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私の父が他界し、早いもので11年を迎えようとしています。私にとっての父の想い出は、 幼少時から、仕事をする後姿しか思い浮かびません。…そんな父が唯一、嬉しそうに 見せる笑顔が旧制高等学校の寮歌祭などで、これが最も印象的に記憶に残っています。 父のこの寮歌祭への参加は、晩年の身体の自由が効くまで続きました。酒を飲み赤ら 顔で同世代の仲間達と肩を組み高下駄に羽織袴にマント姿の伝統のバンカラ姿で謳う 姿は、実に楽しげで永遠の青年達が過ぎ去った青春時代をフラッシュバックさせている ように見えました。…こうした姿も、かつての旧制高等学校、旧帝大予科など出身者が どんどんと高齢化し参加者がドンドンと鬼籍に入り少なくなっておりますので、いずれは 見る事も無くなる事でしょう。…そう考えると非常に寂しく想います。…上の画像の左が 私の父の旧制第四高等学校に入学時のものです。右は、晩年に愛した常磐津を楽しむ ワンシーンです。他界した父同様に多くの永遠の青年達に想いを馳せて番外編として、 このページを作りました。…また表題にある”雁が音(かりがね)”は、雁金とも書きます が、生前に父が愛した常磐津の『大森彦七』の一節に登場致します。思い入れ深く使用 しております。 |
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旧制第四高等学校の正門 |
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金沢城より写した当時の時習寮。中央右より左へ北寮、中寮、南寮、新寮。左端は、食堂。 |
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下は、時習寮の部屋、四人ずつ左右で八人で使用した。上は、普通教室での授業風景。 |
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関西に住まわれる大先輩より頂きました。1930 年 時習寮 超然 の有名な文字が刻まれており ます。天下国家を憂い語った当時の若きエリート 達のマントに高下駄に学生帽のバンカラ姿が瞼に 浮かぶような気がします。 |
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片側には四高の星章にトレードマークの”超然”の文字と腕を組む 人間がレイアウトされています。そして別面には、皇紀2592年(昭 和7年)に時習寮に四高、四十周年記念に星章と白線二本がありま す。 |
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オールドボーイ達の新たな青春群像!! |
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実に楽しそうな笑顔です。 |
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彼等の青春時代から、この寮開祭参加までの歳月は、実に 我国・日本の戦後復興の歴史そのものです。 |
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実に良い笑顔を見せるオールドボーイ達! |
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四高開学百年祭に金沢を訪れた父達。市内の目抜き通りを 歌いながら歩いたようです。 |
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父の四高時代の写真 |
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父の同窓の四高生達! |
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良く学び良く遊ぶ…超然の精神が息吹いた時代の最期の学生達 なのかもしれません。この後、敗戦を機に我国の教育は、大きく崩 壊し今日の情け無い精神的などうしようもない敗北性を今も尚、引 きずっています。 |
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四高では、スキー部に所属していました。右は、高専大会に優勝した 時の写真のようです。 |
寮歌祭関係のパンフ等! |
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右上の続・寮歌祭よもやま話に寄稿し掲載されたページ! |
