旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_14













Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)


陸軍関連








世界で唯一の真鍮無垢材削り出しシリーズ
               二十五分の一スケール模型


帝國陸軍 九十四式軽装甲車(TK)




新しい匠の新作です。今回は世界に一つで無く匠の分と世界に二台です。
今回も25分の1のスケールで…まさに芸術品です。今回は九四式軽装甲車
の初期タイプです。英国の豆戦車のカーデン・ロイドMk.VIを参考に研究して
作られたものです。本来は牽引車輌でしたが偵察・捜索・警戒・連絡 任務に
活用するべく小さな砲塔に機銃を装備させ軽装甲車として運用し活躍しまし
た。今回は…本来の主任務である牽引車としての姿を再現してもらいました。
しかし本当に小さいです。豆戦車と言われる通り…まあ元々牽引車であり
戦闘車輌として作ったわけでもないので支那兵のモーゼルの小銃弾が貫
通する程度の軽装甲の車輌です。全長も全高も全幅も現在の私の自家用
車よりも小さく…驚きます。流石に車重は、私の車が約2.5tですがTKが
3.45tと重い…。







            〜性能諸元〜


 全 長  3.36 m

 全 幅  1.62 m

 全 高  1.63 m

 重 量  3.45t

懸 架 方 式 シーソー式連動懸架

 速 度  40 km/h(牽引時30km/h)

行 動 距 離 200km

 武 装  九一式6.5mm車載軽機関銃

      九七式7.7mm車載重機関銃(銃弾1,980発)

 装 甲  8-12 mm

エ ン ジ ン 空冷直列4気筒Gas(35 hp/2,000 rpm)

 乗 員  2 名

生 産 台 数 約 840 両
























今も台湾の中華民国軍装甲兵学校で展示されるTKです。












こだわりは初期型として…九七式車載重機関銃では無く
十一年式軽機関銃を車載用に改造した九一式車載軽機
関銃を作って付けていたいています。防弾器に照準眼鏡
小さいながら見てとれます。


以前、製作してくださった九七式車載機関銃に合わせ1/4で
また匠が戦車帽を制作してくださりました。
この塗装された完成プラモデルの西住戦車隊長の写真を
見ていて創作意欲が湧いたと仰っておりました。しかしそ
れですぐに作られてしまうから本当に凄いと感心するばか
りです。
真鍮だと重すぎてイメージが出ないのでグラスファイバーで原型を
作り、これに革を接着して完成されたとのことです。戦車眼鏡も見事
です。…内部はきたないのでムートン詰め込まれたとか。これが裏
返すと冬仕様の戦車帽のように見えます。





               ↑
匠が撮影した動画をまとめて一本にしてUPした動画
です。動画再生に際してはページTOPでMIDIまたは
MP3の音源をストップ後に再生してお楽しみ下さい。


同じスケールの前作の八十九式中戦車と比べるとその大きさがよくわかります。











そして今回も匠の製作過程の一部を紹介します。
見事に仕上がっていきますが…ここに至るまで約3ヶ月の
工程期間が掛かっています。
匠の車輌に装備された九七式車載重機関銃と私の方の
車輌にお願いした九一式車載軽機関銃です。
乗員はプラモデルから型取りされたようです。


しっかりとエンジンも!…手抜きがありません。
そして世界に二台だけの真鍮製二五分の一…九十四式軽装甲車が誕生です。



おまけの画像です。緒戦で活躍した機甲部隊の写真です。
マレー半島のタイピンに入城後、更に進撃する機械化部隊の写真です。
マニラのルネタ公園通りを堂々と入場する九五式軽戦車です。



同縮尺のガーデン・ロイドMk.Yです。海軍バージョンで上海海軍陸戦隊の
加式(カ式)機銃車 一号車を再現した匠の作品です。陸軍でも早期に輸入
したガーデン・ロイドMk.Yを研究して…この九四式軽装甲車(TK)が作られ
ました。






