旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_12














Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








二五二空戦闘三〇四飛行隊
   吉田 勝義 海軍飛行兵曹長
    (甲飛六期)の軍帽と飛行マフラー等




涼しい目元ををして凛々しく短剣を吊り士官・准士官一種軍装で寫眞に収まる昭和20
年の5月以降の吉田 勝義 海軍飛行兵曹長です。まだ御存命ですがヤフオクで御本
人の品が売りにだされておりました。兵庫県出身の大正12年生まれです。現在で88
歳または89歳になられておられます。昭和15年4月に甲飛六期で海軍に入隊…予科
練生活を終えて昭和17年7月、飛練21期修了。202空(第三航空隊)に配属されラバ
ウルへ昭和18年1月30日に初陣の出撃。同年3月15日のダーウィン攻撃で初空戦。
昭和19年3月、202空に戦闘301飛行隊が編成され、ここの所属となりトラック防空に
従事し、以降はビアク、西部ニューギニア、グアムを転戦して帰国。筑波空教員を経て
昭和20年1月に館山基地にある252空の戦闘304飛行隊に所属し同年2月、敵機動
部隊関東来襲の歳、千葉県の茂原基地に進出しこの邀撃戦に参加。4月中旬には
九州の国分基地に進出し…沖縄戦による特攻機の直掩任務などにも従事。4月末に
千葉県の茂原基地に戻るも本土決戦に備え隊の戦力を拡充再建つつ消耗を防ぐ為、
福島県郡山基地に逼塞。しかし激しくなる空襲に7月初めに隊は、郡山基地より茂原
基地に前進。8月5日の米英艦載機250機の来襲では、茂原基地からは零戦10機で
迎撃し3機を失い、この時の吉田 飛曹長はTBF攻撃機1機を撃墜して郡山に着陸し
ました。敗戦の日の8月15日に吉田 飛曹長は、米英機動部隊の艦載機の迎撃戦で
英戦闘機のシーファイアを1機撃墜しています。昭和18年の初陣から約2年半を零戦
で大空を駆け抜けて個人の総撃墜スコアーを10機を記録して…短い戦闘機パイロット
の人生を終えました

尚、ヤフオクで出品された三種等の他の軍装品ですが…吉田 飛曹長が上飛曹から准
士官に昇進したのが昭和20年5月1日であり敗戦の約3か月前です。従って青の識別
線のある飛曹長の三種等は、当時使用されたものでなく…戦後に吉田氏が手に入れ
て着用等をされていた可能性が高いと思われます。まあ戦友会やイベントで集まりが
ある時に着られたり被る為の略帽や軍帽を戦後に買われる方は非常に多いので戦後
に合わせて手に入れられたのでしょう。丁度、明らかに戦後の物と判る軍帽が一点、
出品されていたので5〜6千円までなら記名もいれておるようなので入札しましたが…
6千円超えて降りました。肩章もありましたが識別線のある時代は下士官だった方で
すので、こうした理由で他の品には食指が動きませんでした。



吉田 飛曹長が当時使われた軍帽と絹の飛行マフラーが二点です。
敗戦の3か月半前に飛行兵曹長に任官し准士官になられました。
僅か三か月半しか被る機会が無かった軍帽です。庇に経年でひび
割れや内部の汗取りに痛みがありますが本体はきれいな状態です。




絹の飛行マフラーは飛行機乗りの代名詞のようなものです。
私製の物から官給品と謂われるものまで時々見る事があり
ます。収蔵した飛行マフラーが数点ありますが、今回のように
所持者がはっきり判る飛行マフラーは初めてです。この吉田
飛曹長の愛用のマフラーの一点目には、かなり薄れかけてい
ますが…大きく”非理法権天”と記されています。楠木正成公
の軍旗に菊水紋と共に記された事で有名なこの言葉は”非は
理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝
たず”を意味し…先の大東亜戦争では非理法権天と印した幟
や特攻隊員や航空隊員のカポックなどにもこのマフラーのよう
に記載されているのを見かけます。法非理法権天と七生報國
は戦時中に最もよく目にするスローガンだったかもしれません。
他にも所属等が記載されていたのか相当薄れて難読です。


大空のサムライで余りに有名な撃墜王・坂井三郎中尉の写真です。
右は台南空でラバウルでの画像です。人によりマフラーの巻き方も
個性がある事が判ります。多くは高空での寒さ対策であり、いよいよ
切羽詰れば包帯代わりにも三角巾代わりにでも何でも変身する便利
な代物です。


もう一点の飛行マフラーです。これには”明日ありと思ふ心の仇桜
夜半に嵐の吹かぬものかわ”記載があります。これは京都青蓮院の
慈円のもとで得度する前夜に僅か9歳の親鸞上人が詠んだ歌です。
一度、大空に飛び立ち出撃すれば明日の命も知れぬ身の搭乗員に
とって同じ想いに至るのでしょう。これを襟に巻き昭和20年8月15日
、敗戦の日の空でも英軍機一機を撃墜し個人撃墜スコアーの10機
目を記録しました。
この他、日本人らしく金毘羅神社などの朱印があります。


全て御本人です。飛曹長に昇進する前の下士官時代です。(左端は202空時代で愛機の前でポーズを
取る写真。真ん中は昭和20年3月、戦闘304飛行隊の先任下士官時代。右端は202空で同期の甲飛6
期・後藤 庫一 一飛曹(撃墜スコアー:8機)です。
昭和20年3月、沖縄戦開始直前に茂原基地での戦闘304飛行隊の搭乗員
達の集合写真です。飛行隊長の柳沢 八郎 少佐の後ろが吉田 上飛曹(右
下の拡大)です。また二列左から二人目が志賀 正美 飛曹長(敗戦時 少尉
、撃墜スコアー:16機)です。






所謂、記録盤や備忘録と謂われるジェラルミン素材から流用して作ったものです。
記録紙や地図などを挟み単座機の戦闘機搭乗員などは太腿などにゴム紐などで
通して搭乗しながら使えるようにしていました。同様の品を2点、収蔵していますが
このように持ち主がはっきりしている備忘録は初めてで珍しいと思います。


実用機教程に入った頃の写真(九六式艦戦をバックに)



以下は別に所蔵している備忘録(記録盤)です。
所謂、海軍航空隊で使用された記録盤
(備忘録)である。個人装備品なので廃
棄された機体の外板などを利用して様々
な物が作られました。
このように様々なタイプがありました。上記
画像の収集品の物は、膝に置く左の画像
のタイプの物です。下は、搭乗員の実際の
使用例です。


零式艦戦試運転記録紙(複製品)
オリジナルにこだわり、ザラ紙にガリ版
刷りで複製してあります。綴じ紐も専用
紙を使用してあります。5枚1組の品で
す。


昭和19年に結婚されました。 三式初練の前で写る練習生時代 昭和20年5月1日、飛行兵曹長に昇進

昭和20年4月、252空戦闘304飛行隊の先任下士官だった時の
吉田 上飛曹(前列左から三人目)。尚、後列の左から二人目が
志賀 正美 飛曹長(敗戦時、少尉。撃墜記録数:16機)です。


一般に撃墜王とは国により定義が若干異なりますが撃墜スコアーを3機以上とか
5機以上としますが、我国では5機以上とする旨が主流のようです。まあ3機にして
も5機にしても無事に生きて飛んで帰り…尚且つ互いに命を懸けた死闘を大空で
演じる訳ですから生きて帰ること自体が…また生き続けること自体が至難の技の
時代と謂えます。特に日本のように緒戦はともかく中後期では圧倒的に劣勢で米
軍の物量の前では成す術も無く多くの歴戦の搭乗員が命を擦り減らし櫛が欠ける
ように欠けていきました。そして末期には特攻です。この中を生き残り尚且つ、圧
倒的に性能も数も全てに勝る敵機を撃墜して生き残った人々に…いやその途中
で命を失いながらも勇敢に戦った全ての日本陸海軍の航空将兵を賞賛すると共
に改めて国を護る為に矢面に立って戦われた事に感謝の意を表せずにはいられ
ません。便宜上、撃墜王と呼びまた個人の記録として撃墜機数・撃墜スコアーを
掲載しますが、この事が其々の方の優劣を決める訳では決して無いと考えており
ます。そうでなければ整備員や後方支援の基地の人間は、全く戦闘に参加もせず
無能の誹りを免れなくなります。現実には搭乗員が戦闘機で戦闘をする為には、
日夜、機体の整備をする整備兵が居り燃料や機銃の銃弾を運び輸送する人々が
居て初めて活躍できます。パイロットの中には戦闘機搭乗員だけでなく、偵察機
や爆撃機の搭乗員もおりますが、彼等の多くに撃墜スコアーなど存在しません。
時々、撃墜記録だけを抜き出して比べるような本や雑誌、サイトなども存在します
が…如何にナンセンスな事だか理解できます。

こちらの吉田 飛曹長は、撃墜スコアーが10機で勿論、一般的な定義では撃墜王
になります。しかし大空のサムライで有名な坂井 三郎 中尉が64機だから、もっと
凄いだとか、西沢 広義 中尉が150機だ…岩本 徹三 中尉が202機だから一番凄
いという比較や問題でない事は、誰でもお気づきになられる事です。ただ撃墜数
は個人の試験の成績と同じようにあくまで個人記録として残され正当な評価の対
象とされるものです。この為、あえて当サイトでも撃墜スコアーを記載してまた時
にそれだけの戦果を挙げた撃墜王として判りやすく紹介する事が多々ありますの
で改めてここで記載しておきます。







昭和18年4月28日、アフリカ大陸脇の
 マダカスカル島沖にて独潜水艦(U-180)と
  ランデブーしスバス・チャンドラー・ボーズ氏を
   日本に連れ帰った事で有名な伊号第二九潜水艦
    の乗組みであった海兵七十期 磯島 太郎 海軍中尉
              (当時)の貴重な当時の写真アルバム








