Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
完全手作り 真鍮無垢材削り出しシリーズ
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今回の匠の作品は村田銃です。十三年年式と十八年式と二十二年式の三種類 全ての製作をお願いしました。そのうち十三年年式と十八年式が先に上がってま いりました。この二点は無可動の実銃も所持していますが…精巧手作りシリーズ のものとは違う魅力があります。 |
今回の完全手作り真鍮無垢材削り出し模型の特徴の紹介です。村田歩兵小銃がつい にモデル化されました。ダーミーカート排莢システムに遊底も内部で回転ロック槓桿作 動に排莢。照門縮尺も可動。独特な銃剣の脱着も可能にしてます。本革スリング装着 この大きさで装填の楽しみ排莢の楽しみが堪能出来るのは夢のような話です。 |
帝國陸軍初の国産小銃として村田 経芳 陸軍少将が開発した単発小銃。 十三年式村田歩兵小銃から始り、日清戦争でその威力の片鱗を見せまし た。その後、日本時の身体に合わせた大きさと機関部の改良を施した十八 年式村田歩兵小銃が作られました。 |
ダーミーカート排莢システムに遊底も内部で回転ロック槓桿作動に排莢 は泣けてきます。手作りを極めるとこうなる典型だと感じ入ります。 |
特徴的な弾薬と弾薬盒も見事に再現されています。 |
お馴染みの真鍮工房の匠の製作過程のダイジェストです。 再生の際は、ページTOPのMIDIまたはMP3プレーヤーを オフしてからお楽しみ下さい。 |
十三年式村田歩兵小銃 全 長 324 mm 銃剣付 475 mm 重 量 126g 木 部 花梨材 縮 尺 1/4 |
十八年式村田歩兵小銃 全 長 320 mm 銃剣付 445 mm 重 量 122g 木 部 花梨材 縮 尺 1/4 |
このディティールの細かさも魅力の一つです。村田銃と謂えば明治陸軍を代表 した歩兵小銃であり…その後も長く民間ようでも多用された名銃と謂えます。 |
小さいながら銃弾まで見事に再現されています。 |
ダーミーカート排莢システム…薬室内に薬莢が見えます。 |
以下のバナーをクリックすると村田銃(十三・十八年式)の実銃 に村田歩兵小銃の実物の銃剣などが収載したページが開きます。 ↓ |
大日本空挺同志会の初代会長であり
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全日本空挺同志会が中心となって陸自の習志野駐屯地内に 設立された”空の神兵之像”の除幕記念式での関係資料です。 義烈空挺隊記念碑の除幕記念写真や義烈空挺隊慰霊碑・沖縄 の除幕記念メダルなどもあります。 |
昭和46年に先に空の神兵之像の除幕式の写真があり、続いて昭和51年の 義烈空挺隊記念碑除幕記念写真などが10枚がありました。その中心に映る 姿は旧軍で空挺部隊を指揮した元陸軍大尉の園田 直 衆院議員でした。 全日本空挺同志会の関係者の私物と思いましたが、アルゼンチン軍の空の 将官から園田 直 氏の贈られた空挺兵士の像がある事より園田氏の所持品 で何等かの事情で処分されたものと思われます。しかし現在も御子息で長男 の園田 博 氏は衆院議員で”立ち上がれ日本”から”日本維新の会”にうつり 同党の国会議員団幹事長代理をつとめておられます。こうした個人的なお父 上の品が処分されるとは思えませんでしたので意外な印象を受けました。 |
義烈空挺隊慰霊碑:沖縄の除幕記念メダル |
大日本空挺同志会は旧軍の挺身隊員と自衛隊の空挺隊OB、現職空挺隊員を 合わせて昭和36年に設立されました。そして昭和41年に会長職を設けた時から 園田氏(当時、衆議院副議長)が初代会長を務め逝去されるまで約18年間の長 きに渡り会長をつとめられました。その間、義烈空挺隊慰霊碑の建立や空の神 兵之像の建立は勿論ですが、毎年の高野山慰霊祭を執り行いました。今では旧 軍関係者は流石に少なくなり主に自衛隊関係者が中心となりましたが、今も毎年 の慰霊祭は継続されております。この空挺同志会創設の目的は、戦前の空挺精 神の伝統の継承にあるとされています。この為、世界遺産の霊地・高野山の奥の 院の一等地である一の橋のすぐそばにある”空挺落下傘部隊将兵の墓”の慰霊 祭では墓碑に祀ってある空挺戦死者の精神を受け継ぐ事を現在の防人たる自衛 隊の空挺戦士たちは願い…その年に亡くなられた会員の生前の希望や遺族の申 し出により遺骨を合祀するようにしているそうです。 |
