旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part X










その他…etc






九八式射撃照準器 1/3モデル
我国初の光学式反射照準器です。昭和12年に開発がスタート
されましたが、当初の零戦配備に間に合わず、初めの零戦は、
昭和13年にドイツから輸入されたHe112戦闘機に搭載されて
いたレビ2b照準機一部改造して代用して使用していました。そ
れ自体が九八式射爆照準機の開発ベースとなった照準器です
。富岡光学での生産が軌道に乗り、零戦を中心とした照準器の
スタンダードとして標準装備されて行きました。1型(射撃用)と2
型の爆撃用がありますが、この1/3モデルは、1型の主生産会社
であった富岡光学製作所製作を模したものと記載されています。
中々、面白い品です。
航空物コレクターの某氏の所持する九八式の実物です。
こちらも某氏所蔵の四式射爆照準器。

こちらは、四式一号射爆照準器の
実寸大の精密複製模型となります。









海軍 九八式射爆照準器一型

  (千代田光学 昭和19年6月製造) 


〜 大東亜戦争を敗戦まで駆け抜けた
   栄光の翼と共に蒼空で闘った…我国
       初の光像式(光学式)射爆照準器 〜




専用に特注したケースに収まった九八式射爆照準器一型
です。こうして見ると製造から71年の歳月が過ぎた品とは
思えない感じです。これが零戦の狭いコクピットの中で…
搭乗員の目となった日本初の光学式射爆照準器です。



とても希少な実物の九八式射爆照準器一型(千代田光学:現ミノルタ製)
昭和19年6月製造の一品です!箱や機体用マウントは無く…本体のみ
前のオーナーである旧軍航空物の研究家の方より譲っていただきました。
ほぼ未使用常態のコンディションの良い個体で…難点としては反射ガラス
が破損していた為、オリジナルから型をとったレフレクターガラスに交換さ
れている点でしょうか。また小さな部分では…よくある経年の劣化でゴム
パッドが朽ち始めている所でしょうか。
この千代田光学製は有名な龍驤D1-108号機に搭載されていたメーカー
です。千代田は…参入は早かったのですが、製造数は少なく、現存を確認
でできたのは国内では…この一点と別に1個だけだそうです。現存が確認
出来ている個体が20個足らずだそうです。その他に全世界で埋もれている
ものが倍あったとしても恐らく40個程度しか現存しないと思われます。全生
産個数が約1万4千個ですから…敗戦国の軍用品が如何に無残にも失わ
れ…結果として国宝級のアイテム化された事を思い知らされます。
日本海軍初となるこの光学式照準器ですが、主に零戦をはじめ紫電や
紫電改、雷電、月光、二式水戦、強風…等に装備されましたが、その生
産量から圧倒的に多いのは零戦です。後にReviC/12Dを基に後継とな
る四式射爆照準器が世に出ても生産量が少なく…防弾ガラス装備の零
戦五二型乙以降には予備照門をカットして搭載され敗戦まで活躍しまし
た。まさに開戦から敗戦まで帝國海軍航空隊の最期を…その栄枯盛衰
を蒼空から見続けたガンサイトと謂えます。
銘板から昭和19年6月に千代田光学精工で製造されたシリアル
NO.3612の九八式射爆照準器である事がわかります。…71年
前に現在のミノルタで製作された品です。



参考に電源が取れてきれいにレチクルが光り浮かぶ
九八式射爆照準器一型を展示している陸自武器学校
の個体を紹介します。画像は以前、見学に行った際に
撮影したものです。
土浦の陸自の武器学校の九八式射爆照準器一型です。
基地内の古い倉庫から見つかった一品だそうです。現存し
機能も生きている珍しい数少ない希少な射爆照準器です。
日光の具合により二色の照準像を選択できます。
電源をやられた時は左上にあるアナログの照準器を手
で建てれば像の真ん中に浮かびように出来ています。
昭和19年4月 東京光学製。この東京光学製は
他に国内で1個あるのが確認されているだけだ
そうです。
この武器学校の照準器も…紹介している千代田製の
照準器同様に後期の零戦や紫電改に搭載した九八式
でなく前期(一一型〜二二型、五二型甲まで)の零戦
に搭載されたものと思われます。



ゴムパッドは画像の通り経年変化が始まっています。と謂っても
富岡製のようなしぼんだ風船のような崩壊まで至ってはおりませ
ん。多少の剥離がある程度です。赤く見えるのが内部の合成ゴム
が見えている部分です。靴底修理用の練りゴムで、剥離部分の
修復は簡単です。前のオーナーがオリジナル重視で手を付けてい
ませんでしたが、受け渡し前にゴムパッドの劣化個所ですが硬化
した剥離部分がこれ以上広がらないように、靴底の補修用ゴムで
修正。何回かに分けて、本来の形状に盛ることも可能でしたが
欠損部分を閉塞するだけにとどめています。ただ、非常に目立つ
場所なので、上下を逆に付け直して下さいました。実際…下の補
修前の画像と比較すると補修部分が下側になり殆ど目立たなくな
りました。
嫁入り前の射爆照準器の画像です。右下の画像にある
銀色の機体側マウントは、零戦のマウントを模して近年
好事家が製作した複製品です。











こちらは前のオーナーが展示用に製作して下さった物です。
機体側マウントは、零戦のマウントを模したものでオリジナル
の物ではありませんが十分に機能して本体を固定してその重
量を支えて射爆照準器が本来あるべき姿を常時、見せてくれ
ます。



上が遮光フィルターを起こした状態。下はフィルターを倒した
通常時の定位置の状態です。
情報から見ると光るレンズが美しく見えます。









因みにこれら九八式射爆照準器などのガンサイトを生産したのは
現在も存在する有名なカメラや光学機器メーカーばかりです。この
照準器を最初に設計を担当したのが日本光学工業株式会社(現在
のニコン)です。そして製造を担当したのが、富岡光学器械製造所
(現在の京セラオプテック株式会社)で此処が主契約を結びます。他
に東京光学機械株式会社 (現在の株式会社トプコン)に千代田光
学精工株式会社 (現在のコニカミノルタ社)の三社となります。そし
てこの三社の総製造台数が総生産台数は約1万5千台になります。
やはり現存数が一番多いのがメイン契約会社で製造数も一番多い
富岡製になります。陸自武器学校の展示品のは東京光学製でこの
個体以外は他に国内に1個が確認されているのみです。今回入手
した千代田光学製は、参入は早かったのですが、製造数は少なく
現存を確認したのは国内でこれと別には1個だけと聞いています。























この上下の画像のように電球のアッセンブリはユニット
化され簡単に出し入れし電球交換が可能です。かと言
ってパイロットが操縦中に狭いコクピットの中で電球切
れで交換するのはストレスだったと思います。ましてや
空戦中は交換は不可能なので予備照門を使う形となり
ます。電球は上だけに点灯するように下半分を黒く塗
装してあります。このASSY(アッセンブリ)はべークライ
ド製となっています。



光像の昼用と夜用の鏡用のローレット切り替え画像です。
右上が夜間用の赤のフィルターです。左上は昼用で白い
光像が浮かび上がります。
電源も無い為…電球を抜いて代わりにLED電球を入れ点灯する
と白いレチクルが浮かび上がります。光が弱い為、室内の明かり
を消して見やすいように遮光フィルターを立てて奥には白布を垂
らしてあります。
大掛かりな用意も無い状態で小さなLED電球の明かりで
この白いレチクルが浮かんだ時は何とも謂えない感動が
したものです。
こちらは夜間用に切替えて赤色のレチクルを浮かばせた
画像です。70年以上前に…この射爆照準器の同じレチク
ルを覗いたパイロットが居た事に思いを巡らすと感無量の
感があります。前のオーナーの方も語っておられましたが
終戦時の残存機体からの取り外しだとすると、程度が良
すぎるので…何処かの戦場域でアリューシャンゼロ(龍驤
D1-108号)のように力尽きて鹵獲され…米国に土産品と
してか…米国に渡り…それでも今の状態を見るとかつての
敵国でも物の価値が判る米国人が大切に保管したのでし
ょう。…そしてかれこれ70年以上の歳月が流れ…幾多の
所有者の手を経て運よく里帰りを果たした…この物言わぬ
射爆照準器が目の前にあり…このように光像を結ぶ姿を
見る事は感動そのものです。







三羽烏の銘板(零戦・九九艦爆・九七艦攻)




開戦劈頭より三羽烏で活躍した帝國海軍航空兵力の要
ともいう艦載機の銘板です。零戦の銘板は、比較的入手
し易い方ですが、九九式と九七の方は、中々入手しにくい
銘板だと思います。











