旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_21














Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連









      (大日本帝國陸軍 武装艇シリーズ)

    完全手作り真鍮無垢材削り出しシリーズ

  1/72 スケール 装甲艇(AB艇) ”さきがけ”

    (量産型装甲武装艇のプロトタイプ一号艇)


   1/8 スケール ”さきがけ”の主武装 

    三八式重機関銃 十一年式平射砲
     
砲塔カットモデル 陸用バージョンモデル
 




今回も世界初の手作り真鍮模型に挑まれた匠が生み出した
作品は帝國陸軍が支那大陸だけでなくアジア全域の河川や
沿岸で使用した装甲艇…この試作の第一号が装甲艇一号
”さきがけ”です。昭和3年に完成しました。以降、二号艇の
”勝鬨”そして三号艇と改良を重ねて量産化を果たしました。
昭和13年以降の三号艇をベースとした装甲艇は九〇式57
mm戦車砲を二門に重機関銃を搭載しましたが、この一号艇
の”さきがけ”は、37oの十一年式平射砲を一門に三八式
重機関銃を二門、砲塔式に搭載しました。二号艇以降は
八九式中戦車が搭載した九〇式57mm戦車砲を使用しました
ので…この装備の組み合わせは”さきがけ”だけのものとなり
ます。いずれにしても1/72スケールで製作された”さきがけ”
本体もさることながら1/8スケールの主武装二種類も世界に
唯一の精密手作り真鍮の可動模型となります。


北支で活躍した装甲艇4号(奥)と7号です。下は泛水直後の高速艇です。泛水


一号艇”さきがけ”の主武装である十一年式平射砲と三八式重機関銃は別に
八分の一スケールで見事に再現してあります。この二つの十一年式平射砲と
三十八年式重機関銃もまた世界に唯一の精密真鍮製模型となります。


昭和二年に宇品で試作された一号艇”さきがけ”は、全長16m
全幅3.0m、自重 17.5t、満載排水量16t、150馬力のガソリン
エンジンを主機として最高速度は約14ノット(巡航速度:
11.5ノット)で航続時間は10時間、人員10名でした。すぐに
太沽方面に派遣され実戦に使用されました。
装甲艇は水上の戦車として敵前上陸の際に武装大発の貧弱な火力
だけでは乏しいので回転式砲塔を持つ37o戦車砲と2基の重機関
銃で上陸部隊を支援する目的で主に河川及び沿岸を想定して作られ
ました。支那大陸では主に河川警備に活躍しましたが大東亜戦争で
戦線が一気に拡大されると合わせるように南方の各地で装甲艇は活
躍しましたが対魚雷艇戦では日本陸海軍唯一の砲艇として多用され
たが魚雷艇に比べて圧倒的に速度が遅いのが難点で苦戦を余儀なく
されました。
匠は現在に僅かに残る資料を紐解いて設計図を組み一から手作りで
作品を完成させていきます。いつもながら見事な出来栄えに感心させ
られます。









一号艇の”さきがけ”です。


上も下も3号艇以降の量産型の装甲艇です。尚、一号艇”さきがけ”
はプロトタイプなので全長が14.5mと量産型より1m短かくなって
別物に近いものです。勿論、エンジンも武装も違ってきますが…。


いずれも量産型の装甲艇です。






特徴的なスパイラルスクリューも見事に再現されています。他の
時々見掛ける小さなプラモデルなどは詳細が判らない為か喫水
線より上だけの作品が多いですね。


戦場漫画は数あれど…陸軍の装甲艇を登場させるものは殆ど見た事がありません。
この漫画は…私と同世代で同郷の札幌出身である滝沢聖峰氏のHeart of Darkness
で描かれていた装甲艇です。…味わい深い戦記漫画を書かれている滝沢聖峰氏の
作品は個人的にも大ファンなのですべての作品を手に入れて読んでいますが…氏が
小中学生の時に札幌で過ごしていた時に同じ札幌の空の下で私も小中学生だったわ
けです。子どもの時から私は戦記本などを貪り読んでいましたが…氏はどうだったの
でしょうね??…とても気になります。
今回の装甲艇はただの真鍮手作り精巧模型だけではありません。何しろ
お香を楽しむことが出来る仕様になっています。匠の心憎いばかりの演出
には毎度…頭が下がります。日本のもの物作りの原点は…このように現状
に満足せず、如何に便利にまた…如何に楽しめるかを常に考えて進化させ
て創造する事で比類なき物作り大国・日本を誕生させた気がしますが…そ
の神髄を毎度…見る想いが致します。大先輩に感服です!










