の
人生を歩まれております。また船員勤務の合間に郷里の
長野県松本市に戻られておるのが手紙などから判ります
。敗戦前の昭和20年には大阪の日立造船所で船員とし
て勤務をされております。



昭和12年…まだ日本が比較的、余力があり観桜会や晩餐会
などが多数開かれていた頃です。文官や民間人はモーニング
にシルクハット。軍人は通常礼装や正装で出席しました。こう
した事も戦争が深まるにつれて会そのものが行われなくなって
いきました。


















明治43年5月23日に軍艦”姉川”から小田中大佐がまだ
若き青年士官時代に送った現金書留です。この軍艦は、
通報艦”姉川”です。旅順港で自沈していたロシア船(仮
装巡洋艦)”アンガラ”を浮揚させ、明治39年に通報艦”
姉川”として使用した艦です。この艦もこの消印のすぐ後
になる明治44年9月にロシア側に返却しています。



小田中大佐の御子息・健一氏から実家の家族に宛てた葉書です。
封書の上部が鋏を入れられて切断されておりますが、恐らく消印は
昭和17年と思われます。医専卒業と同時に朝鮮半島に渡り元山空
で基礎教育を受けて、すぐに築地の海軍軍医学校に進みます。何と
も遠回りで他に何処でも国内にあっただろうにと思います…。



築地の海軍軍医学校からです。消印は昭和18年2月です。この方の
東京医専(現・東京医大)の卒業が同じく昭和17年なので…卒業し
即、元山空に行き3〜4か月後に築地の軍医学校に進まれたようで
す。また次の葉書から軍医少尉としてすぐに大竹の海軍潜水学校で
学生舎に入ってるのが判ります。潜水学校の軍医としての勤務でな
く潜水艦勤務の軍医となるべく潜水艦乗務に必要な必要な教育を
受ける為と思われます。
上下二枚とも潜水学校から実家に送った葉書です。消印が
薄れて読めませんが昭和17年9月に医専を卒業し、そのまま
9月末日に軍医科尉官として元山空で入隊。ここで最低限の
基本教育を受けるのは他の一般大学を卒業した予備学生達
と同じです。その後に築地の海軍軍医学校に入隊しておりま
すので約半年後に卒業し昭和18年3月に軍医少尉に任官。
広島の海軍潜水学校へ入校したものと思われます。
この葉書で健一氏の消息は終わります。もし無事に敗戦を
迎えられておれば最終階級軍医大尉になられていたので
ないかと思います。


昭和18年5月8日の消印があります。内容から既に退役後、民間船
の船員(船長または機関長?)で門司まで船で来ているのが判りま
す。宇品に17日頃到着予定で一泊くらいで大連に向けて出港すると
記載有。また二泊の余裕あれば大竹へ出かけて潜水学校に在学中
の健一を訪ねたいと記載されています。









上の二通の手紙から昭和19年6月は少なくとも船員の仕事から
不定期契約で休日なのか船を降りた時期なのか不明ですが…
地元である長野県松本市の自宅に戻られて手紙を出しているの
が判ります。


昭和20年3月26日の消印のある小田中元大佐が奥様宛に
出された手紙です。当時、3月初旬に既に大阪空襲で市内
は焼け野原になっており、比較的被害の少なかった日立造
船所の大正区のエリアも6月の空襲では大きな被害を受け
たと記録されております。



長野県松本市の奥様から大阪の日立造船所で退役後
の第二の勤務先で再び船員の仕事をする小田中元大佐
への手紙です。この約4か月半後に日本は敗戦を迎え…
小田中元大佐も松本市の御自宅に戻られております。








海軍 TM式軽便無線電信機




ジャンク品ではありますが…トランク型の可搬式簡易電信機として
海軍陸戦隊は勿論、港湾に停泊中の艦船と陸上、汽艇間、また大
小補助艦艇などの補助無線機とし海軍全般で活躍した無線機です。
非常にコンパクトで軽量です。これならば陸戦隊の小部隊だけでなく
小艦艇や島嶼での移動先での使用など軽快に使えたと思われます。
海軍のオリジナルの色はよく残しています。まあしかしボロボロ
です。かろうじて原型を留めているという感じです。トランクの持
ち手の革部分は健在です。
海軍陸戦隊では近在部隊との通信用にこのTM軽便電信機
を汎用したようです。これで通信到達距離は約185km以上あ
るとされています。
本来あった筈の電圧計と電流計が取り外されたままです。
また造り付け電鍵は残存していますが、ヘッドポン等はあ
りません。

左右の空中線・空中線展開索巻き取り装置には夫々の地線
は無くなっています。また装備されている筈の真空管(UY-27)
が二本ともなく…接続に必要となるケーブル類も欠です。























昭和19年11月11日、オルモック湾で
 駆逐艦”島風”に乗り戦死された第二水雷戦隊
    司令部附 本間 広 海軍中佐(海兵64期)の
                   海軍兵学校二種軍衣




