旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_20














Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連









(大日本帝國陸軍砲兵隊シリーズ 1/25)

 完全手作り真鍮無垢材削り出しシリーズ
   二十五分の一スケール模型: 帝國陸軍

   明治陸軍で活躍した鋼製十五糎臼砲

         (重砲兵第五聯隊をイメージ)




真鍮手作り模型シリーズでお馴染みの匠の制作の十五糎臼砲
です。明治陸軍では、九糎臼砲と共に日清戦争以来…大東亜
戦争でも使用されました。また余りにも有名な二十八糎榴弾砲
と共に日露戦争を大勝利に導いた栄光ある要塞砲です。
資料から移動の為の牽引用の車輪も見事に再現されています。
何よりもこのフォルムを見ると日露戦争を…”坂の上の雲”を彷彿
とさせてくれます。黎明期の帝國陸軍を支え戦い続けた古びた臼
砲は…大東亜戦争の緒戦にも香港攻略戦〜コレヒドール要塞攻
略戦と活躍しました。そして国内各地の拠点要塞にも旧式ながら
敗戦の時まで現役で使われ続けました。


日露戦争の立役者で象徴的な二十八糎榴弾砲(左上)と右上は鋼製九糎臼砲です。
沖縄市戦後文化資料展示室に展示されている独立臼砲第一聯隊に配備された六門
の九糎臼砲のうち今も残存する唯一の砲です。こちらも下の鋼製十五糎臼砲と共に
日清戦争から日露戦争…そして大東亜戦争まで帝國陸軍の歴史と共に存在した砲
であります。この十五糎臼砲は九糎臼砲を拡大して明治26年に制定。大阪砲兵工廠
で試作・生産されました。

◆ 十 五 糎 臼 砲 ◆

 〜基本スペック〜

  口 径 149.1mm
  砲 身 1100m
  初 速 242m/秒
  射 程 4,750m
  重 量 1470Kg

十五糎臼砲の牽引を見事に再現しました。










今回、匠は下関重砲兵五聯隊をイメージして作品を制作されました。
この鋼製十五糎臼砲は国内の多くの要塞で使用され配備されていま
した。函館要塞(千畳敷砲台と薬師山砲台に各四門)、舞鶴要塞でも
槙山砲台に四門…また由良要塞(生石山堡塁に深山第一砲台)と
大分の仙崎砲台、
下関要塞(日ノ山砲台・第四砲台)などは敗戦まで
現役で配備されておりました。
また守る側の要塞ばかりでなく…攻め手で要塞攻略の際も旅順攻撃
の時の様に活躍した砲であります。大東亜戦争では緒戦の大勝利に
貢献しております。開戦時に第一砲兵隊は要塞等の強固な敵陣地を
砲撃により制圧する事を目的に編制された帝國陸軍最強の砲兵部隊
であります。香港攻略戦に第23軍に所属して参加。英軍が九龍半島
に築いた”ジン・ドリンカーズ・ライン”要塞と香港島の英軍陣地の制圧
を目的としましたが。”ジン・ドリンカーズ・ライン”は、斥候の歩兵第二
百二十八連隊の一中隊長(若林中尉)の独断専行に端を発した攻撃
で早々に陥落してしまい殆ど活躍の場がありませんでしたが…香港島
への攻撃では英軍の砲兵陣地とヴィクトリア市街を砲撃して上陸部隊
の支援を行いその威力を発揮しました。こうして敵陣地を叩き香港島
攻略戦を成功に導きました。(昭和19年12月8日〜12月25日)