零式艦上戦闘機 二一型 銘板






水平尾翼の部品と思われる零戦の銘板です。
二一型である事が判ります。製造は、中島飛
行機株式会社部品番号6013、製造番号は、
中島52552号です。













別の零戦二一型の部品銘板












九九式艦上爆撃機 銘板






九九式艦爆は、台形のジュラルミンの板についています。
零戦と同じで機体に直接つけないで、平板に銘板をつけ
てから機体につけたもので共にジュラルミン製です。製造
は、愛知時計電機株式会社、製造番号は、3329。機体
番号は、3287号です。



















九七式三号艦上攻撃機 銘板






九七艦攻の部品銘板は、柔らかい材質で、湾曲している
部品に貼り付けるタイプです。製造は、日新工業株式会社
で製造番号は、422。部品番号4071。九七式三号艦攻で
す。このメーカーは、現在のNISSINの名でバイク用のブレ
ーキキャリパーやF・フォークを製造している会社だと思いま
す。恐らくは、九七艦攻の主脚の銘板と思われます。















海軍 艦上攻撃機 天山(B6N1) 銘板




天山の脚柱の銘板です。天山の物は、珍しいです。
名機 天山は、九七式艦攻の後継機として海軍は、
中島に開発を指示。1943年に制式採用され量産に
入りましたが、時既に遅く戦局を覆すチャンスに恵ま
れませんでした。
"主要性能"

艦上攻撃機 天山 (中島)

全長:10.865m
翼幅:14.894m
全高:4.323m
全備重量:5200kg/
発動機:火星25型(離昇出力1850HP)
最大速度:482km/h
航続距離:30450km/
兵装:7.7mm機銃×2丁
   魚雷または、爆弾800kg×1
          (500kg×1、250kg×1、60kg×6)


cf.科博の銘板

比較の意味で科博での銘板と比較してみます。
左の画像は、零戦の尾翼の銘板。
右は、主脚の銘板です。



天山の尾輪銘板と尾輪オレオ銘板


左は、尾輪の銘板です。大きさ5.5cm4.5cm。萱場製作所は、今でも自動車や
バイクのサスペションを作っているカヤバです。 右は、尾輪オレオの整備デー
ターが書かれた銘板です。 大きさは、5cmX7cmです。



天山艦攻の脚操作レバーと説明板




天山の脚操作レバーと操作説明板です。レバーの根元の部分は
加工されていますが、それより上はオリジナルのままのようです。
脚操作説明板は、両方とも途中で折れています。 
レバーの長さは、21cmです。
”電動起動器+”と”電動起動器−”の
記載のある説明板です。
脚操作上下と書かれた説明板。
説明板の長さは、9cmです。







零式観測機一一型の銘板
  ( 零 観 )




上記左の画像は、右画像の零式観測機11型の右の補助翼の下に
貼り付けられていた銘板です。海軍機を表す錨の刻印が検印欄に
見えます。零観11型は、三菱が送り出した最後の複葉機として有名
です。昭和15年12月に九五式水偵に代わる艦載用水上偵察機とし
て、十試水上偵察機が零式一号観測機として制式化され、更に改修
された型が、この零式観測機11型である。艦載用だけでなく日米開
戦後は、初期から太平洋各地の水上基地に配備され、偵察だけでな
く、対潜水艦攻撃や空戦、爆撃機としても広く活躍した名機です。尚、
この機は、F1M2ですが試作機のF1M1が4機、生産されておりF1M2
が三菱にて524機、他に佐世保工廠にて180機が昭和18年までに生
産されています。この銘板の機は、機体番号が田邊第308号とありま
すので三菱重工で生産された308機目の機体であると思われます。ま
たこの機に関する逸話としては、ガ島でF4Fワイルドキャットを5機撃
墜やSBD艦爆を12機撃退した話は、有名です。

                    "性能"
零観11型(F1M2) :

  【発動機】三菱 13型空冷星型14気筒 875HP(離昇出力)
  【最大速度】370.4km/h/3440m、【航続距離】740km
  【上昇限度】9.440m
  【上昇時間】5000m/9分36秒
  【武装】7.7mm機銃3丁(機首固定2、後方座席旋回機銃1)
       爆弾60Kg×2または30Kg×2
  【全幅】11m、【全長】9.5m、【重量】自重1928kg、総重量2550kg        











陸軍 (川崎)九九式双軽爆撃機(キ-48)の銘板





九九式双軽の尾輪の緩衝支柱の銘板です。取扱説明銘板
で大きさは90X80cmです。(株)萱場製作所(現在のカヤ
バ工業(株))…バイク好きや車好きなら御存知のKYBで有
名なカヤバのサスのメーカーです。元々は、軍用航空機の
サスのメーカーだったわけですが、戦後、民用の単車や四輪
のサスを作る会社として有名になっています。…私も金欠の
バイク小僧だった頃は、WPやオーリンズに憧れながら安いカ
ヤバに手を出した記憶があります。…懐かしい思い出です。
以下に世界に羽ばたくKYBのHPのURLを記載します。興味の
ある方は、ジャンプして下さい!

http://www.kyb.co.jp/menu.html


上の左右とも九九式の1型です。
左は、2型。右は、飛行第一六戦隊の1型。

【性能】1型双軽

全幅:17.4 m
全長:12.9 m
総重量:6,050 kg
発動機:中島ハ25型 990 馬力×2
最大速度:480km/hr
爆弾搭載量:300〜500kg
武装:機銃7.7mm×3
乗員:4名







九九式双軽二型の発動機 銘板
       (二式1150馬力の栄発動機)








2型の双軽







名機 零戦の銘板等々




オークションで手に入れました。この品は、アメリカで復元し、日本に里帰り
飛行を計画していた零戦から収集した部品を、木製の額に貼り付けたもの
だそうです。元の持ち主が購入時に付いていたのは青竹色が残っている逆
台形の部品だけで、後の部品は…元の持ち主が別に収集したものです。
真中が零戦の電気系統の部品で、銘板2枚は傷みが激しいですが栄発動
機のものだそうです。(右の銘板に一一とあるので、九七艦攻の発動機と思
われるとの事)額縁は、十数年前、アメリカのサンタモニカ博物館で買われた
ようです。零戦の写真も…その時に購入した時のままとの事で入手しました。




琵琶湖から引き上げられたゼロ戦を、外板などを補修して、嵐山美術館
で展示されていました。今は呉市の海事博物館に納められています。こ
こで補修されて出てきた外板を、キーホルダー小型の盾、大型の額に入
れて販売されていました。この品は一番大きな額で、数十点あった中で、
一番当時の塗装が残っているきれいなものだそうです。。赤い塗料は何
か分かりませんが、これも当時のままだそうです。フラップにある「フムナ」
の赤文字の塗料と同じ色です。

 額の大きさ:28cm×22.5cm(中身の外板の大きさ:12cm×12cm)


さてこの銘板は、ヤフオクで手に入れたのですが入札前から??
…と思われた品です。複製品か当時のデットストックに刻印を施し
たものと思いますが…面白いので後学の為落札し現在、調査中で
すが…A6M2と製造年月日が気に入りません。この銘板にある昭
和19年2月2日ですが…昭和18年夏には、三菱でA6M5(52型)の
生産がはじまり、19年2月には、中島飛行機でも生産が始まってい
ました。確かにA6M2bとしても、三菱では昭和17年6月までの生産
で合計740機あります。零式練習機だとすればA6M2-kですから、
19年でもありえますが…三菱ではなく日立のようです。…まあ面白
いものです。







零式艦上戦闘機三二型
       同一機種の部品銘板八点








翼端が特徴的な零戦三二型です。




四角の2枚が製造年月日まで同じです。丸い電動燃料ポンプも年月が同じです。















その他、零戦の部品の銘板













珍しい二式艦上偵察機(D4Y1-C)の銘板




二式艦偵11型の銘板です。生産数は艦爆”彗星”と一緒に組み
込まれてしまい正確な実数は知られていませんが謂われてる俗
説では300機とも350機とされています。生産数が少ないので
銘板も出回る事が少なく希少なものと思います。銘板のシリアル
番号は312号です。340〜350機の生産としても最末期の生産ロ
ットと思われます。
十七試艦爆として試作された五機のうち三・四号機を改造の上
実用試験の意味で空母”蒼龍”に搭載、ミッドウェー海戦で索敵
に出動した。その機は母艦の撃沈で失われたものの、その高速
性能は高く評価され、艦爆”彗星”の誕生の前一足先の昭和17
年7月に制式採用されました。比類なき高速性能を誇った後継の
艦偵”彩雲”が誕生するまで太平洋の全域で使用された名機と
謂えます。
東海飛行機は主に航空発動機を製作した会社で
現在は、アイシン精機としてトヨタなど自動車部品
やミシンなどを手掛ける企業として生き残っていま
す。
横須賀海軍航空隊に配備された二式艦偵11型”ヨ-25”
です。この型は下の画像のように望遠鏡式照準器を操縦
席のキャノピーに見えないので初期生産型の機体だと判
ります。対して後期の生産型は照準器が付くので彗星と
見分けがつきません。尚、下の写真は昭和19年にマリア
ナ諸島で撮影されたもので両翼に増槽と爆弾倉に当たる
部分に半分埋め込むように330Lの落下増槽を搭載して
います。この状態を”偵察過荷”仕様と呼び約3,400kmの
最大航続距離を誇ったと謂います。