奥山 大尉の義烈空挺隊に続いて園田 大尉が指揮するサイパン特別攻撃隊 は遂に決行される事無く敗戦を迎えました。この部隊は別名・天雷特別攻撃 隊と謂われ陸海軍の精鋭空挺隊の混合チームによるグアム・サイパン・テニア ンに対する挺身特別攻撃を行うもので剣作戦と呼ばれ、第一剣作戦が海軍呉 鎮守府第101特別陸戦隊(平田 少佐)以下300名によるグアム挺身攻撃、第 二剣作戦が園田 大尉の指揮する挺身第一聯隊のと第一中隊(山本 章 大尉) 150名のテニアン攻撃隊と第二中隊(大屋 稔 大尉)136名のサイパン攻撃隊 であった。 |
摩文仁の丘の義烈空挺隊の碑の副碑に刻まれたものです。 末尾に…日本民族守護ノ礎石トナリシ将兵ノ霊ニ 我等何ヲ モッテ応エントスルヤ…とても胸が締め付けられます。特に 現在の国家と国民の情けない有り様を見れば尚更の事です。 国の為に民族の為に命を捧げてくれた多くの将兵達に合す顏 が無いようで…ただただ歯噛みする想いです。 |
一番左端に写るのが敗戦から26年後の園田元陸軍大尉です。 |
陸自の軍楽隊の演奏です。 |
習志野空挺団(第一空挺団)の隊列です。 |
空の神兵之像の除幕式の写真です。全て園田元大尉が写った写真です。 やはりこうして見るとご子息の博 氏にそっくりです。 |
2枚だけカラー写真があります。 |
現在も空の神兵之像は・・・習志野の地で現在の防人たる 後輩達である第一空挺団の将兵を見守っているかのように 鎮座しています。 |
園田氏は戦後、郷里の一町田村(現在の天草市)の 助役から村長に…そして国政に転じて内閣官房長官 ・外務大臣・厚生大臣等を歴任し昭和52年4月2日に ARFで逝去。享年70歳でした。 |
アルゼンチン軍空挺部隊の将官が元空挺団指揮官だった園田 直 氏に贈った 空挺兵士の像です。サイズは、高さ14.5cm、石製の台座の正面に18金製(18 Kの刻印)プレートがありスペイン語が園田氏に贈る旨が記載されているようで す。台座の上兵士像の前にある徽章はアルゼンチン軍の空挺徽章のようです。 |
スペイン語で落下傘降下兵とあります。 |
園田元大尉は、現役の職業軍人ではありません。旧制天草中学から大阪歯科医学専門 学校(現大阪歯科大学)に進学してすぐの昭和10年に召集を受けて歩兵第十三連聯隊 に現役兵として入営後、甲種幹部候補生として予備士官学校に進み、召集解除で兵役を 終えて郷里・天草郡の下浦小学校助教になります。二年後の昭和12年3月に本渓湖煤 鉄公司に入社するも再び応召され同年12月に予備陸軍少尉に任官し原隊である歩兵第 十三聯隊に戻り中支方面出征します。上下の写真は中支における中隊長時代のもので す。昭和15年、任陸軍中尉。昭和18年、陸軍大尉に昇進とともに空挺部隊の挺進第一 聯隊に転属します。(左上は独混司令部附の画像です。) |
敗戦が間近い昭和20年5月、先を越されるように奥山道郎大尉以下の義烈空挺隊が 沖縄の読谷飛行場に突入戦爆26機を破壊しドラム缶600本の集積所2か所を炎上させ 飛行場を一時運行停止せしめた事は米軍をして成功した日本軍のコマンド作戦と評価 を受けました。自らの出撃を焦る中、園田大尉には剣号作戦が持ち上がります。これは 陸海軍の挺身部隊による挺身攻撃でマリアナ諸島のサイパン・グアム・テニアンの米軍 飛行場を破壊し使用不可にする剣作戦と同時に行う烈作戦(20o機銃を20門搭載型の 銀河と爆装の銀河による空襲)で日本を焦土にしているB29を燃やしその脅威を一時的 でも停止させることにありました。当初、海軍単独で7月下旬を目標に三沢基地で準備が 進められましたが7月中旬の米機動部隊による空襲で用意した一式陸攻の大半を失い 延期となります。