新潟村上中から海兵に進学し昭和12年3月に64期生を卒業した
本間 広 海軍中佐(戦死で一階級特進)の海兵時代の二種軍衣
です。士官候補生まで使用され海軍少尉任官と同時に一種・二
種は郷里の実家に送られ残ったものと思われます。
高速重雷装で艦隊型駆逐艦の最高峰を目指して作られました。初代
も峯型駆逐艦の島風は日本の駆逐艦として最高速度となる40.7ノット
を記録していますが、この二代目駆逐艦”島風”もまた最高速度は、
40.37ノットをマークしています。…尚、島風型駆逐艦は当初同型艦を
16隻が予定されていましたが…時代の趨勢でこの島風のみ一隻が
生産されただけで終わっています。
昭和19年11月4日のレイテ沖海戦で本間 広 海軍少佐は早川 幹夫 海軍少将
(海兵44期)率いる第二水雷戦隊の司令部要員として早川 司令と共に旗艦で
ある軽巡洋艦”能代”で栗田艦隊と共に作戦行動中に米艦載機の雷撃を受けて
ミンドロ島近辺で沈没します。その能代に代わり駆逐艦”島風”に将旗を移した第
二水雷戦隊司令部で軍務についていおりました。多号作戦で第三次輸送部隊の
低速な輸送船団を護衛するという任務の為、11月9日にマニラを出発。11日に目
的地であるオルモック湾にいたる水道で敵艦載機3百機以上の襲来を受けて輸
送船団は撃滅状態…残った護衛の駆逐艦も狭い水道と湾内で退避行動と対空
戦闘を行いながら奇跡的な操艦で爆弾も魚雷の直撃を免れていましたが執拗な
米艦載機の機銃掃射と至近弾により遂には島風の船体に無数に開いた弾痕の
小穴から浸水しそれが航行不能な程に酷くなります。救援に向かった駆逐艦”朝
霜”も群がり攻撃する敵艦載機の機銃掃射に阻まれて救助を断念するしかなく…
程なく同日PM17:30頃、ボイラーが蒸気爆発をきたし艦尾より水没を始めました
…この戦闘により島風では早川司令以下第二水雷戦隊司令部要員と乗組員合
わせて約430名が戦死を遂げました。この第三次作戦では初めにマニラ出発時に
駆逐艦”島風”以下、浜波、初春、竹の四隻に駆潜艇第30号と46号の2隻が輸送
船のせれべす丸、木丸、三笠丸、谷豊丸、天照丸の五隻を護衛してマニラを出
発。途中、せれべす丸がルソン島ボンドック半島西岸の浅瀬で座礁した為、駆潜
艇46号を1隻、警戒の為残します。途中で第4次輸送部隊とすれ違い警戒部隊の
艦を一部交換します。初春、竹は第4次輸送部隊に編入されマニラに引き返し、代
わりに長波、朝霜、若月が第4次輸送部隊から本部隊に編入されました。こうして
オルモック突入時の船団は輸送船が木丸、三笠丸、谷豊丸、天照丸の四隻。
警戒・護衛部隊が駆逐艦”島風”、浜波、長波、朝霜、若月の5隻と駆潜艇第30号
の合計10隻でしたが、敵の攻撃で輸送船団は全滅し…生き残った艦は駆逐艦”
朝霜”ただ一隻の有様でした。この為、輸送船団にあった糧食、弾薬等6000トン
と兵站部隊2000名および第26師団(泉兵団)の一部の多くが海の藻屑と消え僅か
な生存者がオルモック湾にたどり着けたに過ぎません。またその中には見事な操
艦で致命弾を回避し続けた艦長の上井 宏 海軍中佐は重傷を負いながら生き残
りの生存者に救助され機関長の上村 嵐 海軍大尉と二水戦参謀の2名を含む21
名と途中救助した神風特攻隊員1名を含む22名が穴だらけのカッターで10時間
に及ぶ漂流の後にオルモックに上陸し…現地でも悲惨を極めながら生き抜いて…
12月2日の第七次多号作戦で第3、第4梯団を護衛してきた駆逐艦”竹”に収容さ
れて奇跡の生還を果たします。この時、救助した駆逐艦”竹”の艦長 宇那木 勁
海軍少佐は戦死された本間 広 海軍中佐とコレスの海兵64期でした。またその
救出劇の話を宇那木 艦長が知ったのは戦後の昭和43年の事だと謂います。
撃沈されたその日、執拗なる空襲から必死の回避行動を行う
駆逐艦”島風”。下は同じ日に海没した駆逐艦”若月”の爆発
炎上し沈みゆく断末魔の姿です。
下は運命の悪戯かマニラに引き換えし難を逃れ、第七次多号作戦では
オルモックに現れ島風の生存者を救出した駆逐艦”竹”です。この艦は
航行可能な状態で敗戦まで生き延び、戦後は復員輸送に従事します。
そして昭和22年に英国への賠償艦として引き渡されました。



二種軍袴に剣帯及び短剣はイメージで別人の物を合わせて撮影してみました。



戦死された本間 中佐が江田島の海軍兵学校
で着用された二種軍衣です。左は御本人の海
兵生徒肩章ではありません。イメージで掲載し
ましたが…この真っ白い夏季制服に金モール
の錨の肩章を付け短剣を腰に吊った凛々しい
兵科将校生徒の姿が目に浮かびそうです。
昭和12年3月に海兵を卒業し、少尉候補生に
任官し軍人としてのキャリアをスタートさせた
本間 中佐は…その約4年後に運命の日米戦
に突入。敗色が濃厚となった昭和19年…起死
回生のレイテ決戦の中でレイテ島のオルモック
湾で戦死されております。物言わぬ遺品となっ
た二種制服は…本間 中佐が着用されなくなっ
て約77年が経過しています。美しく白い制服に
色褪せぬ金釦は、過ぎ去ったその歳月を全く
感じさせません…。









