-


鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編 X







旧軍の遺構や資料館など・・・北海道編



(北海道エリアに点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)








先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
65年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。
5ページ目は、道南の函館…まさしく本州から
北海道の玄関口です。最近の旧軍遺構と謂う
より、どうしても戊辰戦争の最後の戦いとなっ
た箱館戦争やその旧跡の方が印象深い地で
あります。








函館山(世界三大夜景で有名な)
     の函館要塞(津軽要塞)の遺構



函館山からの景色は夜景は有名だが昼間の景観もまた夕暮れ時も美しい。
何十年かぶりで訪れた函館と函館山です。しかしこの景観を楽しめたのは
戦後からの事です。敗戦まで此処は帝國陸軍が管轄した函館要塞であり民
間人は立ち入る事は勿論、市内から函館山を写真で撮影する事さえも許され
ませんでした。
函館山頂上は展望台やテレビ局の送信所と展望台と駐車場になっています。
ここは敗戦までは御殿山第一砲台があった場所です。建物の土台などはその
まま砲台跡が使われています。ここの展望台から少し降りたところに”つつじ山
駐車場”があります。その奥に御殿山第二砲台があります。
シーズンオフの平日は殆ど人が居ない事があります。


つつじ山駐車場から函館山山頂部を望む!
基本的にここより先、要塞遺構地区は全て車輛通行が制限されており歩き
だけが見て回る手段となります。日程の関係で一番近くの砲台跡しか見る
時間が取れず非常に残念でした。次回、リベンジを果たしたいものです。因
みにこの右上の写真の上には
トンネルが埋まっていて見ることも通り抜け
ることもできません。
よく見るとトンネル上部に少しだけ埋まっていない部分
がありますが立ち入り禁止です。
です。


御殿山第二砲台と謂われる場所です。28p榴弾砲の砲台が6基(各2基×3か所)と
これに連なる棲息隠蔽地下壕に地下砲具・弾薬庫に士官詰所、観測所があります。
かつての砲座の跡はテーブルとイスが設えてあり…遠足やピクニックに最適な感じの
広場になっています。

この砲座にあった28p榴弾砲から発射された砲弾は放物線を描いて目標を破壊します。
この御殿山第二砲台から津軽海峡を航行する敵艦船を撃破する目的でした。見て分かる
ように砲台は
少し掘り下げて作られており海上の敵艦船から目視することはできません。
まさしくこの要塞は有事の際に目に見えぬ砲を津軽半島側からとこの北海道側から津軽
海峡を進み来る敵艦船を挟み撃ちして攻撃する為に存在した事が良く判ります。

砲座脇の地下砲側庫は人が入らなくなって久しいのか密生した植物と堆積した落葉などで
半ば埋まっていて壕の天井部分の僅かな空間が覗ける感じで中に入れませんでした。
この地下砲側庫からストックされた砲弾が運ばれました。
落下防止の赤錆びた鉄柵の下が埋もれた地下砲側庫になります。
敗戦後、米軍が爆破した部分は崩落が激しいですが、他の部分は今も堅牢な作りで明治期
から敗戦まで要塞を維持した旧国軍の僅かな残影を垣間見させてくれます。この地は既に
それほど旧軍の遺構や遺残が多くありません。どちらかと謂えば幕末の戊辰戦争から函館戦
争のイメージの方が色濃く残っております。

右上の写真は地下通路と地下壕がありましたが敗戦後進駐した米軍により
爆破され崩れた擁壁だけが今も無残に放置されています。長年放置された
為、落葉が吹き溜まりになり入り口を塞いで上部だけが僅かに開口部を見
せています。左上の写真は左翼観測所があった高台に上る階段です。現在
は展望台となっています。

掘り下げた砲台の上に上ると津軽海峡を見下す事が出来ます。
誰も居ないこの取り残されたような空間がとても不思議な感じでした…。
この他に御殿山第一砲台、千畳敷砲台、薬師山砲台、入江山高地観測所などが
散歩コースで見て回る事が出来ます。今回時間の関係で見て回る事が出来ず
残念でした。次回、リベンジしたいものと考えています。







函館重砲兵聯隊の営門



函館重砲兵聯隊の営門が残っています。しかし…この扱いは余りにも酷い
この函館市の管理する行政当局の連中はアカが多いのでしょうか。看板
立てに使われるとは…見ていて本当にガッカリしました。世も末です…。
函館重砲兵聯隊は、昭和11年5月30日に軍令乙第四号により函館重砲兵大隊が
函館重砲兵聯隊に改正されました。昭和12年に日中戦争が開始され同年12月に
聯隊から独立臼砲第2大隊が編成され…この部隊は後に15p臼砲を持って香港
攻略やコレヒドール要塞攻略に活躍しました。その栄光ある部隊の営門がこのよう
な扱いを受けているとは…情けなくて涙が出ます。函館市民は文句を謂わんのか?









函館護国神社(函館招魂社)



箱館戦争の官軍方戦没者の慰霊を目的に建立されたのが函館招魂社です。
今でも95の墳墓地に155名の霊が眠っています。以来、西南戦争、日清戦争
日露戦争〜大東亜戦争までの戦没した英霊を祭っております。ご祭神数は、
13.000余柱です。

正面の鳥居からは函館港を眼下に望むことが出来ます。また後方(神社側)
を振り向くと函館山の山頂がすぐ裏手に見る事ができます。そして写真中央
の招魂場のこの石碑…この石が豪商・高田屋嘉兵衛が海から引き揚げさせ
た”高田屋の亀石”の一つです。もう一つは、”乙巳役海軍戦死碑”で見る事
が出来ます。




戦場に花のように散った学徒も多くありましたが国内で軍需j工場
にまたこのように食糧増産の為…農業生産に駆り出された動員学
徒も約20万人に北海道に移動し働いた事実を物語る石碑です。





以下は旧軍とは関係ありませんが護国神社の外れにひっそりと
あった函館戦争で戦死した新政府軍の墓です。

墓自体は…旧幕府軍の戦死者に比べ立派なのですが駐車場の裏手で人気の
無いのがよく判ります。私も薩長はどうしても好きになれません。どちらかと謂え
ば心情的には旧幕軍に同情し味方する大多数の一般人が戊辰戦争の各地の
古戦場でも滅びた側の遺構に献花し訪れる人が多い事でも明らかですが…ここ
に供物や献花の無さと対する旧幕府軍側の献花・供物の多さのギャプが明確で
改めめて判官贔屓の日本人の特性を考えさせられました。











海軍根室第二飛行場跡(根室牧ノ内飛行場)




現在も衛星画像や空撮画像にはっきり残る滑走路の跡です。
1200m×80mの主滑走路はコンクロート製。これに1200m×80mの
西側半分が未完成の転圧滑走路面がありました。


乳牛などが無造作に放牧されている道路の脇に分断された旧滑走路が
存在します。見つけようとせずに見る分には埋没してしまう何気ない風景
です。現在、使われている道路は旧飛行場の引き込み線や誘導路を利用
しています。
所々に漁具(網)が置かれている以外何もない風景です。
昭和18年に本格的に工事が始まり。完成したのが敗戦の2か月半前
である昭和20年6月です。同時に運用が始まりましたが…あっと謂う
間に敗戦を迎えています。
格納庫を6棟、大型無蓋掩体18基、小型無蓋掩体6基及び小型有蓋掩体12基
備えた本格的な飛行場で樺太・北方領土の航空基地と連動して北方の防空の
要となる筈でした。


上がが一番古い昭和22年の米軍の空中撮影写真です。
まだ主滑走路が分断されてい無いのが判ります。
昭和27年の米軍空撮写真です。既に分断されているのが判ります。


周辺に残る掩体壕です。











海軍根室第一飛行場跡(不時着飛行場)




日米戦の開戦前に既に作られていた幻の根室第一飛行場の
跡地です。衛星画像のオッタラウス浜の周辺に存在したと近隣
にある根室市歴史と自然の資料館の職員の方が説明してくだ
さりました。下はバス通りから見たオッタラウス浜方向です。この
方向に不時着用滑走路があったようです。現在の衛星画像から
は滑走路跡は確認が出来ません。
余りにのどかすぎて飛行場の存在など考えもしない風景です。
遠くに海が見えます。
記録によれば昭和7年に完成し、950m×300mおよび850m×300mの
2つの転圧滑走路面を有して、不時着用滑走路ながら格納庫も二棟あ
ったとの事です。


旧根室第一飛行場の跡地に近く、詳しい場所の説明を
教えていただいた根室市歴史と自然の資料館です。




この空撮写真は根室第二飛行場です。


右上と右下は比較的、最近の空撮写真です。左上と
左下は戦後まもない時代の米軍の空撮写真ですが、
いずれでも滑走路らしきものは確認できません。


花咲灯台の方向から撮影したオッタラウス浜方向です。







陸軍帯広第一飛行場(旧十勝飛行場)

(現 陸上自衛隊帯広駐屯地及び帯広の森)




陸上自衛隊の帯広駐屯地の正門です。ここは敗戦前まで
陸軍の帯広第一飛行場がありました。その滑走路は今も
自衛隊が使用しています。
当初は民間飛行場としてスタートしましたが、昭和11年に軍用へ転用され
浜松陸軍飛行学校から部隊が常駐を始めます。昭和15年に帯広第二飛
行場(雄飛ケ丘飛行場)が完成し、浜松駐屯飛行第62戦隊が進出します。
昭和19年になると本土決戦体制に移行し、この地を含めて北海道は第一
飛行師団が担当となり司令部をこの帯広に置きます。しかし敗戦時に司令
部は札幌に移転されていました。




現在の衛星写真です。旧陸軍飛行場は陸自の
駐屯地となり今も滑走路は使われています。


昭和19年に撮影された陸軍帯広飛行場です。


こちらは敗戦後の昭和22年と23年に米軍が撮影したものです。


帯広駐屯地以外に当時の面影を残すものはほとんど残されて
おりませんが、隣接する帯広の森に一基だけ無蓋掩体壕が
残されています。そして記念のオブジェの様に間伐材で作られ
た飛行機が置かれています。


























この地も昭和20年7月14日と15日に米機動部隊の
艦載機による執拗な空襲を受けて60名が亡くなら
れております。







第五方面軍第七十七師団が
   本土決戦に備えて構築した
      勇払平野の水際防護陣地跡




太平洋を望む苫小牧近くの勇払平野のJR日高本線
汐見駅近くのチンタ浜踏切そばのトーチカです。
ご覧のように踏切の先に太平洋が広がっています。


畑の中に露出して出現した分厚いコンクリートのトーチカですが七十年前の
当時は土砂で覆われてここまで露出していませんでした。銃眼から重機関
銃を置き上陸してくる敵を迎え撃つつもりでしたが、結局、一度も役に立つ事
無く敗戦を迎え…戦後約七十年間、放置され野ざらしになっています。
銃眼から覗くとそのコンクリートの分厚さがよくわかります。生半可な
火砲の攻撃では撃破できないだけの分厚さです。





要港のある苫小牧市を挟み勇払平野に防御陣地が形成されました。
港湾取扱貨物量は全国4位で製造品出荷額は
北海道一位の一大物流拠点の苫小牧港です。


上のチンタ浜踏切のトーチカより苫小牧港を挟んで室蘭よりにある苫小牧元町海岸です。




元町海岸に残るトーチカです。銃眼も出入り口も埋められています。

















メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。