旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part V_0a












その他…etc






大日本帝國 陸軍近衛師團 軍旗奉授百年記念
とあります。当時のまま台紙から外さずそのままの
状態にある近衛帽章です。







大日本帝國憲法発布記念章




明治22年の大日本帝国憲法発布式に参加した
奏任官以上の者に与えられた近代日本の最古
の記念章です。


共箱は蝶番の壊れも無く明治22年から現在まで
121年の長い時間を過ごした模様です。菊の御
紋章も美しく色褪せ退色もありません。


残念ながら綬に痛みがあります。
貰いもの画像の授与証です。













徽章類(主に陸軍)




画像の両方とも剣術徽章です。右は、アルミ製の後期のものです。
射撃徽章なども同じですが、これらの徽章は昭和十五年以降、銀
色の物はアルミ製で製作するようになったそうです。持ち比べてみ
ると軽いです。


侍従武官徽章(複製品)


某軍装店が客の依頼で少数限定で生産した品で、
材質は本物と同じく銀を使用し凝った造りとなって
います。



宮内省供奉員徽章(甲種または乙種)

天皇陛下や皇族の方々の行幸啓に際して供をする者が
佩用する徽章である宮内省供奉員徽章です。この徽章
は銀製で文官・武官の関係なく佩用致しました。
    (Imperial Household Service Badge)



大禮使関係員徽章




乙種大禮使徽章
箱無しで保存状態も余り良くない品です。



丁種大禮使徽章
造幣局製。共箱入り。徽章の裏に造幣局製 
I.SATOの刻印があります。



こちらは、程度が落ちる丁種大禮使徽章です。



小さな大禮使徽章です。下級官吏用の物と思われます。
甲・乙・丙・丁種の大禮使徽章があります。甲種が
勅任官、乙と丙種が奏任官、丁種が判任官と思わ
れます。この小さな大禮使徽章は、傭人・雇人など
の方が使われたものと想像します。







小銃射撃兵徽章(昭和十四年十一月制定)
真中は、第三種射撃章。左右は、競点射撃一等章。


一種 剣術徽章










(軽)機関銃射撃徽章(昭和四年改正)
(軽)機関銃射撃徽章(昭和四年改正)


機関銃射撃徽章(大正九年制定)


機関銃射撃徽章(兵徽章:昭和十四年改正)
機関銃射撃徽章(大正九年制定)


機関銃射撃徽章(大正九年制定)


程度は悪いですがオリジナルの留
ピンが残っている機関銃射撃徽章



歩兵速射砲射撃徽章(左)と砲兵競点射撃優等章(右)
上下共に、砲兵照準徽章(昭和四年改正)
共箱にオリジナルの留ピンが残っているの
は、貴重です。


速射砲射撃徽章(兵徽章)
歩兵砲観測徽章(昭和十一年制定)
歩兵砲観測徽章(昭和十一年制定)



砲兵馭術徽章(昭和八年制定)
馬術徽章(昭和十五年改正の方)
砲兵観測微章(昭和六年改正)
速射砲射撃微章(昭和十四年制定)
重砲兵通信徽章(明治四十五年制定)
砲兵通信徽章(昭和六年制定)
こちらも陸軍の砲兵通信徽章ですが戦火で焼けた
後があります。満州でソ連兵に記念品として持ちさ
られた物のようです。ロシアからの里帰り品です。
アルミニウム製で桜に通信機器の受話器を象って
います。
            砲兵通信徽章(下士官用)

昭和6年制定(改正の)下士官用砲兵通信徽章。制定当初の
明治45年は、重砲兵通信徽章。桜と電話機の受話器を組み
合わせたデザインで、砲手の通信手、観測術を担当する成
績優秀な下士官に授与された徽章。前所持者は、満州・支那
事変に従軍の陸軍曹長でその後、除隊して国鉄に就職してい
またそうです。下士官用の徽章はどの兵科も大変貴重で授与
数も少ない為、希少です。


歩兵砲速射砲徽章(兵徽章)
砲兵照準徽章(昭和四年改正)
こちらも砲兵照準徽章です。オリジナルの
留ピンが残っているのは珍しいです。




野戦砲兵・重砲兵・要塞砲兵照準徽章(昭和十六年制定)
自動車操縦徽章(昭和十四年制定)
下士官小銃軽機関銃徽章(昭和十四年改正)
下士官小銃軽機関銃徽章(昭和十四年改正)
下士官小銃徽章(小銃射撃教導徽章)
Shooting_ Coaches Badge


砲兵観測最優等章(明治二十八年制定)


飛行機操縦者徽章(将校徽章と下士官徽章)
大正十二年制定で将校徽章は、昭和十五年
に廃止。下士官徽章の方は、敗戦まで授与さ
れ佩用されました。
下士官用の”所天”です。少飛の背広用の記念徽章
と一緒に出て来たものです。思い入れの深い品なの
でしょう。裏の留め金が壊れていますが、上下共に
無理矢理再取付けしてあります。
所天(将校用)です。





”ところてん”の複製品です。上の本物と比較
すると一目瞭然ですが中々、良い味を出して
います。こうした品も面白いものです!!



下士官勤功章(明治四十一年制定)


箱が残っている下士官勤功章
この下士官勤功章は、精勤6年以上の品行
方正な下士官に精勤年功を表彰して与えら
れました。


将官隊長章(昭和十八年十月十ニ日制定)
佐官隊長章は、桜花と桜枝が金色で地は、アルマイト。
尉官隊長章は、桜花と桜枝が銀色で地は、アルマイトで
区別されます。将官隊長章は、明らかに大きさが違うの
で一目瞭然です。
左より尉官隊長章、佐官隊長章、将官隊長章、尉官隊長章



陸軍武功章(乙徽章:兵・下士官用)の複製品です。
昭和十九年制定で金鵄勲章に同等に値するものと
され授与されました。以下は、19年12月13日の朝日
新聞に掲載された武功章の制定の記事です。
昭和20年3月13日、B29の大阪空襲に際して、
伊丹空港より飛行第56戦隊の鷲見曹長の三式
戦”飛燕”1型丁は、低空で爆撃を続けるB29に
対して反復攻撃を続け液冷エンジンが止まるま
で迎撃を行い実に撃墜4機、撃破3機の戦果を
上げて墜落し落下傘で降下し無事に帰還しまし
た。これを第11飛行師団の師団長 北島熊男
中将が師団司令部屋上よりつぶさに観察してお
り中将自らの上申により第15方面軍司令官 
河辺正三大将より異例の個人感状と武功徽章
が授与されました。下の写真は、鷲見准尉(20
年8月1日特別進級)が左胸に武功徽章を佩用
したものです。敗戦までに准尉は、B29を5機
撃墜、4機撃破、P-51を1機撃墜を記録していま
す。



