旧軍関連収集品
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その他、資料…etc |
斉藤実海軍大将の横額2枚です。 斉藤実海軍大将は岩手県出身、明治31年厳島艦長 36年海軍次官 39年海軍大臣 大8年朝鮮総督 昭和7年内閣総理大臣 昭和11年 2月26日永眠。 |
珍品・貴重資料:中国側より日本兵
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中国の広済県政府の保安隊(官兵)の軍事教練に日本軍より派遣された、 下士官武田伍長への決別と感謝で贈られた物で、今時この様な痛み退色 無く残っているのは、非常に珍しいものと思います。。【武田伍長記念・温柔 敦厚・黄梅県第四区区長王克仁贈】正絹・大きさ長さ72x高さ45cm。 【武田官栄陛・教導有方・広済県保安隊全体官兵敬贈】表裏地とも正絹・ 黒羅紗切抜文字貼り・大きさ幅63x120cm。【武田先生栄陛記念・・中隊長 郭正敬贈】決別と感謝の漢詩・赤地文織正絹・大きさ70x55cm。【武田教練 官恵存・教導有方・広済県政府備■長兼保安隊大隊長劉仲侑敬贈】正絹・大 きさ長さ72x高さ55cm。…これだけの物が4枚もある事は、これら地元の人達 と贈られた武田伍長が余程の人間としての信頼関係を築いた事を意味します。 戦後、親日派の現地人は、殺されたり処刑されたり私刑の末、悲惨な末路を辿 っており、このような資料が残存する事は、極めて稀な事と思います。そうした 上で考えると…これを贈った県政府の方々が戦後、どのようになったかを思わ ずにいられません。 |
少し調べますと上の地図でお判りのように三峡ダムで今は、有名な 武漢に行き当たります。武漢作戦で有名な武漢ですが、湖北省に位 置します。かって広済県は、今の湖北省にあり長江(揚子江)の南 北両岸に位置した広済県の田家鎮は、武漢攻略の要衝であり中国 軍にとっては、武漢防衛の最大の拠点でした。この田家鎮を制圧す ると戦局は次第に太湖・黄梅付近の戦闘、そして廣涌付近の戦闘 と転戦し、昭和13年10月25日、漢口を占領。11月11日岳州を 占領して武漢作戦を終わりました。この武漢作戦を戦ったのは、中支 那派遣軍の第11軍(司令官 岡村寧治中将)と第2軍(司令官 東久邇宮稔彦王中将)でした。…従いましてこの地域を制圧後、日本 軍が常駐し現地の中国人地方政府の保安隊に武田伍長が派遣され 軍事教練を施し、その後、転属となり、この地を離れる時に贈られた ものと考えます。昭和14年〜敗戦までの間と思われます。 |
cf. 武漢作戦の背景 武漢作戦の背景を語る上で、支那事変を語らなければなりませんので 簡単におさらいし説明します。…満州事変は、昭和6年に勃発しました が、これは、日清日露戦争で莫大な戦費と多数の日本国民の血を流し た上の勝利でした。この犠牲の上に成り立つ我国の権益を守る事は、 当時の日本の一般国民の世論であり、これを失う事は、許されない事 でありました。これらの勢いに関東軍の一部の軍人が根強い反日運動 に対して自衛権を発動した。蘆溝橋事件は、中共の地域紛争から全面 戦争への拡大路線により、一時沈静化するかに思えたが、満州国の建 設と支那北部に進出を狙う陸軍主導の大陸政策が米英など日本に変り 中国の利権を狙う思惑と南進を狙うソ連との様々な思惑が対日強硬論 として圧力となり重く日本に圧し掛かっていた。こうした背景から昭和 12年北支事変が起こるが…当初は、地域紛争で収めようとした日本政 府が意図的に北支事変と名づけたが…戦争が中支に及ぶに至り、支那 事変と名称を改めました。ここに我国は、満州国と汪兆銘の中国政府と いう東亜新秩序を打ち立てようとする力と英米を中心に押す蒋介石の 国民党政府の複雑な夫々の国益を優先する権益の奪い合いの構図が 完成したのですが…これが最終的には、大東亜戦争に至る道となりま す。