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古き良き頃の北大時代 |
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上の左の画像は、北大の有名なポプラ並木です。右は、工学部の前庭。 下の左は、青函連絡船にてのスナップ。全て北大の学生時代の画像です。 |
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卒後の北大での画像です。 |
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まさにこの世代の人々が戦後の日本の復興を担い 今日の繁栄の礎を築きました。 |
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そしてもう一つよく歌った寮歌が地元であり…その後、進学して 母校となった北海道帝國大学予科の”都ぞ弥生”です。四高を 卒業し北海道帝國大學醫學部に進みましたが…以下の動画に ある歌もよく歌っていたものでした。 |
北海道大学恵迪寮歌"都ぞ弥生" |
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寮歌 都ぞ弥生 (明治45年) 横山 芳介 作歌 赤木 顕次 作曲 i一、都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵 尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮れては移らふ色の 夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて 星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ 二、豊かに稔れる石狩の野に 雁遙々沈みてゆけば 羊群声なく牧舎に帰り 手稲の嶺黄昏こめぬ 雄々しく聳ゆる楡の梢 打振る野分に破壊の葉音の さやめく甍に久遠の光 おごそかに 北極星を仰ぐ哉 三、寒月懸れる針葉樹林 橇の音凍りて物皆寒く 野もせに乱るる清白の雪 沈黙の暁霏々として舞ふ ああその朔風飄々として 荒ぶる吹雪の逆巻くを見よ ああその蒼空梢聯ねて 樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ 四、牧場の若草陽炎燃えて 森には桂の新緑萌し 雲ゆく雲雀に延齢草の 真白の花影さゆらぎて立つ 今こそ溢れぬ清和の陽光 小河の濤をさまよひゆけば うつくしからずや咲く水芭蕉 春の日の この北の国幸多し 五、朝雲流れて金色に照り 平原果てなき東の際 連なる山脈玲瓏として 今しも輝く紫紺の雪に 自然の藝術を懐みつつ 高鳴る血潮のほとばしりもて 貴とき野心の訓へ培ひ 栄え行く 我等が寮を誇らずや |
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ありし日の家族の肖像 |
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晩年に没頭した常磐津 |
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想い起こせば親孝行らしき事を一度もする事が出来ないままに 父をあの世に旅立たせました。…まさに『親孝行したい時に親は 無しの…。』の典型例です。実に親不孝者だと後悔しておる次第 です。…そんな父を偲んだ時に何時も瞼に浮かぶ姿は、寮歌祭 です。実に楽しげに謳い、旗を振り、太鼓を叩く姿と常磐津に没頭 する姿以外にゴルフが唯一の趣味であったでしょう。この世代の 方々の特徴でしょうか、実に仕事の鬼です。仕事が趣味のような 生活でした。それ故に父と多くの学友皆様が寮歌祭で素敵な笑顔 を見せる姿は、とても印象的でした。その良き笑顔は、今も脳裏に 深く刻まれています。オールドボーイの皆様を想い、このページを 番外編として作成し致しましたが…今も尚、皆々様が父と肩を組み 、あの世とやらで高らかに寮歌を謳っているような気がしてなりま せん。 |
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父が使っていた時計で唯一遺品として私が使っている オーデマピゲのロイヤルオークです。初代のロイヤル オークで約42年前に父が購入して愛用していたもので す。数年前に動かなくなり修理に出しましたがスイスの 本社での修理するようで…修理代もえらい高かったの で驚きました。形見の品でなければ修理せずほかって おいたかもしれません。 |
