旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part Uh















Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








海軍兵学校 第76期 409分隊
  久萬嘉 俊雄 生徒の海兵時代の品々




76期生は、昭和19年10月9日入校で同期生3660名を数えます。
以降の77期(3771名)、78期(4048名)も卒業する事の無い海兵
生徒となりました。75期生の3378名が敗戦後の昭和20年10月に
卒業を果たしております。この期が最後の海兵卒業生となります
が既に任官するべき海軍が無くなってしまいました。非戦時の海兵
生徒が同期入校が120〜130名程度ですので末期の入校生の約
4000名という人数は、約30倍になりますので改めて凄いと感じま
す。それほど多くの士官が戦死し補充が追いつかない悲惨な戦況
であった事を意味します。
久萬嘉生徒は、京北中の出身なので京都の方の
ようです。上は、一種上下です。

末期の襟章です。


二種を褐青色に染めて三種にしたもの上下です。

肩章留は健全ですが肩章自体は、
ありませんでした。記名布には、薄く
第二衣糧廠・岡山支廠が難読です
が読めます。


棒倒服と体操帽です!
体操帽は、珍しく顎紐も健全です。




かなり小柄の方ですが代々の先輩から
受け継いでいるのがわかります。


運動用の襦袢です。



軍帽覆(日覆い)二点です。一枚は、白色が
汚れたようなので二種用だったと思われま
す。もう一枚は、褐青色なので三種用です。


ネルシャツが三枚です。







これは、戦後に作られた服と思いますが…何と言うので
しょうか。三島由紀夫の盾の会の制服に似たような独特
の形状の制服のようです。戦後右翼等のそうした団体に
所属したのかもしれません。



ゲートルです。


当て皮です。膝用なのか尻用なのか
良く判りません。多分、乗馬用で膝の
内側や下腿内側の摺れる部分に使う
為と思われます。
こちらも使用用途が不明の品です。


陸軍の物ですが防暑袴を使用していたようです。
かなり使いこまれています。
同一人物の品がここまで揃って出てくるのも
中々、珍しい物です。大切な想い出として仕舞
い込まれていたようです。御本人が亡くなられ
身内の方も代替わりされて若い遺族が処分され
たものと推察します。







昭和十五年度 海軍兵学校 生徒志願票




運命の日米戦、開戦の一年前の入学
願書です。15年入学となれば19年卒
業になりますので、この願書で入学さ
れたのは海兵73期生だと思われます
現在の大学等の入学願書と基本的に
何等変わりません。













珍しい海軍兵学校のペンネント(軍帽前章)




珍しい海軍兵学校のペンネントです。何が珍しい
かと言いますと士官学校なので門の番兵や教官
の当番兵や厨房などの僅かな水兵しか居ないか
らです。
戦後60年以上…よく残っているものと思いました。







第101突撃隊 甲標的丁型:蚊龍の
 乗員(整備兵) 荒嶋 宗元 海軍機関兵長
              の写真と履歴、上陸札






写真は、横須賀海兵団の時の写真です。海軍潜水学校
を卒業して、機関畑の方だったようです。所属は、102
突撃隊。階級は、海軍機関兵長。船名は、特殊潜航艇
(整備員)とあります。特技章として”海軍潜水学校普通
科卒業”とあります。特殊潜航艇 絞竜は、操縦1名、機
関1名でしたので、その艦に搭乗員と思われます。旧官
職名とありますので、戦後の求職活動に使われたのだ
と思います。



荒嶋 宗元 海軍機関兵長の上陸札




所持者だった荒嶋機関兵長は、岡山県
出身、戦後も岡山で暮らされたようです。
奇しくも写真と履歴がこの上陸札を呼び
合うかのように私の元に集まりました。札
を入手した時に初めて気がつきました。
合せて見比べると邂逅という言葉が脳裏
に浮かびました!
所持者だった荒嶋機関兵長は、海軍潜水学校
普通科を卒業。特殊潜航艇(蛟竜)の整備員と
して第101嵐部隊に配備されますが肝心の
蛟竜の生産が間に合わず敗戦を迎えて無事に
戦後を生き延びられたようです。