陸大卒業徽章(明治二十八年制定)
       通称:天保銭





満州 独立守備隊記念章


陸軍士官学校同学校章
教官・及び教員が使用した徽章です。



呉海軍工廠 参拾年勤続章
中々、レアな徽章です。







哀しい徽章…空襲で焼けた海軍技術有功章




表面の七宝が熱で殆ど溶けています。
元が美しい徽章だっただけに無残です。







陸軍技術有効章(陸軍技術徽章)




兵科将校に限らず、優れた技術(科学、化学、医学、薬学、建築、etc)の
所持者に贈られました。技術系士官の金鵄勲章と謂われる程の名誉ある
徽章でした。副賞として1万円から1万5千円が贈られましたが、この価格
は現在の1000万円から3000万円位に相当する高額なものでした。如何
に名誉ある章であるかが想像がつくでしょう。
この章の制定は昭和16年8月18日です。僅か4年余りの
期間で敗戦を迎えていますので授章者の数はそんなに多
く無いものと想像されます。この章の裏にあるシリアルNo.
と思われる番号は95です。





731部隊で有名な石井 四朗 軍醫中将の
の少将時代です。右胸に燦然と陸軍技術
有功章が輝いております。石井中将は軍
醫大佐時代に功四級金鵄勲章と共にこの
技術有功章を受章しております。











戦前・戦時資料:非常に珍しい宮内省供奉員徽章




天皇陛下や皇族の方々の行幸啓に際して供をする者が
佩用する徽章である宮内省供奉員徽章です。この徽章
は銀製で文官・武官の関係なく佩用致しました。

    (Imperial Household Service Badge)

供奉員徽章は、主に天皇陛下他行幸啓に際して宮内省、
警察、軍関係他の随行員に貸与された徽章です。
大正2年11月6日制定されました。
大きさは、縦:38mm、横:29mm。

佩用する人の身分により甲・乙・丙種の三種類に大別され
ます。

@甲種(全体:銀色)⇒勅任官相当以上の文官、将官相当の
              武官が佩用しました。
   
 …中央に白色七宝の菊花、その中央に紫色七宝二囲まれ
   た銀色の『宮』字。

A乙種(全体:銀色)⇒奏任官相当以上の文官、尉官・佐官
              相当の武官が佩用しました。

 …中央に白色七宝の菊花、その中央に緑色七宝二囲まれ
  た銀色の『宮』字 。

B丙種(全体:銀色)⇒判任官相当以上の文官、下士官から
              准士官までの武官が佩用しました。

 …中央に金色の『宮』字(七宝の菊花はない)。


現在はどうなのか判りませんが敗戦前では、宮内省から廃棄の際に菊花部分は
この徽章のように加熱して触媒を溶かして取り外したようです。 このような徽章
は通常、一般市場に出回る事は余りありません。これまで私がヤフオクなどで見
ても一度、以前に出品されたのを見た位です。本来であれば決して出てはいけ
ない徽章と謂えます。、徽章には必ず通しナンバーが打刻されており、 そのNO.
の『11』から…ごく初期のものである事が推察されます。 通常、昭和初期のもの
では『昭』という字が打刻されているそうです。 従いましてこの徽章は、大正期の
ごく初期の供奉員徽章である事が判ります。
またこの供奉員徽章は、菊花章が付いていた痕跡があり
ますので甲種もしくは乙種の徽章である事が判ります。
侍従長や宮内大臣、枢密顧問官うあ侍従武官長など勅任官や
将官などの高官は当然、甲種の供奉員徽章を佩用しました。
昭和の初期から開戦前と思われる当時の写真です。天皇旗の横で昭和天皇が
陸軍大元帥の軍服を着用し敬礼をして閲兵しています。近くに陸軍の侍従武官
長が控えており陸大徽章・侍従武官長徽章・供奉員徽章の三種類を佩している
のが判ります。奥の海軍の侍従武官は徽章が良く判りません。侍従武官長は
恐らく東宮武官・侍従武官・東宮武官長を歴任し侍従武官長を務められた奈良
武次 陸軍大将(当時、中将)と思われます。従って昭和元年から昭和八年四月
五日までの間の写真であると思われます。







海軍関係の各種記章・徽章 類




とても希少な海大卒徽章の旧型です。所謂、天保銭と謂われる海大卒徽章
の中でも旧型は、明治25年制定で新型が制定される明治30年までの僅か
四年の間しか使われなかった徽章で新型はよく売りで出ますが…この旧型
は中々出回らない徽章です。付与され佩用出来た卒業生は、甲号学生第4
期・5期に将校科学生第1期の25名前後の僅かなエリート海軍軍人に過ぎ
ませんでした。
新旧の海大卒業徽章の意匠です。私には新型より旧型の方が凝っていて
素敵に見えます。どうしても新型の方が何となく古臭く感じます。
この上のものが新型の海大卒徽章ですが…こちらは明治30年9月30日
に制定され、大正11年10月23日の廃止まで約25年間に渡り海大甲種
學生卒業者に付与され続けました。通常は年数と佩用者の圧倒的な数
から海大卒徽章と謂えばこの新型を指します。



各種優等章・優等徽章




海軍小銃射撃優等章(前期型)
  (明治44年9月8日制定)
海軍小銃射撃優等章(前期型)
海軍小銃射撃優等章


海軍通信優等章(明治二十八年制定:前期型)



同じく海軍通信優等章ですが保存状態が
悪く程度がかなり落ちます。


 海軍 通信優等徽章
(明治44年9月8日制定)
こちらも上記の通信優等章を3年連続
保持すると授与される青メダルです。



海軍機関運転優等章(前期型)
明治四十四年九月八日制定で昭和
十六年に廃止になりました。銅製。
海軍 機関運転優等章(前期型)
      機関運転優等徽章
    (明治44年9月8日制定)
こちらも上の機関運転優等章を3年連続
保持すると授与される青メダルです。



海軍工作優等章(前期型)
上の前期型の方が下の後期型より重量感もありカッコイイです。
  海軍工作優等章(後期型)
 昭和五年四月二十二日制定で
 昭和十六年廃止になりました。
 後期型のアルミ製です。



  海軍航空優等章
(昭和2年6月1日制定)
こちらも上の航空優等章を3年連続
保持すると授与される青メダルです。
   海軍航空優等徽章
  (昭和2年6月1日制定)
銀製の後期型の青メダルです。
画像の左が最初に拝領する航空優等章です。これを3年間保持すると
右の優等徽章が拝領されます。双方とも給料に反映されるので薄給の
下士官以下の者は、こぞって狙ったものと聞いています。皇室の菊の
御門を配した右のメダルは、通称:青メダルと呼ばれています。



海軍 艦砲射撃優等章
こちらも銅製の明治44年9月8日に制定された最古の優等章
の一つです。艦砲の年度射撃訓練時に成績優秀な砲手を選
び、褒章として与えました。オリジナルの桐箱付きで退色も無
い極美品です(前期型)。
上の画像のとは、違う艦砲射撃優等章(箱なし)
こちらの上下の徽章も別の箱無しの艦砲射撃
優等章です。
材質は、真鍮製の下地に銅で鍍
金されています。桜と錨は光沢のある金メッキ
です。銅色の焼付け塗装のタイプでは、ありま
せんので新しい時代の優等章で無いと思われ
ます。




