大日本帝國陸海軍 その他の軍装品・資料



旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part X










その他…etc















海軍九六式二十五粍高角機銃
        の(高射機関砲)照準器
              (基地防空用)








海軍の艦艇用近接防空火器である九六式25粍機銃の対空
照準器です。この照準器はピントル銃架(単銃座)用でなく基
地防空や艦艇防空用の2連装ないし3連装の機銃用です。完
動品ですが予備照星の曲がりと若干の錆びがあります、レテ
ィクルは生きておりレンズ内部のプリズムを望遠鏡や双眼鏡の
専門店へ清掃に出せば非常にクリアな照準が可能だそうです。
上下記画像の左は、2枚とも予備士官が25mm高角機銃の射撃
訓練をしている画像です。右上画像は、艦艇用の25mm二連装
高角機銃、右下は、地上陣地での25mm二連装高角機銃を射撃
訓練中の予備士官達です。因みに海軍では対空用の機関砲を高
角機銃と呼称し機関砲とは、言いませんでした。この下に掲載した
照準器が上の写真の予備士官が覗いている照準器と同じものとな
ります。また下の画像で覗いている照準器が上に掲載している照
準器と同じになります。







海軍九六式二十五粍高角機銃
          の(高射機関砲)照準器
                   (艦艇用)










接眼部分のゴムが硬化して固着しています。
それ以外は、良好な品です。











海軍九六式二十五粍高角機銃の弾倉
    と各種 九六式二十五粍高角機銃弾




かなりの重量があり、25o弾が満載の時には、
更に重量があると思います。三連装の弾倉を交
換する時は、大変な労力が必要だったとものと
想像されます。












上の画像は、戦艦”長門”の25粍連装機銃と右端は、
前部機銃弾庫。弾庫には、このように25粍機銃弾が
搭載されていますが、一般に戦艦や巡洋艦の場合、
機銃一門につき2000発が基準搭載量とされていま
した(通常弾1500発、曳光弾500発)。


海軍 九六式二十五粍高角機銃弾(機関砲弾)の発火済み使用榴弾です。



上のと別の海軍九六式二十五粍高角機銃榴弾









こちらも別の弾頭の無い薬莢のみ









九六式二十五粍高角機銃 焼夷通常弾




ヘッドスタンプに”S 10/17(17分の10)
 錨マーク 豊 可”の刻印があります。
オリジナルの緑色がきれいに残っていま
す。 
男たちの大和/YAMATO…ロケセットから!




同じく別の九六式二十五粍高格機銃榴弾です。




一番下の画像でわかりますが弾頭の底部に
一箇所穴が開けられています。
刻印は、弾頭の信管部に”ト D PY"とまた
弾殻には”可”のみ、薬莢部にはリロードを
示す刻印がないので初回使用の薬莢と思わ
れます。雷管部は無しです。













海軍九六式または、十七試
     二十五粍機銃弾の弾頭部
              の弾殻(信管無)




画像の通り信管部の無い弾頭です。弾頭換栓も無し。







海軍 九六式二十五粍高角機銃(機関砲)弾
                (旧嵐山美術館展示品)




嵐山美術館で展示されていた海軍の25o機関砲弾との事です。頭部信管は
、弾頭換栓(ベークライトの蓋)がしてあり、戦闘時前に装着するようになって
いました。蓋の上部には「本品還納ヲ要ス」の文字が入っています。容易に外
す事ができて、中の火薬の無い状態が確認できます。弾頭のペイントはオリジ
ナルで外面は朱赤、上部に緑の線が入っています。若干のペイントに傷はあ
ります。薬莢の尻部には、S18―2の刻印があり、昭和18年2月に生産された
ことを示しています。全長は21センチあります。九六式25o機関砲は対空、対
戦車両方に使用されました。


25o機関砲弾の空薬莢です。比較の為、発火済みの
7.7o小銃弾を置きました。大きいです!旧豊川海軍
工廠附近の旧家の納屋からでたものだそうです。







帝國海軍を代表した高角機銃(対空機関砲)
      九六式二十五粍三聯装銃架の銘板




帝國海軍を代表する対空火器でした。既にそのスピードも火力も
米軍機の機動の前では時代の遅れの感が強く有効な対空火器と
は謂い難い代物でした。銃架に張られていた銘板を記念にはがし
た物と思われます。横須賀海軍工廠で製造年月日昭和19年10月
とシリアル番号が刻印がなされています。兵器としての性能の良し
悪しは置いておくにして…帝國海軍の栄光と終焉を見つめた代表
的な兵装と謂えます。


襲い来る敵艦載機を迎え撃つ代表がこの高角機銃でした。
単装、二連装、三連装と多彩にハリネズミのように艦艇に装
備されました。大口径火砲の対空火砲である三式弾の弾幕
を抜けられると12.7糎高角砲と25粍高角機銃だけが頼みの
綱の防空兵器でした。











陸軍 九八式二十粍対空機関砲の
          使用済の百式弾頭




九八式20mm対空機関砲の100式弾頭部




九八式20ミリ対空機関砲の百式焼夷弾。弾頭ペイントや
識別線、”100式”の文字、全てオリジナルの状態。当然
、火薬は処理はされています。信管は手で簡単に外せま
す。中に火薬は無く信管に”昭和16年12月”と刻印があり
ます。大東亜戦争の開戦の月に生産されたものである事
が判ります。薬莢部分の底部信管も処理されて中に火薬
はありません。旧嵐山美術館で展示されていた品です。そ
の時に、弾の底に両面テープを貼付して固定していた為、
その名残の接着糊が残っています。


こちらは、九八式20o対空機関砲弾。弾頭部は、100式弾頭。
弾頭から焼痍通常弾でなく曳跟通常弾である事が判ります。








珍しく残存した九八式高射機関砲弾薬紙筒の美品です。蓋も
残存しています。左は時の画像は紙筒の中に二十粍弾を収め
て撮影したものです。







陸軍 九八式高射機関砲用
     徹甲弾(一〇〇式曳光徹甲弾)




上とは違い紙ケースが無くなり弾だけの品です。
この品は、珍しく未使用を処理した物で、薬莢肩のあたりに
穴を開けて、そこから薬剤を抜いた為、薬莢口の緊定は、オ
リジナルで、しっかり弾頭が固定されています。また雷管も除
去されています。弾頭の緑の字は曳光剤の色を示し弾頭の
オリジナル塗装も8割以上残った美品です。
カタカナのシとムの刻印だけ打たれています。


25o弾と20o弾を比較しました。
全然、大きさが違います!!







”ホ五”二十粍(航空)機関砲の
  二式曳光榴弾の代用弾と思われる
   弾を載せた九八式高射機関砲の薬莢






全く別物の後家あわせですが、弾は確証が
ありませんが”ホ五”の二式曳光榴弾の代用
弾だと思われます。
シの打刻印が見られます。これは、試作の意味では無く
東京陸軍造兵廠第一製造所を意味する打刻です。







陸軍 九八式二十粍機関砲の
        代用弾頭と百式曳光弾






陸軍九八式二十粍機関砲弾用の代用弾頭と百式曳光弾の2点。
代用弾は先端部が平らになり「代」の文字が胴部にあります。曳
光弾は頭部の信管は欠です。薄れつつありますが緑と黄色の識
別線が残っています。また”一〇〇式”の文字が胴部に残ってい
て読めます。













九八式高射機関砲弾薬紙筒(蓋なしの美品)




使用済みの二十粍弾自体はよく出てきますが、厚紙
製の一発ずつ収めたこの紙筒は、中々、残っていませ
ん。私もこの程度の良い物以外に上に掲載した画像の
ほかに二点しか所持しておりません。
 九八式高射機関砲弾薬 
一〇〇式曳光自爆瑠弾弾薬筒 
東京陸軍造兵廠第三製造所製


と紙ラベルに記載されています。
納品前の品で年号などは入って
いません。







零戦で使用された二十粍一号機銃の空薬莢
 (海軍 九九式二十粍一号機銃弾の薬莢)