日本の敗戦後は、蒋介石は、中共に敗れ台湾に逃走し中華民国を 作りますが…大陸をまとめた中共は、中華人民社会主義共和国を建設 し今日に至ります。英国も日本も米国も結局は、大陸の利権を得る事が 出来ず…振り返ると痛い代償を払わされた形になりました。…さて本題に 戻ると…支那事変の戦火は、どんどん拡大し日本は、敵を追い詰めて泥 沼の戦いに突入します。上海会戦、南京攻略、そして徐州作戦、武漢作 戦と戦線は、拡大するのですが…南京攻略の辺りでは、参謀本部の河辺 虎四郎作戦課長などの戦面不拡大の方針の路線を前面とした良識派が おり一時、不拡大路線を打ち出しましたが作戦課長が稲田正純中佐に変 り台児荘の戦闘が起こると全面拡大に転じてしまいました。こうして北支 那方面軍、中支那派遣軍が協同作戦で南北から支那軍を挟み撃ちにして 一気に壊滅を狙った徐州作戦が開始されました。そして次いで武漢に移 った蒋介石政府を叩く為、開始されたのが第11軍と第2軍の9個師団約 30万名の兵力を動員した武漢作戦です。結局は、占領しても占領しても 勝っても勝っても…点と線で広い大陸を敵を追い転戦する泥沼には、変わ りがありませんでした。日中戦争は、その後、広東作戦、南寧作戦、海南 島作戦と続いていきました。 |
昭和15〜16年頃の支那の地図です。 黄梅の町が記載されています。 |
実物 各種軽機関銃の属品収容嚢と弾薬盒 |
十一年式軽機を持つ兵士野の布製弾薬盒 を装備しているのが判ります。 |
こちらは、海軍陸戦隊の兵士、腰に 十一年式の布製弾薬盒が見えます。 |
上の兵士の十一年式軽機の前盒は、この ような感じで帯革に通しています。 |
未使用極美の十一年式軽機関銃の装填架嚢 |
銃身を入れる嚢 |
昭和十八年 十一年式 軽機縛嚢革條 紐 未使用 |
帆布製の負革。九九式軽機などで 良く見られたタイプです。 |
華北の魯東戦で支那兵に正義の鉄槌を下す皇軍兵士! …十一年式軽機が活躍しています!! |
軽機関銃の負紐。刻印は難読。 |
相当に汚れておりましたが、汚れ取りを行い皮革に脂を 刺すとかなり良い状態に戻りました。こんな物が戦後60 年…ドンと出てくるのが不思議です。 |
十一年式軽機を前に装備一式で写る一線善行章を 付けた近衛連隊の兵士。整備用属品の収容嚢を付 けているのが判ります。また二十六年式拳銃の拳 銃嚢を装備しているのが見れます。 |
右の小さな方は、珍しい九六式6.5o弾倉装填器嚢です。左は、属品嚢。 |
軽機関銃(十一年式・九六式・九九式)の弾嚢です。オリジナル の負紐も完全の未使用クラスの美品です。 |
150発入りの弾嚢です。帆布製で十一年式の6.5o弾の場合、 5発入りの挿弾子を30個収納しました。使い勝手の良さから7.7 o弾の九六式、九九式になっても使用されました。 |
珍しい九一式車載重機関銃または
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非常に珍しい九一式または九七式の車載重機関銃用の照準眼鏡です。 下図のものと同じで富岡光学製です。(下図では九十式となっています が間違いで九一式または九七式車載重機関銃用照準眼鏡が正しい筈 です。)尚、惜しい事にオリジナルの収納箱は欠で品物だけです。 |
板橋と光学 Vol.2 -国産一眼レフ誕生の地・板橋-より |
流石は戦車用なので衝撃でケガをしないように 接眼部分も非常に大きいのが印象的です。まだ ひび割れ等の劣化も無くしっかり機能しています。 |
照準眼鏡としても今も問題なく機能しています。 |
富岡光学の刻印とシリアルンNO. の刻印が読み取れます。 |
これらは当時の日本を代表する光学メーカーの刻印です。 |
重機関銃に取り付けする金具の先が切れかけています。 |