香炉からの香りは勿論ですが…何故か装甲艇で和んで
しまうから本当に不思議です…(笑)。


百五十馬力のガソリンエンジンも見事に再現されています。
二号艇以降は船体も少し大型化して三百五十馬力のディー
ゼルエンジンになっていきました。


匠のこだわりで窓は防弾窓が嵌め込みで嵌められる様になっています。





主武装の一つ三八式重機関銃の砲塔カットモデルです!

”さきがけ”の場合は砲塔内の重機関銃も陸用陸用銃架をそのまま搭載
しています。二号艇以降は航空機用単装旋回機銃用の艦艇用銃架にな
りますが…”さきがけ”ではこの陸用銃架も忠実に再現されています。







匠の計らいで航空機用単装旋回機銃バージョンとして艦艇用銃架にも
交換できるようになっています。上下の画像は艦艇用銃架です。



陸上(地上)使用での銃架も用意されている豪華版です!






こちらも主武装の一つ十一年式平射砲の砲塔カットモデルです!


大正時代の主要な速射砲(対戦車砲)です。鎖栓式の閉鎖機を見事に再現。
そして右上は37粍砲弾と薬莢です。






十一年式平射砲は拉縄で撃鉄も引けるようになっています。
閉鎖機はスムーズにハンドルで開閉し排莢まで出来ます!!





ダーミーカートを装填し自動排莢が可能です。構造は半自動
右のリターンスプリングで槓桿がもどされ撃鉄を拉縄で引き
ます。これらの作動の全てが可動になっているのが凄い点で
す。
カール・ツァイス社製の箱型照準眼鏡も見事に再現されています。






【精密手作り真鍮模型】帝國陸軍 装甲艇一号"さきがけ"と主武装

…動画説明です。再生される方はTOPページのmp3の音源を停止
してから再生してお楽しみください。



以下は…また画像で見る匠の制作過程を少し紹介します!






















































大正十五年(昭和元年) 
  樺太で警察官を務めていて
    戦後引揚した方の官給品の
      巡査サーベルの拵えと模造刀




大正十五年から樺太で警察官をされていた斎藤さんと謂う方の
警察官サーベルです。旧ソ連軍の不法侵入で樺太から引揚げた
ようです。以来、群馬県水上町で暮らされたようです。遺族である
お孫さんから一年前に故買屋さんが買い受けた品です。
鞘の一部に凹みが見られるものの総じて美品です。サーベルの中は
刃の無い模造刀です。革の略式刀緒が付いています。敗戦前の日本
では警察官は現代と違い拳銃と警棒を所持せず、代わりにサーベルを
帯刀しておりました。






敗戦前の樺太警察の警察官の実際の写真です。下は
今で謂う警察学校の入校記念写真に当たります。


旧ソ連と陸続きで国境を接する樺太では警察官が
武装して国境警備も務めました。







朝鮮半島から満州へ従軍した
    元日本軍兵士が纏めた写真帖より

 (朝鮮第二十三部隊(歩兵第七十九聯隊)
            板倉隊 岡田 利雄 伍長)




朝鮮第二十三部隊板倉隊 岡田利雄とあり、昭和18年12月12日と記載が
あります。朝鮮第二十三部隊は龍山の歩兵第七十九聯隊(朝2054部隊)
の補充隊です。歩兵第七十九聯隊は昭和の頭より支那事変・満州事変と
出動を重ねた部隊です。昭和16年7月に関東軍特別大演習で動員されま
すが、昭和18年1月…南方に抽出され東部ニューギニアの戦場に出動し敗
戦まで地獄のニューギニア戦線を戦い抜いた歴戦の部隊です。その補充
部隊ですので朝鮮半島で敗戦を迎えられたのかニューギニアで迎えられ
たかはアルバムでは判断できませんが…戦後の写真があるので無事に
復員されて戦後を生き抜かれているのが判ります。昭和18年6月から始ま
った東部ニューギニアの戦闘を経験され生存されたのであれば相当に幸運
な方かもしれません。何しろ…『ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも還
れぬニューギニア』と詠われるほどの戦場は戦いそのものよりも飢えと病に
倒れるものが続出の戦場でしたから…。