 少尉時代の磯島 太郎
          元海軍大尉
  前のページで紹介しました高井 太郎 海軍大尉と同期生の海兵70期の磯島 太郎 海軍大尉の少尉・中尉時代に配属され乗艦したイ-29潜の個人アルバムです。高井大尉と同様にこの磯島大尉も昭和16年11月15日の海兵卒業の1ヶ月以内に運命の開戦を迎え…練習艦隊での優雅な世界一周の航海など華やかな想い出を作る事も許されず戦場に送り込まれ日米戦の開戦から終結までをつぶさに経験し生き残られた方です。同期で先に紹介した高井大尉が主に駆逐艦や重巡など水上艦に乗組まれましたが、磯島大尉は、その多感な少尉・中尉の青年士官時代をインド洋作戦で活躍した伊号潜水艦で約一年を過ごされており…その時の貴重な写真がアルバムに残されております。磯島元大尉の軍装品やアルバムなどがヤフオクに出品されたのが本年(平成24年)の6月です。磯島元大尉の地元である岡山県岡山市からの出品でした。海兵出身者で作る”なにわ会”のサイトを拝見すると本年(平成24年) 1月11日段階では入学時の分隊別生存者名簿によると第40分隊で生存が確認されておられたようです。また亡くなられるまでの近年は平成18年10月に認証された岡山県岡山市の精神障碍者の福祉や自立支援を行うNPO法人(特定非営利活動法人) ふりこの会 の代表者として活躍してれておられたようです。尚、磯島元大尉は、岡山県岡山市出身で海兵も岡山一中から進学されております。

 少尉時代の磯島 太郎
          元海軍大尉
アルバムに記載があるように昭和18年8月2日に転任で磯島元大尉が艦を後にします。その約1年後…昭和19年7月26日にフィリッピンのバシー海峡で米潜水艦 Sawfish,(SS-276) の放った3本の魚雷を受けて撃沈させられました。昭和18年12月16日に第四次遣独潜水艦としてシンガポールを出港し翌19年3月11日に仏のロリアン軍港に入港し訪毒を成功させ、同年4月16日に仏を出港し7月14日にシンガポールに帰港し往復を成功させます。貴重なドイツ土産(Me163やMe262のエンジン資料、対空射撃管制用ウルツブルクレーダーにエニグマ暗号機等)を日本に届ける為、海軍航空本部の造兵監督官 巖谷 英一技術中佐をシンガポールで下し、中佐は先に急ぎ零式輸送機で東京へ向かい19日に羽田に到着しました。伊29はすぐにシンガポールを出港し帰国の途に就きましたが…7月26日、フィリッピンのバシー海峡で米潜水艦 Sawfish,(SS-276) の放った3本の魚雷を受けて無念にも撃沈させられました。…昭和17年2月27日に竣工したばかりの伊29潜は、すぐに緒戦のインド洋作戦に投入され主に通商破壊作戦を行いました。そして僅かな期間…インド洋を主戦場として8隻の船舶を撃沈した。殊勲艦でもありました。磯島元大尉は、遣独潜水艦任務に入る前に転任した為、艦と共に運命を共にし戦死する事無く戦後も長生きをされました。まさに人の運命は運不運と謂うか人智の及ばない所で決まるのがよく判ります。
上の写真は二種軍装姿(少尉時代)の磯島氏です。


当初、ペナン島を潜水艦基地として出撃していましたが第八潜水隊の司令部は
ペナン島からサバン島のサバン基地に転進しました。ペナン島では、マラッカ海
峡を抜けてアンダマン海そしてニコバル諸島より西方に抜けるとベンガル湾の
インド洋ですが…スマトラ島の最北端にあるサバン基地からでは、すぐにインド
洋へ出られます。この島のサバン飛行場にはインド洋作戦時に美幌空の陸攻隊
も進出してきました。緒戦から大戦中期・期に至る重要拠点の一つでした。
右は旧潜水艦基地のあったペナン島の航空写真。左はサバン基地での記念写真


巡潜乙型のシルエットです。下は実物のイ-29の生写真ですが航空機から
見ても誤爆されないように味方識別の線を前後にしっかり入れているのが
判ります。
水上航行する伊号第二十九潜水艦の勇姿です。上のアルバムのタイトルに磯島元大尉
が記載されていた”印度洋征戦記念 伊号二十九潜水艦(不朽艦)ニテ”とありましたが
当時、艦内では艦内誌”不朽”このネーミングはイ-29の29(フキュー=不朽)から取った
もので乗組員の多くが自分の艦を愛称のように不朽艦と呼んでいたようです。
ペナン基地へ向けて航行するイ-29。所謂、巡潜乙型(イ-15潜型)と呼ばれこの型の
潜水艦が帝國海軍で最も多く量産されたシリーズで20隻を数えます。そして多くが大
戦中に沈められ最後まで生き残ったのはシリーズの中でイ-36だけでありました。しか
しこの型は潜水艦運用の失敗で酷評される日本の潜水艦の中でも多くの華々しい戦
績を挙げたシリーズでありました。米本土砲撃を行ったイ-17に同じく米本土砲撃を行
い米軽巡”ジュノー”を撃沈し米空母”サラトガ”を大破させたイ-26。搭載機で米本土
空爆を敢行し米本土砲撃もたイ-25。そしてイ-19は米空母”ワスプ”を撃沈し米戦艦”
ノースカロライナ”を大破せしめました。また遣独潜水艦は、このイ-29の他に巡潜乙型
から3隻(イ-29、イ-30、イ-34)が選ばれています。この型がそれだけ信頼性が高い
潜水艦だった事の証と思われます。この型で帝國海軍で最も撃沈トン数TOPを誇り…
インド洋の真珠と謂われたモルディブ沖で昭和19年2月12日に英国海軍と壮烈な死闘
の末撃沈した伊号27潜水艦(艦長 福村 利明 少将)は、実に15隻(97.831t)を海底に
屠りました。撃沈数では、昭和19年7月4日にサイパン島近海で撃沈された巡潜甲型の
伊10潜水艦(艦長:中島 清次 海軍大佐) の16隻に及ばなかったものの総トン数では
見事に首位を独走しました。そしてその最後の死闘も凄まじいものでした。昭和19年2
月12日にモルディブ諸島南西沖で英国輸送船団を発見し雷撃攻撃を行い英国商船”
ケダイブ・イスメール”を撃沈します。しかしすぐに護衛の英駆逐艦”パラディン”と”ペタ
ード”の2隻による対潜攻撃を受けます。爆雷開始から約一時間半後に攻撃によりイ-
27は潜水継続が困難と判断されると緊急浮上し、すぐに水上航行し最も間近に存在し
た英駆逐艦”パラディン”に捨て身の体当たり攻撃を敢行し同艦を損傷させます。尚も
果敢に砲戦で攻撃するも傷つき浮上した潜水艦は簡単に駆逐艦の魚雷攻撃を避ける
事が出来ず艦長福村 利明 海軍少将(死後二階級特進)以下総員104名が壮烈な
戦死を遂げました。話が脱線しましたがこの巡潜乙型は末期には回天を搭載し出撃し
ました。
このイ-29は第十四潜水隊旗艦である為、潜水隊司令が乗組まない時の定員は94名
(士官12名、下士官兵82名)です。昭和17年7月のMI作戦以降の編成でイ-29は、正
式な所属としては第六艦隊第八潜水戦隊の第十四潜水隊(イ-27、イ-28、イ-29)とな
ります。この時の第十四潜水隊司令は寺岡正雄 海軍大佐(海兵46期)です。その後、
この昭和19年6月のマリアナ沖海戦の前の編成では潜水隊の編成そのものがなくなり
第八潜水戦隊の下にイ-8、イ-26、イ-27、イ-29、イ-37、イ-52、イ-165、イ-166、
ロ-501の各潜水艦がそのまま配されました。尚、第八潜水戦隊司令は昭和17年3月10
日〜18年8月18日までが石崎 昇 海軍少将(海兵42期)、18年8月18日から19年8月5
日までが市岡 壽 海軍少将(海兵42期)、昭和20年2月20日の解隊までが魚住 治策
海軍少将(海兵42期)が勤められました(尚、19年6月20日に市岡少将は第十五根拠地
隊司令官に兼務。続く魚住閣下も15根の司令官を兼任されており、第八潜水戦隊の解
隊後は第十五根拠地隊司令官を単独で敗戦まで勤められました。


     ≪ 巡潜乙型 性能諸元 ≫


排 水 量 基準:2,198トン(常備:2,584トン)
       水中:3,654トン

 全 長  108.7m

 全 幅  9.30m

 吃 水  5.14m

 機 関  艦本式2号10型ディーゼル2基2軸
      水上:12,400馬力
      水中:2,000馬力

 速 力  水上:23.6kt
      水中:8.0kt

航続距離 水上:16ktで14,000海里
       水中:3ktで96海里

 燃 料  重油:774トン

 乗 員  94名(イ-29の場合、潜水隊司令
      同乗艦である場合、司令及び司令
      部要員が20名加わり 114名にな
      る)

 兵 装  40口径14cm単装砲1門
      25mm機銃2連装1基2挺
      53cm魚雷発射管 艦首6門
      九五式魚雷17本

航 空 機 零式小型水上偵察機1機
      (呉式1号4型射出機1基)

 備 考  安全潜航深度:100m



左はペナン島の市街地、右はペンヒルです。共に小型機からの撮影で翼端が写っているのが
判ります。イ-29に搭載された零式小型水上偵察機から撮影されたものかもと思います。


はじめはぺナン基地にボーズ氏を連れてくる予定でありましたが、既に
噂が広まっていた為、防諜上余りにも拙いと謂う事でサバン基地へ連
れて行くと事としたようです。
昭和18年5月8日、チャンドラー・ボースとハッサンを迎えたサバン基地での
総員集合写真です。拡大したイ-29の艦橋で背広に帽子の男性がSCボー
ズ氏で右隣が第八潜水戦隊第十四潜水隊司令の寺岡 正雄 海軍大佐、次
に艦長の伊豆 寿一 海軍中佐、その左は秘書のハッサンが写っているのが
判ります。その後ろの第二列には千田 牟婁太郎 ラングーン司政長官、光機
関(初代)機関長 山本 敏 陸軍大佐、ボーズ氏の専属連絡員を勤めた根岸
忠素 光機関員が並んでいます。