敗戦時の呉海軍工廠第四ドック
第101突撃隊は、昭和20年6月の編制表で見ると
連合艦隊直属部隊となっております。甲標的丁型
(蛟龍)を6艇を機軸とした部隊です。他のページで
紹介しました。震洋艇に稲葉中尉の下田の第一特
攻戦隊には、この甲標的丁型(蛟龍)は、4艇が配
備されていました。甲標的丁型(蛟龍)の特攻部隊
で最も配備が多かったのが大浦突撃隊の104艇、
小豆島突撃隊の29艇、次いで橘湾の第六特攻戦
隊が24艇となっています。尚、丁型(蛟龍)が正式
に兵器として採用をされたのが昭和20年5月28日
です。本土決戦に向けての特攻兵器として敗戦ま
でに約500隻が完成していましたが、実戦で使わ
れる事は、ありませんでした。







希少 海軍 機関兵の作業帽
       (通称:あんぱん帽)




この少々、不恰好な作業帽は、アルバム写真では何度か
目にする事は、ありましたが…中々、実物を手にする事は
、適いませんでした。今回、縁あって入手する事が出来ま
した。一般には艦船の機関室や罐室・発電機室の機関科
の兵や水上機を含む航空作業員に大正14年から貸与さ
れました。昭和4年からは、鍛冶作業と炊事作業の主計科
下士官・兵にも貸与され、翌5年に木工場、7年からは、
潜水艦乗組の下士官・兵にも貸与されました。殆どの艦で
撃沈される時に…まず助からないのが艦の最低部に位置
する機関室・罐室や発電室です。また艦上で戦う戦闘員の
下士官兵と違い、炊事を担当し艦内部に籠る主計兵兵等も
いざ戦闘で撃沈される時は、艦と運命を共にするケースが
多かったようです。潜水艦などは、まず助かりません。多く
が海底に御遺体とともに一緒に眠る事が多く一般の一種・
二種・三種略帽と違い出回る事が少ないのだと思われます。
通常、機関兵は、煙管服にこの略帽を被り
作業していました。この帽は、下士官なの
で黒一線が入っています。
記名布は、剥ぎ取られています。
内部に山本一機曹と記載があり
ます。
上の写真は、機関科下士官が
機関室であんぱん帽を被った
姿です。
上記の絵は、水上機作業員の
あんぱん帽を被った姿です。







後藤 英次 海軍中将の勲記四枚




海兵37期出身、後藤英次海軍中将の勲記四枚
です。瑞三、旭四、瑞五、旭六の四枚です。













☆後藤 英次 海軍中将☆

秋田県出身、功三級
青年将校時代は、水雷畑を走り多くの駆逐艦の
艦長を歴任されています。海軍大佐で重巡
”高雄”艦長、横須賀海兵団長、戦艦”陸奥”艦
長を務めています。日米戦の開戦後は、軍令部
出仕で鎮海警備司令長官、第十二航空艦隊や
北東方面艦隊司令長官を歴任。敗戦後、昭42年
11月24日に歿 (享年80歳)








海軍 軍需局 第一課長
  森田 登 海軍少将の若き
    青年士官時代の任官状等









       ◆森田 登 海軍少将(略歴)◆

兵庫県出身、海兵30期(6/187)、海大12期(首席)
功五級

大正5年 8月 3日 英国駐在武官(海軍少佐)

大正7年11月 1日 海軍軍令部参謀(海軍中佐)

大正9年 9月13日 ジュネーヴ会議全権随員
             国連海軍代表随員

大正10年12月 1日 海軍大佐

大正11年 5月30日 軽巡洋艦”利根”艦長

大正11年12月 1日 軽巡洋艦”名取”艦長

大正12年11月20日 軍令部・海軍省出仕

大正12年12月 1日 海軍軍需局第三課長

大正14年12月 1日 海軍軍需局第一課長

大正15年12月 1日 海軍少将・軍令部出仕

昭和 2年 3月20日 待命

       4月10日 予備役

昭和17年 8月30日 歿 (享年59歳)








海軍航空隊 航空医療具 甲(未使用)