島風が眠るオルモック湾
戦後の昭和40年に上井艦長以下の生存者が呉海軍墓地に
建立した慰霊碑です。








海軍警査の肩章




痛みの酷い海軍警査の肩章です。随分前に入手したものですが
記憶が曖昧でいつ頃入手したのかも覚えておりません。まだ収載
していなかったのでUPしましたが、これまで数点収載した警査の
肩章の中では一番痛みがひどいものだと思います。








別に収蔵している他の海軍警査肩章。

痛みなく実にきれいな肩章です。



こちらも別の肩章ですが少し痛みがあります。
肩章と一緒にあった海軍警査刀です。法令に則り
刀は切断してあります。








多くの海軍機に使用された田中計器(株)の
  一号給入圧力計三型 珍しい元箱つきです。




製造年月日か工場から出荷した年月日でしょうか珍しい
オリジナルの元箱に昭和18年5月16日が捺されています。
未使用のデットストックだったようで非常に綺麗な状態の
ブースト計です。航空計器はよく出て参りますが、大体は
計器盤からの取り外し品だったりと海軍へ出荷した当時の
元箱が残るのは非常に珍しく希少と思われます。
田中計器の一号給入圧力計三型は多くの海軍機で採用されており
零戦五四(六四)型、彩雲、晴嵐、二式大艇、雷電、強風、紫電、
紫電改、烈風、陣風、天山、流星、瑞雲、白菊、藤花、大型機では
九六式陸攻、一式陸攻などに搭載され使用されました。
ブースト計はシリンダーに供給される混合気の圧力を表します。
製造されてから70年以上経過しても…1983年モデルの私の愛
機・CB1100FDのメーターよりも綺麗で美しいので不思議な感じ
を受けます。





シリアルNo.300323、海軍の刻印に豊川海軍工廠の
検定印が銘板にくっきりと見えます。










海軍の元整備兵の方の遺品整理品
 で出た中島飛行機の部品銘板二枚と
  1/144モデル位の手作りの飛行機模型




元海軍の整備兵だった方のご遺品整理品の中で出てきた
中島飛行機の小型プレートと手作りの模型飛行機です。
海軍の元整備兵の方が手作りした飛行機なので中島飛行機の
中で海軍機を思い浮かべ九〇式艦上戦闘機や三式艦上戦闘機
や九五式艦上戦闘機などを考えましたが、どうも単葉機でしか
も支柱が失われていますが、明らかにパラソル翼機のようです。
中島が陸軍に向けて生産した陸軍最初の単葉機となった九一式
戦闘機が一番考えられます。
二枚の銘板ですが、おそらく復員する時に記念に持ち帰った物と
想像されます。一枚は高圧油ポンプ13型で海軍の刻印が見えま
す。これ等は航空機の主脚をスムーズに翼内に引き込み収納を
スムーズに行う為の発動機に直結された高圧油ポンプに取りつけ
られていた銘板です。もう一枚は陸海軍機でなくとも民間機の可
能性があります。双発機以上の大型機で操縦席その他で回転椅
子を使える余裕があるスペースがある機体の回転椅子に付けら
れた銘板です。銘板には中島飛行機小泉製作所の名があります。
小泉製作所は海軍向けの機体を制作する工場ですので…おそらく
持つ主だった整備兵の方はこちらで勤務されていたのでしょう。
中島飛行機小泉製作所の昭和18年10月の日付けのあり
回転椅子と刻印してあるので小型機でなく大型の飛行機の
ものと思われます。小泉製作所は海軍機専用組み立て工場
として昭和15年に開設されました。ここの生産機種は、零戦
から九七式艦攻、月光、二式水戦、銀河、天山、彩雲に零式
輸送機など多岐に渡りますが…海軍機であれば、おそらく
零式輸送機(ダグラスDC-3)に使用された回転椅子の銘板
と推察します。ただこちらには海軍の刻印や豊川海軍工廠の
刻印が見当たらないので国策の民間航空機用に製造してい
た零式輸送機や中島AT-2の可能性も否定できない気がしま
す。
随分と器用な方のようです。…木製で作り上げた1/144モデル位の
手作りの飛行機模型です。形状から中島が陸軍に向けて生産した
陸軍最初の単葉機となった九一式戦闘機と思われます。





中島飛行機株式会社…名機・零戦を世に出した三菱重工と二分する国内
大手の航空機メーカーでした。敗戦で解体されるまでは世界的にも有数の
航空機メーカーでした。戦後に三菱重工は解体されましたが、再び三菱重
工の社名を残しその伝統の灯を継続させましたが…中島飛行機は名前を
残す事がありませんでした。解体された会社は…富士重工(スバル)や日
産自動車に吸収されたプリンス自動車工業(旧 富士精密工業)などが有名
です。そして富士重工業は再び三菱重工と同様に航空機の世界に復活を
果たしました。








潜水母艦”駒橋”乗組みの
 川崎 洋 海軍一等兵曹が測角簿
  に残した東亜海戦日誌(軍艦駒橋
   戦闘史)NO.1…開戦直前から昭和
     17年10月13日までの日誌記録