遥々、ドイツからSCボーズ氏を日本側に引き渡すためにやってきた。Type IX-D1の高
速タイプのU-Boatです。艦長のWerner Musenberg(ウェルナー・ミューゼンベルク)独
海軍少佐以下63名のクルーが乗組みしておりました。
昭和18年5月8日、ゴムボートで上半身裸で来艦したドイツ海軍将校と写る
潜水隊司令の寺岡 正雄 海軍大佐、次に艦長の伊豆 寿一 海軍中佐。
よく見ると寺岡大佐の胸の双眼鏡には司令の文字が伊豆中佐の胸の
双眼鏡には艦長そして伊豆寿の名前が記載されているのが読めます。




日本側の用意したゴムボートでロープで引き寄せられるように
Uボートからイ-29に移乗する3名が見えます。傍目にも波が
荒いのがよく判ります。伊号に比べ小さなUボートは艦橋下ま
で波を被り、手前のイ-29の周りには波が作った水泡や気泡
が強く残っているのが判ります。日独潜水艦がランデブーして
から波高とうねりが収まるまで発見の危険を冒しても往来がし
易い海況になるのを待ったのがよく判ります。








このゴムボートの往来の輸送作業中、5mクラスの大型のサメに取り囲まれ威嚇のために
伊-29に搭載の小銃を発射して追い払うなど難渋したようです。何しろドイツ側に提供した
魚雷の運搬は人力とゴムボートでの移送だから難渋を極めたようです。まあよくイ-29から
下してUボートの中に積み込んだものだと感心します。


ゴムボートに乗降や搬入搬出がし易いように艦尾側を少し沈めているのが判ります。


もっとも困難だった魚雷をイ-29からU-180へ移送作業中の写真です。


Uボートが如何に小さい艦かが判る写真です。ゴムボートと人の大きさを対比しても
伊号潜水艦に比べ相当に小さい潜水艦である事が見て取れます。まあよくこんな小
さな潜水艦でボルドー基地から遥々喜望峰を回りインド洋まで来るとは驚きます。ま
たU180潜はここに来るまでに1隻の商船を撃沈したうえに帰りの途中でも1隻を撃
沈する大胆でかつ攻撃精神旺盛なまさに海狼と恐れられたUボートらしさを、この艦
に移乗した友永海軍技術少佐等に見せつけて同年7月3日、ボルドーへ無事帰還を
果たしています。この友永中佐(訪独中に昇進)は昭和20年3月24日、帰国の為…
独U-234でキールを出港…途中の同年5月7日、ドイツの敗戦により同乗して帰国
予定だった庄司 元三 海軍技術中佐と5月11日までに機密図面を海没処分し翌12
日の早朝に睡眠薬による服毒自殺して果てます。遺書に従い二人の遺体は水葬に
されました。
帽を振り送り出すイー29の乗組員にゴムボートから帽を振り返礼している
方が…ボーズ氏の代りにU-180に乗組みドイツへ向かった友永 海軍技
術少佐です。


はるばるドイツから日本側へSCボーズを渡航させる為、アフリカの喜望峰を回りインド
洋のマダガスカル島東方の沖合まで現れたドイツ海軍の潜水艦 U-180です。昭和18
年4月23日のその日は、天候は曇り空で風速10mで波高5mと人員と物資の輸送を潜
水艦同士で行うには厳しい海況の為、作業を現実に開始できたのは4日後の4月27日
でありました。この間、ゴムボートでドイツ士官が訪問したりドイツの通信兵が艦に留ま
り人気者になるなど交流があった模様です。そして27日午前中から始った物資の移動
作業も終わり、SCボーズとハッサンがUボートからイ-29に大きなトランクを5〜6個と
共に乗り込み、最後に江見 哲四郎 海軍中佐と友永 英夫 海軍技術少佐がU-180へ
移乗し全てを終えたのが20:30でした。(この写真は4月27日、別れの日の撮影のもの
です。


U-180 艦長のWerner Musenberg(ウェルナー・ミューゼンベルク)
独海軍少佐とSCボーズ氏です。艦長は戦後も存命で1976年1月
にベルリンで71歳で亡くなられております。彼はSCボーズ氏と入れ
替えでドイツへ行く為に乗り込んだ江見 海軍中佐と友永 海軍技術
少佐から日本語と独語の手紙を添えられて記念の軍刀を贈られて
感激したと伝えられています(左下)。
真ん中は、ありし日の友永 技術少佐、右上は帰りのU-234の中で
友永中佐(死後、大佐に特進)と共に自決した庄司 元三 海軍技術
中佐(自決後、大佐に特進)です。彼等もまた振り返られる事の無い
無名戦士ですが…国の為、民族同胞の為に命がけで深海の使者と
して欧州へ赴き…そしてドイツから帰国の途上…ドイツ潜水艦の中
で目的を果たせず米軍に捕えられるを潔しとせず見事に自決して果
てた英雄であり軍神と謂えます。その最後は特攻隊の英霊達と何等
遜色なく日本男児の帝國軍人のあるべき姿を示したと謂ってよいで
しょう。
右上は、ドイツで向かう途中、U-180で独乗組員と寛ぐ友永技術少佐です。
下のバナーをクリックするとU-Boatを紹介しているサイト(海外)が開きます。
                       ↓


左側の画像もドイツ側がU-180でのマダカスカルへの航行中に撮影した
SCボーズ氏の写真です。また右側の画像は、U-ボートが魚雷を搭載し
ている写真です。画像はU-180のものではありませんが、独側から何度
も強く要求したされていた酸素魚雷の技術提供は、最高機密の為…これ
まで日本側から提供される事はありませんでしたが…このランデブーでは、
友永 技術少佐が開発した自動懸吊装置と重油曳漏防止装置と共に九三
式酸素魚雷も1本が独側に贈られる為に積み込まれました。これのイ-29
からU-180への移動作業は難渋したようです。


こうしてドイツ側から日本側に引き渡された物資(小型潜水艦設計図や対戦車砲用特殊
砲弾に抗マラリア薬のキニーネが約2tなど)が無事にイ-29に、日本側から逆に九三式
酸素魚雷や潜水艦自働懸吊装置技術に重油遺漏防止装置図面・要領書や特殊潜行艇
(甲標的乙型)に中型潜水艦の図面・計画図と金塊約2tが送られました。


艦首の周りも白い波しぶきが上がり波高が高いのが
伺えます。インド洋ではインド洋の真珠と呼ばれた美
しいモルディブ諸島とスリランカでダイビングをしまし
たが環礁等の内海は波も穏やかで美しいだけのイメ
ージがありますが、外海に出ると何処の海も同じです
が波も荒く大変な作業だった事が想像つきます。
全ての作業を終えて『両舷前進原速。総員帽振れ』の号令が下り…離れゆくU-180に
別れを惜しみ帽を振る乗組員達。Uボートから移ったばかりで作業着姿のSCボーズと
ハッサンの姿があります。そして二人の前で双眼鏡を下げて指示を出しているのが寺
岡大佐です。
寺岡大佐の後ろで笑みを見せるSCボーズ…25mm機銃2連装機銃の砲身が空を見上げています。
笑顔で帽を振るイ-29の将兵達…数少ない同盟国同士の束の間も会合の終わりの時です。
これ等の一連の写真は、ボーズ氏のライカで撮影したフィルムを艦内で現像し乗組みの
士官全員に配ったものです。昭和18年5月に撮影されたこれらの一連の写真…今から
69年前のものになります。このセピア色の写真の中にそれぞれの祖国の命運を掛けて
行動し生き戦った人の姿が浮かび上がります。けして日教組の反日クズ教師が教えな
い本当の日本人の姿が…そして日本の呼びかけに答えたインド独立の夢を掛けたイン
ド青年の姿を垣間見る事が出来ます。


左上は司令と談笑し笑顔を見せるSCボーズ氏。右上は艦が水上走行を開始して
から撮影したSCボーズ氏と秘書のハッサン氏にイ-29の艦橋に居た下士官・士
官など乗組員の一部との記念撮影写真と思われます。
いい笑顔を見せてくれています。現在のように支那に脅され南北朝鮮に集られ
自らの意志で何かを成す事が出来ない国に敗戦後は成り下がりました。しかし
まだこの時代はインド独立や欧米列強の植民地支配からの脱却と謂う壮大な
夢を実行に移し…やり遂げようとする日本と日本人がおりました。敗戦で頓挫し
その計画も日本が育て撒いた種が程なくして育ち開花し…戦後間もなく多くの
東南アジア諸国が欧米列強の植民地支配から独立しました。その証を切り取
った写真とアルバムだとも謂えると思います。


とても小さなU-180です。全長は約77mで排水量が1200トン余りで乗組員44名と
排水量も人員もイ-29の半分です。よく遠路はるばる来たものです。


ガンジー指導の反英非協力運動に身を投じた若き日のSCボーズはドイツに亡命後
潜水艦で日本に渡ります。その後のボーズ氏は東京でインド独立連盟総裁とインド
国民軍最高司令官に就任。そしてシンガポールで自由インド仮政府首班に就任しま
す。
昭和18年11月5〜6日、大東亜会議にオブザーバーとして参加したボーズ氏(右端)と
亜細亜解放に協力した各国首脳(左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、
ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル)達です。その後、彼の率いたインド国民軍はビ
ルマのラングーンに本拠を移し昭和19年、インパール作戦に参加します。そして敗戦
までビルマを中心に英軍と戦いますが日本の敗戦を迎え…日本の敗戦で英国から
インド独立を勝ち取ることが不可能となったボース氏は、旧ソ連の協力を得ようとして
日本軍の軍部高官に協力を要請し東京経由でソ連へ渡航を計画します。その途中、
昭和20年8月18日に台湾の松山飛行場で搭乗した九七式重爆撃機が離陸に失敗し
事故により死去します。まだ48歳の若さでした。チャンドラ・ボース氏の臨終の言葉は
”インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ”であったと言われています。ボース
氏の遺体は台北市営火葬場で荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が営まれ
ました。ボース氏の遺骨はその後日本に運ばれ、東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺で眠
っています。(右下の画像は、杉並区の蓮光寺にあるボースの碑です。)



