旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_16














Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)



陸軍関連








旧梨本宮家から出たと思われる
    戦時中の宮家御紋のある略帽




非常に珍しい略帽です。略帽自体は質の良い将校用の略帽です。帽章は
14弁菊花紋の旧宮家・梨本宮様の御紋を違和感なく上品に付けています。
梨本宮様の家人が使用したものと想像します。

旧皇族・梨本宮家の御一家です。
保存状態が良く虫食いや痛みは一切ありません。僅かに汗止めに痛みを
見ますが帽子本体は極美と言えるでしょう。

宮家の関係者も戦時中と戦後の混乱期はこうした略帽を使用して
外出されたのでしょう。中々、出てくる品でないものと思います。




下の菊の御紋を比較してもらえばお判りのように旧梨本宮家の菊紋である事が判ります。
左から旧梨本宮家、中央は天皇家の十六弁八重表菊、右が旧有栖川宮家の御紋です。
有栖川宮家の菊紋は天皇家と同じ16弁、対して梨本宮家は14弁です。下は帽章の取り
付けた内部側を撮影した写真です。







完全手作り 真鍮無垢材削り出しシリーズ
 (1/4スケール) 村田銃三部作のラスト

   村田二十二年式歩兵小銃
          と珍しい各種手榴弾




村田歩兵小銃三部作の最後となる二十二年式小銃です。
前のページで先に出来上がった十三年式と十八年式を掲
載して紹介しました。
今回も期待を裏切らず匠の技で村田二十二年式を忠実に再現なされて
おり…これが1/4スケールと謂わなければ実寸大の模型と錯覚する所
です。
今回も匠の心憎い仕掛けでチューブ弾倉はダーミーながら先端を差し込み式に
して予備のダーミー弾を入れられるように細工がなされています。
可動は単発ですが 排莢 遊底は引き抜けないようにロックがついています。




クリーニングロッド短は床尾板上部にスライダー(実物通り)を作り、こちらもロックが付いています。



照門尺は薄く弱いので立てる時注意が必要ですが御覧の通りです!


単発ですがこのように排莢出来ます。






匠の動画説明です。動画再生の時はページトップでMIDI音源を停めて
から再生してお楽しみ下さい。








九八式柄付手榴弾に建軍初の各種手榴弾です。
この九八式(柄付)手榴弾は実物を所持しており当サイト
内で収載して紹介しています(以下)。
下のバナーをクリックすると九八式手榴弾
の収載ページが開きます。


203高地の時は布でくるんで振り回し投げたようです。
その前は大砲の弾等を利用し火縄をつけた即席の物も
あったようです。必要に迫られて創意工夫のうちに出来
上がった物が使い易く兵器として完成していった物のよ
うです。




また匠の作品の製造工程を画像で少し紹介します。今回は
村田三部作なので十三年式、十八年式、二十二年式の三
作品を一緒に紹介です。

































飛行第十九戦隊(誠一五三五二) 第四代戦隊長
   吉田 昌明 陸軍航空大尉のアルバムからの写真
      (航士五十四期)