今も語り継がれる栄光の零戦の両翼に
あった20o一号機銃の薬莢2発です。


某N氏の零戦の2号4型機銃と2号銃の薬莢です。


海軍九九式二十粍(航空機関砲弾)機銃弾

右の黄色白線三本は、焼夷通常弾薬包改三
(ガソリンタンク着火用)です。左の赤色白線
三本は、曳光通常弾薬包改三(弾着修正・破
壊用)です。この弾が光ながら飛んでいく様は
アイスキャンディーと言われました。またもう一
種類、徹甲弾があり、この三つの機銃弾が連
続して交互に発射されました。


上が九九式20o2号4型弾とリンクの様子です。
下は、九九式2号4型ベルト給弾式20o機銃です。


こちらも20oの薬莢です。凹みがあります
が弾帯(リンク)の一部が残っています。







海軍 九九式二十粍(20o)機銃弾(一号)




刻印が“日−2?−12−「一」”で
皇暦2602年(1942年)?、12月、
大日本兵器製の一號銃用との事
です。
弾頭は陸軍の“ホ五”を代用した
弾とのことです。
入手先のオーナーだった研究者の方の説明では、
豊川・横須賀製二十粍は、一号・二号共に巷にあ
ふれていますが、大日本の二十粍一號は、まず見
かけず、生産数を考えてもこの薬莢だけでもかなり
貴重との話です。また、ホ五の綺麗な代用弾の弾
頭も徹甲弾、榴弾、マ弾に比べ大変珍しいものとの
事です。



嗚呼、栄光の九九式二十粍一号・
  二号機銃弾の薬莢(発火済み)セット




ピカピカに磨かれた真鋳製の薬莢です。短い方が一号銃弾の
空薬莢で長い方が二号銃弾の空薬莢で共に発火済みです。
両方とも余り出てこないものですが特に一号の短い方は、私も
一発だけしか持ってませんでした。二号は潰れたのを入れると
空薬莢はそこそこあります。
発射薬量が少なく射程の短く、その弾道の軌跡から小便弾と揶揄された一号
銃は7.7ミリに比べ命中した時の破壊力を無視出来ず、二號銃の開発に繋が
りました。二號銃採用後、一号銃はその数を徐々に減らしてゆきましたが敗戦
まで使用されました。

二號銃用は初期採用の一號銃用の薬莢を長くし、発射薬量を大幅に
増やし初速と射程を改良したものです。並べると現金なほど大きさの
違いが判ります。これだけ装薬量が増えれば小便玉も真っ直ぐ飛んで
行く事でしょう。
エリコン機銃の特徴で莢底部に発射による高圧の為に蹴子孔の跡が凸状に
付いています。また高圧の為か減起縁上部に数本のひび割れが確認できま
す。刻印は無く昭和十八年以降の品の様です。








九九式二十粍一號機銃弾薬莢の
 カットモデルと九九式20粍航空機銃
  弾薬用の無撃針信管三型改二(大戦末期の品)




零式艦上戦闘機(ゼロ戦)等に搭載された代表的な九九式二十粍
一號機銃弾の薬莢のカットモデルです。一号銃は発射薬量が少な
く射程の短さやその弾道故に小便弾と揶揄されましたがその破壊
力は無視する事は出来ず、二號銃の開発に続きました、二號銃の
採用後一号銃は、その数を徐々に減らしてゆきましたが敗戦まで
使用されました。底部に刻印は無く昭和十八年以降の製品の様で
す。
雷管部は固定せず取り外しが出来ます。ヤフオクで手に入れました
が入手元の業者さんは有名な実銃などを加工し輸入などを手掛け
ているので…これ等の加工なども手慣れたものなのでしょう。見事
なものです。


この信管も零戦を始めとする戦闘機や航空機に搭載された
九九式20粍航空機銃弾薬用の信管です。末期に採用され
たもので無撃針信管とよばれました。別名:空気信管とも関
係者から呼ばれていたそうです。この信管は、命中の衝撃
で潰れた信管本体が内部の空間を圧迫し高圧の空気が雷
管部を発火させる仕組みで作用するようです。制作に高度
な技術を要するもので、技術はあるものの物資不足の末期
の日本にはもってこいの信管で、正式名称は”無撃針信管
三型改二”です。










先端部の極薄の蓋板も変形は無く非常に綺麗です。
ただ末期の製品の為か挽き跡が目立ち仕上げがや
や雑になっています。この現象は当時を物語って興
味深いと薬莢のカットモデルを制作し売っていた業者
さんの説明文にありました。







海軍 三式 十三粍(13o)機銃の弾頭
          (徹甲弾または、普通弾 )




五二型乙になり機首部の7.7o機銃の右側を
三式13o機銃に換装しました。また五二型丙
では、7.7mmを廃止して左右両翼内に13mm
機銃を追加装備しました。これにより零戦は、
20o×2、13o×3とより強力な武装に発展
しました。弾身の底部の十字を確認できないの
で何ともいえませんが普通弾の可能性も高い
です。
徹甲弾5発です。何れも無火薬の安全品です。
旧豊川海軍工廠跡地の近辺からまとめて出た
品物の一部だそうです。




上の画像は、13o機銃のカバーを外した状態。20oと違い
ベルト給弾式でなく外翼側に240発の弾倉が装備されます。

画像は、78年に琵琶湖より引揚げられた零戦六三型
のものです。左が三式13o機銃で右がベル給弾式の
九九式ニ号四型20o機銃です。









海軍 七粍七(7.7mm)航空機銃
         弾薬包 焼夷弾二型




零戦の機首カウル内に搭載された九七式7.7o
航空機銃で使用されたタイプのものです。
本品は、薬莢に98の刻印がありますので九六式艦戦
時代の物だそうです。弾頭は、後家合わせのようです。


画像は、国立博物館の改造複座零戦二一型
です。機首部の九七式機銃が二丁はっきりと
銃身を突き出しているのが判ります。







海軍 七粍七(7.7mm)航空機銃
         弾薬包(発火済の10発)








303ブリテッシュが含まれています。





cf.一般の7.7mmの重軽機関銃と違い航空機銃
用の7.7mmや303ブリティシュなどを使う為、互
換性が低く生産効率も悪いのが日本軍の陸海
軍を通した欠点でもありました。これら特殊な7.7
mm機銃弾や303ブリティッシュを使用した代表
の機関銃には瑠式(九二式)七粍七機銃があり
ます。初期は英国から輸入され後に国産化され
昭和19年まで豊川海軍工廠などで生産され敗戦
まで使用されました。



  精巧手作り真鍮製四分の一スケール

     九二式七粍七(瑠式)機銃
      
〜海軍陸戦隊 仕様〜

  
特注ビッカースタイプの三脚架付です。




この美しい堂々とした迫力あるル式機銃のの姿!
上海の陸戦隊の勇士達の姿が思い浮かぶようです。
とても四分の一のミニチュアモデルとは思えません。
毘式三脚仕様の瑠式機銃ですが放熱筒があるので航空用でなく
陸上用です。毎回の事ですが…実物と見紛うばかりの完成度に
見惚れてしまいます。



まさに…芸術品の領域です。
製造過程の三脚部分です。
三脚無しでも見惚れますね。
製造過程と黒塗り後の皿型弾倉です。














ホノルルの米国陸軍博物館の日本軍コーナーの
瑠式機銃です。







七粍七 九七式固定機関銃の薬莢




零戦等の機首に内蔵され代表的な7.7mm機銃の薬莢です。
場所や時期は不明ですが…撃墜機より回収されたもので海
没品らしく変形、変色、破損がみられます。一部の莢底に刻
印が確認でき”7.7 ヨ 2−U”とあります。横須賀海軍工廠
で皇紀年号2602年(昭和十七年)第二期製造区分(5〜8月
)と読み取る事が出来ます。
20mmと7.7mm機銃弾は陸海軍を合わせた日本空軍
を代表する弾薬で常にその栄枯盛衰と共に存在しま
した。













九三式機銃用照準器具の収納箱






九三式は、フランスのホチキス対空機銃を輸入して
国産化した機銃です。敗戦までに陸海工廠で2万数
千挺が生産されました。後継機は、海軍が九六式
25mm、陸軍は、九八式20mmとなります。