以下は昭和17年10月から18年8月に至るペナン基地を中心に
       活躍した伊号29潜水艦と将兵達や基地内外での珍しい写真

昭和17年の緒戦の戦いではペナン島の潜水艦基地を中心としてイ-29はインド洋で
通商破壊作戦に従事し8隻の敵商船を沈めています。そのうちの一隻を捉えた写真
のようです。単独航行中の敵輸送船のようで護衛の艦船もない事を確認した上でし
ょうか大胆にも浮上して撮影された写真のようです。既に船尾側から水没しはじめて
いるのが判ります(上の写真)。この下の写真は更に水没し蒸気爆発でも起こしたの
か上の写真よりも激しく噴煙を上げています。記録によると通商破壊戦で沈めた8隻
のうち2隻は雷撃だけで中々沈まず浮上後に備砲の14p砲の砲撃で仕留めて撃沈
させています。それらの8隻のいずれかと思われます。
この写真では生存者の救命筏やボートなどが見当たりませんが、この敵輸送船の
船員は無事に脱出する事が出来たのでしょうか?…大戦中期から敗戦に至るまで
は太平洋の全海域は日本の船の墓場と謂っていよい程…たくさんの艦船が敵の航
空機や潜水艦によって沈められ乗船していた陸海の将兵と一緒に徴用された多くの
船員達も多大な犠牲を払い亡くなられました。 軍艦を除く商船や漁船に機帆船の
大戦中の撃沈数は7240隻に上ります。亡くなった民間船員の数は約6万名、亡くな
った民間人の数は5万9千名に上ります。そして沈められた輸送船と運命を共にした
将兵は10万名以上にのぼります。…この沈みゆく恐らく英国商船の姿が…悲愴をを
極めた日本輸送船団の末路を重ねて見てしまうのは私だけでは無いと思います。
更に激しく傾斜して船の三分の二が沈み船首部分の三分の一が海面に突き出て今
まさに全てが水没せんとする写真です。
船の上部構造の一部を残してほぼ全体が沈んだ状態です。海面にはいまだに
二か所から噴煙が上がっており、生々しい戦いの現実を垣間見る想いがします。


こちらは上の撃沈の写真とは違う船の雷撃後の撃沈写真のようです。


こちらも撃沈された船を撮影した写真です。


イ-29の艦尾側の40口径14cm単装砲の実際に敵商船への砲撃時の写真です。
砲撃で沈めようとした相手が武装商船で機関砲や砲で応戦され危うく急速潜航で
逃げ切るような事態や敵潜水艦から雷撃を受けたりしたようです。潜望鏡で確認
しただけでは輸送船や商船が武装しているとは判別しにくいものです。我国でも
仮装巡洋艦や短20p砲や高射砲を搭載した輸送船は普通に存在していましたの
で潜水艦の場合、舐めて掛かると命取りになりかねませんね。
14p砲ともなれば御覧のようにかなり大きな砲になります。後部で砲弾を運び詰め込む、そして
次弾を担いでいる人を入れて4名が立っています。照準眼鏡を一名が覗いています。右下の写真
を見ると大きな水密ハッチが見えています。


赤道祭です。まだまだ日本軍が優勢だった頃で哨戒しながらの記念撮影ですが
乗組みの将兵達の顔からもまだまだ余裕を感じさせます。
潜水艦の天敵は水上艦だけでなく航空機です。一に哨戒、二に哨戒で警戒を怠りません。


赤道祭です。勝田 大佐と艦長の伊豆 中佐が中央に座り記念撮影しています。
こうした行事も緒戦の頃だけで連合軍の哨戒が厳しくなり制空権も制海権も完
全に連合軍側に奪われてからは行う余裕すらなくなりました。因みに勝田 大佐
とは寺岡 大佐の前任の第十四潜水隊司令 勝田 治夫 海軍大佐です。従って
この赤道祭はSCボーズを出迎えた時の赤道祭でなく以前の写真である事が
判ります。尚、勝田大佐の任期は昭和17年2月24日から18年3月1日までです。
イ-29は、昭和17年2月27日に竣工し、4月15日にMI作戦で第8潜水戦隊の
東方(乙)先遣支隊として呉を出港。トラックを経由してポートモレスビー作戦
の協力でガ島南方海域に進出。5月にはシドニー沖合。6月にはブリスベーン
沖合で交通破壊戦を行いヌーメア海域に抜けて6月25日にクェゼリン環礁に
至ります。7月にクェゼリンから横須賀、そして8月5日にペナン島に到着。同月
8日にペナン発で印度洋通商破壊作戦を開始、9月2日に英国商船”Gazcon”
4224を雷撃で撃沈。続いて9月10日に英国商船”Haresfield” 5.299tを雷撃
で仕留めます。また同月16日に3隻目となる英国商船”Ocean Honour” 7.1
44tを雷撃で沈まなかったので浮上して砲撃で仕留めています。そしてすぐに
4隻目が同月23日に米国商船”Poul Luckenbach” 6.606tを雷撃で沈めて10
2日にペナン島に帰島し第一回印度洋交通破壊作戦を終了させました。その後
10月4日にイ-29は、ペナンからシンガポール
入りし整備を受けて10月23日に
ぺナン基地に帰着。休養の後、11月11日から第二回の印度洋通商破壊作戦
を開始するべくペナンを出港。早速、11月23日に英国商船”Tilawa”1万tを雷
撃で仕留め撃沈。12月3日にノルウェーの油槽船”Belita” 6.323tは雷撃で中
々沈まず、浮上して砲撃で撃沈し、昭和18年1月4日にペナンに帰港して第二
回印度洋通商破壊作戦を終えています。そして同月26日に再びシンガポール
で整備を行い、2月7日にペナンに帰港します。2月14日にインド洋のベンガル
湾方面へ進出し通商破壊戦を目的に出港しますが第十四潜水隊司令の勝田
大佐が寺岡 大佐に交代の為、3月7日にペナンに帰港。その後、4月5日から
5月9日までペナンから出撃の特殊任務をこなし、5月13日シンガポールで定
期整備を行い29日ペナンに帰投。6月8日ペナンを出港し、インド洋のアデン湾
方面で第三回目の通商破壊戦の任に就きました。そして6月20日、米国商船”
Henry Knox” 7.176tを雷撃で仕留め撃沈させ、7月12日、英国商船”
Rahmani” 5.463tを雷撃で撃沈後、8月2日にペナンに帰港し第三回印度通商
破壊作戦を終えます。この三回にわたる通商破壊戦で実に8隻を沈めた事でも
このイ-29が素晴らしい殊勲艦である事が良く判ります。

イ-29の班長以上の記念撮影写真です。伊豆 艦長と勝田 大佐
…その間に見える顔は、磯島 中尉です。




昭和17年11月5日、艦の上で撮影された航海科の記念写真です。椅子に座る
左がこのアルバムの所持者だった磯島 元大尉(少尉時代)です。右が航海長
の石川 大尉。後ろ右から村上 信号長、福西 掌帆長、鷹 一等水兵。


左上の二枚は航海長の石川 大尉、続いては磯崎 中尉の海兵コレスの寺田 栄 海軍中尉です。
この方は伊号27潜の砲術長で後に印度洋で戦死され少佐になられています。イ-27は、先に書き
ましたが例の昭和19年2月12日にモルディブ諸島南西沖で英国輸送船団を発見し雷撃攻撃を行い
英国商船”ケダイブ・イスメール”を撃沈します。しかしすぐに護衛の英駆逐艦”パラディン”と”ペタ
ード”の2隻による対潜攻撃を受けます。爆雷開始から約一時間半後に攻撃によりイ-27は潜水継
続が困難と判断されると緊急浮上し、すぐに水上航行し最も間近に存在した英駆逐艦”パラディン”
に捨て身の体当たり攻撃を敢行し同艦を損傷させます。尚も果敢に砲戦で攻撃するも傷つき浮上
した潜水艦は簡単に駆逐艦の魚雷攻撃を避ける事が出来ず艦長福村 利明 海軍少将(死後二階
級特進)以下総員104名が壮烈な戦死を遂げました。この時の砲術長が寺田 栄 海軍大尉(戦死
後、海軍少佐)です。尚、確証はありませんが、一番最初の石川 大尉は、海兵68期で金沢一中出
身の石川 誠三 少佐ではないかと考えております。もしそうであれば第31特別根拠地隊(司令官
岩淵 三次海軍少将(兵43))の所属でマニラの市街戦で戦死されておられます。


二種軍装の磯島氏です。少尉時代のようです。(昭和18年4月3日)

艦長と一緒に記念撮影後列ど真ん中に磯島少尉です。(昭和18年4月3日)
この写真の2カ月後に昭和18年6月に中尉に昇進したものと思われます。


ペナン基地で相撲で一汗でしょうか。海抜830mのペナンヒルに
は潜水艦要員の為の高原宿舎があり休養所として盛況でした。

昭和18年6月3日とあり、そろそろ中尉に昇進した頃と思われます。
士官と謂っても20代前半の遊びたい盛りの若者です。笑顔が可愛いですね。
写真のキャプチャーに艦上にてとありますのでイ-29の上での写真です。
右は17年11月2日、ペナン・スイミング・クラブにてとあります。
ペナン島のビーチ
ペナン島の海岸で休日の様子です。下は現在のペナン島の海岸です。