ここで改めて陸海共同作戦での剣号作戦が持ち上がり、園田大尉の 指揮する挺身第一聯隊の二個中隊が第二剣作戦部隊として北海道の千歳基地で準備 に入り8月6日に園田大尉以下は千歳に進出しました。この作戦は秘匿を期すために全 ての準備が口頭で伝えられたと謂います。時期的に途中から原爆破壊や阻止が任務に 付加されていましたが…8月下旬の決行を見る事無く8月15日の敗戦を迎えました。 第一剣作戦部隊:海軍 呉鎮守府第101特別陸戦隊(S特):三沢基地 海軍S特・第1中隊(指揮官 山岡 大二 海軍少佐 以下約200名) ⇒攻撃目標:グアム 海軍S特・第2中隊(指揮官 山内 一郎 海軍大尉 以下約100名) ⇒攻撃目標:テニアン北飛行場 飛行隊(指揮官 国崎 虔 海軍大尉) 一式陸攻30機(搭乗員約150名) グアム :20機 テニアン:10機 第二剣作戦部隊:陸軍 挺進第一聯隊:千歳基地 サイパン特別攻撃隊(総指揮官・総隊長 園田 直 陸軍大尉 第二中隊長 大屋 稔 陸軍大尉 以下約200名) ⇒攻撃目標:サイパン テニアン攻撃隊(指揮官・中隊長 山本 章 陸軍大尉 以下約100名) ⇒攻撃目標:テニアン南飛行場 飛行隊(指揮官 松原 義人 海軍大尉) 一式陸攻30機(搭乗員150名) サイパン:20機 テニアン :10機 烈作戦部隊(強行銃爆撃特別部隊) :松島基地 爆撃部隊(指揮官・野口 克己 海軍大尉) 銀河36機(小型爆弾800kg装備) 銃撃部隊(指揮官・土岐 宗男 海軍大尉) 銀河36機(20mm機銃20門装備) 尚、海軍では、この剣作戦自体を特攻と位置づけこの作戦に参加する剣・烈作戦の全 部隊を”神風特別攻撃隊 第6御楯隊”と正式に命名しました。 |
今も昔も変わらない伝統の空挺降下訓練です。 |
初代団長の衣笠 駿雄 一佐(陸士48期、陸大55期)以来、9代団長の小林 正信
陸将補 (陸士59期)までは、旧軍出身者が団長を勤めており・・・正しく前身である帝國陸軍挺身 団のスピリッツを受け継いでいるかのようだ。初代団長 衣笠 駿雄 一佐は航空将校で 第四航空軍参謀や航空総軍参謀を経験されて方だが空挺経験はありません。彼が初代 空挺教育隊長として創設した部隊は旧陸軍挺進団の元隊員の第1次研究員20名によっ て創設されました(但し、第1次研究員は落下傘降下は未経験者だったそうです)。尚、 御子息の衣笠 陽雄 陸将補(防大13期)も第18代団長をなされております。この陸自の 第一空挺団は各国軍の空挺部隊と同様に精鋭軽歩兵としての位置づけされています。 正規軍相手の防衛作戦以外にゲリラコマンドの潜入に対して即応は勿論、対テロ・ゲリラ 等の対応も行う為、東部方面隊隷下から中央即応集団隷下に編成替えとなっています。 最近では中国が尖閣諸島への食指を露骨に示している事から占領された離島の奪還を シミュレートした訓練を日米で行っている。陸自最強のエリート特殊部隊として有名な 部隊です。その点では旧軍時代と変わらない伝統を継続する挺身部隊と言えると思いま す。 |
旧軍の伝統を受け継ぎ現代の空の神兵・・・第一空挺団が空を降下します。 |
空の神兵の動画です。動画を再生される場合はページ TOPのMIDI音源のプレイヤーを停めてからお楽しみ下 さい。 |
左の画像は、初代空挺練習部長の河島中佐。 右は、一式落下傘の装備例。 |
双発高等練習機からの降下訓練 |
九七式輸送機から一式落下傘を使った降下。 |
左は、双発練習機。右は、九七式輸送機 の機内の様子。 |
左は、百式輸送機への搭乗風景、一機に 13名が搭乗した。 |
二式テラと一式落下傘(主傘と予備傘)。空挺隊創設期は、 九二式同乗者用落下傘を使用したが、昭和16年秋頃から は、この一式落下傘が主体となる。19年暮れには、四式 落下傘に変っていった。 |
二式テラは、分解し両足に付けて降下した。その他の軽機関銃などを 使う降下兵は、上記画像のように物量箱から兵器を取り出すまで拳銃 で武装した。左上の画像は、九九式軽機関銃を取り出して駆けてい る降下兵である。 |
物料箱には、数種類の規格があったらしく一号箱 というのが最も一般的であり、この中に一個分隊 の兵器が収められていた。 |