        ≪香港攻略戦での第一砲兵隊戦力≫
   
        第一砲兵隊司令官:北島驥子雄中将

 ・重砲兵第一聯隊 (四五式二十四糎榴弾砲 八門)
 ・独立重砲兵第二大隊 (八九式十五糎加農砲 八門)
 ・独立重砲兵第三大隊 (八九式十五糎加農砲 八門)
 ・野戦重砲兵第十四聯隊第一大隊 (四年式十五糎榴弾砲 六門)
 ・独立臼砲第二大隊 (鋼製十五糎臼砲 十二門)
 ・砲兵情報第五聯隊 (測地中隊・標定中隊・音源中隊)
 ・第三牽引自動車隊
(牽引車三十二輌)

続く比島攻略戦では昭和17年年4月3日から始まった第二次バターン半
島攻略戦から第一砲兵隊が参加します。敵陣地を砲撃して味方部隊の
前進を支援。同年4月14日からコレヒドール要塞に至る攻撃では日米
双方の激しい砲撃戦を数日間継続します。そして最後は4月19日に砲撃
した砲弾が敵要塞の弾薬庫を直撃しを大爆発を起こし、翌20日には米軍
が頼みにする4門の36p砲も粉砕し、砲撃戦に決着がつきます。5月5日
に日本軍上陸部隊(歩兵第六十一聯隊の2個大隊と戦車第七聯隊の一
部)がコレヒドール島に上陸。翌6日に米軍が降伏して占領を果たしまし
た。

     ≪コレヒドール要塞攻略時での第一砲兵隊戦力

 ・重砲兵第一聯隊 (四五式二十四糎榴弾砲 八門)
 ・野戦重砲兵第一聯隊 (九六式十五糎榴弾砲 二十四門)
 ・野戦重砲兵第八聯隊 (九二式十糎榴弾砲 十六門)
 ・独立重砲兵第九大隊 (八九式十五糎加農砲 八門)
 ・独立重砲兵第二中隊 (九六式十糎加農砲 一門
                 九六式二十四糎榴弾砲 一門)
 ・独立臼砲第十四大隊 (九八式臼砲 十六門)
 ・独立臼砲第十五大隊 (九八式臼砲 八門)
 ・独立臼砲第二大隊 (鋼製十五糎臼砲 十二門)
 ・迫撃砲兵第三大隊 (九四式九糎軽迫撃砲 三十六門)
 ・砲兵情報第五聯隊 (測地中隊・標定中隊・音源中隊)
 ・独立気球第一中隊
 ・第三牽引自動車隊 (牽引車三十二輌)