上は、離陸直前の二式艦偵の写真です。以下は以前に入手した
彗星または二式艦偵の別の銘板です。







海軍艦上爆撃機 彗星 (D4Y1)または、
   二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)の銘板




機体名等ありませんが、空技廠で02.9.28
は皇紀2002年(昭和17年)の9月28日を
意味しますので艦爆”彗星”の試作機か高
速偵察機として誕生した二式艦上偵察機
一一型ものと思われます。
時期的に見ても彗星や二式艦上偵察機の銘板は、
非常に珍しいものと思います。
昭和15年にDB 601Aエンジンを搭載した試作型が5機
生産されました。昭和17年、試作型のうち3,4号機は
爆弾倉にカメラを搭載した偵察機に改装され空母”蒼龍”
に搭載され、一機が南方作戦中に墜落し、残る一機は、
運命のミッドウェイ海戦に参加し米機動艦隊発見という
大きな戦果を挙げたましたが、帰投後に母艦と運命を共
にしました。量産は、昭和18年6月からで機体強度を向上
させた艦上爆撃機”彗星”一一型(D4Y1)として生産され
ました。







珍しい十三試双発陸上戦闘機(J1N1)
  もしくは二式陸上偵察機(J1N1-R)の
                     部品銘板




夜間戦闘機"月光"の原型である二式陸偵の部品銘板です。どの部品かは
不明ですが…二式陸偵は改造された夜間戦闘機”月光”とあわせても生産
機数は486機しか生産ません。生産機数が1万機を超えた零戦や6千機近
い陸軍の一式戦”隼”に比べると残存数で考えてもはるかに少ないもので
希少と謂える銘板です。大きさは、7cmX6cmです。


十三試双発陸上戦闘機(J1N1)の三号機の写真です。
二式陸偵から生まれた夜戦”月光”の二三型です。一五三空の
所属で背中に九九式20o二号四型機銃2挺の上方斜銃が見え
る。
機体名称は、J1N1と珍しく開発コード名で表記されています。
通常は、零式艦上戦闘機などで打刻されます。コード名表記は
天山でもありますが、珍しい方と思います。







珍しい第十一海軍航空工廠製の機体から
  剥ぎ取られた近江航空工業製の部品銘板




非常に珍しい部品銘板です。戦前は海軍機の部品を作っていた
近江航空工業株式会社の部品銘板です。この会社は、戦後にな
り、オーミケンシという生地屋さんに生まれ変わっています。


銘板の機体番号に第十一海軍航空工廠とあり、使用機体が呉
の第十一海軍航空工廠で作られたものである事がわかります。
該当するの機体は、彗星や零式三座水偵、九七式艦上攻撃機
になります。









三菱重工や中島飛行機のような航空機メーカーではなく、海軍
航空工廠が直接製作した機体の部品銘板であり珍しいと言えま
す。まあメーカー各社にだけ頼れないほど機体不足に喘いでいた
海軍が自ら機体製作を行ったわけですが…敗戦までに彗星の
約430機を筆頭に九七式三号艦攻が約180機、零式三座水偵が
約90機と700機以上の航空機を生産したのですから大したもので
す。







立川飛行機株式会社の銘板2枚




立川飛行機株式会社とは、大東亜戦争以前は立川飛行機
という社名で主に帝國陸軍向けの航空機を製造している企
業として知られており、航空機製造活況当時は地元民に「た
ちひ」「たっぴ」と呼ばれ、今も当時から住んでいる人からは
、そう呼ばれています。現在は立飛企業株式会社として生き
残り…東京都立川市に本社を置く不動産賃貸業を営む企業
です。関連会社に新立川航空機株式会社があり、株式を相
互持ち合いしています。
立川飛行機は陸軍機専用メーカーである。中島飛行機の”隼”、”疾風”
”呑龍”や”ロッキード 14L”輸送機などのライセンス生産を大規模に行
っていた。特に一式戦”隼”は…その半数が立川で製造されました。
陸軍の練習機・偵察機などの開発試作を得意としました。昭和5年に陸
軍航空技術研究所のある立川に工場を移転した為、依頼される事が多
かった。最初は初等練習機”赤とんぼ”などを開発・製造していたが、長
距離輸送機のライセンス生産・開発を通じて技術を取得し、大戦末期に
は高高度機の開発にも挑戦しました。立川飛行機は、大戦後、工場を
接収されました。その後、航空一部再開によって航空機製造を再開しよ
うと新立川は、R-52練習機、R-53練習機を製作しましたが、いずれも
時代遅れの技術であり量産には至りませんでした。さらに、フランスから
設計者を招いてR-MH-310練習機を製作しましたが、操縦が非常に難
しい機体であり、やはり量産には至らなかった経緯があります。
機種は不明の部品銘板です。上が昭和17年で下の銘板が
昭和19年の物です。共に陸軍の星章とシリアルナンバーに
検査印が刻印されています。











米国から里帰りしたサイパンの零戦から
     剥奪された品!?(零戦の補助翼の羽布)



1944年11月27日にサイパン島に進駐した米軍の第882
爆撃隊の乗員 Sergeant George H. Monger.氏により
戦利品として零式艦上戦闘機の機体より搾取された物と
の事です。戦後60年を経てアメリカより里帰りした品との
事ですが、表側には部隊名と回収者の氏名、裏側一面に
は第882爆撃機隊員のサイン(約77名)が入れられてお
ります。約60年の年
月を感じさせる塗料のハゲや傷があり
ます…赤い日の丸が印象的です。



額の大きさ 約55cmX42cm
破片の大きさ 約37cmX32cm


グアム・サイパンと言えばマリアナ海軍航空隊で所謂、鵬部隊
と言われた第512海軍航空隊(司令:亀井凱夫大佐:自決後、
少将に昇進)が有名です。鵬部隊は、最新鋭の爆撃機”銀河”
を擁した期待の決戦兵力でした。恐らくこの銀河隊を護衛する
零戦だった思われます。戦後に確認されたサイパン島の零戦
は、32型や52型など雑多な零戦が確認されています。その中
の一機だったのでしょうか。1944年6月のサイパン上陸戦の中
でアメリカ軍はアスリート飛行場を早々に占領し無傷の零戦が
14機以上あったと言われています。うちの何機かは、国内に里
帰りしている事が良く知られています。







零戦二一型の残骸…




詳細は、不明ですがどうもヤップ島に放置された零戦21型を
調査した後に不要となった物らしい品物です。各所に三菱の
マークが刻印がはっきり残っています。その他、数字や不明
の刻印があります。零戦の操縦席と後部胴体を接合する部分
で、ボルト締めされた状態の物です。











前の持ち主が、裏面のみ錆止め処理をしています(表面は、
当時の錆止めが残っています)。処理をする際、青竹色が残
っていた部分は、残すように処理されています。一部リブが折
れてしまっていますが、貴重な品です。



同じヤップ島の零戦の残骸です。上とは、別の
入手経路で手に入れましたが同じ機体だった
可能性が大です。




零戦水平尾翼外板(上面)です。この外板は
ミクロネシア・ヤップ島からの回収品で昭和19
年以降の後期零戦の物と言われています。



零戦五二型の主翼脚作動機構隔壁と機銃穴部の残骸




中島の五二型の主翼の一部(左翼)の残骸です。
製造番号は、中島1439号です。



こちらは、河口湖の零戦のものです。







零戦の残骸(ニューギニア方面の零戦)




慰霊に行った際に親しくなったツーリストのガイド
さんから譲っていただいた品です。ニューギニア方
面の零戦の残骸のようです。
私が過去に撮影した零戦です。このようにニューギニアでも
墜落していたのでしょうか…。







零戦のフラップの一部




原田コレクションの零戦の復元に際し、
型取りに使われた実物部品です。






有名な河口湖自動車博物館を拝観し旧軍機を
撮影したページです。流石に原田コレクションは
圧巻でした。


”河口湖自動車博物館”のオーナーの
原田氏の復元したゼロ戦は、有名です
が上のURLで見に行けます。







零戦の水平尾翼後部の外板と尾輪収納部分の外板




水平尾翼部分は、長さ約80cm。尾輪収納部分で
約50cm位の大きさです。
水平尾翼後部取付部分です。
部位は、左側尾部となります。


尾輪収納部の外板です。こちらも
左側尾部になります。









零戦五二型の残骸






上にある外板は、三菱の零戦五二型甲以降の物で、それ
以外の残骸は、全て18年9月製造の中島の零戦五二型
の品との事です。
主桁は、T型の物が腐蝕しリブが付く面のみが残った物を、リベットの断面を
判るように切断した物です。(断面リベットは上下主桁をつなぐ隔壁を止める
物)当時のリベット加工精度・超超ジュラルミンの腐蝕の過程・アルマイト処理
が確認できます。
マイナス皿ネジは、主翼下面主桁接合部の物で皿ネジ頭部分に灰色が
残留しています。前桁の物か後桁の物かは、はっきりしませんが、バー
ムクーヘン状のアルミ材は超超ジュラルミンが腐蝕の為膨らんだ物です。
ガラス片は第一風防の側面ガラスの欠片になります、
断面を見ると半強化ガラスの層が確認できます。
主翼下面外板で一番リブ直下の外板で、増槽受け口次の
(機体後方)点検パネル横に来る外板で、翼内タンクパネル
との間の外板ですので細長いです。


