旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part Wo















金沢にあった旧制第四高等学校のメダルです!
関西に住まわれる大先輩より頂きました。1930
年 時習寮 超然 の有名な文字が刻まれており
ます。天下国家を憂い語った当時の若きエリート
達のマントに高下駄に学生帽のバンカラ姿が瞼に
浮かぶような気がします。
片側には四高の星章にトレードマークの”超然”の文字と腕を組む
人間がレイアウトされています。そして別面には、皇紀2592年(昭
和7年)に時習寮に四高、四十周年記念に星章と白線二本がありま
す。



陸軍省 大阪砲兵工廠宇品支廠の徽章
605の固有番号が入っています。







敗戦間際の予科練 ある海軍上等飛行兵の所持品




予科練の合格通知書(裏表に記載有ります)です。
入隊場所変更通知と予科練卒業証明書(戦後発行)


名刺です。
霞ヶ浦空の教科書
高野山空(予科練)での、この方の手帳です。


三重空予科練心得手帳






履歴表です。
敗戦で卒業と同時に予備役ですが、まだ17歳です。
大切に残されていた予科練の襟章、旧型の
下士官軍帽の帽章、階級章にベルトのバッ
クルです。


友人や親戚から送られたものでしょうか。









海軍予科練生 乙種飛行兵採用通知など




京都の方のようです。昭和19年11月2日に海軍乙種飛行兵を希望
して志願書を提出し合格の通知が来ます。左の紙が昭和19年12月20
日、予科練乙種飛行兵の合格通知です。右は、合格通知についていた
メモで奈良へ出発する集合時間と出発時間が記載されています。この
方も上の予科練の方と同じで敗戦ですぐに予備役編入で帰郷されたも
のと思われます。













海軍 各種汁器




海軍のアルマイトの汁器です。


海軍のアルマイトの汁器の大6個です。



海軍のアルマイトの汁器の小6個です。











陸軍士官学校の卒業證書(大正二年)




大正二年五月二十六日の日付の卒業証書です。
歩兵第二十三連隊の田中 時馬 士官候補生
とあります。因みに二十三連隊は、熊本の第
六師団隷下で鹿児島の歩兵第三十六旅団に
ある都城編成の連隊です。







戦時資料:警防団関係の一連の品々




警防団手帳です。表紙の開いた部分に取り出せる
昭和18年の身分証明の2点が付いています。




警防団の防空監視所用アルミ製の鉄帽です。航空機などの削り滓を
溶かして鋳造したものです。ライナーは、4個の座布団パットを付けた
ものですが、痛んでいます。帽章は、プレスの真鍮製もしくは、アルミ
プレスの金塗装と思われます。


珍しい警防団の教本です。これ等は、なかなか出てまいりません。
程度も良い物と思われます。法令、灯火管制、防空、防毒など、主
要なものが大体揃っています。昭和15〜17年のものが中心です。
大政翼賛会のものも一緒にあり、全部で9冊あります。









戦前資料:静岡縣警 新居警察署の巡査の所持品
           (昭和19年4月20日貸与)




非常に珍しい昭和19年4月20日に静岡縣警の巡査に
採用され新居警察署勤務をされていた戦前の警察官
の貸与された品々の七点です。
当時のオリジナルのままの鍵付きの手錠(捕縄付)と
警察手帳です。下は、警笛です。もしかしたら警笛は
戦後に支給されたものかもしれないと思います。


帽章と肩章です。


縣警組織の全警察署だけでなく保健所など
の他の役所も網羅されている名簿です。
手錠は、錆が浮いていますが生きています。
鍵の開閉も問題無く、捕縄も健全です。手錠
には、刻印があるのですが錆びもあって難読
です。






警察手帳です。鉛筆も付いています。


中身もしっかりと書き込まれております。自分が
担当した事案の被疑者の事や留置場で担当し
ている被疑者達の事等。
こうした貴重な資料がまとまって出る事は
警察関係では、余り見ないので珍しいもの
と思います。