海軍 艦砲射撃優等徽章
こちらの青メダルは、上記画像の優等章を3年(回)以上,
続けて授与されると与えられたものです。この青メダルは
授与されると優等章と違い、永久に所持することが許されま
した。明治44年9月8日の制定です。(前期型)
この品は、オリジナルの箱付きの美品ですが、残念な事に裏留の
金具が外されて正面から穴が開けられています。その周りの七宝
が一部剥離しています。戦後の記念にペンダント等にしたのでしょ
うか…惜しいです。



海軍 魚雷発射優等章
(明治44年9月8日制定制定)
こちらも上の魚雷発射優等章を3年連続
保持すると授与される青メダルです。
   魚雷発射優等徽章
(明治44年9月8日制定制定)
これも前期型の青メダルです。



    機雷(敷設)優等章
大正八年四月制定。本品は、
後期型のアルミ製。



    操舵優等章
(昭和5年4月22日制定)




この操舵優等徽章も希少な優等徽章で
昭和5年4月22日制定の青メダルです。







    應急優等章
(昭和14年8月31日制定)
應急優等章を3年連続ホルダー
で下の應急優等徽章(青メダル)
が授与されます。
    應急優等徽章
(昭和14年8月31日制定)



潜水艦修業徽章(潜水学校練習生修業徽章)
     (明治44年9月8日制定)



中々出てこない大変に希少な見張優等章です。この記章と
応急優等章などは、中々見る事がないものです。

           (昭和6年9月25日制定)



その他の海軍関係の徽章類関係





珍しい二年短期現役士官の修了徽章です。






こちらも珍しい海軍兵学校生徒のチェリーマークです。
各期の優秀な生徒にのみ与えられたもので海兵生徒
襟章の奥に縫いつけて使用します。







下は上と違う別に入手したチェリーマーク二対です。













旧皇族御下賜品のカフス






旧皇族の品として入手しましたが、御詳しい方の御指摘では、
久邇宮家もしくは、東久邇宮家よりの御下賜品では、無いかと
の事です。両宮家は、共に十一宮家に数えられた伏見宮家を
筆頭として北朝の崇光天皇の皇子 栄仁親王を初代とする伏
見宮家の二十代当主 邦家親王を共通の祖とします。戦後の
皇室改革に伴い臣籍降下となりました。華族制度の廃止も同
時期にあった為、身分としては一般市民になりましたが、華族
の家系が旧華族と呼ばれ特別視されるように十一宮家の人々
も旧皇族と呼ばれ法的には、一般市民であっても特別な家系
である事は、間違いありません。(宮廷内においては皇族に準
じる礼遇を受ける為、”宮廷内の皇族”と言われています。)







海軍中将 久邇宮 朝融王 殿下
  が海軍大学校(甲種)卒業記念に
    銀座三越で作成された卒業記念章




非常に珍しい久邇宮家の家紋をあしらった昭和7年11月、久邇宮 朝融王
殿下の海軍大学校甲種学生 御卒業記念の記念章です。銀座三越謹製
で錨・鎖共に黄銅製で本体と鎖は、銀鍍金。旧久邇宮家の家紋の部分は
金鍍金になっております。

大きさ:錨部分・全幅72o、厚さ・8.6o、全長(鎖を入れて)130o、重量
:141g


久邇宮家の家紋です。



 徽章の久邇宮家の家紋の裏に当たる部分に”昭和7年11月
 久邇宮朝融王殿下 海軍大学校甲種学生 御卒業記念”と
 彫られています。


海軍大学校(甲種)卒業徽章は大正11年10月23日廃止になっており
当然、昭和5年12月1日入学で昭和7年11月26日卒業(21名)の殿下
の同期の卒業生達は拝授されませんでした。…誰か親しき方が卒業
祝いに殿下にプレゼントされたか、殿下が親しい者に幾つか作り記念
に下賜されたかのいずれかと想像されます。何れにしろ数はそう多くな
い希少な品である事は間違いがありません。
御皇室の品だけに箱の中身も全てが重厚かつ精緻に作られて
おります。箱の内部裏蓋の部分に”月かげのいたらぬ里は 
 なけれども ながむる人にぞ すむ ”と、殿下の辞世と思われ
る詩歌が刺繍されております。



◆海軍中将大勲位功四級 久邇宮 朝融王 殿下◆

             ≪略 歴≫

明治34年2月2日    生誕
大正10年2月      貴族院議員(皇族議員)
大正10年7月16日  海軍兵学校卒業(49期)
             海軍少尉候補生・「出雲」乗組
大正11年4月8日   「霧島」乗組
大正11年5月25日  任海軍少尉・「山城」乗組
大正11年11月1日  「伊勢」乗組
大正12年12月1日  海軍砲術学校普通科学生
大正13年4月1日   海軍水雷学校普通科学生
大正13年7月4日   山城乗組
大正13年12月1日  任海軍中尉
大正14年1月26日  伏見宮知子女王と成婚
大正14年5月1日   「長門」乗組
大正14年12月1日  「阿蘇」分隊長
大正15年12月1日  任海軍大尉
             海軍砲術学校高等科学生
大正15年12月2日  第1王女正子女王誕生
昭和2年10月23日  第2王女朝子女王誕生
昭和2年12月1日   「陸奥」分隊長
昭和3年12月10日  軍令部出仕
昭和4年3月25日   第1王子邦昭王誕生
昭和5年12月1日   海軍大学校甲種学生
昭和7年5月25日   大勲位菊花大綬章受章
昭和7年12月1日   任海軍少佐
             「榛名」副砲長兼分隊長
昭和8年9月4日    第3王女通子女王誕生
昭和8年9月15日   軍令部出仕
昭和8年11月15日  「木曾」砲術長
昭和9年7月19日   「八雲」砲術長
昭和10年8月1日   軍令部員
昭和11年12月1日  軍令部第一部第一課員
昭和12年7月21日  第4王女英子女王誕生
昭和12年11月20日 兼大本営海軍部参謀
昭和12年12月1日  任海軍中佐・「長門」砲術長
昭和13年12月1日  横浜海軍航空隊副長
昭和14年10月10日 第1連合航空隊参謀
昭和14年10月18日 兼支那方面艦隊司令部附
昭和14年11月15日 任海軍大佐
昭和15年1月10日  横須賀鎮守府附
昭和15年4月29日  功四級金鵄勲章受章
昭和15年5月11日  第2王子朝建王誕生
昭和15年7月9日   「八雲」艦長
昭和15年11月1日  木更津海軍航空隊司令官
昭和16年9月18日  第5王女典子女王誕生
昭和17年3月20日  高雄海軍航空隊司令
昭和17年10月5日  南西方面艦隊司令部附
昭和17年10月21日  軍令部出仕
昭和17年11月1日  任海軍少将
昭和18年4月1日   第19連合航空隊司令官
昭和19年9月29日  練習連合航空隊司令部附
昭和19年10月1日  第20連合航空隊司令官
昭和19年10月7日  第3王子朝宏王誕生
昭和20年5月1日   任海軍中将
昭和20年8月25日  軍令部出仕
昭和20年10月15日 海軍省出仕
昭和20年11月30日 予備役
昭和22年6月28日  妃知子女王薨去
昭和22年10月14日 皇籍離脱
昭和34年12月7日   死去(享年 59歳)