三菱52甲以降の7番リブ付近の外板との事です。







零戦用緩衝材と各種航空鋲・螺子




零戦機体の各部の接合部に緩衝用と使用されたものです。
実例として、分り難いですが、以下の画像を例に見て見ると
スロットルの基部部分とコクピット枠材との間に使用されて
いるのが判ります。材質は不明ですが、柔らかく無く堅い物
です。大きさは縦横共に約55mm程度です。
下の画像は、旧軍機で使用された大小の各種航空鋲や螺子です。







某有名コレクターの方の放出品
 零戦 62型 中島 82729号機 主翼外板




ゼロ戦復元で有名な某氏の放出品の中島 零戦62型の
主翼外板です。一番厚い2ミリ厚の部材で、脚作動機構
を収める上面の外板のため厚みがあります。元々は、
旧嵐山博物館の展示品だったとの事です。
塗装は、嵐山展示時の塗装事で(3回ほど塗りなおされている)
復元時の塗装。下地の赤茶は、もしかすると一部オリジナルの
可能性が在るのかもしれないとの事でした。裏面は、完全オリジ
ナルでアルクラッド加工されたアルミ板でしたが腐食のため判別
不可能です。この隣に赤字で機体番号下3桁と思われる数字が
書かれていあったとの事ですた。
画像のとおり外板下の日の丸は、該当機の主翼写真です。







某有名コレクターの方の放出品
 零戦 中島52型 昭和19年5月製他 主翼部材等 




こちらも上と同じ某氏の放出品です。ミクロネシアからの里帰り品の
中島52型で昭和19年5月製造の主翼部材と型式不明の零戦残欠で
す。中のアルミパイプは、紛れも無く昭和19年5月製造の中島52型の
零戦のものだそうです。







零戦 五ニ型(三菱製)の操縦席右外板




零戦五ニ型の操縦席右側の着艦フック
巻上げ転把下の縦通材と外板です。内
部側の機内色の青竹色、外部側の濃緑
色(下地赤茶>中塗り灰色>濃緑)が
確認できます。おそらく五ニ型初期の物
でラバウルからの回収品との事です。
す。
この上の写真が縦通材と外板の
実際の状態との事です。







ラバウルの零戦の外板




俗に飴色の塗装が残ったものと言われる品です。
裏には、カタカナと数字の刻印があります。







”紫電改”や”疾風”に搭載された
      誉発動機のピストン(中島飛行機)




かなりいい状態の良いピストンです。惜しい事に一部リングが折れています
が、リングは全部付いています。中島飛行機の、○に中の刻印も小さくあり
ます。直径130mmのピストンは、栄発動機と誉発動機と天風がありますが、
前という刻印があるので複列発動機(栄と誉)のものなのだとそうです。
(天風は、単列)また、中島飛行機製で直径130mmのピストンは、栄発動機
(零戦・隼等)と誉発動機(紫電改・疾風等)しかありません。それで、栄のピ
ストンとも下部の形状が違うので、誉しか有得ないとの事です。内側には、
高温にも耐えれるようにオイルが溜まるよう(熱を吸収)にスリットもあり、高
出力エンジン用のピストンとの事です。









零式三座偵察機11型(E13A)の残骸




こちらも随分前にツーリストのマニアの方
から譲っていただいた品です。主翼の
ジュラルミンの残骸の一部だそうです。
無線機のダイヤルの残骸と、そうした残骸のようです。
南方の山中で墜落した零式三座偵察機の残骸と聞いて
いますが、詳細は、不明です。







一式陸攻(一式陸上攻撃機)の部品の銘板




海軍 一式陸攻の部品銘板です。…上の零戦の
物と同時に入手致しました。
大東亜戦争では、帝國海軍の陸上攻撃機として
全戦線、全期間を通じて戦った主力の中攻です。
余りにも有名なので説明は、割愛します。下の
画像は、特攻機の桜花を腹に抱いた出撃前の
一式陸攻です。











一式陸上攻撃機と思われる残骸(外板)の破片




当初、1942年3月もしくは、6月の攻撃時の一式陸攻のものと
思いましたが、海外サイト(オ−ストラリア)を見ていますと
NORTHERN TERRITORYへの日本側の航空攻撃だけでも約
80数回が記録されています。その中でダーウィン(飛行場・港
湾施設・市内)への攻撃だけで46回を数えています。尚、オー
ストラリア側の記録では、QUEENSLAND地区への日本側bの
航空攻撃は、12回に及び、WESTERN AUSTRALIAでは、15
回に及んでいます。海軍機の爆撃機のようですが機種は、不明
です。ビニールの裏面にロット番号が400までマジック記載され
ていたので日本人相手に相当小分けして作ったような感じで
す(苦笑)。









ガダルカナル島で撃墜された
        一式陸上攻撃機外板の一部




日本機のジュラルミン外板です。1943年(昭和18年)にガダルカナル島
で撃墜された一式陸攻のものとの事です。青竹色が塗られた表面に2
枚の紙のシールが貼られ、”1943年にガダルカナルで私が日本のベテ
ィー爆撃機から切り取ったアルミ片”という手書きの文字があります。ま
た、銀色の面にも同じようなことが(”私”ではなく名前になっていますが
)サインペンで記載されています。米軍の大戦中の記録を読むと、九七
重爆をベティー(一式陸攻)と誤認したケースがしばしば見受けられます
が、場所がガダルカナル島であれば、これが本当の一式陸攻のもので
ある可能性はかなり高いと思われます。こうした日本機の残骸では、青
竹色がこれほどきれいに残っているのは珍しいと言えます。殆どが長い
間、風雨にさらされれており色が落ち朽ち果てています。こうした色合い
のしっかりした物は、米兵が墜落後に記念に切り取り記念のプレートな
どにしたケースが一番多い気がします。
青竹色の外部に面する面に”SDC…”の文字が残って
おります。これは旧軍航空機のジュラルミンの裏側に印
刷されるステンシル文字で、旧軍のものである事は間
違いないと思います。因みにSDCHは、超ジュラルミンの
曲げ加工をした物を指します。曲げ加工のしていない物
は、SDCRのステンシル文字が印字されます。







一式陸攻と思われる外板の一部




ニューギニアにて回収されたものです。画像のように
裏に三菱の機体番号があり、青竹色も良く残ってい
ます。









一式陸攻11型(G4M1)の前部7.7mm機銃用窓の固定枠




ステンレス製です。ずつしりと重量感がありますが
状態も良く65年以上の歳月が経過した事を感じさ
せない美品です。
このパーツの機体は、戦後にガダルカナル島で発見され
所属、搭乗員も判明しています。戦友会などの会報では
広く紹介されておりますが、ご遺族の御意向もあり詳細は
伏せさせていただいてます。








まさに機種のこの穴の部分に
使われたパーツです!!
葉巻の愛称で親しまれた美しい機体の一式陸攻です。敗戦までに
2千8百機以上が生産されました。双発の攻撃機・爆撃機としては
海軍で一番生産され活躍した機体と言えます。緒戦の大勝利の栄
光と敗戦期の桜花を抱いた哀しい特攻も敗戦使節を運んだ緑十字
機もまさにこの一式陸攻でした。この大東亜戦争での大日本帝國