下のバナーをクリックすると同縮尺の加式機銃車
を紹介している海軍のページが開きます。
              ↓







桜会の主要メンバーで閑職に
 回され大佐で終えた小原 重孝 氏が
  所持していたと思われるアルバムの
   一部等…最終所持者は不明の品々。




昭和46年のお年玉くじ付きの年賀状です。相手が逝去されており戻って来た
賀状です。送り主は…陸士32期・陸大41期の小原 重孝 元陸軍大佐(功四
級)です。統制派で知られる参謀本部の橋本 欣五郎 中佐、長 勇 少佐が
主軸となり結成した桜会の主要メンバーだった方です。昭和6年3月の三月事
件、同年10月の十月事件を計画…決行は10月24日払暁と予定され、長 勇
少佐が総理官邸を…小原 重孝 大尉が警視庁を襲撃することなどが予定され
ておりました。すぐに計画は露呈し主要メンバーが逮捕され計画は未遂に終わ
りました。多くが軽微な処分で釈放され…その後に5.15事件や2.26事件で皇
道派の軍人達が粛清されるように予備役に回されたり主要ポストから外される
と統制派の東條英機が中心となり…全体主義に流れていく中で旧桜会メンバ
ーも復権していきます。小原元大佐は東京出身ですが…私の郷土である札幌
の旧制札幌一中(現在の札幌南高校)の出身であり、私の妹がこの札幌南高
校のOBなので後輩に当たります。3月事件や10月事件の時に大尉だった小原
氏は橋本 欣五郎 大佐や長 勇 中将のように復権できず…同期や後輩が将官
になる中…閑職を回され大佐のまま敗戦を迎えています。
アルバムから台紙ごと切り離したと思われる物が数枚です。何時頃、入手したものか
失念し…未整理の資料の棚に入れてありましたが、収蔵物倉庫の一つがマンション
に建て替えで移転した際に業者さんが誤ってゴチャゴチャに別の倉庫に移した為、
一緒にあった整理タグや附箋が無くなり…他に何かあったかが不明ですが整理中に
出てきたので収載しました。…おそらく小原元大佐の所持品だったと思われます。
昭和43年度では和歌山県の田辺で病気療養中だった筈で自宅から送られて返送さ
れた賀状も一緒にあります。…しかしアルバムの中で小原大佐の写真の下に書き込
みを後で加えられており…これは小原元大佐、本人の記載とは思えません。しかも
小原 重孝 少将 32期と記されており…手放した方が書き込まれた可能性が高いと
思われます。また小原元大佐を少将と階級を間違う事などから旧軍関係者や詳しい
方では無いと推測しています。まあいずれにしても解散した桜会に関係した人物、特
に長 勇 中将に関する写真(墓や介錯をした副官の墓まで)や碑文などが多く長 勇
中将を調べられていた方や関係者と考えます。
長中将と小原大佐の接点は…やはり桜会でしょう。
第一軍の情報主任参謀から近衛師団参謀に転じたその日に
撮影された写真のようです。太原は支那の地名で山西省の省
都です。前職の第一軍が太原にありましたので移動する前に
太原で撮影された写真なのかと想像します。この後、近衛師団
は混成旅団を南支那方面軍として広東に上陸し広東作戦に南
寧作戦と激戦に参戦していきます。小原中佐は、同年6月に近
衛留守師団参謀に転じたのちに同年8月に大佐に昇進して第
25師団参謀となります。
  
      ◆ 小原 重孝 陸軍大佐 ◆  


 陸軍大佐功四級
 歩兵科、陸士32期、 陸大41期
 東京都出身


           ≪ 略 歴 ≫


大正 9年 5月26日 陸軍士官学校卒業(第32期)

大正 9年12月26日 陸軍歩兵少尉

大正15年12月24日 陸軍大学校入校

昭和 4年11月29日 陸軍大学校卒業(第41期)

昭和13年 7月15日 第一軍参謀(情報主任)

昭和14年 5月 5日 近衛師団参謀

昭和15年 6月 8日 留守近衛師団参謀

昭和15年 8月 1日 任陸軍歩兵大佐
             第二十五師団参謀長

昭和17年 3月 2日 陸軍大学校教官

昭和17年11月 1日 歩兵第二十九聯隊長

昭和18年 3月23日 留守近衛師団司令部附

昭和18年12月28日 第二野戦鉄道司令部高級部員

昭和20年 8月15日  敗 戦(南京で迎える)





手書きの力作で碑文の内容を書き写し糊で貼り付けてあります。



下の写真は、長 中将の墓です。実に立派なものです。



日米戦の開戦の4か月前…長 勇 大佐(当時)が印度支那派遣軍参謀長
の時の写真と思われます。お隣に座る馬奈木 敬信 大佐は陸軍省軍務局
付(タイ・仏印国境画定委員)だった時期です。