九二式重機関銃の照準眼鏡と眼鏡嚢
       (九四式眼鏡:潜望鏡式)




九四式眼鏡と眼鏡嚢です。右の画像は、装着する場合の向きとなります。
大型で頑丈な造りとなったいる嚢です。
日本光学のシリアルNo.入りのプレートが付いています。5×10゜ 
非常にレンズもレクティルもクリアな品です。銃番号は、11206と
記載されています。
上の左が発射側(遮光筒)、右が射手の接眼鏡側です。
嚢に収納しきった状態。負皮が欠品でフィルターを入れる部分が
壊れおり、嚢のストラップが再生して有りますが全体には、美品。
収納する場合、接眼鏡を遮光筒と同じ向きとします。
左は、機関銃に接続する眼鏡沌坐と緊定把の部分
少しタイプが違いますが同じ潜望鏡タイプの九三式眼鏡と嚢
九二式重機の眼鏡は、3種類に大別されますが
九四式眼鏡は、上記の左になります。この一連の
下に右のタイプの九六式眼鏡を掲載してあります。
九二式重機の射撃写真です。射手と助手の両方が
九四式眼鏡嚢を肩から吊るしているのが判ります。
立襟の上等兵が射手で九四式眼鏡を覗いています。
略帽に防塵眼鏡をつけてます。隣の弾薬手は、二等
兵です。









九二式重機関銃用の
     九六式照準眼鏡と
       眼鏡嚢(九六式眼鏡)




倍率4倍、実視界10度の照準鏡
東京光学製で銃番号 36081、No.44714が製造番号です。
この東京光学製以外にも東京工廠製、日本光学製が
ありましたが、殆ど品質に違いが無かったようです。
収容嚢は、帆布製で九四式と同様に銃手が
腰に装着して運搬しました。

防楯に搬送用托架をつけた九二式重機関銃ですが
九六式照準鏡を付けています。




南方の海底から引揚げられ里帰りした
      九二式重機関銃の変わり果てた残骸




ヤフオクで入手した九二式重機関銃です。空冷フィンにびっしりと
サンゴが詰まり長い間…南方の海中に投棄されていたのが良く判
ります。現地人が引揚げたものを遺骨収集などの戦友会などが日
本に持ち買った物のようです。
ヤフオクでは三年式重機関銃として売りに出されていましたが下に
特徴を画像で描出したように外形からも明らかに三年式でなく九二
式重機関銃であることがわかります。出品者は軍装研究の世界で
は非常に高名な方なので販売を委託した前のオーナーが強く思い
込み(三年式であると)その方が旧軍で軍隊体験のある方だったの
で仕方なく三年式として売りに出した物と思われます。

時代背景としても南方の海でサンゴが付着しているので九二式以外は
時代に合わず… 幾ら支那に展開していた部隊がそのまま南方に移動し
展開したといっても戦闘中の最前線の部隊だからこそ旧式の三年式で
なく九二式重機関銃が重点配備されていく筈なので・・・考えられる可
能性は沖縄しか思いつきませんでした。ここでならば大正時代の…三
年式重機関銃が残っていて使われたとしてもおかしくありません。

また私の師匠である椿様の推理も…大陸から南方に転用された部隊が三年
式をそのまま持っていった…と言うのも疑問です。かえって大陸の部隊の方が
装備改変が終わっていたと考えるのが必然です。大陸の部隊が弾の威力の弱
さに悩んでいたのは有名な話です。重機関銃に6.5mm弾は小さすぎます。
当時の重機関銃の役割は…まず遠くの敵には大砲、近くの敵には小銃、その
中間に対してが重機関銃と云う考え方です。しかしこの距離では中国軍のモ
ーゼル7.92mm弾のチェッコ機銃ZB26に明らかに劣っていました。
日本軍は補給をなおざりにしたと現在、盛んに言われております。ガダルカナル
、ニューギニア、インパールなどの印象が強すぎるのでしょうが…これらの方面で
は輸送船での補給が出来なかった事が強調されておりますが、その他にジャン
グルに道路を作ることが出来なかった事も非常に大きな理由でした。戦後、
ニューギニア、インパールは何て無茶な戦いをやったのだろうと批判されますが…
これは中国戦線での補給をそれなりに続けることが出来て現地調達も上手く出
来た成功体験のせいで、後方で作戦を立てる参謀の多くがが補給の重要さを
場数を最も踏んだ戦場である中国の感覚で行っていたからでしょう。中国では
鉄道や自動車で有る程度は補給は出来ました。このことからも中国大陸の部
隊の重機関銃の装備改変はしっかりと進んでいたと考えられます。


上に上げた特徴と銃杷の違いと口径以外は殆ど外形からは違いが判りません。
錆が酷くて口径では6.5mmか7.7mmかは最早、判断不能です。
しかし上の画像からも矢印部分があるかないかで決定的に外見
で判断がつきます。以下のように右側が見えない角度では銃杷
の形状以外では判断は難しいです。

後方右側の縦の棒状の特徴のある突起は九二式用照門に成ります。 .
上部に丸い穴と横のギヤーで調整します。 尚、この上下の筒は伸び
縮みが可能で其の左横上に光学式照準器がつきます。三年式と九二
式の相違点で分かりやすいのは、右側面の照門の違いと後方上部の
四角い光学式取り付け部が有るか無いかです。三年式は右先方上
部に照門があり、九二式は写真の右後方に縦型。そして後方滋養部
の箱型の枠です。





錆付き朽ち果てた機関銃が物哀しさを訴えます。




サンゴがびっしりと詰まった空冷フィンです。


〜九二式重機関銃〜
  (基本スペック)
設計・製造 南部麒次郎 ・日立兵器
銃 身 長  72.1cm
使 用 弾 薬  7.7mm 九二式普通実包
装 弾 数  30発(保弾板)
作 動 方 式  ガス圧利用
 全 長  115.5cm
 重 量  27.6 kg(本体のみ)
 55.3 kg(三脚含む)
発 射 速 度  450発/分
銃 口 初 速  732 m/s (2,400 ft/s)
有 効 射 程  800 m
旧日本陸軍の最優秀銃器といわれる名銃の一つです。


   出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』 



フィリピン辺りで無いかと引揚げた地域を推測されて
いましたが…何処で引き上がられたかも不明です。
物言わぬ朽ち果てた九二式重機関銃…この鉄の塊が7.7mmの
銃弾を連射しその咆哮を止めた時…少なくとも3〜4名の兵士が
この銃の移動と操作に携わっていました。これ等の兵士はどうな
ったのでしょうか…見つめていると様々な想いがよぎります。




いずれにしてもこの九二式重機関銃は…大東亜戦争の全期間と
全戦域で皇軍で最も使用された帝國陸軍を代表する重機関銃と
謂えます。…この錆付き朽ちた重機関銃が帝國陸軍の栄枯盛衰
を象徴しているかのように感じます。






錆付いた銃身の先に開く銃口です。








我郷土の北鎮師団…第七師団の九二式重機関銃です。


日本軍の銃器

この動画は、ヒストリーチャンネルの特集を録画しYoutubeに
UPしたものですが、この中の最後の方に九二式重機関銃を
実際に発射している部分があります。


Japanese small arms of WWII (3/5)





以下は陸自の土浦駐屯地の武器学校の
小火器館で展示されている九二式重機
関銃です。





手作り真鍮製 四分の一スケールの
 見事な九二式重機関銃と属品達の世界です




防盾を装着した画像です。









マズルサプレッサー(消炎器)を装着した画像です。



ここまで極めればまさに芸術品です。
九六式照準眼鏡と嚢です。ここまで凝ると脱帽です!