この写真帳の持ち主だった岡田兵長です。伍長勤務上等兵の
臂章ではなく伍長勤務兵長の臂章と思われます。長引く支那の
戦争で古参兵が過剰になり上等兵と伍長の間に兵長の階級を
設けましたが…この時に伍長勤務上等兵の制度は廃止となりま
した。しかし下士官不足が深刻で再び伍長勤務兵長として制度
を昭和16年からはじめました。この方は、すぐに伍長に昇進して
判任官になられたものと推察します。バックは朝鮮京畿道京城
府南山にあった朝鮮神宮です。愚かにも戦後は跡地は公園とな
りテロリストの安重根を称えるテロ会館があると謂います。
階級からも古参兵となっているのが判りますので…恐らく昭和年に大陸から
朝鮮に戻り関特演で再び出動するときには満州におられたと思います。また
この部隊は補充部隊なので人員補充の目的で戦場にある現地の歩兵第七
十九聯隊(朝2054部隊)へ兵員が送られますが…場所がニューギニアとなる
と最初の頃はともかく…輸送船で現地に行くことが厳しい状況ですので上手
くすると戦場に出ず敗戦を迎え復員された可能性もありますが…戦争が進み
大戦も中盤から後半になると兵員の数は足りなく…丙種や国民兵などが補充
兵として補充部隊にドンドンと送られてくるようになっていました。現役兵で戦
場を経験している下士官は補充部隊の教育係の班長として必要とされた為に
東部ニューギニア戦線に送られた可能性は低いと逆に推察します。
左胸に部隊章代わりに板倉隊のイの字を縫い付けしています。他の
同期兵の軍服から襟の階級章の奥に朝鮮第二十三部隊の23の部
隊番号が縫い付けられているのが判ります。
一枚だけ伍長に昇進して写る写真がありました。他の写真は
朝鮮二十三部隊に配属される前の部隊での写真です。裏に
書込みがあり…昭和12年11月8日の撮影の写真と判ります。
この上の写真から腰の前蓋が帆布製の60発入りであり…北支の
戦場で彼は十一年式軽機関銃の射手だったと想像されます。
恐らく敗戦の時には陸軍軍曹に昇進していたものと思います。
歩兵第七十九聯隊の補充隊である朝鮮第二十三部隊が作ら
れたのは昭和12年7月7日に支那事変が勃発し15日に北支に
応急動員で出動したのに伴っての事です。初めの補充隊々長
は山田重一陸軍中佐(陸士22期)でした。この補充隊の任務
は戦場における聯隊の作戦行動を円滑に支援するために兵員
の補充に馬匹の徴発、車輛・器材をはじめ諸兵器の調達に整
備を行う事です。応召兵は毎日のように入隊する為、この受け
入れに教育訓練を行い戦場へ送り出し補充を行います。当然、
戦場からは傷病兵や戦死者に転属の将兵の帰還が相次ぐの
で受け入れと対応を行い、戦死者に対しては遺族との応対と
忙しいのが補充隊の現実です。特に大東亜戦争が進めば進む
ほど応召兵は召集年齢の限界に近い老兵や乙種合格の補充
兵っだけでなく丙種の第二国民兵も徴兵され訓練も大変だった
ようです。またこれは士官の方も同じで往年の一年志願兵の
下級将校の中には現実に指揮するのは無理かと思えるような
人もいたが再び再生して送り出さなければならなかったようで
根こそぎ動員された内地は女子供と老人が産業の基盤を支え
る状態になりましたが…経由地である補充隊では…将校も下
士官・兵も予備役応召者を臨戦指導しなければならなかった
わけですから…指導する側の補充隊の士官・下士官も大変だ
った事がよくわかります。これら補充隊から早くも昭和13年4月
には復活の歩兵第十七師団歩兵第八十一聯隊が編成されま
す。…昭和18年1月に聯隊は東部ニューギニアに投入されます
。その後、昭和19年以降、2回にわたりニューギニアへ小編成
の補充が行われました。そして昭和19年1月には京城第四十九
師団(狼兵団)が新設され、ここに投入する為に補充隊から抽出
して狼四九五三部隊が編成され6月早々に狼兵団はビルマ戦線
に投入されました。そしてこの部隊はイラワジ・メイクテーラ会戦
で地獄の戦場で多くが帰国する事が叶いませんでした。



