旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part Ui















Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








呉海軍刑務所の監獄看守を勤めた
 元陸軍曹長から海軍兵曹長になった
  非常に珍しい奥田 静人 氏の縁の品々
              (旧姓 宮崎 静人)




奥田静人氏の所持した海軍監獄看守の前帽章です。
この前帽章は、班任官二等以下即ち下士官待遇の方
の帽章となります。以下にある海軍文官の帽章及び
襟章は、昭和17年1月の改正以降使用された軍属前
帽章と判任官二等(曹長待遇)の襟章となりますが、こ
ちらも全て奥田氏のものです。
非常にレアな帽章です。
この所持者だった奥田氏は、元々は陸軍曹長でした。宇垣軍縮
により陸軍を辞め早期退役されています。今でいうリストラと同じ
でしょう。次に就職したのが海軍刑務所の監獄看守の仕事でし
た。これは、海軍警査が陸軍の憲兵と同じで軍人であるのに対
し監獄看守等はあくまで軍属となります。現在の刑務所が警察
と違う組織で法務省の刑務官が管理しているのと同じような事
だと思いますが、あくまで海軍刑務所ですので海軍と言う役所・
組織の軍属がその任にあたります。奥田看守は、丁度、准士官
待遇手前の判任官二等でスタートしています。元々、陸軍曹長
で下士官の最高位まで身分は、達していますので当然かと思い
ます。上の帽章から判る様に長く勤められていました(勤続16年
以上)。そして准士官・士官に敗戦の年に昇進しました。
すぐ上の帽章は、昭和17年改正の判任官二等以下の帽章です
。下の帽章は、昭和20年に監獄官吏が海軍法務科の軍人にな
りました。この為、以降の敗戦までの短い間、軍人として武官の
階級名称に変わりました。下の帽章は、普通の准士官・士官の
前帽章の桜花章を外してバッテンのような所謂、監獄章を入れ
ています。敗戦間近の昭和20年に奥田静人 監獄看守は、海軍
兵曹長に昇進し准士官になっております。陸軍で果たせなかっ
た昇進を敗戦前に海軍で果たした稀有な例です。
この前帽章は、昭和20年改正で海軍
軍属から法務科軍人になりましたので
奥田氏が監獄看守から海軍兵曹長と
して准士官まで昇進した証です。

奥田氏の使われた剣帯です。バックルを見て
お判りのように兵・下士官用のものです。
監獄看守として帯刀していたのでしょう。生活の知恵で
剣で摺れないように当て皮が工夫されています。また
士官の帯刀でない為、下げ尾などの金具も士官用の金
色でなく銀色です。これも珍しい物の一つです。

奥田氏の使われた監獄看守の
三種衣袴のようです。
ズボンの方は、三種軍跨と全く同じです。
上衣は、軍属でも使用する海軍の釦を使
っていません。昭和17年制では、金属釦
(士官用・下士官用)を用いていませんの
で当てはまります。20年には、兵曹長に
なり海軍軍人になっていますので17年か
ら20年までの短い間に使用されたものと
推察しています。
衣袴共に奥田のネーム
刺繍があります。
両襟部に襟章止めのような糸掛の
ような塊があります。サイドベンツに
帯刀用の切れ目はありません。


奥田氏は、大正10年までは元々の宮崎姓を
名乗っておりましたが養子にはいられたので
しょうか、大正11年以降は奥田姓となります。
順調に出世の階段を上がっています。

非常に優秀な下士官だったようで
す。特に射撃の腕は抜群で手に入
れませんでしたが何度も優等章を
取られています。







大正11年暮れに下士官の最高位である曹長に
に登りつめます。きっと宇垣軍縮など後になけれ
ば特務曹長(准尉)・少尉を十分に意識したした
ものと思いますし、十分に射程圏内に捕らえてい
ました。
射撃だけでも何回も優等を表されていて
この他にも銃剣術なども優等章を授与さ
れている非常に優秀な下士官です。

陸軍時代の物は、この大正13年の曹長で
受けた善行証が最後になります。






以下、海軍々属として呉海軍刑務所 監獄看守
としての勲記・証記等々となります。




大正の終わり、昭和の初めに奥田氏
は、陸軍々人を辞めて海軍々属として
監獄看守の職に就きます。
呉鎮守府からの辞令です。陸軍から
海軍に転じた珍しいケースの資料で
すが、更に監獄看守という職が非常
に数が少ない為に更に珍しいと思わ
れます。
昭和5年現在でもまだ平の看守です。