ありし日の久邇宮御一家の写真です。まだ朝融王 殿下
が海軍兵学校生徒時代ですから大正7〜9年頃でしょう
か。手前で椅子に座わられている女性が良子女王であ
り後に昭和天皇の皇后になられます。皇太后となられ平
成12年6月16日に皇居吹上大宮御所で崩御。歴代の
皇后陛下の中でも最も長寿であられ97歳で身罷られま
した。”香淳皇后”と追号されて武蔵陵墓地に眠られてお
られます。







元皇族 賀陽宮 恒憲王 殿下
 (敗戦時、陸軍中将)が陸軍戸山学校の
  校長時代に兵庫県姫路出身の酒井という
   名の尉官に下賜したElginの金時計(14K)と
       軍刀(贈 恒憲 に賀陽宮家御紋の彫り)




この懐中時計は賀陽宮 恒憲王 殿下の陸軍少将時代、昭和17年3月2日から
昭和18年3月1日の一年間の間、陸軍戸山学校の校長を勤められております。
この時期に成績優秀者や側近や部下の副官などに下賜された金時計と推察さ
れます。箱に経年の痛みが見られますが、時計本体は大切に保存されていたよ
うで御覧のように美しい姿を残したままです。時計は米国のエルジン社(Elgin)
です。今でこそエルジンと謂うとディスカウント時計の代名詞のような扱いで貰っ
ても有難がる人も居ない有様ですが…その昔はウォルサム、ハワード、ハンプデ
ン、イリノイ等のメーカーと並び懐中時計の高級ブランドとして栄光の黄金時代を
築いていた頃のものです。宮様の家紋を入れた特注品です。今となれば中身の
時計より
見事な装飾です。真ん中に賀陽宮家の御家紋が配されています。現在は機械彫り
が全盛の時代です。この時計のように手彫りでこの複雑な家紋を彫ることは彫金師
でも至難の業だと謂う事です。
全面に唐草を彫り、蓋の中央に純銀製の賀陽宮の紋章を据え裏には
”贈 戸山 恒憲”と彫られている金時計。
実に美しい時計です。本時計は軍刀と共に贈呈されたようで持ち主だった方は戦地では
贈呈された軍刀を愛用し、平時ではこの懐中時計を愛用されたていたと伝えられ、軍刀に
も同様の御家紋の紋章が付いており、佩用者家紋という銀に純金貼りの”剣酢漿草紋”が
付いています。


賀陽宮 恒憲王 殿下の青年将校時代の画像です。真ん中は奥様(敏子 様)です。




       ◆ 賀陽宮 恒憲王 殿下 ◆

     (皇籍離脱後は、賀陽 恒憲 様)


  陸軍中将大勲位功三級、騎兵科

  明治33年1月27日生、京都出身


            ≪ 略 歴 ≫


大正9年1月  貴族院議員(皇族議員)

大正9年5月  陸士32期卒業

大正9年12月  任陸軍騎兵少尉(騎兵第十聯隊付)

大正10年1月  騎兵第一聯隊付

大正12年8月  任陸軍騎兵中尉(騎兵第一聯隊付)

大正15年7月  任陸軍騎兵大尉

大正15年12月 陸大38期卒業

昭和2年3月 騎兵第3連隊中隊長

昭和3年3月 参謀本部付勤務

昭和3年8月 参謀本部部員

昭和6年8月 任陸軍騎兵少佐

昭和7年11月 陸軍大学校教官

昭和9年3月 欧米出張

昭和10年3月 任陸軍騎兵中佐

昭和10年8月 騎兵第十聯隊長

昭和11年12月 騎兵第第十六聯隊長

昭和12年11月 陸軍大学校教官

昭和13年3月 任陸軍騎兵大佐

昭和13年7月 中支那派遣軍参謀

昭和14年6月 参謀本部員

昭和14年7月 大本営参謀

昭和15年12月 任陸軍少将(騎兵第二旅団長)

昭和16年7月  近衛混成旅団長

昭和17年3月  陸軍戸山学校長

昭和18年3月  任陸軍中将(留守第三師団長)

昭和18年6月  第四十三師団長

昭和19年4月  留守近衛第二師団長

昭和19年7月  陸軍航空総監部付

昭和20年3月  陸軍大学校長

昭和20年9月  軍事参議官

昭和20年11月 待命/予備役(掌典長兼御歌所長)

昭和21年2月 免掌典長兼御歌所長

昭和21年5月 免貴族院議員

昭和22年10月 皇籍離脱

昭和53年1月3日 逝去

機械部蓋に14Kの刻印が有り、彫られた名前の下地も金であることから
貼りでは無い14金製と思われます。(時計屋によると0.2ミリ程度の蓋に
贈呈名などを彫る技術は、昔しか出来ないとの事です。今は機械彫りな
ので線でケガクことはできるようですが、彫りはできないそうです。)


ElginのシリアルNO.7697372。この事より1898年(明治31年)に米国で
製造された時計でる事が判ります。おそらく元々は宮様のお宅にあったも
のだと思われます。また贈呈した時期が昭和17年の開戦後であり、国内
で金製品を新たに新調することは考えにくく、また敵国である米國製の物
を新たに購入するとも考えられないので、賀陽宮家がお持ちになれていた
時計に彫りを施して贈呈されたと考えるのが自然です。








































旧梨本宮家が旧皇族・梨本 徳彦 氏
  (従四位勲一等・元伯爵)
          (久邇宮 徳彦王 殿下)
  と御学友で親友だったという青木 周夫
   陸軍中尉(旧梨本宮家の家令職の子息)
    へ下賜された昭和十三年制定陸軍制式
                     軍刀の外装等




梨本宮家贈 青木 周夫氏 佩用軍刀外装
青木氏は、子爵・青木家の一族で後裔が梨本宮家の執事か家令職をして
おり日米開戦にあたり海軍士官の徳彦王には海軍刀を、同時に陸軍士官
となった家令職の子息だった青木 周夫 氏には陸軍刀を宮家が武運長久
の祈願としてそれぞれに贈り、いずれの軍刀のハバキにも宮家が使用して
いた”十四葉一重裏菊形”が彫られていたようです。当然ながら宮家が佩
刀するのでは無いので青木氏の軍刀の柄頭に銀の家紋は付いていません。
旧梨本宮家御家紋