この写真は2010年の10月〜11月に開催されていた板橋区立郷土資料館 の企画展で『板橋と光学〜フィルム発祥の地 光学王国〜』での展示品を 撮影したものです。殆どが高名なガンマニアで陸自の武器学校のアドバイ ザーも務める須川薫雄氏のコレクションです。真ん中にあるのが、上のもの と同じ車載重機関銃用照準眼鏡です。こちらも九十式車載重機関銃用照準 眼鏡となっていますが、間違いで九一式または九七式車載重機関銃用照準 眼鏡が正しい筈です。 |
九一式は十一年式軽機関銃を改良し改良した車載機関銃です。 十一年式軽機関銃から銃床を取り外して防弾器と倍率1.5倍の 照準眼鏡を取り付けました。給弾は装填架を使用していましたが のちに45発入弾倉を採用しました。口径 6・5mmで名古屋工廠 で生産され、その生産数は2.043挺とされています。 |
九一式の後継としてチェコ機銃をベースに戦車や装甲車に搭載する為 に開発された口径7.7ミリの重機関銃です。九一式と同様に銃身を守 るための防弾器と共通の倍率1.5倍の照準眼鏡を装着しました。 |
小銃・擲弾筒等の補修用具、携帯属品嚢 |
大体においてこうした嚢は、一対一対応の用具なのですが 珍しい事にこの嚢には、28x19cm大のホルダー計四枚に 様々な工具が入っており”八九式重擲弾筒分解器”のほか、 懐中電灯の”ほたる電燈”のホルダー(別の冶具様な物が入 っています)、信管座金をはずす際の2本爪のスパナなど珍 しい工具が入っています。自在歯鋸のホルダーに入ってい た切り出しナイフ状の刃物の手製のカバーに『粟津部隊・兵 器部』と書き込みがあったそうです。”二銃”と書かれた収納 嚢もあわせて珍品だと思います。工具はなくなっているもの も多いようです。米国からの里帰り品で戦地帰り品と思われ ます。 |
九二式重機関銃の照準眼鏡と収容嚢
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九四式眼鏡と眼鏡嚢です。右の画像は、装着する場合の向きとなります。 |
大型で頑丈な造りとなったいる嚢です。 |
日本光学のシリアルNo.入りのプレートが付いて います。5×10゜ 非常にレンズもレクティルもクリ アな品です。銃番号は、11206と記載されています。 |
上の左が発射側(遮光筒)、右が射手 の接眼鏡側です。 |
嚢に収納しきった状態。負皮が欠品でフィルターを 入れる部分が壊れおり、嚢のストラップが再生して 有りますが全体には、美品。 |
収納する場合、接眼鏡を遮光筒と同じ向きとします。 |
左は、機関銃に接続する眼鏡沌坐と緊定把の部分 |
少しタイプが違いますが同じ潜望鏡タイプの九三式眼鏡と嚢 |
九二式重機の眼鏡は、3種類に大別されますが 九四式眼鏡は、上記の左になります。この一連の 下に右のタイプの九六式眼鏡を掲載してあります。 |
九二式重機の射撃写真です。射手と助手の両方が 九四式眼鏡嚢を肩から吊るしているのが判ります。 |
立襟の上等兵が射手で九四式眼鏡を覗いています。 略帽に防塵眼鏡をつけてます。隣の弾薬手は、二等 兵です。 |
九二式重機関銃用の九六式照準眼鏡と収容嚢
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倍率4倍、実視界10度の照準鏡 |
東京光学製で銃番号 36081、No.44714が製造番号です。 |
この東京光学製以外にも東京工廠製、日本光学製が ありましたが、殆ど品質に違いが無かったようです。 |
収容嚢は、帆布製で九四式と同様に銃手が腰に装着して 運搬しました。 |
防楯に搬送用托架をつけた九二式重機関銃ですが 九六式照準鏡を付けています。 |
陸軍 九三式砲隊鏡 |
収納箱に日本光学(株)の昭和16年9月製造の銘があります。 |
箱の背負いする負紐も完全です。中に予備のレンズも二つあります。 |
陸軍の九三式砲隊鏡格納函です。 |
