旧軍関連・戦前資料収載品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
海軍第二十一特別根拠地隊
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ジャワ島防衛を任務とした第21特別根拠地隊に所属した 本田四郎海軍中尉の所持品です。司令官 田中菊松 少将 の隷下海軍将兵は、ジャワ島スラバヤに敗戦時12,700名 がおりました。上部組織の南西方面艦隊の本部は、スラバ ヤにあり、第二南遣艦隊の長官を兼ねていました。 スラバ ヤでは、海軍本部と言われたビルの中に両艦隊司令部と 根拠地隊が同居して存在していました。また南西方面艦隊 第二南遣艦隊には、この他にもボルネオ島防衛にあたった 第22特別根拠地隊(バリックパパン)鎌田通章 中将の将 兵 10,900名、セレベス島防衛にあたった第23特別根拠地 隊(マカッサル)大杉守一 中将、スンダ列島・ニューギニア 防衛の任にあたった第25特別根拠地隊(アンボン)一瀬信 一 中将のそれぞれの根拠地隊が存在しました。尚、スラバ ヤなど二十一特根は、戦闘地域とならず無事に本国へ敗戦 後、復員する事ができました(BC級戦犯に問われない限り )。 |
特別根拠地隊は、海軍特別根拠地隊令によって編成されるものです。 作戦地その他、所要の地に置かれました。司令官の下、軍艦と同様の 編成で副長・科長・分隊長を配し、必要に応じて参謀も置きました。 |
海軍普通剣帯です。バックルカバーの裏皮に 本田の記名と機関または、機曹?と記載され ています。この方は、所持したチョッキからも お判りのように釦がコンパスですので予備か ら予備兵曹長、予備特務士官となった方と思 われましたが、その後に入手した資料より水 兵から叩上げた特務士官である事が判りまし た。 |
祝出征の千人張です。 |
兵曹長の肩章に各種襟章です。 |
陸戦服用の兵曹長襟章に中尉襟章 です。中尉は、裏に一種軍衣用の留 金があり、一つだけの襟章は、裏に ピン留めがあるので防暑略衣の胸に 付けていたものと思われます。 |
二種をクリーニングに出しまとめておいた釦類と 木札です。この木札を見ると何故か三式軍医 少将軍衣を40万円以上で購入された高名な先 生を思い出します。 |
胴衣です。釦がコンパスですので予備 士官・予備准士官であると考えました が、その後に入手した資料より叩上げ の水兵から上がった特務士官である事 が判りました。この胴衣は、不明です。 |
蘭領インドネシアという南方で勤務されていた せいで軍帽覆をずっと付け続けていた為に 内部の虫食いとは、正反対で軍帽の天頂部分 は、新品同様で痛みが全くありません。 |
このバリカンの錨マークは、軍用のそれで は無く会社の商標のようなマークだと思わ れます。単純に田中中尉の所持品だから 手に入れた品ですが、まだまだ現役で使 える品です。 |
画像右の方が二十一特根司令官の 田中菊松少将で左の方が副長の 尾崎大佐です。 |
別に入手した本田中尉の水兵・下士官時代 の縁の品々です。 |
スタートは、佐世保海兵団です。 |
ペンネントは、軍艦”出雲”です。昭和3年の 練習艦隊の遠征の記念アルバムがありまし たので外国へこの時に遠征しているようです |
下士官時代の写真です。 |
防暑衣に防暑略帽姿で日焼けしています から南方で水雷艇”千鳥”乗組の時ではと 思われます。 |
海軍工作学校(沼津)学校長 梅林 正義 海軍(機関)少将の縁の品々 |
梅林閣下の二種軍装です。 |
機関参謀時代の梅林 閣下(大佐当時)です。 |
こちらも同じく夏軍衣袴です。釦が取外され クリーニングから返ったまま仕舞われていた ようです。 |
クリーニングで取外された釦です。 |
二種軍袴です。 |
防暑略衣袴です。かなり大柄な方だったようです。 |
同時に入手した閣下の一種用の海軍少将の 襟章を合わせてみました! |
白の制服にベタ金の襟章が良く合います。 |
梅林閣下の襟章三点です。何れも軍服からの取り外し品です。 |
閣下の軍帽です。機関科識別線がありません ので昭和17年改正以降に使用されていたもの と想われます。残念ながら軍帽前章に痛みがあ ります。 |
手持ちの帽章で修復して見ました。 |
<略 歴> 梅林 正義 海軍少将 明治26年8月23日生、三重県出身、功五級 海軍機関学校第23期(大正3年12月卒業)(30/44) 大 3年12月15日 海軍機関少尉候補生 (笠置乗組) 大 4年 7月19日 (摂津乗組 ) 大 4年12月13日 海軍機関少尉 (鹿島乗組 ) 大 9年12月 1日 海軍機関大尉 (海大機関学生) 大11年12月 1日 駆逐艦”帆風”機関長 大12年12月 1日 海大選科学生 大13年12月 1日 第五艦隊司令部附・機関参謀 大15年 5月 5日 海軍機関校教官 昭11年12月 1日 海軍機関大佐 昭14年 2月 4 日 海大教官 昭16年10月15日 呉鎮守府機関長 昭16年12月15日 呉艦船部長 を併任 昭17年 4.月1日 技研総務部長兼総務部第二課長 昭17年 5月15日 技研総務部長 昭17年11月 1日 海軍少将 昭18年11月10日 第102施設部長 昭19年10月 1日 沼津工作校長 昭20年 7月15日 軍令部出仕 昭20年 9月 6日 予備役 昭41年 8月4日 歿(東京吉祥寺)享年72歳 |