面白いものです。測量艦として大東亜戦争に参加した駒橋に
乗組みだった川崎 洋 海軍一等兵曹(当時)が測量用の側角
簿に記載した日米戦の開戦の2日前の昭和16年12月8日から
昭和17年10月13日までの日誌です。
潜水母艦”駒橋”です。類別上は潜水母艦のままで特務艦(測量艦)
として戦前から使われた軍艦です。古く小さな船で潜水艦がドンドン
と大型化する中で潜水母艦として役割を失いました。この為、大正期
以降、潜水母艦の迅鯨級が出てくると主に測量任務を中心とした特
務艦として南洋から北方まで各地の測量任務に従事し活躍しました。
この日記の記載にもありますが、第五艦隊所属でキスカ島での測量
任務中である昭和17年9月29日のキスカ空襲で小破し、10月11日に
大湊港に回航、同月13日で記載は終わっています。別な記録によれ
ばすぐに横須賀に入港し…横須賀工廠で修理と整備を受け、11月1日
よりは横須賀鎮守府の所属となり以降は敗戦まで日本近海の船団護
衛のみを任務として外地の外洋に出ることはありませんでした。そんな
駒橋も昭和19年1月に熊野灘に面した三重県の尾鷲港をベースとした
第三海上護衛隊の旗艦となり近海護衛任務に就きます。いよいよ末期
の昭和20年4月15日には本土決戦を意識して第四特攻戦隊に組み込
まれ旗艦となります。14ノットしか出せない鈍足のロートル船の駒橋に
第四十五海防艦、第十四駆潜艇、第二十六掃海艇、特設駆潜艇2隻
に特設掃海艇などを配下にした海軍熊野部隊は…米軍来襲時には船
首に爆薬を装備して水上特攻を果たす目的で敵空種を避けて尾鷲湾
や須賀利湾に分散し時が至るのを待ちましたが、昭和20年7月28日に
米機動部隊の艦載機の攻撃を受けます。F6Fのロケット弾と度重なる
機銃掃射で駒橋は浸水し沈没を回避する為、近くの浜辺に座礁します。
同様に隷下の第四十五海防艦も同様に攻撃を受けて浸水し近隣の浜
辺に向かい座礁する事で沈没を免れています。いずれも浸水し着底で
放棄され、敗戦後の同年11月30日に除籍になり、昭和23年9月20日に
浮揚され名古屋に回航され翌年(24年)に解体処理されています。
開戦時には中部両舷にあった8p砲2門は撤去され、大戦中に
代わりに13mm単装機銃二基、艦尾に25o連装機銃が二基
装備され、更に艦尾に爆雷投下軌条が設置されました。




はじまりのページには開戦時の海軍大臣で戦後に
A級戦犯で終身刑にされた嶋田 繁太郎 海軍大将
の開戦時の支那方面艦隊並びに聯合艦隊に対す
る命令が記載されています。


はじまりは開戦の日である昭和16年12月8日の2日前
12月6日(土)からの記載となります。横須賀在泊で
AM08:30 駒橋の繋留された沖4浮標よりK7浮標の
記載からです。12月7日AM08:30に横須賀港を出港
12:30に館山湾入港。23:00に出港し大島西方海面
に進出とあります。開戦の日…12月8日は大島の西方
沖にあり商船の尋問等を行っており正午過ぎには米英
と戦争に突入したことが知らされ、時間を追ってハワイ
グアム、ウェーク、香港、シンガポールへの爆撃とマレ
ーやダバオへの敵前上陸など各地の戦果や戦況がも
たらされ…一人の海軍に籍を置く軍人として大いに刺
激を受けている感じです。
駒橋は横須賀鎮守府所属で近海警備や護衛任務に
就き…速度も遅く武装も非力な為、華々しい活躍とは
縁遠い存在です。
昭和16年12月19日で思いっきり日誌は途切れます。…再開は
約3か月半後の昭和17年3月です。記載は少なく…それも飛び
飛びになります。この月に栗橋は海面防備隊に編入されていま
す。ここからの記載が千島列島からアリューシャン列島に及ぶ
駒橋の大東亜戦争中の初めの最大のエピソードと謂える時期
を描いています。それがキスカ島での米軍の空襲です。この話
の後は最後のヤマ場となる本土決戦準備で第四特攻戦隊の
旗艦として尾鷲港で米艦載機の空襲を受けて浸水着底し活動
を終える事以外に大きなエピソードはありません。