左上の中佐は歩兵第四十六聯隊長に転じるまで
朝鮮第23部隊長(補充隊長)を務められた山根
五郎 陸軍大佐(陸士28期)です。右上は七十九
聯隊の軍旗です。

























アルバムの中には大東亜戦争…緒戦の大勝利を記念する記録写真
記事がたくさん張り付けてありました。当時の朝鮮は日本国内と同じ
く内地扱いである事は台湾や旧樺太や北方領土に沖縄と同じ位置
付けと謂えるでしょう。若き兵士であった彼等は大勝利の戦況に湧き
鼓舞され何時の日か…自分達も戦場で…と思ったのでしょうか?























朝鮮第二十三部隊での写真です。





右上の写真は唯一の海軍の予科練の方でしょうか下駄ばきの練習機の前
で記念撮影しています。お身内の方かもしれません。








以下は、朝鮮二十三部隊に配属される前の部隊
…北支戦線での写真と思われます。


十一年式軽機関銃を前に日章旗と着剣した三八式歩兵小銃
でポーズを取る同じ部隊の兵士達です。よく見ると左手に九八
式(柄付)手榴弾を握っています。また十一年式軽機関銃の横
にも逆さにした九八式(柄付)手榴弾が置かれています。
















渡河上陸訓練でしょうか。サイズ的には大発より小さな小発と思われます。
ちゃんと救命胴衣を装備しています。






噴煙を上げています。場所的には白頭山(長白山)?…しかし
ここ100年以上噴煙を上げているという話は聞いたことがあり
ませんが…。



まだ少年と謂う感じですが、満州で海水浴をした写真です。
大連あたりでしょうか…。
ハルピンでの写真



今も昔もロシア人の寒中水泳には恐れ入る…男だけでなく
老若男女関係なく泳ぐから凄いです…恐るべし。







上は戦後の昭和32年…何かの集まりで春旅行での写真です。バスの窓
側の真ん中の辺りで帽子を被った方が岡田氏です。下は自宅の柿の木の
手入れをする岡田氏です。昭和41年2月25日と記載が裏にあります。すく
なくとも戦後20年以上は元気に暮らされて事が寫眞から判ります。…いず
れにしても国民の義務として兵役に応じて立派に兵士として戦場で戦い復
員して戦後を平和に暮らされました。国は戦争に負けましたが…岡田氏の
ように復員しされた方は大勢おられました。今や当時20代から30代だった
現役兵達も存命ならば90歳から100歳になり…多くが既に鬼籍に入って
おります。…小さなアルバム寫眞帳から見た一国民の戦時中と戦後の生
活の断面の一部でした。







1/4 スケール 精密ミニチュア戦車帽




以前、製作してくださった九七式車載機関銃に合わせ1/4で
また匠が戦車帽を制作してくださりました。
この塗装された完成プラモデルの西住戦車隊長の写真を
見ていて創作意欲が湧いたと仰っておりました。しかしそ
れですぐに作られてしまうから本当に凄いと感心するばか
りです。
真鍮だと重すぎてイメージが出ないのでグラスファイバーで原型を
作り、これに革を接着して完成されたとのことです。戦車眼鏡も見事
です。…内部はきたないのでムートン詰め込まれたとか。これが裏
返すと冬仕様の戦車帽のように見えます。