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父の愛用の時計は…今や私の愛する時計の一つとなり この先、何十年かは時を刻み続けてくれるものと思いま す。そしてまた形見分けで後継されていくのでしょう。 |
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令和二年二月〜日本に支那の武漢から
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支那で武漢ウイルスによる武漢肺炎が昨年12月に発生し…支那 から日本へ来たのが1〜2月です。以降、飲食店と観光業は甚大な 被害を受けてきました。4月に入り政府の緊急事態宣言までは私の クリニックは大きな変化はありませんでした。しかし首都東京が緊急 事態宣言下に入ると…駅前の百貨店は全て休業にそして多くの企業 も休業に入りました。ここにきて患者さんも減り日によって平日の売 上が4/1〜1/3位減る日が出てきて驚きを隠せませんでした。 そんな中で笑ってしまうものを発見しました。これは近隣のクリニック です。1〜2年前に開業した内科・アレルギー科の女医さんのクリニッ クなのですが…今年2月に新型コロナ問題が持ち上がるとホームペ ージに以下の文面が乗り始めます!! |
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驚きです。都心のビル診の内科を標榜する女医さんのクリニック。 なのにコロナ対策で初診患者お断り…これまでの再診の患者のみ 。これにはは思いっきり腰を抜かしました。こんな凄いお医者さん初 めて知りました。内科医ならカゼやインフルエンザの患者さん診てあ げましょうよ〜。コロナ怖くて高血圧や高脂血症や糖尿病の患者さん は初診で診ないと宣言する医者ってどうなんでしょう?? 極めつけ は以下です! |
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緊急事態宣言で4月末までお休みだって…目が点です。これが自分 の主治医や掛かり付け医だったら最悪ですね。私も医者ですが父や 伯祖父も兄妹や親族は医者だらけです…父も伯祖父も既にこの世に はおりませんが…。伯祖父は空襲の時もどんな時も休診する事無く 診療し、父も亡くなる最後まで町医者として一臨床医でありました。 しかしこの女医さん…コロナウイルスの影響の為って…飲食店でも頑 張っているのに…末端とはいえ医療機関の端くれで開業しているのい に驚きます。…なにしろ初診患者は診ないと宣言している事に…呆れ 果ててしまいます。医師法違反でありましょう!! そういえば私の50代男性の喘息の患者さんですが…3月に私の休 診日の時に高熱を出して咳込み…自宅のある埼玉の近くの診療 所に行ったところ、咳止めと解熱鎮痛剤を多めに出してくれてそこの 先生が…帰りがけに…『もし数日しても高熱がひかなくて具合が悪 くなっても、うちには二度と来ないでね!』と言われたそうです。… 60代後半か70代前半の老内科医だったそうですが、そこまではっ きりと言われると気持ち良かったと患者さんは笑っていました。全く 診察をしない女医より診るだけは診る老内科医の方がまだ許せま す。4月末まで仕事放棄して診療せず、長期休診とは…てもプロフ ェッショナルの仕事とは程遠いし…この方のサイトの説明文では父 の代も医師である事を記載されていました。しかし敵前逃亡する人 間に医家を名乗る資格も無い気がしてなりません。医師免許返納し たほうがよいと感じました。 医業と患者さんへの想いに…若い頃とある時期から現在に至るま でを比較すると随分と心の中で開きがあります。医者になって暫く の間は…死への恐怖の想いは普通の人と同じにあってそれは、医 者になる前の若い頃となった後も大差がありませんでした。…まあ しかし医者を長く継続していけば勤務する病院の病棟、そしてアル バイト先の病院で多数の患者さんの最後を看取りお見送りをし死が 日常近くにあり死に慣れる事はありましたが…それでも死生観の変 化は大きく変わる事はありませんでした。しかし内科から麻酔科に 移り…いつしか一般の大学病院や市中病院と比べると圧倒的に長 時間の麻酔管理が連続して毎日のように必要な癌の専門病院に 勤務してから諦めがついたと謂うか…諦観したのはこの麻酔科医 勤務の時です。ほぼ全てのオペが癌の為、短いもので2〜3時間、 長いものでだと12時間を超える大がかりなものが当たり前に多く …当時は戦前から続く古い建物でしたから、当然、オペ中に大きな 地震が来たりすると激しく揺れ…台風では雨漏りまでして中央手術 部で蠅が発生し今時珍しい蠅取り紙を天井から垂らしたオペ室もあ った位でしたと謂う事もよくありました。