新居警察署は、静岡県の西の外れ愛知県との県境に
あります。現在の湖西市に今も存在します。







戦時資料:敗戦直前の特別高等警察の秘密文書@




粗末なガリ版刷の三枚五ページの資料です。敗戦の
二週間前に警視総監より内大臣に宛てられた特高警
察の資料になります。敗戦にあたり在京朝鮮人の動向
等を考察し報告したものです。今となれば非常に珍しい
貴重な資料と言えます。
裏面には、不逞鮮人とおもわれる警察に目を付けられた
人物の表や朝鮮人留学生在校名並びに学校別在籍数の
表などが記載されています。
この敗戦時の警視総監 町村金五氏は、内務官僚で
内務省警保局長などを歴任しましたが戦後に公職追
放が終わると政界へ打って出て衆院議員となります。
その後は、北海道知事を三期務めて再び国政に参議
院として復帰し自治大臣を務めました。私と同じ札幌の
出身です。息子の町村信孝氏も自民党の衆院議員で
小泉内閣の外務大臣でした。宛て先の内大臣 安倍源
基氏は、こちらも警察官僚で警視総監経験者で戦後は
A級戦犯で起訴されましたが後に不起訴となった人物
です。
不逞鮮人をしっかりマークし表にして要注意人物を
ピックアップしています。特高は、このように帝都・
国家の治安を守る為にきちんとした仕事をしていた
事を示している資料とも言えます。兎角、悪い評価
ばかりをされがちな特高ですが、余りに一方的な見
方のような気もします。これは、警察の特高だけで
なく憲兵隊そのものと特高憲兵も同様だと感じます。
朝鮮人留学生在校名並びに学校別在籍数の
表が載っています。今と違い、戦前は特高が
不良外国人やスパイや工作活動を行いそうな
不逞の輩を野放しにせず、しっかりと見張り取
り締まってくれたので社会は安定し治安も今の
ように悪くありませんでした。特高と鬼のように
恐れられましたが…アカが野放しのこの時代と
違いしっかりとした秩序のあった古き良き戦前
を思う者に取っては、頼もしい存在であったとも
言えます。



特 高 警 察 の 名 刺




上のガリ版の資料と無関係の名刺です。
警視庁目黒警察署の特高刑事の名刺10枚です。







戦時資料:敗戦直前の特別高等警察の秘密文書A




昭和20年6月30日の警視総監、特別高等警察
部長で書かれたガリ版刷りの秘密文書です。
朝鮮人検挙送検に関する特別高等警察秘文書です。 都下豊島区
池袋在住の朝鮮人が朝鮮独立や停戦条件などの記載された不穏
文書を作製提示したため治安維持法、言論出版集会結社等臨時取
締法で検挙された顛末が罪状の要旨、犯罪発覚の端緒、犯罪事実
概要などが6ページにわたって記載されています。管下各警察署長
に朝鮮人に対する視察取締上の参考にするように書かれているの
が非常に興味深いです。







戦前・戦後、外務省巡査をされていた方の資料




支那で山海関領事館の外務省巡査をされていた
方の資料です。岐阜県出身の方で中部第四部
隊(歩兵第六十八聯隊)で従軍しています。軍隊
手帳は、ありませんが…従軍手帳等私物の手帳
が残されております。
昭和17年2月21日に日付記載のある
御本人の写真です。中部第四部隊(
歩兵第六十八聯隊)の一等兵だった
時の写真のようです。
戦後の昭和23年2月28日、巡査部長へ
昇進の辞令です。
昭和23年2月28日、外務省巡査部長への昇進による
棒給変更の発令通知と同年6月23日に退職金を支給
された発令通知です。共に外務大臣官房人事課長名
で出されています。従って外務省や各所の大使館・公
使館の警官は、警視庁や警察庁から派遣された警官
では無く外務省自身で採用した警備員というか警官と
なるようです。