外装は既製の金属鞘では無く、木製鞘乾漆塗の別作で、鐔なども昭和15〜6年頃の
モールドのしっかりとした物で仕立てられています。元は”一竿子忠綱”という刀が入っ
ていたらしく木札が付いていますが、惜しむべくは米国で刀身のみ散逸したようで米国
の所蔵者が士官学校などのサーベルを製造していたメーカーに依頼して模擬刀身を造
らせて納めています。日本の模擬刀ではないので、刃紋は入れられていませんが樋も
入り総体は良い物です。やや入れられた模擬刀身の調整が甘いので薄い赤い革を挟
んでいます。出征で佩用されていたらしく、革の外覆には小傷有りますが、中の鞘には
大きな痛み無く、丁寧に補修もされており、柄巻の状態も良く、ハバキの御家紋も鮮明
です。柄の猿手は元々は紐製環だったようで欠損の為か戦地用になのか金属製に替
えられています。
Jim Dawson氏の使用した管理保存用の木製タグです。
F LUT(1st Lieutenant)  AOKI 青木陸軍中尉の記載がわかります。


将官や宮様の佩刀に多い木鞘乾漆塗りの状態の良い所謂、九八式軍刀です。




米国でコレクション整理に付けられた木札です。
F LUT AOKI とあります。所持者の名が青木 陸軍中尉
と記載されている事が判ります。




PRESEN ROYAL F NASHIMOTO の記載があり
皇族 梨本宮様から御下賜された軍刀と判ります。







昭和17年11月17日に配信された日本ニュース台128号です。
昭和17年11月14日、海軍兵学校卒業式に高松御差遣宮殿下
の台臨を仰いで行われました。卒業生の中には久邇宮徳彦王
殿下がおられます。(尚、再生に際しては、ページTOPのMIDI
音源をSTOP(停止)してお楽しみください。)



軍刀に附属して米国から里帰りした資料には写真類の他に衛生関係の紙物資料が
非常に多く所持者だった青木 周夫 陸軍中尉は軍医だった可能性も高いと考えます。
同様に大陸での高級将校と思われる軍醫や患者等の多数の寫眞が一緒の
資料としてありましたが、青木中尉と同一人物または関連する人物と確証が
持てないので掲載しませでした。米国で誤って整理されている場合も考えら
れます。寫眞裏に名前の記載などあればよかったのですが、残念な事に地
名や年月日などの記載しかありませんでした。







     〜希少な戦前宮中・華族資料〜

 形成外科医から春日大社宮司に
  転じた事で知られた故・葉室 頼昭
   伯爵の少年時代に宮中で御裳捧持者
    として新年に皇后・皇族各宮妃の洋装
      大礼服の裾を持つ役目をされた時に
       着用された御裳捧持者御服・帽子・剣吊
                       りに写真等資料




もう殆ど”リボンの騎士”とか”ベルサイユのバラ”の世界のようです。
御裳捧持者とは、基本的に12〜14歳の少年(未成年者)が御役を務めました。毎年
1月1日の朝賀式(新年祝賀の儀)に当たり、戦前の学習院中等科に在籍する容姿
端麗・学業成績優秀なる華族の子弟が選抜され宮中で皇后・皇太后・宮妃方の洋
装大礼服の裾を持つ奉仕を致しました。明治22年から始まり昭和19年に廃止される
まで毎年継続して行われました。この最上級の紫天鵞絨(紫ビロード)地にシルク飾
りの御裳捧持者御服と帽子(シルク飾り帯に白駝鳥(オーストリッチ)羽飾り付き)で
す。元華族(旧伯爵家)葉室様の着用品ですが…保存状態は最高に良くとても戦前
の品とは思えない状態です。見事な華美な作りの一品に…明治宮殿を華麗に彩った
当時の栄華が目に浮かぶようです。




昭和15または16年の新年御裳捧持者の少年達の集合写真と思われます。


国立公文書館に収蔵された明治36年の
新年御裳捧持者の少年達の集合写真で
す。




剣差しは少年用で少し小ぶりです。



剣差しに合う手頃な剣が無かったので海軍の短剣を差してみました。
やはりトンボ剣のようなものでないとイメージに合いません。


故 葉山 元伯爵が13歳、14歳の時に着用されたとすれば昭和15年
から16年の運命の日米戦の開戦前後の頃です。昭和22年5月に我
国の華族制度が廃止されます。丁度、葉室先生が20歳の時に爵位
を失います。この御裳捧持者の制度も敗戦の前年となる昭和19年に
廃止されています。まあ敗色が色濃い厳しい時勢に…この華美な服
で宮殿行事をしている場合で無いとなったのでしょう。着用機会が非
常に限られて短い事もあって…痛みなく70年以上の歳月の経過を全
く感じさせません。
いずれも上下と帽子共に現在の宮内庁の前身である宮内省の記名布があります。
上衣には右下の画像のようにサーベルタイプの短いトンボ剣がポケット状の切れ
目から出るようになっています。


昭和15または16年の新年御裳捧持者の少年達の集合写真と思われます。
この中に当時、13〜14歳だった葉室 ョ昭 少年が居られます。



          〜 葉室 ョ昭 (元伯爵) 略歴 〜


昭和2年1月3日生、東京都出身。
藤原北家勧修寺流の名家の家格を有する公家・葉室家に生まれ第35代
葉室家当主として伯爵の爵位を持たれておりました。学習院に初等科か
ら高等科に進み大阪大学医学部に入学・卒後、形成外科医となります。
そして勤務医を経て形成外科医院を開業。診療を続けながら通信教育で
神職を勉強。神職の最高階位である明階の位を取得。神社庁の推薦を受
けて平成4年に東大阪市の枚岡神社の宮司に就任。平成6年8月、春日大
社の宮司に就任。平成20年3月、春日大社宮司を退任。その後は京都の
西山山田(西京区)で約千年以上に渡り鎮守の神として葉室家の霊を祭
る葉室御霊神社があります。こちらの宮司だけをされておられましたが、
惜しくも平成21年1月3日、肺炎にて死去されました(享年82歳)。




平成六年より晩年の平成二十年までの十四年間宮司を勤めた春日大社です。
御自身で管理される葉室神社などには、こちらの春日大社の
方から出向き神事をとり行っておられました。

          ”葉室 ョ 氏の主な著作”

 『〈神道〉のこころ』春秋社 1997年

 『神道と日本人』春秋社 1999年

 『神道見えないものの力』春秋社 1999年

 『神道〈いのち〉を伝える』春秋社 2000年

 『神道感謝のこころ』春秋社 2000年

 『にほんよいくに1 えとぶんではむろぐうじがこどもにかたる』
                  富山房インターナショナル 2001年

 『神道〈徳〉に目覚める』春秋社 2001年

 『神道夫婦のきずな』春秋社 2002年

 『神道いきいきと生きる』春秋社 2002年

 『心を癒し自然に生きる』春秋社 2003年

 『御力』世界文化社 2004年

 『大祓知恵のことば CDブック』春秋社 2004年

 『神道と〈うつくしび〉』春秋社 2005年

 『神道と〈ひらめき〉』春秋社 2006年

 『神道〈はだ〉で知る』春秋社 2008年

 『神道 おふくろの味』春秋社 2009年


  出典・引用: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』


京都府京都市西京区山田南町にある葉室家の鎮守社の葉室(御霊)神社です。
この地は平安時代…葉室家の荘園でした。約千年前より鎮守の森として葉室家
の霊を祀る葉室神社が創建されました。後に御霊信仰と共に神仏習合となり…そ
の名も”葉室御霊神社”と名称が改められた経緯があります。
社殿は大納言 葉室 頼考郷が元禄二年建立したものです。
葉室神社の社紋は葉室家の家紋です。
家系図を見るとお判りのようにョ昭氏が三十五代目です。先生にはお子様が
お二人(男女お一人ずつ)おられ娘さんは既に他家へ嫁ぎ、御子息のョ由氏
(50歳)が三十六代目を葉室家を継承し、また若宮司として葉室神社を執りし
切られております。