神社にて美しい花嫁と凛々しい三式軍衣袴姿で写る大尉が…以下の一連の
写真の持ち主です。写真はバラバラでアルバムからの取り外し品なのか定か
ではありません。婚礼記念の写真の裏に検閲印があり昭和19年12月22日の
年末近くのものと判ります。こちらの吉田 昌明 陸軍大尉は三式戦”飛燕”を
駆って大戦末期の死闘の空を戦ったパイロットです。
検閲印の後に吉田大尉は戦隊の三式戦”飛燕”30機を率いて伊丹基地より台湾
に進出します。この時を死に所と考えて内地で挙式したものと思われます。
吉田 大尉の率いた飛行第十九戦隊は昭和18年末に北伊勢で三式戦”飛燕”
戦闘機隊として誕生。昭和19年6月に比島(マニラ)に進出、7月にアンボンへ
進出し船団護衛任務につきます。途中、空襲等で戦力を大幅に消耗。8月に
アンへレスに進出し戦力の回復に勤め9月半ばには稼働機が20機以上に回復
。しかし9月〜10月〜度重なる米機動部隊との戦闘と米軍のレイテ上陸で遂に
指揮を執る将校搭乗員が全員戦死し再び戦力の回復を図る為、11月に帰国(
小牧基地)。短い間に初代戦隊長の瀬戸 六朗 少佐はラロカルタ飛行場で戦死
二代目戦隊長の中島 凡夫 少佐も戦死。そして三代目の本田 辰造 少佐から
戦隊を引き継ぎ四代目戦隊長となったのが吉田 昌明 大尉です。そして19年の
大晦日に吉田戦隊長以下30機の飛燕が伊丹基地を飛び立ち台湾(台中)に進
出します。昭和20年1月5日、台湾・屏東より比島に向けて出発するも吉田戦隊
長機が機関不良の為、引き返しますが、進藤 正博 中尉の指揮する第二中隊の
数機の飛燕のみが比島に進出します。この進出した飛燕も1月8日のリンガエン
湾の米輸送船団への特攻機の直掩任務で3機が出動し、進藤中尉以下全員が
未帰還で戦死します。…その後、吉田戦隊長以下の十九戦隊主力は台湾残留
が決まり第八飛行師団の隷下に入り、後に天一号作戦に参加します。またその
後は沖縄戦で宜蘭飛行場から特攻機を送り出します。吉田大尉は移動があって
戦隊長は第五代の深見 和雄 少佐、そして第六代の栗山 美晴 大尉に代り部隊
の最後は花蓮港に移動し敗戦を迎えています。詳細は判りませんが吉田 大尉は
飛行第十九戦隊より飛行五十九戦隊に転じて乗機も五式戦になり敗戦を芦屋で
迎えた模様です。


赤タンの制服姿の記念撮影です。陸軍幼年学校より陸士予科に進まれた時の記念撮影のようです。
陸軍航空士官学校54期として昭和13年11月に入校し、昭和16年3月に卒業
されています。同期卒業生は395名。このうち254名が戦死されています。


昭和13年8月に広島で御家族と写した写真です。


以下の写真は航空士官学校時代の写真と思われます。






九七式軽爆を背に写真に写る将校生徒時代の吉田 昌明 大尉です。
時期は昭和13年から15年頃と思われます。機体の先には木造の格納庫が
見えます。豊岡と思われます。
昭和13年6月に陸軍最初の単発単葉軽爆撃機として制式採用された三菱重工の
九七式単軽爆撃機(後に九七式軽爆撃機と改称)。面白い事に既に仮制式採用
時の同年3月には支那大陸に展開する部隊に配備され実戦にも参加していました
。稼働率が高く実用性に優れており、実施部隊での評判は高く主力軽爆撃機とし
て日米戦の開戦まで主に日中戦争で活躍しました。
キ-30


航士の区隊長でしょうか・・・。


以下は卒業し任官後の写真のようです。
三式戦”飛燕”のコクピットと思われます。吉田大尉が所属した飛行十九戦隊も
飛行五十九戦隊も三式戦”飛燕”の戦闘機部隊でした。五十九戦隊は五式戦に
に装備改変を行い敗戦を迎えていますが・・・。
幼さを残す少年の横顔が印象的です。
キ-61


一式戦”隼”U型でしょう。左右の二人は子供のように幼い感じです。



キ-43U


指揮所でしょうか・・・実にいい笑顔ですね!


8月26日と黒板にあります。笑顔の吉田大尉です。半袖の防暑衣に
カポック無しで操縦者用縛帯を身につけています。高度を上げたら
半ズボンも寒そうです。吉田大尉は戦後も存命されて京都市伏見区
にお住まいでした。







【戦前・戦時資料】 立命館 禁衛隊 標章(徽章)




立命館大学の禁衛隊とは、昭和三年の京都府御所に於ける昭和大礼
の際に御所の警衛を拝命され陛下から”天賜立命館禁衛隊”の御旗を
下賜されました。以来、立命館大学では敗戦の昭和20年8月15日まで
学生による私設の御所警備組織として禁衛隊を維持していました。そし
て禁衛隊に所属した立命館の学生はこの標章(徽章)を学生服に誇らし
げに付けました。
皮肉な事に立命館は…戦前、ここまで皇恩を大切にした学び舎で
ありましたが、敗戦後は学生運動が華やかなアカの学校に様変わ
りし…今もアカを高らかに誇っている大学だそうです…(-_-;
標章(徽章)は銅製で68年から85年の歳月を経た代物にしては意外と
綺麗で時代を感じさせないものです。禁衛隊は当初は、限られた人数
だったそうですが…その後は新入生の殆どが入隊したと謂いますので
かなりの標章(徽章)が作られ、他にもバリエーションが幾つかあるよう
です。
下は立命館大学の平和ミュージアムに所蔵されている御下賜された
天賜立命館禁衛隊旗に立命館禁衛隊宝典です。