梅林閣下の海軍機関学校生徒時代の集合写真です。 |
軍帽等に通常の海軍兵学校生徒と違い機関科 識別線が入っているのが判ります。 |
海軍を背負って立つ次世代のエリート青年たる 海軍機関学校生徒と少尉候補生の自信と誇りが 写真から脈々と感じられます。今の時代に無い… 若者像がこの敗戦前には、存在した事を感じさせ てくれます。 |
幼さの残る海軍士官の卵達の誇らしげな顔と 凛々しい制服姿に腰の短剣が今の時代に失 った名誉に礼節…自己犠牲などの美徳を尊ん だ時代が確かに存在した事を再確認させてく れます。海軍の戦闘艦艇において機関科士官 の多くは、艦尾の機関室で艦と運命を共にしま した。 |
以下は、入手しませんでしたがヤフオクで売りに
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閣下が佩用した略綬のようです。 |
エジプトでラクダに乗っています。候補生で無いので昭和13年7月 に練習艦隊機関長(海軍機関大佐時代)として遠征航海に行かれ た時の記念の物と思われます。 |
画像が粗く読み取りずらいのですが上下四名の海軍士官のうち 上の右の方が梅林閣下と思われます。 |
海軍機関学校の大正3年の春季射的大会 で優勝した時の記念写真です。 |
制服から少尉候補生時代の写真のようです。生徒もいます ので卒業後に先輩後輩で記念に撮影されたものかもしれま せん。 |
海機23期の卒業写真です。また後ろの日の丸が実にでかい! |
海機創立30周年記念で呉の地方分会で撮影された記念写真です。 昭和6年4月25日とありますので梅林閣下がまだ海軍機関少佐 で 丁度、呉鎮守府参謀をされていた時の写真です。一人だけ左端に直 立された方が参謀飾緒を佩用していますので、この方かもしれません。 |
閣下は、敗戦から21年後に東京は吉祥寺で他界されて おります。大正の古き良き時代から昭和20年の敗戦まで 帝國海軍の栄枯盛衰を見てきた方と言って過言では、無 いでしょう。海軍機関学校〜海軍大学校を経て提督に上 り詰めています。 |
昭和8年の軍令部職員の集合写真です。梅林閣下は、当時 海軍機関中佐で軍令部出仕でした。昭和9年に重巡”摩耶” の機関長に転じるまで軍令部におられました。摩耶の後に 閣下は、戦艦”山城”の機関長を務め艦船勤務は、その後に 第二水雷戦隊機関長、練習艦隊機関長、を歴任し少将に昇 進前に第二艦隊機関長が最後となります。 |
この梅林閣下縁の品々もバラバラにされてヤフオクで売りに出され たものですが、人括りだった品が全国に四散するのは、いつも感じ る事ですが心痛みます。閣下の勲記等一式も売り出されましたが 力及ばず残念ながら入手適いませんでした。某大学ボクシング部 OBで同大学の理事を務められる高名な会社経営者の方が入手さ れていかれましたが、立派な方が引取られると安心できます。 |
海軍 士官候補生 短剣 |
大正3年に廃止された海軍少尉候補生短剣です。 明治6年から大正3年の間と言う短い期間しか使用 されなかった短剣ですので希少と言えるでしょう。 |
帝国海軍は、明治6年12月15日に西欧の短剣を模した二種類の 海軍短剣を採用しました。一種類は、少尉試補・士官候補生徒 ・曹長用です。もう一種は、下士官用でした。明治16年10月20日 に士官用短剣を別に制定しました。大正3年になり将官を含む全て の海軍士官、士官候補生、士官候補生徒が共通様式の海軍士官 短剣を使う事になり、これ以降…敗戦迄の間、基本形式の同じ多く の方が目にした事のある海軍士官短剣となりました。昭和になり十五 年戦争と謂われる長い闘いの中、多くの士官が誕生し士官短剣もこ れに合わせて粗製濫造され末期には、セルロイド一体式の柄の粗末 な短剣を吊る学徒出身の海軍士官の姿も多くなり…こうした古き良き 時代の短剣は、数が少ないと言えるかもしれません。 |
金線の切れも無く、駐爪も正常に機能しガタツキも ありません。総じて美品だと思います。 |
鞘は、黒色研出鮫皮巻です。 |
全長は、 41.5cmで中の短剣は、刃長が23.7cm 登録証ありで無銘、裏表棒樋の彫が在ります。 |
上とは別の士官候補生短剣です。 |
中身は模造刀です。 |
鞘と柄の大部分は問題ありません。背金から冠部分 がどうもオリジナルと違和感を覚えます。この部分だ け後で修繕を模造品を加工して行ったのではと考え ています。 |
海軍生徒夏肩章に寄書に写真等 |