昭和17年7月27日に第五艦隊の所属に変更され、第五測量隊
に組み込まれ、同月29日に函館湾入港し準備を整い、翌30日
に函館港を出港。8月6日に幌筵島(千島列島の)片岡湾に入
港。8月16日に熱田島(アッツ島)入港し第五測量隊を揚陸。
北海支隊(穂積少佐指揮の陸軍1142名)在り、住民30名に米
國人(通信員2名:男1名、女1名)の男性は動脈を切断し自殺
をを企図したと記載されています。女性は内地に送られたと記
載されています。温度摂氏平均12度の記載あり。同日午後3時
に同港を出港。8月19日、再び片岡湾入港。22日出港し、測量
を開始。23日、測量の側深儀故障で8月29日まで徹夜で復旧
作業を続けて嫌になるの記載あり。30日、温禰古丹島海峡(
幌筵島と温禰古丹島との間の海峡)で200m等深線を作成の
記載有。9月3日、天候の都合で測量を一時中断し幌筵島の
武蔵湾に入る。4日、片岡湾に回航す。9月7日、暴風雨の為
、乙前湾に避泊。8日に河岡湾回航。12日、出港。9月16日
、熱田島着(測量隊員を収容)。陸軍の1個小隊が便乗、鳴神
島(キスカ島)に向かう、この部隊は後に鳴神島に移駐する。
温度平均10℃、住民約30名は永田丸に収容し樺太の敷香へ
送る。住民はアスリート族で皆移動を喜んでいると聞くとありま
す。この付近は白雪谷間があり狐がおり、川には鱒…海から
は鱈が多く獲れる模様。9月17日、敵機、熱田島(アッツ島)に
向かうの報あり(機影を見ず)。18日、鳴神島(キスカ島)七夕
港に入港。陸軍の同乗部隊と測量隊を揚陸し回航。9月19日、
測量隊七夕湾に回航。艦は警戒停泊。前線なる為、被害甚大
で陸上の爆撃跡が生々しいの記載があり。また湾内にある商
船の被害も甚大で野島丸は直撃弾により機械室浸水で傾斜(
監督官ほか1名が戦死)。日向丸は沈没し楼のみ見る。鹿野丸
は至近弾により中破し、子ノ日は沈没しあり。と記載されていま
す。史実とは違い間違ってまたは勘違いして記載されているよ
うです。(実際には沈んだのは日向丸でなく鹿野丸です。まあ
日向丸も別な所で潜水艦の雷撃を受けて沈みますが…。また
駆逐艦”子ノ日”は、この日の空襲で沈んだのではなく…その
前の7月5日にキスカ島近海で米潜水艦の雷撃を受けて撃沈
させられております。)…続きです。(艦より見ると)陸上には
多数の砲台あり。9月23日、空襲警報あり、配置に就く(0700
)、敵機影認めず。25日、0410空襲警報、配置に就く。0530
機影認めず解散。0715空襲敵機大型機3機とP-40が偵察に
来る。配置に就き交戦3分間、我等に爆撃の被害なし。北海支
隊(旭川の第七師団隷下の歩兵第26連隊および工兵第7連隊
を中心に編成された約1150名の部隊で指揮官は穂積 松年
陸軍少佐(士候37期))では軽症者が1名出た程度だった。
この空襲は七夕湾を測量中だった本艦を目標として爆撃した
ようだが爆弾はいずれも100〜200m付近に落下した。本艦
の発射した弾数(駒橋の武装は40口径7.6cm単装砲2基、
40口径7.6cm単装高角砲1基の3門)31発(?)。

上は右も左も日本郵船”鹿野丸”です。右上は昭和17年9月
米軍の空撮写真で爆撃で沈没を回避する為、座礁させ放棄
された鹿野丸、左上は同年10月に同じく米軍が撮影した写
真です。












9月26日、0430頃 空襲配置に就く。敵大型爆撃機9機に
他10機の約20機が来襲し対空戦闘を行い、約13分で敵は
退散する。本艦に被害ないが前日に比しても一層の敵の
襲撃ぶりが上がった。また戦闘機の機銃掃射で陸上で火炎
が立ち上る(0432)。また大型機の水平爆撃で春川丸が水
煙に包まれるも被害はなし、戦闘機の機銃掃射は猛烈なり
の記載有。0443敵を撃退す。砲火により1機撃墜、我方の
戦闘機が敵機一機を撃墜、水偵一機が帰還せずの記載有
。26日の空襲での被害は戦死3名、負傷3名。陸上砲台員
1名、整備員1名と工員が1名戦死。負傷者は春川丸の3名
。尚、空襲での損失ですが航空燃料がドラム缶50、機銃弾
が25oが3万発、20o弾が5千発。他は無し。この日、君川
丸が出港し泊地に帰ると記載有。

戦後の記録から補足すると、キスカ島には第五艦隊隷下の
第五航空隊(司令:高橋 農夫吉 海軍中佐)が進出しており
、この航空隊は二式水戦を12機に零式三座水偵を装備す
る部隊です。この日も早朝にキスカ島上空哨戒中の二式水
戦2機が、敵の戦爆連合39機を邀撃します。上空哨戒中だ
った水戦隊長の山田 九七郎 海軍大尉 以下2機がすぐさま
敵へ向かい、地上では迎撃の為、水戦5機が離水を開始し
ましたが、すぐにベルP39エアーコブラの銃撃を受けて離水
中の2機が被弾しました。被弾した2機の佐々木 義一 二飛
曹と佐々木 忠 一飛曹に負傷はありませんでしたが、上空
哨戒機で山田 隊長機の二番機だった森川 上飛兵が撃墜
され戦死しています。またこの日の空襲で格納庫が被弾し
て日記の記載のように機銃、弾薬等に被害が出ています。



最北のアリューシャン列島で激突した日米の航空機達です。






9月27日 0430頃 警報あるも敵機来襲せず。0730頃 警報あるも敵影
見ず。敵飛行艇熱田島(アッツ島)方面を偵察の報あり。9月28日 0630
警報あり配置に就く、敵機七夕湾に出現、大型爆撃機3機。0700 解散
。0704 警報、小鳴神方面に出現、高度5千m、西に向かう。0800 解散
。1116 敵来襲部署に就く B-24が5機。1152 交戦、本艦船首約150
mに爆弾が落下す。1200 撃退。1208 解散。発射弾数は砲が11発、
機銃弾600発、小銃弾360発。被害なく、1500 片岡湾に向かい出港。
…と記載有。

…戦後の記録と参照すると昭和17年9月28日の早朝に電探(レーダー)
による警報により第5航空隊の二式水戦5機が迎撃に向かい、敵4機を
発見します・このうちPBY飛行艇1機を撃破し黒煙を吐かせるも撃墜に
至らず。更に再び午前中に第二陣でB-24が5機来襲。上空哨戒中の
2機に緊急離水した3機の計5機が迎撃戦を行う。敵B-24の1機のエンジ
ン2基に煙を吐かせて撃破するも撃墜に至らず。