九九式軽機関銃を構える降下兵 |
休憩中の画像であろうか、木にもたれ 掛る二式テラ銃の銃嚢が判る。これを 両足に付けて降下した。 |
銃嚢を付けている。 |
四式落下傘世界に先駆けて我国が採用した吊索優先 の開傘方式でこれによりノロシとなり不開傘が絶無とい われた。戦後、米軍がこれを真似てT-10を開発したと 言われています。 |
装備だけで50kg…機内に這い上がるのも大変 だったといわれています。 |
義烈空挺隊の整列と討ち入り装束。 |
百式短機関銃を担いでいるのが判る。 |
奥山、諏訪両隊長には、第六航空軍司令官 の菅原中将から脇差が贈られた。 |
奥山隊長 |
出撃時、見送りに応える両隊長 |
見送る整備兵…第3独立飛行隊の整備は、飛行第60戦隊 が担当した。右の画像は、出撃した空挺部隊。 |
読谷飛行場に強行着陸に成功した一機…米軍の撮影した画像。 |
尚、義烈空挺隊の135名の隊員の装備は、 100式短機関銃 37挺 各弾倉10個 弾薬300発 九九式短小銃 43挺 九九式軽機関銃 12挺 各弾倉6個 弾薬540発 八九式擲弾筒 1門 弾薬20発 九四式自動拳銃 73挺 各弾倉3個 三十年式銃剣 135振 手榴弾 2015発 となっております。(防衛研究所図書室所蔵による ”義烈空挺隊計画書”による) |
高野山の空挺部隊将兵之墓です。挺身第三聯隊附の中村軍医を 中心とする生き残りの空挺隊員が総力を挙げて建立したものです。 今も毎年9月に全日本空挺同志会主催にて慰霊祭が執り行われま す。元々は大阪に本部を置く空挺戦友会が毎年慰霊祭を開催して いましたが、主だった方が亡くなられ実施が困難となり昭和40年か ら碑の管理と慰霊祭を全日本空挺同志会が行うようになりました。 昭和31年9月23日に開眼式が行われ分霊が宮崎の川南護国神社 から遷座されています。 |
鞍馬石の主碑”空”を中心に副碑の石は仙台、背後の石は四国の 徳島、その両側の石は和歌山の海南市の海岸から採取されたもの で敷き詰められた白砂は京都・白河のものだそうです。主碑・副碑 ともに静かな墓という気持ちを表す為に敢えて土台を置かずに地面 にそのまま稙立されています。 |
「花負いて 空撃ち征かん雲染めて、屍悔いなく 我等散るなり」
… ”空”の一字墓です。この主碑の刻字の”空”は弘法大師空海 の直筆とされる灌頂記の字であり、空海の”空”、そして空挺部隊 の”空”、そして己を空しくして国に殉じた空挺部隊将兵の愛した 字でもあり使われたと謂います。 |
副碑には『祖国日本の弥栄を願い後に続く者を信じ空挺落下傘部隊 将兵の霊は此処に静かに眠る』と記されています。 |
搭乗前の僅かな時間に隊員おのおのの故郷に向かい別れを告げています。 これが義烈空挺隊の勇士達の最後の姿となります。 |
豊岡の陸軍航空士官学校に集結した義烈空挺隊の隊員達です。 |
奥山・諏訪部両隊長が笑顔で握手する姿です。 |
沖縄戦に挺身特攻を果たした義烈空挺隊 及び航空隊の戦死者名簿です。 |
寄書に見る隊員達の心境です。 右は 棟方 哲三 少尉、左の二 名は第三独立飛行隊の 小林 真 吾 少尉と 新妻 幸男 少尉のもの です。 |
陸軍 二式複戦"屠龍"の尾輪(美品) |
川崎の二式複戦 屠龍 (キ45改)の尾輪です。非常に保存状態が抜群で 屠龍のオリジナル色も殆どが残っています。 |
タイヤに傷もなく凹みもありません。ボールベアリングや装着用ナットも健在で 空気注入口のゴムキャップまでも健在でありとても綺麗な状態の極美品です。 |
山口県小月飛行場の付近の農家で入手されたとの事です。この飛行場 は陸軍の下関飛行場として九七式戦闘機(飛行第四戦隊)で下関から北 九州方面の防空基地としてスタートしました。後に名称が小月飛行場にな り昭和17年4月からは九七式戦闘機に替わり二式複座戦闘機 屠竜 が配 備され第十九飛行団司令部が置かれました。後にB29による北九州への 初空襲がありると二式複戦が小月から出撃し…以後、B29の迎撃に活躍 し、大きな戦果を挙げました。戦後は一時、連合軍の基地になり…自衛隊 にに移管され現在は海自の第221教育航空隊が基地を使用しています。 |