寫眞帳からの
 取り外れの不明寫眞三枚




陸海軍の混じった取り外れか取り外しの写真から陸軍だけ3枚です。
三枚とも軍旗が写り、聯隊旗手の陸軍少尉が同じ顔で聯隊長と副官
と思われる高級将校も同じ人なので同じ聯隊と思われます。上の写真
は裏に右上の記載があります。昭和6年11月17日でしょうか零下27
度、軍旗 湖南に向う…とあります。
軍旗を持つ聯隊旗手と軍旗護衛の衛兵の前に聯隊長と副官が抜刀
して遥拝せんとするところです。左上に裏の記載を載せました。天長
節遥拝式 奉天医科大大学校庭に於いて の記載があります。昭和
何年かは不明ですが、少なくとも4月29日に撮影された事が判りま
す。
こちらも同じ部隊だと思います。聯隊旗手も聯隊長も副官も同じ
顔ぶれです。場所も背景からして同じ満州だと想像します。右上
に裏に書かれた記載を載せました。一言…福田…なのか福井、
福原か不明ですが福○少尉とあります。この聯隊旗手を務めた
方の名前と思われます。


氷点下27℃の極寒の地では…この程度の防寒装備では厳しいと
思います。これでは凍傷になる兵が多くでる事でしょう。すぐに極
寒地帯装備に切り替えたものと思います。



スキャナーで拡大すると襟の部隊番号は77と見えます。朝鮮の歩兵第
77連隊のようですが…この聯隊が朝鮮半島を出て大陸で戦ったのは
昭和12年7月で廊坊事件…それから10月の娘子関戦が有名です。で
あれば聯隊長は鯉登行一大佐か…その後に聯隊長になられた真野五
郎大佐辺りと思われます。昭和16年には平壌に戻っていますが、それ
までは支那に聯隊は居りましたので藤室良輔大佐やその後の斎藤正彦
大佐の可能性は捨てきれません。









ここで素朴な疑問が湧きます。聯隊長・副官をはじめ衛兵までもが77の
聯隊番号をを付けているのに…何故か聯隊旗手の襟の部隊番号は20
で歩兵第20聯隊のような気がします。歩兵第二十聯隊は関西の部隊で
す。大阪から福知山に移転し、支那には昭和12年9月に進出し、以降、
昭和14年の帰国まで南京攻略戦や徐州作戦や武漢作戦を戦っています
…う〜ん…(v_v)







一枚の寫眞から…




飛行第八十一戦隊の戦友会で配布された同隊所属の
百式司令部偵察機が飛翔する雄姿です。
飛行第八十一戦隊は対米戦の開始される約3か月前の
昭和16年9月、支那(彰徳)で独立飛行第十六中隊を核
として編成され、開戦後は主にビルマ方面を中心に作戦
に従事し一部部隊はニューギニア戦にも投入されました。


開戦前から日本陸軍初の戦略偵察機とし戦闘機を優に
しのぐ高速を利して大戦期間中、全戦域で活躍した名機
です。実にスマートで美しい機体です。大戦後期には武
装して迎撃機としても使用されました。









1/35 スケール ピットロード製 完成品

    帝國陸軍 九五式小型貨物自動車




久しぶりに出たピットロードの完成品模型の日本軍ものです。
外国ものは多いですが…日本軍物は少ないのが現状ですね。
外国物に比べて購買層が少ないのでしょうね…。





























































〜 脱 線 〜





*今回このページの曲に取り上げた昭和の歌謡曲
全盛の時代に大ヒットを連発した大スター・ジュリー
こと沢田研二の”勝手にしやがれ”です。当時の姿
を動画で今見ても…本当にセクシーでカッコいいで
す。まさに大スターであり、カリスマ性に溢れていま
した。
この曲は昭和52年5月にリリースされたソロになって
オリコン1位になった4曲目のシングル曲です。89万
枚のレコードを売り上げて5週連続1位を記録しました
。またこの年のレコード大賞(第19回)及び日本歌謡
大賞など各大賞を総なめし…まさに全盛期を迎えた曲
と謂えます。
そんなジュリーも今や65歳です。…昔の面影は薄れ
老いは無残ですね…。鳥取県出身で現在の奥さんは
女優の田中裕子さんです。
昨年の暮れに44年ぶりとなるザ・タイガースをオリジナル
メンバーで再結成してコンサートを開催して話題になった
のが記憶に新しいところです。



勝手にしやがれ










今、見ても全然古さを感じさせず…逆に若い頃に
見た時よりもセクシーでカリスマ性を感じます。
本当にカッコいいですね。今はこんな素晴らしい
昭和の大スターの様な方が本当にいなくなりまし
たね。…なんとも寂しいものです。








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!