Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
昭和の軍神☆伝説の英雄 |
軍神・南郷 茂男 陸軍中佐の自筆の日記
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↑ 上のバナーをクリックすると 兄上で支那で戦死された軍 神・南郷 茂章 海軍少佐の 品を紹介したページが開きま す。 |
兄で高名な撃墜王である軍神・南郷 茂章 海軍少佐 |
その兄が南昌にて戦死の報に接した日とその後の 日記の記載です。以下、 |
さすがは覚悟を決めて道を進んだ陸軍航空士官学校の将校生徒です。 中々…こう淡々と客観的に記載できるものではありません。それ以前の 日記の記載中国戦線で活躍していた兄への言及も頻繁に見られ、深い 尊敬と影響が伺えます…。 |
以下は全く違う方の所持品の中にあった南郷中佐の父上である 南郷 次郎 退役海軍少将の北京での写真と手紙です。 |
万寿山 頤和園の長廊にての撮影です。一緒のおられるのは 北京駐在武官補佐官の松本 海軍大佐と南郷 次郎 講道館長 (第二代)で…昭和16年5月中旬の裏書があります。内外から 訪れる要人の接待や観光なども重要な任務のようです。 |
先頭を歩くように長廊を進む南郷 次郎 退役海軍少将です。 この約5年後、敗戦の翌年に74歳で天寿を全うされます。 下の手紙は…その時の礼状と思われます。南郷 閣下の直 筆での記載があります。 |
精巧手作真鍮製 約1/27スケール |
長四斤山砲(弥助砲) |
四斤山砲は19世紀半ばにフランスで開発された砲です。日本では幕末に幕府軍が 輸入して使用を開始…続いて薩長など各藩もこれを導入しました。戊辰戦争から西 南戦争と活躍しました。その後、後の元帥陸軍大将 大山 巌(大山 弥助)が薩摩藩 で四斤山砲を独自改良して設計し直し砲身を延長した長四斤山砲(所謂、弥助砲) を村田銃知られる村田 経芳 陸軍少尉(当時)に作らせた開発し明治になって生産 されました。これら四斤山砲は初期の帝國陸軍の主要な火砲でした。 |
多少のデフォルメ有との事でしたが…下の画像と見比べていただくと見事に 再現されているのが判ります。 |
大山元帥と弥助砲です。 |
幕末の戊辰戦争…台湾出兵…西南戦争が匠の手により蘇る感じです。 折しも今年の犬HKの大河ドラマ”八重の桜”でも新政府軍の弥助砲が 会津藩を苦しめます。そしてドラマの中では主人公の八重がスペンサー 銃の長射程を活かして砲兵隊長の大山弥助を狙撃し彼の右大腿部に貫 通銃創を負わせ後送させます。 |
四斤山砲とアームストロング砲でノックアウトされた会津城です。 |
クラッカーを試しに詰めて発火実験を試みました。 |
≪動画≫四斤山砲(弥助砲)真鍮ミニチュアのクラッカー発火実験! |
アルバム取外しの古寫眞に見る
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陸軍衛生部 四〇年式手術衣 大 |
時々当時の術衣はよく出ますが、本品のように首周りの内部に四〇年式手術衣 大 昭和 年 月製造の記載と昭和拾八年の検査印のある編布が縫い込まれている術衣 は少なく珍しいと思います。物としては日赤や他の当時の医療機関で使われていた ものと大差ないものです。 |
基本的な構造は今も昔も変わりません。 |
10年前まではまだ左上のように滅菌して再利用する手術衣を使っている 医療機関はまだたくさんありましたが…今では殆どが右上や下のようにディ スポの術衣になっていると思います。さすがにその下に着るスクラブは、 いまだに洗って何度も使用していますが…こちらも近年は色んなカラーが出 ていてカラフルで驚きます。以前はグリーンかブルーまたは灰色程度しかな かったものですが…今のオペ室は感染症対策という点でも何から何までオ ール・ディスポで驚きます。IVHにしろスワンガンツにしろワンセットにキット 化されています。当時、これを見た時は感動したものです。そして同時に使 用するのが少し勿体ないと感じておりました…(苦笑)。 |
近年出回った珍しい安藤飛行機研究所の寫眞 |