ペナン植物園の猿たちです。左が戦時中の磯島氏の撮影した
写真です。右のは最近の写真です。
ペナン植物園です。…最前線の潜水艦基地ですが非常に
恵まれた環境と施設だったようです。流石は大英帝国の植民地です。
特にペナン島はマレーシアで初めての避暑地として戦前より充実した
設備を誇っていたので…同じ占領地域でも此処に駐留する事になった
将兵は大いに喜んだようです。
下は現在の植物園の正面ゲートです。


暫くインド洋に居れば御覧のように真っ黒です。現地人もビックリの黒さです。


昭和18年3月10日、ペナン基地での運動会で第一分隊の優勝記念撮影
磯島 中尉は優勝旗の前に陣取って写っております。
日本海軍のペナン島にあるペナン潜水艦基地です。奥に1800年代に
南インド人のインド商人が建設したカピタン・クリン・モスクのミナレット
(塔)が見えています。このモスクと塔は今も健在で観光名所の一つに
なっています。(右上の写真)


昭和17年11月7日…ペナン島前線基地にて総員記念撮影です。
昭和18年8月2日付で磯島 中尉は転任します。しかし移動しなかったこの写真に
写る多くの将兵は、この写真の撮影された約一年後の昭和18年12月16日に第
四次遣独潜水艦としてシンガポールを出港し翌年3月11日に南仏の独潜水艦基
地の”ロリアン”に入港。昭和19年4月16日にロリアンを出航し7月14日にシンガ
ポールに無事に入港したが、シンガポールから帰国の途中の7月26日にフィリッ
ピンのバシ―海峡付近で米潜水艦”ソーフィッシュ”の3本の雷撃を受けて撃沈さ
せられます。此処に写る多くの将兵が約1年9カ月後に艦と運命を共にしました。
昭和17年2月末に竣工しすぐに目覚ましい戦果を挙げた殊勲艦でSCボーズ氏を
迎え…第四次遣独潜水艦の任務も無事に往復を済ませた伊号29潜水艦でした
が竣工より僅かに2年半でその短い艦歴を閉じました。


昭和17年11月7日…士官室 於:ペナン基地






当時も今も変わらずイスラム教徒に華僑と…下の少女達のように現地の人に
英国人の血が入った人まで…多国籍なペナン市街と人々の様子です。


左上は笑顔で寛ぐ分隊士です。標高833mにありマレーシア初の避暑地です。
今もロープウェイで登るペナンヒルにある休養所では、非常に過ごし易く評判が
良かったようで…最盛期にはドイツのU-ボートが10隻余りこのペナン基地を
利用し補給と休養を行い日独の潜水艦乗りが出撃した地です。
このペナンヒルのケーブルカーは1906年から工事が始まり完成し開業したのは1923
年と謂うから古く歴史あるケーブルカーと謂えます。戦後は最近まで以下のようなケー
ブルカーが往復していましたが…更に近未来的なケーブルカーに生れ変ったようです。

標高833mのペナンヒルからは対岸のマレーシア
の本土と謂うか半島がきれいに望める。




接収した施設をベースに作られたペナン基地の運動場です。






ぺナン基地での運動会の写真です。




前線基地ですが在留邦人も多く結構大掛かりな運動会で驚きます。


昭和18年2月10日の運動会。左上は餅食競争で右上はパン食競争




昭和18年5月25日、昭南丸善と裏書きあります。ペナン基地から出撃し戻ると
シンガポール(昭南市)へ定期点検のドック入りの為、必ず訪れます。この時の
息抜きの記念写真と思われます。生死を掛けて生還しての息抜きだから遊ぶ
のも真剣でしょうし…実に楽しそうですね。


一部の写真を除き多くがこの昭南写真館で現像しています。


ペナン基地での慰問団の演芸の数々です。


蔦屋とあります。芸妓の置屋なのか茶屋や料亭で遊郭を兼ねていたのか当時なので
勿論、何もない訳も無いので玄人の水商売の方達とお見受けします。









第三十期操縦練習生記念の卒業名簿から




30期操練の卒業名簿です。海兵出の士官や予科練出の下士官と
違い操練は一般の下士官兵からのものでバックボーンの組織だっ
た団体が無い為…全体像を把握するのが困難な制度です。この
30期操練は、昭和10年5月に41名が入隊。昭和10年11月に卒
業をしています。この段階で初めて操縦徽章が付与されて航空科
に転科(元の兵科より)し霞ヶ浦航空隊から各航空隊での実用機
教程の延長教育がなされます。
30期は艦上機の操縦者41名ですが…途中、別に戦闘機以外の中攻や銀河などの
陸上機へ移行活躍した方も見受けます。残念な事にこの名簿では教官二名と所持
者だった方と思われる方の顔写真以外は殆どが剥がされています。また41名中33
名分の名簿しかありません。ただ下にも掲載しましたが…既出の資料によると30期
で公表されている名前が約16名ですので…こうした名簿を手に入れる事で少しずつ
埋まっていない名簿を埋めていく地道な作業が必要なようです。


最初のページと最後のページです。最初の方は教官の寫眞が4枚貼られていた
ようですが2枚が剥がされています。また左下のページで一枚だけ写真が剥がさ
れず残っていたのでこの名簿の所持者の可能性もあると考えられます。この他は
名簿から顔写真が全て剥がされています。右下は市中で公表されている30期操
練の該当者名簿です。×は戦死時期を、△は訓練中の事故等で殉職した時期で
す。
以下、名簿の中から種遅くの判る方をピックアップしました。


30期操練の中で最も最高位の階級に上った方で公式撃墜スコアー15機と
撃墜王としても名高い 南 義美 海軍大尉です。大正4年、香川県の生まれ
で昭和8年に海軍を志願し昭和10年に30期操練で航空兵になります。大村
空をから昭和12年7月に13空に配属され、後に12空へ転属になります。
上海でデビューし同年9月20日の第三次南京空襲から南昌・漢口上空戦で
は9機を撃墜しエースの仲間入りを果たします。語り草となる昭和13年5月31
日の漢口攻撃では12空の吉富中隊の9機の九六式艦戦が敵50機の大編隊
と空戦に入り、南三空曹(当時)は大乱戦の中で1機を撃墜するも燃料タンク
に被弾し敵12機余りに単機で包囲され機銃の残弾も失い…いよいよ最後と
敵機に体当たり攻撃を敢行し左翼を切断しながら帰還するべく飛行し揚子江
のほとりに不時着。愛機を焼却処分中に味方の捜索機に運良く発見され、哨
戒艇が救助に急行し生還を果たし第二の樫村と謂われた撃墜王です。同年
9月に帰国。以来、佐伯空、大分空、空母”飛龍”、”瑞鳳”と転属し昭和16年
10月の日米戦の開戦前に空母”翔鶴”に転属し以来、真珠湾攻撃、インド洋
作戦、珊瑚海海戦を戦い昭和17年6月に大村空に転属します。昭和19年2月
に601空に移動となり空母”大鳳”の乗組となり、同年6月19日のマリアナ沖
海戦に参加した 南 飛曹長(当時)は米機動部隊との死闘を生き残り生還す
るも母艦の”大鳳”の撃沈の際に負傷する。帰国後は653空に転じて空母"
千代田"に乗組、同年10月24・25日の比島沖海戦にも参加し出撃する。この
戦闘では南 少尉は、母艦上空直衛任務にあたり敵機4機を撃墜するも海面
に着水後に軽巡"大淀"に救助されます。この後、残存艦載機や搭乗員はル
ソン島に分散して退避したが653空の組織的戦闘行動は終息しました。そし
て201空戦闘302飛行隊に転属になった南 少尉は、同年11月25日に第三
神風特攻隊 笠置隊の直掩機としてルソン島エチアゲ基地を比島東方海上の
米機動艦隊に向けて出撃…日中戦争を戦い…ミッドウェイを除く全ての空母
による大海戦を生き残った撃墜王は二度と戻る事はありませんでした。特攻
戦死者として扱われ全軍に布告され二階級特進し海軍大尉に昇進しました。
(以下は、神風特攻隊 笠置隊の特攻戦死者です。)

 昭和19年11月25日

   第三神風特別攻撃隊 笠置隊 (聯合艦隊告示88号)

(特攻機:零戦)

・高井 威衛 上飛曹  (広島・甲飛10期)  201空

・藤本 英敏 二飛曹  (長崎・丙飛14期)  2211空戦闘304飛行隊


(直掩機:零戦)

・鮎川 幸男 中  尉   (鹿児島・海兵71期) 221空戦闘315飛行隊

南  義美 少  尉    (香川・操練30期)  201空戦闘302飛行隊





こちらの松本 秀頼 海軍少尉は
零戦乗りの戦闘機パイロットで
有名な藤田 怡与蔵 大尉の指揮
下で空母”飛鷹”の艦載機で昭和
17年10月からラバウルに進出し
当時、飛曹長時代でしたが同年
12月までソロモン航空撃滅戦を
戦います。そして母艦の修理が終
了するとトラックに引き揚げて飛行
隊の再建を図りますが、昭和18年
2月から4月まで再び飛行隊のみ
ラバウルに進出しました。そして
い号作戦でオロ湾やミルン湾の
攻撃等に参加しています。戦後を
無事に生き残られたようです。



高橋 宗三郎 一飛曹です。真珠湾
攻撃の時に空母”蒼龍”乗組みで第
二次攻撃隊の第三集団の制空隊(
進藤 三郎 大尉指揮)の零戦35機に
おりました。正確には第三制空隊 蒼
龍制空隊(隊長・飯田 房太 大尉)の
第三中隊第二小隊(藤田 怡與蔵 中
尉)の二番機として活躍したまでがわ
かっています。そしてミッドウェィ作戦
も生き延びて戦死されたのは昭和19
年11月18日となっていおりますが、詳
細は不明です。戦死時期ではおそらく
飛曹長か少尉だったと思われます。