九六式照準眼鏡を取り付けた画像です。
このデティールの精密さがたまりません。










珍しい九一式車載重機関銃または
        九七式車載重機関銃用の照準器眼鏡




非常に珍しい九一式または九七式の車載重機関銃用の照準眼鏡です。
下図のものと同じで富岡光学製です。(下図では九十式となっています
が間違いで九一式または九七式車載重機関銃用照準眼鏡が正しい筈
です。)尚、惜しい事にオリジナルの収納箱は欠で品物だけです。

板橋と光学 Vol.2 -国産一眼レフ誕生の地・板橋-より

















流石は戦車用なので衝撃でケガをしないように
接眼部分も非常に大きいのが印象的です。まだ
ひび割れ等の劣化も無くしっかり機能しています。


照準眼鏡としても今も問題なく機能しています。








富岡光学の刻印とシリアルンNO.
の刻印が読み取れます。


これらは当時の日本を代表する光学メーカーの刻印です。




重機関銃に取り付けする金具の先が切れかけています。


この写真は2010年の10月〜11月に開催されていた板橋区立郷土資料館
の企画展で『板橋と光学〜フィルム発祥の地 光学王国〜』での展示品を
撮影したものです。殆どが高名なガンマニアで陸自の武器学校のアドバイ
ザーも務める須川薫雄氏のコレクションです。真ん中にあるのが、上のもの
と同じ車載重機関銃用照準眼鏡です。こちらも九十式車載重機関銃用照準
眼鏡となっていますが、間違いで九一式または九七式車載重機関銃用照準
眼鏡が正しい筈です。




九一式は十一年式軽機関銃を改良し改良した車載機関銃です。
十一年式軽機関銃から銃床を取り外して防弾器と倍率1.5倍の
照準眼鏡を取り付けました。給弾は装填架を使用していましたが
のちに45発入弾倉を採用しました。口径 6・5mmで名古屋工廠
で生産され、その生産数は2.043挺とされています。



九一式の後継としてチェコ機銃をベースに戦車や装甲車に搭載する為
に開発された口径7.7ミリの重機関銃です。九一式と同様に銃身を守
るための防弾器と共通の倍率1.5倍の照準眼鏡を装着しました。







九九式軽機関銃用の照準眼鏡と眼鏡嚢




















 











陸軍 九三式五十糎観測鏡




陸軍が使用した九三式五十糎観測鏡と収納箱です。分解して
携帯が出来る小型の潜望鏡(ペリスコープ)となっています。
日本光斈(日本光学、ニコン)の刻印に5×10°とシリアルNo.11241の
刻印があります。(斈は学の異体字です。)本体中程には4338の刻印も
あります。

大きさ(組立後) 短縮時:約68cm
          最大伸長時:約83cm
          (ケースの長さ:約46cm)
陸軍が満州や支那での市街戦用として防御物
に身を隠して偵察する為に造られた単眼の
潜望鏡です。軽量・頑丈で精密であった為、評
判がすごぶる良かった物ですが、戦場の使用
品として過剰品質との指摘もなされた物の一
つです。







陸軍 九三式砲隊鏡






収納箱に日本光学(株)の昭和
16年9月製造の銘があります。
箱の背負いする負紐も完全です。
中に予備のレンズも二つあります。







陸軍 九二式望遠測角機鏡眼鏡 珍品!




昭和十四年のシリアルNo.339で収容嚢
と眼鏡本体は、一致します。日本光学製
です。
通常は、付属品として揃三脚”木製2段式”
があるのですが欠品で、眼鏡本体と収容嚢
のみです。
珍しいのは、単眼である部分に顕微鏡の分岐のように双眼の
物を取り付けている点です。これが戦後改造なのか、戦前に
改造した物か不明ですが、色合いと作りを見ていると戦後の
改造のような気もします。下に単眼の良くある九二式を比較の
為、掲載しました。比較すると単眼の接眼の
率25倍(視野
2度)が付く部分に回転式の15倍と25倍の切替式眼鏡に加工
してあります。非常に興味深く面白い品です。戦後に自衛隊の
前身である警察予備隊や保安隊で使用したのかとも想像しま
す。戦前に改造された物であるにしろ、日本光学が改造したも
のと推察します。


九二式望遠測角機は、陸軍の砲兵隊で使われた
眼鏡です。目標に対する角度を精密に測定する為
のもので、コンパスのついた台座に据え付けて計
測します。


こちらが良く出る単眼の九二式です。


規正水準器または、傾斜測定器でしょう。
これは、シリアルNo.が違いますので、後
家合わせのようです。



陸軍 九二式望遠測角機鏡眼鏡




望遠測角機接眼鏡は上の物と違いオリジナルの
一般的なものです。前の持ち主が眼鏡嚢に下ら
ん物を書き込んでいます。困ったものです。









陸軍 火砲の象限儀(砲手用四分儀)






陸軍の火砲につけられた象限儀です。砲撃する際には、照準諸元に基づいて
砲身の角度を正確に合わます。この象限儀で角度を読み取るようです。水準
器のついたものを”規正装置付象限儀”と呼ぶようです。この象限儀砲がどの
火砲のものかは分かりません。三八式10cm加農砲用の象限儀が、これとそっ
くりの形をしているそうですが、他の火砲でも形は、同じと思われます。サイズ
は、底部の板の長さが15.8cm、高さが16.6cm。水準器は、指で押すと左右に
動き、裏面の大きなノブを回すと水準器をつけているアームが動きます。また
小さなノブで締め付けると動かなくなります。少し腐食している部分があります
が、まずまずの状態です。ニヶ所に94という刻印と”阪”と丸に”井”の刻印があ
ります。

三八式10センチ加農砲


同じ砲手用四分儀です。0〜90°の目
盛りがあります。1°の1/16まで読める
副尺が付いています。
この四分儀は、四一式(75o)山砲の
ものです。10o単位の目盛りがあり、
0から79°まで広がっています。







陸軍 四年式十五糎榴弾砲 照準器
 ( Type4 150o howitzer)




日露戦争末期にドイツのクルップ社に発注された三八式
15cm榴弾砲は、日露戦争には間に合いませんでした。ま
た輸入後も重量が重過ぎて、余り評判が良くなく、大正四
年二月に砲身と砲架を分解して運べるように改造された、
四年式15cm榴弾砲が採用されました。この15榴は、大東
亜戦争末期まで我国の主力15榴として活躍しました。
当時、口径15cm以上の榴弾砲や10cm以上の加農砲は、野戦
重砲と謂われました。これら野戦重砲は、一般の師団に属する
野砲連隊や山砲兵連隊と違い、一部の例外を除いて軍の直轄
部隊の野戦重砲兵連隊に組み込まれていました。
四年式十五糎榴弾砲です。
左は、昭和12年10月の上海で海軍陸戦隊の上陸の前に支援砲火を上げる
松井石根大将隷下、上海派遣軍の砲兵部隊の四年式15榴。右は、開戦劈
頭、シンガポール対岸のジョホールバルから英国軍陣地に砲撃を行なう野戦
重砲兵第21大隊の四年式15榴。大東亜戦争の特に開戦劈頭では全戦域で
広く使われ活躍した事が見て取れます。
ガダルカナル島で各坐し遺棄された四年式15榴。砲弾を前に
記念撮影する米兵。砲弾の中央に”14.3”が見える。昭和14年
3月に火薬装填した事を示します。こうして見ると大正4年に制
式採用され既に九六式十五糎榴弾砲が後継となっていても大
東亜戦争の全域で敗戦の最後まで広く活躍した事が良く判りま
す。







珍しい四年式十五糎榴弾砲
     の装薬筒(甲)の装薬筒蓋つき




上で紹介した四年式十五糎榴弾砲の蓋付きの薬莢(装薬筒)です。
旧軍の150oクラスの弾薬(薬莢)は、比較的見かける事があります
が装薬筒蓋の付いた物は殆んど見かけません。この蓋は単に薬莢蓋
とも呼ばれます。この装薬筒は発射薬量や点火薬の有無等の違った
5つの装薬袋が装填してあり、この装薬袋の加減や組み合わせにより
弾丸の飛距離を調整しました。また蓋は発射薬量を調整(減じた)装薬
筒の装薬袋の押さえの役目も担っています。
四年式榴弾砲の装薬筒(薬莢)で全長が約26pであることから
薬筒(甲)になります。