左上は戦前に民間航空の先駆けとして活躍された安藤飛行機研究所の所長・安藤孝三氏です。戦後 は航空輸送から撤退しました。右上は日本の女流パイロット一号としてNHKドラマの”雲のじゅうたん” で更に有名なった西崎キクさんです。1〜2年前位に遺品整理でオークションに流出したと思われる珍し い安藤飛行機研究所の寫眞です。整理が追い付かず放置していました。最近、アルバムに収めて整理 しなおしたので改めてこちらの方でも収載しました。折角なのでsummer-ochibo様から提供された寫眞 も合わせて紹介致します。 |
尚、アルバムからでなくバラバラの状態での寫眞が複数で売りに 出されていたものを入手したので時系列は無茶苦茶です。面倒な のでそのまま掲載しています。尚、西崎(松本)キク女史の写真で すが朝日新聞から提供されたサルムソン式2A2型陸上機で女性 で初の訪満飛行に飛び立つ羽田での写真と思われます。この西 崎キク女史の発案による満州訪問飛行を成功させる為に安藤孝 三所長は水上機しか経験のない彼女の為に陸上機への転向を 計れるように亜細亜航空学校(東京州崎)の飯沼金太郎所長を紹 介しました。ここで陸上機の操縦練習を行い機種拡張試験に合格 し昭和9年10月22日、羽田飛行場を白菊号と命名したサルムソン 式2A2型陸上機で8時45分に飛び立ち、浜松を経由して大阪で天 候の回復を待ち、26日に九州の大刀洗に到着。翌27日に朝鮮半 島の蔚山に到着、そのまま京城を目指すがガス欠で京釜線始興 駅南側の漢口の河原に夜間不時着。奇跡的に機体も本人も無事 で機体から車輪をバラシ三台の牛車で8km離れた京城飛行場で 車輪を再び取り付ける為の組み立てを行い、10月31日にテスト飛 行を行い問題なくそのまま飛行して新義州に到着。2日間の休養 をそこで取り、11月3日に奉天東飛行場にやっと到着し満州国内 へ、ここで一泊し目的地の新京へは翌日の11月4日午前10時40 分に着陸し訪問を成功させました。使用されたサルムソンは陸軍 で乙式一型偵察機として使われた機体で最高速度も188km/h、 航続距離も500kmと練習機並みの性能ですから大回りして無理 をせず飛んだのでしょう…こうして日本女性飛行士として初の海外 渡航を実現した西崎キクはこの実績により Harmon Trophy を受 賞しました。 |
こうした当時の地元の写真屋さんの紙袋でしょうか…こうした中に無造作に 寫眞は入れられておりました。 |
ありし日の安藤飛行機研究所です。遠景から愛知県知多半島の新舞子海岸 の水上飛行場があった当時の様子がよく判ります。当初はここから程近い場 所にある古見海岸に飛行場を開設したのが大正10年10月の事です。安藤 孝三氏が23歳の若さの時でした。彼は大正5年に名古屋港上空で曲芸飛行 を行った米飛行士アート・スミスの姿を見てから飛行機の世界の魅せられたと 謂われています。20歳で徴兵され甲種合格で所沢陸軍飛行第一大隊に入隊 するも整備兵として…遂に搭乗員に転じて飛行機を操縦する夢は適えられま せんでした。大正9年の年末に除隊した安藤氏は大空を飛ぶ夢を叶えるべく水 上飛行場を開設します。古見海岸で飯沼金太郎氏からファルマン式水上機で 操縦を習いました。この寫眞にある新舞子へ移転したのは大正12年の5月で した。水上機を6機収容可能な格納庫を建設し飛行学校を開設しました。 |
当時はパイロットの免許を取得してもまだまだ職業として食べていけない 時代でしたので…航空局から教官を招聘しこれにより、航空局海軍委託 練習生の課程を終えた水上機操縦士を研究所へ入所させ定期航空輸送 業務の実務を実習させる養成機関を作り上げました。(ここで実習を終え た操縦士は再び日本航空輸送に移籍していきました。)このサイクルを 作る為、大正15年9月、名古屋港から和歌山県新宮の間に週一便の定期 航路を開設しました。次いで昭和3年6月に新舞子〜二見〜蒲郡間に定期 航路を開設、これにより名古屋〜二見浦〜蒲郡を結び伊勢湾、三河湾を 結ぶ定期航路を運航しました。こうして昭和20年まで24年間にわたり最盛 期は38機の水上機を擁して航空事業を推し進めました。安藤所長は昭和 12年から二期二回に渡り衆院議員に当選し初登院では羽田沖まで水上 機でとび飛行機代議士と呼ばれました。戦後は安藤飛行機研究所を安藤内 燃機研究所と改名し漁船に航空機用エンジンを換装する作業を始め航空事 業から完全に撤退しましたた。水上機の格納庫は製塩会社に貸し出し倉庫 や海の家にも利用されたりしましたが…昭和28年9月に来襲した台風13号 でそのすべてが倒壊しました。そんな安藤氏も昭和60年2月10日、86歳で 地元の愛知県知多市で亡くなられております。 |