荻原 二男 一飛曹です。この方も真
珠湾攻撃時に第一次攻撃隊の第三
集団制空隊(板谷 茂 少佐指揮)の
46機の零戦の一機でした。空母”加
賀”乗組みで第二制空隊(隊長・志賀
淑雄 大尉)の第一中隊第二小隊(
坂井 知行 中尉)の二番機を勤めてお
ります。その後の詳細は判りませんが
昭和17年8月30日が戦死された日で
ある事が判明しています。ミッドウェィ
海戦を生き延びて…その約2か月後に
戦死されたことになります。


井上 善弘 飛曹長は、銀河で
昭和20年3月19日、九州の出
水基地より九州東方の敵機動
部隊攻撃に出撃した神風特別
攻撃隊 菊水部隊 銀河隊の
一員として特攻で戦死されて
おります。但し、井上飛曹長の
操縦する銀河のみ攻撃406飛
行隊で無く一機のみ攻撃501
飛行隊からの出撃となった為
井上飛曹長機のみ単機で鹿屋
基地からの出撃となっておりま
す。

 昭和20年3月19日

   神風特別攻撃隊 菊水部隊 銀河隊 (聯合艦隊告示135号)


 (特攻機:銀河)

 操縦  金指  勲  大 尉  (静岡・海兵71期)     攻撃406飛行隊
 偵察  河野  通 上飛曹  (宮崎・甲飛10期)
 電信  馬渕 哲男 上飛曹  (京都・甲飛9期)

 操縦 泉   常良  飛 長   (大阪・乙飛特2期)   攻撃406飛行隊
 偵察 川口  實  上飛曹  (長崎・甲飛10期)
 電信 廣澤 文夫 二飛曹  (長野・甲飛12期)

 操縦 宮本  三龍 二飛曹  (福岡・丙飛15期)   攻撃406飛行隊
 偵察 鎌倉  基茂  少 尉  (高知・予学13期)
 電信 高橋   要   飛 長  (大分・電練66期)
  
 操縦 平田  寛  飛 長  (福岡・乙飛特2期)   攻撃406飛行隊
 偵察 緒方 春雄 一飛曹  (熊本・乙飛17期)
 電信 柏崎 次男 二飛曹  (青森・甲飛12期)

 操縦 
井上 善弘 飛曹長  (兵庫・操練30期)    攻撃501飛行隊
 偵察 土田  登  二飛曹  (高知・甲飛12期)    鹿屋基地発
 電信 大元 良雄 上飛曹  (広島・乙飛15期)


こちらの三井 敬之 航空兵曹も
また戦闘機乗りでなく中攻隊の
九六式陸攻のパイロットです。
この方は、昭和12年8月14日の
渡洋爆撃(杭州攻撃)で戦死され
ております。(鹿屋海軍航空隊
第三分隊三号機)この日の1450
に台湾の台北・松山基地から出
撃した九六式陸攻は18機です。
そのうち9機が広徳飛行場の爆撃
に向かいます。こちらは爆撃に成
功しましたが、敵機の迎撃により
1機が基隆港内に不時着水、1機
が大破しました。一方、残る9機は
杭州攻撃に向かいますが、こちら
は更に激しい迎撃に遭い…それで
も 5機が筧橋飛行場と僑司飛行場
に爆撃を実施しますが、2機が未帰
還となりました。このうちの1機がこ
の三井敬之機となります。尚、昭和
12年8月13日より4月11日の間に
おいて揚子江流域、広東附近及び
その奥地支那沿岸方面の戦闘にお
いて戦死、戦傷死または戦病死を
なした勇士であるとして誉れの優賞
者 渡洋爆撃隊連戦の勇士に名を
連ね全軍に布告された軍神・英雄で
す。


三井 敬之 航空兵曹同様に次の
小川 丑三
二等航空兵曹も渡洋
爆撃の空の英雄です。昭和13年
10月11日の衡陽夜間攻撃の際に
戦死され…彼の場合は、”渡洋爆
撃の勇士や溯江隊陸戦隊の花 
輝く英霊三百五十二柱”と彰され
海軍第九回論功行賞を授与された
誉れの優賞者です。特に中村隊長
機(小川 二空曹操縦)の搭乗員は
七勇士として新聞でも大々的に取
り扱われました。

  〜誉れの優賞者 渡洋爆撃隊連戦の勇士〜

功四旭五  海軍少佐       中村 功 (東京市)

功五旭六 海軍航空特務少尉  於久 小次郎 (大分)

功五旭七 海軍航空兵曹長    香月 春好 (佐賀)

功五旭七 海軍一等航空兵曹  後藤 忠治 (広島)

功五旭七 海軍一等航空兵曹  伊藤 義雄 (福井)

功五旭七 海軍二等航空兵曹  小川 丑三 (栃木)

功五旭七 海軍二等航空兵曹  三浦 憲 (山梨)

 ”昭和十三年十月十一日衡陽夜間攻撃の際戦死”

中村少佐以下三十二勇士は何れも渡洋爆撃隊の精鋭で
我が海鷲の花形である、事変当初猛颱風を冒して敢行せ
る中支主要航空基地の奇襲に参加せるをはじめとし、或は
酷寒の候山岳重畳の嶮峻、未知の空路を翔破して赤色ル
ートの拠点蘭州に猛撃を加え、或は昨年天長の佳節に大
挙急襲して未曾有の戦果を収めたる寒口空襲に参加し、或
は西南ルートの要衝雲南省昆明に秘匿せる敵再建空軍を
長駆猛襲しこれを殲滅し、或はまた四川の奥地国民政府最
後の地と頼む成都、梁山を攻撃して敵心戦慄せしめるなど
昼夜を問わず寒暑、風雨を冒し地象の不利に抗し敵戦闘機
執拗の妨撃、地上砲銃火雨飛中に決行せる屡次の必死爆
撃行に参加し、四百余州を翼下に蹂躪して赫々の戦果を収
めつつも遂に或いは空戦に或いは地上砲火に仆れ興亜の
礎石となりたることまことに哀惜に堪えざるところであるがそ
の勲功は真に鬼神をも泣かしむる壮烈無比のもので後世の
亀鑑たるべき勇士である

…以上のように当時の新聞にも一面で掲載され紹介されま
した。







海兵七十四期 野中 宏美 海軍少尉の
 少尉候補生軍衣と家族・友人に宛てた手紙類




海兵74期の野中 宏美 少尉の着用された少尉候補生
軍衣です。海兵74期は昭和17年12月1日、大東亜戦
争開戦後の最初の兵学校生徒として入校し、昭和20年
3月31日に最後の海軍兵科将校として巣立って、戦列
に参加した青年達です。卒業し僅か5か月足らずで敗戦
を迎えています。全卒業生1024名で最後に任官した卒
業生となります。最後の卒業生は75期生(約3400名)
ですが、この卒業は敗戦後の昭和20年10月になります
。従って実質、74期生が最後の海軍兵科将校として巣
立った事になります。
野中 宏美 少尉は、熊本県出身で母校は鹿本中。尚、士官短剣
と剣帯はイメージで別人の士官のものをあてがって撮影しました。
非常に小柄な方で女性用のトル―ソ人形でも少し余裕がある位
でした。








昭和18年に撮影された生徒姿の写真です。



海軍兵学校74期の野中宏美少尉の海兵生徒時代に江田島より家郷へ宛てた
葉書や手紙類です。74期は、昭和20年3月卒業です。少尉候補生で藤沢海軍
航空隊〜美保海軍航空隊〜最後は、大分海軍航空隊付となっております。僅
か5ヶ月余りの帝國海軍の軍務で敗戦を迎えております。








いよいよ海兵の卒業が近くなると任官を前に軍刀などの個人装備の
必要な軍装(拳銃・軍刀…等々)は士官の場合は個人装備で自費購
入が原則です。当然、保護者である親御さんに無心するしか方策なく
金額を記載して送金をいらしいている様子は、中々見る事の無いもの
で興味深いものです。






敗戦の3か月前です。少尉候補生で藤沢海軍航空隊に勤務です。
この隊は、下士官水兵の航空無線兵器整備教育を目的として電波
・光学兵器の整備員を養成する唯一の航空隊として『スタートしまし
た。






7月には美保空へ移動しています。美保空は初級練習航空隊です。
敗戦を目前にした8月には大分空に赴任しています。宇垣 纏 中将の第五
航空艦隊は司令部を鹿屋空から大分空に後退させたのが昭和20年の8月3
日です。大分空で敗戦を迎えた野中少尉は…敗戦の日の8月15日午後5時
頃、後世に私兵特攻と謂われる宇垣長官を乗せた最後の特攻機11機(彗星
艦爆)が出撃していますが…見送ったものと思われます。海兵の先輩である
海兵70期の中津留 達雄 大尉、海兵73期の伊東 幸彦 中尉と北見 武雄
中尉が出撃しています。長官以下23名が特攻出撃をし…予学13期の川野
良介 中尉機と甲飛12期の二村 治和 一飛曹機と乙飛18期の川野 和一
一飛曹機の3機が不時着生還し…結局、17名の若桜が宇垣長官と運命を共
にしました。…若き野中少尉は…敗戦の最後の特攻をどのような想いで見つ
めたのでしょう。…この下の葉書が敗戦の日に一番近いものとなります。


以下は、以前別に入手した野中少尉の葉書九葉です。葉書の内容は、『光栄の極み』
…2人の宮様生徒の事や大原分校の初代1号生徒としての意気込みの事など当時の
模様が生々しい迫力を持って迫る内容となっております。















ある第十三期飛行予備学生(艦爆)
           の寫眞アルバムより




無事に戦後も生き残られた13期飛行予備学生のアルバムです。
昭和18年9月から三重空で教育を受けています。


























このアルバムの所持者だった御本人です。海軍へ志願する前
の学生服姿です。13期予備学生は…学徒出陣以降の14期予
備学生と違い全員が志願して入隊しました。倍率は高く約7万
人から選抜された5200名が昭和18年3月に入隊し、同年9月
からは三重航空隊で基礎教育を受けます。
何処の学生なのか不明ですが、この学生帽の校章の学校
です。




