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旧軍関連収集品
(軍装品...etc)
Part T












若い頃よりの憂国の想いは、歳を重ねる毎に強くなり,また逆に
絶望感も強めています。この国がかって堂々と日本人である事
に誇りを持ち、胸を張って海外に雄飛していた時代は、夢のよ
うな遠い昔話になりました.勝てば官軍、負ければ賊軍…とは、
申しますが…物言わず朽ち果てていく旧軍の関連品を見る度に
…そして太平洋の様々な海を潜る度に…海底に眠る艦船や航
空機、浜辺に残骸をさらす輸送船や戦車、未だに上陸地点を見
つめて錆つく姿を晒す朽ち果てた野砲…。我々の祖父達が血族
・先人諸氏が南方やシベリアで亡くなっています…これらの振り
返られる事も無くなった物言わぬ遺物達を出来れば国立の軍事
博物館を作り篤く保護したいものと考えております。…現在、旧
軍所縁の地の地方自治体、個人の篤志家、靖国神社、自衛隊
各駐屯地などに資料館などに散在し展示されております。日本
を除く先進国は、国立戦争資料館や軍事博物館として手厚く保
護されております。これは、同じ敗戦国のドイツも同様です。然
るに我国は、先の悲惨な歴史から目を背ける様に敢えて…こう
した歴史の生き証人を保護する事をしません。…歴史に目を背
け学ばずして何から学ぶと言うのでしょうか?…これら歴史は、
闇に葬られれて良い物にあらず、多くの国民が老若男女を問わ
ず耳目して、夫々が夫々なりに咀嚼すべき歴史認識であり…そ
の一助となるべきものであります。出来れば市民運動として国立
の軍事博物館なり資料館を作れれば…微力ながら私の収集品
も寄贈したいと考えている次第です。…すでに戦後も60年を越え
ております。…そろそろ旧軍関連の品も朽ち果てて参っておりま
す。…こうした運動に興味のある方が居られれば御一報いた
だければ幸です。…尚、このページでは、私の収集品の一部を
少しずつ画像に上げて紹介していきます。











Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍の軍服








左は、陸軍砲兵准尉大礼服。右は、 陸軍中将 九八式軍衣


陸軍参謀少将 九八式軍衣袴


陸軍少将 三式軍衣(将官隊長の代わり
に手持ちの陸大卒業徽章付けてみました)
     陸軍少将
(緑濃の所謂、南方用軍衣)


陸軍憲兵大佐
    (陸大卒業徽章)  
    陸軍歩兵中佐 
        大礼服(正衣)


陸軍中将 昭五式軍衣
      (陸大卒業徽章)  
 陸軍航空参謀 大佐軍衣


陸軍少将 改四五式軍衣


陸軍大将 三式軍衣袴   
     陸大卒業徽章
  陸軍歩兵少尉 
      大礼服(正衣)


陸軍中佐 九八式軍衣


陸軍航空大尉
     三式軍衣
(航空胸章・空中 
    勤務者章)
 陸軍憲兵伍長
    改四五式軍衣


陸軍少尉 南方服 (袖七分丈防暑略襦袢)


陸軍中尉 三式外套   陸軍中佐 三式外套   陸軍中尉 マント


   陸軍曹長
(幹部候補生特別 
微章・特技勤務見 
習士官臂章)
    九八式軍衣 
   少年飛行
   兵学校生徒軍衣
  (飛行学校生徒一般襟
  徽章、生徒用肩章)、


陸軍歩兵軍曹 山型胸章(歩兵科) 立襟から折襟への過渡期
に良く見られた軍装である。


陸軍歩兵軍曹 改四五式軍衣


 陸軍大佐 マント   陸軍騎兵中尉のマント
  襟は、尉官の星章一つ



陸軍大佐 防暑略襦袢
       (佐官隊長章)  
  陸軍歩兵中尉
       改四五式軍衣



陸軍憲兵大尉 防暑衣  
(熱地被服、憲兵徽章)
 陸軍船舶工兵大尉
  三式軍衣(船舶胸章)


陸軍歩兵准尉
(特技勤務見習士官臂章 
・歩兵科山型胸章)防暑衣      
  陸軍航空隊中尉 第二種航空(夏)衣(カポック)


陸軍歩兵大佐 
     昭五式軍衣(佐官隊長章)    
 陸軍歩兵大尉 
       昭五式軍衣



陸軍憲兵少尉 昭五式軍衣   陸軍上等兵 九八式冬衣


陸軍上等兵 
    九八式夏衣

  (小銃射撃優等徽章)  
 陸軍砲兵上等兵 
 改四五式軍衣(善行章、

   、野砲射撃優等徽章)


陸軍歩兵伍長 
  改四五式軍衣(夏) 
  (小銃射撃優等徽章)  
 陸軍船舶工兵少尉
 三式軍衣(船舶胸章)


陸軍大尉 三式軍衣       陸軍歩兵大尉 
     在郷軍人用軍衣


陸軍歩兵中尉 
     九八式軍衣

       (山型兵科章)  
  陸軍航空大尉 
 九八式軍衣(航空胸章
     、空中勤務者章)


陸軍歩兵少尉 
九八式軍衣
(自動車部隊襟と
歩兵科山型兵科章)  
   陸軍少尉 三式軍衣


陸軍航空少尉 三式軍衣
(航空胸章、空中勤務者章、 
 飛行将校襟章)
    陸軍上等兵
    戦車兵(冬)

     セパレート


陸軍大尉 九八式軍衣     陸軍作業服 伍長


陸軍曹長 九八式軍衣


陸軍曹長 防暑衣 幹部候補生襟章(通称:座金)


陸軍歩兵大尉 防暑開襟軍衣
  歩兵科山型胸章(見えずらいですが…。)