当時は次に首都直下型地震 があったら患者さんと共に地下の中央手術部で死を覚悟していまし た。麻酔科医はオペ患者に全身麻酔を掛け術後に覚醒させて病棟 の病室に戻るまで…またはICUに入れ引継ぎを終えるまで呼吸・循 環および全身管理を行うオペ室の内科医となります。開頭、開胸、 開腹された状態で大地震や災害が起きた時に例え執刀医が逃げた としても担当した麻酔科医は患者を置いて逃げる事は出来ません。 電源がロストした場合は、麻酔器は止まります。当然、人工呼吸器 は停止するので手動でマスク換気で電源が回復するまでひたすら 頑張るしかありません。オペ患者は麻酔科医により強制的に麻酔に 導入され意識を失い、筋弛緩薬を投与され自発呼吸を失われ…以 降は麻酔科医による呼吸管理に循環管理による全身管理がなされ ないと生命があっという間に失われます。 昔から些細な勘違いや有り得ないような手違いのヒューマンエラー で患者さんが亡くなりました。麻酔事故と簡単に言いますが、有り得 ないケアレスミスで慢心で起きてしまう事を実例や多くの事例を見て 学ばされてきました。つまり生殺与権を好むと好まざるに関わらず 麻酔科医は周術期の間、握る事になります。…独り立ちした麻酔科 医は必ずその事を心して達観しなければなりません。そうでない人が そうした場にいると運不運で患者さんの命を左右されかねません。 これは技術の問題でなく覚悟の問題です。だから僅かな昼食の休憩 交代、夕食の休憩であっても引継ぎをする時は、例え上級医や上司 が作った昇圧薬や降圧薬、筋弛緩薬であっても…例えまだ未使用の シュリンジであっても廃棄し、改めて必要な循環作動薬や維持麻酔に 必要な薬剤は全て自分で作り直します。こうしたものを徹底しないと 人はミスを犯すので事故が起きるからです。…神戸の代震災や東日 本大震災…大きな災害は台風を含めて日本を定期的に襲います。 一度、医家として毎度のオペで麻酔管理中にあると…もしもの時は担 当した患者さんと命を共にするしかないと諦めがつくようになります。 それ以降は迷いが無くなります。戦時下の軍医の記録を読む事があ ります。後方臨時病院ならいざ知らず…特に大東亜戦争末期の各戦 地における野戦病院は地獄絵図だったでありましょう。薬も包帯も消 毒薬も無いも無い中死にかけた大勢の傷病兵が傷口から蛆を湧かせ て死を待っています。そんな中で軍医は…玉砕の最期の時に傷病兵 に手榴弾を渡し、死ねない者は共に死ねるように射殺し自爆した者が 多かった。覚悟の無い者は臨床医は辞めるべきです。基礎に行き研 究医や保健所で公衆衛生の医師として十分に生きていける筈です。 私は開業前に内科医に再び戻りますが、祖父や父と同じように先の 覚悟の無い女医さんと違い敵前逃亡をする気は毛頭ありません。 しかしよく自身のプロ意識の無さと医家としての矜持の無さを見事に 自ら露呈するようなホームページを恥ずかしくも無く晒し出したものだ と強く想いました。…帝國陸海軍に召集または志願し軍人となった将 兵が…命惜しさで敵前逃亡したり任務放棄する事は、誰の目にも恥 ずべき事です。覚悟の無い人間は覚悟を必要とする場所に立つべき ではありません。徴兵の兵ならまだしも士官・将校にある立場の者に は許される事ではありません。軍では銃殺刑に値します。武漢ウイル ス禍で世界中がこの災厄で悲惨を極めている最中、首都で開業医を 土日も祝日もなく勤務していると…そんな事を考えました。緊急事態 宣言が出て百貨店も休み駅前も土日で閑散としていても…高熱の患 者さん、喘息の重責発作を起こした患者さん、悪いものを食べたのか 下痢に嘔吐を反復する腹痛の患者さん…と町医者の所には常に多く が集まってきます。私のような藪医者でも心意気は”武漢V何するもの ぞ”の意気込みで臨んでいます。まあこの時期なのでインフルエンザ や溶連菌など各種簡易検査の時は…飛沫感染を防ぐ為にナースやス タッフにもディスポのオペ着と帽子にN95マスクに感染防御シールドと 手袋をつけさせています。…しかし多額の持ち出し分になるのでスタッ フを守る為とは謂え無駄な出費です…。安倍さんか緑のおばさんでも 構いませんが損失補填しろと謂いませんが…N95マスクを配布して欲 しいものです。ここにきて震災時に備蓄していたN95マスクの在庫が 尽きそうです。サージカルマスクも中国製の在庫なので信用できない し本当に困ったものです。…うちのような出入口が一つしかないビル診 で出来うる唯一の感染対策もそのうち在庫切れで出来なくなりそうで す。 憂國烈士 |
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