の栄枯盛衰を名機・零戦と共に象徴する機体と言って過言で無いと
思います。







海軍 一式陸攻の翼内燃料タンク




かなり大きいです。先の持主の方が同時に出た品が肘掛付
の座席で彩雲の物と判断されたようですが、翼内タンクであ
る事は、間違い無いですが、のかなりの厚みで単座機の物
では無いようです。インテグラルタンクを採用した一式陸攻が
最も可能性が高いと思われます。そうであれば同時に出た座
席も一式陸攻のものと判断されます。よく見ると翼の外版に直
接つけていたようです。軽量化の為とはいえ、ちょっと恐ろしい
構造です。外で長くあったらしくジュラルミンには、錆が発生し
ています。
高さがさはそれぞれの位置で異なりますが、高さ:47cm、
44cm、33cm、30cmです。全長は、98cm、全幅は、72cm。
昭和18年採用の彩雲は、気難しい新型で2千馬力級の誉エンジンと推力
排気管の採用で我国で最速の高速機となりました。外観は、天山に似て
いますがもっと細長い胴体をしています。武装も後部の旋回機銃(7.7o)
が1丁のみ。これは最高速度が敵戦闘機から容易に脱出が可能である事
を意味していると思われます。また驚異の3000kmの航続距離は、胴体内
タンクに一式陸攻と同じ主翼内インテグラル・タンクの採用の為でありまし
た。爆撃機と違い、戦闘機に出くわす可能性もかなり低く、しかも高速を活
かせば危険である主翼内タンクの体積が広くても被弾火災の可能性が低
いとの判断からだと聞き及びます。また彩雲は零戦の半分の鋲数で済む
ほどの簡素化を実現しています。そうした事でやたら大きく感じたジュラル
ミン製タンクが主翼に入った事が納得します。
十七試艦上偵察機として設計・開発された中島の傑作高速艦上偵察機
が”彩雲”です。愛知県半田で作られた彩雲は、追撃する米軍機を振り
切って、「我に追いつくグラマンなし!」と打電した事は、あまりに有名な
話です。
   *中島 艦上偵察機「彩雲」一一型(C6N1)*

全幅: 12.50m
全長: 11.15m
全重量: 5.3t
発動機: 中島”誉”12型空冷星型複列18気筒 1825HP
最高速度: 609km/h
上昇力: 7分36秒/6000m
航続力: 3080km
兵装: 7.7o機銃×1
乗員: 3名








海軍機のものと思われる座席




座席の各所に濃緑色の塗料が残っています。勿論、
座席なのでプレート類は、ついていません。

   サイズ:幅42cm、奥行36cm、高52cmです。
座席の底の部分に”SDCH”の文字が残っております。
これは旧軍航空機のジュラルミンの裏側に印刷される
ステンシル文字で、旧軍のものである事は間違いない
と思います。おそらく床面か、上下調整のポールに固定
する爆撃機などのものと思われます。
詳しい方に見てもらいましたが、機首は、
特定できませんが座席の形状と”SDCH”
のスタンプタイプが三菱の物と違うの
で一式陸攻には該当しないとの事です。


海軍十八試甲戦闘機”陣風”
(川西製)のコクピットです。







九六式陸攻(中島製)の外板破片




難読ですが”六 陸攻 二  島 337”とステンシル文字が
書かれた外板です。九六式陸上攻撃機の外板の一部です。











海軍 二式大艇の羽布




この羽布は、鹿屋の同機が日本に
返還された時の修復時処分品です。











海軍機のパーツ




前後にしか可動しないレバーです。長さ的にも
操縦桿などとは違い、フラップ切替弁操作レバ
ーのようなものと思います。
油圧式になっており、まだ生きています。中の円筒部から
の目だった油漏れもありません。前の方にワイヤーを掛け
る穴があります。17の刻印は、昭和17年製造を意味する
と思われます。63年の時の経過を感じさせないスムーズな
動きに感動します。


どうも海軍機の物である事は、間違いありません
が…単座機の物では無いようです。







海軍 局地戦闘機 "雷電" 
         の操縦桿の配線












前所有者の持っていた、この雷電の操縦桿と
一緒に配線があったもので海外からの里帰り
品です。
雷電のコクピットです。







零戦の操縦桿握り部分の精密レプリカ




零戦操縦桿上部のレプリカです。

まだ無塗装の品ですが実物に
合わせて色を塗ってみようと考
えております。
実物からの成型品で、上の実物操縦桿から
シリコンで型取りして、型へエポキシ樹脂を流
し込み造ったものです。以下となります。







海軍艦上爆撃機 彗星 (D4Y1)または、
   二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)の銘板




機体名等ありませんが、空技廠で02.9.28
は皇紀2002年(昭和17年)の9月28日を
意味しますので艦爆”彗星”の試作機か高
速偵察機として誕生した二式艦上偵察機
一一型ものと思われます。
時期的に見ても彗星や二式艦上偵察機の銘板は、
非常に珍しいものと思います。
昭和15年にDB 601Aエンジンを搭載した試作型が5機
生産されました。昭和17年、試作型のうち3,4号機は
爆弾倉にカメラを搭載した偵察機に改装され空母”蒼龍”
に搭載され、一機が南方作戦中に墜落し、残る一機は、
運命のミッドウェイ海戦に参加し米機動艦隊発見という
大きな戦果を挙げたましたが、帰投後に母艦と運命を共
にしました。量産は、昭和18年6月からで機体強度を向上
させた艦上爆撃機”彗星”一一型(D4Y1)として生産され
ました。







珍しい二式艦上偵察機(D4Y1-C)の銘板




二式艦偵11型の銘板です。生産数は艦爆”彗星”と一緒に組み
込まれてしまい正確な実数は知られていませんが謂われてる俗
説では300機とも350機とされています。生産数が少ないので
銘板も出回る事が少なく希少なものと思います。銘板のシリアル
番号は312号です。340〜350機の生産としても最末期の生産ロ
ットと思われます。
十七試艦爆として試作された五機のうち三・四号機を改造の上
実用試験の意味で空母”蒼龍”に搭載、ミッドウェー海戦で索敵
に出動した。その機は母艦の撃沈で失われたものの、その高速
性能は高く評価され、艦爆”彗星”の誕生の前一足先の昭和17
年7月に制式採用されました。比類なき高速性能を誇った後継の
艦偵”彩雲”が誕生するまで太平洋の全域で使用された名機と
謂えます。
東海飛行機は主に航空発動機を製作した会社で
現在は、アイシン精機としてトヨタなど自動車部品
やミシンなどを手掛ける企業として生き残っていま
す。
横須賀海軍航空隊に配備された二式艦偵11型”ヨ-25”
です。この型は下の画像のように望遠鏡式照準器を操縦
席のキャノピーに見えないので初期生産型の機体だと判
ります。対して後期の生産型は照準器が付くので彗星と
見分けがつきません。尚、下の写真は昭和19年にマリア
ナ諸島で撮影されたもので両翼に増槽と爆弾倉に当たる
部分に半分埋め込むように330Lの落下増槽を搭載して
います。この状態を”偵察過荷”仕様と呼び約3,400kmの
最大航続距離を誇ったと謂います。











窒素・大気レバー(陸軍機)




陸軍の検印があるレバーですが、 海軍機も
使用しています。(艦上攻撃機”天山”も同じ
形のレバーを使っています。)
このレバーは、離陸前に水平 儀を動かす為に、
窒素ガスを計器に送るのですが、ある程度速度
がつくと大気に切り替 えるレバーです。
以下は、天山のコクピットの再現画ですが
赤の↓部分が、このレバーのあった部分と
思われます。







陸軍 三式戦”飛燕”のパーツ






飛燕の滑油タンク(内部)です。この飛燕は、土佐清水沖で
引き上げられて嵐山博物館に展示されていた物です。フット
バーと書かれたプラッチック板がぶら下がっていた物です
三式戦 飛燕







三式戦 "飛燕" と言われているいる羽布の一部




A4サイズの里帰り品です。裏にJapanese Bettyと書かれて
いますが、一式陸攻ではありません。三式戦”飛燕”のものと
言われてます。
赤色の部分は、部隊マークと思われます。同じ部隊の
無塗装にまだら迷彩の機体なら、羽布は灰色に塗られ
ている可能性があります(その様な機体の部隊もあり
ました)。








三式戦”飛燕”の排気管




飛燕の排気管です。但し、墜落した機体のものなので、出口の部分が潰れて
ペシャンコになっています。腐食穴もあり程度は、良くありませんが、珍しいと
思われます。意外と触っても叩いても崩れないし、かなりしっかりしていて、し
かも重いです。




所沢の航空博物館に展示されている飛燕の
ハ-40です。こちらも潰れていますが同じ排
気管が良く判ります。







小さな小さな破片となった
      九七式戦闘機のキーホルダー




太刀洗にて保存復元する際に出たジュラルミンのかけらを
キーホルダーにして太刀洗平和記念館で販売された物の
ようです。
       九七式戦闘機(中島キ-27)

・乗員  /1名      ・エンジン/中島八−1乙650hp
・全幅  /11.30m     ・全長  /7.53m
・主翼面積/18.56m2   ・自重  /1130kg
・最大速度/460km/h   ・航続距離/627km
・上昇限度/12250m   ・武装  /7.7mm機銃2挺(固定)







海軍 九三式中練の大型羽布
       (九三式中間練習機: K5Y)




拡げると2〜3mあります。
かなり薄汚れて穴が空いていますが、まだ柔らかく折り畳めます。


これが所謂、赤トンボの羽布です。
    九三式中間練習機(データ)

全長   8.05m
全高   3.20m
全幅 11.00m
自重 1.000kg
最大重量 1.500kg
最高速度 236km/h
上昇限度 7.510m
航続距離 1.100km
プロペラ 固定ピッチ2翅
発動機 日立"天風"一一型
       空冷星形9気筒(300馬力×1基)
乗員数 2名
総生産機数 約5.600機
武装 7.7ミリ機銃×3
   30kg爆弾×2








零戦の主輪各種!!