銘板に、九三式砲隊鏡・NO3871・昭和一六年二月製・東京第一陸軍造兵廠 とあります。アルミ製で大きさは、上部170ox140o□・下部170ox70mm□ ・高さ390o。惜しい事に背負い紐一本は途中より切れています。 |
実物の擲弾嚢 |
こちらも実物の擲弾嚢2点 |
擲弾筒の筒体収容嚢(未使用) |
八九式擲弾筒を発射せんとする擲弾兵 |
九九式軽機関銃用照準眼鏡嚢 |
しっかりとした品で防水加工もまだ生きています。 |
未使用状態で美品ですが、唯一左右側面のリベットが脱落しています。 |
参考で上の画像は、榎本光学製の照準眼鏡と収納嚢です。 |
こちらも別な九七式・九九式軽機関銃用照準眼鏡嚢です。 中の仕切りが無くなっていますので、種類は分かりません。 |
キャンバス布にゴムをコーティングして、カーキ色に塗装 してあります。蓋の裏に刻印がありますが難読です。 |
九六式軽機関銃用照準眼鏡嚢 |
銃身交換用の手袋 |
陸軍 隠顕燈 |
先のタイプと違う隠顕燈。蝋燭が溶けると バネで上がってくるようになっています。 |
上の隠顕燈は、下の画像の色の付いた硝子板を画像のように はめ込み信号灯として使いました。 |
折畳みで近代的になった隠顕燈 |
陸軍 携帯照明器(信号器) |
末期の布貼りは多く有りますが初期の全革製は、少ないです。 |
ヤスリを中心とした工具 |
第二挾包 満州519部隊 1中隊 昭和17年11月と記載されている工具です。 |
陸軍 二式擲弾器(対戦車用)
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対戦車用タ弾(成形炸裂弾)発射機 |
アメリカからの里帰り品らしく、発射機構は、潰されている 無可動の実物品です。ライフリングを1本ずつフライス加工 で入れる最初期型ではなく、ブローチを通したパイプを加工 する後期型との事です。 |
こちらの榴弾は、下と違う弾頭部がφ40oの物。 対戦車用のタ弾(成形炸裂弾)や航空用のタ弾は 時々、お目に掛かりますが…二式擲弾器はまず 余りお目に掛かれません。 |
二式擲弾器と収納袋、専用榴弾(φ30o)と 発射用木製弾丸の空砲。 |
ニ式擲弾器(対戦車用)の擲弾
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航空機用のタ弾です。二式擲弾器用の四十粍タ弾 と弾頭部は共通で写真の様に尾部に安定翼と回転 翼式の安全装置を有する信管があります。これを76 発内蔵した50s弾が二式四十粍撒布弾です。 |
本体に 航 昭和18.12 ウ と記載されています。 |
航空用タ弾は対空用で使用する場合は敵機より高度差を1000m は必要とされ、しかも投下は搭乗員の勘だけに頼る為…微妙な兵 器でありました。しかし対地攻撃用とした場合は地上の戦車や車輛 は勿論、敵飛行場に駐機中の敵機の破壊には大きな戦果をあげた 有効な兵器でした。尚、57o戦車砲や二式砲戦車などの75o砲に 転用されたタ弾は二式穿孔榴弾となります。 |
この真中のタイプと同じになります! |
陸軍 大口径砲 "遠距離用・偏差盤・格納嚢"
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中身は、ありません。大口径砲弾を遠距離に到達させる為、発射角度 |
召集兵の家族に宛てた軍事郵便 |
北支那派遣軍の泉第5315部隊より内地を召集で出発した 子息が海陸路を辿り無事に部隊に入隊した旨の報告の手 紙です。留守家族に対する部隊の意外と心細かい配慮を 感じる手紙です。 |
戦車兵(乙幹)の軍隊手帳 |
このケース入りの軍隊手帖は、下の画像の方のものです。 画像当時は、陸軍伍長のようです。この方の軍歴を見て見 ましょう。 |