10年後の昭和10年まだ看守
から昇進していません。


15年後の昭和15年です。
まだ昇進していません。


昭和16年、運命の日米戦開戦の
約二週間の証書です。勤続16年
まだ監獄看守から昇進していま
せん。私の持つ紙物資料の一番
新しいのがこの昭和16年です。
この後、所持していた帽章から昭和20年、
軍属から海軍(法務科)々人になり准士官
である海軍兵曹長に任官されたと考えられ
ます。







珍しい海軍警査の官給刀(海軍警査刀)




珍しい海軍警査刀です。戦後に刀屋か趣味家がいじったのか
鞘の二環式が一環が抜かれて漆みたいな物で鞘全体が厚く
塗られています。官給品の鞘にこんな塗装をする訳が無いの
でそう考えます。一番下に掲示しましたが、はじめは鞘自体が
合わせなのかと思いましたが良く探してみるとこじりの両側に
海軍の錨マークを見る事が出来ますので鞘も本物です。
余程、錆や汚れが酷かったのかこのような塗装を
するとは、中々考えられません。出来ればきれい
に落として元の姿を復元しようと考えています。また
元は、ストッパーもあったような感じです。
背金の大きな錨マークが特徴です。
中の模造刀は、亜鉛メッキの悲しい位、貧乏臭いものです。
全長は、約75cmです。柄は、牛革に金線で再巻きしてあります。

こじりに両側に錨マークの刻印が見られます。

上の画像にあるような典型的な警査刀を手持ちの軍刀や
各種サーベルのパーツで再生して見ました。以下画像、
鞘と鍔を替えて刀緒を付けると典型例です。







別の海軍警査サーベール(海軍警査刀)
                 と海軍警査肩章




軍刀としての価値やサーベルとしての魅力には欠けますが
海軍警査のサーベルという圧倒的に数が少ないという意味
では希少価値は高いと思われます。





法令に則り譲り受ける前から切断されておりました。
肩章には痛みがあります。








横一特(横須賀鎮守府第一特別陸戦隊)
 のメナド攻略空挺作戦(昭和17年1月11日)
  に対する山本五十六連合艦隊司令長官の出した
   部隊感状の写しと功七級金鵄勲章の二点を額装した
     復員した元海軍空挺部隊員の栄光ある想い出の品




こちらは、元横一特の空挺部隊の生き残りで堀内司令の
部下だった方の功七級金鵄勲章とメナド攻略戦で山本
五十六連合艦隊司令長官よりの部隊感状の写しを額縁に
したものです。誇りとして戦後もご自宅で飾られたのでしょ
う。かなり額縁も古く年季が入っています。







九二式操縦者用縛帯を装備した海軍空挺隊である
横一特の堀内豊秋司令(中佐)です。昭和16年に
製作された海軍三型鉄兜を被っている。手袋は、航
空夏手袋である。

cf.堀内豊秋 海軍大佐

海軍体操の創始者であった堀内中佐(当時)がその能力を買われ横須賀
鎮守府 第一特別陸戦隊長(落下傘降下部隊司令)に任じられたのは、昭
和十六年九月であった。昭和十七年一月、落下傘部隊を率いてインドネ
シア・スラウェシ(旧セレベス)島のメナドに降下して電撃的勝利を収め、
有名な”空の神兵”と歌われました。占領地での中佐は、投降したオラン
ダ兵捕虜への暴行を厳禁し、オランダ統治時代の四分の一という減税を
行い教会や学校などを建設し、軍紀厳正で、現地の女性が安心して外出
できる街を実現しました。現地住民には『日本軍は、インドネシアをオラン
ダから解放する為に戦っている。軍紀は厳しくするので安心して仕事に励
むように』と言いました。この伝聞がオランダ側に伝わり後のBC級戦犯で
の処刑に繋がったようです。次に転任したバリ島でも彼の博愛精神は、陸
軍による略奪を無視せず陸軍に直談判して住民の信頼を勝ち得ました。
支那においても同様でありました。そうした大佐が昭和二十年七月まで
海兵の教官を勤め再び前線へ出る際に”メナド降下行”という自作の詩を
朗読したそうです。

   余は降下兵の死を悼む
           余は敵兵の死を悼む
   余は名もなき、戦士の死を悼む
           犬死にではなかりしことを
   平和の礎えたらんことを
           再び血の争いのなきことを