三菱製の十年式艦上雷撃機(1MT)を改造した水上機です。 |
安藤飛行機研究所は民間飛行機会社の黎明期の魁の一つでもあります。日本人は敗戦後、飛ぶことを 禁止されました…安藤氏も航空機産業から撤退しましたので敗戦までのこれ等の写真は、僅かな期間に 存在した安藤飛行機研究所の貴重な記録と謂えます。…また飛行機も車やバイクと同じで事故がつきも のです。墜落した様々な機体の写真も残されています。上の左右は…ハンザ水上機ですね。 |
墜落した事故機の前で写る飛行帽の方が安藤氏です。 |
軍用機でなく民間機ですので実におおらかで面白い写真です。機体は 海軍でも国産化して生産されたハンザ水上機です。 |
ハンザの後継機となった一五式水上偵察機(E2N) |
海軍から払い下げで民間機として多く出回った一三式水上練習機(K1Y2) |
九〇式水上初歩練習機(K4Y1) |
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シルエットから戦前の名古屋城と思われます。 |
戦前の逓信省航空局はパイロット養成所設立と共に搭乗員養成の一部を民間へ 委託していました。その一つが安藤飛行機研究所でした。 |
安藤の刻印のある写真に残る海軍委託学生達のその後の写真です。 左上は九六式艦上戦闘機、下は九六式陸攻でしょうか…戦時色が濃く なっていくのが写真でもわかります。 |
一枚の古寫眞から… |
私の故郷・札幌の市電通りを行進する一行です。 |
記録によるとユーゲント一行の札幌入りは9月5日の午前10時で前日の 函館から汽車で札幌駅に到着。宿泊場所は札幌グランドホテル。7日まで 札幌で日程をこなし8日に一行は苫小牧に移動しています。写真の裏の 記載は7月になっていますが…記憶違いによる記載間違いかもしれません 。札幌での3日間も日程はタイトで…5日は札幌駅で札幌市長や石狩支庁 長、在留独逸人等の出迎え受けて宿泊先の札幌グランドホテルまで沿道 に詰めかけた数万人の市民の歓迎の中、市内の目抜き通りを行進したと ありますので…その時の写真と思われます。翌6日は、札幌神社参拝に北 海道庁と北海道帝國大学、大日本ビール会社札幌支店を午前中に訪問し 午後は道庁林業試験場に野幌原始林を見学しています。7日は午前中まで 休養を取り、午後からバス3台に分乗して移動、千歳孵化試験場を視察後 室蘭街道を走り支笏湖畔の日独青年交歓野営場でテント小屋で北海道青 年団代表42名(札幌地方海軍人事部長の福田海軍大佐が主催)と交歓し た後、王子製紙倶楽部と黎明閣に分宿。8日は午前中は王子製紙の専用 軌道車に乗り苫小牧入りしました。…これを日本全国で続ければ倒れる人 が出てくるのは頷けますね。 |
北は北海道から南は九州に至るまで裏日本の北陸や山陰 を除いて主だった日本の各都市をしっかり周っています。 |
左上は団長と副団長。右上は皇居遥拝の写真。下は靖国神社参拝 の時の写真です。 |
一枚の古寫眞から…Part 2 |
ボロボロの一枚のアルバムからの取り外し寫眞です。裏に昭和18年7月20日 ラバウル南飛行場 中隊長 日高少佐 の記載があります。集合写真の後ろ の機体が九七式重爆撃機で垂直尾翼に描かれた部隊マークから飛行第十四 戦隊である事がわかります。その下に機体番号でしょうか06が読めます。 |
飛行第14戦隊は台湾嘉義から開戦以来、比島〜東南アジアを中心に戦闘 に参加し激戦のニューギニア・ソロモンの航空撃滅戦を戦った歴戦の重爆 部隊です。昭和18年2月から3月の間に部隊はニューギニア方面へ移動 ラバウルから南に少し離れたココポに進出しました。ここに同年9月後半ま で駐留してニューギニア、ソロモンでの作戦行動を行い、その後にウェワク へ移動…フィリッピンのクラーク基地やセブ島などを転戦しました。 |
