旧軍関連・戦前資料収集品展示(番外)



日赤 救護(従軍)看護婦 関連



(〜鎮魂〜)















嗚呼、鎮魂の日本赤十字社 救護(従軍)看護婦

(忘れまじ愛国と勇気の女性戦士達の献身)




このコーナーでは、従軍看護婦に関連するものを扱って
おりますが、特に日赤だけに限りません。従軍看護婦の
代表格として誰しもが思い描くのが日赤従軍看護婦です
。現実には、当時の従軍看護婦は、その資格・経験・経
歴などにより甲種・乙種・臨時看護婦に区分けしていた
ようです。現代では、看護師という名称に変わりましたが
つい最近までは看護婦であり…資格により正看護婦
(師)と准看護婦(師)に分けています。前者の正看護婦
は、高等看護学校(専修学校扱)や医療短大以上(現在
では、四年生大学まである)を卒業し国家試験を受けて
合格し免許を得た者が正看護婦(師)です。一方、准看は
、医師会や様々な母体の准看護学校(中学卒であれば
入学可能)を卒業または、高等学校の衛生看護科を卒業
した者が、地方自治体(都道府県知事)の試験を受けて
合格した者が准看護婦(師)となります。後者は、働きなが
ら准看護学校(2年間)に通う事で受験資格が得られる為
比較的、結婚後の主婦など若い方だけでなく年配者の方
でも資格を取る方が多かったのが特徴です。現在の区分
では、見た目からは正・准が判断できません。職分として
正看は、”自らの判断による主体的に看護が行える資格”
であるとされ、准看は”医師、歯科医師、看護師の指示に
より看護が行える”とされています。現実的には、給与の
違いや准看は、仕事が出来ても婦長になれないと言う違
い以外は、大差がないのが実態です。

話が脱線しましたが、当時の甲乙臨時の区分ですが、こち
らは、先の大戦で看護需要が増した昭和16年からの流れ
でまず看護婦免許が18歳から17歳に引き下げられます。
昭和18年には、更に引き下げられ16歳となり、更に女子の
中学卒業者、高等女学校における看護婦資格取得が可能
に変更され、翌19年には、日赤以外の各地の陸軍学校で
の看護婦養成施設を認め、日赤でも従来の救護看護婦の
養成期間を短縮し繰上げ卒業を行いました。従来よりある
救護看護婦(甲種看護婦)は、高等女学校卒業または、同
等の学力のある者を日赤の養成所で3年間の教育訓練で
昭和12年より15年までの間、継続して行われて参りました
が、昭和16年には、高等小学校卒業以上または高等女学
校2年以上の在籍の者で年齢が14歳以上20歳未満の者
に2年間の短期教育を養成所で行った者が乙種看護婦とし
て甲種に代わり養成を開始しました。これとは別に臨時看
護婦(この場合、大戦末期に女学生などが志願して特志看
護婦言われた臨時看護婦と違います。)既に日赤以外で看
護婦免許の取得者や看護婦を行っている一般看護婦を養
成所(訓練所)で三ヶ月間の短期補備教育を行い臨時看護
婦としました。

こうした中で女性の社会ですので同じ日赤救護員でも古い
甲種時代のフル三年の教育を受けたナースは、乙種を一
段低く見たり、また日赤出身でないナースとなる臨時救護
員(看護婦)を差別する向きもあった事は、漏れ聞きます。
また陸海軍問わず軍医の方から漏れ聞く現場の話として
は、良く聞くのが…日赤の従軍看護婦は、プライドが高すぎ
て軍医の言う事を聞かない。一般の看護婦さんからなる臨
時救護員の方が使い易かったと言うものです。ニューギニ
ア戦で海軍陸戦隊の軍医長だった方もプライドの高さも良
い時は、マイナスになりませんが危急時など命令に従わな
い、または故意に曲解するなどして不服従は、致命的にな
る事もある為、戦況が悪化し始めた時点で日赤従軍看護
婦を船便で帰国させる事が出来た事は、良かったと回想さ
れてもおります。そうした様々な現場での諸問題は、あった
にしろ…男子で兵隊でも無い看護婦さんが一般男子国民
同様に召集令状で動員され戦地に赴き…多くが傷病兵と共
に各地の戦場に散りたる事は、一般の兵士が尊い生命をお
国の為に捧げる事以上に勇気のある行為である事は、間
違い無い事と思います。特に今のように男女同権の時代で
は無く…婦女子は銃後への時代でありました。我々、後世
に生き平和の恩恵を被る日本人は、顕彰し語り継ぐ責務を
感じてなりません。ここに陸海の皇軍将兵と同様にうら若き
華の乙女達が博愛のナイチンゲール精神と愛国の想いの一
心でお国に命を捧げ戦場の露と消えし事を忘れず、ここに専
用のコーナーを用意し哀悼の意を表したいと想います。

                            合掌








昭和12年8月19日、支那事変で日赤救護看護婦
         に御下賜された悲しい恩賜の銀時計




持主は、戦前からの日赤看護婦で総婦長経験者とか。残念な事に
敗戦により価値観が逆転し敗戦までは非常に名誉だった御賜の方
々に大変な風当りが強く…不幸な一時期を過ごされました。恩賜の
文字を打ち消すような打痕は、そんな暗い時代の証でしょうか。何と
も悲しい恩賜の懐中時計です。
恩賜の懐中時計のケースから内部の仕様まで軍人が下賜される
恩賜の銀時計と何等変わりません。
時計サイズが約38oと女性
用の為、小ぶりです。
ケースは外観は綺麗です。青いビロードのような生地、蓋の内部の生地は
傷んでいると謂うより切り取ったような感じです。ケースの内部に昭和12年
8月19日と記されたラベルが貼ってあります。常に授与されていたものでは
なく、スポット的に与えられたもののようです。
通常、恩賜の銀時計は陸海軍の士官学校や幼年学校、陸海軍大学や
各種学校の首席クラスの優等卒業者が貰えるものです。従ってスポット
的に戦意高揚の式典などで大陸にいる多くの日赤救護看護婦の中でも
たまたま授与されたにしても…それ相応の優秀な看護婦さんだったと想
います。それだけに…如何に戦後の冷たい仕打ちがあったにしろ…恩賜
の時計に傷を入れるような真似は実に残念でなりません。


時計自体は…秒針が欠です。長針は途中で折れ、ガラスが外れています。文字盤の一部
左上部付近に傷があります。ムーブメントは、螺子を巻き刺激により動きますので、調整す
れば動くようですが…オーバーホールが必要です。長年眠っていた品のせいか…しばらく
動いてはまた止まってしまいます。







懐中時計は、Recta社製です。このRecta(レクタ)は、今も現存するスイスのコンパス
メーカーです。元々、創業当時は時計メーカーでしたが、現在はダイビングギアで有名
な(計器メーカー)フィンランドのSunnto(スント社)の傘下で計測機器を製造していま
す。








日本赤十字社 救護(従軍)看護婦制服








綿製・薄地。二号サイズ。野戦用でしょうか、
紺の良くある一種(冬)制服とは、違う、
南方用従軍看護婦の制服です。














画像は軍医達の後ろに並び写真に写る台南陸軍病院
で勤務した日赤の救護看護婦達です。其々の帽子の
形態が良く判ります。






日本赤十字社救護員の徽章

蓋裏に日本赤十字社の検査スタンプ
有りますが難読です。
日本赤十字社の従軍看護婦 包帯嚢です。全体に
褪色して背に小痛み有り。ベークライト板を芯に両
面布張りです。内面には、痛み有りません。釣紐鉄
尾錠(金具)に錆が有ります。時代を考えると概ね
良好な品と言えます。





上記とは別の従軍看護婦 南方用野戦服と略帽




















日赤従軍看護婦正帽の実物です。

内部に虫食い虫舐めが少しあり、ピンに錆を認めますが総じて美品です。


テーラータグは、TOKYO AKIKUSA SEI
とあります。他の実物正帽でも同じタグを
見ますので アキクサ セイ という女性が
製作したものと思います。



希少な実物の日赤救護看護婦の1種制服です。南方用は
良く目にしますが1種は残存が少ないですね。やはり各地
の都市空襲で多くが焼けたのかもしれません。



戦争展の展示用に作られた一点物の
レプリカ(複製)です。胸の記章と腕章
は本物との事です。ベルトが無いのが
残念です。実物の残存が少ない為、
レプリカが多いですがレプリカも高額に
なっているので驚かされます。


一種制服・制帽佩用の日赤従軍看護婦


従軍看護婦用の包帯嚢と思われます。
状態は、未使用。標記は取り外されて
います。

   大きさ幅18x高さ22x厚さ7cm。


素材は、防水処理されたゴム引き綿布。白い布に
赤い顔料で赤十字が書かれています。肩紐はオリ
ーブ色綿布で未使用のようですが倉庫に長く保存
していたので時代汚れがあります。裏にはベルトル
ープがありますが硬化しています。南方で使用され
たタイプのようです。



日赤救護員徽章と純銀の襟留徽章です。
所属と個人に対しておくられる識別番号が刻印されてい
ますので…軍人でいえば認識票代わりで持ち主を特定
できます。これは日赤鹿児島支部のものです。

















医柩と正ちゃん帽
日赤より昭和53年に発行された
従軍看護婦追悼記の本です。
昭和56年発行の豪華版の写真集

戦地などに出向く際に使う大型の
日赤従軍看護婦用の衣服行李です。
所持者だった従軍看護婦さんの
記名があります。


中々、合理的なつくりになっており収容量
も大きく感心します。


下の画像で同じ衣服行李が置かれています。
…この画像は、戦時召集令状を受けているシー
ンです。


こちらも上のものと違う、日赤従軍看護婦の衣服
行李です。記名布のが黒く塗りつぶされています。



日赤従軍看護婦の術衣・処置衣
襟元の折り返し当たりに名前が縫われています。





日本赤十字社・従軍看護婦の使用した水筒




戦前に赤十字の従軍看護婦をしていた方の品です。
水筒は、陸軍の将校用水筒で私物として自費購入し
た品なので返納せず持ち帰ったようです。表面には、
記名した布を剥がした跡がありますが、これは手放さ
される時に剥がされたものとの事です。ただし背面の
記名及び認識番号は、きれいに残っています。






日赤 従軍看護婦が使用した当時の飯盒




こちらも別人のものですが…日赤の救護看護婦の
方が使用された当時の飯盒です。
大きさは男性の兵隊用の飯盒の半分以下でしょうか
女性である看護婦さんならば、これで十分だと思い
ます。


ボロボロの飯盒カバーですが…中村と記名があります。


















日赤の従軍看護婦さんの人形




元日赤の従軍看護婦さんが持たれていた人形のよう
です。白い方は、戦前の磁器製で首に折れの補修・
塗り直しがあります。もう一つは、戦後の「出版記念
品」陶器製で美品です。




日赤 従軍看護婦の飯盒等々




日赤の従軍看護婦さんの所持品です。飯盒は、
小さく兵用の飯盒の四分の一位の大きさです。
薄い絹製の手術帽でしょうか、祈 武運長久に日の丸が入って
いて、このままでは仕事にならないので帽子の下に被った汗止
めの帽子のような気がします。
珍しい織り出しの桐花章です。看護婦の襟章か略帽用だと思われます。



別に入手した看護帽です。手に入れませんでしたが
一緒に戦後に使われた看護帽(手術用)が出ており
ました。




一緒に入手した写真です。この中の看護婦さんの
何方かの看護帽だったようです。



日本赤十字社篤志婦人会のタスキと看護帽です。
共にタスキの紙袋に一緒に納められていました。
同会会員は、慈善活動の際にはこのタスキを
掛けて活動を行っていたようです。看護帽は、
プリーツのない薄手綿製の簡単な作りです。













第一次世界大戦で連合国の一員として
  戦った日本が欧州の同盟国へ派遣した
     日赤従軍救護看護婦長 稲玉 むめ
      (旧姓 今村 むめ )の遺された資料 




まるで陸軍の下士官適任証と同じような珍しい婦長適任書です。


大正5年に婦長に昇格しています。
召集され現地に赴く救護看護婦は、軍人や公務員と同様に叙勲
などの対象者でもありました。戦地に出征する歳は、女性であっ
ても出征軍人同様、万歳で見送られました。
日赤のイオに救護看護婦の編成は軍の要請によるもので、つまり国策
によるものとなります。棒給や辞令が軍の物と大差ないのは、当時の
国策を推進した大企業も同じで共通しています。
欧州(仏国)派遣の時は、独身で婦長まで勤め帰国後に結婚され
旦那様の住む静岡県の沼津で暮らされたようです。




恐らく支那事変が拡大し、大東亜戦争に至り超ベテランの婦長であった稲玉むめさんにも
召集が掛かり現地に赴いたか各地の日赤養成機関での指導者となったと考えられます。


下の手紙は、日赤長野支部の救護看護婦が稲玉さんに宛てたものです。


昭和10年10月19日 日本赤十字社静岡支部第二回総会御親授記念
とあります。非常に長い長い写真です。中央に閑院宮載仁親王殿下
(元帥陸軍大将)おられます。この中のどこかに稲玉むめさんが旦那様の
信吾さんと出席されております。




パリでの救護活動の想い出のアルバムは上の三冊になります。
下は、フランス・パリの観光用でしょうか名所・旧跡などを紹介し
た豪華なアルバムです。
彼女の三冊のアルバムから一部だけ紹介します。
この方が今村むめ(後の稲玉むめ)さんと
思われます。まだ婦長になる前のようです。
パリ市内のこの建物(病院)で医療活動に従事した
ようです。窓、ベランダより多くのナースがカメラを見
ているのが判ります。また屋上に日章旗と赤十字旗
三色(仏国)旗と赤十字旗が夫々に掲揚されはため
いております。
大正3年(1914年)4月に日本赤十字本社は、第一次大戦
の勃発で戦時救護を開始します。そしてロシア、フランス、
イギリスの各赤十字社に救護班を派遣しました。このうちの
フランスへ派遣された救護班がこの写真のナース達です。
WWTが当初、騎士道の世界で戦われ両陣営の夫々の国民を熱狂させた
と謂われますが…まさに古き良き時代の感があります。
歓迎のセレモニーでしょうか。参加各国の民族衣装と国旗を持っています。
和装の日本女性と日の丸が誇らしいですね!




その後、大正4年(1915年)11月に日本赤十字本社は、ロシア赤十字社に
対して更に事務員一名、看護婦6名を追加派遣しています。その後、すぐに
WWTが終結し救護活動が終結します。翌5年(1916年)6月にロシア政府と
フランス政府は、派遣された救護員に対して勲章ならびに記章を贈与して感
謝の意を表しました。




日赤の医官、救護看護婦に混じり陸軍の参謀や高級将校が写真に
写っております。第一次大戦の視察に派遣されている軍人達と思わ
れます。






上の左端の写真は、日本から来た彼女達の活躍を現地で報じたものを撮影したものです。










日本赤十字社の初の海外派遣としてこの医師と看護婦の救護チーム
は、まさに日本を代表して救護活動に当たったと言って良いでしょう。















こちらの絵葉書二枚は、別に入手したパリに派遣された同じ日赤の
救護看護婦が国内の家族に宛てた絵葉書です。上の右はスエズ
からのものですから欧州への赴任の途中にエジプトのスエズから送
ったものでしょう。欧州航路の伏見丸(日本郵船)の印があります。
もう一枚はパリからの葉書で裏は、
彼女達が勤務した病院です。


この竹田初めさんを乗せた日本郵船の伏見丸は、昭和
18年2月1日、東京から基隆へ向け航行中、御前崎の南
28浬で米潜TARPON(SS-175)の雷撃を受け御前崎の
南18浬で撃沈されています。
ありし日の伏見丸です。








日本赤十字社 清国事変救護記念の懐中時計



清国事変すなわち北清事変(義和団の乱)で日本は
陸海軍を出兵しましたが、この時に日本赤十字社から
医療派遣があり参加者らに記念に配布された懐中時
計のようです。


WALTHAMの懐中時計です。以下のように当時の保証書が
付いています。記載されたシリアルNO.と懐中時計のNo.も一
致します(3313号)。また日本赤十字社御紋章付一銀梨地
無双龍頭懐中時計壱個で明治35年9月13日に日付けがあり
ます。東京京橋区尾張町の天賞堂本店の記載と社判に二銭
の収入印紙が貼られています。










約100年前の懐中時計ですが…内部は、時代を感じさせない
美しさをとどめています。
シリアルNO.3313が読めます。
義和団の乱で日本は、欧米列強の共同軍事行動や作戦に消極的でした。
特に陸軍の派遣に関して極めて慎重でありましたがが、度重なる英国など
の出兵要請があり、遂に第五師団の派遣を決定。また海軍も陸戦隊を派遣
し太沽砲台奪還の戦闘などで奮戦しました。陸軍も北京公使館救援作戦で
勇猛果敢ぶりを欧米列強に示し、その軍紀の見事な統制ぶりは、敵の清国
からも賞賛を得ました。こ事変では、小国である日本の存在を国際社会に示
す形になり、この事が後の日英同盟成立に大きく寄与した事は、言うまでも
ない話です。







外地の豪華な日赤病院、その光と影

 
満洲国赤十字社哈爾濱病院 




敗戦前の豪華な日赤病院のカラーパンフレットです。
現在は、ハルピン市第一病院として現存しています。
元は、このパンフレットにある日本が建設した満州赤
十字哈爾濱病院です。地上4階建、地下一階に別棟
として伝染病棟に看護婦寄宿舎(2階建)と今でも立
派な建物です。パンフのように救急車を完備していま
す。
後存知のように満洲国赤十字社哈爾濱病院のような
基幹病院は、日本の国策上、満赤爾濱病院という名に
なっておりますが、その業務内容は…日赤と何等変わ
り無く北満の第一線にある関東軍の野戦病院でありま
した。この為、院長はじめ主な医師は、軍医の身分で
ありました。特にこの爾濱病院のような基幹大病院は、
日本の各地の日赤の支部で応募され採用された看護
婦や看護学生が教育を受け、ここから更に前線に当る
関東軍直轄の陸軍病院に出動・派遣されていきました。
尚、一般の病院でもありますのでハルピンという国際都
市の性格上、ポーランド人、アルメリア人、ギリシャ人、
英国人、米国人、白系ロシア人など外国人が多いのが
特徴的であり、看護婦達も『日本人の誇りを持て!』と
常に国際人である事の教育もされていたようです。
パンフレットの中より豪華な病院の見取り図を紹介します。
外地でもこれだけの贅を凝らした立派な建物を特に満州では
建設しています。当時の我国の並々ならぬ肩入れと期待を同
じ外地の植民地や統治領などの勢力圏でも感じます。


病院案内を見ると流石に戦時では、野戦病院
として機能する病院らしく収容能力も広さ、診療
科目も申し分の無いものです。この時代、国策と
は、言うものの現代の情けない日本政府と国家
と違い、必要な事を必要なスピードで成すという
点では、十二分に手早くしかも実行されている事
に感動させられます。余りに酷い現在の官僚制
度の弊害を見せ付けられている者にとると新鮮な
驚きがあります。何しろ現在の官僚が作るものと
いえば無駄な箱物…例を挙げるとオリンピアなど
の保養施設。何十億も掛けて作り毎年何億の赤
字を掛けて運営し…最後には、二束三文の下手
すると何十万円とか何万円で地方自治体や企業
に引き取られる。こんな物に比べれば…この戦前
の日本人が作った病院…これ一つ取っても今も
現役で中国人が病院として使用しています。昭和
11年の完成ですので72年前の建物です。この他
にも満州での日本が建設した建物の多くが現存し
今も尚、現役で使用されています。これだけでも
今の税金に群がり集る天下りと利権しか頭に無い
官僚より余程、国益を最重視して効率良く働いた
当時の官僚達の鋭意努力の姿が見えてくる気がし
ます。

















〜最末期の満洲国赤十字社哈爾濱病院の顛末〜




敗戦時のソ連軍侵略の時のハルピン赤十字病院は、病院長が吉野三郎 軍医少将
でした。総婦長は、下の写真にある中村善子さん(昭和20年6月に昇進)でした。8月
にソ連軍が侵攻すると満州赤十字社直轄であった病院も関東軍指揮下となり他の
赤十字病院と同じになりました。ハルピン赤十字病院では、入院患者の退院命令が
出て独歩患者と護送患者が退院しました。護送患者は、市立病院と満鉄病院に移送
してハルピン赤十字病院は、戦傷兵のみの収容となりました。ソ満国境より続々と戦
傷兵が送られてきたそうです。そして戦傷兵を運ぶ衛生部員(衛生兵救護班)も日本
に帰ると看護婦を置いて逃げ出す中、関東軍第七部隊(ハルピン第一陸軍病院)の
傷病兵千数百人も収容し治療救護を継続。15日にラジオ放送にて敗戦を知らされま
す。同日、敗戦を知った暴徒が暴動を起こしますがハルピン警察により鎮圧。病院は
国府軍に占拠され同病院で外科の医員をしていた孟医師が病院長となりました。彼
は、同病院の下妻副院長の下で外科を学んだ中国人でしたが、人格にも優れており
病院スタッフからの信頼も厚い方でした。彼は、日本人の生命財産の保証を約束しま
したが、中国人スタッフの造反が相次ぎ身の危険が迫り収容中の傷病兵のうち軽症
の独歩患者のみを連れて南下させて無事に帰国させ、この時の多くの兵は無事に帰
国をを果たしております。吉野病院長(軍医少将)は、外部からの呼び出しで殆ど戻
れず、下妻副院長は、官舎に軟禁状態で出勤できず各医員(医師)・医長、事務長な
ど院外に住むものは、自宅から病院までの出勤ができない状態の為、ハルピン赤十
字病院は、重病兵と中村総婦長を筆頭に残存看護婦9名だけとなり…治療救護は、
医師不在のまま9名の看護婦で継続されました。ソ連軍が間近に迫り、命令通達によ
り病院内の記録や重要書類、救護看護婦の看護婦免許証から卒業証書、身分証ま
で全てを焼却したそうです。8月24日、ハルピン赤十字病院の重傷兵は、関東軍第
七陸軍病院(ハルピン十二陸軍病院第四十部隊)へ移送が決まり、同時に中村総婦
長以下3名と他の病院の看護婦計31名が関東軍五七7陸軍病院に編入を命ぜられ、
有田浩吉病院長(軍医少佐)の指揮下に入りました。野戦病院として残存する事とな
ったハルピン赤十字病院には、外科医長 工藤貫蔵 医師に下に坂井節 看護婦長を
入れた看護婦4名、看護婦生徒約70名がハルピン第七部隊の南下した後に移転して
きたチチハル陸軍病院の救護班として出動した佐々木由紀子 看護婦長以下看護婦
4名が合流して残留しました。

一方、関東軍第五七陸軍病院は、ハルピンに進駐したソ連軍の命令で収容中の戦傷
兵をチチハル陸軍病院に移送し、ソ連軍第四捕虜収容所(梅林ー牡丹江)に出動させ
られました。ハルピン赤十字病院から出動した救護班は、日本軍捕虜戦傷兵の決死
の救出隊であり、中村総婦長以下の看護婦33名(平均年齢満20歳)は、身の危険が
迫る事を予期して全員が自決用として青酸カリを携帯しました。この時も最悪の場合は
、全員一緒で自決する事を約束しています。有田院長は、病院長命令があるまでは、
何があっても青酸カリを服用してはならない。最悪の場合は、病院長も一緒に自決す
るので、それまでは頭髪も剃り落とさないようにと命じました。8月31日、梅林収容所
に向かう(ここは、元々関東軍の第五軍の弾薬倉庫でしたが何も無く、空いた棟を使
い手術室、処置室、病室などを設営し戦傷兵を受け入れましたが、いずれも対ソ戦で
戦った日本軍兵士でボロボロの夏服を纏い…最悪の状況で9月より2ヶ月間、戦傷兵
の治療と救護に当たりました。しかしソ連軍から薬や包帯等の衛生材料の支給は、無
く手持ちの薬剤等が切れた後は、相当数の重傷者から死者を出し、生きているものも
傷口には蛆が湧き悲惨を極めたようです。元気になった日本兵捕虜は、日本へ帰国さ
せると騙されて次から次へとシベリアへ送られ、残ったのは重症患者と野戦病院だけ
であった。同年11月、梅林の収容所から牡丹江の収容所へ移動させられた関東軍第
五七陸軍病院は、関東軍第八陸軍病院(牡丹江第一陸軍病院)焼跡を修復し開設し
千数百人の日本兵捕虜を収容しました。日に20人程の死者を出す毎日が続いたと伝
えられています。以下の”青葉慈蔵尊”の話と違いますが、ここでも再三、ソ連側から
看護婦を出せと要求があったそうですが、有田院長ががんとしてこれを拒絶し病院ぐ
るみで従軍看護婦を守った為、ソ連兵による犠牲者は、一人も出さずにすんだとの話
でした。その後、この病院は、昭和21年4月に日本兵傷病兵を収容したままソ連軍か
ら中共軍へ引き渡されました。これに伴い中国革命戦争の傷病中国兵の治療と救護
に当たる事となりました。この時、移送に耐えられる日本人患者は全員日本へ送還す
るという話がありましたが交換条件として医療関係者(医師、薬剤師、看護婦など)は、
残存し中共軍の治療救護活動へ協力する事と命じられましたが…患者さんの帰国の
為、望郷の念に駆られながらも軍医を筆頭に従軍看護婦達医療スタッフは、戦後もま
だ満州に残り医療活動継続されたそうです。ある時、野戦病院を増やす為に廃屋とな
った日本領事館を清掃に出かけた所、二階の屋根裏の柱に『国滅びても人滅びず、
元気で帰ろう故郷の庭』と彫られた文字を見つけ…いたく感動し半ば諦め掛けていた
帰国への想いを新たにさせてくれたと中村総婦長の手記に記してあります。その後、
中村総婦長等医療スタッフ一行が中共軍の下で医療活動を終えて帰国したのは、
昭和28年8月11日でした。高砂丸で舞鶴に上陸し彼女が懐かしの故郷に戻った時に
既に両親と祖母は他界しし、姉妹はそれぞれ嫁ぎ、叔父と姉夫婦が出迎えてくれたそ
うです。

ここに改めて軍人と共に召集され戦後も苦労を重ねて帰国した従軍看護婦の皆様と、
名も無く注目もされず…記録に残される事も無く…傷病兵を見捨てられず現地で命を
失った当時の医師や薬剤師、日赤の看護婦で無く乙種看護婦として参加されたり、
看護助手として参加された名も無き日本人女性な多くの医療スタッフのの皆様に現在
平和な日本で生きる医療人の一人として敬意を表すると共に心中より御冥福をお祈り
致します。
                                   合掌


*上記のお話は、中村総婦長の手記からのものです。実際の敗戦時期の軍医(病院
  長などの名前が記録と相違する場合が見受けられますが、このページでは手記を
  優先して記載させていただいております。

昭和18年秋に撮影された写真です。場所はハルピン
赤十字病院の正面玄関前です。前列右から二人目の
看護婦さんが中村婦長(太田善子さん)です。



日本人よ、忘れる事勿れ!
  …嗚呼、慟哭の満州…従軍看護婦団の悲壮なる自決



青 葉 慈 蔵 尊




この有名な敗戦悲話のような知らざれる
海外各地の戦場で活躍した従軍看護婦
達の最期は、多かったものと想像します。
上に掲載しました満赤ハルピン病院で働
いていた看護婦達と同じ満州赤十字所属
の従軍看護婦のお話ですので改めて紹介
させていただきます。

この地蔵の横の石碑には、青葉慈蔵尊由来が
記載されています。石碑裏には以下のごとく碑
文の遺書が刻まれております。
                       遺 書

 二十二名の私たちが 自分の手で命を断ちますこと 軍医部長はじめ婦長にも
 さぞかし御迷惑と深くお詫び申し上げます
 私たちは敗れたりとはいえ かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます
 たとえ生命はなくなりましても 私どもの魂は永久に満洲の地に止まり 日本が
 再びこの地に還つて来る時 ご案内致します

  昭和二十一年六月二十一日散華
     旧満洲新京(現長春)
     通化路第八紅軍病院

      荒川 さつき  池本 公代   石川 貞子
      井出 きみ子  稲川 よしみ  井上 つるみ
      大島 花枝   大塚 てる   柿沼 昌子
      川端 しづ   五戸 久    坂口 千恵子
      相良 みさえ  澤口 一子   沢田 八重
      澤本 かなえ  三戸 はるみ  柴田 ちよ
      杉 まり子   杉永 はる   田村 馨
      垂水 よし子  中村 三好   服部 律子
      林 千代    林 律子    古内 喜美子
      細川 たか子  森本 千代   山崎 とき子
      吉川 芳子   渡辺 静子

昭和三十一年六月二十一日埼玉県大宮市青葉園に青葉慈蔵尊として台座に一同
の分骨を納めて建立平成八年六月二十一日五十年忌に當りて此の碑を建つ


またこの石碑の表には、以下の碑文が刻まれてあります。


                     青葉慈蔵尊由来

昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が
抑留され勤務していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受け その九名の
消息も不明のまま更に四回目三名の派遣を命ぜられた 拒否することは不可能である
ことを覚悟したその夜 最初に派遣された大島看護婦が満身創痍瀕死の身を以つて
逃げ帰り 全員堪え難い凌辱を受けている惨状を報告して息絶えた 慟哭してこれを
葬つた二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く 制服制帽整然として枕を並べ
て自決した

先に拉致された同僚たちも 恨みを呑んで自ら悲惨なる運命を選び満州の土と消えた
二十三年の暮 堀看護婦長に抱かれて帰国した二十二柱の遺骨は 幾辛酸の末 
漸く青葉園園主の義侠により此処に建立された青葉慈蔵尊の台下に納められた 九名
の友の霊も合わせ祀られ 昭和三十一年六月二十一日開眼供養が行はれて今日に
至つた

凛冽たる自決の死によつてソ連軍の暴戻に抗議し 日本女性の誇りと純潔を守り抜い
た白衣の天使たちの 芳魂 とこしなえに此処に眠る   

                                   合掌


埼玉県さいたま市(旧大宮市)の『青葉園』の故 山下奉文 陸軍大将 御墓近くに…
"青葉慈蔵尊"があります。左手に看護婦さんの制帽を持ち微笑む御地蔵様は、旧
ソ連(現在のロシア)に抗議し、集団自決を果たした22名の看護婦の気持ちを今も
訴えかけます。(以下、概略)

 昭和20年8月9日、長崎への原爆投下され断末魔の大日本帝國に対してソ連は、
日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州から北朝鮮、樺太、千島に侵略を開始しまし
た。翌21年春にソ連の占領下となった旧満州帝國 新京の第八病院の従軍看護婦
34名が抑留され、看護婦としての医療勤務をしていました。ソ連軍による看護婦の
派遣要請があり、日本人であろうが敵国兵士であろうともナイチンゲール精神を以
って堀看護婦長はその派遣要請に応えました。その後、派遣要請は3回まで続き
ましたが、派遣した9名の消息不明のまま誰一人戻る事がありませんでした。4回目
3名の派遣命令がきたその夜。4度の派遣に迷う堀看護婦長の前、最初に派遣され
た大島看護婦が命からがら全身に銃弾を浴び満身創痍の瀕死の状態で逃げ戻りま
した。これまで派遣された看護婦がソ連軍兵による強姦・輪姦の辱めを受けた事を
何としても死ぬ前に伝え…もう二度と派遣しないように伝える為、決死の脱走をして
きた事を告げて息絶えましたた。大島看護婦を葬った22名の看護婦たちは、日本人
女性の誇りと純血を守り抜こうと、6月21日、制服と制帽を整然として枕を並べ、皆で
青酸カリを飲み見事な集団自決を遂げました。
尚、派遣された9名のうち真実を伝え
るべく脱走して絶命した大島看護婦以外の看護婦のうち3名は、梅毒を移されてい
おり…とても日本で誰にも会わす顔が無いと吾身を恥じて自決。もう3名は不明。1名
はソ連軍将校と後に結婚したとなっています。昭和23年に堀看護婦長と共に帰国し
た二十二柱の遺骨が納められたのが青葉慈蔵尊であります。

今は、朽ち果てて無くなりましたが昔は、木製の立ち札
が青葉慈蔵尊にあったそうです。今は、石碑が変わりに
あります。その立ち札には、建立の謂れと共に以下の
歌が記されていたそうです。


以下は、いただき物の画像です。(御提供 古本屋の常連様)
画像は、奉天で活躍する日赤の医療班でこの画像では予防
接種を主に行っていたようです。非常に機動性に富んだ大型
の車両を使い70年以上前の医療とは思えません。しかも外地
ですので驚きます。非常に質の高い医療を心掛けて実践した
事を裏付けます。これが今日の長寿社会世界一位の高レベル
な医療を実現した原点だと感じました!
cf.当サイトでリンクし御世話になっている古本屋の常連様のHP
  ”みに・ミーの部屋”の『満州写真館 奉天その4』にこの画像
  を含めて貴重な画像が豊富にあります。画像をクリックでリンク
  先の『満州写真館 奉天その4』にジャンプします。









日赤救護看護婦への道
   そして従軍看護婦として赴任










いよいよ戦争もたけなわとなり救護員不足が進むと救護員を
増員する為乙種救護看護婦制度ができ、その後には、一般
の看護婦を募り3ヶ月の養成所での教育で戦地に送る臨時
救護看護婦の制度にいたります。


各支部の養成所にて救護看護婦への道を歩む








卒業し資格を得ると戦争・事変等の召集への
義務が卒後12年間発生し拘束をされます。


日本赤十字社は、陸海軍各大臣から救護班派遣の
要請を受けると編成に着手し各支部に対して通達を
以って編成を促し、各支部は編成要員を選抜し召集
状を発します。これを受け召集された救護看護婦達
は、それぞれ任地となる国内外の病院や病院船に
赴任していきました。この赤色の召集状は、比較的
初期のものです。下のピンク色の方は、末期のもの
です。支部は、この召集状を後で回収し救護班ごと
に束ね保管したそうです。
下の受領書は、召集状を受けたら必要事項を
記載し切り離し支部に郵送したものです。("傷
痍疾病二依リ応召シ難シ"の項目に線を引き消
して召集に応じました!
また下にあるように召集状を受けた救護員は
電報で召集に応じる事の可否を報告します。




救護員の給貸与品表と装備品


















日赤が敗戦までに送り出した救護班の数は960班に
上ります。そして送り出した救護看護婦の数は、実に
29.562名にも及びました。そして先の大戦で戦死せ
る救護看護婦の数は…1.143名。負傷者は、この4倍
に上ると言われております。しかしこの数字は、あくま
で日赤の救護看護婦のものであり、末期に女学生な
どが志願して特志看護婦言われて臨時看護婦として
野戦病院などで働いておりますが、有名な沖縄での
”ひめゆりの塔”に代表される女学生の死は、カウント
されておりません。…あの戦争は、決して軍人だけの
戦いではありません。勿論、内地で空襲等で惨殺され
た多くの民間人、これら女学生や従軍看護婦…日本
民族の総力戦であったと謂えます。







昭和16年10月15日発行の
  日本赤十字社の大判冊子『白衣従軍』

















大阪日赤看護婦の卒業アルバム
  (軍医少尉が所持していた)




赤十字のマークに2597の番号があるアルバムです。
皇紀2597年 昭和12年の日赤大阪のアルバムです。
召集解除後に大阪の日赤に勤務されたのかもしれま
せんがアルバムの中身には、友松少尉の名前は、見
当たりません。場合によっては、この看護婦さんと御
結婚でもされたのかも?…などと想像します。いずれ
にしても大阪日赤は、昭和12年12月に大阪陸軍病院
赤十字病院となります。多くの看護婦さんが従軍看護
婦として戦地に赴かれた事と思います。






左の方は、小野総監督…今で言う総婦長のようです。
どうやら襟の桐花章が1つが一般の正看護婦、2つで
婦長、3つで総監督(総婦長)のようです。このアルバ
ムは、正看護婦さん達の寮生活、各地への旅行や研修
などの卒業アルバムのような物のようです。


cf.大阪日赤に関しまして

大阪赤十字病院は日本赤十字社大阪支部病院として、
博愛の精神に基づいて一般診療及び救療事業を目的
とし、併せて優秀な看護婦の養成をするため明治42年
に創立されて今に至っています。

<沿革>

明治42年5月8日 創立(200床)看護婦養成所併設
昭和2年〜昭和9年 鉄筋コンクリート5階建病棟(850床)に改築
昭和12年12月 大阪陸軍病院赤十字病院となる
昭和20年11月〜12月 連合軍に接収される
昭和21年1月 天王寺生魂国民学校講堂に移転
昭和22年2月 東区法円坂、元22部隊後に移転
昭和31年4月 筆ヶ崎町に復帰(精神神経科は法円坂に分院として残す)
昭和34年9月 外来棟、管理棟落成
昭和42年4月 東区法円坂、大阪府立大手前整肢学園開設
昭和49年4月 看護婦寄宿舎修和療、看護学校新築
昭和50年8月 本院に精神神経科を移転(精神神経科病棟新築)
昭和62年11月 健診センター完成
平成元年4月 神経内科開設
平成2年6月 半日ドック開始
平成6年4月 心臓血管外科開設
平成8年11月 腎臓内科設置
平成9年3月 災害拠点病院の指定
平成10年3月 東病棟完成
平成10年5月 脳ドック開設
平成11年4月 リハビリテーション科、循環器科の開設
平成14年8月 外来オーダリングシステム稼動
平成14年12月 大阪府地域がん診療拠点病院の指定
平成15年7月 新本館竣工
平成15年8月 新本館全面禁煙実施
平成15年9月 病棟移転
平成15年12月 外来移転
平成16年1月 新本館外来オープン
平成16年1月 消化器科開設

名 称 大阪赤十字病院
院 長 本田 孔士 氏
所在地 大阪市天王寺区筆ヶ崎町5番30号
敷 地 53,007m2
建物延面積 76,090m2
病床数 1,021床(一般 979床(内、 整肢学園分は82床)、
           精神 42床)

職員数 〈医師〉180名 〈看護師〉643名 〈技士〉145名 
     〈事務職員〉104名







戦前小田急線、日赤特別割引乗車券

昭和14年11月14日の切符です。小田急線の相模原⇒新宿行きのものです。
従軍赤十字関係者や従軍看護婦、日赤職員等が使用した切符です。尚、傷痍
軍人(戦傷・公傷者)は、この切符使用者に該当しません。アルバム外し跡が裏
に有ります。







大東亜戦争救護美談




昭和18年10月刊、日本赤十字社発行のもので、日赤各支部の
殉職救護員の活躍、またその美談をまとめた物です。我が子を
残しての出征等、当時の救護看護婦の苦労を知る事が出来ます。 




































日本赤十字社 救護看護婦の包帯嚢
        (従軍看護婦)




日赤救護看護婦の革バック(包帯嚢)です。革はかなり硬化して
きていますが、まだオイルを塗布すれば復活しそうな感じです。


使用者だった日赤救護看護婦の名前が松本夏子と記載があります。













戦前・戦後を日赤救護看護婦を
   勤めたベテラン看護婦が戦後に
       使用した医柩(包帯嚢)です。




日赤看護婦で、戦前は従軍看護婦もしていた方
が戦後に使用した医柩(包帯嚢)です。
流石に
戦後の品です。機能的で大きな収容量のスペー
スを確保し非常に丈夫に出来ています。
下はこの看護婦さんが所持していた紫綬褒章、女性用赤十字
多功章、女性用社員章の三個です。他に宝冠勲章もあったそ
うですが、画像は三点のみです。







日本赤十字社社長を務めたられた
  公爵 島津 忠承 氏(名誉社長)の品々



玉里島津家の前当主で公爵、勲一等。戦前は、貴族院議員として活躍。
日本赤十字社副社長を経て戦後すぐに日本赤十字社社長に就任。当時
国交の無かったソ連、中国に残留した邦人の救出に尽力しました。また
戦後すぐに結核予防会の会長も勤められておりました。平成2年8月26日
にご逝去されました。
握手をされる左の方が島津忠承公です。


大正七年に陸軍幼年学校を退校しています。父である
島津 忠済公が身罷られ当主として跡を継ぎ公爵となれ
たので陸軍幼年学校を退校されたものと思います。
詠まれた中に軍への想いと公爵家を背負い当主として国を
思い揺れる純粋な心が浮かんで感じる事が出来ます。


年賀状などです。やはり全国の赤十字関係、結核予防会関係
が多く、中にお国であった鹿児島の県関係者や地元有志など
も含まれております。







一枚の写真から…
こちらは珍しい日赤の医官の
写真です。明治時代と思われ
ます。



明治か大正初期〜でしょうか、詳細不明の画像です。


閑院宮殿下の御屋敷で披露された東京瓦斯
電気工業(株)T.G.E製作の日本赤十字社の
患者運搬自動車。







復員兵士の帰還列車の駅に掲示されたサボ




この赤十字が示す通り海外の戦地からの陸海軍の将兵たちの
帰国事業や復員には赤十字が積極的に関わり貢献しました。




昭和20年8月15日の敗戦の日から昭和21、22年の最盛期に旧国鉄の
駅で使われた復員列車への案内のサボと思われます。恐らく復員輸送
船が入港するような港町の基幹駅に掲載されたとのでは想像します。
最盛期の昭和21年をピークとして全国的には使われ無くなり…一部、
舞鶴などソ連軍によってシベリアに抑留された日本人達の帰国が昭和
22年から昭和31年にかけて抑留者47万3000人の日本への帰国事業
が行われました。…当然、この時期も使われた可能性があります。いず
れにしろよく残ったものだと感心します。このサボは…多くの復員兵の
悲哀を見つめてきたのでしょう…。


敗戦と共に陸軍省と
海軍省は解体され、
それぞれ第一復員
省と第二復員省に
衣替えされ、それぞ
れの所属した陸軍と
海軍の将兵の復員
(海軍では解員と謂
った)作業に当った。
後に合併して復員庁
を創設して第一復員
局が旧陸軍関係を、
第二復員局は旧海
軍関係を担当して復
員作業にあたった。
昭和22年10月15日
に復員庁は廃止とな
り第一復員局は厚生
省に移管し、第二復
員局は総理府直属と
なった後、昭和23年1
月1日に廃止され復
員業務は全て厚生省
復員局に引き継がれ
ました。








日本赤十字社創立75年記念切手
日本赤十字社創立者の佐野常民







従軍看護婦の上司であり指揮・指導・
管理を行った陸海軍の軍医達について
紹介するページが以下です!



日赤の救護看護婦達も懸命に戦った
長崎・広島の悲劇を忘れない!!