堀内大佐は敗戦後、邦人の引揚げ業務に従事していたが、彼に届いた
のはオランダ側からのBC級戦犯の逮捕状でありました。起訴状は『メナ
ドでの戦闘で投降したオランダ軍人・官吏を彼の部下が銃剣で殺害し、
捕虜を繰り返し虐待・暴行を加えた』との内容でした。彼は一切の弁明を
行わず、多くの部下を死なせた想いと自分が刑に服する事が戦犯に指名
された多くの同僚・部下の減刑に繋がるという思いがあったと推察されま
す。こうして空の英雄は、昭和二十三年九月、銃殺刑となりました。享年
四十三歳。銃殺に際して目隠しを拒否しての見事な最期だったと言われ
ております。堀内大佐の遺書には、『自分の死は見守る人もいないが、
立派なものと信じてほしい。死に臨んで少しの不安もないのは、過去の
清らかな生活がそうさせるのだろう』と記載されていたと言います。

戦後も現地メナドでは、トアン・ホリウチとして彼の事は伝えられ平成四
年一月に堀内司令官を敬愛するメナドの住民の尽力で、現地で落下傘
降下五十周年式典が催され、日本からも堀内大佐の縁故者や海兵時
代の教え子ら百二十人が参加、州知事はじめ住民の熱烈歓迎を受け、
昔に覚えた日本の歌も披露され、式典は大いに盛り上がったようです。
大佐の人徳が戦後五十年が過ぎても現地住民の心に刻み込まれてい
た事は特筆すべき事と思います。またその後の平成7年8月のインドン
ネシア独立50周年には、堀内大佐が埋葬されていた墓地跡に、メドナ
市によって大佐の慰霊碑が建立されました。

以下に平成15年5月に靖国神社が公開した”今月の遺書”で堀内大佐
の遺書がありましたのでご紹介致します。


        "立派な人になって下さい"

              海軍大佐 堀内豊秋命

               横須賀鎮守府第一特別陸戦隊
               昭和二十三年九月二十五日
               セレベス島メナドにて法務死
               熊本県出身
(前略)

 人がなんと言っても恥ずかしいことはありません。皆母様の教えを守
りよく勉強をし、立派な人になって下さい。日本を救う道は立派な人間
になること、よく学問して、偉くなることです。体は若いうちに作らねば
後で後悔します。監房の生活は少しも苦しくないからお父様のことは
全く心配いりません。お父様に対する孝行は、ただ勉強して立派な人
になることです。特に一人息子の一坊は一家の柱です。呑気すぎては
なりません。それでこせこせしたり、卑しくなってもいけません。

(中略)

 くれぐれも心配するな母ちゃん。少しでも仕事があるようなら知らして
くれ。筍生活には限りがある。小生の帰り何時か解らん。健康に特に気
をつけ無理するな。
 神の正しい裁きを待つばかり。

  下壽殿
  一坊外子供達一同殿


海兵生徒時代
海軍体操の創始者で常に陣頭に立ち実演したと言われています。
海軍兵学校で使われた『海軍体操教範』です。
海軍兵学校の貸与品として168ページに別表ま
である凄い内容になっています。

左は、昭和16年の秋に千葉・館山基地で降下訓練を陣頭に
立ち行なっているもの。右は、昭和15年10月に支那の厦門を
去る際に堀内司令(当時少佐)を慕い住民が建てた去思碑の
前に立っている写真。
左は、昭和17年1月12日に蘭領ランゴアン飛行場に降下した急襲した
堀内部隊の第二陣の降下途中の画像(第一陣は、11日に降下)。左
は、制圧した翌日にランゴアン飛行場で幹部と記念撮影した写真です。
前列右から2人目が1001空の飛行隊長 森富士雄 少佐、3人目が
堀内中佐です。
左は、ランゴア飛行場制圧直後の堀内中佐。右は、11日正午頃の
メナド市郊外のトンダノ湖畔で戦況を見る軍刀を手にした堀内司令。
左は、17年2月11日に制圧地域の住民代表よ紀元節を祝う中佐。
右は、バリ島のシンガラシャ司令時代(17年)に現地の民族衣装を
纏った写真。
メナド民政部の角田 司政官に贈った堀内中佐の書です。右は
昭和20年7月、海軍兵学校針尾分校 部監事時代の堀内大佐。
44歳の若さです。