(日誌に戻ると)9月29日 測量の都合により艦隊よりの電報にて武蔵湾
の測量の為、鳴神島へ向かう(艇搭載の為)。0300 反転。鳴神島測量
終了次第、幌莚島に回航の命。0405敵機(飛行艇2機)が東方より来襲
で部署に就く.0416 前進一杯で敵に向かう。0419 撃ち方始め。0421
撃ち方控え、撃退。0430 西に敵遁走す我に被害無く解散。1018 警報
により配置に就く、本艦鳴神島北5哩(約8km)。1045 敵重爆(B-24)
3機 右5度に発見。1050 本艦に向かう本艦も敵に突入す。1053 撃ち
方始め。1116 爆撃第1波。1118 爆撃第2波。1120 爆撃第3波。1122
爆撃第4波。1125 爆撃第5波。1126 機銃掃射を受く。1131爆撃第6
波に機銃掃射を受ける。1140 爆撃第7波。1145 三機を撃退、左方向へ
遁走す。1156 一機、雲間より来襲。1201 爆撃第8波を受ける。1218
全機撃退す。敵の爆弾投下総数は48個。被害:軽症者3名(うち宇井 忠
男が左外耳弾片創)。0430 日遼丸が敵機を発見。1540 鳴神島入港。
本日は鳴神島に前後6回の敵襲撃あり、、被害甚大なり、本隊(第五測
量隊)の被害は、掃海中に爆撃及び銃撃を受けた白京浜

 測量中の戦死者

  船夫長 舛田 源之助(親子で測量中、親の方で戦死し、子は無事)
  船夫   峰 元一
  船夫   中野 倉吉(以下2名は親子で戦死)
  船夫   中野  薫

   同 負傷者 9名

  技手   藤村 隆
  機械手  平野 徳松
  船夫   野口 安太郎
  船夫   高塚 平藏
  船夫   荒木 邇太郎
  船夫   平田 力助
  船夫   平田 力
  船夫   元土肥 光雄

測量艇3隻大破。当地での測量が不能の為、引揚げて次回に残る測量
をする事となる。本艦は艦底に少量の浸水あり、応急工作により戦闘航
海に差支えなし。1800 本艦及び陽光丸、鳴神島(キスカ島)出港。片岡
湾へ向かう東水道を南下す進路 S25Eにて敵を退避中。


…この日(29日)の五空の邀撃戦の方で見ると
早朝(0500)上空哨戒に発進した二式水戦2機、P39及びP40に護衛さ
れたB24の戦爆連合約20機を発見し交戦状態に入ります。更に緊急発
進した二式水戦3機が、邀撃の為に緊急発進し敵と交戦。多勢に無勢な
上に抜群の運動性能を誇ると謂っても下駄ばきの水上戦闘機ゆえに零
戦並の戦果を望むのは厳しく…結果として敵P39を1機撃墜し、日本側は
二式水戦二機を失います(一機自爆、一機未帰還)。未帰還の戦死者は
宮沢 弘蔵 海軍中尉(海兵68期)、自爆した戦死者は佐々木 忠 一飛曹
また2機が敵弾により損傷し…元から定数12機(常用9機、補用3機)で
この26日から29日で戦死した3名の搭乗員は、いずれも本国から補充に
来たばかりの13名の搭乗員のうちの3名でした。


(日記に戻る)29日、戦死者の遺骸を陸上に残し、また重傷者一名を付き
添いの山口技手と共に島内の病院に残す。対空戦闘の感想、本日48発
の爆弾投下を受けて対空戦闘…実に約1時間半に及びようやく撃退する
も艦の運動が自由なるうちは爆撃を避けえるものと思う。至近弾を受けた
る時は驚愕し無我の境地で必死で恐怖を覚える隙もなし、信念を持って
平素より訓練が必要と痛感する…(略)。9月30日、片岡湾に向かい航行
中。敵機と敵潜水艦の見張りを厳戒にす。1800、日遼丸よりSOSを受信
、敵機の爆撃を受け被害甚大…熱田島(アッツ島)西々北百浬地点。


…戦史では日遼丸が30日に攻撃された記録なく沈んでもいない。日遼丸
は徴用の雑役船として大戦中主に日本近海や南方で活躍し、昭和18年
12月1日にセレベス島北方で敵潜水艦の雷撃を受けて撃沈されていま
す。恐らく記載者の川崎兵曹の勘違いか記憶違いと思われます。

昭和17年10月1日、前日に引き続き哨戒航行。0000 舵故障、原因は
振動により接合部離脱による…直ちに復旧。10月2日、哨戒航行中、
晴天平穏の航海が続く。0600 日帝丸が鳴神島入港前に敵機来襲で損
害大で救助を乞う電報有。毎日、敵の空襲ありて行方遮断を始めたらし
い。最後は必ず恨みを晴らす時が来る筈だ。10月3日、哨戒航行中
0100 浮遊機雷を発見し処分す。砲(通常弾7発)で最後の弾により全て
沈下せり。位置は占守島S62E140浬。10月4日、片岡港入港。10月
7日、片岡港出港。米国ラジオの発表によると9月29日鳴神(キスカ)北
方における海戦にて砲艦一隻爆沈せり、また大型商船二隻を撃沈とある
も日遼丸、日帝丸、両船のことだろうか。しかし日遼丸は四ノットで帰港
しつつあり、日帝丸は無事、鳴神(キスカ)にて作業しつつあり、本艦も無
事に内地へ向かいつつある。同日の至近弾により艦前部に若干の浸水
を見る程度なり。10月9日、1600 宗谷海峡通過。10月11日、0900 
大湊港に入港。上陸はなし。家より通信あり4通。10月12日、1300 約
4時間散歩上陸許可される。10月13日、0900 大湊出港。陽光丸は武
蔵湾の測量に向かう。慰問品あり分配す(東京市麻布区○○町 服部正
次方 滝澤菊子氏より)。帰航路に潜水艦出没する所、2か所あり警戒を
要す。