まだ子供の面影が残る学生達…こんな子達が志願し戦場に赴いたのです。










昭和18年…既に大戦中期には学生を戦場に動員しても戦局はどうにも
覆らない局面に立っていました。多くの国民は肌でその難局を感じ取っ
ていました。そして純粋な若者は自己犠牲を惜しまなければ戦局を転換
できる可能性をも信じまっすぐに選ん道を進みました。キャプションにある
通り学生服を軍服に着替えた海鷲達…この五名の同窓の友で戦後まで
生き延びたのは二名だけとあります。




この方のアルバムのキャプションが実に面白いです。
この時代の学生の目は実に真摯で…今の日本人が失い忘れた物を持っている感じがします。




















珍しい航空隊の兵舎裏か脇の残雪です。飛行服姿にサングラスの三名に
三種軍装の方は寒そうに見えます。


敗戦後、復員した若者の多くは再び復学しました。






昭和18年10月21日に、明治神宮外苑競技場で文部省主催の出陣学徒壮行会が
行われました。そして全国各地で同じように学徒出陣の壮行会が行われました。
海軍飛行予備学生で学徒出陣にあたるのは14期以降になります。
このアルバムの13期は、その前の期になり全員が志願して約7万人
から選抜された5200名が昭和18年3月に入隊し、同年9月からは
土浦・三重航空隊で基礎教育を受けます。そして一部、飛行要務専
修者217名が三重航空隊で教育を受けました。










こちらは学徒出陣で特攻隊に配属され敗戦を迎えた14期飛行予備学生の
方が自費出版された非売品の本です。…当時、如何に軍人だけでなく国民
も学生も国難と謂える大戦争に尽力したが判ります。…また理不尽な米英
等の白人国家に唯一亜細亜解放を唱えて戦った日本に虐げられる側にい
ながら東亜の救世軍たる日本と同盟軍を裏切り欧米にくみした支那・中国
の卑怯さを肌で知る世代でもあります。そんな学徒も今では90歳近い高齢
です。戦後を平和と豊かさを享受して生きる戦後生まれの日本人は…平和
を取り戻す為に…民族と国家の尊厳を掛けて戦い命を賭した学徒…陸海将
兵達…その時代をまっしぐらに生きた先人同胞の皆さんに学ばねば誰に学
ぶと謂うのでしょうか?…朝鮮人教師達が日本の転覆を願い反日活動工作
の一環で始めた日教組…このデタラメと嘘を教える連中を教師と仰いで学ぶ
と性根が腐ります。…よくよく考えて再び国や民族を想い憂い行動できるよう
な学徒が育つ日本の教育の再生を図りたいものだと痛切に想います。
学び舎でペンを握る手を零戦の操縦桿に握り替
えた佐藤 孝一 海軍中尉(当時)の敗戦の年の
春の勇姿です。







上の自己出版本に直筆サインされた言葉です。…実際に汗と涙を
流し…血を流す覚悟を決めた人にしか中々、書けない言葉だと思
います。

宮城県白石市で”はたけなか製麺株式会社”の経営を後継に託し
白石商工会議所名誉会頭や地元の社会福祉法人 白石ひまわり
の理事長などを勤めながら次世代へ戦争体験談を語り継ぐなどの
講演活動も積極的にされております。この本を自主出版された6年
前が83歳です。平成24年の現在は89歳の御高齢になられており
ます。下のバナーをクリックすると会長に退きました佐藤氏の会社
と理事長を勤める社会福祉法人の公式サイトが開きます。
                    ↓






予学14期 佐藤 孝一 元海軍中尉の証言



           ↑
御遺族を探されているようです。クリック
でサイトが開きます。


こちらは佐藤中尉と同じ神風特攻隊・昭和隊で同期の予学14期で昭和20年
4月16日に鹿屋から二五番爆装零戦で特攻出撃され戦死された中村 栄三
少尉(戦死後、大尉)の辞世の句を平成17年に佐藤 孝一 氏が作成したもの
でヤフオクで入手したものです。
沖縄戦の最中、戦艦”大和”を旗艦とする第二艦隊の水上特攻の後…海軍は
昭和20年4月16日から17日に掛けて”菊水三号作戦”を発動。この辞世の句
を詠んだ中村少尉(拓殖大)は神風特別攻撃隊・第三昭和隊は、4月16日4機
の25番爆装零戦(21型)で鹿屋基地を出撃しました。一番機の西田 肇 少尉
が0810…発進寸前に着陸してきた飛行機に追突されて機体が大破し搭乗し
ていた西田 少尉が戦死するという悲惨なハプニングで出撃がスタートしました
。下の写真が0820に出撃し二度と帰る事が無かった中村 栄三少尉です。三
番機の笹本 洵平 少尉が0821出撃。最後の四番機の高野 道彦 二飛曹の出
撃が0822でした。三機の爆装零戦21型は、喜界島南東55浬及び南50浬の米
機動部隊に突入し戦死されました。


 昭和20年4月16日

    神風特別攻撃隊 第三昭和隊(聯合艦隊告示107号)

 一番機 西田 肇    少尉  (予学13後期)      
 
二番機 中村 栄三  少尉  (予学14期・拓殖大学)  
 三番機 笹 本洵平  少尉  (予学14期・北海道帝國大学)
 四番機 高野 道彦  二飛曹 (乙飛18期)


0820 二番機が、鹿屋基地を出撃
昭和20年4月16日、爆装零戦で特攻出撃する中村 栄三 海軍少尉
出撃前の夜、寝付けない隊員達と煙草を吸う中村 栄三 少尉
特攻隊員の待機宿舎となった野里国民学校。写真は
校庭で特攻隊の第一昭和隊の命名式。
昭和20年4月、特攻機の出撃を見送る戦友

また佐藤 孝一 氏と同期の予学14期で同じ谷田部空の小川 清 少尉は、
昭和20年5月11日に菊水六号作戦が発令されると神風特別攻撃隊 第七
昭和隊で出撃が命じられました。その日、鹿屋基地を五十番爆装零戦
五二型6機の3番機として0640に出撃。1009に南西諸島沖東方122kmに
おいて「ワレ突入ス」との無電を打ち、隊長機の安則 盛三 中尉(予学13期
)が先にに米空母”バンカー・ヒル”に500kg爆弾を投下後にそのまま見事
に空母に体当たり特攻を行い…爆弾は飛行甲板と舷側を貫通し艦の横数
mの海上で爆発した。その後零戦は飛行甲板に突入し、燃料を満載してい
た艦上機を破壊し大火災を引き起こしました。続いて小川 少尉の3番機が
対空砲火をすり抜けて500キロ爆弾を投下、乗機は艦橋と飛行甲板の境に
突入し戦死されました。彼の投下した爆弾は後部エレベーター付近に達し
て爆発し、航空ガソリンに引火誘爆を引き起こし大火災を発生させました。
この火災で発生した有毒な煙が換気装置を通じて艦内に大量に導入され
た為、艦内にいた多くの搭乗員と一般乗組員が焼死または一酸化炭素中
毒で死亡しました。また消火の為に注入された海水によって艦内に閉じ込
められたまま溺死した水兵も多数いました。米側の戦死者は346名、行方
不明43名、負傷者264名となり、バンカー・ヒルはウルシー環礁まで撤退
し、真珠湾経由でワシントン州ブレマートンに帰投を余儀なくされました。
ウルシー環礁に向かう途中で行われた300名以上の水葬は、現在までに
米海軍が1度に行った最大の水葬とされています。小川少尉は享年22歳。
戦死後、二階級特進によって海軍大尉となり、正七位勲五等功三級の金鵄
勲章を授けられました。平成13年3月27日、サンフランシスコ在住のグレー
ス・美幸さんにより、戦時中にバンカー・ヒル乗組員だったロバート・ショック
氏(平成12年11月7日没)が特攻攻撃後のバンカー・ヒルの復旧作業を行
なっている時、炎上せずに残っていた小川少尉機を発見し機内に残ってい
た遺品をお土産として持ち帰りました。これを戦後ずっと保管していましたが
これを形見として受け取ったロバート氏の孫が、小川少尉の遺品を遺族に
返還したいと申し出があり返還が実現しました。小川の実兄は平成12年4月
に死去されていた為、小川少尉の義理の娘母子に返還されました。遺品は
名前が記された飛行服の布片に戦友からの短歌が書かれた手紙と戦友達
と写った写真が2枚、懐中時計に落下傘の留め金・製造票に日本の紙幣や
軍票等でした。
谷田部空神社の前で微笑み写る小川少尉
引用及び画像出典:フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』