海軍機に搭載された航空医療具 甲のデットストックです。
単座機用の金属製小型でコンパクトな
航空医療具 乙は、良く見かけますが、
これは、大型機用の甲です。甲は、通
常、革鞄のような合成皮革で出来たも
のが有名です。布製のこれは、大戦後
期の物と思われます。















海軍 防府通信所 勤務服
       (通信工手作業補助服)




使用感の少ない感じの品です。きれいに畳まれてなく
シワシワですが記名布には、通信工手作業補助服・
昭和 年 月交付・2号とあります。残念な事に右袖の
釦が欠です。釦は、木製で針金のような物で足を付け
たような粗末な物です。末期の品のようです。







海軍航空隊 座席シートの装具




下の海軍機の座席シート図では、皮製ですが
同じ救命イカダの上にある装具です。こうした
座席シートにイカダが取り付けられるようにな
ったのは、大戦後期になってからの事です。
金具の部分に海軍マークが刻印されています。
この緑の縛帯と同じ生地の物は
殆ど使われた形跡がありません。







海軍航空隊装備:珍しい”信号火箭”




情け無いもので航空無線が使い物にならなかった
当時の日本軍機では、このような花火を信号弾代
わりにを機上からパイロットが打ち上げていたよう
です。基本は、子供が遊ぶロケット花火と同じです。
先端部から中部に色付きの煙が出る色素が詰って
おります。…何とも哀しい信号弾です。全て厚紙製
で出来ています。(本品は、火薬を除去してあり、
代わりに紙粘土を詰めて重さのバランスをとっている
合法安全品です。)
前の持主の方が知合いの花火師に問合せた所、60年以上前
の火薬しかも筒が紙製であるので発火する事は、難しいとの事
でした。なんでも火薬は、経年により自己分解をはじめ少しずつ
劣化していき威力が低下し、最期には不発となり機能しなくな
そうです。しかしそうは、言われても火事になっても怖いと考え
られて腐った火薬を捨て代わりに紙粘土を詰めたそうです。
しかし昔の搭乗員は、大変だったと思います。
戦闘して帰投すれば操縦しながらロケット花火
を打って…しかも色を見分けて打たなければ
ならんし、風防を開けるとコクピットに流れ込む
風圧も強いと思います。そんな中で打つのです
が…信号銃で良かった様な気がしますが…色
のある弾を込めるのも大変だったのかもしれま
せんね。こういった点を考えると優秀な無線機
を持たない日本の航空軍が如何に不利な条件
で戦ったのかを思い知らされる想いがします。







三式甲地雷(海軍)




米軍のトレーニング用なのかオリジナルと
同じ素焼きで出来た三式地雷です。
直径27cm、爆薬量3kgと陸軍の九三式地雷
に比べて3倍以上あります。破壊力も大きか
ったものと想像します。
素焼きで出来た中身が空の地雷ですが結構
重いです。これに3kgの爆薬が充填されると
結構な重さとなります。
信管は、明らかにダミーです。元々、三式地雷の
信管もベークライド製で地雷探知器での発見が
不可能なように出来ていました。







海軍 八糎双眼望遠鏡(艦艇用)




日本光学の8cm双眼鏡です。
接眼部のゴムは、硬化して片側の劣化と痛みが認めます。
大戦後期で使われた緑濃色の塗装が残っています。
接眼部ゴム右側劣化が激しいですが、調整部分は
異常なく稼動します。しかしレンズは、内部に経年
によるカビや汚れ等があります。敗戦後に解体会社
により保管された物です。山口県柳井方面から出て
きた品です。
左右、真横から見た双眼望遠鏡
銘板には、昭和十九年八月、第1671号の
製造番号、日本光学工業株式会社海軍の
錨マークと豊川海軍工廠と航海科の略刻
印が認められます。


上は、艦艇の基台に接続する部分です。
螺子止めする穴が開いています。
敗戦で搭載されていた艦は解体処理され
この双眼鏡は、解体処理会社の倉庫に長
らく放置されていたのでしょうか。昭和19年
8月製造の望遠鏡で8cmですから、大きな
艦でなく海防艦など小さな艦だったのかも
知れません。