この方は、京都市在住で大正9月11日生まれです。昭和17年9月 に立命館大学を卒業し、即、10月に現役兵として京都師団管区 京都連隊区で中部第39部隊に兵科戦車兵として入隊しています (同部隊の中村隊)。二等兵としてスタートです。翌年の 昭和18年2月10日に17年度第三次兵科幹部候補生に採用され、 一等兵に昇進。同年4月1日、兵科乙種幹部候補生に採用、同日に 上等兵に昇進。4月20日、中部軍の兵科乙幹集合教育の為、中部 第39部隊に分遣。9月1日に陸軍伍長に昇進。10月10日教育終了 。10月11日に帰隊。12日、補充隊付になり、同日、北浦隊に転属と なる。昭和19年2月29日、中部第113部隊に転属。3月31日、伍長 に任官、現役満期となり、予備役編入、同時に臨時召集により、 襲15364部隊に応召同日、柴田隊付となる。4月13日、南方派遣の為 、門司港を出港。5月9日、ハルマヘラ島上陸、7月27日に同島出発。 8月1日、セレベス島アイルタンバカに上陸。9月7日、セレベス島メナド にて燃料監視衛兵司令として服務中、敵機の空爆により右前頭部と右 側腹部に爆創を受けて戦死する。同日、任陸軍軍曹。…以上で短い2 年余りの軍歴は、戦死という形で幕をひきます。 |
陸軍 戦車兵の軍装 |
陸軍戦車兵軍帽(夏用)と防塵眼鏡 |
冬装備の戦車兵です。防塵眼鏡を 戦車帽(冬)にかけています。通常 の冬用でなく防寒地用です。このよ うに戦車眼鏡だけでなく防塵眼鏡を 多用したケースが多かったようです。 |
珍しい箱付の戦車眼鏡です。 |
陸軍 戦車帽(夏) |
昭和19年製、未使用の大号 |
戦車帽(冬:防寒用)、昭和14年製…大戦前の 出来の良い戦車帽です。 |
この戦車帽は、内部の毛足が長い事より通常の 冬用戦車帽ではなく防寒用である事がわかります。 |
戦車兵夏衣袴(陸軍第二種作業衣袴) |
イメージで手許の一等兵階級章を合わせてみました。 |
イメージで手持ちの兵長階級章を当てて見ました。 |
戦車兵衣袴(防寒作業衣袴) |
冬用の作業衣袴です。上下共に小号で上は、 昭和17年本廠検定、下は、昭和18年の大支 検定です。 |
現役志願兵より陸士予科に進まれた軍隊手帖 |
この軍隊手帖の方は、九州は佐賀県出身で明治37年4月17日生。 大正8年に尋常高等小学校を卒業し大正8年4月1日より大正13年1 月9日まで唐津鉄工所で職工見習いとして勤務。同年1月10日、 現役志願兵として陸軍歩兵第24連隊第9中隊へ入隊。第一期卒業 後は、スピード出世で12月1日に一等卒、同日に上等兵。翌年の11 月9日に伍長勤務上等兵、12月1日に伍長に昇進しています。大正 15年10月1日には、歩兵軍曹昇進。昭和2年3月1日、陸軍戸山学校 に甲種学生として入校。在学を更に延長して昭和3年1月31日同校 卒業し退校。昭和3年12月1日付で原隊の第9中隊付より第3大隊本 部付となる。翌昭和4年1月16日連隊本部付となる。同年12月1日、 陸軍士官学校付となり昭和5年12月1日に曹長に昇進する。この方 が外地に出たのは、大正4年12月15日満州派遣混成第一旅団第二 歩兵大隊の編成下令により同年12月17日下関港を出発し19日に 新義州を通過し21日に長春に到着。22日より翌15年1月4日まで同 地の警備任務に就く。1月5日より1月12日まで守備隊員勤務をして 13日長春を出発し20日に下関に帰国という何とも短い期間の外地勤 務のみです。この他としては、大正13年8月24日に精勤章を付与 され同年10月31日に第三種小銃射撃章を綬典、昭和3年11月24日 に第一種小銃射撃章を綬典されている事位です。模範的な典型的な 現役志願兵で班長の覚えめでたく目にとまり立身出世して将校への 階段を登っていっています。その上の大学出で乙幹で終わった方と 好対照のような気がします。 |
観閲点呼にまつわる軍の許可証 |
こちらも面白い紙物です。…簡閲点呼を 別な地域の連隊区で受けても良いと言う 陸軍の申請に対する受理書です。 |
陸軍士官学校士官候補生の賞状 |