陸軍曹長 軍衣 
  改45式の軍衣を改造した軍衣。曹長の襟章は、虫食
  いで赤の部分が殆ど残っていません。また右胸に帽
  章のような部隊章でしょうか星章が縫付けられていま
  す。珍しいものです。
この軍衣の曹長さんは、は、昭和19−20年満州牡丹江に
展開していた、戦車隊所属の対戦車部隊の所属でした。一
式47ミリ隊戦車砲を操作しておりました。ポケットの隠しの
星章は、部隊章を現しているのかもしれません。改四五 四
号 昭和5年 廣支検定。四五改の軍服は、軽く風を通さな
い良い質の布ですから、下士官の特権で在庫品から出させ
て着用していたようです。19年、国境要塞の曹長が、大正
6年の軍服を着用していた話もあるそうです。


昭5式軍衣を改造して使用された軍衣
以下のように襟を立てると立襟な事が良く判る。


陸軍船舶工兵少尉
三式軍衣(船舶胸章)  
  陸軍尉官用雨衣


陸軍航空准尉 九八式軍衣
  (航空胸章・空中勤務者章) 
 陸軍騎兵中尉 九八式軍衣袴
  (山型胸章、尉官隊長章)


陸軍歩兵大尉 
 昭五式軍衣(尉官隊長章) 
 陸軍少尉 三式軍衣
  (襟章は、九八式の少尉)


陸軍衛生科軍曹 
     改四五式軍衣   
 陸軍軍医大尉 防暑衣
 (衛生科 山型胸章)



下士官兵用三式軍袴です。昭和十九年の廣支検定
の未使用のデットストックのようです。




陸軍航空隊少尉 防暑開襟軍衣
    三式少尉襟章、三式袖線、袖星章、航空胸章、空中勤務者章


陸軍曹長(甲種幹部候補生) 防暑軍衣
  (南方熱地被服の襟に座金と曹長階級章)


陸軍航空隊 一等兵軍衣 
(兵・下士官用航空胸章)
  陸軍少尉 九八式軍衣



陸軍船舶工兵大尉 三式軍衣


陸軍軍曹 九八式軍衣(冬)    陸軍歩兵伍長 改四五式軍衣



陸軍船舶工兵大尉 九八式軍衣
(尉官隊長章、船舶工兵胸章、両肩         
に通例肩章用のループがあります。)
 陸軍中尉 九八式軍衣


  陸軍騎兵伍長 
    改四五式軍衣  
    陸軍歩兵上等兵 改四五式
    軍衣(冬):過渡期のもの
           歩兵科山型胸章)


  九八式陸軍少尉
 夏軍衣(少尉通礼肩章)  
 九八式陸軍中尉
 夏軍衣(憲兵科山型胸章)


陸軍曹長 九八式軍衣(冬)   陸軍少尉 野戦用軍衣
(兵・下士官用九八式軍衣
        の改造タイプ)


   陸軍騎兵中尉
      在郷軍人用軍衣    
 陸軍一等兵 三式軍衣(冬)
 船舶工兵胸章(兵・下士官用)


陸軍大尉 九八式開襟軍衣
 尉官隊長章


陸軍三式防暑軍衣
 末期の物で硫黄島、沖縄戦などで見受けられたタイプです。戦時急造の為、
随所に省略が見られます。腰ポケットが無く剣留めも最初から付いていませ
ん。ボタンは緑色に染められた、木製のもので短ジャケット型のスタイルになっ
ています。サイズは、中号ですが検定印は何故か一部が塗りつぶされていま
す。戦後の衣料品不足で使われていたのかもしれません。イメージで三式一
等兵階級章を当てて見ました。







レプリカの陸軍大将 三式軍衣袴




面白いので複製品を遊びで購入してみました。略綬と参謀飾緒は
手持ちの本物を飾りで付けました。画像で見る限りは、大差ない
のですが…やはり実物の将官軍衣と比べると歴然です。所詮、レ
プリカです。後家合わせの方がらしいです。…当初、自衛隊の儀礼
用の参謀飾緒が付いておりましたが…余りに安ポイので初期型の
陸軍参謀飾緒を付けました。



cf.参謀飾緒に関する余談です。

飾緒は、御存知のとおり参謀に限らず皇族付武官の銀色の飾緒
や将官であれば大礼服などで参謀でなくても佩用します。尚、将
官飾緒と参謀用飾緒では、違いがあります。参謀参謀用の飾緒
は径一分八厘(5,4mm)ですが、将官用の金線は二分(6mm)
で太さが若干違います。また先端の石筆の先端の違いにより初期
型とそうでない後期型に大別されます(明治19年7月6日改正と
大正三年二月二十六日改正)。このように参謀飾緒は、階級の違
いや製作年数の違いで微妙に違うので非常に面白いです。尚、蛇
足ですが陸軍では、銀色の飾緒は、皇族付武官ですが、海軍の場
合は、そうとは、限りません。海軍では、副官が銀色の飾緒を付け
ます。陸軍では、副官は、副官懸章を使用しますので、ほぼ皇族付
武官と見て間違いありません。時に外国の皇太子や王族の来賓と
対面する機会がある時は、礼を失しないように皇室付武官でなくと
も佩用する場合があったそうです。
左が陸軍の皇族付参謀飾緒です。右が陸軍の参謀飾緒です。見比べ
ると銀色と金色の対比が良く判ります。
下の画像の左が参謀飾緒の石筆部分、右が皇族付飾緒の石筆部分です。


陸軍の副官懸章です。海軍は、銀色の飾緒を使用する場合、皇族付武官
と副官の二種類がありますが、陸軍では、上の画像の副官懸章を使う為、
銀色の飾緒を佩用しているのは、皇族付武官と見て間違いありません。