不思議な品々です。これら関連品は 静岡県磐田市の方面で4年程前に 地元の写真屋さんの解体時に御遺族 の方より譲り受けた物との事です…。 |
どうも生徒肩章と以下の名刺や写真の人物は、無関係のようです。 |
最大の謎は、この名刺と写真の海軍士官です。名刺には、海軍少尉候補生 堀井市郎とあります。しかし堀井市郎という名では、海軍兵学校にも海軍機関 学校にも存在していません。下の飛行服姿は、海軍中尉の飛行服臂階級章 があります。その下の二種軍衣姿の肩章は、少尉のようです。この飛行服姿 で海軍経理学校は、考えられませんし当然、短現の法務・軍医科士官もあり えません。可能性として残るのは、予備学生しかないと思います。多分、制度 改正後の予備学生か高等商船学校出の予備生徒が少尉候補生となり任官し たものと想像します。その時代背景を考えると、航空だけでなく震洋や回天な どの特攻兵器の搭乗員だった可能性もあります。 |
手掛かりとなる西牟田俊郎(都城出身)、羽山勇、石崎の名前で 昭和20年の海軍兵学校の在校生を調べましたが、該当者があり ませんでした。但し、私の所持している海軍兵学校出身者(生徒) 名簿は、第75期生(昭和18年12月1日入校・昭和20年10月1日 卒業)の3378名のうち舞鶴分校(入校時機関学校)の465名分が 含まれておりません。一つは、その可能性がありましたのでこの 改称前の即ち海機56期と海兵舞鶴分校76・77期も調べましたが こちらにも該当者は、居りませんでした。これらから推測すると恐 らくこの三名は、予科練の同期と思われます。 |
海軍手箱 |
海軍の下士官兵に貸与された品です。日用品や簡単な 私物を整理して入れる箱です。石鹸や文具から裁縫道具 に至るまでを収納しました。 |
箱の右横表面に”横山教員”と書かれています。出所から 横須賀海兵団で使用されていた物と思われ状態の良好な 完品です。 |
下は、昨年度後期の帝軍研の年報第八号です。 表紙に海軍手箱が兵下士官の生活観が溢れる ように配されて撮影されています。とてもよい感じ ですね。分隊士や班長が点検する姿が思い浮か ぶようです。 |
海軍 陸上施設及び艦艇用に多用された
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海底の破壊された艦船や南方の戦地の 旧軍司令部などの施設で良く見かけるの がこの蓄電池です。銘板の残る良い状態 の方と銘板の無い悪い方の二台です。 |
昭和19年9月、横須賀海軍工廠蓄電池部製造 の記載が銘板にあります。 |
海軍航空廠 二等工員(火薬廠)の工員制服 |
茨城県土浦市の元海軍航空廠工員だった方からの品とのことです。 昭和18年制定の戦時海軍工員規則によりますと襟章は2等工員で、 襟章の桜花は赤(海軍火薬廠)と書かれていますが、持ち主によると 「頂いた物をそのまま付けていたから」との事のようです。セルロイド の名札は、思い出にと取り外されてしまったそうです。右胸に補修跡 、被服全体に汚れ有ります。生地は海軍の三種のものです。 |
海軍工員に支給されていた通常”菜っ葉服”と呼ばれた 菜っ葉のような作業服兼制服です。混紡生地の粗末な 服です。 |
大戦中後期は、大国同士の物量総力戦となり 我国は、根こそぎ動員で兵士になる若者以外 の少年、女学生や老人などが銃後で軍需支え ました。戦地では、兵器などの性能や質が日を 追って悪化していき当初、小型で性能が非常 に良かった九四式自動拳銃などは、粗悪品ば かりとなり暴発を繰り返し不名誉な”自殺拳銃” などの仇名をつけられました。 |
上は、豊川工廠工員の工員徽章 と一等工員の襟章です。 |
海軍航空関連工員用の作業服(制服) |
こちらも上と同様の菜っ葉服ですが珍しい事に内部に ”海軍航空本部配給品”という記名布が縫い付けられ ており、航空関係の工員に支給された服のようです。 通常の工員服はこのような記名布は付いていません ので、ある意味で非常に貴重な品といえます。 |
海軍々属 (昭和十七年制)判任官一等
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軍属の判任官一等(准尉=兵曹長待遇)の襟章と 背広に付ける判任一等記章です。昭和17年改正に よるものです。背広用記章には、シリアルNo.があり ます。 |
昭和六年制の文官従軍服が戦争の拡大と継続で文官の数も急増し武官との 区別が困難となった為、昭和十七年制では開襟式の背広タイプとし肩章を廃し 夏も冬も襟章と変りました。戦地用の褐青色服も襟章としました。 |
判任官文官用の平たい緑枠の物でなく判任一等(准士官待遇)用の背広記章 |
海軍兵学校の武道のメダル。武道(柔剣道その他)大会 など秀でた生徒に与えられた記念の品だと思われます。 |
なんとも可愛い自衛隊限定販売の 大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ ーズのキューピーです! |