本年5月にMSN産経ニュースで配信されたものです。







珍しい米国からの里帰品
        …移牒功績明細書送付票綴




米国人は…こんな紙物資料まで土産で持っていったのかと呆れますが
米国からの里帰り品です。海軍内で転勤される下士官・兵と特准の将
兵と軍属(工員等の奏人官や高等官でない)の人達の功績票を異動先
に送付する送付票を綴ったもので移牒功績明細書送付票綴です。また
よく見ると所謂、海軍将校(兵科・機関科士官)でない軍医科や主計科
などの士官(将校相当官または各部将校)も移動の際にこの綴に見受
けられます。陸軍と違い…最後まで小さな差別をする海軍の厳然たる
貴族趣味を見る思いがします。現在、ロンドン五輪が開催中ですが…旧
帝國海軍は…この大英帝國海軍を範として作られた組織ですから仕方
ないにしても…映像に写る英国を見る度に貴族社会や階級社会が今も
厳然と存続する事を考え…帝國海軍がもし解体されず存続していたなら
その余り意味の無い差別的な貴族趣味は変わらないのかもしれないと
思ってみたりしました。
痛みはかなり激しいですが…右上の功績明細書は、戦艦”霧島”のものです。霧島は
昭和17年11月に沈没していますが、昭和16年の艦長印と昭和18年の艦長印がありま
す。つまり沈没後に残された乗組員を異動させる為に新しい艦長印を作ったという事が
わかり非常に興味深いものです。このようなものが100件以上綴られて一つ一つの艦
長印や司令印と移動した人達を見ているだけでも様々な想いが去来し時の経つのを忘
れとても面白いです。尚、こちらの綴りには、転勤される人の官職・人名はありますが
個人の功績の記述はありません。
この綴の多くが第六防備隊と第六根拠地隊への人事異動に伴う
移牒功績の記録です。六根と隷下の部隊はマーシャル群島クェ
ゼリンの戦いでルオットなどと共に玉砕しております。もしかすると
その痛みの激しさから…これ等、玉砕地で米軍が収容した焼却し
きれ無かった人事書類の一つかもしれないと思われます。
こちらも面白いのですが…工員等の徴用や臨時雇用の軍属は陸海軍で共用し無駄なく
使うように…陸海軍で協定があった事が判るる書き添えがあります。そして軍属だけで
なく陸海軍其々に連絡将校がおり…これらの人員の移動も見る事が出来て非常に面白
いです。
空母”加賀”のものです。16年12月13日の移動受付です。真珠湾攻撃に出撃
するギリギリ前で艦を降りた水兵達です。
非常に珍しいのがこちらの汪兆銘政権下の中華民国・中央海軍学校のものです。
バックアップしているのですから当然、日本海軍の将兵が教育の任にもあたった訳
でしょうが…中々、出てこないものなので珍しく資料的価値も高いと思われます。
汪兆銘政権下の中華民国・中央海軍学校の生徒の
写真です。制服からして既に日本の海軍兵学校と瓜
二つです。明らかに日本が教育を与えた事が良く判
ります。 画像出典:フリー百科事典
            『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦艦”榛名”のものです。
空母”瑞鳳”のものです。
千歳空のものです。
重巡”足柄”のものです。
大村空のものです。
陸軍の大刀洗航空廠の芦屋分廠の工員の移動です。
第四艦隊のものです。


第四艦隊からは所謂、各科の特准のオンパレードで移動です!


基本的に第六防備隊の上部組織が第六根拠地隊でその上が
第四艦隊になるので必然的にこの二つからの送付票が一番
多い形になります。






空母”飛龍”のものです。当然、ミッドウェイで既に沈んでいる艦
ですので…生き残った乗組員を移動させる為に艦長印を再度作
り捺印しているのですが…だったらそう記載するだけで済むのじ
ゃ無いかと民間人の立場からは単純に思うのですが…役人や公
務員の世界では通用しない論理なのかもしれませんね。
こちらも飛龍のものです。昭和17年6月6日に撃沈していますので7月末の申請で接受が
8月末ですので…生き残りの飛龍乗組員の移動の為のものと判ります。下も同様で18年
1月25日付のものです。


最強の戦力を誇った最盛期の空母”加賀”です。
水上機母艦時代の千歳に下は空母”瑞鳳”です。





横須賀海兵団に横須賀鎮守府からです。




横須賀海軍人事部からは軍醫中尉1名の移動です。軍医や主計士官など
兵科将校以外の所謂、将校相当官は…士官でも移動の際はこの送付票の
綴りに記録されます。また下は、主計大尉の移動です。










戦艦”金剛”です。
戦艦”榛名”です。ビックネームの艦が次々と出てきて…これを
見ているだけでも時が経つのを忘れてしまいます。






戦艦”霧島”は、この接受の2か月後に第三次ソロモン海戦で撃沈しています。
転任でクェゼリンに来た下士官兵達も…この二年後に移動が無ければ玉砕の
運命が待ち受けていました。下は、撃沈後の18年6月のものですので新たに
艦長印を作り直して元乗組員の移動手続をしています。




















来る米軍の襲来に備えて様々な部隊、軍の学校・機関、軍艦より将兵が
移動して来ています。…しかしこの中に記載された多くの将兵はマーシャ
ル群島で玉砕し果てる運命にありました。六坊・六根に将兵を送った部隊
と公印を幾つか集めてみました。








珍しく第四艦隊隷下の六根と第六十二警備隊が附箋でやり取りを
しています。軍人でなくクェゼリンの第十郵便局の郵便局員の件の
ようです。この六根も第六防備隊も第六十二警備隊も米軍の上陸
で昭和19年2月に全て玉砕しています。昭和18年9月9日の日付が
附箋にあります。調度、玉砕の5か月前になります。この戦いで約
8000名の陸海将兵が命を落としました。


この第六防備隊は…六根(クェゼリン)の港湾の防備を担当する部隊で
特設監視艇や特設駆潜艇・特設捕獲網艇など多くは徴用船を使用し対
潜・哨戒任務だけでなく港湾施設の防空や防火も担当しました。
こちらも興味深いもので…南洋群島在勤海軍武官よりクェゼリンの
第61警備隊に宛てたもので特設監視艇の第二紀州丸の6名の船員
に関しての移動です。…この船も昭和19年1月30日に消息不明にな
っております。米軍の上陸前に先だって空爆か艦砲射撃で沈められ
てたものと見られています。


































佐世空です。




浜空です。…下は博多空です。


千歳空に大村空です。



給油艦の鶴見です。立派な帝國海軍の軍艦で1万五千トンクラス
のタンカーになります。以下は、徴用船から転じた特設砲艦などで
す。




























トラック大空襲で沈められた山霧丸です。










陸軍の暁部隊(船舶工兵)からのものです。














大刀洗陸軍航空廠芦屋文廠から工員一名送っています。




こちらも陸軍で大阪陸軍糧秣支廠で軍属を一名です。







海軍 天風発動機の工具箱




正式には海軍では天風(あまかぜ)発動機であり…陸軍ではハ-13発動機です。
私的には…昔から天風(てんぷう)と呼んでいます。後ろに見えるのは愛機のCB
1100F改です。
今年で製造から30年が経過した愛機の姿をついでにチラリです。
天風発動機の工具箱です。さすがに工具は残っておりませんが工具を入れる袋や
工具の絵が描かれている布や銘板 が残っており、この手の工具箱としては、まだ
オリジナルの状態をかなり保っている品と思います。革ベルトの取っ手も切れも無く
十分な状態です。
天風10型と11型は、九三式中間練習機(赤とんぼ)のエンジンです。この他に海軍では
天風21型が機上作業練習機”白菊”に搭載しました。


赤とんぼの工具箱だけあって他の大戦中の機体の工具箱に比べて小型で
コンパクトです。大きさは、45cmX35cm 重さは12Kgです。













上は海軍の赤とんぼで下は陸軍の赤とんぼです。
下は陸軍機(キ-9)

制 式 名 称

     九 三 式 中 間 練 習 機

機 体 略 号

 K5Y1

全 幅

 11.00 m

全 長

 8.05 m

全 高

  3.20 m

翼面積

 27.7 m2

自 重

 ー kg

正規全備重量

 1,500 kg

翼 面 荷 重

 107.89 kg/m2

発 動 機

日立「天風」空冷9気筒星型10型 340Hp

最 高 速 度

  210 km/h

上 昇 力

 3,000 m まで 13.5分

最高上昇高度

 5,700 m

航 続 距 離

 1020 km

武 装

 機首7.7mm機銃2

爆 装

 30kg爆弾2

乗 員

  2名









制 式 名 称

  機上作業練習機 ”白菊” 11型

機 体 略 号

 k11w1

全 幅

 14.98m

全 長

 10.24m

全 高

  3.93m

翼面積

 30.50u

自 重

  1.677kg

正規全備重量

  2.644kg

翼 面 荷 重

 

発 動 機

日立「天風」21型空冷星形9気筒 450Hp

最 高 速 度

  226km/h

上 昇 力

 3,000 m まで 13.5分

最高上昇高度

 5.620 m

航 続 距 離

 1.170 km

武 装

 7.7mm機銃×1

爆 装

 30kg爆弾2

乗 員

  5名








海軍航空隊 偵察 要具袋




海軍航空隊の搭乗員が身の回りの必要品や地図、弁当から航法用具まで
一式をつめて持ち込んだ”偵察要具袋”です。結構丈夫で重宝するので戦後
も文字を消したりして使ったケースも多く痛みの多いものが多く小穴はあるも
ののよくある皮の切れや金具の欠品、ハトメの外れなどの無い状態の良い
要具袋です。








下の画像は、中田商店の複製品の要具袋です。確かに良い風合いを
出していますがやはり違うのは歴然です。







昭和19年4月10日に鹿島灘で
 零戦にて飛行訓練中に墜落し殉職された
  海兵72期 鈴江 理 中尉(神ノ池空)の写真五点




飛行学生として訓練中に殉職された鈴江 中尉の葬儀の写真です。
海兵72期の鈴江 中尉は、徳島中出身で昭和18年9月15日に海兵を
卒業しています。この方の兄上も陸軍航空士官学校出身のパイロット
だったようです。
航空機…潜水艇…訓練に事故はつきものです。直接の戦闘で亡くなられなくても
先の大東亜戦争では日本を守る為、また亜細亜を解放する為に多くの日本人の
若者が尊い犠牲を払いました。我々、後世で平和を享受し豊かに暮らす日本人は
心してその事を忘れず…犠牲になられた全ての英霊の御霊に感謝の念を常に持
たなければならなないと痛切に感じます。
海兵時代の写真です。上の写真の後列左端で笑顔で白い歯を
を見せておられるのが鈴江 中尉と思われます。襟にチェリーマ
ークが見えます。…実に良い笑顔の若者達です。
海兵72期は…卒業生が625名です。昭和18年9月に卒業し敗戦まで
約2年足らずの間に戦公務死者数は337名と半数をを超えて卒業生
の2名に1名以上が短期間に亡くなられております。


僅かに残された5枚の写真です。…その写真をどう見るかは
見る人の気持ち一つです。毎年、敗戦の日に多くの戦没した
英霊が眠る靖国神社に総理大臣が参拝もしないような国が
日本以外の世界中にに何処にありましょうか?…国の為に
民族同胞の為に身を削り奉公した若者を顕彰しない国民や
民族・国家に未来はありよう筈が無い気がします。







我心の師…椿様が製作された作品です。























海軍刀の菊水紋彫の銀ハバキです。