陸軍の将官飾緒


陸軍の野戦用参謀飾緒です。







陸軍航空中尉 九八式軍衣(冬)




九八式中尉襟章に航空胸章







陸軍航空大尉の九八式軍衣




略綬は、イメージの合わせ。航空胸章に空中勤務者章、尉官隊長章
を付けた大尉の襟階級章の九八式軍衣です。ネームは、天野とあり
ます。







陸軍少佐 三式開襟参謀軍衣袴











陸軍大尉 三式開襟軍衣袴




尉官隊長章と略綬を合わせてみました。部隊章が縫付けられています。







部隊章のある九八式 将校用軍衣















陸軍部隊章 東部第38部隊




東部第38部隊(歩兵第115連隊補充隊)は、群馬県高崎の部隊です。
正式名称は、独立歩兵第20大隊。母体の第115連隊(基2804部隊)
は、昭和12年10月18日に高崎で編制されました。上級部隊は、第51
師団で敗戦時は、共に東部ニューギニアに所在していました。東部第
38部隊は、大東亜戦争に入り編制された大小あまたの部隊の一つで
す。画像のように織出製で組み合わせたり様々な部隊章が存在しまし
た。元々は、古くから隊号章(通称号称)として立襟時代から存在した
全陸軍共通のものが昭和13年、勅令第392号の陸軍服制改正により
軍衣が立襟式から折立襟式に変更され襟部徽章は、幹部候補生徽章
等の特別徽章を除き勅令から姿を消しました。襟部徽章は、昭和13年
の陸達第31号で制式化し基本的な様式を変更せず、襟の大きさに合
わせ小型化し裏足式から縫付式に変更されました。昭和19年の陸達
第34号で通称号章は、再び隊号章に改名されました。隊号章は、昭和
20年の陸達第10号により廃止され各部隊は、必要に応じ各部隊長の
裁量に於いて適宜、符号及び徽章を装着しても良くなり、そして襟部徽
章から胸部徽章に仕様は、変更となりました。織出大量生産もあり、こ
の為か、これらの部隊章は、広く全国的に広まりました。







陸軍中尉 三式開襟防暑軍衣袴















陸軍 熱地用外被




この外套は熱地用外被です(未使用品)。
地質は、普通の綿布。開襟で前釦は、3個。脇下に空気抜きが有り。
剣留に”環”が付いています。剣留”環”は旧制では、左脇下に一箇
所と有りますが、これは二箇所付いてます。頭巾は、取り付ける様に
なっていません。後裂に釦無く、標記は通常左胸に有りますが、右に
有ると言う珍しい物です。


参考にヤフオクで出されていた品ですが、こちらは
試作の熱地用外被です。六号・昭和四年製・本廠
検定。開襟の三つ釦。脇下が広く開口しています。
両腰の帯革留めが欠品しているようです。







大橋 政一 陸軍少佐の三式軍衣(夏)




略綬は、イメージの合わせです。惜しい事に虫食い等の
痛みがあります。襟のホックも欠品無くなっています。
大橋少佐の軍衣等が入っていた代用行李です。
大橋少佐のフルネームが大きく記載されています。
一緒に入っていた勲章の箱です。空箱は勲四等瑞宝、
勲五等旭日、満州事変、皇紀2600年です。満州事変
のみ中身付き。また旭日と瑞宝は略綬付きです。



★意外な事から大橋少佐の身元が判明致しました。★




大橋政一氏は、上の画像にある武陽野球倶楽部(神戸二中・
兵庫高校野球部OB会)の17陽会の会長であり武陽鎮魂録”
名も千載にかんばし”(平成6年発刊)の編集委員会の会長で
した。その野球歴も輝かしいものです。旧制 神戸二中の野球
部で活躍し卒業後は、横浜高商(現在の横浜国立大学)に進
み野球部に在籍、インターハイの全国優勝。横濱高商卒業後、
会社経営の傍ら社会人チーム〈全神戸〉の主力選手として活
躍、昭和7年の第6回都市対抗野球大会で優勝しております。
昭和8年幹部候補生として大阪歩兵第三十七連隊に10ヶ月入
隊(2月1日〜11月30日)し。昭和11年陸軍歩兵少尉に任官。
その後の軍歴は、詳細は不明ですが敗戦時、陸軍少佐でした。
昭和13年当時の大橋政一氏
篠山の歩兵第七十連隊の兵舎前で16
陽会の目良誠中尉(この半年後、独立
守備歩兵第八大隊の将校として満州に
て戦死。)と写る大橋中尉(右)。
尚、その後の調べでは、大橋政一氏は、
平成11年4月25日午後2時28分、急性呼
吸不全の為、神戸市西区にある病院で亡
くなられておりました。享年88歳です。
…御冥福をお祈り致します。


こちらは、旧型の将校用行李です。




新たにヤフオクで入手致しました大橋少佐
の軍帽、九八式軍衣(襟章のみ三式少佐)
と別の将校用行李です。







九八式を改造した三式軍衣(陸軍少佐)






イメージで略綬を合わせています。
九八式軍衣を三式に改修した軍衣です。
両肩に通例肩章用のループが残ってい
ます。







陸軍軍医少佐 九八式軍衣(冬)




九八式少佐襟章、衛生部胸章(士官用)







在郷用の立襟です。砲兵科のクワ型が
付いていますが後付けのようです。
兵隊の兵科章の基本は、点付けです。
あわせで一等兵肩章を付けてみました。


綿入れ式の綿製上下で、代用軍衣とも称される
品です。軍衣は記名ありますが準未使用状態で
程度極美です。昭和十八年、大支検定、三号。
軍袴は組み合わせですが生地は全く同質で、
違和感がありません。こちらは、やや使用されて
おり程度は、美品です。昭和十七年、大支検定、
六号。


以下も未使用の下士官・兵 代用軍衣です。
中綿入りですが、通常の代用衣の様な肩当や肘当は
ありません。釦は、木製です。大号・昭和十九年製・
登一六二九部隊検定、未使用の面白い品です。









陸軍船舶工兵 水上作業衣袴










珍しくこの作業衣袴には、持ち主の写真があります。船舶工兵
兵士の軍服姿は、珍しい気がします。写真の人物は”○○晃”
と云い、如何にも若く徴兵検査直後の応召兵らしく"新兵さん”
という感じです。軍装は”水上作業衣”を着用しています。略帽
に軍衣は外物入れ(ポケット)が下についております。これは救
命胴衣が胸辺りに付けられるからでしょう。袖口を絞るバンドが
見えます。襟章は付けられておりません。軍袴は陸軍通常の物
より”だぶだぶ”に余裕有る造りになっております。これは水中
に落下した時に脱ぐのに都合が良いからでしょう。海軍水兵の
軍袴と同じ造りになっております。腰には銃剣を吊るしておりま
すが、軍衣の上から帯革を締めるのではなく、軍衣の下になっ
ております。陸上にいる時は恐らく通常の陸軍々衣袴でしよう。
物資不足で着丈を短くして”短ジャケット”タイプになっています。
両袖の二個のボタンは袖口を絞るバンドの止め用です陸軍工兵
の様に肩当ては有りません。右の袖口に絞り用のバンドが付い
ています。節約の為か水上で必要ないのか、サイドベンツと剣吊
りが省略されています。肩当が無いのが分かります。肘当ては、
袖口まで伸びてます。また通常の軍袴の物入れは脇に有ります
が、これは臀部に外物入れが付いてます。その隣にボタンが三
個付けられていますが、これも画像で分かりますが、着脱が少し
でも早く出来るようにとの仕組みのようです。腰紐は織り紐でな
く、平布を袋状にした紐です。この軍袴は軍衣が”大号”であるの
に"中号”で一揃いとなっています。軍袴の裾は海軍水兵と同じく
大きく造られていますが、水中で早く脱ぎやすい様に造られてい
ます。



陸軍船舶工兵 防寒水上作業衣袴




残念なことに上衣の方の襟部分は、戦後に
使用した為の改造が施されています。その
他は、オリジナルのままです。
上下共に通常の軍服の上に着用するもの
で非常に機能的に出来ています。


襟の他、裾は紐で締めるタイプですが
、紐が欠品しています。
小号、昭和十八年製、本廠検定


袴の方は、オリジナルのままの美品です。

バックルなどの金具に錆が見られますが、
それ以外は、非常に状態が良い品です。
中号、昭和十八年製、本廠検定


完全なオリジナル防寒作業衣です。
フード部も実に機能的です。
昭和十八年製、本廠検定、中号









陸軍船舶工兵 将校用水上作業衣




陸軍船舶工兵の将校用水上作業衣です。
形状として波形の肩補強が、下士官兵用
作業衣にも共通して特徴的です。大きな
傷みはありませんがボタンは全て下士兵
用銅釦に変えられています
記名布に青年団の名が墨書されて
います、戦後に使用し記入した物と
思われます。







陸軍士官学校・予科士官学校




陸軍士官学校 士官候補生軍衣
    (肩章に特別徽章、曹長の階級章)




陸軍予科士官学校の冬用軍衣です。予科士官学校は、
埼玉県朝霞台にありました。袖に折り返し線があるのが
予科士官学校の特徴で、士官学校に入るとこの折り返し
袖線がなく、普通の兵用軍衣と同じになるようです。
昭和18年の本廠検定ですが未使用のデットストックのよ
うです。曹長襟章と特別徽章を合せてみました。この特別
徽章は、昭和13年〜18年までは予科・士官学校ともに画
像のように金属星章が付けました。
肩章留があるのが判りります。

こちらは、昭和18年以降の刺繍の特別徽章を
合せてみました。この徽章は、”甲種幹部候補
生”や”操縦候補生”などになります。

上の曹長階級章の両脇にある星章は、幹候の座金
では、ありません。改正前の初期型の士官学校の襟
章になります。奥の銀色の部分は、襟の裏になり星
章が捻じ込みで襟の表に付くようになります。一般に
座金は、台座に星章が付いている物で台座も星章も
金色となります。またその下の特技勤務見習士官及
び准尉用の臂章の両脇の特別徽章ですが台座は、
茶褐絨で星章とモールは、金が士官学校及び予科士
官学校生徒となります。またこの他に技術士官候補
生や軍医候補生も同じ特別襟章となります。画像に
ある銀モールに銀星章の特別徽章は、甲幹候・操縦
候補・甲種予備候補生のものとなります。また経理学
校予科の場合は、台座が茶絨で銀モールと銀星章と
なります。因みに以下の画像の左の見習士官のように
隊付見習士官は、曹長の階級章をつけます。候補生
の場合は、下士官・兵の階級章をつけます(下の画像
右の方は、軍曹の階級章です。この方は、右胸に部隊
章を付けています)。


昭和十八年制度、甲種幹部候補生・
操縦候補生の特別徽章







部隊章




満州軍官学校予科から陸軍士官学校に進み卒業した
陸士57期卒、谷村義種 陸軍中尉の証書と写真。







陸軍士官学校等の外套




昭和19年製、二小号、廣支検定。未使用
のデットのようです。釦は、木製で金メッキ
も施されておらず、全体に末期の粗悪さが
あります。




外套に関しましては、各士官学校
に違いは、無く…共通です。



別の外套です。四大号・昭和十八年・
本廠検定・行田強力納大釦は金塗装
木製桜紋、小釦は黒色ベークライト製。


陸軍士官学校



左は、市ヶ谷台(陸士・予科士)、右は、
満州国軍官学校(同徳台)の溥儀皇帝

左は、修武台(陸軍航空士官学校)、
右は、相武台(陸軍士官学校)

左は、陸軍経理学校(河田町校舎)、
右は、振武台(陸軍予科士官学校)

陸軍航空士官学校(修武台)
…右は、陛下の行幸。

上は、雄健神社前の陸士生徒。下は、
座間への移転時の市民の歓迎を受け
る写真。

陸軍経理学校


陸軍予科士官学校(振武台)
…右端は、陛下の行幸


航空士官学校の御下賜記念のメダルです。







当時の御時世を反映するような面白い紙物








名古屋から神奈川の座間警察署に宛てた手紙と
神戸水上警察署の発行した刀剣類運搬届です。
昭和12年12月17日の日付があります。陸軍予備
士官学校を卒業につき叔父より祝いの日本刀を
東京の陸軍士官学校まで所持運搬する事の届出
を許可した書類です。手紙の方は、座間警察署に
愚息が士官学校に祝いの日本刀を持って入校して
上記の届出の書類を息子が持参し提出するはずで
したが、都合により福井県鯖江の連隊に入隊した
為…という母親からの警察に宛てた内容となってい
ます。12月25日の日付になっています。


◆面白い精密複製品◆
面白いので後学の為に入手した精密複製品です。桜釦
に生地などは、実物のようです。桜枝の星章も良い感じ
です。裏も皮張りで飴色の古色の出たもっともらしい一品
です。ディスプレイ用などでは、十分な一品だと感じます。







陸軍幼年学校




改正後の陸軍幼年学校 生徒軍衣袴と帯皮です。


陸軍幼年学校生徒の外套です。




別の外套ですが肩章は、切リ取られてい
ます。戦後も使われたようでかなり着込ま
れています。


こちらは、切り取られた幼年学校の
肩章のみです。敗戦国の悲哀を感じ
ずにいられません。


大正年間の広幼の卒業アルバムから抜粋した画像です。


東京陸軍幼年学校の卒業証書です。

















陸軍少年飛行学校 生徒軍衣袴




昭和18年10月の改正前の冬衣袴です。




肩章なし襟章もありません。肩章留と袖の緋線のみ残存
しています。昭和17年の生徒軍衣と18年の軍袴ですが
まだ金属の釦を使用しています。結構、使い込まれてい
ます。


昭和18年10月の改正以降の生徒夏軍衣袴です。


上下共に未使用の改正後の”大三号 昭和十九 本廠検定”
夏衣跨です。襟章がありません。夏衣には袖の緋線がありま
せん。釦は、物資不足を反映して木製に金塗装を施してあり
ます。






昭和18年製、大号の未使用の冬軍衣袴




こちらも未使用の冬軍衣袴となります。
上下とも昭和19年、三号







陸軍 各種学校生徒の軍衣袴




襟章と名札初付けの陸軍生徒の軍服ですが、
襟章の後ろの徽章が取外されているので何処
の学校かが不明です。袖線は、完全です。肩章
留は、ありますが肩章がありません。
飛行学校以外の野戦砲兵学校、防空学校、少年戦車学校
重砲兵学校、兵器学校(旧工科学校)、戸山学校軍楽生徒
などが考えられます。
上下共に程度は、非常に良い状態です!


上下揃い。記名はありますがただし注記を忘れたのか、
名札と軍袴は同一名ですが軍衣のみ記名が異なります。







陸軍 各種傷病兵衣




傷病兵衣

こちらが最も一般的なものです。


未使用 傷病兵衣


イメージで手許にあった患者用階級章の付いた
患者章(赤十字マーク)を合わせてみました。
階級は、尉官を示すようです。以下の画像は、
参考です。


こちらの患者章にも階級章があります。下士官
である事を示しているようで、特に星章を付け
て厳密な階級を表していなかったようです。中
には、通常の階級章を付けている写真なども見
る事があります。


この画像の傷病兵のように患者衣の胸に階級章を
付けるパターンが多かったようです。因みに、この
画像は、フィリッピンに派遣された”渡4801部隊”で
昭和18年3月に宇都宮陸軍病院の軍医 神山信雄
少佐を病院長とする将校35名を含む350名で、ルソ
ン島のバギオに”第74兵站病院が開設されました。
その病院の写真です。第74兵站病院は、開設当時
は、主にガダルカナル島やニューギニア戦線の後送
患者を中心に受け入れており、最盛期は、5000人
の患者を収容したようです。昭和20年1月、米軍の
リンガエン湾上陸以降は、北部のバギオも危険
になり4月に山地のトッカンに病院を撤収移転しまし
たが…野鳥も小動物もいない不毛の山地で、ゴキブ
リや野ネズミを食べてしのぐ飢餓地獄だったそうです
。最後は、こうした昆虫も食べつくし革靴を煮て飢え
を凌ぐ悲惨な状況だったと伝えられています。敗戦か
ら一ヶ月、この部隊が米軍に降伏した時に350名の
隊員のうち戦病死者83名、生死不明の従軍看護婦
は、13名だったと記録されています。


陸軍傷病兵外套
デットストックなのか未使用のようです。まだ
赤十字マークも縫い付けた跡もありません。
右が冬用傷病兵外套で左は、通常の外套


陸軍患者防寒足袋の未使用で中号。


患者防寒足袋の大号



陸軍の患者用防寒足袋と院内足袋です。



日本赤十字の患者衣(夏衣)
患者章は、夏衣や外套では、左臂にマントでは、
左胸に縫い付けられます。大きさも規定があり
58o×58oが基本とされています。
御覧のように日赤の患者衣です。基本的に
傷痍軍人用と変りません。左肩の部分に傷
病兵用と同じ赤十字の布が張られており、こ
れも軍用と何等変りません。軍・民共に同じ
形式だったようです。検査印は、昭和2年5
月26日となっております。









