旧軍関連・戦前資料収載品
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昔のマッチを再現した復刻版のマッチです。 |
戦時資料:戦時の郵便の記念物(初日カバー)等
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戦時資料:斉斉哈爾から内地に宛てた
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黒龍江省のTSITSIHAR.13.10.21斉斉哈爾 (チチハル)消印のある書簡です。内地は、 四国の香川県に送られています。 |
封筒の周囲を赤線で書いていますので、祝いの書簡かも知れません |
1913年(大正2年)は、中華民国が成立後1年です。便箋には、 ”革命尚未成功 同志乃須努力”の文字があり、孫文の写真を 掲げてあります。封書の表の切手は、剥がれてありませんが、 裏側に消印が残っています。書簡の内容は、大陸の旅の事を 時事を交えて書いているようです。珍しい中華民国時代の物 です。 |
戦前資料:2.26事件の号外 |
昭和十一年二月二十九日付の読売新聞号外です。 |
地方新聞のその後の号外です。 |
戦前資料:稲田 龍吉 先生の大日本醫訓 |
稲田先生は、有名な北里柴三郎 博士とともに 日本人として初のノーベル賞候補に挙げられた 事でも有名です。 |
ワイル病の病原体を発見された稲田龍吉先生です。 先生は、明治33年に東京帝国大学医科大学を首席で 卒業。明治35年ドイツ留学します。明治38年に帰国と ともに福岡医科大学(現 九州大学医学部)第一内科 初代教授に就任します。大正3年にワイル病の病原体 を発見します。そして大正4年9月に”日本黄疸出血性 スピロヘータ病論”と題して論文発表しています。 その 内容は、病原体の発見から感染源,感染経路,臨床, 病理,診断,治療及び予防に至る完璧な内容でありま した。まさしく基礎医学だけでなく臨床医学に至る全て を網羅した研究でありました。大正9年に東京帝国大学 内科学教授として転任します。昭和19年文化勲章受章 を授章。,昭和25年逝去されております。 |
戦前資料:奇特な奇特な愛国心の篤い親子です! |
親子二代でしょうか!…明治と昭和です。余程の愛国者 と思われます。しかし宮内省もわざわざ奇特と書かなくて もよさそうに思います(苦笑)。 |
戦時資料:玉造船所(三井造船)の弁当箱 |
この会社は、1917年(大正6年)に三井物産株式会社造船部として 現在の岡山県玉野市に誕生しました。 その後、1937年(昭和12 年)に”株式会社玉造船所”として三井物産から分離独立しました。 1942年(昭和17年)に現在の社名である”三井造船株式会社”に 改称しています。 |
玉造船所(三井造船)は、戦前は、三井物産の北米航路 の貨物船などを建造していました。戦時中は、占守型海 防艦の”占守”や”石垣”などを建造、この他にも 4号級 駆潜艇や13号級駆潜艇なども建造、呂35級潜水艦の呂 44、45、46、49号潜水艦等も建造していました。 |
戦時資料:青島陸軍病院☆輸血報国記念のバックル |
青島陸軍病院★輸血報国記念のベルトのバックルです。 陸軍の星章の下の真ん中に赤十字社のレッドクロスが描 かれ左右に鳳凰が描かれています。 |
戦後資料:警察大学校卒業記念のベルトとバックル |
明治18年に設立された警官練習所を前身とする 警察大学校は、敗戦後、再度の改編を経て昭和 21年に中央警察学校、昭和23年には、現在の 警察大学校になりました。平成13年に中野区か ら現在の府中市に移転ししています。 |
戦前のパスポート Part W |
運命の日米戦の開戦一年前の昭和15年12月21日に 発行されたパスポートです。外務大臣は、野村吉三郎 海軍大将です。この方は、公用で種羊場助手で豪州 経由で新西蘭(ニュージーランド)にいかれたようです。 羊牧を行う為の官命のようです。 |
当時のオーストラリアは、白人至上主義の極致を 行く人種差別の国でしたので、さぞや怖くて嫌な 想いをされたので無いでしょうか?…昔の南アフリ カ共和国のアパルトヘイトも真っ青な地域でした。 私の子供の頃は、黄色人種でも日本人だけは、豪 州や南アフリカで名誉白人などと呼ばれていました が今では、死後ですね!…豪州も観光立国で様変 わりしたものです。 |
ニューカレドニアの中心都市である ヌメアでトランジットしています。 |
兵庫県神戸水上警察署の公印で15年1月3日 と捺印されています。 |
味わい深い…南洋の代用水筒 |
小さ目の椰子を使った水筒です。 |
機能的にも十分に使える品です。 |
甲飛の身体検査合格証書 |
昭和18年の年末の日付けがある 志願兵(甲飛)の身体検査合格の 証書です。昭和19年度の募集の ものですので、この方が入隊して も最早、戦場に出る事なく敗戦を 迎えらたものと思われます。 |
昭和20年2月11日、在張家口の日本総領事館が
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敗戦の約半年前に作成された黄銅製の立派な文鎮(置物)です。 |
大きさは、高さ5cmX幅22.7cmX奥行2.8cm |
張家口は、昭和14年に蒙古聯合自治政府の首都となり 張家口特別市となりました。ここに日本総領事館があり ました。日本の敗戦後は、張家口市は中国の河北省に 編入されました。 |
敗戦のギリギリにあっても我国が満蒙など不安定な要素を 含む微妙な地域に力を注ぎ外交を行っていた事が良く判り ます。 |
これは、箱が壊れた蒙古連合自治政府肇建功労章 |
西南戦争で官軍が薩軍に出した降参勧告書 |
明治十年政府軍より薩軍に出された降伏勧告書。 和紙に木版擦りされたものです。 |
予科練出身者の記念の品 |
大正十年三月三日 皇太子殿下 外御巡遊記念メダル |
大正十年三月三日、皇太子殿下が欧州御巡遊をされた 時の記念メダルです。箱は、元箱でありません。 |
巡洋艦”香取”を御召艦として横浜港御出港され、英・仏・ ベルギー・蘭・伊の五カ国を御訪問されました。同年九月 三日に同じ横浜港に帰港され、その御帰国の式典模様の 映像が日本映画会社の35粍フィルムとして残っています。 |
満州から出征し戦死された方の紙物の遺品 |
昭和十九年六月二十九日に再召集で出征し戦死された方の遺品です。 満洲法政学院学生証、在留届出に関する大連警察の履歴表、大連中央 電話局出入証の三点です。昭和十一年の召集で十四年満期退営で陸軍 伍長で迎えています。その後、満洲法政学院に行かれて卒後、昭和十八 年に警察官になられたとの事です。その後、再召集されて昭和十九年六 月二十九日戦死されています。 |
右は、昭和十六年度の満州法政学院の学生証です。 左は、大連中央電話局の出入証とあります。下の 在留届出に関する履歴表から昭和十六年九月から 在留地が大連市の大連中央電話局内に引越して届 け出がなされています。御家族がこちらに勤務するな りで電話局の社宅などに住まわれていた時のものと 推察します。今は無き大連中央電話局の公印が捺さ れた非常に珍しい物だと思います。 |
大連警察の在留届出に関する履歴表です。 |
徴収年と役種、兵科階級が判るようになっています。 関東軍管内の在留邦人をこれで管理していたようで す。軍歴のある方は、これを軍隊手帳または、第一補 充兵証書に添付して奉公袋に収容しとくように記載さ れています。 |
戦前資料:威銃許可証と猟友会の会員章等 |
戦前の狩猟免状ケースに威銃許可証、千葉県 猟友会の会員章や名刺等が入っています。 ケースは、東京川口屋銃砲店製で山羊革の 立派な物です。所持者だった方の名刺が数 枚入っています。今となれば、こうしたものも 珍しい物のような気がします。 |
川口屋林銃砲火薬店は、長い歴史を持つ有名な 銃火薬類取扱い商です。以前は、日本橋に本店 があり大阪,札幌,函館,釧路に支店があったよ うですが、今も東京都あきる野市に株式会社 川口屋林銃砲火薬店として会社が残っているよう です。 |
許可証の免許者欄に魚協の組合長の名前があります。 威銃は、鳥獣駆逐の為の脅しようの銃で鳥獣捕獲を 目的とした村田銃とは、違うものと思われます。時々、 ヤフオク等で出品を見かける音だけの威銃ですが、許可 証がいる品だとは思いませんでした。威銃(おどしづつ)と 読みます。 |
戦前・後資料:鈴木敗戦内閣の内閣書記官長
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府立一中、一高、東京帝大のエリートパターンを歩んだ 大蔵官僚です。岡田内閣内閣総理大臣秘書官在任中、 二・二六事件に遭遇、同僚らとともに岡田首相の救出に 奔走し成功した。また敗戦時の鈴木貫太郎内閣の内閣 書記官長として敗戦工作の一翼を担い、更に敗戦詔書の 起草に尽力した事でも有名な方です。戦後の公職追放後 は、衆議院議員、参議院議員を務め、自由民主党参議院 幹事長、経済企画庁長官・郵政大臣なども歴任しました。 また財団法人日本盲導犬協会の初代理事長も務めてお ります。戦前と戦後を国家の中枢にあって見聞し関わった 人物と言えるでしょう。 |
粗末な紙に印刷され印を押された 非常線通行証とあります。広島陸 軍需品支廠の発行です。 |
満州の大連工業学校の記念のベルトバックル |
土木科第二回生でバックルの裏に村本亥三男と 名前が彫ってあります。上には、『悠久ノ自然ト共 ニ三十四名ノ前途ニ幸アレ』とあります。満州の広 大な大地と自然に抱かれて学んだ34名は、その後 どのような人生を歩んだのでしょうか?…敗戦期を 無事に生き延びて日本に帰国を果たしたのか…。 |
関東都督府の奏任官二等の肩章 |
なんとも可愛い自衛隊限定販売の 大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ ーズのキューピーです! |
ある年の春に憂国烈士の自宅の庭に咲いた可憐な桜です。 |