海軍 十糎高角双眼望遠鏡




双眼鏡は今から35年前新潟の海岸に打ち上げられた
物だそうです。本体の塗装は剥離しています。酸化・腐
食は有りません。レンズの割れや傷は有りません。小ビ
ス数本無し。大口径レンズは取り外すことが出来ます。
銘板は、取れてありません。

製作メーカーの刻印(光学レンズ印)”10・レンズ印・33
・34”と刻印が打たれています。本体付属品部分に割れ
が有ります。

 大きさ: 幅 27cm(支持軸を含まず)、高さ 27cm、
      全長 53cm、

 レンズ大きさ: 大口径105mm 、接眼レンズ 22mm


製造は、日本光学工業(株)による高角双眼
望遠鏡です。レンズの大きさにより、八糎、
十糎、十二糎の三種類があります。形状の
変化は、余り無いようです。









海軍 八糎高角双眼望遠鏡 格納筐




格納筐だけの品です。戦後も使用されたようで
中敷等の仕切を完全に撤去してあります。
銘板に昭和17年12月日本光学製の
シリアルNo.805の刻印があります。







艦艇用 八糎高角双眼望遠鏡




銘板は取り外れています。航海科の刻印
と193の数字の刻印のみが残っています。


望遠鏡側のレンズカバーは残っています
が接眼レンズ側のカバーはありません。











海軍 軍属 高等官二等
 (少将待遇)の夏用文官従軍服
             (昭和17年制)




面白い品です。下の画像にあるように
ポケット裏の水交社やテーラータグから
海軍の軍衣に間違いありません。襟章
に少し問題があります。
襟章は二等高等官で少将待遇となります。売主の
高名な軍装研究家の方よるとただ襟章がやや硬く
、金線もオリジナルを外して付け直したものの様に
思えるとのことです。糸穴が開いているのに3個に
1個しか糸が止まって無い事などから、襟章に関し
て精密複製品では、無いかと疑われております。
コレクターの手による襟章を加工して付けた物の
可能性もありますが、中々判断の難しい面白い品
です。
この開襟のタイプは、昭和17年改正で武官と
文官の見分けをはっきりさせる為、文官は開襟
とし併せて帽章と襟章も変更されました。但し、
一般的な夏文官従軍服は、釦が白4個で両胸
に胸ポケットがありますが、本品では、見られま
せん。水交社の物ですので色んなバリエーショ
ンがあったものと思われます。



部内限りの勅・奏人官待遇嘱託者用の徽章
武官平服の場合や文官同待遇者用襟徽章)




こちらは部内限りの勅・奏人官待遇嘱託者
用の徽章です。シリアルナンバー入りで珍
しい物と思われます。豊川工廠印もありま
す。閣下クラスの徽章は、上の徽章と比べ
ても重厚さがあります。







大正十年 水兵達の遠洋航海
      (練習艦隊)の紙物資料




大正10年の士官候補生遠洋航海と思われますが、その
艦隊に随行した水兵達のヨーロッパまでの寄港した各地
の港や上陸した観光地などの見学資料が入っています。
当然、士官候補生が主役の航海ですが…兵・下士官が
が居なければ艦が動かないのは、当たり前の事で脇役の
兵や下士官達にとっても珍しく楽しい海外を見るまたと無
い機会だったものと思います。行く先は、パナマ経由の
欧州です。該当する士官候補生は、海兵49期・海機30期
・海経9期です。海兵49期は、最高位が久迩宮 朝融王
で後に海軍中将です。この他は、皆少将が最高位で少将
22名は、悉く戦死されております。そう考えるとこの期は、
大戦中は、少佐〜大佐と艦長等、現場の指揮官クラスで嵐
目の中で翻弄された人達と言えるかもしれません。また候
補生だけでなくこの資料や様々な冊子等を所持した兵や下
士官達は、下士官〜特務士官などに進まれた方も当然、い
たものと思われます。大正10年8月20日〜11年4月4日

至る長い航海です。まだまだ古き良き時代の比較的、平和
な時代の帝國海軍です。この時の練習艦隊の参加艦艇は、
軍艦 八雲・出雲の二艦です。八雲は日露戦争で黄海海戦
や日本海海戦に参戦した歴戦の古強者で、装甲巡洋艦(後
の巡洋戦艦)の出雲も。蔚山沖海戦・日本海海戦では、第二
艦隊第二戦隊に所属して活躍しています。




