…ここで記載は終了しています。記録によると駒橋はキスカで小破した箇
所を横須賀海軍工廠で修理され同年11月1日から横鎮附となり近海の
船団護衛任務に戻り…再び外地に出る事はありませんでした。そして昭
和19年1月16日、尾鷲港を中心に展開する第三海上護衛隊(熊野灘部
隊)の旗艦となります。昭和20年4月15日、本土決戦に向けて第四特攻
戦隊(司令官:中邑 元司 海軍少将)に改編されます。そして大した活躍
もしないまま…昭和20年7月28日、2度目の呉軍港空襲の余波で尾鷲
で米艦載機の攻撃を受け浸水着底し放棄されます。そしてそのまま8月
15日の敗戦を迎えます。11月30日 除籍。昭和23年9月20日、 浮揚され
名古屋港に回航。昭和24年頃、名古屋で解体処理され約37年の艦歴に
終止符をうちました。尚、この日記を記載した川崎兵曹が書いていた時期
の駒橋の艦長は昭和17年2月までが山形 政二 海軍大佐(海兵43期、
後にクエゼリン島の第61警備隊司令として玉砕し少将に)、それ以降では
昭和20年4月までが大野 周 海軍大佐(海兵47期)、以降廃棄までが…
水谷 勝二 海軍予備少佐でした。記載者の川崎一等兵曹は最後まで
駒橋の乗組だったのでしょうか?…その答えはありません。開戦前に一
等兵曹ですから昭和17年11月の改正で上等兵曹に改称し、敗戦まで予
備役に回らずに勤務されていれば准士官に昇進したものと思われます。














昭和七年度に現役で呉海兵団に入隊された
 尼崎の山本 松蔵氏の所持していた面白い資料




昭和7年度現役兵として呉海兵団に入隊された山本 平藏 氏の資料です。
海軍に入って約三年…第十九駆逐隊司令より付与された
服役優等証です。この司令の西村 祥治 大佐は、後にレイテ
沖海戦で第一遊撃部隊・第三部隊司令官としてスリガオ海峡
戦で戦艦2隻と重巡3隻に多くの駆逐艦を失い全滅状態に陥り
自らも三千名の将兵らと海の藻屑と消えた西村 中将です。こ
の服役優等証の昭和10年より9年後に起きる悲劇です。昭和
7年に四等水兵で入団した山本氏も昭和10年秋には一等水兵
に昇進しています。
御本人が所持していた下士官軍帽の旧型帽章です。
裏の足が外れてしまっています。下士官になっている
という事は一等水兵から術科学校に進み、現役4年延
長したと謂う事になります。少なくとも昭和14年までは
海軍におられた事が判ります。


”甲種、水兵、第4席”合格 を証する連隊区徴兵官
の大きな角印が押印された紙片です。敗戦の昭和
20年までは…国民の義務として、この日本でも徴
兵制が厳然と存在しておりました。海軍は陸軍と違
い基本的には志願兵で賄いますが、志願兵だけで
は必要人員が不足する場合は陸海軍の各大臣が
話し合いを持ち割合を決めています。尚、海軍では
志願兵の現役生活は5年で徴兵の場合は3年でし
た。
徴兵が甲種合格で水兵(海軍)、第四番である事が判ります。


非常に面白い資料です。昭和七年度の尼崎市作成になる現役兵名簿で
45名の採用人員 のうち陸軍に41名(近歩1名、工兵5名、歩兵27名うち
7名は外地勤務、輜重兵8名)、海軍 には4名が割り振られている事が判
ります。
昭和七年(皇紀二五九二年)は年明け早々にクズ朝鮮人が桜田事件
を起こし、上海で日本人僧侶の襲撃事件…そして第一次上海事変が
起きます。遠く欧州ではソ連・ポーランド不可侵条約が結ばれました。
またこの年は満州国が建国された年であり、五・一五事件が起こり
犬養毅首相が暗殺され、政党政治が終わり…斎藤実海軍大将の挙国
一致内閣成立。リットン調査団が来日し…白人国家と対立を深めるは
じまりが完成した年の感があります。ロス五輪ではバロン西が金メダル
を獲得…年末には大日本国防婦人会が発足し…時代は最終戦争へ向
けて舵を大きく切っていきました。
またこの年は上海の廟巷鎮攻撃での肉弾三勇士が全国的な
美談として語り継がれ、関東軍がハルビンを占領し、東北三省
を制圧し支那での陸軍の戦いは拡大の方向に向かっていった
時期です。こうした御時勢を背景にしたのか現役兵45名の採用
のうち陸軍が大半の41名で約9割を占め、海軍が約1割の4名
です。海軍はロンドン軍縮条約の批准後で全体的に縮小の流
れが加速する中…上海事変での海軍陸戦隊の戦いに第三艦隊
の出動など心理的にも相半ばする時期でもありましたが、陸軍
のように徴兵をバンバン増やす事はなかったですが、年々志願
兵だけでは足りずに徴兵者も増やしていきました。