この薬莢蓋は紙製で柿渋の様な塗料で塗り固めたもの
となっています。綿布の引き手が取付けられています。
引き手の部分に難読ですが製造所か調整箇所の押印と
縫製指示が紫色で捺印されています。経年の傷や小さな
ひび割れ等がみられますが致命的な破損や欠陥等は見
受けられません。














この薬莢は、黄銅製で莢底に画像の様に刻印があります。
これにより昭和十六年6月に小倉造兵廠で生産された事が
読み取れます。




爆管(雷管)は四〇式薬莢爆管が螺着されています。
末期製なのか「阪」の刻印以外には確認が出来ませ
ん。







連隊砲(四一式山砲)の75o砲弾
          (薬莢とダミー弾頭)




陸軍の四一式山砲弾の薬莢です。…実戦で使用した真鍮の薬莢に
アルミ製復刻弾頭を付けた品です。薬莢と弾頭は取り外しできるよう
になっています。薬莢底部の雷管は処理加工されており使用出来ま
せん。底部には日本軍による”41山”の刻印と戦後、接収した中国軍
による刻印と思われる年号”1951”が打刻されております。
日露戦争で射程が短く評判の悪かった三十一年式山砲を戦後、
砲身後座式にして改造されたのが、明治四十一年に採用された
のが、この四一式山砲です。その後、この砲は、山砲兵連隊など
に配備され日本軍の主力山砲となりました。満州事変での活躍で
歩兵部隊の行動を唯一、追及できる火砲として高い評価を受けて
昭和7年以降より、各歩兵連隊に四門ずつ配備され、歩兵連隊砲
”連隊砲”と言われました。敗戦まで歩兵砲は、活躍しました。


左右共に上海海軍陸戦隊が四一式山砲を使用している画像です。
左は、四一式山砲を六つのパーツに分解して運んでいる画像。
右は、熱河作戦で万里の長城に到達した日本兵が四一式山砲
弾を担いで運んでいる画像です。
左右共にガ島で米軍に鹵獲された四一式山砲
ニュ-ギニア戦線で豪軍に鹵獲された四一式山砲。敵の
対戦車砲で砲架が破壊されている。
いずれも山砲兵第九聯隊の四一式山砲です。


下は、偽装網を被っての夜間発射訓練の模様です。


分解し人馬で移動する様子です。道なき急斜面を人力で分解した
山砲を運搬する姿は、大変なだけでなく危険さを伴う事が予想され
当時の砲兵の方々の苦労がしのばれます。







三八式七十五粍榴散弾




七十五粍砲弾です。
三八式野砲や四一式騎砲、改造三八式野砲、
九五式野砲等、旧軍で一番多用された弾薬筒
です。装薬形式と薬量が違いますが、九四式
山砲も同型の弾薬です。
弾種は三八式榴散弾で、”大正 四 12 高”の
刻印と大阪造兵廠マーク、その他の刻印があり
ます。複働信管は三年式で”六 12 弘”その他
の刻印が見られます。
薬莢のヘッドスタンプは、”七 6 ナ 森2と、大阪造兵廠マーク
その他の刻印があります。雷管は通常は四〇式爆管が用いられ
ますが、出品物は九六式五瓦爆管が装着された珍しいタイプで
す。爆管には”昭十八 7 阪”と、大阪造兵廠マークその他刻印
があります。弾頭と薬莢は後組み合わせですが、薬莢と爆管は
年代が離れていますがオリジナルの組み合わせだと思われます
。たぶん薬莢は、再利用だと思います。
改造三八式野砲







陸軍 八九式尖鋭高射信管(缶入)




陸軍の高射砲弾に装着された八九式尖鋭高射信管です。
30秒まで時間の設定が可能な信管です。刻印は、”昭十七2”
とあります。
出荷時の缶(かなり錆びています)に入っており、缶の蓋に名称などが
記されていますが、かなり読み取りにくくなっています。”東京造兵廠製
、昭和十七年二月、八九式高射信管”と何とか読み取れます。


信管の大きさですが、高さ9.5cm、底部の直径5.2cm。
真鍮でできていて、ずしりと重いです。
同様に高射砲信管で30秒まで時間の設定が可能な信管の砲弾としては、
八八式7cm野戦高射砲や十一年式7.5cm野戦陣地高射砲に用いた九十
式高射尖鋭弾、十四年式10cm高射砲用の九一式高射尖鋭弾などがある
そうです。







陸軍 八八式瞬発信管 二種
        (真鍮製とスチール製)






陸軍の四一式山砲や三八式野砲、九〇式野砲、九五式野砲などが使用した
十年式榴弾、九〇式榴弾、九四式榴弾などに装着された八八式瞬発信管”
野山加”です。一つは、よく見かける真鍮製ですが、もうひとつはスチールで
作られています。スチール製の方が背が低いのは、雷管と発火薬(ブースター
)収容部をねじ込む部分が切断されているためです。真鍮製のものには”八八
式 野山加”のほかに”昭十四 12”という製造年月が刻印されています。これ
には、安全ピンもついていますが、頭部のアルミ製部分が腐食しており、動か
なくなっています。スチール製の方は、黒く塗装されており、”野山加”と
”昭十八 10”の刻印があります。前述のように底部のねじ込み部分が切断され
ており、安全ピンがなくなっていますが、頭部のアルミ製部分はきれいな状態で
、内部のスプリングがまだ生きているので、押すと引込み、指を離すと元に戻り
ます。もともとこの信管部分には火薬が入っておらず、また説明に書いたように
信管としての機能を失ったおり、再使用はできない状態になっています。長さは
真鍮製のものが7.1cm、スチール製は6.2cm。



八八式瞬発信管箱







陸軍 八八式七糎野戦高射砲 発火済薬莢




75mm薬莢(八八式高射砲用)です。莢底に"製造年月(昭十八 6)と
大阪砲兵工廠マーク(大砲交差図)と材質コード(F)"の刻印が有りま
す。
この薬莢を使用する大砲は、”八八式七糎野戦高射砲”と従来の
俯角射撃に加え平射を可能にする改修が行われた昭和9年に制式制
定された”八八式七糎野戦高射砲マル特”が有ります。その専用弾薬
であるこの薬莢は全長496mmと長く、
当時、陸軍が使用した7cm級
の薬莢で最も長い物となっています。長身ストレート型のこの薬莢に
尖鋭弾を装着すると、バランスも良く非常に精悍さを感じます。
画像は、グアム島の75mm高射砲です。水平射撃で対戦車戦闘
に効果を発揮しM4シャーマンを撃破しました。しかし駐退機が脆
弱で水兵射撃では、すぐに故障し破棄されたようです。上で紹介
している八八式瞬発信管もしくは八八式遅発信管を使用する九〇
式榴弾や九四式榴弾。八九式瞬発信管「野山加」を使用する高射
砲弾(九〇式尖鋭弾)。八九式尖鋭高射信管を使用する高射専用
弾の九〇式高射尖鋭弾等を良く使用しました。
ヤフオクで以前、売られていた品です。信管は二式高射瞬曳信管
(昭和19年大阪製)でブリキ製の信管ケースが一緒にあります。
弾殻は、昭和19年2月がペイントから読めます。ベークライトの仮
栓もあります。
八八高は、大東亜戦争を通して最も多く使用された代表的な
高射砲です。敗戦まで全戦域で高射砲部隊が配置された戦
場でこの砲が置かれなかったと言われる位です。







一式照準眼鏡甲 眼鏡箱




一式47mm戦車砲用の照準眼鏡である一式照準眼鏡甲の
中身の無い収納箱です。九七式中戦車改、一式中戦車な
どで使われました。

一式照準眼鏡で、倍率4倍、視界14度であり、 眼鏡には
2,000mまでの徹甲弾用目盛が刻まれていた。







一式機動砲(47mm速射砲)の使用済み薬莢




珍しい真鍮製の機動砲の薬莢です。ネック部に無数のヒビが
入っております。前のオーナーの方が…腔圧が高い為、やは
り鉄でなければダメだったのかもと指摘なされておりました。
ヘッドスタンプは、”昭17 名古屋製”と刻印されています。
下の画像が一式機動砲です。







九四式37mm徹甲弾(九四式37mm砲)




陸軍が使用した九四式37mm砲(37mm速射砲または、
37mm対戦車砲とも言われますが正式な名称は、37mm
砲)の九四式徹甲弾です。


九四式徹甲弾には、11年式平射歩兵砲用、九五式軽戦車
などに搭載された9九四式37mm戦車砲用もありますが、弾
頭部は、共通ですが薬莢の長さが異なり、これは166mmな
ので九四式37mm砲用だと判定できます(11年式平射歩兵
砲用は、111.3mm、九四式37mm戦車砲用は、133.5mm)。
尚、徹甲弾と称されているものの、弾丸には炸薬も入る
ようになっています(一般的にいえば徹甲炸薬弾)。弾丸
は、塗装が完全に剥げ落ちているものの、ひどい朽ち込
みもなく、まずまずの状態。当然、中の炸薬は抜かれ、ま
た弾底信管もついていません。薬莢は、リムの部分が少
し凸凹があるもののきれいな状態です。こちらも火薬は、
抜かれて雷管は、使用済みなので合法な安全品です。
左から九二式歩兵砲、九四式三十七粍砲、四一式山砲です。







九四式37mm徹甲弾(代用弾)各種




徹甲弾代用弾(訓練弾)と徹甲弾の違いは、底部が九四式
延弾底信管が二重構造になっているのが徹甲弾で、底蓋
一体になっているのが代用弾です。また特徴として代用弾
は、底蓋に”左ネチ”の刻印が中心部より少しずれた部位に
刻印されています。これは、発射後の旋動により底蓋が緩
む事の無い様に螺子が左螺子になっています。戦用弾であ
る徹甲弾には、そのような工夫は、されておらず螺子は、全
て右螺子です。また弾頭にある帯部が特徴的ですので、これ
で判別もできます。



上とは、別の代用弾です!
こちらも発射済みの代用弾です。
下の画像の上二枚は、九四式37o砲(速射砲・対戦車砲)です。下は
一式37o速射砲(改造九四式37o速射砲)です。







九四式37mm砲(速射砲)の照準眼鏡




九四式37mm砲
帝國陸軍の九四式37ミリ砲の照準に使われた眼鏡です。長さ19cm。
製造した東京光学(TOKO)のマークとNo.12699という番号が刻印さ
れています。
左上の画像で本体の脇に置いたのは、砲の防盾に設けられた穴に
この眼鏡を差し込んだ後、締め付けて固定するネジと、先端に螺子
込むオレンジ色のフィルターです。倍率は2.5倍で、視野は13度。
下の画像は、照準眼鏡を付けた九四式37mm砲のイメージ画像です。




別物で箱入の九四式37粍砲照準眼鏡



























九四式37粍砲(速射砲)の発火済薬莢(計ニ発)!




九四式37粍粍速射砲弾の薬莢
ノモハン戦では、この九四式速射砲18門を中心に
四一式山砲12門、三八式野砲8門、三八式12cm
榴弾砲4門を持って日本軍は、ソ連・外蒙古連合軍
戦車および装甲車150両以上を撃破する大戦果を
挙げましたが、大東亜戦争で連合軍と対峙した時は
M3スチュアート軽戦車の正面装甲を撃ちぬけず時
代遅れの対戦車砲となりその後の改造九四式や一
式47粍速射砲に切り替わっていきました。


こちらのは、昭和十四年製・名古屋兵器廠の刻印があります。







九八式・九四式三十七粍戦車砲の薬莢二発!




上の九四式37mm速射砲弾に比べると明らかに
短いのが九四式37mm戦車砲弾です。同じもの
と思われがちですが、戦車砲は砲身長が40cmも
短く装薬も2割少なく初速も3割減だった為、速射
砲の三分の二の威力しかありませんでした。ノモ
ハンでその威力を発揮した九四式37mm速射砲
でしたが、戦車砲は…全く敵戦車に対抗できず同
じ名前の速射砲まで悪い印象を与えられたと言わ
れています。
ヘッドスタンプの刻印は、二発とも大阪陸軍工廠
で監督課のマークがあります。




九四式三十七粍戦車砲
この砲を搭載した九五式軽戦車











一式 48口径 47mm戦車砲の砲弾(発火済)を二種類
(一式47mm機動砲の弾薬筒の薬莢二と弾頭一種種)




一式中戦車や九七式中戦車改の搭載された戦車砲弾と思われます。
さすがに一式四十七粍戦車砲になると薬莢
が非常に長くなります。貫徹力が上の三十七
粍や下の五十七粍戦車砲と違うのが良く判り
ます。















こちらも一式機動砲や新砲塔”チハ”の戦車砲に使用された
弾薬筒の薬莢です。珍しいのは材質が鉄で製造されていま
す。砲弾用鉄薬莢は名古屋工廠製は稀に見かけるそうです
が、この品の刻印のとおり大阪砲兵工廠製は、まず見掛ける
事の無い珍しい物と前のオーナーである銃砲弾の研究者の
方が仰っておりました。
鉄製薬莢は当時の諸外国ではポピュラーなもので日本でも海軍は少し早く
導入していますが、陸軍では製鋼の技術の違いが仇となり国産化がかなり
遅くなった様です。
莢底部の刻印は「5」なのか「ち」の刻印と大阪砲兵工廠の
シンボルマークの「砲身交差と「阪」が刻まれています。また
漢数字か片仮名の「二」の刻印が材質区分の刻印位置に刻
まれています。
爆管(雷管)は「九八式薬莢爆管」をこれまた鉄で製造した
「試製三瓦爆管(二修)」が螺着されています。
全体に錆が出て変色が顕著ですが、防錆の真鍮鍍金
(貼り合せ圧延カモ?)が結構残っています。鍍金部は
銅色に変色した箇所が部分的に見られます。







九〇・九七式五十七粍戦車砲の薬莢




九〇式でも九七式でも五十七粍戦車砲どちら
でも共用で使えた戦車砲の薬莢です。
ヘッドスタンプはF,阪,テ,大阪工廠のスタンプに昭九です。
全長は約12.2cm。






これで見てお判りのように薬莢の長さは121mmです。九四式三十七
粍戦車砲弾の薬莢の方が133.5mmと僅かに高い事が判ります。


我国初の国産戦車となった八九式中戦車の主砲
である九〇式五十七粍戦車砲です。






こちらは九七式中戦車(チハ)に搭載された
九七式五十七粍戦車砲です。















37mmホチキス砲の砲弾(発火済)




ロシア製のホチキス砲が多い中、日露戦に
於ける珍しい旧日本軍の37mmホチキス砲
弾です。ヘッドスタンプは、無刻印。弾頭の
銅帯部に検査済の刻印があります。
薬莢全長:94.6mm 
弾頭全長:約91mm 
銅帯部直径:約37.7mm







陸軍 十糎榴薬莢二発




どちらも雷管部はなく、鉛の様な物が詰めてあります。
一つは、昭十五 12 小倉造兵廠の刻印。もう一つは、
昭七 6 大阪陸軍工廠がヘッドスタンプで刻まれてい
ます。


九一式十糎榴弾砲(昭和六年制定)







九六式十五糎榴弾砲の薬莢




九六式十五糎榴弾砲の薬莢
との事で入手しました。
全高26.5cm。ヘッドスタンプの刻印は、”F 昭十七 8 名”
と名古屋陸軍造兵廠 監督課などが確認できます。
1937年に陸軍は、九六式十五糎砲として正式採用。
日華事変を皮切りに各地において優秀な性能を発揮
しました。特にガダルカナル島争奪戦の活躍は有名
で、アメリカ軍からは”ピストルピート”と呼ばれ、その
威力は、米兵の肝を冷やしたと言われています。









十一年式平射歩兵砲の三十七粍砲弾の薬莢




十一年式平射歩兵砲の37mm砲弾の薬莢です。
後に大型防空戦闘機に搭載されたホ203にも
使用されました。旧軍が使用した37mm薬莢の中
で最も短いものです。莢底刻印から大阪砲兵工廠
で昭和12年11月に製造され、金属コード(F)から
真鍮(黄銅二号)製である事が判ります。
十一年式平射歩兵砲は、その後
大隊砲と呼ばれ親しまれた九二式
歩兵砲にとって変りました。