日米



例によって匠の資料と制作過程の一部を紹介です。









歴戦の搭乗員で敗戦時に
 四式戦と五式戦で最後の陸軍戦闘機隊
  飛行第百十一戦隊(帥第34127)の戦隊長
   石川 正 陸軍中佐(陸士40期)の紙物資料等




敗戦末期の昭和20年7月18日、明野教導飛行師団第一教導飛行隊を母体に
編成された最後の陸軍戦闘機隊が飛行第百十一戰隊と百十二戦隊です。そ
の飛行第百十一戰隊の戦隊長を務めたのが石川 正 陸軍中佐です。この
石川 中佐の珍しい東京陸軍幼年学校への入校を許可する書類と幼年学校
の卒業証書になります。全てヤフオクで勲記類と共に従軍記章が切り売りさ
れてその一部を手に入れたものです。
この書類から敗戦まで約24年に渡る石川 中佐の軍人としてキャリアが
スタートしました。大正13年に幼年学校を卒業した中佐は陸士(40期)に
進み…昭和3年10月に陸士を卒業し任官します。
末期の昭和20年春以降、陸軍航空の攻撃戦力の主体は特攻隊しか
有り得ませんでした。その特攻攻撃を成功させるポイントは特攻隊を
目標上空に確実に到達させる事でした。その為には、捜索、誘導、
掩護が重要となります。陸軍航空は、天号作戦引き当ての戦力を除き
残された最後の優良な人員と器材を結集して戦闘隊と偵察隊を編成し
ました。そして7月10日、第20戦闘飛行集団司令部が編成されました。
その隷下に明野及び常陸教導飛行師団の人員、器材を基幹として編
成されたのが飛行第111戦隊(石川 正中佐)、同第112戦隊(檮原 
秀見 中佐 陸士38期) でした。両戦隊は編制定員411名、飛行機定
数五式戦55機、外に予備機28機を有し、当時における陸軍の最強戦
闘戦隊でありました。明野教導飛行師団の教官たちの飛行隊から改
編されたのが111 戦隊で、 飛行隊長は義足のエースで有名な檜 與
平 少佐です。石川 中佐は飛行第50戦隊をひきいてビルマで戦い、
後に航空審査部の戦闘機隊長を務め、檮原 中佐は飛行第24戦隊を
ひきいてノモハンで戦った共に陸軍屈指の名パイロットでした。
飛行第百十一戰隊の戦隊長を務めた石川 正 陸軍中佐は、歴戦の搭乗員で
あり戦闘機乗りとして5機の公式撃墜スコアーを持つ撃墜王の一人でもありま
す。この飛行第百十一戰隊は大阪の佐野飛行場で編成され五式戦を四個中
隊、四式戦”疾風”(一個中隊)の戦力を擁しておりましたが、編成直前の7月
16日に明野教導飛行師団第一教導飛行隊として邀撃戦を行いP-51Dを11機
撃墜する戦果を上げましたが、飛行第百十一戰隊と百十二戦隊がスタートし
てからは一か月後の敗戦まで温存され一度も実戦を行わないまま愛知県の
小牧飛行場で敗戦を迎えました。この最後の戦闘となった昭和20年7月16日
の戦いは義足エースとして名高い檜 與平 陸軍少佐(当時、大尉)が立役者
でした。111戦隊に大隊長として檜 與平 大尉を航空審査部から引き抜いた
のも同じ航空審査部のテストパイロットから戦隊長に転出した石川中佐でした
。この日、111戦隊所属の24機の五式戦が硫黄島から出撃した96機のP-51D
を迎撃しました。“義足のエース”檜 與平 少佐がP-51Dに乗るジョン・ベンボウ
大尉機を見事に撃墜しています。一式戦”隼”で昭和18年に同じP-51Dに襲わ
れ片足を失った仇を見事に取った形です。この日、敵P-51Dを11機撃墜し
111戦隊は出撃24機中5機を失い3名が戦死しています。少佐は最大で15機
のP-51Dに包囲されましたが巧みに敵をあしらい無事に帰還を遂げています。
さすがは加藤隼戦隊を代表するエースパイロットの一人です。公式撃墜記録30
機は伊達では無いと謂う事を見事に証明した邀撃戦と謂えます。
支那事変の物で従軍記章もあります。
支那事変では大きな活躍は無かった中佐ですが、後に飛行第33戦隊の
第一中隊長の時に昭和14年のノモンハン事件の末期の航空戦に参加し
て3回の空戦を戦っています。
石川中佐は111戦隊長を引き受ける前は陸軍航空審査部の戦闘機隊長を
務めました。その前はビルマで飛行第50戦隊長として戦っていました。この
時、飛行第50戦隊の三羽烏(別に少飛6期の三羽烏)と謂えば有名な穴吹
悟 陸軍曹長に佐々木 勇 陸軍准尉、下川 幸雄 陸軍曹長が知られていま
す。そして穴吹曹長は航空審査部から明野教導飛行師団教導飛行隊で五
式戦に乗りB-29を撃墜し、佐々木 准尉も陸軍航空審査部で四式戦”疾風”
でB-29迎撃戦を繰り返し敗戦までに6機を撃墜し3機を撃破し陸軍武功徽
章(乙種)を受けています。そして下川 幸雄 陸軍曹長は昭和18年秋にB-
24を攻撃中に敵の機銃掃射を受けて負傷し左目を失い隻眼となります。しか
し…輸送機搭乗員として復帰します。そして昭和20年3月19日の呉大空襲で
は急遽、迎撃に上がり見事にF6Fヘルキャットを一機撃墜します。しかし自機
も被弾し火傷を負いました。こうして見ると歴戦で生き残った技量甲のパイロ
ットは長い消耗戦の果てに数少なく…戦後まで生き残る方は陸海軍共に珍し
く強運と共にずば抜けた技量を証明するものと思います。