陸軍衛生腕章です。



陸軍 衛生作業衣



衛生関係の作業に当たる時に軍衣の上から
着用した品のようです。開襟状態ですが、釦
は一番上の5つ目までちゃんと付いています
。未使用品のようです。昭和十七年、大支検
定、五号です。







陸軍軍医の術着




手術の際に着るガウンのようなものです。オートクレープ
やガス滅菌器が当たり前に使用されていない時代の術着
ですが…未使用品なのかとてもきれいです。


元陸軍軍医大尉だった方の術衣との事です。衛生腕章は、
御当人が戦後になって当時の赤十字部分を切り取って新
しく貼り付けて作ったそうです。何故か背中に大尉の襟章
を縫付けています。これが理解に苦しみます。







陸軍軍医の手術用ガウン(前掛)
     未使用の新品のデットストック



















ビックネームの軍医時代の三式開襟軍衣




こちらの三式開襟少尉の軍衣は、有名な歌人であり精神科医で
あった 斉藤茂吉 先生の長男である斉藤茂太先生(精神科医:
存命です)の軍医時代のものです。山形出身の斉藤茂吉先生の
事は、余りにも有名なので説明は、割愛します。斉藤茂太先生も
精神科医で有名な方です。弟に作家で精神科医の北杜夫先生
がおられます。齋藤茂太先生は、1926年、東京生まれ。医学博
士、医療法人財団 斎藤病院 名誉院長、日本神経病院協会名
誉会長、アルコール健康医学協会会長などの要職を歴任されて
おります。府中の斉藤病院は、現在、御子息が後継として
継承されているようです。
(以下、医療法人財団 斉藤病院)

   








父上の斉藤茂吉先生の本です。







軍医中尉の九八式軍衣








八木という軍医中尉の方の九八式軍衣です。衛生科の山型胸章に
大型の三式階級章がついております。下の画像は、八木軍医が使用
されていたもののようです。









四五式軍衣袴(将校用):佐藤軍医の所持品




衛生部の鍬型も健全の将校用軍衣袴です。
イメージでで中尉の肩章を合わせてみました。






軍帽覆が2点と腕章1点です。腕章は、大東亜戦争
の頃のものと思います。多分、退役して民間のボラ
ンティアとして医療を行った時のものと考えます。







軍医少尉の九八式軍衣袴
      (昭五式の改造した軍衣)




衛生部の将校用の山型胸章の
ある友松少尉の軍服です。


襟を立てると一目瞭然で元は、立襟だった事が
判ります。肩に通例肩章を止める糸掛が見えます。








補充手帳及び軍隊手帳より神戸市須磨区で医師をしていた
友松幸雄氏である事がわかります。明治40年の生まれで本
籍地は、大分県です。昭和2年に補充兵兵役。昭和12年9月
1日に熊本陸軍病院に應召入隊になります。同日に熊本陸
軍病院健軍臨時分院に配属となります。ここで衛生兵教育を
実施され教育は、10月10日に終了します。翌日、召集解除に
なり、同日、軍医予備員教育の為、熊本陸軍病院に應召入隊
(衛生上等兵に昇進)になり、また健軍臨時分院に配属となり
ます。10月11日、軍医予備員候補者を命じられ任・陸軍衛生
伍長。10月20日に衛生軍曹に任じられ同日、召集解除になっ
ています。軍隊手帳の記載は、ここで終わります。補充兵手帳
には、その後、昭和14年度未入営補充兵終了の印があります
。おそらく軍医予備員として暫く市井で存在し、その後軍医少
尉として任官したものと思われます。それが昭和16年の日米戦
の開始によるものか、その前の昭和15年なのかは、何の記載
も無いので判りませんが…何となく大東亜戦争により軍医不足
で駆り出されたのでは、無いでしょうかと思います。



友松軍医少尉の所持アルバムより



赤十字のマークに2597の番号があるアルバムです。
皇紀2597年 昭和12年の日赤大阪のアルバムです。
召集解除後に大阪の日赤に勤務されたのかもしれま
せんがアルバムの中身には、友松少尉の名前は、見
当たりません。場合によっては、この看護婦さんと御
結婚でもされたのかも?…などと想像します。いずれ
にしても大阪日赤は、昭和12年12月に大阪陸軍病院
赤十字病院となります。多くの看護婦さんが従軍看護
婦として戦地に赴かれた事と思います。






左の方は、小野総監督…今で言う総婦長のようです。
どうやら襟の桐花章が1つが一般の正看護婦、2つで
婦長、3つで総監督(総婦長)のようです。このアルバ
ムは、正看護婦さん達の寮生活、各地への旅行や研修
などの卒業アルバムのような物のようです。


cf.大阪日赤に関しまして

大阪赤十字病院は日本赤十字社大阪支部病院として、
博愛の精神に基づいて一般診療及び救療事業を目的
とし、併せて優秀な看護婦の養成をするため明治42年
に創立されて今に至っています。

<沿革>

明治42年5月8日 創立(200床)看護婦養成所併設
昭和2年〜昭和9年 鉄筋コンクリート5階建病棟(850床)に改築
昭和12年12月 大阪陸軍病院赤十字病院となる
昭和20年11月〜12月 連合軍に接収される
昭和21年1月 天王寺生魂国民学校講堂に移転
昭和22年2月 東区法円坂、元22部隊後に移転
昭和31年4月 筆ヶ崎町に復帰(精神神経科は法円坂に分院として残す)
昭和34年9月 外来棟、管理棟落成
昭和42年4月 東区法円坂、大阪府立大手前整肢学園開設
昭和49年4月 看護婦寄宿舎修和療、看護学校新築
昭和50年8月 本院に精神神経科を移転(精神神経科病棟新築)
昭和62年11月 健診センター完成
平成元年4月 神経内科開設
平成2年6月 半日ドック開始
平成6年4月 心臓血管外科開設
平成8年11月 腎臓内科設置
平成9年3月 災害拠点病院の指定
平成10年3月 東病棟完成
平成10年5月 脳ドック開設
平成11年4月 リハビリテーション科、循環器科の開設
平成14年8月 外来オーダリングシステム稼動
平成14年12月 大阪府地域がん診療拠点病院の指定
平成15年7月 新本館竣工
平成15年8月 新本館全面禁煙実施
平成15年9月 病棟移転
平成15年12月 外来移転
平成16年1月 新本館外来オープン
平成16年1月 消化器科開設

名 称 大阪赤十字病院
院 長 本田 孔士 氏
所在地 大阪市天王寺区筆ヶ崎町5番30号
敷 地 53,007m2
建物延面積 76,090m2
病床数 1,021床(一般 979床(内、 整肢学園分は82床)、
           精神 42床)

職員数 〈医師〉180名 〈看護師〉643名 〈技士〉145名 
     〈事務職員〉104名



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大先輩が所持している三式軍医少尉軍衣袴




仕事の上でも人生においても大先輩である収集家
の方の所持している非常に美しい上下の三式軍医
少尉の軍衣軍袴です。




ここまで極美の状態の良い上下は、余り
見掛けませんので紹介させていただきま
した。











陸軍 衛生部将校 腕章






腕章の表地は、白羅紗。裏地は、木綿製。赤十字の緋絨に
数カ所虫食いを認めます。真鍮鳩目・松葉ピン・留め紐は、
完全です。肋骨〜戦地服〜三九式・四五式軍服などの古い
品で、後の時代の衛生部腕章や臂章より残存数が少なく
希少なもの思われます。







陸軍衛生兵の衛生嚢(極美品)




珍しく負革に専用の腰革が付いています。革が生きて
いて時代を考えると保存状態の良さに驚きます。

陸軍衛生兵が使用した衛生嚢です。四十年式衛生嚢
よりも新型の衛生嚢とのことです。









在郷軍人用の四五式軍衣と軍帽




手持ちの上等兵肩章を合わせてみました。









四五式軍衣袴(在郷軍人用・歩兵伍長さんの)




東京麹町西脇軍服店製のカーキ絨衣袴揃です。
歩兵科大型襟章・肩章留・袖章・側章・剣吊 
すべて当時縫い付けの完全オリジナル品です。
襟章は、総て縁をミシン縫いした古いタイプ
の型で、4点糸止めの取り付け。緋線は毛
糸蛇腹組紐線です。
裏地は、派手な縦縞模様。羅紗製の軍衣袴で一見、
将校服のように見えてしまう仕立ての良いものです。
状態は、良くありませんが、四五式伍長肩章
と在郷軍人会の徽章は、当人の所持品です。







四五式将校用(改造)軍衣袴(冬用)






剣吊りと前ポケットが外されています。元々兵・下士官用
の物を将校用に仕立てたものでしょう。襟の鍬型(歩兵科
)の外した残りがあります。裏地に桜の刺繍があります。
イメージで中尉の肩章を付けてみました。







四五式将校用 軍衣(夏用)




襟章は初付け、肩章と略綬板も全て一緒に出た品との
事で軍衣と全て同一人物のオリジナルの所持品のよう
です。服は、東京の高級軍服店”市瀬テーラー”の仕立
て。襟高のタイプで5.5pもあります。使用感は、ありま
せんが、全体的に大小いくつもの虫食い穴があります。
肩章は、モールがゴリッとした古い形式の品ですが、両
方とも裏金具に爪折れ破損があります。略綬板は、綬の
半分を重ねる珍しい形式で、四連を2個重ねています。
瑞宝、旭日、金鵄、日露、大正大礼、青島、戦捷、赤十字
(これのみ破れ気味)です。







四五式外套(下士官・兵用)






四五式、三号、大正四年製、本廠検定。肩章
留めは初付け、ボタンもすべて初付けのまま
残っています。襟やフードもオリジナル。但し、
袖線だけは外されています。イメージで手持ち
の一等兵肩章を付けて見ました。







四五式外套(将校用)




イメージで手持ちの中尉階級章
を合わせて見ました。
表に虫舐めや虫食いがあり、裏地に痛みありますが
袖線の緋線もオリジナルで完全です。総じて良好と
言える品だと思います。







改四五式 兵・下士官用 軍衣袴




冬用です。軍衣は、大正十一年の三号。
軍短跨は、大正十年の二号です。
手持ちの曹長の肩章と下士官勤功章を合わせて
見ました。右胸の下に徽章取り付けの糸かがり2
本ありますが切れています。







改四五式を九八式仕様に変更した兵・下士官用の軍衣




立襟の改四五式を折襟の九八式仕様に改造した
軍衣です。右胸に略綬板と下士官勤功章用の糸
かがりがあります。かなり古参兵の物のようでした
ので、イメージで階級章などを合わせて見ました。
大正十年製、本廠検定、四号。二線善行章に
下士官勤功章、軍曹の階級章に略綬を配して見ま
した。







過渡期の改四五式 兵・下士官用軍衣






大正9年製の改四五式軍衣です。
陸軍伍長の階級章がついていま
す。立襟から九八式への過渡期に
見られた軍装です。







改四五式 将校用(夏季)軍衣




歩兵科中尉の夏季軍衣です。鍬型は、初付けですが
色が滲んで軍衣に付着しています。







昭五式軍衣(兵・下士官用)






歩兵二連隊の古兵仕様の昭五式です。
兵科章、連隊番号、三連精勤章は、全
て実物官給品の後付けです。三線善
行章に一等兵肩章は、合わないので
軍曹肩章を合わせて見ました。







四五式軍衣(兵・下士官用)






赤袖線付きの四五式軍衣です。ただし袖線は
実物の精巧再取り付けのようです。右胸に
下士官勤功章用の糸かがり(初付け)あり。
下士官勤功章と四五式軍曹肩と二線善章、
工兵科の鍬型(電信隊徽章と六連隊番号章付
)を合わせて見ました。尚、略綬は、軍衣と一緒
に出た四連略綬板で(旭日、青島、戦勝、赤十
字です)すがボロボロです。…やはりこうしてみ
ると四五式は、いいですね!







三八式歩兵科将校用軍衣袴(夏用)






珍しい三八式の軍衣袴です。軍袴に少し汚れ有りますが、
状態最良・痛み等ありません。御存知のように明治三十八
年に七月二十一日に勅令第百九十六号で「陸軍戦時服服
制」の新しい規定で、それまでの十九年制軍衣が戦時の大
量動員に向かない事と戦場でのカモフラージュの点でカーキ
色の簡略な作りが良いと言う事となり、この三八式軍衣が生
まれました。ほぼその後に続く四五式、改四五式、昭五式な
どの立襟の原型となった軍衣です。改四五式との違いは、
以下、

 1.肩章の取り付けは糸紐になっている事。
 2.ポケッとが大きい事。
 3.ベンツの留めがフックになっている事。
 4.裏地の造りが違う事。

並べてみると一目瞭然です。明治38年(1905年)〜明治
45年(1911年)までの間、使われた軍服ですので…約100
年前の物となります。大した物です。




イメージで手持ちの中尉肩章と
略綬を合わせて見ました。



三八式マント(将校用):スリーシーズン




スリーシズンのマントと言われているようです。
あまり見た事が無いマントです。憲兵マントとま
でいきませんが…かなり短いマントです。
一番左は、スリット部分、真ん中は、金属星章でない
尉官を表す刺繍の星章、右は、裏地です。


    特徴

   1.  背丈が低い訳では無いのに着丈が短い(約10cm)。
   2.  襟章は明治特有の小型の星章が付いてます。
   3.  前釦は通常五個なのに四個しか付いていません。
   4.  このマントの一番の特徴は頭巾を止めるのに紐を使うのか
       襟裏に紐が付いてます。
   背面に2mm程度の穴一個所有りますが状態は良好です。




三八式肩章




中尉肩章
特務曹長(准尉)肩章の美品ですが片方のみです。
少尉相当官肩章







三八式 主計科将校 軍衣(夏用)




経理部将校銀茶色襟章(ミシン縁取りの取付)・相当官銀色釦
オリジナル。あまり見掛けない、古い将校服独特の胸物入れ蓋
の裁断形状で、釦の配列が下部までゆったりと付いています。
しています。腰物入れの蓋は、当時、中に入れておく物でしたの
でで敢えて仕舞って撮影されています。現実には、蓋は、付いて
います。
地質は将校セル地で、これもあまり見掛けないカーキ
ではなく濃い目の鼠色と緑系を混ぜた様な色合い。
状態は、相当古い将校夏衣なので大小虫食い散在し
ます。御存知のように大正11年9月26日の改正で、
相当官の銀釦は金色となります。この軍衣は、銀釦な
ので改正前のものになります。







三九年式 将校用 軍衣袴(夏用 オーダー品)




明治39年制定で四五式と同じで軍衣の
袖に緋線と軍袴の側線にも緋線がありま
す。鍬型の兵科色は、濃紺です。
叩上げで将校になられた方の
ようで曹長の肩章がありました。







三八式〜四五式時代の
          衛生部 将校用 軍衣(夏用)




元々、上の主計科の夏用軍衣のように相当官
銀色釦が付いた三八式〜四五式初期頃の仕立
ての夏用軍衣を大正十一年の改正に伴い、金色
金属釦に当時取り替えた品のようです。経年によ
り小虫食いが散在し縫製の糸切れなどありますが
使用感の少ない高級仕立の夏用軍衣です。

鍬形の縫製が見事でコの字型に三方を全て縫い目
に巻き込みカーブ切れ込み部分は、ミシンで縫付し
て取付しています。同じ所持者の相当官用の三八式
〜四五式軍衣(緋線付)は、廣島津村商店のテーラ
ータグがあり、同じ鍬形の縫製だったとの事ですので
本品も同じ店の熟練の職人の手による逸品と思われ
ます。袖の裏地は、帯赤褐色の雲斎を摘まで付けた
だけの真夏用で、胸物入れの釦ホールはダミーとな
っておりとても粋な仕上げでになっています。襟の釣
り紐や刀裂の留紐は、カーキー戦地服の袖章と同一
の素材を仕様しています。留めボタンも異形です。







憲兵下士官の行李








この代用行李には、境港憲兵隊 権平と名前が
書き込まれております。2箇所に鍵がついてます。
きれいな状態です。







陸軍の軍服…次のページへ続きます。



今回、収集品の虫干しの為、倉庫より一時、出した
収集品の一部を画像に収めてUPしてみました。
まだまだ仕事が忙しくて収集品の整理が出来ており
ません。今後、少しずつ更に奥に仕舞われたままの
収集品も、新しく収集した品も含めて、画像アップし
ていきたいと考えております。




九六式軽機関銃のモデルガンです。
金属製でなくABS製ですが…良い雰
囲気を出しています。
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士