昇進と同時に依願退職しています。退職に合わせて
昇進という形で退職金の上積みなどをしてもらったよ
うな形のようです。
敗戦時に山海関領事館の在勤職員(外務省巡査)
として積み立てた義務貯金の一部を昭和20年9月
下旬に日本へ送金したが、凍結されそのままになっ
ていた金が昭和29年に国内の指定金融機関に戻さ
れたので藪中巡査部長が山海関領事館時代に積
み立てた6.900円を現金書留で返金するという内容
の外務省公印を押した文書です。非常に面白い珍
しい文書です。
この文書の発令者は、中川外務大臣官房会計課長
となっており昭和31年9月20日の日付で、藪中錠一
殿宛で記載されています。敗戦から11年も塩漬にな
った積立貯金がやっと返済されたようです。







戦前資料: 皇紀二五九四年 
         
 日米対抗陸上競技大会記念メダル




昭和8年、日本は国連を脱退…時代は、緊迫したきな臭さを増し
ていく流れにありました。そんな中で昭和7年にロスアンゼルス
で開催された第10回オリンピック競技大会には、130名の日本選
手団が参加し、7個の金メダルを獲得しましたた。また昭和9年に
は、ベーブルースを含むアメリカ大リーグ選抜チームが来日して、
第2回日米野球大会が開催されています。これにより大日本東京
野球クラブ(巨人軍)が創立され、翌年には日本のプロ野球として
初めて渡米しました。その後、ハーバード大学の野球チームも来
日しました。そして昭和9年このメダルにある第1回日米対抗陸上
競技大会が開催されました。こうしてみると戦争への足音とは、別
に民間交流がスポーツや芸術・文化を通したものとしては、相当な
勢いで行われてきた事がよく判ります。
この陸上大会が行われた年から7年後に我国と米国は武力で
持って戦いあう事となりました。皮肉な事ですがこのメダルには
相互理解とスポーツ交流を通して平和や親善を深めようとした
多くの方が関与していた事が改めて感じられます。第二次世界
大戦への参戦という日本側の決定は、日米戦回避の為の必死
の外交努力も米国大統領とその意を受けたハル国務長官によ
り徒労に終わり…我国は、米国の筋書き通りに破滅への道を導
かれるようにひた走りました。こうした米国の嫌らしい意図とは、
別に民間レベルでは、暖かい人の交流があった事も忘れては、
ならない事だと思います。







戦時資料:名古屋陸軍造兵廠の軍属(雇員)の方の所持品




名古屋陸軍造兵廠の会計課計算掛 雇員の方
の一連の所持品です。非常呼集証や軍属臂章
(雇員)に当時の名札等があります。
ヤフオクで入手しました。
手帳の表紙は、元々が職工手帳でしたが臨時職工から事務員に
昇格になった為、上から工員手帳の紙を貼り付けてあります。


昭和5年に臨時職工として入職以降、普通職工
筆生を経て昭和13年に事務員に昇格しています
。その間、約8年です。




名古屋陸軍造兵廠の陶製文鎮のようです。
名古屋陸軍造兵廠職員の集合写真です。珍しい
野球チームのユニフォーム姿があります。日米戦
開戦前は、こうした余裕もあった事が判ります。




辞令など4枚あります。辞令




仕事の為に入手できませんでしたが同人の
所持していた名古屋陸軍造兵廠従業員之証
や終戦後の残務整理部員之証などです。
この下も同じように入手できなくバラバラとなった一連の
方の品です。名のある有名な人物の品物では、ございま
せんが、こうした軍属(雇員)の品も当時を探る資料とし
ては、今となれば希少な物となっております。同一人物の
品がバラバラに全国に散るのは、いつ見ても心が痛む事
であり残念でなりません。







原政四郎 一等軍医に贈られた
  故 白川陸軍大将の写真と同軍医
       所持の満州陸軍の写真等々








昭和七年、上海でテロに遭遇し重症を負われた白川大将は、その傷が
元で亡くなりました。葬儀後、長男の白川義正氏から軍医に送られたも
のです。


原軍医が所持していた写真四枚と写真が
入っていた写真館の紙袋です。


満州国陸軍歩兵第八団の軍(連隊)旗です。
衛兵の立つ入り口の脇に混成第七旅団
歩兵第八団第二當本部の看板が読めま
す。


軍旗と団長(連隊長)が雛壇上から敬礼し見守る中
歩兵第八団の兵士が隊列を組み行進している写真
です。


出所は、別ですが白川大将の書した色紙です。







勇一三○三部隊(歩兵第二十九聯隊)留守部隊
  から苛烈な戦場と化したガ島の丸山道で戦った
   一兵卒から叩上げの小椋 季利 陸軍大尉の所持品








小椋大尉が徴兵され若松聯隊区の歩兵第六十五聯隊
後に仙台の歩兵第二十九聯隊に変わりますが、こちら
に二等兵で入営し特務曹長(後の准尉)昇進するまでが
記載されている軍隊手帳です。




勇一三○三部隊(会津若松の歩兵第二十九聯隊)の将校名簿等です。
連隊の留守部隊として会津に残った幸運の人です。連隊は、上部組織
である第二師団の一員として日米戦の開戦後は、ジャワ島攻略戦に参
加後にガダルカナル島で軍旗奉焼し聯隊長戦死、ほぼ全滅に近い壊滅
的なダメージを受ける悲惨な目に遭います。その後、昭和18年2月に比
島へ撤退、再編成します。聯隊は、パレンバン警備に辺り、軍旗を再拝
受します。続いて送られたのは、援蒋ルートの中間拠点インパールを占
領を目指し第二師団主力は、第十五軍に属さず印度方面に進軍しメー
クテーラ会戦とイラワジ会戦を戦い勇猛ぶりを示しました。その後、補給
が続かず仏印へ後退を余儀なくされ敗戦を迎えます。昭和17年10月24
・25日の総攻撃で第二歩兵団の団長 那須弓雄少将をはじめとして、歩
兵第十六、第二十九聯隊の各聯隊長が戦死。11月3日には、第四聯隊
長戦死とまたもや損耗率は、九割に上る壊滅的な被害を被りました。
このように僅か数年で二回も師団が壊滅した第二師団のような部隊も珍
しいでしょう。当初、いずれにも留守部隊として地元にあって戦地に出る
事無く少尉から中尉、大尉と敗戦までに昇進を遂げたものと思っておりま
したが、そうでないとの指摘された方が居られ、再調査しましたところ、
昭和17年10月24日のガダルカナル島第二次総攻撃の右翼第一線部隊
で同聯隊の第一大隊第一機関銃中隊長として参加され小椋 季利 中尉
の名前が確認できました。このガ島攻略の戦闘で24〜25日の戦いで聯
隊長以下、将校31名と准士官以下490名の戦死者を出し…軍旗は生存
者30名前後によって土中埋没処理されました。聯隊は師団予備戦力とな
りますが重症者を残置し死なせなければならないほど悲惨な飢餓の島…
ガ島の為…戦闘で亡くなられた人よりも飢えと病で亡くなった人の方が多
い無残な状態でした。翌18年2月7日にガ島を撤退した時に聯隊の残存
兵力は僅かに253名だったと謂います。小椋大尉が生存したかは私の手
元の資料では確認しようがありませんが、19年4月の陸海軍将校婦人会
若松支部には名前が残っておるのでガダルカナルを生き延びた可能性が
高いと考えます。尚、聯隊には第一次と第二次の補充隊がラバウルに17
年12月の段階で到着しており…18年の4月以降に残隊と合流しフィリッピ
ンに移動、後にインパール作戦に参加し仏印で敗戦を迎えます。
真珠湾攻撃の直前となる頃の留守部隊の将校名簿です。
先任順に掲載されています。


日米戦の開戦約一ヶ月前の名簿です。中尉の末席で名簿に
名を連ねています。少尉から昇進してまだ一年弱です。
陸海軍将校婦人会若松支部の在隊者名簿です。
最先任の中尉より5人目位の順番に上がってい
ます。


19年4月の陸海軍将校婦人会若松支部の会員名簿です。
陸軍大尉に昇進しているのがわかります。夫が戦死した未
亡人や現役から退いた元将校の夫人は会員資格を失うか
戦争未亡人の別の会へ移行するものと考えますが…この点
を婦人会の会則などを知りませんので何とも謂えませんが、
もし未亡人であっても婦人会に残って居られる制度であれば
小椋大尉は、ガ島戦で戦死し大尉に昇進した可能性も出て
参ります。ガ島の戦闘では…まず真っ先に我郷土の北海道
の一木支隊(歩兵第二十八聯隊:熊9208)が壊滅の憂き目
に遭っています。この戦いは戦力の逐次投入の稚拙さの代
表として戦史に刻まれると同時に…この奪還作戦の失敗か
ら連合軍の反攻作戦が大々的に開始され…先のMI作戦の
失敗と機動艦隊の壊滅に加えて…日本の敗北へのターニン
グ・ポイントとして位置付られています。







三式航空羅針儀一型の拡大鏡




艦攻・艦爆・偵察などの多座機の偵察席に
このような拡大鏡を載せた航空羅針儀が装
備されました。大型機では、主操縦席にも
装備されていました。拡大鏡自体に欠品や
故障は無いようです。
紙製の銘板が摺れて難読の為、陸海軍
どちらか不明です。東京航空機製造が
何とか読めます。







海軍航空兵の貴重品入れと思われる品




”飛行兵の腹巻または、飛行兵の腹帯”と呼ばれていた
ものと思われます。航空兵が巻き袋状にした中に貴重品
を入れて腹巻のようにしたそうです。満が一、敵前に墜落
降下した時にも貴重品だけでも身につけておくと為だそう
です。
陸軍の降下ベルトとは、明らかに違う物です。







戦時資料:出征兵士を駅で歡送迎する為の駅入場券
                         (足利駅)




足利駅長とありますので栃木県足利市の足利駅
のももと思われます。西宮町勢惣代とあります。出
征兵士を送り出す際に使用した無料の駅への入場
券です。このカードを首から下げた惣代以下の町の
人に万歳を連呼され日の丸の旗を振られ多くの若者
が汽車に乗り込んだ風景が目に浮かぶようです。




















防府通校の記載のある海軍水筒




表には”防府通校”とあり、裏に所持者の名前がある海軍の水筒です。
防府にあった海軍通信学校の多分、生徒の物と思います。キャップを
外すとふたの裏にコルクが入っており、特にコルクの栓が要らないように
なっています。外側、肩紐も欠品がありません。







海軍 米袋






舞鶴、横須賀、呉、佐世保など各鎮守府の記載のある米袋です。
大きさは、大体 約95×43cmで米袋のような気がします。







昔の紙物




川崎造船の工員の診察券です。…川崎病院での診療に提出したものでしょう。

公用郵便の封筒のみ







陸軍☆下士官私物図嚢




腰下げ式の図嚢です。内部に菊兵団〜(難読)N嶋軍曹と
記名の入った下士官の私物図嚢です。造りも切り放し仕上げ
の1枚革造りで非常に変わっています。







精密複製品の擲弾筒




下の部分は、金属製で上部がABS製の複製品ですが
中々、良い味出しています。口径40o程度のプラスチ
ックのランチャーのモデルを射出できるようになってい
ます。







こちらは、中田商店で出している複製品の擲弾筒嚢です。



こちらも複製のダイキャストの八九式榴弾です。
この画像は、制作者のコピー元のオリジナル榴弾(左)
とコピーした複製品(右)との比較した画像です。良く出
来ています。







各種腕章です。下から満鉄、中島飛行機の腕章
上が隣組等の防火担当者の腕章です。


未使用の陸軍公用便箋が一冊です。


勲三等瑞宝章






まさしく大東亜共栄圏という言葉が頭に浮かび
ます。戦前の日本人の壮大さと実行力を思い
知らされます。
蒙古連合自治政府肇建功労章


蒙古連合自治政府の旗です。
上の功労章の綬が旗を示して
いるのが判ります。



賜杯









ある年の春に憂国烈士の自宅の庭に咲いた可憐な桜です。