大きさは縦横が約3.9cm×3.4cmほどの小さなものです。
画像は禁衛隊設立から二年後の昭和五年頃の立命館の学生達です。







【戦前・戦後資料】 A級戦犯 大川 周明 氏の自筆書簡




東京裁判で東条英機大将の頭を叩き…精神障害の診断で
精神病院へ送られ後に釈放された事で有名な国家主義者
の大川 周明 氏の手紙です。
消印は昭和30年11月3日。昭和32年12月24日に71歳で死去されておりますので
亡くなる2年前の69歳の時に書かれ投函された手紙であると判ります。大川氏は
昭和22年4月9日に正式に東京裁判から除外され米軍病院に入院します。その後
東大病院〜松沢病院と転院しました。東京裁判が終了後に退院し、この封筒の住
所である神奈川県愛甲郡中津村に住みここで生涯を終えました。

東京裁判では唯一、民間人のA級戦犯容疑で起訴され拘留されました。

           〜 大川 周明 〜

            < 略 歴 >

 明治19年12月6日生
 山形県酒田市出身

荘内中学より旧制熊本五高(第五高等学校)から
東京帝大に進む。大正9年に拓殖大学教授を兼任。
大正14年、満鉄経済調査局理事長。昭和13年に
法政大学教授に。大陸部部長として植民史、植民
政策などを担当する。大正・昭和期に、北一輝、
満川亀太郎らと親交があり、猶存社を結成。行地社
を創立し、国家改造をめざし、軍部将校との結びつき
も深め、三月事件、十月事件に関与、五・一五事件
首謀者に拳銃と資金を提供したため逮捕。 戦後は
都立松沢病院入院中にコーランの邦訳を完成させた
事で有名。戦前の日本を代表する国家主義者・右翼
思想家であり、大東亜戦争を理論的な指導者として
有名です。

 









戦車第二師団と共に比島戦を戦い
 生き残った兵士の戦友の面影を納めた
  写真アルバムと戦車第二師団感状の写し


〜嗚呼、あの顔で、その笑顔で…多くの日本兵が
   米英の理不尽に対抗し日本を守る為に、そして
    大東亜の解放の為に戦い広大な戦域で戦い没し
     ました。このアルバムに残る戦没日本兵の笑顔を
      見て、戦後の日本の長い平和を享受する日本人は
       如何に多くの日本人の先人同胞達が尊い犠牲を払
        ったかに想いを致して下さい。今は物を謂う機会も
         振り返られる事も無い無名の戦没将兵達の残像です。〜




比島戦で戦った戦車第二師団の生き残りの方が戦後所持していた
感状の写し(上)を入れた額と写真アルバム(表紙等は無し)です。
アルバムの中にあるキャプションには”昭和18年5月、満洲敦利にて
この戦友達は全員が戦死、我一人生きる”とありました。大体、昭和
17年〜18年の満州で撮影された写真が主体です。
例によって無縁の私の元にバラバラのアルバム類だけあると謂う事は
既に持ち主は他界し管理する遺族が無く処分されたものを古道具屋な
どが仕入れてバラバラに処分した物の一部だと思います。昨今は少子
高齢化の傾向が凄まじい勢いで進み…係累が無く有り得ない家柄や
軍神など滅多に世に出る筈の無い品が出回るので驚きます。いずれに
しろこのアルバムの中の多くの方が日本の為に比島戦で苦しい戦いの
中、戦陣に倒れた方々です。戦後に平和を享受する日本人の一人とし
て一人でも多くの日本時の目にとめてもらうべく顕彰したいと思います。


フィリッピン防衛の最高司令官であったマレーの虎・山下 奉文 大将が戦車第二師団
及び隷下部隊に出した敗戦前の感状の写しです。左隅に所持者だった方の上等兵時
代(満洲)の写真が入っています。

