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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編 IX




旧軍の遺構や資料館など・・・四国 編


(1ページ目)


(四国に点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)












乃木館(陸上自衛隊
      善通寺駐屯地 資料館)



























































四国・久良湾から引き揚げた国内に
        現存する唯一の紫電改の実機

     
〜南レクの紫電改展示館〜

  (愛媛県南宇和郡愛南町 南レク城辺公園)








この小さな展示館に紫電改は丸ごと1機が納められいます。
この紫電改が眠っていた久良湾を望む小高い山の中腹にある展示館
があり小さな展望台から撃墜地点が見られるようになっています。
この湾の沖合い僅かに100mの処で紫電改は没しました。





遠いです。ひたすら遠い…高速(と謂っても片側一車線の対面通行)を降りてから
ひたすら田舎道を延々と走ります。同じ県内の松山市よりも目の前の対岸にある
大分県の方が近いです。紫電改を見るだけの為に愛車をひたすら走らせました。
青の★印がこの紫電改展示館のある場所です。
昭和53年11月半ばに久良湾の通称:長崎鼻沖合い約100mの
海底(深度40m)に眠る紫電改をたまたま潜水中のダイバーが
発見。翌年の昭和54年7月14日、愛媛県の手によって海底から
引き揚げられました。この紫電改は昭和20年7月24日に大村基
地を飛び立った未帰還六機のうちの一機と見られます。34年ぶ
りに海底より引き揚げられた機体は修復を進めて御荘町馬瀬山
の南レク山頂公園内に展示館を作り永久保存を図りました。上
下の写真は引揚当時の生々しい記録です。
紫電改は生産数が少ない事もあり米国に一機現存する
のみで我国では唯一現存する機体となっています。

4枚のプロペラが後方へ曲がっています。これは海面に
着水時に発動機が動いていてペラが回っていた事を意
味します。回るペラが海面を叩きぺラ自体を曲げた事を
教えてくれます。


引揚前の海底での水中画像です。
発端は漁船の錨を海中に紛失し、これを回収しようと
地元漁師が潜水し紫電改を発見しました。



以下、館内です。…えらい遠い所なので四国に住む人間なら
いざ知らず…紫電改だけ見るのに来るには厳しい場所です。
そうした人の為にたくさん画像を写して来ましたので、色々と
普通より多く掲載しますので…行った気になり見て下さい。

見事にレストアされており感心しました。



この紫電改の機体の搭乗員と思われる。昭和20年7月24日に大村基
地を飛び立った未帰還六機の搭乗員六名の遺影です。この中の一名
の方が搭乗員であると思われております。
大村基地に進出していた343空は、昭和20年7月24日に
呉軍港に来襲した敵米艦載機約5百機を迎撃するべく飛
び立った鴛淵大尉以下の紫電改21機のうち未帰還機と
なった6機の中の1機です。戦闘701飛行隊長の鴛淵 孝
大尉(戦死後、少佐)も中に含まれますが…”空の宮本武
蔵”の異名をとり撃墜記録30機のベテラン撃墜王の武藤
金義 海軍少尉(戦死後、中尉)も含まれております。支那
事変の中国空軍との戦いから、故・坂井 三郎 海軍中尉
等と共に日米戦が始まるとラバウル・ソロモン航空撃滅戦
を戦い抜いた英雄でもありました。日米戦の開戦の日は、
第三航空隊にあって比島のクラークフィールド飛行場を攻
撃しています。昭和20年6月末に坂井 三郎 少尉と交換に
343空に引き抜かれ、戦死した撃墜王・杉田 庄一 上飛曹
(戦死後、少尉)の代わりとして新選組(戦闘301飛行隊)
隊長・菅野 直 大尉(戦死後、中佐)の護衛役を務めるべく
着任して間もなくの初陣でした。
三四三空隊誌を中心に他の記述と合わせると…当日の
戦闘では佐多岬上空で敵大編隊と遭遇、総隊長である
鴛淵 孝 大尉の突撃命令で増槽を捨て百機以上の米軍
機の群れに突入していきました。時間は午前10時30分、
まず鴛淵大尉機がF6Fを1機屠りましたが、その上空約千
mよりF6Fの別の大編隊が大挙して襲かかり乱戦となりま
した。そしてこの襲撃で鴛淵機は被弾し白煙を噴き降下を
はじめます。二番機の山田 良一 大尉(戦後は空自で航
空幕僚長を務められました)が見た時は、最期まで守るよ
うに付き添った三番機の初島飛曹長機も遂に帰還するこ
とはありませんでした。その間僅か10分余りの死闘でした
が21機の紫電改は、敵米軍機を16機撃墜しましたが…以
下の尊い六名の若き20代の若鷲達を失いました。
 鴛淵 孝 海軍少佐(25歳)   武藤 金義 海軍中尉(29歳)  初島 二郎 海軍飛曹長(22歳)
 米田 伸也 海軍飛曹長(21歳)  溝口 憲心 海軍上飛曹(21歳)   今井 進 海軍上飛曹(20歳)