        ◆ 長 勇 陸軍中将 ◆  


 正四位勲二等功四級
 歩兵科、陸士28期、陸大40期
 福岡県出身


          ≪ 略 歴 ≫


昭和11年12月 1日 漢口駐在武官

昭和12年 8月15日 上海派遣軍情報課長

昭和12年12月11日 兼中支方面軍情報主任参謀

昭和13年 3月 1日 任陸軍大佐
             歩兵第七十四聯隊長

昭和14年 3月 9日 第二十六師団参謀長

昭和15年 8月 1日 台湾軍附

昭和15年 9月 6日 仏印派遣軍参謀長

昭和16年 6月28日 第二十五軍参謀副長

昭和16年 9月25日 軍務局附

昭和16年10月15日 任陸軍少将

昭和17年 7月 9日 兼南方軍附

昭和17年11月10日 第十歩兵団長

昭和19年 3月 1日 関東軍附

昭和19年 6月26日 参謀本部附

昭和19年 7月 8日 第三十二軍参謀長

昭和20年 3月 1日 任陸軍中将

昭和20年 6月23日  自 決 (49歳)



       ◆ 馬奈木 敬信 陸軍中将 ◆ 


 功四級
 歩兵科、陸士28期、陸大36期
 明治30年8月19日生、福岡県出身


           ≪ 略 歴 ≫


昭和12年11月2 日  独逸駐在

昭和13年 7月15日 任陸軍大佐

昭和14年 3月 9日  蘭国公使館付武官

昭和15年 3月 9日  歩兵第七十九聯隊長

昭和16年 4月10日 北支那方面軍司令部付

昭和16年 6月19日 軍務局附
             泰・仏印国境画定委員

昭和16年10月15日 任陸軍少将

昭和16年11月 6日 第二十五軍参謀副長兼軍政部長

昭和16年12月〜昭和17年2月 
             マレー作戦に参加

昭和17年 4月11日 ボルネオ守備軍参謀長

昭和19年 9月22日 第三十七軍参謀長

昭和20年 3月 1日 任陸軍中将
             第二師団長

昭和20年 8月15日  敗 戦(サイゴンで迎える)

昭和25年 6月      復 員

昭和54年11月 4日   歿  (83歳)







こちらは第32軍参謀長の長 中将の自決の際、介錯し
た副官の坂口 少佐の写真とお墓の写真です。




もう一枚 坂口 勝 少佐に関するものです。
不思議なもので上の方が少佐で後年ですが、この少尉時代の写真の方が
えらく老けて見えます。上の少佐の階級章を付けた写真は青年のように若
く見えます。
裏面は写真が剥ぎ取られています。小生の名前入り写真と記載があります。
昭和18年3月で第十師団歩兵団長(891部隊)三江省佳木斯あります。佳
木斯市は三江省の省都です。現在は黒龍江省の佳木斯市です。第十歩兵
団の当時の団長は千知 波幸治 陸軍少将の後を受けた長 勇 陸軍中将そ
の人です。横に復学という記載があります。長 歩兵団長と共に写っているの
か名前を記載して写真を贈呈されたか?…その辺が不明です。



古いアルバムの台紙は良いのですが…この後でフエルアルバム
に貼り直しされた写真は最悪です。剥がそうとする破れそうにな
るので剥がせません。裏に記載がある場合は…読み取りが不能
になります。…研究者・コレクターとしては後に残す資料を保存す
る観点からも気を付けて貰いたいものです。

一緒にあった地図に写真のコピーです。地図は河南省・安徽省・山東省
を中心に一部、河北省に山西省、湖北省が含まれた地図です。佐々木
登 陸軍少将が最後の騎兵旅団となった騎兵第四旅団(4KB)を指揮し
た旅団長時代の昭和14年10月2日から昭和15年3月9日までの間の支
那での写真です。余談ですが・・・この4KB(騎兵第四旅団)は、かつて
多く存在した騎兵連隊が捜索連隊や自動車化騎兵に生まれ変わり軍旗
を返納しました。騎兵の名を部隊名に残しても・・・唯一、敗戦まで騎兵と
して存在し得たのが4KBと隷下の騎兵連隊です。乗馬騎兵部隊として
世界で最後の騎兵突撃を敢行し老河口飛行場を急襲占領したのが所謂
老河口作戦(昭和20年3月後半〜6月末)です。世界戦史に残る騎兵の
最後の戦いを勝利で飾った騎兵第四旅団(4KB)の活躍は燦然と日本及
び世界戦史レコードとなって記憶されています。
陸軍少将時代の佐々木 登 閣下です。右端と左下の写真は騎兵第四旅団長
として支那でものです。左下はo靖軍総司令官・コイツ?大将とあります。上
の中央の写真は、第六軍参謀長時代のものと思われます。