古参兵のふてぶてしさを醸し出す感じの方です。


下のカラー写真の方と同一人物と思われる北支時代の写真です。
当時、上等兵で左胸に部隊章のようなものをつけていますが、全
員が共通の名前で無いので名札代わりに苗字を縫い付けている
ようです。従ってこの所持者だった方は姓が岩本と判ります。他の
シャンの裏書より名前が秀。岩本秀と謂う名前であると思われます。


戦後に戦友会でフイリッピンに慰霊に行かれた時の写真のようです。



アルバムのキャプションには”戦車第二師団 重機関銃射撃大会にて優勝
金メダル 我 射手として出場。左上とあります。何とか姓名と階級などは
読み取れましたが部隊名が戦車第二師団隷下部隊としか判りません。
上の中で伍長たちの中で一人、善行章二線を付けて帯剣の上等兵が
射手で金メダルに輝いたこのアルバムの持ち主だった岩本 秀 陸軍
上等兵(当時)です。
射手だった岩本上等兵以外は兵隊は居らず、中隊長以下の中隊の下士官達が
誇らしげに写真の中に勢ぞろいしています。





珍しい聯隊長と聯隊旗手と軍旗です。
軍旗の新しさと大きさから騎兵聯隊ではと想像します。





聯隊旗の写真の横にあった写真なので聯隊長と思いました
が・・・戦車第三旅団長としてルソンで戦死された重見 伊三
雄 陸軍少将(戦死後、中将)の大佐時代と思われます。
少将に昇進されるまでの昭和16年12月1日から昭和19年3
月1日は公主嶺陸軍戦車学校(後に四平陸軍戦車学校)の
教官をされておられました。その前は戦車第九聯隊長でし
た。この写真の時期は四平陸軍戦車学校の教官をされてい
た時と思われます(陸士27期・陸大専1)。

横にあった軍旗の写真は拡大すると(下の写真)騎兵第
七十二聯隊となっています。豊橋を衛戍地として昭和15年
に軍旗親授され昭和18年に返還した新しい部隊ですが…
戦車第二師団とは接点が無く騎兵第四旅団に属し第三師
団隷下でした。従って関係のなく単に軍旗の写真をアルバ
ムに入れただけだと思います。

重見 伊三 大佐の佩用しているサーベルは騎兵用なので
他の多くの戦車将校と同じように騎兵科出身である事が
判ります。と言っても昭和7年の第一次上海事変では当時
大尉だった閣下が独立戦車第2中隊を率いてルノー乙型
戦車十輛にまだ配備されたばかりの八十九式中戦車五輌
を持って戦い”鉄牛部隊”と有名になりました。我国陸軍戦
車のパイオニアの一人である閣下は・・・最後には手塩にか
けて育て上げた戦車部隊を率いて突撃し壮烈な最後をルソ
ンで遂げました。
愛車の九七式中戦車の前に立ち写真に写る重見 伊三
陸軍少将・・・戦車第三旅団長としてルソン島で激戦を戦
い昭和20年1月27日に残存する戦車部隊を結集し全車
で一斉射撃を行い指揮官陣頭で決死の突撃を全軍で敢
行し壮烈な戦死を遂げられています。・・・戦死後に陸軍
中将に昇進されました。


あの顔もこの顔も…櫛の歯が零れ落ちるようにフィリッピンの激戦で散っていきました。

この時代にしてはかなり肥えています。これでは歩兵は無理でしょう。
九五式下士官刀を持って写真に写ります。騎兵でも馬が少し可哀想
な感じです。














昭和17年の写真です。まだ岩本 秀 氏が一等兵の時のものです。
下の拡大した顔が心なしか幼い気がします。

服装や防暑帽や略帽の帽垂れを見ても満洲であれば真夏。
もしくは南方に部隊移動後の写真と思われます。







甲斐武田氏の支族から徳川家旗本に
 なり横浜(六浦藩)で唯一の譜代大名家
  であった米倉家の養子となり第十三代当主
    従四位子爵 米倉 昌達 氏の写真アルバム





米倉 昌達 子爵は常陸牛久藩第12代藩主の山口 弘達
子爵の第三子で米倉家に養子に入り家督を継ぎました。
米倉 子爵は明治19年7月15日生まれで東京帝大で薬学を収めた薬学者
東京帝大付属医院分院薬局長から日本医専教授、東京女子薬学校校長
や京都薬学専門学校の校長を歴任後に日本医大教授。昭和12年2月17
日に52歳死去。