大井海軍航空隊の表札




現在の静岡県牧の原市、当時は榛原郡榛原町牧の原
に存在した大井海軍航空隊の表札です。大井海軍航空
隊跡地に昔の正門や大井海軍航空隊乃碑が残っており
ます。旧大井海軍航空隊の予科練出身の方々で作られ
た”大井空同釜会”により牧之原コミュニティーセンターに
幾ばくかの展示品があります。…当時、正門に掲げられ
た大きな”大井海軍航空隊”の木製看板も残っております
ので通用口や裏門などで使用された表札だと思われます
が…正門はや隊を囲んだレンガ塀は、一部残っています
が通用口や裏門などを壊した際に、この表札を誰かが外
して保存したものと想像しています。
大井海軍航空隊は、昭和17年4月に偵察員の養成機関と
して牧之原台地で開隊されました。戦局の悪化に伴い末期
の昭和20年3月には、教育練成基地から実戦部隊基地に
改編され、同年4月より特攻の訓練が開始されました。その
多くが50機程の練習機であり、海軍機上作業練習機”白菊
”が使われた事で有名です。

今も残る正門とそこを塞いで記念碑
にしています。真ん中に下にある”祈
平和”の銅版が埋め込まれ正門の上
にモニュメントが作られています。







大井海軍航空隊跡地から出土した
   海軍機上作業練習機”白菊”の尾輪!





このタイヤは静岡県の牧ノ原の旧大井海軍航空隊の偵察搭乗員
を養成した旧飛行場跡地付近から出たものです。機上作業練習機
”白菊”を本土決戦用に昭和20年3月に特攻用に改造しました。
ホイールは使用済みですが、タイヤは未使用のようです。チュ-ブ
は装備されていません。タイヤとホイールには画像の通り、鋳込み
刻印が有ります。タイヤ部分”日本タイヤ株式会社・4-8・250x80
・4H11859・尾輪”ホイール部分・検査マーク”丸ニ九・桜・丸ニ20
”メーカ・製造番号”株式会社・渡辺工業所・NO.61573”日本タイヤ
は、現在のブリジストンです。250x80は、タイヤの大きさを示してい
ます。尾輪は、特定機種に使用とは限りませんので、単座機以外の
中型機にも使用したものと思われます。尚、このタイヤは、平成16
年7月に出土したもので、旧牧の原飛行場は、現在「静岡空港」とし
て工事中で、土工事の滑走路の造成工事の進捗状況は58〜60%
位だったそうです。その拡張工事で民家の跡から出た物だそうです
。ホイールには、赤土が詰っていたそうです。タイヤの大きさから
当時、海軍の大井航空隊で使用された白菊である事は、まず間違
いないようです。画像は、タイヤを水拭きして写して有りますが、
画像からも未使用品のタイヤである事が判ります。

機上作業練習機”白菊”は、可憐な草花の名で呼ばれた海軍の偵察
用員の練成に用いられた操縦士以外の搭乗員訓練用機体でありまし
た。その最大速度は僅か230km/h足らずしかありませんでした。しか
し大戦末期、爆弾が積め、航続距離もある量産向きの練習機である
という理由で白菊は、特攻機に改造され、250kg爆弾2発を搭載し、
大戦末期の九州、沖縄方面で特攻作戦に従事しました。この白菊は
、零戦、彗星に継いで多かった特攻機として名を残した悲しい翼の
機体でした。

   機上作業練習機”白菊”11型〔k11w1〕主要データ

 全長 10.24m 全高 3.93m
 全幅 14.98m 翼面積 30.50u
 自重 1.677kg 最大重量 2.644kg
 最高速度 226km/h( 高度1.700m ) 上昇限度 5.620m
 航続距離 1.170km プロペラ 木製固定ピッチ2翅
 発動機 日立「天風」21型空冷星形9気筒 公称450馬力×1基
 乗員数  5名 総生産機数  798機
 武装 7.7mm機銃×1、30kg爆弾×2







軍艦 薩摩 の上陸札・入湯札




戦艦 薩摩 の入湯札と上陸札です。
戦艦 薩摩は、国産初の戦艦であり日露海戦の少し前に
起工された古い軍艦です。明治43年に第一艦隊の旗艦
となっています。裏の軍艦薩摩の焼印に歴史の重みを感
じます。
ありし日の戦艦 薩摩 の雄姿。







明治海軍 三海兵団の礼服用ペンネント(帽前章)




趣味家が額装して飾っていたペンネントです。礼装用の
もので年代のわりには、表面はきれいですが…額装に
際して両端の錨のマークが入るリボン部分が切除されて
ありません。勿体無い事をするものです。こうなるときれ
いに額装して保存するしか道は無いようです。
100年以上前の明治の物ですからこれだけ綺麗に
残っていればたいしたものだと思います。