たくさんある資料からごく一部を紹介しますが
かなりマニアックに各地の情勢・歴史・観光の
スポットまで地図入りで詳しくまとめられていま
す。中には、英語や仏語などの簡単な和訳など
もあり…現在の大手旅行会社のパンフレットと
大した変化ありません。




















軍艦の航海というよりは、修学旅行気分のような
感じを受けます。乗組員の下士官・兵の少しはな
やぐような旅行気分が各所で感じられます。


















正直な気持ちが記載されており微笑ましい。
















主役の候補生達とは、下士官・兵は別行動
市内見物しています。











大正13〜14年の練習艦隊の遠洋航海記念の
メダルです。八雲と出雲が参加しています。参
加した将兵の多くが記念に所持していたので
しょう。メダルの裏は、航海の経路が描かれて
います。


軍艦 八雲のペンネントです。足が短いと複製だと
思われる方が多いようですが、練習艦隊の艦にな
る前後もありますので必ずしも長いものばかりでは
ありません。


大正11年の練習艦隊の八雲乗組の記念集合写真です。


大正元年の練習艦隊の遠洋航海記念の写真を額装
したものです。師匠であり大先輩である椿様より寄贈
していただいたものです。
約91年前の写真です。軍艦”吾妻”乗組の水兵達
が写っています。この時代、公費で海外旅行をする
者など帝大でのエリート科学者等で無ければ、海軍
の遠洋航海に出る士官候補生を乗せた練習艦隊し
か無かった事でしょう。一生の記念になり夫々の家
庭の居間などに、この写真のように飾られたのだと
想像します。








戦時資料:海軍省と日本眞珠(株)で
        結ばれた傭船更改契約書二部




昭和19年、海軍省と日本眞珠株式会社との間で交わさ
れた傭船更改契約書。第3海洋丸と第3開進丸の2通。

多くの船を所有する会社が戦時には、徴用の
契約を結んだものと思います。多くは、都市大
空襲で焼失したものと思われますが、戦災を
免れた会社では、金庫などに保管されていた
ものでしょう。契約書の書式は、現在の物と、
全く同じです。 
契約更改前は、海軍側は経理局長の名前と印があります。
更改後は、契約部長や第五課長が契約担当になっています。


戦後も60年以上、よく残っているもだと感心します。









昭和十一年 再現役請願申請書




特務艦”洲埼”乗組の一等水兵の
再現役請願申請書です。陸軍と違
い海軍は、基本的に志願制です。
現役が明けると再申請を行います。


艦長を初め副長、主計長、分隊長の
印をもらっています。







昭和十二年九月二十一〜二十八日、
      海軍 第一航空戦隊
への感状






第三艦隊司令長官 長谷川 清 中将の
写真です。昭和12年10月には、新設の
支那方面艦隊司令長官を兼任します。
この長谷川閣下の隷下に支那方面で
初期に戦い活躍した海軍航空隊があり
ました(第一・二聯合航空隊)。







海軍特別大演習観艦式で昭和天皇の御召艦となった
軍艦”榛名”の記念卓上煙草入です。
特別参観招待者と榛名乗組みの高級士官
に配われた記念品です。「御召艦記念・軍
艦榛名・忠君愛国」と有ります。アンチモ製



海軍で使われた水差しなのかウィスキー
やブランデーを詰め替えて入れたものなの
か判りません。ワインのデキャンタにしては
少し小さい気がします。

少し薄れ掛けている海軍の
マークです。



海軍の艦内関係の銘板三点です。
第六機関科電気倉庫とあります。そのまま
部屋の扉に取り付けられていたものと思い
ます。
上は、三菱造船株式会社長崎造船所”三菱ファン”
下は、呉海軍工廠”整動機”とあります。






帝国議会議事堂…今の国会議事堂の記念模型です。






尋常小学校に寄贈され図書になっていた
佐久間大尉の遺書を写真で写して作った
本です。…今の世の中だからこそ小・中
学校の図書室に置き子供達に読ませるべ
きだと思います。下らんアニメやゲームを
するより余程、ためになると思います。



なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!