十禅師社(十禅師とは学徳兼備の僧
十師を選んで官から授けられた称号)








国挾槌尊(月霊)…日本書紀によれば
天地倍判の最初に現れ給うた神、神世
七代の第一代の神、國常立尊に次ぎ
生まれませる神である。

葉室御霊大明神、大国主大神、観音大士
を祀る社です。
神仏習合時代の影響を色濃く残し御霊大明神を祀る中央の御霊本社の左には
国挟槌尊(月霊)と菩薩像、本社右に十禅師社を祀っているようです。




                              ↑
常住寺の近くにある茅葺きの屋根の見事な山口家は代々この地で四百年以上続いた
旧家で葉室家や徳大寺家に仕え江戸時代には山田村の庄屋を仕めたお家です。
苔香居は、山口家住宅の茶人であった先々代がつけた庵名で国の登録有形文化財に
指定されており中には入れません。年に一回だけ一般公開されるそうです。江戸末期か
ら明治初めの木造瓦葺の建築物で…二つの茶室があるそうです。

    ”苔香居” 山口邸の公式サイトは上のバーナーをクリックすると開きます。


セロハンテープで補修されていますが元箱が健在です。
中も虫食いも無く見事なものです。






帽子が随分浅いと思っていましたが、実際は被るものでなく下の図のように
飾りで背中に掛けて置くだけのもの…お洒落というべきものなのか…雅とい
うべきなのか…凡人にはよく判りませんでした。


実に雅です。…これを開戦前後までは行われていた時代があったわけです。











例え少年用の儀式の制服であっても文官や武官と同じように
きちんと定められた服制が決められております。























大韓帝國 皇太子御成婚記念章 (箱欠)




珍しい大韓帝國の皇太子御成婚記念章
です。残念な事に共箱がありません。
お隣の朝鮮半島がまだ偉大なる大日本帝國の名誉ある植民地に
なる前の大韓帝國時代の記念章です。数的には少ないものでしょ
うから珍しいものだと思います。

















大韓帝國 勲五等八卦章 (箱欠・綬外れ)




こちらも名誉ある大日本帝國の植民地と
なる前の大韓帝國時代の勲章である八卦
章の勲五等です。残念な事に共箱が欠で
ある事とまあ糸縫いで復元可能ですが綬
が外れいます。
韓国併合前の大韓帝國の勲章は、大日本帝國の勲章と類似した
というより猿真似したと思われる体系をしています。戦前も戦後も
お隣の半島の民族は…我国のパクリばかりである事が良く判り
ます。信号から交通標識から学生の制服から何から何までパクリ
ます。しかも恥知らずにも自分達がオリジナルだと嘘をついて憚り
ません…半島の横から引越しできない日本列島…日本人の不幸
を思わずにいられません。













大韓帝國 勲三等八卦章 (箱欠・綬金具欠)




こちらも八卦章の勲三等です。残念な事に共箱が欠と綬に止める金具の方が
欠です。基本構造は全て同じなので日本の金具の代用で再生できます。













帝國水難救済会名誉会員徽章と三等有効章


帝國水救済会名誉会員徽章
帝國水難救済会 終身特別会員徽章


帝都復興記念章







陸軍操縦者用手袋

   陸軍操縦者着用防寒手袋

スタンプありますが薄れて読めません。









各種 手榴弾・榴弾




九九式手榴弾










珍しい九九式手榴弾(甲)の梱包箱です。手榴弾を二個入れて収納
した箱です。使用後は、捨てられる事の方が多い物ですので残存し
ているのは、珍しい気がします。



九七式手榴弾









別の九七式手榴弾

信管部は、手持ちの余り状態の良くない品を
合わせてみました。
さびの為アバタ状態ですが



もと京都の嵐山博物館所蔵の所蔵品で、後に和歌山の
ゼロパークに引き継がれましたが、ここも閉館…転々と
した品です。さびの為、アバタがひどい状態です。




九八式(柄付)手榴弾




湿気により木部の破損がかなりあります。底部のキャップも欠損しています。
信管を点火用のリング等はオリジナル(リングは針金状でかなり傷みがあり)
。弾殻は比較的程度がよく、取り付けビスが欠損しています(現在、仮の+ビ
スで固定してある状態)。弾殻サイズ:71.4o、直径49.8o、厚さ5o、鉄製で
す。現状のままの全長:200om 全重さ:425g 刻印等無し。
幻の手榴弾と言われ日本のオリジナル開発・生産したものなのか、また中国大陸で日本軍が
鹵獲した支那軍のものなのか謎とされた手榴弾です。支那軍は、ドイツ軍の顧問を多く抱えて
おり、また多くの兵器をドイツより輸入していました。特に木の柄のついた『ポテト・マッシャー』
と呼ばれたドイツ軍のオリジナル手榴弾を各地でライセンス生産していました。昭和13年(193
8)に日本の兵器廠でも”九八式柄付手榴弾”として10万個弱を生産した記録が残っているよう
です。この手榴弾の特徴は、木の柄に鋳鉄製の円筒の弾殻をビス3本で留めて、その中にビク
リン酸が入れられいます。反対の木の柄の下に薄いブリキの円形の蓋があり、この中に信管を
点火させる紐と金属の輪が収められています。非常に投げやすく威力もあるのですが、持ち運
びが不便なのが欠点でした。ドイツ兵は、これをベルトに差していましたが行軍の多い皇軍兵士
には、不向きで要塞などの守備隊向きの手榴弾だったと言われています。この為か限定した生
産に止まったようです。記録では九八式柄付手榴弾は、支那へ10万個が輸出されて国内には
無い計算との事でした。(上記の右の図が現存する九八式のほぼオリジナルの画像です)








九一式手榴弾




九一式(昭和6年)は、寸法・形状共に十年式手榴弾と同じもの
ですが、下から上まであった溝の上部、蓋に掛かる部分を省略
しています。また信管の安全性を改良で増しました。これにより
量産がより楽になった模様です。
通常の手投げで使用する場合は、画像のブースターは
外して使用します。ブースターを使う場合は、十年式擲弾
筒であり、後に八九式擲弾筒に変わります。安全栓(ピン
)に付いた水糸を引きピンを抜き上部を硬いもの(地面や
鉄帽など)に打ち付けて7〜8秒で爆発するのでこの間に
敵に向けて投げつてます。