エンジンの無い首なしの三式戦を苦肉の策で空冷の
ハ112-II(海軍で謂う金星62型)を搭載したところ…
大東亜決戦機と謂われた四式戦”疾風”を上回る傑
作機が誕生しました。稼働率が高く高空での性能も
低空での性能も文句なしで…末期の仇花のように咲
いた幻の戦闘機とも謂えます。と謂うのも生産機数が
400機にも満たない為、連合軍のコードネームすらな
かった戦闘機です。
上は飛行第111戦隊第一大隊機の五式戦です。
下は飛行第111戦隊の飛行隊長の檜 少佐機を
再現した五式戦。


ウイングキットコレクションの五式戦 飛行第111戦隊第一大隊機です。




上はビルマに於ける飛行第50戦隊の出撃前の石川少佐が訓示
している写真です。右端が戦隊長の石川少佐です。遠くに一式
戦”隼”が並べられています。この後、指揮官陣頭で石川戦隊長
機を先頭に出撃しています。下は飛行第50戦隊第2中隊所属の
一式戦”隼”二型です。不時着したのか…特徴的な稲妻のマー
キングが印象的です。









珍しい元箱の残る
 満州國協和會儀禮章(美品)




元箱附きの非常に美品の満州國協和會儀禮章です。
満州國協和會で協和服と共に佩用したものです。今と
なれば協和服も珍しいですが、この儀禮章ももっと珍し
いものとなっています。僅かな期間に仇花の様に滅び
た国の品です。









  ◆満州國協和會◆


満州國協和會とは満州事変以後、中華民国からの分離
独立や王道政治に基づく新国家建設の理念を説いた「
自治指導部」が協和会の起源である。満州国建国に至
り、自治指導部は発展的解消したが、官民の一体化を
図る何らかの組織が必要ということで、新たに「満州国
協和会」が結成されました。協和会は、満州国政府と表
裏一体となって建国理想(王道楽土の建設)の実現を
図るべく、国民に対する教化を進めていきました。協和
会の基本的単位は「分会」で、地域毎に設立されました
。そして、各地方行政機関ごとに本部が設置され、これ
らの分会を統括しました。また開設されなかった立法院
に代わり、分会代表が参集した連合協議会が実質的に
民意を汲み取る機関として期待され、石原莞爾将軍に
至っては協和会を関東軍に代わる「将来の主権者」とし
て設定し、協和会による一党独裁制を志向していました

                 

 <綱領>

   満州帝国協和会は唯 団体として政府と表裏一体と
     なり一永久、挙国一致の実践               


   建国精神を顕揚し 民族協和を実現し 宣徳達情を
   徹底し 国民生活を向上し民動員を完成し 以って
建国理想の実現、道義世界の創建を期す。





実際に佩用している当時の画像です!


下の画像は、有名な甘粕大尉の協和服姿です。


満州国協和會の徽章です。







             ↑
こちらをクリックすると別なページで収載した
満州國協和會儀禮章と協和服各種が見れ
ます。


画像一部引用の出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







高名な戦争画家・海保 秀一 氏が
 先輩に贈った九七式重爆撃機の油絵


















下は別に収載してある海法作品です。
随分前に入手した絵画です。平成16年6月22日に故人となられました高名な
航空機画家の海法秀一氏の作品であり…彼の実体験で想い出深い九七式戦
闘機と二式高練を描いた千葉の横芝飛行場…第三十九教育飛行隊で当時
陸軍伍長で助教をして少飛14〜15期の教育指導に当たる傍ら、迎撃戦でこの
7.7o機銃を一丁しか積んでいない二式高練(しかも九七式戦闘機の750馬力
を450馬力に落としたエンジンを使用)でグラマンF6FやF4Uコルせアに果敢に
も挑み戦った時代を描写したものと思われる絵画でした。