タイヤは初期型のバルーン型でリブ溝はありません。
サイズは、600×175です。4.5kg/cm2の空気圧が
見れます。初期の21型〜22型用と思われます。しっ
かりとした作りと意外に軽い作りは…約60年もの時の
流れを忘れさせます。…このタイヤの機体がどんな想
いの搭乗員を載せて蒼空を駆けたかを考える時、感
無量の想いが致します。


このタイヤは、零戦のものですがホイール
は、戦後の民生品でタイヤを物資不足の
時代に再利用したようです。このホイール
には、ブレーキドラムがありません。零戦の
ホイールは、以下の画像のものとなります
(画像は、A6M232様の所蔵のものです)。

零戦のタイヤとホイールとなります。


敗戦時にタイヤが余った為、民生品利用で
ホイールを急増した部類の物で…恐らくは、
リヤカー代わりに使われたと考えます。






世界的にも有名な稀代の名機…零戦!






その後に手に入れたオリジナルホイールの主輪です。
こちらも長らくリヤカーとして使用されたようです。
600×175に4.5kg/cm2、ブリジストンを示すBS
マークがあります。







大井海軍航空隊跡地から出土した
     海軍機上作業練習機”白菊”の尾輪!






このタイヤは静岡県の牧ノ原の旧大井海軍航空隊の偵察搭乗員
を養成した旧飛行場跡地付近から出たものです。機上作業練習機
”白菊”を本土決戦用に昭和20年3月に特攻用に改造しました。
ホイールは使用済みですが、タイヤは未使用のようです。チュ-ブ
は装備されていません。タイヤとホイールには画像の通り、鋳込み
刻印が有ります。タイヤ部分”日本タイヤ株式会社・4-8・250x80
・4H11859・尾輪”ホイール部分・検査マーク”丸ニ九・桜・丸ニ20
”メーカ・製造番号”株式会社・渡辺工業所・NO.61573”日本タイヤ
は、現在のブリジストンです。250x80は、タイヤの大きさを示してい
ます。尾輪は、特定機種に使用とは限りませんので、単座機以外の
中型機にも使用したものと思われます。尚、このタイヤは、平成16
年7月に出土したもので、旧牧の原飛行場は、現在「静岡空港」とし
て工事中で、土工事の滑走路の造成工事の進捗状況は58〜60%
位だったそうです。その拡張工事で民家の跡から出た物だそうです
。ホイールには、赤土が詰っていたそうです。タイヤの大きさから
当時、海軍の大井航空隊で使用された白菊である事は、まず間違
いないようです。画像は、タイヤを水拭きして写して有りますが、
画像からも未使用品のタイヤである事が判ります。


機上作業練習機”白菊”は、可憐な草花の名で呼ばれた海軍の偵察
用員の練成に用いられた操縦士以外の搭乗員訓練用機体でありまし
た。その最大速度は僅か230km/h足らずしかありませんでした。しか
し大戦末期、爆弾が積め、航続距離もある量産向きの練習機である
という理由で白菊は、特攻機に改造され、250kg爆弾2発を搭載し、
大戦末期の九州、沖縄方面で特攻作戦に従事しました。この白菊は
、零戦、彗星に継いで多かった特攻機として名を残した悲しい翼の
機体でした。

   機上作業練習機”白菊”11型〔k11w1〕主要データ

 全長 10.24m 全高 3.93m
 全幅 14.98m 翼面積 30.50u
 自重 1.677kg 最大重量 2.644kg
 最高速度 226km/h( 高度1.700m ) 上昇限度 5.620m
 航続距離 1.170km プロペラ 木製固定ピッチ2翅
 発動機 日立「天風」21型空冷星形9気筒 公称450馬力×1基
 乗員数  5名 総生産機数  798機
 武装 7.7mm機銃×1、30kg爆弾×2







陸軍 五式戦闘機(キ-100)の尾輪(二本)




上下とも岐阜で出た五式戦の尾輪と思われます。
ゴム部分に”昭和20年5月製 250×100 No”と、
入っています。実測も直径25cm、幅10cmです。ホ
イール部分は直径10cmあります。尾輪の左右とも、
同じ製造年号となっています。
尾輪は、ソリッドタイプで、中までゴムの詰まった物。飛燕の
尾輪のデーターでは、200×75であり、このタイヤは250×
100と一回り大きくなっています。五式戦も同サイズとされて
いますが、型式でサイズを変えたか、五式戦で若干の大きさ
を変更したようです。昭和20年5月製の製造から考えても戦
闘機用尾輪タイヤだと考えて間違いないようです。






この状態で出て来たそうです。岐阜は川崎航空がありましたので、
出てくるのは殆どが三式戦”飛燕”のものだそうです。戦後尾輪を
二個連結して、荷物運搬機に使用していた状態です。主輪は比較
的出ますが、尾輪は滅多に出ないそうです。考えてみると、この画
像のように戦後の物資不足で活用され易いサイズだったからと推測
します。主輪は、でかすぎて重いので使い勝手がなかったのかも知
れません。



五式戦闘機は、昭和20年に陸軍最後の正式戦闘機
として採用されました。御存知のように三式戦”飛燕”
は慣れないダイムラーベンツの水冷エンジンで故障が
多く川崎重工はエンジンを空冷に換装して五式戦闘機
をデビューさせました。最高速度こそ飛燕に比べ30km
程低下しましたが機体の軽量化に成功し上昇速度は
飛燕を上回りました。また運動性能も向上し急降下速
度も海軍の零戦を大きく上回り、搭乗員はその性能に
喜んだと言われています。大戦の最末期の本土防衛に
活躍した名機であります。







海軍 双発機(大型機)の尾輪




海軍の尾輪(タイヤは米国製)です。こちらも里帰り品ですが
尾輪のホイールに海軍の刻印がたくさんありますが、機種を
限定するまでに至っていません(大型機の尾輪には間違い無
く単発機用では、ありません)。







陸軍九七式戦闘機(キ-27)の主輪




中島飛行機製の九七式戦闘機の車輪(主輪)です。
平成18年8月15日の神戸新聞にこの車輪の記事が掲載されています。
その内容によると、大戦末期に尾上飛行場(兵庫県加古川市)に所属し
ていた九七式戦闘機の車輪で戦後に近隣の農家で荷車の車輪に代用
されていたものを譲り受けたもののようです。元所有者の方が何処かの
資料館や展示に貸し出ししたようで展示用の説明パネルも一緒にあり
ます。サイズは、600×175。ブリジストンのBSマークもあります。

















前のオーナーの名前は消してあります。






戦後しばらくまでは残されていた加古川空港の空中写真です。
下は拡大画像です。三角飛行場と謂われたのが良く判ります。

              ◆加古川飛行場(尾上飛行場)◆

昭和12年 に陸軍が主に戦闘機による関西地区の防空および少年飛行兵の
訓練の拠点として開設しました。建設された町名をもとに「尾上飛行場」とも
通称されました。 また3本の舗装滑走路が三角形状に連結された特徴的な
構造から「三角飛行場」とも呼ばれました。基地には飛行第13戦隊、飛行第
246戦隊,第1教育隊などが展開し97式戦闘機などが運用されました。また航
空分廠なども設置されるなど大規模な一大航空基地でありました。大戦末期
の昭和19年10月頃からは各地の陸軍基地から知覧基地に向かう特攻隊が
集結・燃料補給拠点として多くの特攻隊員が立ちより、また当基地からも数次
の特攻隊(第76,213,214神武隊)が出撃しました。

昭和25〜28年位までは滑走路が現存し、藤田航空による小型機の遊覧飛行
に利用されたり、自衛隊がトラック運転の訓練所として利用するため一時駐屯
したこともありましたが、現在跡地はオーミケンシの加古川工場や商業地、住
宅地になっており当時を忍ばせるものはほとんど現存していません。基地の面
前にあった旅館「中村屋」は出撃前の隊員の慰安施設として利用されており隊
員が残した遺書などとともに慰霊碑があったが旅館の取り壊しとともに近在の
鶴林寺に移設されました。

当時の主な概要は以下のとおりである。

・面積 :約1,170,000平方メートル

・滑走路

・全長2,750フィート、幅325フィート (舗装)
・全長1,850フィート、幅325フィート (舗装)
・全長1,700フィート、幅325フィート (舗装)
・全長4,500フィート、幅1650フィート (非舗装)
・全長3,700フィート、幅1650フィート (非舗装)

                
               
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』












陸軍 一式戦 ”隼” U型改(キ-43U)の主輪




日本タイヤ株式會社(ブリヂストン)
570X190
4,5kg/OM2 6暦?
昭和18年12月製

の記載のあるタイヤです。

戦時中に陸軍の旧立川飛行場に不時着した飛行機から
車輪を外した人が保存していた隼の主輪です。
隼の主輪は、タイプにより560×190〜570×190となります。
この主輪と同じ隼の主輪が所沢航空発祥記念館に展示されています。
隼のU型改です。同じ主輪が使れているのが判ります。


海軍の零戦と並び評される陸軍の”隼”戦闘機です。









一式戦”隼”のものと思われる
   大刀洗製作所の製造の尾輪




零戦の尾輪としてヤフオクで出品された品です。サイズ的には零戦の
尾輪と一式戦”隼”が頭に浮かびます。海軍機に特徴的な刻印である
〇△や桜の刻印も無いので陸軍機と判断して隼と判断しましたが。こ
れまで海軍機の零戦は主輪及び尾輪で一機分、三式戦”飛燕”に四
式戦”疾風”と五式戦も一機分ずつ揃っていますが…一式戦”隼”は
まだ主輪のみで尾輪だけが欠だったので…高値になりましたが入手し
ました。二式複戦”屠龍”の尾輪は入手済みなので…後は、二式単戦
”鍾馗”の尾輪を残すのみです…。




また大刀洗製作所の刻印のある尾輪自体が珍しいので…これだけで
も買いでしたがソリッドのゴムは相当に使い込まれて減っているので
戦後長らく何かに使われていたようです。尾輪は小さいので主輪のよ
うにリヤカーのタイヤなどに代用され使われるケースは少ないのですが
私の入手した五式戦の尾輪のように小さな車輪を両側につけて使用し
ていたケースもあるので同様に使われていたものかもと想像します。




海軍の航空機部品から機体製造まで手掛けた福岡の渡邊鉄工所が
昭和12年に大刀洗に進出して作ったのが大刀洗製作所です。すぐに
陸軍機の修理と部品製造も受注するようになります。昭和19年には
大刀洗航空製作所になり陸軍機の製造も始めました。本家本元の福
岡の渡邊製作所もまた昭和18年に航空機部門を九州飛行機に…水雷
兵器製造部門を九州兵器に改称して二社に分離しています。この海軍
機製造を手掛ける九州飛行機は十八試局地戦闘機”震電”(J7W)を製
作した所で知られています。下に掲載した尾輪のように九 飛 (九州飛
行機株式会社の刻印のある尾輪も珍しいと思います。

この九州飛行機は局地戦闘機”震電”を製造したことでも
知られた海軍機製造メーカーです。


実際にソリッドのゴム部を触るとかなり歪な形なので改めて感じたのは
太刀洗製作所も何度か空襲に遭遇していますので、その際にゴム部が
熱せられて溶解した可能性も否定しきれないと思いました。


太刀洗製作所の太マークの刻印が2か所あります。上の真ん中の
刻印は…不明の刻印です。









陸軍 三式戦 ”飛燕” (キ-61)の主輪2本




タイヤは、飛燕のものですが残念ながらホイールは、
戦後の民生品の再利用品です。
サイズは、”600×175”で三式も五式も同じですが、三式戦後期に
使用した車輪軸の露出した軽量タイプを使用したようです。タイヤの
側面に”昭和19・3月製 横浜護謨製造株式会社 600×175”の
刻印があります。タイヤはエアーの抜けた状態です。
三式戦 飛燕



こちらは上のタイヤとは違う、オリジナルホイールに
ホイールカバーまで当時のまま付いています。ブリジ
ストン社製でBSマークが確認できます。年号の刻印
はありませんが、昭和十九年前後のものとの事です。
ホイルカバーには当時の塗装まで残っています。空気
入れのカバーまで完全な当時のままの状態です。上の
画像からも判るようにゴム部に”600×175 常用圧
4.5kg/cu ブリジストン社のBSマーク”の印が入っ
ています。


ホイール部に”キ−61”の刻印があります。画像のように
”キ−61 105165 T 600×175”とホイール部に
刻印があります。
タイヤの上に乗っているのはベアリングで
これもグリースが入って生きています。







陸軍 四式戦 ”疾風” (キ-84)の主輪






ブリジストンのBSマークが読み取れます。このBSマークは、1931年の創業から
使われているそうです。


大東亜決戦機と言われた疾風です。





四式戦 ”疾風” (キ-84)一機分
         の主輪・尾輪のタイヤセット




疾風の尾輪です。


尾輪は、塗装はされていないので、画像のままです。
四式戦闘機”疾風”の主輪2つと尾輪1つ、いわゆる1機分です。
主輪です。画像の物が2本あります。車輪は、2本ともオリジナルの
ホイルカバーが付いたままです。ベアリングもまだ付いています。
またベアリング廻りの部品には当時の黄土色が残っています。







海軍 艦上攻撃機”天山”(B6N)
    または、陸軍 二式複戦”屠龍”
          (ki-45改) と思われる主輪




残念なことにホイールは、オリジナルでなく戦後の代用品です。
タイヤサイズ”800×280”は、かなり大きいです。零戦や隼、疾風などの
戦闘機用の主輪に比べても一回り大きいです。タイヤには、”流線型 
800×280 常用気圧4.5kg/平方cm 10層 アラ
 アア”との刻印があります。”アラ アア”は、”ア”が1で、”ラ”が9番目で
すから、19年11月の暗号かと思われるとの事です。”800×280”のサ
イズは、海軍の”天山”が”800×280 高圧流線型車輪”で該当します。
陸軍機では、”屠竜”が同じサイズです。特別な試作機などを除き量産機
では、この二機種が最も可能性が高い気がします。大戦末期には、海軍の
錨の刻印も陸軍の星の刻印も省略されている場合も多々ありました。
ありし日の天山
天山の主輪部分


屠竜とその主輪







二式複戦 屠龍 の尾輪




残念なことにホイールは敗戦直後で
民生品に置き換えられています。









零戦の物と思われる
     海軍(単発)機の尾輪




ソリッドタイヤは割れも無く良好。ホイルに朱色が
残っています。サイズは150o×75o、サイズ的
には”零戦”、”雷電”、”九三式中練”などに該当
します。零戦の物とは断定できませんが…九州飛
行機が製造した海軍機の部品でサイズ的に考え
ると零戦と考えるのが無難のようです。










タイヤのゴム部にもホイールにも刻印等の記載がたくさん
なされています。明らかに海軍と判る刻印に製造番号も
読めます。






上の零戦尾脚柱と尾輪の組み合わせは
河口湖自動車博物館の零戦21型と同じ
ですが、下では少し異なります。
上は名古屋三菱重工航空宇宙システム製作所
の零式艦上戦闘機52型甲の尾輪です。下は
靖国神社の遊就館の零戦52型の尾輪です。








零戦の油系ポンプ継ぎ手部品




ソロモン諸島バラレ島からカナダのマニアにより持ち出された零戦の
部品です。その後、カナダで数機の飛行可能な状態に復元された
零戦の残骸からの回収品です。油系ポンプの継ぎ手と思われます。
長さは11cm。本体に”246”、”2中?”、”ユ”(丸の印の中に)など
小文字の刻印があります。英文説明タグが付いています。













陸軍 二式複座戦闘機”屠龍”
     (平成八年に発掘された)
       のエンジンパーツや部品と残骸など










平成八年に千葉県八千代市神久保で発掘された二式複座
戦闘機”屠龍”のエンジンパーツです。その半分は自衛隊
入間基地に展示されていますが後の半分は那須戦争博物
館に展示されております。このパーツは、特別に前の収集
家の方が譲渡していただいた物です。


このエンジンパーツの残骸の機体は、昭和20年1月27日帝都に来襲した
B29の大編隊を迎撃するため水戸陸軍飛行場をこの屠竜が発進しました
。午後1時過ぎ、船橋上空において敵大編隊を捕捉、果敢なる前方攻撃
後、反転し後方より覚悟の体当たり攻撃を敢行これを撃墜しました。同時
に本機も火を噴き、必死に操縦するも遂に力尽き、直撃必死と思われ
、民家を急旋回で回避、近くの水田に深く突入し乗員は2名とも散華されま
した。操縦士は小林雄一軍曹(小飛10期・兵庫県出身)、通信士は鯉淵夏
夫兵長(小飛14期 ・茨城県出身)であります。
この偉勲に対し感状が授与
され、それぞれ少尉・准尉に特進、全軍に布告されています。時に小林軍曹
20才、鯉淵兵長18才でありました。
戦後51年目にして発掘された屠龍は、
遺骨とともに収容されました。ちなみに屠龍は、双発で操縦席の前にエンジ
ンがないため操縦席は炎上しないで残っていたとの事で遺体は炭化せず一
部、死蝋化〜ミイラ化した状態で飛行服を着用したまま発掘されたとの事で
す。




同上機の外板部品の残骸






屠龍の外板部品の残骸です。この機体は、上の機体と
同一です。現在、A6M232(中村様)から御譲り戴いた
品です。A6M232様が船橋郷土資料館で展示の準備を
行っております。御遺族への対応など頭の下がる素晴ら
しい活動をされています。以下のバーナーをクリックする
とA6M232様のHPが開きます。