海軍砲術学校の礼服用ペンネント(帽前章)




こちらもリボン部分が切られています。裏に貼付け跡
が残っていますので、上の三点と同様に額装の為に
切断されて短くしたようです。当時は、たくさん手に入
ったのかも知れませんが…今見ると贅沢というか、勿
体無いの言葉しか浮かびません。






巡洋艦 筑摩の礼装用ペンネント(帽前章)












大正七年 呉海軍工廠 職工志願者
        の職工志願書と志願書類等




流石は、天下の海軍工廠です。職工になるにも志願書に
写真を添付し履歴書、家族の証明書に戸籍謄本を付けて
出しています。


合格の印と採用の印があり、この方は、工場の
分析工として採用されたようです。

愛媛県出身の方のようです。尋常小学校を卒業後
高等小学校を卒業しています。

大正時代でも軍事機密に関わる恐れのある
部署ですから採用には、慎重を期していた事
が伺われます。







重慶爆撃に参加した海軍航空隊に対する感状




重慶爆撃に参加した中攻隊の搭乗員だった海軍航空兵の
遺品のようで感状の写しです。無差別絨毯爆撃などと支那
側の巧みな宣伝により米国世論を喚起し日米戦にまで発展
した原点の一つです。振り返れば無差別絨毯爆撃をする戦
力や能力も疑問な部分は、大きい。後にカーチス・ルメイの
行った悪鬼の如き東京大空襲と同列に語るには、規模も内
容も違う物と言うべきでしょう。あくまで政治的部分から先行
した印象は、拭えません。しかしこれを参考に英国が無差別
都市爆撃を行う事になったのは確かなようです。
感状の司令官は、支那方面艦隊司令長官の
嶋田繁太郎海軍中将です。後に東条内閣で
日米戦を承認した海軍大臣です。東條首相と
同じく軍令部総長を兼任した事でも有名な方
です。最終階級は、海軍大将。A級戦犯となり
終身禁固刑になりますが、昭和30年に釈放さ
れました。昭和51年に逝去。







海軍主計科特務中尉の通例装衣






ネームは、一部擦り切れがありますが
”おくやま”と読むようです。













昭和8年海軍特別大演習観艦式記念のメダル



実寸大の四式射爆照準器の精密模型です。
良い味を出しています。電池で点灯します。

点灯によりこのように照準環画像が浮かびます。
四式射爆照準器は、昭和19年より九八式射爆
照準器の後継機主として量産された照準器です
。このレプリカは、実物の四式一号射爆照準器
を基に再現された精密模型です。



零戦操縦桿上部のレプリカです。

まだ無塗装の品ですが実物に
合わせて色を塗ってみようと考
えております。
実物からの成型品で、上の実物操縦桿から
シリコンで型取りして、
型へエポキシ樹脂を流
し込み造ったものです。以下となります。



日華事変の英雄であるエースパイロットの
南郷茂章 海軍少佐 の三回忌の記念品で
す。出席された関係者に配られた品と思わ
れます。陶製でケース・本体共に保存状態
の良い美品です。

余りにも有名なエースパイロットですので
亡くなられてもこれだけの記念品が作られ
るのが納得します。
とても65年以上の時間が経過した品と思え
ない保存状態の良い品です。
裏面には、”故・南郷茂章・三年祭記念”と刻まれ
更に”霞浦海軍航空隊・銅像模刻”と刻まれてい
ます。



滋賀海軍航空隊で整備をされていた三田兵曹長
(滋賀県大津市在住で平成17年に逝去)が敗戦
の際に持ち帰ったデッキチェアーです。この方は、
比叡山にあった725空の桜花(43型乙)射出台で
も作業班長をされていたようです。
この下の画像の搭乗員用の
デッキチェアーと同じ物です。



こちらも古いデッキチェアー(折畳椅子)です。海軍では
様々なタイプが使われてきましたが、ここに坐るのは、
士官の特権でした。
搭乗員が坐ると寛ぐ姿でよい雰囲気となります。






帝国議会議事堂…今の国会議事堂の記念模型です。






尋常小学校に寄贈され図書になっていた
佐久間大尉の遺書を写真で写して作った
本です。…今の世の中だからこそ小・中
学校の図書室に置き子供達に読ませるべ
きだと思います。下らんアニメやゲームを
するより余程、ためになると思います。



なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!