◆ 諸 元 (キ45改) ◆ 乗員: 2 名 全長: 11.00m 全幅: 15.07 m 主翼面積: 32.20 m2 自重: 4,000 kg 全備重量: 5,270 kg 動力: ハ102 空冷複列星型14気筒エンジン 出力: 1,080HP 最大速度: 547 km/h 航続距離: 1,500 km 実用上昇限度: 10,000 m 上昇率: 5,000/7'00" 武装: 7.7mm(旋回)×1 12.7mm×2 20mm×2 生産機数:1,704機 製作会社:川崎航空機 |
スミソニアン宇宙航空博物館に保存されている唯一現存する屠龍です。 機体色が尾輪の色と同じでオリジナル色だと謂うのがよく判ります。 |
他の双発機(海軍)の尾輪や他の主輪と並べて比較してみました。 |
三八式野砲、改造三八式野砲の車輪
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三八式野砲や改造三八式野砲の車輪です。表と裏を写しています。 まだオリジナルの色が残っているのが判ります。特に車軸に繋がる 裏側(砲側)に色が残り外に向く表側は退色が激しく色が微かに残る 程度です。錆はあるものの朽ち果てておらず、まだしっかりしてます。 |
下は、陸自の武器学校で展示してある三八式野砲です。 |
三八式野砲 |
同じく武器学校で展示の改造三八式野砲です。 |
改造三八式野砲 |
陸軍の航空兵に特配された
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今も日本を代表するお菓子メーカーの森永が当時、陸軍に納入した 代用チョコレートです。チョコレートなどの甘いものは戦時中は貴重な 品で入手するのが困難でした。軍は航空搭乗員などに優先的に配給 しました。見事にケースだけでなく中の銀紙まで大切に残されている ので驚きます。 |
とても約70年前の品とは思えない保存状態です。 |
チョコの色が残っており…見ているとチョコレートが食べたくなります。 |
陸軍航空兵の手彫り木像 |
左手にあったはずの短寸軍刀がありませんが、見事に彫られた 木像です。全長は57cmあります。小傷がありますが一刀彫で制 作されており素晴らしい作品だと思います。 |
作者及び由来等は不明です。 |
米軍撮影の8mmからVHSにおとした映像です。僅か3分未満の映像です。 ニュース配信で使わていたものでしょうが、様々な分野で使い回しされてい る為か、見た事がある映像もあります。・・・最初は日本軍の特攻機と思わ れる双発機や単発機の日本軍機が対空砲火で海上に撃墜されるシーンが 少し、米軍の空挺の映像の後に、玉砕した日本軍と思われる映像で火炎 放射器の放射シーンに大勢の戦死した日本兵が撮影されています。残りは U-ボートやドイツ空軍が攻撃される敗色濃い同盟国・ドイツの断末魔のよう な映像です。 |
再生する時はページTOPでMIDIまたはMP3プレーヤー をOFFにしてからお楽しみ下さい。 |
〜 脱 線 〜 |
PMA 1/12 ホンダ CB900F ボルドール 1978 ブルー |
名車・CB900F(SC01)の12分の一スケールの完成品模型です。 35年前にCB750Fと共に鮮烈なデビューを果たしたCB-F系のCB900FZです。 この美しいフォルムに惚れ込みCB-Fを購入した限定解除ライダーは相当に多か ったと思います。私もその一人ですが…今見ても色褪せない美しいフォルムは 絶版逆輸入車の中でも特別な存在に映ります。戦闘機をイメージしたコックピット。 斬新なデザインは当時の青少年に強く大きなインパクトをあたえました。 その脳 裏に焼き付いたイメージのマシンは・・・35年が経過しても私の心を捉えて離しませ ん。同じCBでも当時少年だった私にとってCB-KとCB-Fでは全然別物でした。 |
これまでのCB系のイメージを完全に一新した美しいシャープな流線型の フォルムは…当時のまだ若かった私の心を奪ったものです。当時、カワ サキのZ系と人気を二分した時代を思い出します。それまでのCB750K のKシリーズには余り魅力を感じなかった若者も…このF系で取り込み爆 発的な人気を博したのは記憶に新しいところです。 |