海法秀一氏は、少飛十三期生。昭和16年10月1日、日米開戦の2か月前に立
川の東京陸軍航空学校(八期生)に入学。昭和17年夏に大刀洗陸軍飛行学
校。続いて陸軍熊谷飛行学校新田分教場。そして北朝鮮の連浦にある朝鮮
一〇〇部隊第十一教育飛行隊。その後、配属されたのが千葉・横芝飛行場の
第三十九教育飛行隊です。初の実戦参加は昭和20年2月16日の迎撃戦です
。九七式戦闘機を複座にした練習機である二式高練で米機動部隊の艦載機
であるF6Fに挑むのだから恐れ入ります。最高速度も僅かに340 km/hしか出
ず対してグラマンは、610 km/hを優に超す最高速度を誇ります。武装と謂い
性能と謂い大人と子供の違いがありますした。この初陣で海法氏は、敵機と交
戦中に被弾しエンジンが止まりかろうじて横芝飛行場から少し離れた海保神
社に不時着します。顔に軽傷を負いますが…凄いのは飛行場から約50km離
れた海保神社で自転車を借りて、後に義父となる海保さんを後ろに乗せて基
地まで帰投し、そこで第三波の敵艦載機の襲撃を負傷した同僚の愛機である
九七式戦闘機に乗り再びグラマンを求めて飛び上り銚子沖の屏風岩の上空で
敵と交戦する前に再びエンジンが止まり…今度は滑空しながら、次に紹介する
海軍の香取基地に着陸します。その後、米軍の襲来は艦載機だけでなく硫黄
島からのP51も加わり…以降は激しい迎撃戦を繰り返します。昭和20年5月に
なると千葉の横芝基地から埼玉の狭山飛行場へ部隊ごと移動。既に訓練生は
全員が特攻や防空戦闘の実戦部隊に巣立ち残った教官・助教で独立三十九
中隊のような存在で以降、敗戦まで首都圏の防空戦闘と迎撃戦闘に明け暮れ
ています。…そして敗戦後も海法軍曹等は、9月上旬過ぎまで九九高練を白
塗りにし日の丸の国籍マークを緑十字に染めて連絡業務で東北方面や北海道
の函館までを連絡飛行で最後の御奉公を勤めたと謂います。

海法氏は一式戦”隼”T,U,V型をはじめ、三式戦”飛燕”等の操縦桿を握っ
た戦闘機パイロットでした。空戦20回。撃墜は、グラマン1機、共同撃墜6機を
記録されています。また敗戦までに実に7回撃墜されその都度、落下傘降下で
命をとりとめて戦線復帰を果たしたツワモノでもありました。

また海法氏といえば有名なエピソードがあります。昭和20年1月未、千葉と茨
城県境の上空で機体を損傷したB29爆撃機から脱出した米兵が、パラシュート
降下しました。ここに急接近する日本軍機がありました。当然、落下傘で降下
中の米兵は、戦闘機による機銃掃射を覚悟しましたが、日本機の搭乗員は、
機中から敬礼をして旋回して帰投しました。「武士道に命を救われた」と感じた
米兵は、戦後もこの敬礼した日本機の元搭乗員を捜し求め、平成12年10月
23日に55年ぶりの再会を地上で果たしました。これが海法氏でした。当時、
存命だった海法氏の千葉県船橋市内の自宅を訊問した元米兵に、再び丁重
に″返礼″したとの事です。当時、美談として新聞やマスコミで取り上げられ
ましたのでご記憶の方も多いと存じます。尚、この米兵だった方は、当時、B29
爆撃機の航法士で米カリフォルニア州在住の陸運会社元社長R・H・ハローラ
ンさん(78)でした。彼のB29は…この日、サイパン島を出撃しましたが日本の
戦闘機に迎撃され、高度約七千mで脱出を余儀なくされました。この海法氏の
敬礼の事は、彼の著作である「ハップス(私の)戦争」のなかでも詳しく紹介さ
れており、死を覚悟していたハローラン氏は、「これが日本の武士道なのか…
」と強く感激したようです。この時、千葉の第39教育飛行隊の迎撃中隊の陸軍
伍長(敗戦時、軍曹)でありました。