この紫電改が上の六名の若鷲の何れであるかは今も謎のまま
です。遺体が無い事と長年海底にあった事で機体番号等の塗
装が確認できない事が特定できない理由です。しかし何れであ
っても祖国の空を圧倒的な戦力を誇る敵に無謀といえる戦いを
挑む勇気のある闘志であり愛国の英雄です。我々、後世に生き
る日本人は・・・この若き英霊達に足を向けて眠ることは出来ま
せん。常に感謝の気持ちと崇敬の念を持って今ある平和を感謝
し生きる事が大切と考えます。後世に同胞たる日本人に広く伝
えて行きましょう!!

















































天山のぺラとぺラスピナーです。
このぺラも近隣の沖合いで発見され引き揚げられたものです。






以下、内部の展示品の一部です。
















343空(剣部隊)が使用した松山空港の現在画像(上の左右)です。
松山空港は、広島湾要塞の防空を担う為、海軍が設営した吉田浜飛
行場が前身です。戦時中は勇名を馳せた零戦、紫電改や高速偵察機
彩雲が展開し、敗戦の年の豊後水道、伊予灘上空で米軍艦載機との
死闘は今も語り草になっています。第343海軍航空隊の活躍はよく知ら
れており、広島市への原爆投下後は、全搭乗員がB-29に特攻しても
次の原爆投下を阻止する覚悟を決めていたと謂われています。戦後は
旧飛行場を拡張して民間空港として利用され活躍しています。松山空港
周辺には、今も戦闘機用の掩体壕が見られますが、その数は年々少な
くなっているようです。(下の画像は松山空港の掩体壕です。)



〜第三四三海軍航空隊(剣部隊)〜



第343海軍航空隊は、敗戦の約半年前である昭和20年2月1日に開隊。
紫電・紫電改の戦闘機と偵察機の彩雲から編成された強力な航空部隊
でありました。司令は 源田 実 海軍大佐。海軍軍令部で航空主任参謀
を務めていた源田大佐が自身が指揮し敵航空部隊より制空権の奪回を
図る目的で設立した部隊です。主体となる部隊は比島で戦力を磨り減ら
し消耗した戦闘301・407・701の各飛行隊で、これを昭和19年年末に四
国・松山に集結させ、翌年、偵察第四航空隊の編入を待って2月1日に
解隊した源田大佐の肝煎りの精鋭部隊を目指しました。この為、幹部搭
乗員には歴戦の兵のエースパイロットが引き抜き去れラバウルやソロモ
ンで緒戦を活躍した撃墜王達が一同に顔を合わせる豪華な部隊である
と同時に機内無線電話を実用レベルまで完全に高め、高度な編隊空戦
を実施する近代的な航空部隊運用の実現を目指し成功しました。343空
の名称は、”呉鎮守府所属基地航空隊で、常設された戦闘機部隊”を意
味しています。通称は”剣部隊”。士気を高める為、各飛行隊に新選組(
戦闘301)、維新隊(戦闘701)、天誅組(戦闘407)、奇兵隊(偵4)、
極天隊(戦闘401)の通称を付し、隊舎の前に幟を立てるなど闘志を燃や
した事も影響し敗戦期には見るも無残な哀しい姿を晒した日本空軍にあ
って圧倒的な物量を誇る米空軍に一矢報いた数少ない航空部隊と謂え
ます。