ある予備学生の海軍士官奉職履歴




昭和19年の海軍予備学生出身の野澤 清志 氏の奉職履歴です。

この方の場合は昭和18年末に舞鶴海兵団を振り出しに少尉任官
し館砲へ、そして退校したとき既に昭和20年1月です。ここで戦地
に送られたり国内でも特攻に回される場合もありますが、この方は
運良く飛行予備学生でもなく敗戦まで横鎮周辺であって短い軍歴
を終えております。ページにすると半ページとちょっとです。
本当に運不運と謂いますか…人の運命は一寸先は闇ですね。
同じ予備学生でも飛行予備学生であれよあれよと謂う間に飛
行機を飛ばすのが精一杯の技量で南九州から沖縄へ特攻に
飛び立たされ還らない若い同世代の学徒は大勢おります。
野澤 清志 氏、長野県諏訪市の出身で家族は父よ母のみです。
大正11年生まれです。昭和18年12月に舞鶴海兵団に入団して
海軍二等水兵に。この時点で21歳。どちらの大学や旧制高等学
校を出たかなどは判りません。海兵団での短期養成で海軍士官
を速成する基礎を叩き込みます。これは一般の徴兵や志願兵の
水兵も同じです。約2か月後の昭和19年2月1日、海軍予備学生
に(同時に徴兵制による兵の身分を失います)。同年7月15日、
館山海軍砲術学校(化兵班専修)入校。同年12月25日、術科教
程終了。任海軍少尉。同日充員召集を命ぜられ即日参集。第一
航空艦隊司令部付。昭和20年1月1日、館砲を退校。同年1月
10日、相浦海兵団(所謂、臨戦増強の為の佐世保第二海兵団)
付。同日、着任。2月6日、退団。2月10日、横須賀鎮守府着任。
2月11日、横須賀海軍警備隊司令官の命を受けて服務すべし。
同日、横須賀鎮守府退庁。横須賀警備隊着任。昭和20年7月1
日、横須賀聯合特別陸戦隊附。7月9日、横須賀警備隊退隊・赴
任。同日、着任。昭和20年9月5日、任海軍中尉。
あれよあれよと横鎮隷下の部隊を巡っているうちに敗戦を迎え
中尉に昇進して軍歴を終えています。御両親はたった一人の
お子様なのでさぞかし安心して喜ばれた事でしょう。








一枚の寫眞から




三人の高名な海軍の提督が並んで写る寫眞です。日米戦開戦の1年前に
米国の通信社が配信したものです。宮城で陛下より賞詞を受けられた時の
もののようです。左から後にミッドウェイ海戦で空母”飛龍”と運命を共にされ
た闘将・山口 多聞 海軍少将、真中は大戦中に病没された開戦時の第一艦
隊司令長官 高須 四郎 海軍中将、右端は”特攻の父”と呼ばれ敗戦時に壮
絶な割腹自決を遂げた大西 瀧治郎 海軍少将です。










一枚の寫眞から…(2)




敗戦により日本は飛行機の飛行を原則的に禁じられました。連合軍から
許可を得た連絡輸送用の機体や終戦特使を乗せた航空機だけが全面を
白く染めて胴体に緑の十字を描いて飛行することを許されました。写真は
そうした終戦直後の輸送に用いられた海軍の機上作業練習機”白菊”で
す。裏に出所を示すスタンプはありませんが、英国で販売されていた複写
の写真のようです。









一枚の寫眞から…(3)




大東亜戦争中に米海軍の暗号解読に挑んだ海軍の通信諜報
のスペシャリスト・中杉 久治郎 海軍少将の海軍兵学校生徒時
代の寫眞です。海兵36期でコレスに南雲 忠一、沢本 頼雄、
塚原 二四三などがおりました。明治39年11月29日の日付けと
送った相手と直筆で名前が裏に記載されています。海兵卒業の
明治41年の2年前で中杉提督が20歳の時です。ハンモックナン
バーは13と優秀な方です。昭和15年12月予備役に編入し、日米
戦も中期を迎えると充員招集を受け軍令部に出仕となり、数学者
らと特務班を編成し、米海軍の暗号解読に挑みましたが成功には
いたりませんでした。戦後も長く存命され昭和55年に満94歳で
他界されました。







何時頃入手したものか失念してしまいましたが海軍の砂時計です。
時間は約30秒ほどです。ケースの横に錨マークとNO.670と刻まれ
ています。上蓋の上にも28と刻まれています。














海軍第三燃料廠(徳山燃料廠)の軍属略帽章です。








〜 脱 線 〜




*今回、このページで採用したBGMは、Richard Clayderman
の”愛のコンチェルト”です。昭和56年に化粧品のCMで流れて
一躍有名になりました。

貴公子然とした容貌でも人気を博して特に主婦層には
絶大な人気がありました。今でも毎年、コンサートが日本
で開かれているようです。






”愛のコンチェルト”が日本でヒットしてから約33年
当然、老いは避けられず…Richard Clayderman(
本名は、フィリップ・ロベール・ルイ・パジェス)も御年
60歳で還暦を迎えました。








いつもお世話になっている大先輩から頂いた
横須賀土産のコースターです!










海軍刀の菊水紋彫の銀ハバキです。
陸具の靖国刀に対して海軍では菊水刀が有名で人気が高いようです。
菊水刀には茎に菊水紋彫りの銘とこの菊水紋彫りの銀ハバキが定番
です。…その人気にあやかって贋作を売る悪い業者も多いようです。