また我師匠が私に送ってくれた海法氏の著書”されどわが愛機恥ずることなか
れ 泣き笑いオンボロ戦闘機奮戦記/本土防空戦秘話(月刊 丸)”の中で記載
されていました。また先に記載した首都防衛部隊の塗装の二式高練でグラマン
に撃墜され不時着した海保神社ので介抱してくれた家の娘さんと戦後結婚した
話も嘘のような本当の話です。それにしても敗戦間際の空を日米戦の開戦前の
主力戦闘機でノモンハンで活躍した旧式の九七式戦闘機やこれを練習機にした
二式高等練習機を迎撃に現役で使用した事には正直、驚きました。またその事
より若き海法氏の水上戦闘機より劣るドン亀の練習機で7.7o機銃でも闘争心
を持って迎撃に勇んで上がる気合と根性に感銘を受けます。今の日本人が失っ
た強さを見る想いがします。手記の最後に次の文章で締めくくられています。

…”わが青春に悔いなし”という言葉通り、私は空に青春をぶつけてきた。だが
おりにふれて同期の生き残った者たちと語り合う時、必ず脳裏をかすめるのが、
今は亡き戦友の顔、顔、顔である。私は命の続く限り、今はなき戦友たちの慰
霊を第一義にと心がけている次第である。

昭和49年の丸 10月号に掲載された手記です。

海法画伯の油絵です。画像ではよく判りませんが九七式戦闘機と九七式司
令部偵察機が描かれています。九七式司令部偵察機の後方に曵的機のよ
うで吹流しを曳航し射撃訓練を終えた九七式戦闘機を描いた絵のようです。
開放型のキャノピーでない為、二式高練甲型を描いた絵では無いようです。








上は複座の二式高等練習機の乙型です。下は単座の二式高練の甲型です。(プラモの箱絵から)
このような第一線から退いた旧式戦闘機の九七式戦闘機をデチューン
してスピードを落とした練習機でよくP51ムスタングやF4Uコルセアや
グラマンF6Fヘルキャットに立ち向かわせたものだと感心します。一式
戦”隼”V型や零戦52型甲でも既に力不足であった時だけに…これで
飛び上る将兵達の敢闘精神には頭が下がる想いで一杯になります。
上下の地図のA地点が横芝飛行場です。B地点は撃墜され不時着した海保神社です。
かなりの距離です。人を一人後ろに乗せて自転車で約50kmを走破して、その日のうち
に再び迎撃に出撃しています。
下のC地点は2回目に出撃して再びプロペラが止まり滑空で緊急着陸をした
海軍の香取基地です。こちらは横芝基地と非常に近いのがわかります。


ありし日の海法氏です(伍長時代)。戦後は、競輪選手
で活躍した後、再び操縦桿を握ります。そして有名な航
空機絵画の画家として活躍されました。


まるで二式高練が落ちたとは信じられない海保神社です。





70年代の海法画伯の作品の印刷で戦友会で配られた
ものとの事です。絵は、海軍の九六式や一式陸攻の編
隊が雲上の爆撃行です。組合せからまだ大戦初期の頃
を描いたものと思います。