尚、記載された中隊長 日高少佐とは、陸航士50期の日高 靖喜 大尉(当時)です。 この時の飛行第十四戦隊の戦隊長は軍神・加藤少将の同期生(陸航士37期)の 遠藤 操 少佐でした。 |
昭和18年3月2日にココポに進出した当時の飛行第十四戦隊は 九七式重爆U型を36機を擁しておりましたが、損傷激しく7月2 日の時点では稼働24機の状態でした。7月4日に日高 大尉指揮 の16機の九七式重爆U型が隼と零戦のの護衛を受けてレンドパ 島を攻撃し敵輸送船5隻と小舟艇多数を撃沈しましたが戦隊は6 機を失い陸軍は翌日からソロモン方面への戦力の投入を避けて ニューギニア方面のみに限定するようになりました。 |
昭和18年7月…すでにかなり苦戦を強いられていた時期です。しかし見て下さい…本当に よい笑顔で微笑んでいます。日本人はこうした逆境の中で団結力を密にして頑張ります。 それは今も昔も変わらない日本人の高い資質です…。 |
この画像は昭和18年10月12日、ラバウルから離陸直後に撃墜された 飛行第十四戦隊の九七式重爆(蔵野 輝雄 大尉機)です。 |
一枚の古寫眞から…Part 3
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B4サイズより少し大きい大判写真です。余り見たことのないB29が被弾し白煙を吹いている珍しい写真です。 日本軍機が白煙を吹き墜落する画像や映像は米軍撮影で嫌と謂うほど見せつけられていますので…少し嬉し く感じます。 |
右の主翼の外側のエンジンの付け根付近より白煙がでているのが確認できます。そのエンジンは停止しており プロペラが回っていないのがわかります。同じ編隊の僚機のB-29が撮影したものと思われますが…この程度 のままで済めば残りの三発のエンジンが健在ならグアム・サイパンへ無事に帰投できたでしょう。 |
拡大すると粗くなるので定かでありませんが白煙を吹いた箇所以外に下から見上げた限りでは大きな 損傷部位は他に無いようです。さすがは超々空の要塞と謂われるだけの化け物です。まさに日本にとど めを刺した戦略爆撃機です…。 |
垂直尾翼のマークはアルファベットでなく…数字の9のような気がします。 |
シベリア抑留生還者の俘虜用往復郵便葉書 |
ウラジオストック第ニ収容所に収容されていた 神奈川県出身 茅 文太郎 陸軍少尉の品です。 |
歩兵第五十九師団の四十一大隊第三小隊長つとめていた茅 少尉は朝鮮の 咸鏡南道咸興(現在の北朝鮮)で警備および陣地構築中に敗戦を迎えソ連軍 の武装解除を受けました。その後はウラジオストック第二収容所に入所され、 運よくと謂いますか…昭和22年に無事に帰国を果たしたとの事です。この葉書 は日赤を介して実家に出した往復葉書で自身の無事を伝えています。 |
この葉書も他のシベリア抑留者の手紙と同じで変な日本語です。 検閲で日本語のできるロシア人が間に入って書かれているので しょうか? |
〜 脱 線 〜 |
*今回、このページで採用したBGMは、平成11年に46歳の若さで 脳内出血で急逝した不世出の天才シンガーソングライターの村下 孝蔵 の”かげふみ”です。因みにこの曲はシングル盤では出ていま せん。アルバムの中で収録されている以外は歌手の高田みづえに 昭和59年(1984)への提供され彼女がシングル盤を出しています。 今、何度聞き直しても素晴らしい名曲です…。 |
29歳の遅咲きで4枚目目になるシングル”ゆうこ”がヒット 続いて30歳の時に”初恋”が大ヒット・・・素晴らしい世界を 以来、我々ファンに17年間聞かせてくれました。村下さんが 亡くなられて約14年・・・今も時々、彼の作品を聞き続けてい ます。 |
かげふみ |
まだ村下さんが存命であれば素晴らしい作品が ドンドン生まれて我々をきっと魅了し続けてくれた 事でしょう。・・・本当に残念でなりません。 |
本当に惜しい才能を失いました・・・。 |
〜 脱 線 2 〜 |
関東の霊峰”筑波山”と筑波山神社 |
関東では西の富士山と東の筑波山と称される霊峰の筑波山です。その中腹には 約三千年の歴史を有す筑波山神社があり筑波山そのものを御神体(男体山と女 体山)としています。この日本百名山のひとつにも挙げられる筑波山に行き筑波 神社を参拝して参りました。 |