九七式曲射砲の百式榴弾(81粍迫撃砲弾)




曲射砲も迫撃砲も同じ事ですが、皇軍では、独立した
砲兵部隊が装備する物を迫撃砲と言い、歩兵部隊が
使用するものを曲射砲兵砲と言いました。現場では、
九二式歩兵砲が根強い人気が有りましたが、南方戦
線では、防楯や重い砲架が不要でかつ口径が11oも
UPしたのに砲弾重量が九二式榴弾より軽量だった為
末期は、多用されました。




こちらは、別の所持している砲弾です。横に九七式曲歩
と百式と帰記載されているのが読み取れます。
下の画像は、日本軍の九七式曲射歩兵砲と81o砲弾
こちらは、九九式短迫撃砲と81o砲弾。81o砲弾は、
九七式曲射歩兵砲と共用です。下は、81o迫撃砲弾
です。アメリカからの里帰り品で珍しい信管共にオリジ
ナル品です。
本体の塗装が薄れていますが信管は、
昭和14年・本体は、昭和16年の刻印があります。火薬
等の無い安全な品です。

下の画像は、満州事変で曲射砲を放つ
陸軍の兵士達です。鉄帽が独特の形の
所謂 サクラヘルメットというものです。







希少な陸軍航空隊で使用された
            九九式機上切換二働信管




陸軍の航空爆弾用信管で弾頭用です。正式名は
”九九式機上切換二働信管”です。
この弾頭信管の特徴は、機内から投下目標に応じて
瞬発か遅延を切り換える事が出来る事です。同様に
切換式の信管には”九三式投下二働信管”があります
が、これは装着前に瞬発か遅延を設定しなければなら
ず爆撃目標の状態に対応できない物でした。本品は
50kg以上の各種爆弾に装着され多用されました。しか
し現存数が少なく滅多に見かけない希少な品です。
画像の様に美しい黄銅製で磨かれています。また安全処理時に
付いた工具傷やその他小さな傷、極僅かの錆跡、僅かな部分的
な変色が見られますが、致命的な欠陥や変形、破損の無い非常
に綺麗な信管です。






各部に刻印があり切換時の動作を表す”瞬”、”延”や可動方向の
矢印また”昭十八 5 阪”大阪砲兵工廠を表す砲身交差のシンボ
ルマークが確認できます。これにより昭和十八年五月に大阪陸軍
造兵廠で製造された事が読み取れます。








下の画像の様に分解出来ます。







不明の照準器拡大用レンズ




真鍮製に黒の塗装が施されており水準器が取り付けて
ありますので、水平を確認して装着したものと思われま
す。レンズは細かい目盛の数値を読む為と思います。







対空機銃の照準環






画像は、上下ともに陸軍九九式双発
軽爆撃機の各対空機銃の模様です。







護耳器(大号?)








陸軍か海軍かどちらが使用したか分かり
ませんが、主に機銃や大砲の射撃音やか
ら鼓膜を守る為に使用されました。俗に言
う「耳栓」です。鉄兜や戦闘帽の下に装着
するもので余り見かけません。木のフタを
スライドさせて中身を出します。本体はエボ
ナイト製です。大変保存状態の良い美品で
す。…それにしてもこんな立派な容器に入
れられた耳栓は、余り見た事がありません。







海軍の小型船舶用エンジンの銘板




小型の内火艇等の焼玉エンジンに取り
付けられていたと思われる銘板です。







九五式爆雷 発火装置格納筐













零式雷撃照準器一型 格納箱の蓋






零式雷撃照準器一型の格納箱の蓋だけです。
空箱があって、蓋だけを記念に残したのでしょ
う。ニス塗りに黒ペイントで文字鮮明に記載さ
れています。手提紐は切れて残骸だけ少し残っ
ています。裏に文字や刻印等は、ありません。
海軍の雷撃機や攻撃機の照準器を収めた箱だ
ったようです。
         大きさ:26cm×41cm×0.8cm







零式雷撃照準器三型 格納箱















海軍 着水場標示灯ニ型 要具及補用品箱






海軍の着水場照明灯収納箱です。水上機が
夜間着水する時に使う、照明器具を収める箱
のようです。昭和17年9月と記載されています
。中身は、ありません。鍵が掛けられるように
なっていますが、鍵が紛失しており使えませ
ん。







艦内通信装置・接続函






豊橋海軍工廠、昭和十七年九月・大島電機工業株式会社
540、○ト、イカリ・マークが有ります。大きさは、幅10cm・
高さ12cm・厚さ5cmのアルミ製です。







第七号型掃海艇 ”鴨” 
      掃海具・沈降機(魚雷型)






三分割に分解可能のように出来ています。


この兵器の正式な呼称は、”掃海具・沈降器”です。
敵の敷設した機雷を除いて味方の艦艇の為に安全
な航路を開くのを掃海に使用する兵器。これが掃海
具と言われるものです。
上図のように掃海具は、二艘の艦艇で曳航する対艦方法(第五図)と単艦で
曳航する方法(第六図)が有ります。第五図は、対艦掃海を示します。図中(1)
は、掃海索、(2)は、浮標、(3)は、沈降器です。掃海した跡には機雷が撃維
索を切られて浮き揚がります。それを処分艇が処分する仕組みになっています
。第六図は、単艦掃海の状態です。。図中(1)は、掃海索・(2)は、沈降器
(3)は、展開器(バラベーン)です。展開器は、艦が走る(約20ノット)と水中で
凧の作用で両方に開きます。単艦掃海でも対艦掃海でも、掃海索と言う特殊
な鋼索が附物で有り、これが機雷の撃維索を切断する点は同じです。第8図は
、パラベーンです。”パラベーン”は、英国で開発された一種の水中飛行機であ
り、第8図中(1)は、胴体 (2)は、翼 (3)は、深度調節器 (4)は、曳索取
附装置です。

                 第七号型掃海艇

昭和12年のマル三計画で建造が決定した掃海艇。海軍の掃海艇の中で
最も大きな艦となった。掃海だけでなく海防任務に用いられ敵との交戦も
想定した為、駆逐艦並みの火砲を装備した。建造数は、23隻。但し、十九
号型として17隻が建造された為、第七号としての同型艦は、6隻である。

 基準排水量   630t
 全  長     72.50m
 水 線 幅     7.85m
 速 力      20ノット
  乗 員      103名(士官3,特務士官2,准士官2,下士官26, 兵73)
 兵  装    12cm単装砲 3基
          25mm連装機銃   1基
          爆雷投射機(Y砲)  1基
          爆雷投下軌条    1基

第七号掃海艇昭和17年9月23日シンガポール東方海域で
輸送船の船団護衛中を特設輸送船”北海丸”より撮影した
ものです。当時、本艇は第一南遣艦隊隷下の第十特別根
拠地隊に所属してシンガポールを基地として同地とサイゴ
ン間の護衛任務に従事していたようです。第七号型のネ
ームシップとなった本艇は、6隻の同型艦がありましたが、
本艇を含む5隻が戦没し敗戦時も残存したのは、第八号
掃海艇のみでありました。因みにこの第七号掃海艇は、
昭和19年4月15日に船団護衛任務で寄港していたポ
ートブレアを出港後、敵潜水艦の雷撃を受けて撃沈され、
同年6月10日に除籍されております。
上は、同型艦の第十号掃海艇の進水式の画像。下も
同型艦で第十一号掃海艇の竣工時の画像です。大戦
中に対空兵装が強化され12cm単装砲(平射砲)が3基
より2基改められ25o連装機銃2基、同単装機銃3基
が増設されました。
旧帝国海軍の掃海技術は世界に誇るべきものであり、その
伝統は、現在の海自にも受け継がれている事は、周知の事
です。朝鮮戦争では、GHQの命令で旧海軍の掃海艇部隊
が再活躍し海自にその技術が流れている事は有名です。そ
してペルシャ湾での掃海艇派遣も記憶に新しいところです。
しかし掃海は、海軍各兵科の中で特攻は別として、一番危
険で有り死亡率が高かったと言われています。敗戦時に正
式な掃海艇は僅かに11隻でありました。これら残存掃海艇
も昭和21年7月に2隻がシンガポール沖で海没処分となり、
昭和22年7月から10月に掛けて掃海艇3隻が戦後賠償とし
て戦勝国に引き渡されました。また昭和23年12月までに国
内では5隻の掃海艇が解体処分されました。結局は、1隻し
か残存しませんでした。敗戦までに日本近海の米軍機が投
下し敷設した機雷は1万個以上、殆どが各種感応式機雷(
磁気機雷・音響機雷・磁気水圧機雷)で、これ以外に帝國
海軍が自身で敷設した繋維機雷が55.347基でありました。
敗戦までに日本海軍掃海部隊が処分した米軍の機雷が約
4200個であり、まだ6500個が残されていました。この殆ど
が磁気機雷であった為、第七号掃海艇のような鋼製の
掃海艇は使用が出来ませんでした。非磁用の木製船体の
哨戒特務艇、駆潜特務艇に必要な掃海機材を搭載し敗戦
後も掃海作業が継続されました。その部隊の兵力は、26
隊で約130隻でありました。昭和20年8月19日以降は、連
合軍最高司令部の隷下に組み込まれ、連合軍艦船が寄港
出来るように更なる大増員が図られました。更に海防艦や
敷設特務艇などが編入され、その総数は348隻、人員1万
名に達しました。その全部が帝國海軍の軍人でした。昭和
20年の10月の時点で将校が773名、下士官兵が9227名
でありました。各鎮守府及び警備府から米第5艦隊第52機
動部隊司令官が指揮監督になり、翌年の9月には、日本近
海の機雷処理は終了しました。組織としては、陸軍省と海軍
省が其々第一復員省・第二復員省となってからは、第二復
員省総務局掃海課の所管となり、21年の6月に復員省が廃
止されると、復員庁第二復員局へ23年に復員庁が廃止にな
ると運輸省に移管されました。機雷の処分数が増加するに従
って参加艦船と人員は減少され、昭和22年年末には、45隻
、人員1508名(将校184名、下士官兵1324名)になっており
ました。23年5月に海上保安庁が発足すると継承され、27年
8月に海自の前身の保安隊警備隊に継承され最後は、海自
に継承されました。昭和27年6月までに被害を受けた掃海艇
は、30隻に及び殉職者は、77名、負傷者は200名の被害を
出しております。







海軍 拡声装置空特二型のスピーカー




光の加減でよく見えませんが錨マークがあり
海軍の拡声器です。物は非常に良い品です。
ヤフオクで入手しましたが元々、拡声器部分、アンプ
電源部分とマイク部分で一体の品ですが、出品者が
セコイ男らしくバラにして、しかも時期をずらして売っ
ていました。下の電源アンプ部分は、アホらしいので
入手しませんでしたが、あの様子だとマイク部分等も
あるのでしょう。商魂たくましいと言いますか呆れ果
てます(苦笑)。









海軍 防水懐中電灯













軍用携帯電燈




軍用の携帯用照明器具で、3ボルトの大型乾電池を収納
したと思われます。明るさを調整するものと思われるダイ
ヤル、ボックス装置があります。夜間行軍、夜間設営の
際に使われたと思われます。







陸軍 回光通信機
     (携帯式小型信号灯)




皮ホックの留めが千切れています。レバーは、
内部のゼンマイがバカになっていて巻いても
勢いよく戻って来る為、手動の発電機能が壊
れています。
予備電球が二個付属しています。
昭和十六年製
夜間、色フィルターなどを使った着色光で通信
する方式です。連続と断続を使って信号を送れ
ます。直径20cmの大口径の物から、こちらの
兵が腰の帯革に通して使用する3.3cm口径
の小型の物までバリエーションがありました。
これは、小さい電球なので近い範囲しか使え
ません。小部隊の内々の夜間のコミュニケー
ションに活躍しました。







海軍のコロイドランプ













海軍 十糎高角双眼望遠鏡




双眼鏡は今から35年前新潟の海岸に打ち上げられた
物だそうです。本体の塗装は剥離しています。酸化・腐
食は有りません。レンズの割れや傷は有りません。小ビ
ス数本無し。大口径レンズは取り外すことが出来ます。
銘板は、取れてありません。

製作メーカーの刻印(光学レンズ印)”10・レンズ印・33
・34”と刻印が打たれています。本体付属品部分に割れ
が有ります。

 大きさ: 幅 27cm(支持軸を含まず)、高さ 27cm、
      全長 53cm、

 レンズ大きさ: 大口径105mm 、接眼レンズ 22mm


製造は、日本光学工業(株)による広角双眼
望遠鏡です。レンズの大きさにより、八糎、
十糎、十二糎の三種類があります。形状の
変化は、余り無いようです。











海軍 八糎高角双眼望遠鏡 格納筐




格納筐だけの品です。戦後も使用されたようで
中敷等の仕切を完全に撤去してあります。
銘板に昭和17年12月日本光学製の
シリアルNo.805の刻印があります。







艦艇用 八糎高角双眼望遠鏡




銘板は取り外れています。航海科の刻印
と193の数字の刻印のみが残っています。


望遠鏡側のレンズカバーは残っています
が接眼レンズ側のカバーはありません。











海軍 八糎双眼望遠鏡(艦艇用)




日本光学の8cm双眼鏡です。
接眼部のゴムは、硬化して片側の劣化と痛みが認めます。
大戦後期で使われた緑濃色の塗装が残っています。
接眼部ゴム右側劣化が激しいですが、調整部分は
異常なく稼動します。しかしレンズは、内部に経年
によるカビや汚れ等があります。敗戦後に解体会社
により保管された物です。山口県柳井方面から出て
きた品です。
左右、真横から見た双眼望遠鏡
銘板には、昭和十九年八月、第1671号の
製造番号、日本光学工業株式会社海軍の
錨マークと豊川海軍工廠と航海科の略刻
印が認められます。


上は、艦艇の基台に接続する部分です。
螺子止めする穴が開いています。
敗戦で搭載されていた艦は解体処理され
この双眼鏡は、解体処理会社の倉庫に長
らく放置されていたのでしょうか。昭和19年
8月製造の望遠鏡で8cmですから、大きな
艦でなく海防艦など小さな艦だったのかも
知れません。







十五式3号測波器(海軍技術研究所 昭和三年)




この十五式3号測波器が何を測定するものなのか
詳細は、不明です。戦前は、東京三田にあった
海軍技術研究所(今は、防衛庁技術研究本部第1
研究所)では、主に海軍の先端技術といわれた
電波、通信、磁気、音響などの電子関連兵器技術
の研究開発に取り組んでおりました。従って電波や
音波などの測定用のものと推測します。









精密復刻品の零戦の銘板2点




零式艦上戦闘機の機体の打刻プレートの複製品です。
銘板には、年式で何種類かありますが(=リベット止め、
接着、サイズの大小)これは、ニカワで機体に貼りつけら
れた“接着タイプの中サイズ”の復刻品です。当時、実際
にこのプレートを作っていた職人さんが、当時の機械と打
刻印で、当時の手法そのまま忠実に“限定数で復刻”した
ものだそうです。

        サイズ:6×8センチ
画像の打刻は、実際に“大空のサムライ”で有名な
故・坂井三郎元海軍中尉の搭乗機「V−103」のも
のを作っていただきました。
通常は、馬力の刻印が入らないのが一般的
だとの事です。坂井三郎氏の愛機は、馬力の
刻印があったので二種類、作っていただきま
した。







呉の海軍鎮守府の海軍士官クラブの表札











海軍倶楽部の壺




何処の海軍倶楽部かは、不明ですが海軍倶楽部で
飾られた金属製の壺です。おき錨に銀の桜を配した
デザインの黄銅製で底部に画像のように”海軍倶楽
部”の刻印があります。

サイズは、H 37cm X W 21cm

重量は、約7kg あります。







海軍 12.7センチ高角砲用薬嚢




常装薬で二枚
スタンプあり未使用品です。







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