敗戦の2ヶ月前の賞状です。両手軍刀術初段 とあります。剣道や銃剣術は、知られています が…こういうのもあったのですね。…片手軍刀 術というのもあったのかも知れませんね。 |
陸軍の軍事極秘文書 |
転属及分派遣者異境通過調査表です。この表の 該当者が少尉であった為、軍事極秘扱いになって いるのだと思います。本体に書き込みはありません 。付属の紙は本体に糊付けされており、少尉宛に「 到着次第本表を送付するように」と書かれてあります。 |
戦前・戦後の同一人物の公用パスポート |
左から大日本帝国時代、戦後の2冊の公用 パスポートです。同一人物の物であり非常 に珍しいと思います。 |
神戸商業大学助教授の方のパスポートです。昭和7年 4月4日の発行です。官命により英国へ色々な指定緒国 を経由して行く旨、記載されています。当時らしく英語と 仏語の両方が表記されています。セイロン島やエジプト 、ドイツイタリアなどの諸国を入国したスタンプがあります。 |
戦後の昭和38年12月4日発行のパスポートです。敗戦後、 しばらくは、海外渡航する日本人は、限られておりましたの で、このパスポートは、NO.が表紙から見えるようになって います。第12748号とあります。”右の者は、日本国民であ り政府の命により米国へ赴くから通路故障なく旅行させ且 つ必要な保護扶助を与えられるよう、その筋の諸官に要請 する。…日本学術会議計量経済学研究連絡委員会委員の 肩書きになっています。所持金がT/Cで190ドル、キヤッシ ュが40ドル50セントで東京銀行から両替されています。乏し い金額ですが当時のレートでは、恐らく一ドルが500円以上 かと思います。羽田出国の横浜帰国になっております。 |
昭和39年7月10発行のパスポート。外務大臣が元首相 で故人の大平正芳氏の名前です。こちらも羽田出国に なります。為替レートが変ったのか、今回は三菱銀行で 両替した金額は、キャッシュが200ドル、T/C300ドルと 増えています。…VISAが必要な時代ですが、私も小さい 時でしたが羽田からの出国で渡米するのに検疫(事前に 予防接種)とVISAが必要だった時代を覚えていま す。…考えると今の成田になってから不便でなりません、 毎回海外へ出るたびに羽田から再び海外に出られるよう に切望します。 |
大正時代のパスポート |
大阪の方です。ロシアのシベリア、沿海州に渡航しています。 まだ手帳式になる前のパスポートです。発行者が男爵で英語 でバロンと肩書きが付いています。この時代、外国へ行く人が 限られていましたので珍しいものと思います。 |
陸軍軍医への手紙 |
同一人物宛ての3通の手紙です。 |
上の手紙は、陸軍軍医へ志願に関して願書及び卒業証書の 写しを送付せよの葉書と辞令書は、ありませんが、辞令を同 封しているので誓文を送るようにとの内容とその雛形の文面 です。付箋に辞令書を受領後3日以内に出発し入隊するよう にとあります。明治37年8月8日の陸軍省医務局衛生課から の手紙です。 |
明治40年1月15日の消印です。日本赤十字社の 当時の社長 伯爵松方正義氏から送られた手紙 です。任官し秋田の歩兵第第17連隊で三等軍医 をされている時に送られた模様です。 |
歩兵第22連隊にいた朝長軍医に恩賜財団 済世会より大正2年9月9日の消印で送られた 感謝状です。済世会に軍医が39円の寄付を 行ったことに対する感謝状のようです。 |
陸軍の皇族付武官用の飾緒 |
銀色の飾緒です。通常の参謀飾緒の 石筆と比較して見ました。 |
通常の陸軍参謀飾緒です。 |
因みに左2点が海軍の参謀飾緒です。右は、銀色 の副官または、皇族付武官用の飾緒です。 |
陸軍は、この副官懸章を副官は、使用しました。 |
今回、収集品の虫干しの為、倉庫より一時、出した収集品の一部を
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