司令  源田 実 海軍大佐(海兵52期)


副長 中島 正 海軍中佐
                (海兵58期)

飛行長 志賀 淑雄 海軍少佐
            (海兵62期)


志賀飛行長は、一時、343空に対し連合艦隊司令部から特攻攻撃の要請が
あり、志賀飛行長が拒否し続けた為、最後まで行われる事はなかった。戦後
、志賀少佐が残した証言によれば、度重なる特攻拒否に業を煮やした源田司
令が隊舎を訪れ、志賀少佐に特攻を受け入れさせようと圧力をかけたという。
志賀少佐が『喜んで行きましょう。ただし条件があります。帝国海軍の伝統は
指揮官先頭です。私は勿論行きますが、先頭には是非司令が立っていただ
きたい』と言うと司令は黙っておられましたが、その後松山空には特攻作戦
参加命令は来なかったそうです。



総隊長

戦闘701飛行隊(維新隊)

 隊長 鴛淵 孝 海軍大尉(海兵68期)

              (飛行学生36期)
  (戦死後、二階級特進し海軍中佐)

戦闘407飛行隊(天誅隊)
 
 隊長 林 喜重 海軍大尉(海兵69期)

  (戦死後、一階級特進し海軍少佐)

戦闘301飛行隊(新選組)

 隊長 菅野 直 海軍大尉(海兵70期)

              (飛行学生38期)
  (戦死後、二階級特進し海軍中佐)




 彩雲偵察隊(旧 偵察第四航空隊)
  (奇兵隊)            :定数 24機

   隊長 橋本 俊男 海軍大尉(海兵66期)

 通信隊

  通信長 松永 市郎 海軍大尉(海兵68期)



新選組(戦闘301飛行隊)
天誅組(戦闘407飛行隊)
維新隊(戦闘701飛行隊)
極天隊(戦闘401飛行隊):錬成部隊
343空は、一般にベテランばかりを結集した精鋭航空隊と強調されていますが
確かに撃墜王の坂井三郎少尉を教官配置としたり、武藤金義少尉を横須賀航
空隊から強引に引き抜いたり、他の部隊が戦闘行動中に訓練に専念したりす
るなどの事から、そうした印象を強くもたれ戦後にその戦果が誇大に強調され
た事も一役買ったのではと思われます。実際の搭乗員の錬度と言えば他の
203空や302空等の戦闘機隊と大差は無かったと謂われています。紫電の運
用指導のため松山基地を訪れた坂井三郎少尉の「実働機を遙かにしのぐ廃棄
された紫電が山と積まれていた」という証言や、各パイロットの飛行時間及び練
習飛行隊卒業日時から類推されるように、343空のパイロットは一握りのベテラ
ンを除くと未熟な新人がかなり含まれており、一般に伝えられる「手練ればかり
を集めた」との風評は事実と隔たりもあるのだが、司令である源田実大佐がベテ
ラン搭乗員を指名転属させたり、他の航空隊が新人搭乗員を十分な練成期間も
無しに実戦投入している中、それなりの期間訓練を行った後に実戦参加させた
事や343空が特に重視した高速偵察機”彩雲”による適格な事前情報の確立の
元に出撃した戦闘機隊は確実に機能する機内電話通信で高度な編隊攻撃を可
能とした事が他の隊よりも高い効果と戦果も出し謂われたものと想像されます。。



〜343空(剣部隊)を彩った歴戦の古強者…エース達!!〜
教官として昭和19年12月から翌20年7月の横須賀海軍航空隊へ移動となるまで
紫電改の指導を行った”大空のサムライ”で有名な坂井 三郎 海軍中尉(当時は
少尉)です(公認の撃墜機数64機)。彼とトレードで武藤 金義 海軍少尉が横須
賀空より着任後、すぐの初陣で戦死しました。坂井中尉は自分の身代わりで戦死
させたのではと…終生、気に病んでいたと伝えられました。
謂わずと知れた”闘魂の塊”と称された撃墜王・杉田 庄一 海軍上飛曹
(戦死後、二階級特進し海軍少尉)です。海軍甲事件の有名な六機の
護衛機の一人でもありました。連日の出撃でも生き残り大火傷の負傷
で一時帰国するが、復帰後はマリアナ・グアムと転戦し比島方面にある
時に源田司令の命で昭和20年1月に剣部隊に合流、新選組隊長の菅
野大尉機の列機を務めました。同年4月15日の敵襲で司令の命で迎撃
の為、愛機に乗り込むも同じく飛び立った僚機1機と共に上空背後から
離陸時を襲われ、離陸中止の旗が振られるも間に合わず紫電改が数
十m浮き上がった所で銃撃を受けて炎上し墜落、壮烈な戦死を遂げまし
た。個人撃墜70機、共同撃墜40機が公認されています。海軍歴代第三
位(日本歴代)の撃墜王です。