同じ屠龍のジュラルミン片の残骸です。
屠龍の残骸で川西の刻印と陸軍刻印が入った配管です。


屠龍の迷彩部分色付き外板片と日の丸部分外板片




新たに入手しました同機の品です。




上の画像の左の黒ポイ二本は、ラジエターのパイ
プです。右のは、燃料タンクに接続されていた金属
管です。
上の方は、プラグコードの一部です。その下は
エンジンの残骸と思われます。
防弾ゴムの残骸の一部です。
不明の残骸
不明の残骸
迷彩緑の塗装が残った外板の一部です。
下は、拡大した画像です。







陸軍 九七式重爆撃機(三菱 Ki−21)の操縦桿




陸軍の九七式重爆撃機の副操縦士用の操縦桿です。斜めに曲がった
ような形をしているのは、コクピットの右側の壁から突き出すようにつけ
、その下を通って爆撃手が機首に行けるようにする為です。アルミ製の
ハンドル(幅約36cm)はかなり腐食していますが、太い支柱(ステンレ
ス製)はかなりきれいな状態です。中で錆び付いたらしくハンドルを動か
す事ができませんが、分解できれば修復できるかも知れません。ただ、
分解できそうな箇所がいくつかありますが、専用の工具が必要なようで
す。付け根部分には、床板への取付部や操縦索が走るパイプなどが
ついており(一部は、可動します)ます。その付近は、かなり錆びがありま
す。高さ:約1m、重量:11kg程です。

U型のコクピット内部です。右の副操縦士席の操縦桿
がまさしく同一の物である事がわかります。
三菱のマークにチ504の数字の刻印、他に
○にK、Jの刻印が読み取れます。
ありし日の九七式重爆撃機


この副操縦士の操縦桿は、豪州軍兵士が戦争終結後に帰国する際に
記念に持ち帰った品との事です。九七式重爆は、老雄の九三式重爆に
代わり、日華事変の初期から大東亜戦争中期に掛けて帝国陸軍航空
部隊の主力重爆撃機として全前線で広範囲に活躍しました。大戦中期
以降は、新鋭の百式重爆や四式重爆が戦列に加わりましたが、敗戦ま
で九七式重爆は、戦い続けました。その行動範囲は、満州、支那全域、
仏印、泰、マレー、ビルマ、印度、蘭印、豪州、ソロモン、ニューギニア、
比島、台湾、沖縄、朝鮮、樺太、千島と全地域の及びます。この為、この
操縦桿の機体がどの地域のどの部隊かは、特定できませんが想像する
には、南東方面(ソロモン・ニューギニア)の航空戦では、18年2月にこの
地域に進出したのは、飛行第14戦隊の九七式重爆です。海軍航空隊と
協力して連合軍と戦っています。この部隊は、18年11月には、戦力を消
耗しつくし蘭印・西部ニューギニアへ転進しました。19年2月に飛行第60
戦隊が東部ニューギニアへ進出、ホランジア基地を中心に航空撃滅戦を
演じて同年4月には、消耗しつくし比島へ転じています。また先に記載し
ました飛行第14戦隊の残存部隊は、19年5月から20年2月まで計4回に
渡り、東部ニューギニアに孤立した第18軍に対して緊急軍需物資の空輸
を行なっております。この辺の部隊の機体であった可能性が高いのでは
と想像しております。
九七式重爆のまさに同じ副操縦席の操縦桿です。




操縦桿の基部、もぎ取られた根元部分です。


九七式重爆撃機”データ”

九七式重爆撃機一型甲
            (キ-21-T)

 
 全長 16.50m
 全幅 22.50m
 全備重量 7573kg
 乗員 7名
 出力 950馬力2基
 最大速度 432km/h
 航続距離 2700km
 武装 7.7mm機銃4門
      爆弾1000kg

九七式重爆撃機ニ型乙(最終生産型)
               (キ-21-U)

 全長 15970m
 全幅 22.50m
 全備重量 9710kg
 乗員 7名
 出力 1500馬力2基
 最大速度 478km/h
 航続距離 2400km
 武装 12.7mm機銃1門
     7.7mm機銃6門
       爆弾1000kg
生産機数 2054 機
昭和十年に陸軍は、三菱・中島両社に九三式重爆撃機の後継機試
作を指示しました。試作された三菱・中島両社のキー19は、性能的
に大差も無い事もあって、機体は、三菱、発動機は、中島という形で
キ-21として新たに三菱に発注されました。その後、機体の設計に対
し陸軍側から厳しい要求が相次ぎ試作機を大きく設計変更した機体
を量産型として配備される事になりました。日華事変中期から大東亜
戦争の敗戦に至るまで陸軍の主力重爆撃機として活躍しました。重
爆撃機として、速度重視が優先された為、全体に小型化され爆弾搭
載量も少なく航続距離も短いものとなりました。陸軍としては、搭載量
不足を反復攻撃で補う事を念頭にしていたようです。九七式重爆撃
機は、陸軍の重爆の中で最も生産機数が多い機体でありました。初
期には、高速を誇った九七式も大戦後期になるとその速度で優位を
保つ事が出来なくなり次第に大きな損害を出していきました。







キ-105 試作輸送機”鴻” の木製桁




キ-105の木桁を三分割してもらった物です。何しろ木桁といっても
3m以上の長さになるので搬送もそうですが、収納するのも嵩張って
困ります。







試作輸送機”鴻”(キ-105)は、昭和17年に試作された大型輸送用グライダー
”ク-7”の設計を流用し発動機をつけた大型輸送機です。結局、戦局の悪化で
試作輸送機の試験機9機の生産だけで終りましたが、陸軍としては、昭和19年
に七t級の軽戦車または、同等の物資・兵員を輸送できる木製金属混成の大型
輸送機の開発を計画、”ク-7”の設計を流用した機体の開発を日本国際航空に
指示しました。そこで双胴・双発の1000馬力級のエンジンを付け、若干機体設
計を加えた試作機が昭和19年末に完成しました。しかし戦局が悪化すると南方
から石油を輸送するタンカーが多数沈められ、軍部としては、当機に南方で石油
を満載したドラム缶26本を搭載させ本土へ輸送する計画を立てましたが、制空権
の無き空輸作戦は、無理と判断。その後の本土空襲により工場が被爆した為、
試作機を含めた少数しか生産されず、稼働する事は、ありませんでした。


          =試作輸送機"鴻"(ki-105)のデータ=

全長 19.92m
全高  5.90m
全幅 35.00m
自重 7.080〜8.000kg
最大重量 10.380〜12.500kg
最高速度 300km/h
上昇限度 不明
航続距離 1.500〜2.500km
発動機 三菱九九式"二型(ハ26-II)空冷複列星形14気筒(950HP×2)
乗員数  4〜5名
生産機数  9機
武装    なし
こちらは、航空コレクターの某氏の所持
していたキ-105の木製扉です。







火星発動機の工具箱




火星エンジンの工具箱(400X630X350)です。
流石に大きくて重いです!!
工具箱は、リペイントされていますが、元の色
(元々、青メタ色)に塗ってあります。

火星一○型エンジンは、1500馬力空冷の発動機で
三菱重工の大型機用のエンジンです。主に11型で
一式陸攻のエンジンで使われています。空冷星型
複列14気筒の1530馬力。







機種不明の旧軍機のエンジンの部品




発動機とぺラの間に噛まされている部品です。かなりの重量があります。
側面に刻印がありますが、難読です。
”イ234 乙  ト7518  N7008”
と読めそうです。

上は、排気タービン付ですが五式戦です。下は、飛燕のハ-40です。
五式戦のぺラを外した下に見えるのが、ネジ穴八個で同じような感じ
に見えます。







金星発動機の燃料ポンプと水噴射機の銘板




三菱の百式司偵や海軍の彗星につけられていた金星発動機の燃料ポ
ンプと水噴射機の銘板です。面白いのは、水噴射の銘板に8TCという
刻印を押した跡があるのですが、8TCは陸軍用の番号で、この銘板が
海軍の錨マークもあることから使いまわされていたことが判る事です。












九九式襲撃機・軍偵察機の計器板(レプリカ)
       (Ki-51)








上の図は、キ-51のコクピット内部です。
上のレプリカと配置が同じなのが判ります。
九九式襲撃機はによって三菱重工業が開発し昭和14年に正式採用。
生産は三菱を中心に昭和14年から大東亜戦争全般にわたり行われ
派生型として生まれた九九式軍偵察機(開発番号は同じくキ-51)と
併せて敗戦までに2385機が生産されました。大戦後期では鈍足ゆえ
に米軍機に喰われる被害が歴然としましたが、その卓越した操縦性の
良さ、荒地など整備が整わない野戦飛行場での離着陸性能の高さは
定評がありました。しかし末期には特攻機として使われるなど哀しい翼
でもありました。







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