        ◆ 佐々木 登 陸軍中将 ◆   


 広島県出身、明治26年1月1日生
 騎兵科、陸士26期、 陸大35期(優等)


            ≪ 略 歴 ≫


大正 3年 5月28日 陸軍士官学校卒業

大正 3年12月25日 任陸軍騎兵少尉
             騎兵第5聯隊附

大正 9年12月 7日  陸軍大学校入校

大正12年11月29日 陸軍大学校卒業
              騎兵第5聯隊中隊長

昭和 7年 4月11日  陸軍大学校教官兼参謀本部部員

昭和12年 7月 6日  馬政局資源部長

昭和12年 8月 2日  任陸軍騎兵大佐

昭和14年 8月 1日  任陸軍少将
              陸軍兵器本部附

昭和14年10月 2日 騎兵第4旅団長

昭和15年12月 2日 第6軍参謀長

昭和17年 7月 1日 陸軍機甲本部附

昭和18年 5月 1日 南東支隊長

昭和18年11月21日 第8方面軍司令部附

昭和19年10月26日 任陸軍中将

昭和20年 8月15日 敗 戦 (ラバウルで迎える)

昭和36年 3月27日   歿


右上は4KB隷下の騎兵連隊の聯隊長の中佐です。恐らく騎兵第二十五聯隊
の聯隊長だった星 善太郎 中佐(当時)と思われます。
o靖軍総司令官・コイツ?大将の拡大写真です(左上)。右上は騎兵聯隊長。

右上は4KB参謀の大熊 初五郎 少佐、左上は同じく斉藤 少佐です。


騎兵第二十五聯隊の慰霊碑と慰霊祭の写真です。共に
戦後のものです。これらからも所持者だった方は4KBや
25Kの関係者や遺族の可能性も高いと考えます。

慰霊祭では他の騎兵聯隊の戦友会からの花輪など盛大にとりおこなわ
われているのが判ります。



騎兵第二十六聯隊の軍旗 騎兵第二十五聯隊の軍旗 騎兵第三聯隊の軍旗

騎兵第二十五聯隊の営門
騎兵第二十六聯隊の営門
騎兵第三聯隊の営門


明治に始まり大東亜戦争の敗戦でその歴史に幕を閉じた
日本陸軍の騎兵の最後の大仕事は老河口作戦でした。
高速重装甲の戦車に装甲車を主体とした機甲部隊の時代にはノスタルジック
とも言える騎兵が存在する余地は最早や第二次世界大戦では無い筈でした。
事実、帝國陸軍も既に存在し得る名実ともに騎兵と言える部隊は4KBを残す
のみの状態でした。英米の連合軍相手では騎兵が出る余地は全くありませ
んが・・・中国大陸の二流・三流の機動化されていない支那軍相手では、まだ
騎兵の機動力が十二分に活躍する場が残っていたのが生き残っていた理由
です。そして二十世紀最後の騎兵の戦いを老河口作戦の見事な騎兵突撃の
成功で・・・その栄光の歴史の幕を下ろしたと言える気がします。
老河口作戦を指揮した藤田 茂 中将




大陸を行く騎兵と完全武装の騎兵と軍旗を先頭に進む騎兵です。


下は襄東作戦における騎兵第二十五聯隊







満洲国陸軍々医学校の珍しい
  精密複元した生徒用軍衣(夏用・冬用)と外被




夏季と冬季の軍衣に外被…型を取り徽章まで自作されていますから相当に思い入れの
ある方が制作されたオーダーメイドの複元品です。恐らく満洲国陸軍医学校の卒業生ま
たは在校生だった軍医の方と推察します。戦後、OBで作られた白楊会の会員の方かも
しれません。いずれにしろ戦後は医師として活躍されたものと考えます。
徽章も型を作ってプレスしたそうです。…気合が入っています。
着用の肩章は、裏ボタン式でオリジナル同様に肩章ループを通して着用。
オリジナルに合わせて絨の色も青味のある赤にしてあります。
襟章、肩章もハンドメイドされています。








精密に復元した外被です。完全オーダーメードです。

肩章は米軍のバッチを装着する金具を使用しています。



ありし日の満洲国陸軍軍医学校です。














戦前資料:旧大名家の子孫で武家華族から
 公家華族に養子入りされた鹿園 直治 男爵(百四歳)の
  珍しい学習院時代(初等〜中等科)の通知簿(大正時代)等




右上の方が元男爵 鹿園 直治 氏です。家紋は公家華族の鹿園家の
ものです。鹿園 直治 元男爵は、南部氏(八戸藩)の流れをくみ陸奥
盛岡藩十四代藩主 南部 利剛の子息である南部 利克 子爵の子息
(三男)で鹿園家へ養子に出された方です。養子に出る前は南部 直
治と謂います。現在、104歳(平成24年現在)になられます。南部家と
謂えば鎌倉以来、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は他に薩摩
家のみと謂う名門のお家柄です。鎌倉幕府以来…江戸幕府さらに明治
維新までも同じ所領を守り続ける事が出来た稀有な二家に共通するの
は九州の最南端の薩摩藩と本州の最北端に位置した陸奥国(奥州)
の南部藩…共に僻地であり江戸から遠く脅威になり得なかった為でしょ
うか。これは加賀百万石の名家・前田家も北陸の加賀は能登と共に陸
の孤島と謂われる位に関西や山陰・山陽よりも遥かに遠く脅威になり得
なかった事が幸いした似たケースだと思います。脱線した話を戻します
と鹿園 直治 氏の母君は、水野 銓子 様(父は、駿河沼津藩 八代藩主
の水野 忠敬 氏)で姉の陽子 様の夫は 柳沢 徳鄰 子爵です。兄の
信克氏は、高岡藩主の家柄の子爵 井上家に養子に入り井上 正鑑 を
名乗ります。またもう三人の兄は松平氏と島津氏と薩摩の上村氏(西郷
従道 元帥海軍大将の一族)の養子に入り其々、松平 直鎮 氏と島津
久英 氏に桜井 信雄 氏を名乗ります。また二人の弟に久保田 真宏 氏
と米原 信喜 氏がおり…いずれも名家名門の養子に入っておられます。

珍しい物で余り見る事の無い物です。鎌倉以来の大名家の南部家の
武家華族から養子として公家華族に転じた元男爵 鹿園 直治 氏の
南部直治を名乗った頃の学習院初等科〜中等科の通信簿や

         〜 鹿園 直治 元男爵 〜 

             ≪ 略  歴 ≫

明治42年1月29日生。青森県八戸出身
大正4年に学習院初等科に入学。
昭和4年に学習院高等科を卒業。
昭和5年、南部家より鹿園家に入り男爵を襲爵。叙従五位。
昭和7年、東京帝國大学工学部卒業。
同年、商工省東京工業試験所に入所。
昭和12年、28歳で召集され陸軍に入隊。
      近衛歩兵第二聯隊に輜重兵特務兵(二等兵)とし
      て入隊。上海の兵站で軍需品の積み下ろしなど
      をされていました。
昭和14年、除隊。元の職場に戻ります。
昭和20年、再召集され川崎の捕虜収容所の警備兵をされ
同年9月、除隊となり陸軍兵長に昇進します。
戦後、再び東京工業試験所に復職。後に北海道工業試験
所、大阪工業技術試験所と東京工業試験所所長を歴任しま
す。退官後、新技術開発事業団東京応化学工業株式会社
に勤務。同社役員。工学博士

鹿園氏が学習院に通学されていた時…初めの院長は
陸軍大将の大迫 尚敏 子爵でした。次に数学者で東北
帝國大学総長を務めた北条 時敬 氏、続いて陸軍大将
の一戸 兵衛 氏、文部次官から東北帝國大学総長に転
じた福原 ゙二郎 氏と変わりました。
大正5年の学習院初等科2年の通信簿です。
華麗なる一族の歴史の一部です。普通ならこうしたものが俗世間に出る
事など有り得ないのでしょうが敗戦を機に何もかもが変わり…今の時代
に至っています。このような名門名家である武家華族の子息の個人資料
を目にする事も…ヤフオクなどで流れてくる品を見ていてつくづく隔世の感
を覚え戸惑う事が多々あります…。


大正8年の学習院初等科5年の通信簿です。




大正9年の学習院初等科6年の通信簿です。





大正13年の学習院中等科4年の通信簿です。


中等科は乃木大将の定めで全寮制の為、5年間を寮生活を
されております。入られていたのは六寮でした。そしてこの
同期で皇族寮(別寮)には竹田宮恒徳王殿下と山階宮茂麿
王殿下が居られ選ばれた御学友と別寮で生活されておりま
した。



大正14年の学習院中等科5年の通信簿です。


修身の筆記帖です。











以下は同時に出品されていた鹿園氏の出征した時の寄書等と千人針です。男爵の軍歴に
は見るべきものが殆どありませんので落札致しませんでした。しかし鎌倉以来の武門の家
柄の大名家…甲斐源氏の末裔と言われている南部家の出身で兵役に対して幹部候補生
に志願せず兵として出征するという珍しいケースに驚きます。陸奥盛岡20万石を領した南
部家は維新後、伯爵家であり…大名家としても四位(四品)以上に昇叙することが慣例とさ
れる名家として徳川家と御親藩、加賀前田家、彦根の井伊家、熊本の細川家、伊達家、
島津家、佐竹家、上杉家など限られた家柄ですが…この名家の出の方が養子として公家華
族に出たとは謂え…二等兵から二年の兵役を勤め…敗戦期の昭和20年に再招集でも兵隊
のままで陸軍兵長で軍歴を終えるとは実に稀有な例だと感心します。
驚くべき事に鹿園氏が入隊された頃…周辺の華族でも大勢の方が兵役につかれた
と謂います。同時期で男爵の津軽 承靖 氏も兵隊で入営。この方はお名前からもお
判りのように弘前藩を支配した津軽伯爵家の分家になります。こちらは千葉の鴨川
で敗戦を迎えており、他にも名家・梅小路家の分家の梅小路 定雄 子爵もどうやら
兵隊で入営。また元男爵 内海 勝正 氏と元男爵 藤大路 親美 氏の二人も兵隊で
入営しましたが後に幹部候補生となり予備士官学校を出て将校となっています。鹿
園氏は敗戦を川崎の捕虜収容所の警備兵で上等兵で迎え除隊時に兵長に昇進し
ております。梅小路 子爵も稀有な例でしょう。従五位の身分で二等兵で平民の兵・
下士官からどつかれる訳ですから驚きです。







陸軍徴用輸送船として撃沈された日本郵船 大洋丸
        のディナーメニューとランチメニュー(二枚)





1927年(昭和2年)8月31日の夕食のメニューです。85年前のメニューですから
よく残してあったものと思います。当時、サンフランシスコへの定期航路で使わ
れていた大洋丸ですが…海外へ渡航して豪華客船のフルコースディナーを食べ
る方なので…それなりの地位や職位のある方が主に公務で使われたと思われ
ますが…戦前の太平洋航路の船旅に想いを馳せると何となくイメージは下に掲
載した絵葉書の写真のようにセピア色のイメージで映画の中の世界のようです。


日本郵船の大洋丸は、元は第一次世界大戦でドイツから賠償船として譲渡された
カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)と謂う客船です。(因みにカップ・フィニステレ
とは”暗黒岬”と訳されます)。戦勝国の日本に賠償船として引き渡される前はドイツ
のハンブルク〜ブエノスアイレス間に就航した南米航路客船でした。大正10年に東
洋汽船のサンフランシスコ航路に”大洋丸”として就航したのが始まりで大正15年に
東洋汽船の旅客船部門が日本郵船に吸収されると大洋丸も日本郵船の運航となり
ました。その後、東亜海運にチャーターされて上海航路に就航したりとありましたが、
日米戦が開戦すると陸軍の戦時徴用輸送船となり昭和17年5月5日に宇品港を民間
人約1360名を乗せて出航、六連を経由してリンガエンに向かう途中…5月8日に長崎
県男女群島沖合で米潜水艦”SS-210(グレナディアー)”の雷撃を受けで沈没します
。尚、乗船者の内817名が亡くなりました。便乗者が660名で船員が157名です。この
亡くなった660名の犠牲者の多くが…日米戦の開戦以来、破竹の勢いで進撃する
日本軍に対応して…フィリピン、インドネシア、マレーと占領地域が拡大し占領地の産
業開発と民政の安定を推進する任務をおびた官民混成の技術者が、全国各地から選
び抜かれ派遣されましたが…多くがこれ等の民間人でした。救助され生き残った543
人もまた多くが南方産業建設のため再び南方へ送られました。尚、戦前にこの大洋丸
でロサンゼルスに渡航した有名な前畑 秀子 選手は、昭和7年のロサンゼルスオリン
ピックで水泳 200m 平泳ぎで銀メダルを獲得しています。彼女は次のベルリン五輪で
金メダルを獲得…あの有名なNHKアナウンサーの”前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!”
で思い出される方も多いのでは無いでしょうか。またロサンゼルス五輪と謂えば硫黄
島で戦死されたバロン西こと西竹 一 男爵(戦車第26連隊長・陸軍大佐)は、この大洋
丸でなく浅間丸でロスに渡航しています。
当時の前畑 秀子 選手



下は絵葉書に残る大洋丸のDining roomの写真です。
このメニューを多くの乗客が夕食で取ったのかと考える
と今も幽玄の海底に眠る沈船の様子が目に浮かぶよう
です。



ドイツの南米航路の客船だっただけに優雅な姿です。

こんな美しい客船が潜水艦の雷撃で沈められるのですから…
なんともですね…。

     〜大洋丸 (Taiyo Maru)〜

       ≪ 主 要 諸 元 ≫

 船社 : 東洋汽船(→日本郵船)

 総屯数 : 14,458トン 

 主要寸法 : 全長 170.9m 
         幅   19.8m 
         深さ  13.0m

 主機関 : レシプロ 4連成 2基2軸
                 10,600馬力

 最高速力 : 16.5ノット
 
 竣工 : 1911年(明治44年) 

 旧船名 : Cap Finesterre

 建造所 : 三菱長崎で改修

 旅客定員 : 753名 
   (一等184名、二等135名、三等434名)











昭和14年8月14日と8月17日のランチメニューです。
この二年半後に運命の日米戦が開戦しました。











房総半島で本土決戦に備えた
 第五十二軍の敗戦後処理の書類




一通の大判封筒に保管されたガリ版刷りの敗戦後の敗戦処理に関する書類等です。
帝國陸海軍は…我国史上最大の規模の官僚組織でありました。
従って軍と謂えども今の役所と変わらず何事も書類が必要で相
応の役職の人間の判子が必要です。それは帝都・東京を筆頭に
主だった大都市が焼け野原で廃墟となった敗戦後も変わりませ
ん。何もかも失われても…戦争に勝った戦勝国の米軍に武器弾
薬を滞りなく引き渡すように通知されている敗戦処理の書類です。
珍しいと謂えば珍しいのですが・・・何とも複雑な心境になります。























〜 陸軍皇族付武官用の飾緒(複製品と実物) 〜




皇族附武官飾緒の中田商店謹製の複製品です。
参謀の金の飾緒に対して銀色の飾緒です。
下に所持している実物を掲載しましたが…これ等に関しては
一般の参謀飾緒もそうですが複製品は…やはり安ぽく感じ
すぐに複製品と見分けがつく感じですね。複製品も物によっ
ては見分け付かないものもありますが…。



以下は実物の陸軍の皇族付武官用の飾緒です。
銀色の飾緒です。通常の参謀飾緒の
石筆と比較して見ました。
通常の陸軍参謀飾緒です。


因みに左2点が海軍の参謀飾緒です。右は、銀色
の副官または、皇族付武官用の飾緒です。
陸軍は、この副官懸章を副官は、使用しました。







野戦重砲兵第三旅団長 渡邊 良三 陸軍中将の
              陸軍砲兵大尉時代の紙物資料




何時頃入手した品か忘れましたが未整理の資料の中に混在していた紙物資料の一部です。
多分、他にもあった気がしますが倉庫移転時にかなり色々紛れ込んでしまって…まだ整理が
出来ていない為、見つかり次第追加します。…こちらの渡邊閣下(中将)も陸士・陸大出のエリ
ートです。陸軍も海軍も今の日本を支配する官庁の官僚組織同様に日本最大の官僚組織であ
りました。当然、今の官僚達と同じでエリートコースは(陸幼⇒)陸士⇒陸大と学歴を重ね事で
将官への道が開かれ…平時であっても渡邊閣下のように少将で退官でも中将に昇進させて
退官させ花を持たせてくれます。同じ事は軍人だけでなく大学病院の人事などでもよくみられま
す。…長年、万年助教授だった先生が定年退職の一日手前で名前だけの教授に昇進し翌日に
退職。…これでも退職後の履歴は、元医学部教授ですから再就職先は全然、扱いが違ってくる
でしょう。しかし…陸海軍もこうした肥大した官僚組織…とりわけ硬直化した人事システムがもた
らす弊害は強く…現在の官僚機構も同じ轍を踏んでいる気がします。共に黎明期は非常に優秀
で活躍した官僚組織…旧軍であれば日清・日露戦争を戦い勝利に導いた明治陸海軍。そして
現代の官僚機構で謂えば…敗戦の焼け跡のZEROから再出発した時に国を導いた初期の官僚
達は素晴らしかった。…共に成功体験を終え平静な充実期を得て組織が大きくなるに連れて組
織そのものがダメになっていきます。特に現在の官僚組織は…本来の意義を忘れて官僚自体
が肥え儲ける為に組織を使い現役時代に退官後の天下り先を確保する為に独法や特殊法人を
大量に作り…天下りに渡りを繰り返し恥じる事が無い。組織と謂うものは…多かれ少なかれ似た
ような性質をもちますが…実に考えさせられます。これだけを見ても日本は先の悲惨な敗戦の
経験を十二分に検証し今に活かしていると謂えない事が判ります。これは政治の世界も全てに
おいて共通して謂える事だと痛感します。
渡邊 良三 陸軍中将は、砲兵科・長野県出身。

 陸士12期 、陸大22期


          ≪ 略 歴 ≫

大正13年10月14日 駐独武官

大正15年03月02日 任陸軍少将

昭和02年03月05日 陸軍野戦砲兵学校付

昭和02年07月26日 陸軍野戦砲兵学校教育部長

昭和03年08月10日 野戦重砲兵第三旅団長

昭和06年06月08日 任陸軍中将・待命

昭和06年08月29日 予備役









同盟が提供配信した検閲済み写真です。













所天(将校用)です。









康徳6年・満州建設勤労奉仕記念章
康徳8年・満州建設勤労奉仕記念章








〜 脱 線 〜


通勤路にある漫画家の聖地・トキワ荘跡と記念碑




毎日の通勤路で殆ど数百メートルしか使わない横切るだけの道路です。旧目白
通り(光和通り)です。上が練馬側で下が目白通りに接続し道なりに進むと環六
(山手通り)を抜けて目白駅に至ります。右手が新目白通り(十三間通り)側です。


記念碑”トキワ荘のヒロ―達”…昭和27年から57年まで30年間存在した
木造アパートには、日本を代表する偉大な漫画家達が居住し切磋琢磨し
た有名な漫画の聖地です。手塚治虫、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚
不二夫氏など錚々たる顔ぶれが足跡を残しました。
3年前に光和通りの南長崎花咲公園に完成した記念碑です。








左上は取り壊され無関係の会社があるトキワ荘跡と
右上はトキワ荘の漫画家たちがよくラーメンを食べた
と謂う中華食堂 松葉です。下は、トキワ荘跡の曲が
り角に立つ案内版。当サイトのBBSでも何度か紹介
した看板です。







〜 脱 線 2 〜




法事で群馬(高崎)に出掛けました…やはり折角、こちら
まで足をのばしたなら懐かしい駅弁を食べたいと思い至
りました。この辺であれば…やはり頭に浮かぶのは二つ
の人気の高い駅弁です。一つは高崎の”だるま弁当”で
す。もう一つは全国区で人気が高い横川の”峠の釜めし”
です。二つとも車を走らせて買い求めて食べました。
彼此30年以上前に夜行の急行列車で北陸や秋田や新潟に行ったり
スキーで列車で行った時に食べた…峠の釜めしです。今では電
車などは長い事使いませんが、車で移動して長野や群馬に行く
機会があると思い出しては買い求めて食べています。

駅弁とお茶があれば…幸せな気分に浸れますね。やはり
食すと…日本人に生まれて良かったと感じます…。この益
子焼のお釜が昔と変わらずで懐かしい。
おおっ懐かしい…これです。栗が甘く…やはり旨し…!
そして完食です〜♪



こちらも懐かしい味です。敢てプラスチックの廉価版のだるま
弁当で無く…復古版の昔ながらの陶器製のだるま弁当に…
こだわりました。たかが駅弁とバカにするなかれ…日本の汽
車の旅に根差した食文化と謂える奥深さを持った駅弁は最早
されど駅弁の世界に入っているのです。
勿論、群馬名物のコンニャクも入っています。
この多種多様ぶりが堪りません。私は敢て温めず
冷たい駅弁を食べる派です。…実に旨し…!
そしてまたこちらも完食です〜♪







ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!