昭和15年甲種幹部候補生として
 陸軍野戦砲兵学校に入校した石川
  省吾 初年兵の記念の記録アルバム




運命の日米戦が開戦する一年前に甲種幹部候補生に合格し千葉県は
四街道にあった陸軍野戦砲兵学校に入隊した石川 省吾 氏の野砲校
の記念アルバムです。アルバムの中に戦後の写真も含まれている事か
ら敗戦後も存命であった事が判ります。
このアルバムは中々、躍動感のある良い写真が多い久々に
良い買い物をしたと思わせるアルバムです。写真も写し手の
センス・感性が問われる部分が大きいですが…その時々の
断片を見事に切り取った感のある写真が嬉しいです。


まさに石川氏の戦時中の出征から任官するまでの記録と
謂って過言でないアルバムになっています。
東京の地元から家族やご近所、職場の人に囲まれて
盛大な万歳の掛け声にに送られて初年兵として野砲
校に入校されています。




昭和15年1月10日、入営の朝、万歳の声に送られて石川 省吾氏
は…運命の日米戦開戦の約11ヶ月前に陸軍へ入隊します。













昭和16年2月まで陸軍野砲兵学校長を務めた佐野 忠義 中将です。
少将から中将に昇進して3月より歩兵第三十八師団長に、開戦後は
ジャワ島攻略戦に参加後にガダルカナル島の戦闘に参加。その後、
第三十四軍司令官などを務めて…昭和20年7月に仙台にて戦病死さ
れています。





左上は区隊長。右上は陸軍野戦砲兵学校 幹部候補生隊長を
務めておられた原田 鶴吉 大佐です。原田大佐は昭和18年
3月に第二十三軍兵器部長。昭和19年8月に少将に昇進し砲兵
監部附。昭和20年5月に第八砲兵司令官を務めて敗戦を迎えて
おります。

























































この方のアルバムの寫眞は実に味わい深い寫眞が多いです。
軍人らしくないのは当然ですが、学生あがりで若い感性に満ち
ていて実に良い寫眞を撮っています。御本人が撮ったものでな
く同期の誰かなのでしょうが…。
富士の裾野の演習場です。その昔は旧軍が使用し…今は陸自が使用しています。
上は野砲の防楯の銃眼から覗いてシャッターを切った寫眞
でしょう。…いいアングルですね!下は富士山を背景に演習
後の集合写真です。撃った野砲の大きな薬莢が足元に散乱
しています。


















娑婆気がまるで抜けないのは甲種幹部候補生ならではでしょう。嬉しい少尉任官を
前に軍刀も何もかも将校用軍装一式を新調する訳ですが…笑顔が嬉しそうで印象
的です。こうした写真は本チャンの幼年学校〜士官学校出のアルバムでは余り見る
事が出来ません。






























実に砲兵らしい躍動感のある写真が多いアルバムです。




















































面会所の写真、両親や家族が待っています。



酒保で楽しみ候補生達。






























































































以下は、戦後の写真です。


これ等の戦後の写真がアルバムの後ろの方に挟まれて
ありました。無事に復員されて戦後の平和な日本で生活
されていたのが判ります。












































〜 脱 線 〜





*今回このページの曲に取り上げた『ポップコーンをほうばって』で昭和
49年にデビューした甲斐バンドの名曲の一つです。この甲斐バンドです
が当初はロックバンドというよりフォークグループのチューリップの弟分と
いう形でデビューしたようです。以来、活動を続け昭和61年に一時解散、
平成8年に期間限定の再結成から、平成11年に活動再開…今に至る
九州出身のバンドです。甲斐よしひろを中心にメンバー全員が60代にな
っています。
福岡出身で現在60歳になった甲斐よしひろ氏です。奥様は女優として
活躍した竹田かほりさんです。娘さんの甲斐名都さんはシンガーソング
ライターで活躍しています。



東京の一夜



昭和58年に発売された甲斐バンドの25枚目のシングル”東京
の一夜”です。ひたすら懐かしい甲斐バンドらしい名曲です。

























ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!