京都御大礼の陛下京都御所着の写真と思われます。
昭和3年11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し京都御所へ向われました。
京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇
の乗る6頭立て馬車・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣の牧野伸顕・内閣総理大臣
の田中義一の馬車と続きました。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が
86メートルと決められていたそうです。


京都御所から出た行列は和洋折衷ですが・・・時代絵巻を見るようです。
近衛騎兵の晴れ舞台です。・・・今の世では皇宮警察がこの役目を行うのでしょう。


米倉子爵の写真と一緒に出たアルバムの一部です。
時代背景から米倉子爵ご自身の学生時代等の写真
では無いようです。医学生から医者になられて軍医
で支那で従軍されております。御子息は無く養子も
迎え無かった為に米倉家は昌達氏の代で没後女戸
主となり爵位継承権喪失しております。従ってこちら
の写真の軍医はご子息でなく親類縁者か教え子等の
関係者と思われます。




衛生科見習士官


軍医として支那に従軍されたようです。


写真が京都御所などのものがあるので元々京都方面の方の
ようです。原隊はやはり歩兵第九聯隊のようです。














帝國在郷軍人会副会長
   和田 亀治 陸軍中将の肉筆の色紙




和田 亀治 陸軍中将は大分県出身。明治3年11月19日生
職人から一般徴兵を経て陸軍教導団卒業。陸士(六期)に
進み少尉に任官。歩兵第十二聯隊附。陸大(十五期)。
日露戦争では第一師団参謀で出征。その後、陸大教官や
陸軍省軍務局などキャリアを重ねて参謀本部第三部長、大
正12年8月に任陸軍中将。陸大校長をつとめました。その後
第一師団長に親補。昭和3年8月に予備役。帝國在郷軍人
会副会長をつとめました。昭和20年12月2日に逝去。







【戦前資料・記念品】 大阪築港竣功記念のインク壺





昭和4年3月 大阪築港竣功記念で関係者に贈呈されたインク壺です。






基石に刻まれた参謀総長陸軍大将元帥陸軍大将大勲位功二級
小松宮彰仁親王殿下の名前があります。










ピットロード 1/35 の 完成品模型で陸軍 機動九〇式野砲と
九八式四屯牽引車 シケです。



















〜 脱 線 〜





*今回、このページで採用したBGMは、平成11年に46歳の若さで
脳内出血で急逝した不世出の天才シンガーソングライターの村下
孝蔵 の”かざぐるま”です。因みにこの曲は昭和61年に彼の9枚目
になるシングル盤のA面にあった曲です。
29歳の遅咲きで4枚目目になるシングル”ゆうこ”がヒット
続いて30歳の時に”初恋”が大ヒット・・・素晴らしい世界を
以来、我々ファンに17年間聞かせてくれました。村下さんが
亡くなられて約14年・・・今も時々、彼の作品を聞き続けてい
ます。


  かざぐるま   



まだ村下さんが存命であれば素晴らしい作品が
ドンドン生まれて我々をきっと魅了し続けてくれた
事でしょう。・・・本当に残念でなりません。
惜しい才能を失いました・・・。


















〜 脱 線 2 〜


皇紀2673年(平成25年 5月)
 久しぶりに新車の単車を購入す!
  生まれて初のオフ車デビューです。
   納車されたばかりのピカピカのCRF250L



オフ車を持つのは生まれて初めての経験です。しかし非力ながら
実に軽快に走ります。車高が高く前傾姿勢にならないので乗車姿
勢が楽で腰に負担が少なく重たいCBに比べると本当にヒラヒラ感
覚で街中の隘路やキャットウォークも一切ストレスなく突っ込めま
。オンロードの二輪車とは別世界の楽しみがあります。
ハンドガードにキジマのリアキャリアのみ付けただけです。今後、マフラーを
替えるだけで5kgは軽量化すると言うのでノーマルを暫く楽しんだら軽量化に
取り組むつもりです。バーパッドもつけようかなどこれからが楽しみです。
納車されてすぐに走り初めて約19kmです。バイクでデジタルメーターというのも
初めての体験です。


そしてモリワキのMXフルエキゾーストシステムを採用し交換しました。
軽いし情けない排気音が・・・少しだけですがそこそこの音がするよう
になりました。何より軽くなりました!! 
ZETA COMPバーパッドをつけました。







ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!