晴れた日にはこのように二峰と美しい稜線を持つ筑波山。その優雅な山容は 古来より高貴な色、紫で表され”紫の山”、”紫峰”と呼ばれました。下は霞ヶ浦 から見た筑波山です。かつてこの周辺には筑波空や百里空、霞ヶ浦空などの 海軍航空隊や陸軍の航空隊も茨木、埼玉、千葉には多く存在しました。多くの 航空搭乗員にとって必ず目に入る目印となるシンボリックな山でもありました。 |
日頃の行いが悪い為か…私がこの坂東無双の霊山・筑波山を30年ぶりに目指した 日は曇りで中腹より上はガスで山裾から上は見えない状態でした。 |
筑波神社の大鳥居近くの建物から筑波山を背に霞ヶ浦〜東京方面を撮影した ものです。…靄っていて遠くが見えません。冬の晴れた日は富士山が見え、夜 間なら夜景がとても美しくスカイツリーも見る事が出来るのですが…。 |
〜東峰(女体山 ・標高 876m)〜
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東峰の女体山の山頂の御本殿です。ガスで何も見えません。 |
ケーブルカーの女体山駅です。 |
〜西峰(男体山 ・標高 871m)〜
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筑波山は二峰あり登頂するには三経路あります。 普通に登山道を登る方法と東峰側のロープーウェ ーで登頂する方法。そして西峰側のケーブルカー で登る方法です。いずれにしても二峰とも駅のある 場所から山頂は少し歩きで登らなければなりませ ん。若い人に交じりヒーヒー謂いながら中高年の方 が大汗をかきかき登っておりました(苦笑)。 |
筑波山の中腹以下はガスもなく普通です。こちらがケーブルカーの 宮脇駅です。あいにくの天気のせいで訪れる人もまばらです。 |
山頂は下界に比べ気温が6℃位低いのですが、ガスのせいでもの凄い湿気です。 |
このガスでは下界はおろか…左右の山頂すら見えません。 男女山の連絡通路のような感じの御幸ヶ原です。売店や食 堂が立ち並んでいます。 |
この御幸ヶ原より男体山の山頂を目指します。結構、急峻な登坂でガスで濡れた 岩肌は滑りやすく怖かったです。大昔上った時は快晴のときだったので条件が違 うとこうも変わるのかと驚きました。(下は晴れている時の山頂への道です。) |
西峰の男体山の山頂の御本殿です。こちらもガスで何も見えません。 御本殿は江戸城を向いています。この筑波山は徳川幕府の守護山と して崇められておりました。 |
下界は何も見えません! |
こちらは明治35年に開設された山階宮筑波山測候所が7年後に国に寄贈され以来 中央気象台附属筑波山測候所として運営されてきました。そして明治42年から平成 13年12月にアメダス(地域気象観測システム)観測地点の統廃合により廃止される まで,百年以上にわたり我国の山岳気象観測の拠点としての一翼を担ってきたこの 中央気象台附属筑波山測候所は役割を終えて閉鎖されました。その4年後に筑波 大学大学院生命環境科学研究科の大気科学・水文科学研究グループが筑波山気象 ・水文観測プロジェクトとして平成18年1月より筑波山・男体山山頂の旧筑波山地域 気象観測所施設内において気象観測ステーションを始動させました。しかしそのプロ ジェクトも既に終了し、平成24年からは筑波大学の計算科学研究センターの事業の 一つとして、新たに”筑波山プロジェクト”(担当:日下 博幸 准教授)として引き継が れています。 |
一見すると看板も表札もなく廃屋のような感じですが…今も無人の施設の中で 監視カメラや計測が行われデーターは地上に送られています。下のバナーから サイトを見るとそのリアルタイムのデータや画像を見る事が出来ます。 |
左上は終わってしまった筑波山気象・水文観測プロジェクトのサイト。 下は現在、引き継がれた筑波山プロジェクトの公式サイト。右上は今 もデーターや山頂のカメラ画像を配信する筑波山プロジェクトのサイト の一部です。それぞれクリックするとサイトが新しいウィンドウで開き ます。 |
〜 筑波山神社 〜 |
〜 脱 線 3 〜 |
牛 久 大 仏 |
↑ クリックで公式サイトが開きます。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |