旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_11














Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








平成22年1月23日に逝去された
 海兵70期 高井 太郎 元海軍大尉の軍装品等


〜 日米戦の太平洋の海を開戦から敗戦まで戦い
    敗戦後も海150号:海防艦”択捉”(復員船)で
     復員事業を行い国に尽くし、その後の半生も
      海運業に従事、企業経営者をされた元海軍々人〜




左上の写真は、昭和19年6月、空母”瑞鶴”乗組時代
の高井 太郎 大尉(見張分隊長)。右上の写真は56
年後の平成12年、自ら創業したECL社取締役相談役
の時の顔写真です。
故・高井 太郎 元海軍大尉の生涯は出生は別として海に生きた生涯と謂えると
思います。大正9年に岐阜県山県郡伊自良村に生まれた高井大尉は、海兵をを
受験し江田島に出るまで海を見た事が無かったと謂います。そんな大尉が入学
した海軍兵学校70期は卒業の一カ月後に運命の日米開戦があり…本来は卒後
世界を検分し将来の日本を担う帝國海軍の士官は練習艦隊で世界各国を周り
士官候補生時代の想い出を作りながら士官としての様々な実務を身につけます
が70期は…そうした悠長な楽しみも無くすぐに戦乱の嵐に投げ出された期であり
ます。そしてその通り高井大尉は重巡洋艦”古鷹”乗組でスタートし第一次ソロモ
ン海戦、サボ島沖海戦に参加。古鷹の撃沈後は駆逐艦”雪風”の通信士官とし
て活躍…海軍初の逆探の運用を担当した士官としても有名です。ケ号作戦(
ガダルカナル撤収作戦)に参加後、空母”瑞鶴”の見張分隊長で乗組。マリアナ
沖海戦、レイテ沖海戦に参加(第五分隊長)。空母”瑞鶴”沈没後は4時間海上
を漂流し駆逐艦”若月”に救助され九死に一生を得ます。最後は海軍兵学校教官
兼監事として江田島から広島の原爆を目撃し敗戦を迎えられております。その後
復員船(海150号:海防艦「択捉」→軍籍は昭和20年10月25日除籍)の航海長と
して主に上海〜鹿児島間で復員業務を行い。昭和22年2月に甲種船長免許証が
授与され…短い間、艦長をされた模様です。尚、復員業務を終えた艦は、同年8月
5日、戦時賠償艦として米国へ引き渡され後に米国で解体。その後の高井氏は、
京都大学に入学しなおします。昭和26年に大学を卒業後に大同海運(株)入社し
昭和46年に日産プリンス海運(株)副社長に就任します。そして昭和52年5月に御
自身の海運会社であるECL(イースター・カーライナー)(株)を設立し同社社長と
して辣腕を奮い、平成11年6月に社長を退き同社取締役相談役。リタイア後は旧
海軍兵学校のクラス会や海軍関係の会に顔を出されておりました、平成19年には
NHKの”証言記録 兵士たちの戦争”で『フィリピン・エンガノ岬沖 〜囮とされた
空母 瑞鶴〜』に証言者として映像で証言しておられました。 平成22年1月23日
に入浴しようとして斃れ、そのまま亡くなられました。同月13日の水交会賀詞交
歓会には元気で参加されていたと謂います(享年90歳)。こうしてまた先の國難と
謂える大戦争を戦い生き残り、戦後も国に尽くし…民間に下っても海運業に身を
置き高井氏が起こしたECL(イースター・カーライナー)(株)は、今も健在のようで
す。
高井氏が生前、12年前に著した本です。
               ↑
上のバナーをクリックすると高井氏の創業された
ECLの公式HPが開きます。



昭和19年6月初旬、タウイタウイで撮影された空母”瑞鶴”の
准士官以上の乗組員の記念集合写真です。


海兵を卒業し少尉候補生で日米戦の開戦の1か月前に乗組になった重巡洋艦”古鷹”
そして開戦後…第一次ソロモン海戦に参加。サボ島沖海戦で古鷹が沈没し海上を一
時間以上漂流し駆逐艦”初雪”に救助され九死に一生を得て生還されます。


後に最も幸運な殊勲艦と謂われた駆逐艦”雪風”乗組を命ざれ通信士官として
海軍で初の逆探を装備し操作を担当。ケ号作戦(ガダルカナル撤収作戦)に参
加します。
敗戦後、東京湾で米軍が賠償艦として引き渡された雪風を撮影した公式写真
武装は撤去されています。結局、中華民国(台湾)が雪風を賠償艦として引き取り
1970年代まで国府艦隊の旗艦として使用しました。その艦名は”丹陽”。台湾海軍
退役後に引き取りを求めた日本側に戻されたのは主錨だけでした。現在この主錨
は江田島の旧海軍兵学校の庭に飾られています。






昭和18年に雪風を退艦し、空母”瑞鶴”に乗組になります(見張分隊の分隊長)。
昭和19年の東宝映画”雷撃隊出動”での空母”瑞鶴”(上)

0830、エンタープライズのヘルダイバーが撮影した瑞鶴(左)と瑞鳳(右)。
下は、
対空戦闘中の瑞鶴と二隻の秋月型防空駆逐艦。


13時ごろ、米側の第三次攻撃隊”エセックス”の艦載機が撮影した瑞鶴と防空駆逐艦
”秋月”右奥に見えるのは空母”瑞鳳”。
レキシントンの艦載機が撮影した瑞鶴。

第一次攻撃で魚雷1本に爆弾2発を受け通信機能を喪失。
艦隊の指揮が不能と判断し軽巡”大淀”に艦隊司令部を移
乗する為に大淀が近接している所です。既に飛行甲板が
傾いています。


魚雷7本に爆弾4発を受けて左舷に21度傾斜。13時27分に総員上甲板集合の命令が下命
甲板右舷に乗員は集合。降旗する軍艦旗に敬礼する瑞鶴乗組員達。瑞鶴の最期の姿を映
しだす劇的な写真です(昭和19年10月25日14時頃)。
被弾し沈みつつある瑞鶴。左舷に大きく傾斜しているのが判る。
信号檣から軍艦旗が降ろされ残存乗組員全員で万歳三唱。そしてこの16分後の
14時14分に空母”瑞鶴”は沈没しました。沈没の渦に巻き込まれ助からなかった
将兵も多く…また漂流中に味方駆逐艦に拾い上げられる者は幸運で…力尽き海
に沈んだ者も多かったと謂います。また救助されてもその駆逐艦が攻撃を受けて
沈み助からなかった人もおり…まさに運不運で人智の及ばないところでありましょ
うか…。


           ↑
比島沖海戦の貴重な実写フィルムが
日本ニュース 第232号としてNHKでの
サイトで見る事ができます。バナーをク
リックするとHPが開きます。
                ↑
平成21年11月30日にNHKに出演し語った高井元大尉
[証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・エンガノ岬沖
〜囮とされた空母 瑞鶴〜 です。亡くなられる約一年
前の映像となります。



一種軍衣袴です。











軍帽と軍帽ケースです。軍帽は帽章が取り外されています。
外に対して内部は結構痛みあります。流石に軍帽は南方で
も被る為、下の一種略帽と違い使い込まれています。逆に白
色軍帽覆いで二種で防暑服で良く使われたのか軍帽の外側
はとても綺麗です。軍帽用日覆いが二枚ありましたが、何故
か一枚は中学校の制帽用ですが…構わず使っておられたも
のと思われます。









ずっと大戦中を使われた剣帯と短剣です。使用感ありますが皮はまだ
しなやかで生きています。


士官短剣は、鞘は牛革で質素なものです。桜花の目釘は欠損です。
中の模造刀は錆び錆びです。









士官用一種艦内帽です。取り外した帽章があります。殆ど南方の
洋上勤務された方なので殆ど使用感の少ない極美品です。





士官用三種略帽です。大尉が所持されていた略帽の中で最も使い込まれ
た物で染みや変色などが見られ織り出し式の帽章は黄色糸が半分ほど無
くなっています。
内部にはカビのシミが残っています。


士官用第二種艦内帽(サボ島沖海戦の記念品)です。
鉛筆で「サボ島沖夜戦の記念の艦内帽」と書かれた紙
が結び付けてあります。高井大尉はこの海戦に重巡”
古鷹”乗り組で参加、撃沈後に数時間の漂流をされて
います。本品はそれを記念して保存されていた品ので
す。帽章は取り外されており、表側上部に赤いペンキ
らしい薄汚れが数か所見られます。激戦の海戦を戦い
抜いて九死に一生得て帰還された品です。








士官用三種軍衣です。生地は薄手のサージ生地で、前合わせの釦が取り外し式になってい
て凝った造りの品です。三種略帽同様にかなり使い込まれており、表側は色落ちしています
。胸物入れの小釦が欠です。


I
士官用マント(防水用、頭巾付)です裾に痛みあります。
そして防水外被(艦上勤務時に飛沫する海水に対して
着用します)です。こちらは未使用品です。


士官用開襟式防暑シャツ(未使用品)です。南方の熱帯地域で着用していた
開襟式シャツです。階級章は肩章を止めがあり夏季肩章を取り付けるタイプ
です。殆ど南方での海戦が主体で勤務されていたのでこれ等、防暑衣が一番
使われたものと思います。


士官用陸戦事業服(折詰襟型)です。記名がありますが殆ど
未使用品のようです。


海軍々刀の刀緒です。単体でありましたが、こちらも
使用感が無く未使用品と思われます。


手袋2双


取り外された1種軍衣用袖章












記名のある木札に士官用釦多数です。


海軍兵学校で授与された小銃射撃優等記章(箱付)です。


出身校の岐阜中学校の関係メダル数個、木札に右上は、
海軍で高井 大尉が使用されたストップウォッチです。


復員艦・択捉の人事異動と予備役編入を知らせる電報です。敗戦後の
昭和20年11月15日の日附で呉海軍人事部長の発令です。11月10日
に予備役に編入され…択捉海防艇長の記載があります。これは次の
ページの山野 平 海軍少佐と同じパターンです。山野少佐も海兵教官
から軽巡”酒匂”の機関長に予備役編入後に復員航海に従事。高井
大尉との違いは、高井 大尉は復員業務が終わると民間に下りました
が、山野 少佐はビキニ環礁での長門と一緒に水爆実験に供される為
米兵が自力航行させる為に米海軍の将兵に機関操作を教授する事で
した。この仕事を終えて家族のもとに戻った山野 少佐は、既に35歳を
目前にしていました。奥さんと子供達を喰わせる為に就職先を探す日々
が始まります。対する高井 大尉は、26歳の独身です。人生をやり直す
為…京都大学に進みます。同じように海軍の道を断たれた海軍兵学校
の教官でも第二の人生は全く違うものでした。しかし共通するのは…
民間に下っても一生懸命働き再び民間でも人の上に立つ立場で指揮
を取りました。戦時に軍人として命を賭して国に尽くし…敗戦後も民間
で企業戦士として日本の戦後復興を支え国に尽くしました。今の我々、
日本で平和と経済的に繁栄した豊かな社会で暮らせる事は…この世代
の方々の戦中・戦後の働きによる事を忘れてはならないものと強く思い
ます。



我、心の師・椿様が作成された重巡”古鷹”です。
最近、いただいたので高井大尉の所持品と共に飾っています。









"帰らぬ索敵機"として当時、海軍の搭乗員の中で
  余りにも有名になった珊瑚海々戦で壮烈な戦死を
   遂げ…その気高い犠牲的精神から二階級特進の
    栄誉を受け軍神となった空母 ”翔鶴” の索敵機・
     九七式艦攻(機長・菅野 兼蔵 飛曹長、操縦・後藤
       継男 一飛曹)の電信員・岸田 清次郎 一飛曹(19歳)
        がこの世に遺した貴重な個人アルバムの写真から…




このアルバムに写る軍神・岸田 清次郎 飛行特務少尉(二階級特進)が戦死
された珊瑚海々戦から丁度、節目の70年を迎えました。当時、19歳の若さ
で散った若桜が存命ならば89歳になる筈です。…必死の想いで国を民族。
同胞を守り散っていた若桜は…あの世でどのような気持ちで、この日本を見
ている事でしょうか?…珊瑚海々戦から70年、この日本に問いたい…そうい
う気持ちで一杯になります。
アルバムは戦後のものでネガから新しくプリントしたものです。相当に
思い入れがあるのか…見開きには、このようにテプラで打ち出した物
が判りやすく貼られております。旧家より出た品との事でしたが、遺族
または関係者なのでしょう。戦後に故人を偲びまとめられたものと思い
ますが、強い思い入れが感じられます。


珊瑚海々戦…史上初となった日米の航空母艦同士の激闘は、米側が正規空母の
”レキシントン”を失い”ヨークタウン”が中破しパールハーバーへ…日本側は、軽空
母”祥鳳”を失い、更に”翔鶴”の飛行甲板を使用不能なまでに中破させられ”翔鶴”
は呉に回航され修理に…。数の上では痛み分けか正規空母を失った米軍の方がと
謂いたい所ですが…MO作戦は完全に失敗に終わった事を考えると…またこの戦訓
をすぐにフィードバックして主力機動部隊が経験を活かせずMI作戦での大敗北を考
えると既に負け戦への序章に過ぎなかったような印象を受けます。…今も日本は起
こった事故や事件に対しての分析を徹底的に行い次に活かす事がとても下手です。
これは大震災や原発を見ると明らかです。TOPである政府の対応の不手際が一番
なのですが責任を取りたくない余りに評価そのものを曖昧に誤魔化し貴重な経験を
次に活かしません。膿を出す事を嫌い…先送りにする体制は、今も昔も進歩していな
いようです。TOPが馬鹿だと可哀想なのは現場の将兵達です。死ななくてもよい命
がドンドンと失われる…。歴史の評価も適当で支那のプロパガンダをそのままマスゴ
ミも日教組も使うから…正当な評価が出来ずに貴重な経験を未だに活かしきれてい
ません。…既にあれから70年、実に情けない現状に英霊達に同じ日本人として申し
訳ない気持ちで一杯になります。
浄土真宗大谷派 大谷 瑩潤 宗務総長から遺族である岸田家に
贈られた表彰状または顕彰状というべきものの写しです。



以下、アルバム写真の紹介です。
愛機であろうか…九七艦攻を前にして様々なポーズで写真に写る岸田兵曹です。
年代ははっきりしませんが…二飛曹時代ですので甲飛三期の卒後の飛行練習
生…昭和15年4月1日に三飛曹に昇進。空母”翔鶴”乗組となり真珠湾攻撃の時
には二飛曹に昇進。その後のセイロン沖海戦そして運命の珊瑚海々戦へと参加
されていきます。珊瑚海々戦の時には一飛曹に昇進しておりますので真珠湾に
出撃する前でないかと考えます。
予科練…僅か15〜16才の少年たちが、国難を憂えて全国から集い敗戦までにその数
実に24万名を超えます。敗色が濃厚になりつつあった昭和19年以降には全予科練生の
七割以上を超える約17万6千名の大量の採用があり…敗戦までに予科練出身者は18.
564名が戦死されています。中でも岸田兵曹の甲飛三期は、全予科練の中でも最も多く
の戦没者を出した期であります。昭和13年10月1日付で甲種飛行予科練習生3期生260
名が横須賀海軍航空隊に入隊します。教育期間は1年6ヶ月間でした。そして卒後、233
名が戦死されております。戦死率は…約90%です…。岸田兵曹は19歳で戦死しました。
こうした圧倒的に数が少ない将校・士官でない兵・下士官の若桜達の奮闘死闘が帝國海
軍の戦いを支えていた事が改めてよく判ります。
若者と謂うより…まだ少年から青年の間です。この笑顔を見ると今の若者も昔の若者
も変わらない気が致します。まあ中身の責任感や愛国心などは随分と違いますし、精
神の方は鍛えられ方がまるで違いますので…今の若者では太刀打ちできないでしょ
うが…見た目の外見は変わりません。
笑顔がまだ幼い…。この愛国心と正義感に満ちた若い魂が帝國海軍の戦いの原動力
でありました。特に今次大戦が従来の陸海軍の戦いに空軍が加わり様変わりした近代
戦では…まさに物量の戦いとなり凄まじい消耗戦が展開されました。物もそうですが…
兵器だけでなく人もまた消耗しきりました。…この笑顔の若者達は蒼空の果てに消え
去り再び戻る事はありませんでした。…学校が教えない、日教組教師や愚かなアカの
連中が教えない日本の防人達の歴史を後世まで伝えましょう。その事が平和に繋がり
また英霊達の鎮魂になる筈です。
大分海軍航空隊での専修課程での寫眞と思われます。
まさに青春グラフティーそのものです。
この若者達の殆どがこの笑顔の数年後に櫛が欠けるように…蒼空の彼方に
消耗するように消えていき…二度と地上に戻る事はありませんでした。
左上の岸田兵曹の写真の胸元を拡大すると上の真ん中の画像のように
搭(乗員) 岸田 の記載が読めます。








小倉工廠御指定の札が旅館にあります。臂章から三飛曹時代と判ります。
昇進した昭和15年4月1日以降でしょう。恐らく甲飛三期は横須賀海軍航空
隊に入隊した後、各種専修課程を大分の大分海軍航空隊で行っております。
そして真珠湾攻撃に先立って千島列島・択捉島の単冠湾に集結する直前の
昭和16年11月17日に予科練合同卒業式が行われ…各自、配属先に参りま
した岸田兵曹は、翔鶴乗組となり、11月19日に大分港を出港し別府湾を後に
しています。…この為、この地は大分市内と思われます。尚、昭和16年11月
に空母”翔鶴”に乗組の時には二飛曹に昇進してます。

馴染のカフェで女給とじゃれて楽しそうな搭乗員達です。




二種軍装で左臂に飛練教程章が見えます。後ろで噴煙を吹いているのは桜島だと
思います。錦江湾を真珠湾に見立てて攻撃の練習を昭和16年の夏から11月の間
に掛けて行いました。…空母”翔鶴”も”瑞鶴”も竣工したばかりでしたが艦載機が
鹿児島での訓練を終えると大分の佐伯湾に終結。 昭和16年11月19日に別府湾を
出港し、11月22〜23日の千島列島の択捉島・単冠湾に南雲艦隊が集結します。
そして11月26日午前6時に世界初の空母機動部隊の第一機動艦隊(30隻)は、単
冠湾を出撃します。
空母”翔鶴”で撮影されたと思われる珍しい写真です。
艦首部分の飛行甲板の下で撮影した写真のようです。


明らかに南方を航海中に撮影された写真です。臂章は二飛曹のまま
ですので昭和17年3月〜4月の印度洋に進出しセイロン島のコロンボ
攻撃やセイロン沖海戦のなどのインド洋作戦の時だと思われます。










艦尾側から撮影された写真でしょうか。寛いだ下士官搭乗員の表情が新鮮です。





艦内で舷窓ごしに外界を見ている写真です。

 臂章もまだ二飛曹です。珊瑚海
 海戦に臨む時には一飛曹に昇進
 しています。
バナナにヤシの実を持ち笑顔で写る搭乗員達です。

愛機の九七式艦攻の中から列機を撮影した写真です。惜しいですが
全てブレてピンボケです。右の写真は二本線が入った九七式艦攻で
すので中隊長機でしょう。


岸田 兵曹の最期の戦いとなった珊瑚海々戦のバトルマップです。
アルバムと一緒にあったという昭和47年発行の非売品で元空母翔鶴運用長・福地 周夫
元海軍大佐の著された”予科練物語 あゝ南海の若桜”がありました。この中に御両親の
写真や同期の親友・児玉 清三 一飛曹が出撃直前までの状況を報じた便りや戦死直前
の4月29日両親にあてた手紙等の記載、実父・久一朗氏の談話等多数の関係する記載
があります。
戦後の昭和39年に菅野 兼蔵 特務中尉の墓参をした福地 周夫
元海軍大佐と菅野 機長の未亡人に二人の遺児(長男・長女)に
菅野 機長の兄弟姉妹。
岸田 清次郎 特務少尉の御両親です。翔鶴と
瑞鶴に見立てた庭の像と…。
予科練記念館に飾られている岸田 特務少尉の
油絵肖像画です(太田 喜二郎 画伯筆)。


左上は予科練合同卒業式を終え空母”翔鶴”に配属されハワイ作戦で大分を
出港する直前に御両親に宛てた手紙です。また右上は珊瑚海々戦の直前に
出された御両親への最期の手紙となります。

当日の発艦までの岸田 一飛曹の様子を御両親に
手紙をしたため教えた同期の親友・児玉 清三 一
飛曹の手紙です。彼もまたこの後の南太平洋海戦
で帰らぬ若桜となりました。


『十八歳の遺書』の中にあった岸田 兵曹の遺書です。


こちらは、”予科練物語 あゝ南海の若桜”にある同じ日付の手紙です。
”十八歳の遺書”に掲載された手紙より長い文章の手紙になっている
事が判ります。



米軍が撮影した珊瑚海々戦で爆撃を受け炎上しながら必死
の回避航行を行う空母”翔鶴”の写真2枚です。




空から急降下爆撃機に狙われ爆炎と炎に包まれながらも回避運動をしている
空母”翔鶴”です。航跡から急速回頭で面舵を切っているのが判ります。




敵急降下爆撃機の投下した爆弾が至近弾として海中に落ちて炸裂し
巨大な水中を上げているのが判ります。








左上は敵急降下爆撃機の第三弾を受けて損傷した右舷一番機銃台付近です。艦橋の側部から見下ろした写真です。
手前の円形の張り出しが機群軍指揮所です。ここで杉山 寿郎 中尉が戦死しました。その上方が一番25粍三連装機銃
台です。ここでは機銃台の全員が戦死しました。射手は右手の指を引き金にかけたまま海面にぶら下がっていたそうで
す。右上の写真は、同じく第三弾で傷ついた艦橋後部付近です。三脚檣の基部の日本が折損しています。また中央上
は珊瑚海々戦で破壊された翔鶴の飛行甲板を50p位に切断し…南雲 忠一 司令長官が筆をふるわれたもので裏側は
一面黒焦げに焼けているそうです。これが南雲長官の遺筆となっています。
呉工廠の岸壁で撮影した修理中の艦首付近の惨状





画像で見るその他の空母”翔鶴”の戦歴・・・。
空母”翔鶴”は、竣工した昭和16年8月から僅か4か月で真珠湾攻撃で実戦デビュー
します。その後、インド洋作戦でセイロン沖海戦、珊瑚海々戦、南太平洋海戦を戦い
昭和19年6月19日にマリアナ沖海戦で米潜水艦の雷撃を受けて撃沈するまで僅か
2年10か月の短い生涯に幕を下しました。
昭和16年11月23日、千島列島択捉島の単冠湾に集結した南雲中将隷下の
世界初の空母機動艦隊である第一航空艦隊です。この機動部隊は11月26日
に単冠湾を出撃…一路、ハワイを目指します。12月2日…あの有名な「ニイタカ
ヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信されます。12月8日午前1時30分(日
本時間)現地時間12月7日日曜日の7時10分に空母から発進した第一次攻撃
隊の戦爆連合計183機が飛び立ちます。続いて午前2時45分に第二次攻撃隊
計171機が発進。7時49分(同3時19分)、第一攻撃隊は真珠湾上空に到達、
攻撃隊総指揮官・淵田 美津雄 中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト連送)を下
命。7時53分(同3時23分)、淵田は旗艦"赤城"に対して"トラ・トラ・トラ"(ワレ
奇襲ニ成功セリ)を打電。また7時55分(同3時25分)翔鶴飛行隊長の高橋 赫一
少佐が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始した…。そして運命
の日米戦が始まりました。
布哇を目指す機動艦隊…瑞鶴より撮影画像。先を進むの
は、旗艦である空母”赤城”です。
真珠湾攻撃へ向かう翔鶴艦載機
発艦の順番を待つ空母”赤城”の零戦
真珠湾への第二次攻撃で爆弾を抱いて発艦する空母”翔鶴”の
九七式三号艦攻です。


魚雷攻撃を受けるアメリカの戦艦群


真珠湾上空を飛ぶ翔鶴の九七式艦攻

猛火にくるまれる戦艦”アリゾナ”
艦隊の全路警戒(対潜哨戒)任務に発艦せんとする空母”翔鶴”の九七式三号艦攻
です。腹に六番爆弾1発を抱いているのが判ります。
真珠湾上空に突入した翔鶴攻撃隊の九七式艦攻!
黒煙は対空砲火によるもの!



昭和17年1月20日、ラバウル攻撃中の翔鶴の艦爆
昭和17年2月6日、ハワイ海戦凱旋祝賀午餐会(於:横須賀水交社)



昭和17年3月、翔鶴ガンルーム士官達。
各科の中尉以下〜候補生まで。
インド洋セイロン島を目指す機動部隊
昭和17年3月下旬、インド洋作戦に向かう機動部隊。
先頭から赤城、蒼龍、飛龍、比叡、霧島、榛名、金剛
瑞鶴、翔鶴の当時、世界最強の艦隊です。
翔鶴左舷前部機銃座より見た機動部隊の勇姿!!
翔鶴より発艦する九九艦爆!
昭和17年4月9日、撃沈する英空母『ハーミス』。
この攻撃に翔鶴より18機が攻撃に参加、実に13
発の爆弾を命中させています。


昭和17年5月8日珊瑚海々戦で米機動部隊の
上空で突入寸前の翔鶴の九九艦爆!
昭和17年5月7日、まず最初に軽空母”祥鳳”が
敵の餌食となり雷撃を受けて撃沈します。この日
翔鶴等から発進した第一次攻撃隊は、空母群と
見間違えた駆逐艦”シムス”と給油艦”ネオショー
”を攻撃し敵空母群を発見できませんでした。ここ
で日本側は危険な薄暮攻撃を実施します。この時
第二次攻撃隊の指揮を執ったのが高橋赫一少佐

(小泉大尉が偵察員を勤めた隊長機)です。この
日、高橋隊長機は暗闇で敵空母”レキシントン”を
翔鶴と誤認したといいます。
珊瑚海々戦で命中弾を受けもうもうと煙を
吐きながら回避運動を行う空母”翔鶴”。こ
の一戦で搭載機の9割を失ってしまいます。
下はダメコン中の翔鶴の飛行甲板です。


                      ↑
当サイトでは同じく珊瑚海で戦死された空母”翔鶴”艦爆隊の分隊士の
小泉 精三 海軍少佐(戦死後特進)の資料も所蔵し展示しております。
こちらの小泉 少佐は、名パイロットで知られた翔鶴飛行隊長 高橋 赫一
大佐(戦死後二階級特進)の九九式艦爆の偵察員でした。上のバーナ
ーをクリックすると小泉 少佐の資料を展示したページに飛びます。
海兵66期 小泉 精三 海軍少佐(写真は
少尉候補生時代のもの)



海兵56期 徳島出身
高橋 赫一 海軍大佐
空母”翔鶴”飛行隊長の高橋 赫一 少佐です
(画像は大尉時代)。この小泉 大尉の搭乗し
た隊長機の隊長でありパイロットでした。海兵
56期、徳島出身。小泉 大尉が中尉時代に練
成した宇佐美空の飛行隊長もまた高橋 少佐
でありました。同時の移動で宇佐空より昭和
16年8月20日付けで翔鶴飛行隊長となります
。以降、真珠湾攻撃・ラバウル攻略、セイロン
沖海戦、珊瑚海海戦と小泉大尉と共にペアを
組み戦いました。運命の昭和17年5月7日は、
薄暮攻撃の第二次攻撃隊も会敵しえず空振
りに終わります。翌8日は朝から両軍とも敵を
発見し互いに猛攻撃が開始されます。高橋
隊長機は、敵レキシントンを攻撃後、戦果確
認と友軍機との集合待ちの為、上空を旋回
中に、米戦闘機の襲撃を受けて撃墜されまし
た。戦死後、高橋少佐は二階級特進し海軍
大佐に昇進され小泉少佐と共に軍神に列せ
られました。
九九式艦上爆撃機


雷撃と命中爆弾を受けて炎上する米空母”レキシントン”


南太平洋海戦で翔鶴から発艦する零戦。
南太平洋海戦で艦載機を発艦させる空母”翔鶴”


被弾し後部飛行甲板とエレベーターが大破し使用不能になった翔鶴(トラックにて)
上は左舷やや後方から被害箇所を撮影した写真です。







菊水六号作戦にて昭和20年5月1日に沖縄周辺艦船
 攻撃に鹿屋空を出撃した第八神雷部隊(攻七〇八)の
   第四番機(一式陸攻+桜花)母子機ペアの戦死された
           若き搭乗員達の俤と記された写真附名簿




この名簿は旧家から出たと謂う題名の通りの神雷部隊員の俤(おもかげ)です。
第八神雷部隊(隊長 古谷 眞二 海軍中尉)桜花を抱いた一式陸攻4機…総勢
30名が敗戦の3か月前の5月11日に鹿屋基地を沖縄に向けて飛び立ちました。
桜花を抱いての出撃は…野中一家の全滅で編隊での出撃は効果が望めない事
がはっきりしていた為、払暁または薄暮の単機の時間差出撃に切り替わりました
。この俤(おもかげ)は最後に出撃した第二小隊一番機の搭乗員と桜花搭乗員の
寫眞附名簿です。但し機長で正操縦士の中島 眞鏡 海軍少尉(埼玉県出身・予
学13期)だけが掲載されておりませんので…もしかて制作されたのは中島機長の
御遺族でないかと想像しております。

また攻七〇八の4機の陸攻と桜花隊のペアのうち第一小隊二番機(三番目に発進
の機)が発動機不調で鹿屋に引き返しましたが着陸時に大破しています。この為
30名中の24名が戦死されています。また同日同時刻に50番爆装・零戦4機(神雷
部隊 第十建武隊:隊長 柴田 敬禧 海軍中尉)が時間差(0610から0643)で同じ
鹿屋基地を発進し沖縄に突入し4名が戦死されています。

彼等が若き命を賭して守りたかった日本と謂う国…そして日本人。忘れ去る事無く
戦後の平和を享受して暮らす我々日本人は彼等を顕彰しご冥福を祈り続けなけれ
ばならないと思います。深い感謝と共に…。

尚、この日出撃した攻七〇八(攻撃第七〇八飛行隊)は昭和18年2月15日付で
台湾の新竹基地にて開隊された第七六二海軍航空隊(輝部隊)の隷下で一式陸
攻24機と銀河5機を定数に別名:T攻撃部隊(源田 実 海軍大佐)によってT攻撃
部隊構想で生まれた部隊です。当初はベテラン搭乗員を集めて台風など荒天時
に敵の意表を突いて出撃し敵戦闘機の迎撃や対空砲火をあまり受ける事無く攻
撃する事を目指した部隊です。昭和19年9月、台湾沖航空作戦(捷二号作戦)
で鹿屋基地と宮崎基地に展開。そして10月12日から14日までの出撃で多くの戦
力を消耗しました。捷号作戦以後も11月19日、マニラ湾の敵船団を目標に台湾
からの渡洋雷撃に残存機僅か14機を派遣したものの…そのうちの10機を喪失し
戦果も無く部隊は壊滅状態となりました。11月24日に台湾からT部隊は宮崎へ
撤退しました。その後…昭和19年12月20日、桜花特攻部隊である第七二一海軍
航空隊とペアを組んで第十一航空戦隊を結成、主力正規爆撃隊へと変容します。
定数は陸偵24・戦闘48・陸爆48だがフィリピン進出の際に出撃した戦闘701飛行
隊が第七六一海軍航空隊に転出して以後、護衛戦闘機隊が七六二空に編入され
ることはありませんでした。再編後は、香取飛行場に偵察11飛行隊・攻撃501飛
行隊・陸軍第七飛行戦隊、豊橋飛行場に攻撃262飛行隊、鹿屋飛行場に第九八
飛行戦隊を置いて訓練に当たりました。昭和20年2月以降、沖縄戦がはじまると
七六二空は、2月11日付で第五航空艦隊に転籍。新たに攻撃第406飛行隊が
七六二空に編入されました。3月1日、南九州に展開。鹿屋(偵11彩雲14機・攻
501銀河9機)、出水(攻406陸攻10機・銀河28機)、宮崎(攻262銀河7機・七戦
隊飛龍27機)、築城(攻262銀河16機)、大刀洗(七戦隊飛龍10機・九八戦隊
飛龍13機)、鹿児島(九八戦隊飛龍13機)…そして全てが特攻作戦へと舵が切ら
れていきます。…鳴り物入りで期待されたT部隊(攻七〇八)も最期は…桜花を腹
に抱いて逃げ切る事も出来ない一蓮托生の母機と子機の悲しい定めの特攻隊で
一度の出撃で母機子機合わせて8名の命が犠牲になりました。第一次神風桜花
特別攻撃隊 神雷部隊(野中 五郎 海軍少佐)の初陣の陸攻隊は18機全機全滅
の教訓から大編隊による攻撃を断念、薄暮及び黎明時に陸攻母機が単機ずつ
分散出撃を主とし、10次にわたって神雷部隊の特攻攻撃は継続しました。その10
度に渡る出撃で桜花の搭乗員 55名と母機の搭乗員 368名、合計 423名の戦死
者を出しました。そして桜花があげた戦果は、ウルシ−環礁と沖縄戦において米
海軍の駆逐艦マナート・L・エベール撃沈 1隻、その他の連合国の駆逐艦以下の
艦艇数隻に撃沈しない程度の損傷を与える程度に過ぎませんでした。これは米
駆逐艦の撃沈例となったマナート・L・エベールでは、艦体中央に桜花が見事に
命中した為一瞬で大爆発を起こし艦が真っ二つに裂けて撃沈しましたが、他の小
艦艇の場合は、駆逐艦程度の艦幅の薄いものだと艦首付近に命中した場合、
機体が爆裂せず貫通してしまい海に突っ込んでから爆発したという例もあり…
爆装零戦など搭乗員が1名の場合と比べても8名の大所帯の特攻でこの戦果で
は…まさに間尺に合わない感じがします。何よりも桜花で高速で突入する搭乗員
も米機動部隊の分厚い迎撃戦闘機とVT信管の猛烈な対空砲火を抜けて輪形陣
の中の大型艦に到達するのは至難の技で…結局、輪形陣の外周にいる駆逐艦
などの護衛の小艦艇に突入するのが精一杯だったという事です。昭和19年の比
島沖海戦から組織的・本格的に始まった特攻が当初は大きな戦果をもたらしまし
たが…次第に米軍がこの対処法を研究し特攻による戦果は大幅に落ちていきま
す。しかし敗戦時には…最早、この特攻しか執れる有効な攻撃法が陸軍にも海
軍にもありませんでした。
この日、引き返した一機(第三番機)を除く三機のペア達の桜花
による戦果があがっています。米軍記録によると米海軍駆逐艦
ヒュー・W・ハッドリーが桜花1機の至近爆発により大破していま
す。この戦果を挙げた隊長 古谷 眞二 海軍中尉は、二階級特
進し海軍少佐に死後昇進されました(日本側では敵艦二隻撃沈
の戦果と踏んでいました)。


和歌山縣出身の田中 泰夫 二飛曹(普電練66期)です。
殆ど子供の面影を残す10代から20代半ばまでの若者です。今風な
考え方で謂うならば…この子供のような若者達に死なねばならない
必然性も理由も何一つ見当たりません。今の時代を生きる人には…
全く考えられない事でしょう。子機として射出される桜花は勿論、出撃
=万死…また母機である陸攻もまた帰還率は驚くほど低く…出撃すれ
ばまず間違いなく生還を期すことはまず困難。多くの隊員は覚悟を決
めて出撃しました。…そうした厳しい時代に生きた若者とは謂え…ろく
に恋も遊びも楽しみも知らずに…ただお国の為、家族や皆の為に笑顔
で沖縄へ向けて飛び還らない若者達を想うと親でなくとも…ある程度
の歳の人間であれば切なくて胸を締め付けられるでしょう。親御さんの
気持ちを想うと…心中察するに余りあります。


秋葉 次男 飛行兵長(乙飛特2期)は、我郷土…北海道の二十歳の青年
です。この方も随分と故郷から…遠い遠い南まで来ました。
想えば沖縄を守る為に多くの北海道出身の北鎮の兵士達が玉砕してい
ます。…そして空でもまた多くの北海道の若者が沖縄を守る為、日本を
守る為に散華しています。先の大戦では…北海道の兵士達はガダルカ
ナルから沖縄戦…そして最後の国内の地上戦となった樺太・千島の戦
いまで勇敢に戦っております。…沖縄は返還され沖縄の人は生まれ故
郷に住む事が出来ますが…樺太・千島の島民たちは生まれ故郷に帰る
事、住む事すら出来ません。南端と北端で共に国内で戦場となった島々
同士ですが…明暗が分かれました。米軍基地が集中し負担に思う気持
ちは十二分に理解しますが…ロシアの基地が残ってでも返還するなら
希望したい樺太・千島の旧島民にとっては…その選択肢すらありません
。ある意味で贅沢に見える望郷の思いに苛まれ終に帰島出来ぬまま北
海道で生を終える人々が居る事を沖縄県民も本土の人間も忘れて欲しく
ありません…。


新潟県出身の木村 好喜 飛行兵長(乙飛特3期)


愛知県出身の大河内 一春 一飛曹(甲飛12期)


こちらの三浦 一男 上整曹(普整練59期) も北海道人です。


長崎県出身の鑪 敬蔵 少尉(予學13後期・長崎高等商業学校)




下の説明に出て来ますが…野里小で同じ日に出撃し桜花で見事に
米駆逐艦”ヒュー・W・ハドリ”を大破させた高野 次郎 中尉(予學13
前期・金沢工業高等専門学校) と同室だった台湾生まれで埼玉出
身の小林 常信 中尉(予學13後期・台北高等商業学校)です。






                  
第八神風桜花特別攻撃隊・神雷攻撃隊

           指揮官 
古谷 眞二 中尉 攻七〇八 (予學13前期・慶応大学) 東京

           昭和20年5月11日 鹿屋基地より沖縄方面へ出撃し南西方面にて会敵し戦死
           (第一小隊二番機のみ故障の為、鹿屋に引返すも着陸時に大破)、出撃に際し
           て古谷中尉は部下に『…最期の血の一滴まで戦うのだ。…』と訓示しました。


                        
≪第一小隊一番機≫

 0556発進 正操 
古谷 眞二 中 尉    機長  攻七〇八 (予學13前期・慶応大学) 東京

         副操 田中 辰三 一飛曹        攻七〇八 (甲飛12期) 山形

         主偵 石田 昌美 上飛曹       攻七〇八 (丙飛4期) 山口

         副偵 東川 末吉 上飛曹        攻七〇八 (丙飛9期) 滋賀

         主電 磯 冨次  上飛曹       攻七〇八 (乙飛17期) 山梨

         副電 中村 豊  飛 長        攻七〇八 (特乙3期) 愛知

         搭整 鬢櫛 伊三 一整曹        攻七〇八 (普整練75期) 山梨

         桜花 
高野 次郎 中 尉          桜花隊 (予學13前期・金沢工業高等専門学校) 



                        
≪第一小隊三番機≫

 0603発進  正操 長澤 政信 一飛曹       攻七〇八 (丙飛17期) 山梨

         副操 千葉 登  一飛曹        攻七〇八 (甲飛12期) 鹿児島

         主偵 
宮崎 文雄 少 尉    機長  攻七〇八 (予學13後期・天理外語学校) 香川

         副偵 菊池 邦壽 一飛曹        攻七〇八 (甲飛12期) 福岡

         主電 永田 俊雄 上飛曹         攻七〇八 (甲飛11期) 鹿児島

         副電 中内 静雄 二飛曹         攻七〇八 (特乙1期) 高知

         搭整 竹内 良一 二飛曹         攻七〇八 (特乙1期) 福岡

         桜花 
藤田 幸保 一飛曹         桜花隊 (丙飛16期・出撃5回目)


                        
≪第一小隊二番機≫

                             *発進後の発動機故障で基地に戻った際、着陸時に大破。

 0620発進 正操 久世 慶治 一飛曹       攻七〇八  (生存)

         副操 川頭 正義 一飛曹       攻七〇八  (生存)

         主偵 
廣瀬 正雄 少 尉   機長  攻七〇八 (予學13後期)(生存)

         主電 小林 八郎 一飛曹        攻七〇八  (生存者)

         搭整 高橋 一二 飛 長         攻七〇八  (生存者)

         桜花 
堀江 眞  上飛曹         桜花隊  (甲飛10期) 秋田(生存者)

 *後に堀江 上飛曹は、同年6月22日の  第十神風桜花特別攻撃で戦死。


                        
≪第二小隊一番機≫

 0712発進 正操 
中島 眞鏡 少 尉   機長  攻七〇八  (予學13後期・台北高等工業学校) 埼玉

         副操 大河内 一春 一飛曹      攻七〇八  (甲飛12期) 愛知出身

         主偵 鑪 敬蔵  少 尉        攻七〇八  (予學13後期・長崎高等商業学校) 長崎

         副偵 秋葉 次男 飛 長        攻七〇八  (乙飛特2期) 北海道出身

         主電 田中 泰夫 二飛曹       攻七〇八  (普電練66期) 和歌山出身

         副電 木村 好喜 飛 長        攻七〇八  (乙飛特3期) 新潟出身

         搭整 三浦 一男 上整曹       攻七〇八  (普整練59期) 北海道出身

         桜花 
小林 常信 中 尉         桜花隊   (予學13後期・台北高等商業学校) 埼玉
                                                           (台湾生)


 ★この第八神風桜花特別攻撃隊・神雷攻撃隊で大破させられた米駆逐艦”ヒュー・W・ハドリ”は、
  一番最初に発進した隊長機(古谷 中尉機)が0556に鹿屋を離陸、0850に米艦隊と会敵…多数
  の迎撃機の猛烈な攻撃をかい潜り0900に桜花を射出直後に打電あり、その後すぐに母機は被弾
  し撃墜され全員が壮烈な戦死を遂げます。また射出された古谷 次郎 中尉が操縦する桜花は米軍
  の記録からも米駆逐艦”ヒュー・W・ハドリ”の右舷中央部付近の海面に突入し爆発し同艦に至近
  弾として被害を与え既に水上機1機と他2機の特攻攻撃で損傷を受けていた為、至近弾でも大破さ
  せました。時系列と打電からも攻撃を成功させたのは古谷 ・高野両中尉のペアと推測されます。

古谷 ・高野両中尉のペアの攻撃で大破した米駆逐艦”ヒュー・W・ハドリ”の
ありし日の姿です。( USS Hugh W. Hadley (DD-774) )
以下は、三度の特攻攻撃とダメ押しの桜花の至近弾で大破したヒュー・W・ハドリ
の大破させられた被害箇所の画像です。
右舷に黒焦げた跡が見えます。此処が高野中尉が桜花で至近弾となって
海中で爆発し大きな被害を出させた箇所のようです。
大破しても沈まなかったこの艦は、米軍にしてみれば日本の雪風のような
奇跡の殊勲艦となるのでしょうね…。日本人の気持ちから見れば気持ちよ
く沈んで欲しかったところですが…。
度重なる特攻攻撃で上部構造物が消え対空機銃と連装魚雷発射管が残る
のみです。奥に主砲の砲身が見えます。下の画像も甲板に穴が各所に開い
てているのが見て取れます。
あれだけ多くの命を失いながら…この駆逐艦一隻を大破させたのみでは
実際…割に合いません。…本当に複雑な心境になります。





*尚、同日…同じく鹿屋基地より 神風特別攻撃隊 神雷部隊第十建武隊
 (隊長 柴田 敬禧 中尉)の爆戦(五〇番爆装零戦52型)四機が特攻出撃
 し散華しています。此処にその名を刻み顕彰、そしてご冥福お祈りしたい
 と思います。
 隊長 柴田 敬禧 海軍中尉

          〜神風特別攻撃隊 神雷部隊第十建武隊〜


 0610発進 一番機 
柴田 敬禧 中 尉    桜花隊 (予學13前期・明治大学)

 0615発進 二番機 佐藤 啓吉 一飛曹   桜花隊  (丙飛16期)

 0615発進 三番機 田中 保夫 一飛曹   桜花隊  (丙飛15期)

 0643発進 四番機 下里 東  一飛曹   桜花隊  (特乙1期)


零戦52型です。
昭和20年5月14日、空母”エンタープライズ”を襲わんとする爆戦(50番爆装零戦)
昭和20年4月11日、戦艦”ミズーリ”に突入寸前の神風特別攻撃隊 第5建武隊の
爆戦(石井 兼吉二 飛曹または石野 節雄 二飛曹の搭乗機)


       ★戦後に公表された出版物から見る高野・小林両中尉のお話★

またこの時期ですが…戦後に時代劇小説作家として活躍した山岡 荘八 氏が敗戦間際の
昭和20年4月から海軍報道班員として作家の川端 康成 氏や新田 潤 氏等と海軍の鹿屋
基地で特攻隊の隊員達を住み込みで接して取材した様子を朝日新聞で”最後の従軍”とし
て昭和37年8月6日〜8月10日まで連載されました。その中に…第八神風桜花特別攻撃隊
・神雷攻撃隊の高野中尉(桜花隊)と小林中尉(桜花隊)の二名の事が記載されておりまし
たので…その記事を転載致します。尚、両中尉の関連部分の文字は色を変えてあります。
 (以下)


     山岡 荘八 氏 ”最後の従軍” (昭和37年8月6日〜8月10日:朝日新聞)

あのころ―沖縄を失うまでは、まだ国民のほとんどは勝つかも知れないと思っていた。
少なくとも負けるだろうなどと、あっさりあきらめられる立場にはだれもおかれていなかっ
た。何等かの形でみんな直接戦争に繋がれている。といって、楽に勝つであろうなどと考
えている者も一人もなかった。
そんな時…昭和二十年四月二十三日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出
された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――
」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島
県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のよ
うにやせた川端さんが痛々しい感じであった。私も新田氏も大きな陸軍の兵隊ぐつで、
川端さんだけが、割合きれいな子供のくつみたいな赤ぐつをはいていた。たしか徳田秋声
氏の遺品だといっていたが、その遺品のくつが、ちょっとうらやましいものに目に映るほど
国内の物資は欠乏し、みんなの姿は潮垂れていた。

                         <中略>

私たちが、野里村にはじめて行ったのは、日記によると四月二十九日、天長節の日であっ
た。この日は午前五時五十五分に警戒警報が鳴りわたり、六時二十五分に艦隊司令部の
ある壕内に避退して、爆撃の轟音をききながら食事をすましている。そして敵機の去るのを
待ってあわてて水交社から四キロ足らずの野里村へ向かった。その途中でも二度、サイレ
ンが鳴っているが、その時の私は、敵機などより数倍おそろしい妄想を描いて震えあがっ
ていた。他でもない。これから行く「神雷部隊――」そのものが恐ろしかったのだ。
私は、戦争では、あらゆる種類の戦争を見せられている。陸戦も海戦も空中戦も潜水戦も
。そして何度か、自分でもよく助かったと思う経験も持っている。しかし、まだ必ず死ぬと決
定している部隊や人の中に身をおいたことはない。報道班員はある意味では、兵隊と故郷
をつなぐ慰問使的な面も持っている。とりわけ「ライター班」はそうだった。
それが、こんどは必ず死ぬと決まっている人々の中へ身をおくのだ。従来の決死隊ではな
い…と、考えると、それだけで、私は彼らに何といって最初のあいさつをしてよいのか…
その一事だけで、のどもとをしめあげられるような苦しさを感じた。
                                          (昭和37年8月6日)


「神雷部隊」は桜花兵器という当時としては最新兵器の三トン半のロケット弾を、敵地まで
一式陸攻の腹につけて運んでゆき、敵の頭上でこれを離すと、あとは人間が操縦していっ
て敵艦に体当たりするというものだった。しかし、その桜花部隊の他に、海軍自慢のゼロ
式戦闘機に、五百キロ爆弾を搭載していって、そのままぶつかる特攻部隊も、一応この
神雷部隊の野里村にやって来て、そこから続々出撃するのだと聞かされている。その多く
は学鷲で、彼らがいよいよ日本の運命を荷わされているのだと…。
私は、最初の特攻隊としてフィリピンから飛び立った関大尉や中野、谷、永峰、大黒など
の敷島隊員の記事が報道(昭和十九年十月二十九日)されたとき、その心事をしのんで
茫然としたものだった。その時の関大尉のマフラーをつけて屹然と空をにらんで立った姿
は、いかなる仏像よりも荘厳な忿怒像として目に残っている。清純な若者たちをこのよう
に怒らせてよいものであろうか。そして、そのきびしい犠牲の陰でなければ生きられない
のかと思うと、自分の生存までがいとわしかった。ところが、その必死隊に、いよいよ私は
入ってゆかなければならない。むろん彼等には慰めの言葉などは通用すまいし、といって
話しかける術も知らず質問もなし得なければ、いったいどうして居ればよいというのか…。

                         <中略>

だれも明るく親切で、のびのびしている。どこにも陰鬱な死のかげなどはない…そう書くこ
とは出来ても「そんなはずはない」と反問されると、私にはそれを更に説得するだけの力は
ない。これは今の私が性急に割切って書こうとしてはならないことだ。それよりも、こうして
底抜けの明るさを私に見せている人々が、最後にどのような心境で出撃してゆくか?出来
るだけ自然にその筆跡を残したい……そう思って私は不案内な鹿屋の町の文房具店で、
ようやく一冊、ほこりにまみれてあったわとじの署名帳を捜し出して戻って来た。十七年後
の今になって考えると、これが二冊あったらとつくづく思う。というのは間もなくこれはいっ
ぱいになってしまったからだ。いまそれを改めて開いてみると、署名と共に浮んでくる彼等
の顔は、どの顔も笑っている……


秋風と共に去った男 時岡鶴夫

人生恩に感ず 大木偉央

大き夢に生きん 本田耕一

一念 吉田信

今死を知らんとす亦楽しからずや 町田道教

敢闘精神 石丸進一

南無阿弥陀仏 高野(次郎)中尉     等々

和歌を書いたり、大義、撃沈、無、必中など書いて飛立った人々もあれば、きちんと官姓名
だけを書き残していった人もある。その中に戯画が二つ混じっている。一つはダルマを書い
て、正八位の意味であろう「正八、大喜多久男」と署名し、もう一つはゼロ戦らしい飛行機を
書いて「牧の少イ」と署名してある。
この牧野少尉は小学校を出外れた麦畑の中の小川で、私と一緒にハヤを釣りながら、さん
ざん私を笑わせていってくれた。彼が、元山で練習中に飛行機をこわして教官にしかられ
た時の話など涙の出るほどおかしかった。ダルマを書いて行った大喜多少尉は丸々とした
無髯の童顔で、ヒゲにあこがれを持っていたらしい。それでダルマのあごにたんねんにヒゲ
を書いていった。
石丸進一少尉は兄と共に職業野球の名古屋軍にはいっていたことがあるとかで、本田耕一
少尉と共によくキャッチ・ボールをしていたが、いよいよ出撃の命が下り、司令の訓示が済む
と同時に、二人で校庭に飛び出して最後の投球をはじめた。「ストライク!」今もハッキリとそ
の声は私の耳に残っている。彼等は十本ストライクを通すと、ミットとグローブを勢いよく投げ
出し、「これで思い残すことはない。報道班員さようならッ」大きく手を振りながら戦友のあと
を追った。

無阿弥陀仏と書いていった高野次郎中尉は、台湾生れの小林常信中尉と同室していて、
彼らはどちらも童貞のままでいった。高野中尉は温和なエンジニア、小林中尉は絶えずみん
なを民謡や踊りで笑わせるユーモリストで、彼等は自分たちの部屋に戦災孤児のアキオとい
う少年をとめていた。六つか七つのこの迷い子がひどくいたずらで、よく小林中尉に裸にされ
ては洗われていたが、部隊からの連絡で叔父が熊本から迎えにくると、中尉たちと一緒に
飛行機で戦いに行くのだとダダをこねて困らせた。そして「帰らないと連れていってアメリカの
上に落としてやる」。そういわれると、ようやく納得し、新しい大人のダブダブのシャツを着せら
れ、中尉たちの集めてくれた彼にとっては大金をポケットに納め、ようかんを背負わされて
ベソをかきながら叔父に連れ去られた。
その小林中尉は高野中尉と一緒に出てゆく前にせっせと麦刈りを手伝っていたが「さて、
あちらで結婚式場の用意がよろしいそうで」私の肩を軽くたたいて出撃していった。


こうした思い出を書いてゆくときりがない。私はいつかアキオと同じように、この必死部隊の
明るさ親切さに魅せられ、川端さんや新田氏とわかれ、そのままここを離れ得ない迷い子に
なってしまっていた…
                                      (昭和37年8月8日)

(資料倉庫: 山岡荘八「最後の従軍」昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」
                                                 より引用)


神雷部隊桜花隊員は、基地近くにある野里小に宿泊していました。川端氏や山岡氏、新田
氏等の作家達も海軍報道班員として付近に分宿し特攻隊員等と交流を深めました。山岡氏
が積極的に隊員に話しかけ交流を深めたのに対し川端氏は隊員と距離を置き積極的には交
わらなかったと謂われております。しかし敗戦まで桜花隊と行動を共にしたようです。そして
この時の経験をいつか特攻隊の物語を書きますと謂っていた川端氏は、敗戦の翌年の昭和
21年7月発行の夫人文庫にこの特攻基地での体験を元に執筆した”生命の樹”を世に出しま
した。

  
 川端 康成 氏が敗戦の翌年に世に出した…唯一、特攻隊を題材にした”生命の樹”です。
 必ず書くと謂った約束を文豪は確かに果たしております…。内容的には、純文学を余り理
 解しないのでどう評してよいのか困りますが…こんな形でしか残せないのなら、山岡 氏の
 のように直接、見聞したままを記載してくれた方がよかったように思いました。私が関係者
 や遺族ならそう願います…。
  



その川端氏も遺書を残さず昭和47年にガス自殺を遂げております。その川端氏と親交の深
かった作家 三島 由紀夫 氏は川端氏の亡くなる二年前の昭和45年に割腹自殺をされてお
りますが、その割腹自殺される一か月前に三島氏は江田島の旧海軍兵学校(現 海上自衛
隊第一術科学校)教育参考館で第八神風桜花特別攻撃隊・神雷攻撃隊の隊長 古谷 眞二
海軍中尉(予學13前期・慶応大学)の遺書を読み…声をあげて泣いたという有名なエピソー
ドが残されています。靖国神社に遊就館に展示された古谷 眞二 少佐(二階級特進)の遺書
を以下に紹介します。


                       
遺   書


                              海軍少佐 古谷 眞二 命
                              昭和二十年五月十一日
                              海軍第十三期飛行科予備学生
                              攻撃第七〇八飛行隊
                              南西諸島にて戦死
                              東京都京橋区槙町出身
                              二十三歳


            皇國の一男子として生を享けて以来二十有余年、國を挙
           げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐ
           るものなし(中略)
           過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、
           甚だ深くして、浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見
           当らず、その深遠厚大なるに対し深く(*繰り返し)厚く(*繰
           り返し)御礼申し上ぐるものなり。
           御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀
           傷せずして無事帰還の譽を擔はんこと、朝な夕なに神佛に
           懇願すべくは之親子の情にして当然也、不肖自分としても
           亦、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後、孝養を
           盡くしたきは念願なれども、蓋し、時局は総てを超越せる如
           く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状
           に在り。
            大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝な
           りと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を
           執らんの覚悟なり、幸ひ弟妹多く兄としてのつとめは果せざ
           るを遺憾とは思ひつゝも願はくは之等弟妹に父母の孝養を
           依頼したき心切なり。
            死すること、強ち忠義とは考へざるも、自分は死を賭して
           征く、必ず死ぬの覚悟で征く、萬事頼む          

                                          眞二

                  十八年六月十日 箱根小涌谷にてしたゝむ

                                      (原文のまま)

この遺書は古谷 中尉が母校の慶応大学を繰り上げ卒業式の前に書いたものです。これを
読んだ三島 由紀夫 氏は、『すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命
をかけて書いていない』と謂い声をあげて泣いたそうです。まさしくの感が致します。…如何
に小賢しい反日マスゴミが軍国主義や軍国教育の賜物とすり替えて売国の日教組教師ども
と連携し貶めようと画策しても…この純粋なる學徒の想いを遺書を読めば…これが強要され
たものか、嘘偽りの教育で出来るものかは…誰の目にもはっきりと判る!偽物の強要された
嘘の教育を受けた者は国民も兵士も北朝鮮のように脱北して逃げます。如何に恐怖政治で
締め付けしても綻びは隠せません。国民は逃げ兵士は敵前逃亡します。しかし昔の日本にそ
れは一切ありません。これが意味する事は何であるのかは単純明快です。覚悟の程に強い
弱いや意志の力に強弱がありますが…多くの想いの中で戦争と謂う手段は誰でも嫌ですが
国難が振り被ってこれを払わなければ生きる意味が無くなる時…当時の日本は座して死を
待ったり…頭を下げて奴隷化して生きるよりも名誉ある戦いを選び…多大な損失を出して戦
争が終わり…結果として日本は戦争に負けましたが…多くのアジア諸国が植民地支配から
日本のお蔭で解放されました。今の反日の日教組の教育が支配する学校では…このような
若い防人達が我々子孫たちを守る為に…どれだけ勇気を奮い身を犠牲にして戦ったのかも
教えたり伝える事がありません。…その事がどんなに愚かな事か?…国に対して日本人とし
て多くの日本人が誇りを持てなくなるのも当然です。本当の事実を歴史を伝えず歪曲した
支那や朝鮮が捏造する嘘の歴史を迎合して教えるのですから…ダメになっていくのが当然
だと思います。…いい加減に目を醒ましマスゴミをやめさせましょう。反日の日教組教師を教
育現場から追放させましょう。




以下は、神雷部隊や桜花隊の画像です。





昭和20年1月17日、神之池基地の721空(神雷部隊)に天皇
陛下の思召しで侍従武官が見えられた折の記念撮影です。
昭和19年10月1日に721空(神雷部隊)が百里原基地で
開隊。写真は神之池基地に移転した桜花搭乗員の左か
ら中根 久喜 中尉(予13)、、第三分隊長 湯野川 守正

大尉(海兵71)、細川 八郎 中尉(予13)です。中根中尉
は20年4月14日に爆装零戦で特攻死しています。
昭和20年2月、鹿屋基地で待機する721空(神雷部隊)の一式陸攻24丁型です。
721−328号機とその搭乗員達です。桜花の滑空訓練を行ったK1に乗った搭乗
員は、零戦より操縦性能が良く素直な機体であると一様に述べています。
桜花の機上に桜の枝を持ち写真に写るは神雷部隊の桜花搭乗員 上田 兵二
一飛曹です。4月上旬の鹿島基地での事です。この日、第二鈴鹿基地より物資
輸送で鹿屋基地に到着したばかりの1001空(輸送航空隊)の池谷 淳 少尉は
『分隊士、写真を一枚とって下さい。そして私が死んだら写真を遺族に送ってく
れませんか。』と謂れ少尉は軍極秘の桜花であったのも一切、躊躇わずカメラ
を取り出し撮影しました。その後、上田 一飛曹は20年4月16日に桜花でなく…
50番を抱いた爆装零戦で出撃し還らぬ人となりました。敗戦後、まもなく池谷
少尉からこの写真がネガと共に遺族の元に送られてきました。
神之池空で桜花搭乗員の供給を続けた七二二空(龍巻部隊)の
分隊長 新庄 浩 中尉の一式陸攻11型です。中尉のこの機と
一〇八一空の零式輸送機に分散してが4月13日に桜花隊員を
鹿屋基地に送り届けます。この隊員は到着と同時に龍巻部隊(
722空)より神雷部隊(721空)の所属に替わりました。そして其
々が5月以降、桜花及び爆装零戦(建武隊)として特攻出撃しま
した。
神雷部隊(721空)の一式陸攻24丁型と搭乗員達です。攻撃708飛行隊
の機長・沢井 正夫 中尉(予13:後列左より二人目)以下7名は、桜花射
出で母機もろとも喰われる中…2回の桜花出撃射出を成功させ帰還を果
たした稀有な経験を持つ男達でした。1回目は4月16日の第5回桜花出
撃で桜花搭乗員:宮下 良平 中尉(予13)を抱き大陸よりに沖縄に接近し
見事に米機動部隊近くで射出し命中の大火炎を目撃しています。2回目
は4月28日に桜花搭乗員:山際 直彦 一飛曹を雲海の隙間より認めた敵
の対空砲火に向けて射出、巨大な火柱を確認帰投。途中、夜戦に襲われ
島原半島沖に不時着するも無事に帰還する離れ業をやってのけています。
上は出撃前の訓示を受けている神雷部隊の搭乗員達です。
下は桜花を抱いてまさに離陸しようとしている一式陸攻です。



実戦で使われた桜花11型です。この機は
沖縄戦で米軍に接収されたものです。





上下の写真は米軍が撮影したもので桜花を抱く母機が必死で
回避行動する中…遂に撃墜される連続写真です。



昭和20年3月21日に神雷部隊(第721航空隊)の野中五郎少佐
が率いる18機の一式陸攻が出撃、途中でF6Fに迎撃され全滅し
ました。この特攻機”桜花”を胴体下面に搭載した一式陸攻が撃
墜されるのを撮影したガンカメラの映像6枚を1枚の印画紙に焼き
付けたものです。印画紙にTechnical Air Intelligence Center
と焼き込まれており、裏に米海軍公式写真というスタンプが押さ
れています



最大搭載量が1トンの一式陸攻が2トンの桜花を抱いて飛ぶのですから
殺せと謂っているようなものです。F6Fにとっては鴨撃ちのような戦闘
だったと思われます。逃げる事を一切考えずひたすら桜花を抱いて敵機
動部隊を目指す神雷部隊の覚悟が気迫が最期の写真に残されている気
がします。
日の丸が主翼にはっきり見えます。そして射程距離に遠く桜花を射出
出来ない一式陸攻が必死の回避運動を行っている写真です。
桜花を射出すれば身軽になり速度も格段に上がる筈ですが母機が
助かるチャンスよりも…桜花を抱いて敵機動部隊へ射出できる地点
まで最後まで死を覚悟で目指す野中一家の中攻の必死の決意が見
て取れます。



遂に左主翼のエンジン下から被弾による煙が上がります。



鎮魂の神雷部隊、野中一家と
 有人ロケット特攻機 "桜花" の最期の死闘


                 ↑
動画の再生時には、TOPのMIDI音源を停止してお楽しみ
下さい。







上は…昭和15年4月、霞空の中央指揮所にての野中 五郎 大尉。





実戦に間に合わなかった桜花22型です。ロケットエンジンを
ジェットエンジンに換装してあります。吸気口が左右に張出し
後部が全体に大きくなっているのが判ります。



桜花(MXY7-K1)K1滑空練習機です。桜花11型搭乗員の練習用に
作られました。胴体下面に着陸用の橇があります。機体は下面が灰
白色で上や横は緑薄色に塗装されていました。下は練習用のK1機
が一式陸攻から放たれた瞬間を撮影した写真です。昭和20年8月
2日、操縦者は松林 重雄 少尉です。滑空を3分間行った後、地上に
戻る事が出来ました。全部中央に見える細い線は、投下時に急に操
縦桿を引かない為の制動索です。神之池基地の錬成部隊である722
空(龍巻部隊)でははじめに零戦による最低出力での超低空飛行を
行い、続いてこのK1練習機による滑空訓練を一回だけ体験します。








田中計器製の海軍 水平儀一型(初期生産型)




奥行きが多少短い特徴的な形状から海軍 水平儀一型
(初期生産型)である事が判ります。
空気孔開閉レバーに繋がる水平儀作動停止レバーや螺子に欠品
ありますが機能は生きており他は良好です。
銘板も下部に附いています。田中計器製作所株式会社
にシリアルナンバーが読めますがかなり薄れています。
この水平儀を使用した機種としては、一式陸攻、九七式艦攻、
零式輸送機二式大艇、天雷、極光、流星、瑞雲、白菊、深山や
連山に九三式中練(赤とんぼ)などあります。









海軍 電気暖房器(昭和20年4月 オクダ電機製 )




昭和20年4月のオクダ電機製の海軍の電気暖房機です。
重さ10.5kg、高さ50cm、幅45cm、奥行22cm
余り使用感無く…そのまま使われず保管されてきたようです。
とても約70年前の品と思えない位、塗装も綺麗に残っていま
す。とても頑丈でしっかりした作りです。











オクダ電機の電気暖房機のオリジナル収納箱です。
この収納箱は、ダイバーの山元様より寄贈していた
だきました。中に昭和25年の古新聞も残っており、
敗戦後に民生品として放出されたか、払い下げられ
流通したものと想像します。
元々、オクダ電機は下のような電気暖房機を製造販売し
ていた会社です。そうした中で海軍に電気暖房機を卸し
ていたようです。


箱の横には薄れて難読ですが”17 購算外123号”と
その下に”呉”とあり、その下は”NO 3246”と読めます。
収容箱は海軍に納品された時から同じものであり
戦後もそのまま使用されたようです。いずれにして
も中身だけ残る事はよくありますが…勲章や従軍
記章も共箱とセットで残る事が少ないので…特に
こうしたリンゴなどの木箱と同様に捨て去られるの
が通常なので残る事は珍しいと思います。


中にあった古新聞の千切れたものは昭和25年10月18日
の毎日新聞である事が見てとれます。
寄贈下さいましたダイバーの山元様に改めて感謝致します。







昭和19年3月29日、第七六一海軍航空隊
 ペリリュー派遣隊 第一次薄暮攻撃隊(一式陸攻
  六機)を指揮して敵機動部隊に雷撃を敢行し戦死
      された海兵66期 近藤 正次郎大尉の夏肩章




海兵66期 近藤 正次郎 少佐(戦死一階級後特進)
の肩章です。近藤大尉は新潟県長岡中学出身です。
真珠湾攻撃では南雲機動艦隊の空母”飛龍”に乗組
みで九七式艦攻の主偵を勤めておりました。布哇作
戦の第一次攻撃隊では水平爆撃隊の九七式艦上攻
撃機の49機の中で飛龍の第1中隊(第40小隊1番機
) 10機の攻撃隊長機(機長で操縦:楠美 正 少佐)
の偵察員(中尉時代)として参加されております。
以下は当サイト主催・管理人である憂國烈士
が慰霊の為訪問した時に撮影したぺリリューの
旧海軍飛行場です。と謂っても今もセスナ機の
発着場として現役で使われている飛行場でもあ
ります。ここを近藤大尉が指揮する一式陸攻6機
が敵機動部隊を求めて飛び立ち二度と戻る事が
ありませんでした。
当時は、2つの滑走路があり、丁度、数字の4の字
に見えるように存在していました。今は、一本だけ
がセスナ用に残って使われています。
ガブドス島には、小型機用の滑走路が一本存在しました。
ぺリリュー島の海軍飛行場は、1200m×100mの主滑走
路が2本あり、主に一式陸攻と零戦が駐機していました。
特にサイパン陥落後は、東洋一の飛行場と言われもしまし
たが、米軍の来襲時には、僅か8機の作戦機しか存在しま
せんでした。8月下旬、初めにニューギニア方面の各基地か
ら米軍は、爆撃機をよこしました。9月3日からは、2群の空
母群からの艦載機の猛攻が開始されパラオ地区も含めた
日本軍地上施設に猛烈な重爆撃が加えられました。12
日からは、空襲に加え米艦隊による艦砲射撃がなされるよ
うになりました。9月19日に米軍の戦闘機が1機ついにぺリ
リュー飛行場に着陸。9月24日以降、夜間戦闘機が逐次使
用されるようになりました。
当時のぺリリュー島の航空写真です。手前に4の
字に見えるのが海軍航空隊の飛行場でした。
第七六一海軍航空隊ペリリュー派遣隊の第一次薄暮攻撃は、昭和19年3月29日に
まず事前の索敵隊(指揮官:下倉 泰治 大尉)3機の一式陸攻が1320にペリリュー
から発進する事から始ります。1512に一番機がF6Fヘルキャット2機と交戦し、被弾
し自爆します。1850に二番機と三番機が該当海域周辺に到達、敵機動部隊捕捉しな
がら監視を続行。レーダーで捕捉し迎撃に上がってくる敵夜間戦闘機の襲撃を逃げ
ながら索敵監視続行し2100にペリリューに帰投しました。近藤大尉の率いる第一次
薄暮攻撃隊の一式陸攻6機は、1550にペリリュー基地を出撃。1機が発進後まもなく
機関不良で不時着します。1750に敵機動部隊を発見し、1842に突撃下令し1850ま
でに5機全機が雷撃を終了します。しかしうち4機が厚い対空砲火と敵機に喰われて
撃墜されます。そして1機(第三区隊二番機の森本二飛曹機)が2330にダバオ湾に
不時着水して帰還しました。


       〜第一次薄暮攻撃隊(隊長 近藤 正次郎 大尉)〜


  第一区隊

    一番機 操縦 塩崎 港   中尉            未帰還
         主偵 近藤 次郎 大尉(機長)
          副偵 岩淵 澄雄 飛曹長
          電信 藤岡 博水 二飛曹
          搭整 土居 主計 一整曹
          攻撃 飯田 実 一飛曹

    二番機 操縦 長橋 桂一 二飛曹         未帰還
          偵察 宮崎
          電信 黒瀬
          搭整 小林
          攻撃 石原

 第二区隊

   一番機 操縦 古沢 後男 上飛兵          未帰還
         偵察 野家 公之 飛長
         電信 増田 鉄雄 一飛曹
         搭整 近藤 和夫 整長
         攻撃 吉田 武  上飛兵

   二番機 操縦 花園   上飛兵         (出発後)不時着
         偵察 氏名不明
         電信 氏名不明
         搭整 氏名不明
         攻撃 氏名不明
 第三区隊

   一番機 操縦 坂口 澄隆 二飛曹           未帰還
         偵察 渡辺 義三 飛長
         電信 松沢 章夫 一飛曹
         搭整 坂本 弘  二整曹
         攻撃 山端 弘之 上飛兵

   二番機 操縦 柴原 忠一 飛長     ダバオ湾に不時着水し帰還
         偵察 中岡    飛長
         電信 森本    二飛曹(機長)
         搭整 阿部    上整兵
         攻撃 津島    上飛兵

…この攻撃で20名の搭乗員が戦死しました。戦果は巡洋艦とその他の大型艦を
それぞれ一隻ずつ二隻を撃沈です。








戦時中にカ海軍で使用された南西諸島・久米島南部の海路図です























第二一〇海軍航空隊は大戦後半に名古屋を中心とした中京上空の迎撃戦闘行動に
従事した本来は錬成部隊であったが必要に迫られて実戦部隊になりました。主に零
戦を中心に月光、彗星で迎撃戦闘を繰り返し、時に関西方面や東海方面に進出した
敵機動部隊艦載機の迎撃も行いました。昭和20年3月25日には、零戦16機を爆装。
神風特別攻撃隊第三御盾隊結成し特攻隊も送りだしました。また”天一号作戦”発動
で出水飛行場に零戦26機、紫電14機、彗星7機で進出。出水より国分飛行場に移動
して増援部隊は、それぞれ国分・出水・串良各飛行場に分散配置。沖縄戦が始まると
雷撃に制空任務に活躍、明治飛行場残存部隊は引き続き名古屋市に襲来するB-29
に対して月光と彗星で迎撃を行う。菊水三号作戦で消耗した二一〇空は4月下旬に原
隊復帰し、5月5日の編制変更で零戦隊に統一。月光及び彗星隊は解散し紫電隊は
筑波海軍航空隊に供出。第三航空艦隊第五十三航空戦隊に転籍、退避行動・地上対
空戦に従事し本土決戦に備えて温存され敗戦を迎えました。

この勤務精励証は、昭和20年と司令の柴田 文三 海軍大佐の名前が印刷され隊の公
印が捺されています。柴田司令は解隊までの残務処理で8月に着任した司令です。
文面も…敗戦国の悲哀が滲み出るようなものです。

 右者一般将兵復員後尚當部隊ニ残留シ恪勤精励克ク有終ノ美ヲ全フセル者ナリ依
 而之ヲ証ス

とあります。敗戦で隊の多くの者が郷里に戻った後も残務整理をボランティアで無償で
お手伝いするわけですから奇特な人の良い方しか出来ない事です。そうした方に感謝
の意を込めて贈られた勤務精励証の残りなのでしょう。