九一曳火手榴弾2個入りの収納筒です。



上のとは別の九一式手榴弾の収納箱です。厚紙製で
簡易な作りですが以外にも頑丈で安価ですみ実に合理
的だと思います。
レプリカの手榴弾と合わせてみました。



末期の陶器製手榴弾




陶器製手榴弾は、末期の昭和19年頃から敗戦まで製造された物です。
物資がなくなって、軍服のボタンも金属ボタンから木のボタン、貝のボタ
ン、そして陶器製のボタンになった頃の物です。手榴弾も金属を良く使う
との理由で陶器にしてしまおうという事で研究され作られましたが テスト
でも全く使えないと評価されましたが、物が無い以上は、代用品を作るし
か無かったようです。この陶
器製の手榴弾は、実戦で使われたり敵を倒
したという記録が一切ありません。大戦末期頃に運良く南方などにたどり
着いた船の物資の中に入っていたと聞く事がありますが、重くて役にたた
ないので廃棄されたとの話もあるそうです。敗戦で軍の解体後は、雷管を
外してから割られて処分したり 中に入っていた装薬を抜いて保管されたり
しました。これ等は、消化用の薬剤を入れて火の中に投げる消化弾として
一部で再利用されたそうです。しかし相当に硬い部分に力強くぶつけない
と割れなかったので、実際に役に立たない物だったようです(色はわかる
ように目立つシルバ−ペイント)。

【産地】 有田  (別に瀬戸産も存在していたようです。)


※戦後に出ていた物の中には陶器製手榴弾を真似た薄いガラス製の消化
弾というのもありました。これは陶器製手榴弾より二周りしないぐらいの大き
さで作られた物です(民間品として薄い陶器製かガラス製 ガラス製は青色
ガラスかシルバ−ペイント)。




旧式の演習用手榴弾




十年式以前の旧式 演習用手榴弾
先端撃針キャップ部(銅製)に刻印がありますが、判読不明です。
下部の木栓部と投擲用のヒモ部がありません。
弾殻は鉄製です。全長約82mm、直径(最大)約44,5mm
重さ約430gです。当然ですが、火薬類等一切入っていない
安全品です。







実物から型取してキャスト製で作った
   各種日本軍の精密複製手榴弾6点




十年式、九九式、九七式手榴弾です。中々、見事に再現され
手で触れて持つまでは実物と変わりがありません。
映画や博物館・資料館の展示にはこれで十分の様な気がします。









八九式擲弾筒の発射済みの榴弾各種




榴弾の銅の帯に浅い筋がついているのが
発射済みのものです。
九八式重擲弾筒を構える奥の日本兵と手前で
擲弾を手にする兵士が写っています。まさにタ
イミングを狙っているところでしょう。
八九式擲弾筒を発射せんとする擲弾兵


こちらは、実物の擲弾嚢です。
上の物と違う八九式擲弾筒の八八式榴弾



上の物と違う八八式榴弾の信管部
八八式 ヒ 昭十七4 東の刻印があります。



こちらも別の八八式榴弾


こちらも別の品です。




こちらも別物の発射済み八八式榴弾です。
信管には”八八式”と”昭八12”と”條”という
刻印があります
発火済みの八九式重擲弾筒用の八八式榴弾の
演習弾です。少量の火薬で着弾発煙させるので
、肩の部分が広がっています。信管、内部火薬、
発射火薬は使用済みです。信管は、八八式で、
昭和8年の刻印があります。本体には昭和11年
の刻印があります。半分ほど当時のオリジナルペ
イントが残っています。



精巧複製品です。





こちらは、中田商店で出している複製品の擲弾筒嚢です。


こちらも複製のダイキャストの八九式榴弾です。
この画像は、制作者のコピー元のオリジナル榴弾(左)
とコピーした複製品(右)との比較した画像です。良く出
来ています。







実物 憲兵(M・P) 及び 海軍警査(SP)の腕章




戦地憲兵(外地憲兵)の腕章です。
海軍のSPである海軍警査の腕章です。こちらは
、官給品らしくスタンプは、横須賀衣料廠。







実物 海軍 舞鶴第一保安隊・NP(海軍憲兵)の腕章








腕章は、表面布地が陸軍憲兵腕章と同じモスリンで、裏地は
綿布です。表面に小虫食い有ります。裏面に”三小 壱号”と
書き込み有ります。大変珍しくて貴重な資料です。







実物 陸軍憲兵腕章(MP)二点








同一人物の憲兵腕章2点です。下のM.P.の方は、
敗戦後の進駐軍の警備の為のものです。







陸軍 外出証 腕章 
   第七六〇一六部隊 玉田部隊山田隊






部隊の公印が押された腕章です。第43号とあります。







公安関係または鉄道車内で
     使用した安東部隊の腕章




満州東北部 安東部隊の公印が押された腕章です。







海軍 大阪警備府の腕章 海軍要員交通証









cf.大阪警備府に関しまして!

海軍には、主要地域に警備府がございました。
大湊警備府、大阪警備府、海南警備府、高雄警備府
旅順警備府、鎮海警備府の六警備府です。この他に
竹敷要港部がありました。ここのみ長は、司令官でし
た警備府は、司令長官で中将が務めました。また大阪
警備府の最後の長官は、岡 新中将でした。尚、旅順
警備府は、昭和17年1月15日に廃止になっています。
最後の司令長官は、浮田秀彦中将でした。








海軍施設の腕章




京都の伏見連隊区にあった深草の海軍施設の物です。
陸軍師団の所在地付近の地名で腕章が作られており
ますので多分海軍の連絡施設とのことです。







陸軍兵器学校 公用腕章




相模原にあった陸軍兵器学校の腕章です。







陸軍衛生腕章













海軍 甲板下士官腕章













海軍建築部作業員の腕章











瀋陽市日本人捕虜収容所 ”女性捕虜の認識腕章”




中華民国35年(昭和21年)。敗戦直後の満州・瀋陽市に日本人捕虜収容所が有り、
【第一一三大隊・大三中隊・第三小隊】【保僑字163270号・佐藤登喜子】。日本兵
でもない一般人の女性が捕虜同然の扱いされていた事を示す腕章です。この腕章の
発行は敗戦後約1年後です。支那人達が民間人である満州からの引揚者をソ連兵と
同様に酷い扱いをしたかは、多くの書籍にも記載されていますが、同胞の怨み節が
聞こえてきそうな腕章に憮然たる想いがします。







佐世保海軍々需部 戦闘要員 腕章











佐世保海軍工廠 戦闘部署員 腕章











鈴鹿海軍工廠の腕章




下の三重県警の腕章と一緒に出たものです。
海軍工廠は、艦船・航空機・各種兵器・弾薬等を開発・製造する
海軍直営軍需工場を指しますが、昭和6年の満州事変勃発まで
は、横須賀、呉、広(呉市)、佐世保の鎮守府に併設されていま
したが、昭和10年に舞鶴が海軍工作部から海軍工廠に復帰、
大東亜戦争中は、軍備の増強により、豊川、光、相模、高座、
川棚、沼津、多賀城、鈴鹿の八箇所に新たな海軍工廠を設置し
ました。







戦前の警察(三重県警)の腕章




こちらの腕章は、未使用で仕舞いこまれたようで
とてもきれいです。







満州国 安東市 警察官(市警護本部員)の腕章




満州国の安東市は、中朝国境の町です。現在は、丹東市と名を変えて
存在しています。鴨緑江で国境となりますが、中国側が丹東市で北朝鮮
側が新義州市です。この新義州市は、日本の統治下では、新義州府と
呼ばれていました。鴨緑江第二橋梁が川に掛けられて日本が鉄道を敷
きました。これは、現在も使われています。丹東駅〜新義州駅〜平壌駅
と鉄道は、繋がっています。特に新義州駅〜平壌駅は、日露戦争中で
朝鮮総督府が物資輸送の軍用鉄道として京義線の建設を進めました。
安東〜奉天(今の瀋陽)間の安奉線を作り、その付属地とを経営する為
に、南満州鉄道株式会社、所謂、満鉄を設立しています。
表も裏も公印が捺され、記載があります。







明治期の海軍 ”海軍班”腕章




表地は赤い羅紗生地に”海軍班”の刺繍文字。裏地は絹のようです。
明治頃の物だと思いますが新聞など報道関係者用の腕章と考えます。







戦時資料:京都の各種 軍友會の腕章
























京都航空機乗員養成所監視員の腕章です。
グライダーの滑空免許を持った人が各地で
少年飛行兵や予科練などを目指す少年達を
指導した時に付けたものです。







九三式地雷(対戦車・対人)と
         珍しい実物の圧力信管




通称 あんぱん と呼ばれた日本軍の代表的な地雷です。


旧陸軍の対戦車・対人用の地雷です。
下の写真は九三式地雷を二個背中合
わせに紐で固定した様子です。
昭和8年制定、対人対戦車兼用の最もスタンダードな
圧力型地雷です。この後に昭和14年に制定された九九
式破甲爆雷が4個のマグネットが付き信管の安全ピンを
抜き戦車に投げるか付けるかすると約10秒後に信管が
作動し爆発する装甲を破る目的の対戦車地雷と一線を
画しています。



アンパンと呼ばれた九三式地雷の専用信管です。
よく見かける米軍の教材でも有名ですが…この信管は当時の実物です。
実物の本体も非常に希少ですが、信管は殆ど出回る事は無く大変珍しい
ものです。本体は真鍮製で銅製線断線の入った機械部分(ストライカー
式)で鉄製です。機械部に黒染めの識別色が施されており、線断線が
2箇所で留められています。これは「対人用」で10〜12sの圧力で作動し
ます。(対戦車用は120s以上で作動)
安全栓の頭部には「安」の刻印があり外周に滑り止めのローレットが
施されており螺子式で外れます。また本体底部の装着螺子の保護筒
も残っています。







九九式破甲爆雷と珍しい収嚢袋




この九九式破甲爆雷は、対戦車兵器として開発された
円盤型爆雷です。4個の永久磁石を敵戦車に吸着させ
て爆発させる物ですが、手榴弾のように人による投擲
もできました。昭和14年のノモンハン事件では、ソ連の
BT5型戦車の攻撃に使用されました。昭和20年5月24
日の沖縄で米軍占領下の北・中両飛行場に強行着陸し
攻撃を敢行した義烈空挺隊もこれを携行して米軍に多
大な被害を与えました。
この品は、茶褐綿布製のカバーに少々ほつれあります。
昭和16年製で磁石鉄製カーキ塗装で三菱マークにN・S
極の刻印がそれぞれに入っています。雷管・爆薬は除去
されて木製のダミーが入った安全な合法品です。


四辺に磁石の付いた、通称「カメ」と呼ばれる破甲爆雷の収納袋です。
袋の蓋の裏に、信管を装着する紐が付いています。後ろにベルトを通
すループがあり、左に2個刻印があります。状態としては未使用クラス
ですが、ほこり汚れと、ホックにサビがあります。


周囲には堅い枠が入っています。







三式甲地雷(海軍)




米軍のトレーニング用なのかオリジナルと
同じ素焼きで出来た三式地雷です。
直径27cm、爆薬量3kgと陸軍の九三式地雷
に比べて3倍以上あります。破壊力も大きか
ったものと想像します。
素焼きで出来た中身が空の地雷ですが結構
重いです。これに3kgの爆薬が充填されると
結構な重さとなります。
信管は、明らかにダミーです。元々、三式地雷の
信管もベークライド製で地雷探知器での発見が
不可能なように出来ていました。



三式甲地雷(海軍)の信管の安全札






下は、ニューギニアで米軍に捕獲された海軍の三式
地雷である。陶器製である為、金属探知機にも反応
しない。直径が27cmで3kgの爆薬が装填された。
上の画像の↓が安全札を示しています。







陸戦隊で使用された地雷(対車輌用の棒地雷)




海陸戦隊が使用したタイプです。内部は空です。両側蓋はビスも付いていて、
良好です。これは米軍が作った良くあるトレーニング用ではなく、オリジナルの
地雷です。 大きさ 全長約91cm、幅約8.5cm。




内部に六個のの黄色火薬が入るようです。
うっすら日本語が残っているのが判ります。






米軍が訓練用に作り使用した
         海軍の対車両用の棒地雷




こちらは良く出る大戦中、米軍が兵士の教育用に作ったも
のです。実物と同様の1ミリ近い厚手の鉄製で、片側に”信
管頭部側”の文字が入っています。蓋が片側欠品していま
す。
大きさは、実物と殆ど変らず 90cm×8cm



中身も全て揃いの米軍の訓練用
   の日本海軍 棒地雷のレプリカ!






ダミーの火薬(WAX製で代用のようです)と長い棒が
信管代わりのようです。これを引いて起爆したようです











航空機のリベット孔の調整用リーマ



航空機のリベット孔の調整用リーマのセットです。パーツは
揃っていて、油紙に包まれた状態です。中を空けるとハンド
ルには、グリースの付いた状態です。パーツリストに、「大転
把」「小転把」とありますが、旧軍は、ハンドルを「転把」と言
い換えておりました。航空機は、図面に沿ってリベット孔を開
けますが微調整しないとぴったり合わなかったと思われます。
このリーマは、微調整用です。2.7mmから10.4mmまでありま
す。箱は、26cm×16cm×5.5cm。年号等のの刻印はありま
せん。










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沖縄日本復帰記念メダル(琉球政府公認)です。
1972年5月15日 沖縄が日本に復帰した記念日です。
早いものであれから40年が経過しました。



表面は観音様の上半身で上部に”宇宙即我”、下部には
”地上に平和”と記されています。裏面には…天女が舞い、
上部に”1972.5.15 沖縄日本復帰記念 ”と記されてい
ます。