磯崎 千里 海軍大尉

四等水兵から大尉に昇進した老雄です。
飛行時間は戦闘機だけでも13年間で
4千時間以上を記録。昭和8年に操練19
期を卒業し、空母”龍驤”を皮切りに霞空
を経て支那事変では空母”加賀”から陸
上に転じて12空で桂林攻撃などに参加
するが、戦運に恵まれず大きな空戦に参
加する機会を得なかった。飛曹長で台南
空に転じて開戦で南方へ進出するも、半
年で大村空教官に、18年4月に少尉。
251空にてラバウル進出。6月16日に初
撃墜を記録(時に30歳)!その後、ブイン
やラバウルを中心に激戦を生き残り、19
年3月に厚木302空、そして210空に転じ
昭和20年5月より戦闘301飛行隊に分隊
長として転任。防空戦闘を343空で戦い
敗戦を迎えました。撃墜記録は12機の
遅咲きのエースで撃墜王です。

松葉 秋夫 海軍中尉

昭和10年3月に操練26期を卒業して
敗戦まで飛行生活10年以上…心技
共に円熟した老練な戦闘機搭乗員で
す。空母”加賀”乗組の時に支那事変
が勃発し、昭和11年8月6日に上海上
空の初陣でダグラスO-38偵察爆撃
機を1機を共同撃墜。同年末、霞空へ
その後、空母”龍驤”、岩国空、元山
空、大分空等を経て昭和18年11月に
301空の戦闘601飛行隊に転じます。
19年6月末に硫黄島に進出。7月3,4
日の迎撃戦でF6Fを6機撃墜、同年7
月に紫電編成の戦闘701飛行隊に転
じて臺灣沖航空決戦、レイテ沖決戦に
参加。343空に転じて敗戦まで2度の
負傷を負いながら敢闘する。撃墜数が
18機のエースで撃墜王です。

本田 稔 海軍少尉

昭和17年1月に甲飛5期卒業。第22
航空戦隊司令部附戦闘機隊に配属
されたが南方作戦は既に終了し空戦
の機会に恵まれなかった。同年4月
鹿屋空(253空)に転じて南西方面を
転戦。9月にラバウル〜後カビエンに
進出…18年5月までニューギニア・ソ
ロモン航空戦に参加。19年4月に戦
闘407飛行隊に転じて比島へ進出。
帰国後、343空戦闘407飛行隊付に
移り本土防空戦闘に従事する。撃墜
記録は17機。






〜引揚られた謎の紫電改の六名の搭乗員達です。〜
今井 進 海軍上飛曹(享年20歳、群馬県出身、丙飛15期))
初島 二郎 飛曹長(享年22歳、和歌山県出身、甲飛9期)
左上は、米田 伸也 飛曹長(熊本県出身、甲飛10期)。右上は、
溝口 憲心 上飛曹(広島県出身、丙飛15期)。共に享年21歳。
公認の総撃墜数28機の日本海軍を代表する撃墜王の一人
武藤 金義 海軍中尉です。”空の宮本武蔵”の異名を持つ
エースでした。享年29歳、愛知県出身、操練32期。
343空(剣部隊)の三個戦闘飛行隊の最専任士官搭乗員だった
鴛淵 孝 海軍中佐です。享年25歳、長崎県出身。この維新隊長
で総隊長の早すぎる戦死から続くように新撰組の隊長・菅野大
尉も櫻のように散り…若い兵学校出の青年士官三名の隊長全
員が戦死されすぐに隊も敗戦でその短い歴史にピリオドを打ち
ました。
















米国に残る紫電改の実機





戦闘407飛行隊(天誅隊)隊長 林 喜重 海軍大尉は、昭和20年
4月18日にB-29邀撃の初陣を飾る。普段は温厚な隊長と知られ
た林大尉は静かに闘志を燃やし、菅野大尉と共に激論を戦わせる
事もあったと謂われています。4月20日、B-29が約20機来襲し約
30機の紫電改で迎撃に向かいました。この時の林隊長機の攻撃
は執拗さを極めた伝えられます。たまたま新選組の菅野隊長機の
三番機の清水 俊信 一飛曹がタイとはなれて別行動中に熊本県
の上空で19機のB-29を相手に戦う林大尉機を発見し、すぐに助
勢に入り協同で攻撃して遂に一機のB-29を仕留めました。しかし
この時に既に林大尉の機体はエンジンを打ち抜かれており海への
不時着を目指し阿久根の海岸アプローチするも操縦不能となり、
海面に激突した際の衝撃で計器盤に頭部を強打し戦死されました
。途中からともに戦った清水機もまた被弾し林大尉の後を追うよう
に墜落し戦死しました。…こうして三人の青年飛行隊長のうち最も
早く神奈川県鎌倉市出身の林 喜重 大尉が戦死、残りの二方も
短い間に後を追うように戦死されました。


公認撃墜機数25機の若き撃墜王・菅野 直 大尉(戦死後、海軍中佐)
です。漫画”紫電改のタカ”の中でも描かれています。新選組(戦闘
301飛行隊)隊長の前は、零戦に乗って戦っていました。彼が第201
海軍航空隊の分隊長時代。この頃すでに菅野は豪快を地で行ってお
りました。ヤップ島での防空戦闘では零戦を駆り、米陸軍爆撃機B-24
の垂直尾翼に乗機の主翼を引っ掛けて吹き飛ばして撃墜したり、1度
に2機のB-24を撃墜するといった離れ業を演じた事もありました。また
乗機の胴体に指揮官認識マークとして黄色の帯を描いていたことから
、その戦闘ぶりを見た米軍パイロット達の間では「イエローファイター」
と異名を取り怖れられていたと謂われます。そんな菅野大尉の最期は
昭和20年8月1日、敗戦の2週間前でした。この日、隊長・菅野以下の
紫電改20数機は九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊発見の報を
受け、これを邀撃すべく大村基地を出撃。屋久島近くに達すると島の
西方にB-24の一団を発見。敵上方より急降下に入ったとき、何機か
の紫電改の無線に「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と入電
。これを聞いた堀飛曹長機が菅野機を探したがどこにも見当たらず、
自機の翼を傾けて下方を覗いたところ、はるか下方を水平に飛ぶ菅
野機を発見、即座に近づいたところ左翼日の丸の右脇に大きな破孔
を発見した。菅野の二番機である堀は責務を果たすべく、すぐさま戦
闘を中止し菅野機の護衛に回ったが、菅野は堀に対し戦闘空域に戻
るよう指示。堀はその指示を無視してなおも護衛を続けたが、ついに
菅野は拳骨を振りまわして怒り出し、堀に戦闘空域に戻るように再度
指示した。堀は泣く泣くその指示に従ったが、その瞬間にそれまで怒
りで鬼の形相であった菅野の表情が和らいだのを見たという。そして
堀機が菅野機を離れ戦闘に戻るとやがて再び菅野からの無線が入
電した。「空戦ヤメ、全機アツマレ」菅野がいると思われる空域へ向か
う途中再び入電、「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ
、菅野一番」そして菅野機は空のどこにも見当たらなかった。燃料の
続く限り捜索したがついに見つけることはできず、海軍基地はもとより
、陸軍飛行場にも菅野が着陸していないか問い合わせたもののどの
基地にも着陸していないとの報告であった。結局この日の戦闘で菅
野機を含む3機が未帰還となりました。
                    享年24歳、宮城県角田市出身
この343-A15の胴に二本の帯がある15号機が菅野大尉の愛機
でした。最後の日の戦闘では愛機でなく343-A01に搭乗しました。
マルシン製の紫電改の模型。塗装は菅野大尉機仕様です。


宮崎 勇 海軍少尉(当時、飛曹長)は、343空(剣部隊)設立・開隊
以来、敗戦まで生き残った歴戦のエースです(撃墜機数13機)。こ
の方の著書『還って来た紫電改』に記載されているが、対戦した米
軍パイロットの証が記載されているが、日本海軍にしては珍しく二
機一組の編隊空戦を行う手練の搭乗員達と認識されていたようで
す。B-29の搭乗員であった爆撃手のウイルバー・モリス氏の証言
によると「彼らの攻撃は猛烈だった。12機編隊のB-29の場合、
1機あたり6門、あわせて72門の機銃が火を噴く。たちまち「弾の壁
」ができるんだが彼らはそこを突き抜けて攻撃してくる。あまりに接
近してくるので、搭乗員の顔が見えた。素直に言うが、あんな勇敢
なパイロットはほかにはいない。」と・・・。尚、右上の画像は宮崎少
尉が所持していた戦後に進駐した米軍により松山の343空基地で
焼却炎上処分を受ける紫電改の画像です。米軍は比較的、調子の
良い3機の紫電改を選び本国へ送り残りの全てを破壊処分したとい
います。

宮崎少尉の『還って来た紫電改』の最後にこう記載されています。

”…プロペラは、沈没したときのまま四枚の羽根が折れまがり、弾痕
らしき跡も見える。だが、機体は堂々と胸をはって、今にもエンジン
がかかって飛びたちそうな気さえする。
 戦後三十四年目の夏の海に姿を現したの紫電改が語りかけるも
のは何か?
―その無言の言葉に、みなさん、とくに若い世代の人たちは耳を傾
けていただきたいと私は思う。”

松山空でかき集められた残存日本軍機が米兵に燃やされる画像です。
日本航空軍の壊滅と死の瞬間です。
昭和20年8月15日の敗戦で343空は誕生以来約八ヶ月の短い部隊
の歴史を閉じました。紫電改とともに西日本の空を所狭しと駆け巡り
壮烈な防空戦を繰り広げ、隊の発足時に三個戦闘隊(新選組、天誅
組、維新隊)で合わせて120名を超える戦闘機パイロットが集結しま
したが…僅か八ヶ月の激戦で78名の若き搭乗員が大空に散りました。
また三四三空隊誌によると偵察隊、整備科科、また戦傷を負った者
でその後に亡くなった者を合わせると97名の戦死者を出しています。

”わが飛行隊は、敵の心胆を寒からしめる事しばしばにして敵撃墜約
百七十機におよび武勲顕著なるも、各戦闘飛行隊長、善戦連闘、つ
いに戦死し、計七十八名の搭乗員を失えり…”(三四三空隊誌より)


日本本土の主要都市と重要拠点、港湾、工場地帯の殆どが
度重なる大空襲で焦土と化す中、敗戦の日まで機体の補充
整備に必要な資材、航空燃料…無い無い尽くしの中で稼働
率の低い紫電改を見事に稼働させ果敢に圧倒的な戦力さを
物量でこれでもかと見せ付ける米軍に対して怯む事なき見
事というしか謂いようの無い敢闘精神で挑み続けた343空
の搭乗員達…そして彼等をバックアップしサポートした整備
科要員の並々ならぬ努力と奮戦があったればこそ空に舞い
上がれ暴れられたパイロット達でした。また彼等の目となり
高速を利して敵を見つけて情報をもたらした偵察隊の彩雲の
搭乗員達。そして数少ない紫電改の機体と資材の確保に
燃料の確保を他隊よりも重点的に取り付けたのは司令と管
理する幕僚の手腕であったものと思います。いずれにしろい
ずれかが欠けた時に末期のこの紫電改部隊は、大海に落ち
た木の葉のように圧倒的な米軍の前に戦力を消耗し消え去
ったに違いありません。敗戦前の8ヶ月から敗戦の日まで稼
働し戦い、尚も戦力を維持した日本人達の力に國を愛する精
神、民族同胞を思いやり守り抜かんとする精神の素晴らしさ
を深く感じ入り感銘を受けました。
愛媛県愛南町の豊後水道を望む小さく静かな漁村の高台
に沖合いから引き揚げられ飾られた一機の紫電改。一見、
何でもない日本で現存する唯一の紫電改の実機…しかし
この機には、これだけの長い長い物語が秘められています
。そしてそのほんの一端を私は、かいつまみ紹介しただけ
に過ぎません。…更に引揚時に6機の撃墜された搭乗員達
の遺族が紫電改に泣きながら捧げた花束…悲鳴にも似た
嗚咽…終わらない戦争が遺族にあります。また悲しい戦後
の物語…が様々にあります。そしてまた生き残った将兵達
の戦後も…また長い秘話が数多あります。


我々、戦後の平和を享受する戦後生まれの日本人は平和
を噛み締め喜びを知るだけでなく…この平和を作り出す為
に多くの血を流した先人同胞の戦いを知り学び、またそれを
後世の日本人へ伝える責務があると思います。昨今、公共
放送でありながら反日報道を繰り返すNHK…偏向報道や
意図的な反日違法編集を行い…様々な手段を用いて日本
の戦争関与は間違いであると言いくるめたいようですが、そ
して大東亜共栄圏という美名と美しき精神が口先ばかりで
政府も軍部も実はこれを主体としていなかった口実であっ
たと一生懸命に喧伝ています。私には非常に愚かしい行為
にしか見えません。何故なら、時の政府や軍部が国益を最
重視するのは我国だけでなく世界中のどの國も同じ事です。
夢やプロパガンダだけで国家運営は出来ないのは、一般家
庭の家計と同じです。しかし政府が謂い続けなくとも思うより
プロパガンダでも良いのです。この戦争に巻き込まれ戦った
多くの日本人の将兵、銃後の市民が大東亜共栄圏を信じて
欧米列強の強欲で意地悪な白人達から亜細亜の同胞を開
放し助ける事がしいては我国の生きる道に繋がると信じて対
米戦に突入したのは…明らかな事実で多くの市民・将兵の
当時の日記や書簡などを垣間見ても良く判る事です。我々は
正義の戦争を戦った!…対米戦は我慢しうる最後の最後ま
で和平交渉に期待ををつなぎ我国は出来うる最大限の譲歩
を行ったが対日参戦を画策した米国の日本虐めに遂に堪忍
袋の緒が切れて戦争に突入した歴史を変え事は出来ません
。正しい歴史認識を一貫として我々は日本人に教え伝えなけ
ればなりません!…多くの若者や日本人の皆さんがこの紫電
改に限らず…多くの派生するロング・ストーリーを秘める資料
館や旧軍の遺構を目にし手に触れ…その歴史に想い馳せて
正しい歴史を再考してもらえれば幸いに想います。

                     皇紀2669年 秋

                           憂国烈士










〜 脱 線 〜




今回、このページで採用したBGMはシンガーソングライターの
長渕剛さんのファーストシングル(実際には再デビューの2枚
目のシングル曲)となり昭和53年に発売してレコードを67.5万
枚を売る上げる大ヒットなり再デビューを確実なものした曲とな
ります。


私の中で長渕剛さんと謂えば数々のヒット曲も印象的ですが
一番印象的なのはその劇的な肉体改造のビフォー・アフター
です。まるで別人のようで…肉体改造前はイジメられっ子を
想像させますが…現在は、どう見てもイジメっ子へ変貌という
よりヤクザちっくな変貌が同じく肉体改造を遂げたプロ野球選
手だった清原氏を思い起こさせます。













珍しい九四式自動拳銃の
       可動式のモデルガン




無可動の文鎮タイプや精巧なダイキャスト製しかみない
九四式自動拳銃ですが…可動するモデルガンが発売さ
れました。一四年式自動拳銃と九四式自動拳銃は日本
軍の代表的な正式拳銃ですので合法無可動の実物拳
銃を所持していますが…こうしたものは動くと聞くと欲しく
なるもので予約して手に入れました。
可動部分があるからどうなんだ?…と謂われれば所詮はモデルガンなので
ですが…されどモデルガンでやはり動く九四式には…感動を覚えました。








実物のホルスターに納めて見ました。










メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。