この3年後にHONDAはドイツのケルンショーでフラッグシップとしてCB1100Fを 発表…衝撃のデビューを飾りました。後に私もこのCB1100FD(SC11の欧州仕 様)を愛機として今も乗り続けています。 |
この歳になりフルカスタムを重ねたバイクに乗り継ぐと…この純正品の フルノーマル車の美しさが際立って良く思えます。残念な事に自分の 愛機はノーマルパーツも処分してしまいダメですが…次回、新しいバイ クを導入する時は努めてフルノーマル車にこだわりたいものと考えます。 |
誰もが当時憧れたAMA時代のフレディ・スペンサー |
どの角度から見ても色褪せない美しいフォルムだと思います。 |
CB750four”dream”から始まったホンダ栄光の750系譜は…750kでDOHC化 そして9年間で約60万台を販売する二輪のレコードを樹立しました(原付を除く) この1979年のCB750F(RC04)で大ブレークし国内でも記録的な販売台数とな ったモデルです。以来、CB系の空冷四気筒は不滅で継承され一時は、私の乗 るCB1100FDで途切れて水冷エンジンが主流となり(フラッグシップ以外の750 クラスは継続)ます。ヨーロッパの耐久レースで鍛え抜いたこの空冷DOHC4バ ルブ直4ユニットをもって900Fと750FのCB-Fが登場から既に約35年近くになり ます。このCB900FのスケールダウンのCB750Fは以降(CB750カスタムを加 えて)12年間で約83万台を生産販売するベストセラーとなりました。今もこの空 冷インライン4は現行モデルのCB1100(SC65)として平成22年に復活を果たし ました。しかし絶版の11Fに長年乗り続けている者としてはCB1100(SC65)は CBの系譜ではあるけれど、決してCB-Fの系列では無いのでFを冠する事は辞 めて欲しい。5年前の東京モーターショーでCB1100Fの車名でコンセプトモデル として出品されましたが、あくまで別物のCB1100(SC65)TypeTとTypeUであ り・・・CB1100Fの名はCB-Fの頂点たるSC11だけが冠せられる車名です。私の 中ではHONDA最期の空冷インライン4のフラッグシップ(旗艦)は、SC11だけで す。CB-Fを名乗れるのは、SC01、SC09、RC04、SC11のみです。CB1100RD (SC08)は既にCB系列の名車ですが、これもまたCB-Fではありません。 |
まだフルカスタム前の愛機です。まだこの頃は部品供給もあり精々が オーストラリア製の純正タイプの4in2ショート管、FCR、クリップオン ハンドルにステダン、リアにオーリンズと小改造にとどめておりました。 しかし…段々と故障個所が出る度にドンドンと社外品にパーツが置き 換わり…どうせならとフルカスタム化に走りました。 |
製造から30年以上が経過しましたが まだまだ元気な我、愛機 HONDA CB1100FD Super Bol d'or(SC11) CB750FCインテグラ仕様です。 |
私自身もバイクと共に歳をとった感じですが…私はかなりガタが来ていますが CBは見かけも当時のままで…走りも現役でパワフルです。さすがに最新の バイクに比べ重くて取り回しがきつく感じます。重いカウルも取り付けたので 重量は270s以上あると想います。フルノーマルの11Fで乾燥重量が243s あります。カウルはステーや大きなヘッドライトとマウントや時計に電圧計や 社外品の油温計などで結構な重さで+20〜sあるでしょう。これにエンジン オイル等が加わり更にガソリンが満タンにしたら、結構な重さになります。しか しこの大型カウルの効果は絶大で高速走行は本当に楽でストレスがありませ んが対して街乗りは歳をとるにつけて段々と辛さを感じてきました。・・・先日も ニンジャ(GPZ900R)乗りと交換して走りましたが…400ccや250ccに乗った ように軽く取り回しも軽いので羨ましくなりました。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |