旧軍関連・戦前資料収載品
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本土決戦期の特設警備隊と推測される部隊章と二等兵の 階級章。(九八式を流用したもので、被服取付痕跡アリ)部 隊章は未使用です。こうした形での二等兵は、意外と珍し い気がします。 |
船舶工兵胸章に三式階級章用の星章を付けた ものです。趣味家のお遊びでしょうか。外した方 がキレイです。 |
元帥陸軍大将 寺内寿一 伯爵の書簡”別辞” |
昭和12年12月、第四飛行団長の藤田明 陸軍少将 宛ての別辞です。まだ寺内大将が元帥になる前の 北支派遣軍司令官時代の書簡です。 |
内容は藤田少将の転属に際しての送別の言葉のようです。 |
藤田 朋 陸軍中将 和歌山出身、航空科、陸大34期、功三級 昭和 8 年 8月 1日 陸軍大佐 下飛校研主事 昭和 9 年 3月 5日 飛行第11大隊長 昭和10年12月 1日 飛行第11連隊長 昭和11年 3月 7日 明飛校幹事 昭和12年11月 1日 陸軍少将 第四飛行団長 昭和13年12月10日 水戸飛行学校長 昭和15年 8月 1 日 陸軍中将 陸軍航空通信学校長 昭和16年10月15日 待命 10月30日 予備 |
寺内 寿一 元帥陸軍大将 唯一の親子揃っての元帥として余りにも 有名ですので詳細な説明は、割愛します。 南方軍総司令官としてビルマで降伏、 昭和21年6月12日シンガポールのレンガ ムで拘留中に病死(68歳)されています。 |
朝鮮軍司令官 板垣征四郎 大将の弔文 |
御遺族が大切にされていたのでしょう。 包み紙に繕いの後がたくさんあります。 |
戦死された陸軍兵長への弔文です。 |
戦死した分隊長を追悼した本
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陸軍伍長で戦死し軍曹になった草莽の戦士です。 友人達が友の戦死を悼んで作った本のようです。 当時、国民の義務として働きを立派に勤め上げた 働きを偲んでA5サイズ位の大きさに70ページあり ます。非売品で親族や友人に配ったものと思われ ます。”故 長谷川分隊長 盡忠録"です。 |
謹みて 故陸軍歩兵軍曹 功六級 勲七等 長谷川 正男命の神前に捧ぐ …と最初の1ページに記載されてあります。右の 書は、当時の佐藤 三重県知事の題字です。 |
鬼人も泣く壮烈…部隊長(33連隊長) 野田大佐の書 |
軍服姿の故長谷川軍曹、左が伍長で第四分隊長 をしていた戦死時期に一番近い写真と思われます。 右の防寒帽の写真は、上等兵で伍長勤務の肱章 に左胸下に小銃優等章を付けています。昭和9年10 月、満州守備チチハル時代とあります。 |
国にあっては、良き夫であり勤勉な国民。戦時にあっては 国家民族の為に命を投げ出した立派な英雄。これが平均 的で真面目な日本人の姿でありました。 |
葬儀の写真 |
一周忌の写真 |
故長谷川軍曹の遺児を抱く部隊長と遺族です。 |
応召の前は、岐阜の王子製紙中津工場で 働かれておったようです。昭和8年2月に 歩兵第33連隊第11中隊へ補充入隊する 事から軍歴が始まっています。成績優秀に て千葉の歩兵学校に選抜入隊し、以降、ト ントン拍子で一等兵、上等兵、伍長勤務上 等兵、昭和9年12月28日、伍長任官で満期 除隊されております。昭和12年5月に長男が 誕生し、8月27日に同し33連隊第11中隊第 二小隊第四分隊長として応召され翌9月24 日に北支の葛里庄の戦闘にて戦死され軍曹 になられています。 |
陸軍上等兵の所持していた身分証明書 |
昭和19年3月1日とある粗末な身分証明書です。 アクリルの定期入れを使用していたようですが、 今では、アクリル板と身分証明書が一体化して 融解しています。 |
大正二年 徴兵籤の付いた補充兵証書 |
満二十歳になると誰もが徴兵の義務が発生しますが、平時においては 全員が入営するわけでなく、籤で現役入営者が決められました。この方 は甲種合格ですが補充兵として在郷軍人となったようです。補充兵証に 糊で留められています。大正二年のものです。 |
陸軍騎兵第八聯隊
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陸軍騎兵中佐の認識票です。下士官・兵の場合は、 部隊番号などの数字だけで刻印されますが、将校の 場合は、階級と本名を刻印しました。シベリア出兵の 時の騎兵第八聯隊を指揮した第六代聯隊長の本多 重平 陸軍騎兵中佐の認識票です。聯隊長クラスの 認識票は非常に珍しいものです。 |
騎兵第八聯隊は 明治32年に弘前 で編成され日露 戦争では永沼挺 進隊で勇名を轟 かせた部隊です。 遊佐幸平少将を はじめ多くの馬術 選手を輩出した名 門部隊です。昭和 16年に捜索第八 聯隊に改編され先 の大戦では比島で 米軍を相手に死闘 を尽くしほぼ全滅に 近い状態で終戦を 迎えました。 |
三十年式小銃の使用済み薬莢と弾頭が五発 |
零戦 五ニ型(三菱製)の操縦席右外板 |
零戦五ニ型の操縦席右側の着艦フック 巻上げ転把下の縦通材と外板です。内 部側の機内色の青竹色、外部側の濃緑 色(下地赤茶>中塗り灰色>濃緑)が 確認できます。おそらく五ニ型初期の物 でラバウルからの回収品との事です。す。 |
この上の写真が縦通材と外板の 実際の状態との事です。 |
ラバウルの零戦の外板 |
俗に飴色の塗装が残ったものと言われる品です。 裏には、カタカナと数字の刻印があります。 |
海軍 九九式艦上爆撃機の大判空撮写真 |
写真サイズ、40cm x 31cmでアルミ・フレームの額 に入った複写では、無くてネガからじかに引き伸ば した非常にシャープな写真です。 |
迫力のある空撮写真です。 |
以下のように写真の裏に「昭和15年秋」などの書き込みがあります。 あまり古びた感じがしないので、戦後のある時期にネガの所有者、あ るいはネガを借用した人が大きく引き伸ばしたものと思われます。「世 界の傑作機:99式艦上爆撃機」の23ページにこの写真が掲載されてい るとの事で、11試艦爆の増加試作2号機という説明がつけられていた そうです。その説明の真偽は、定かではありませんが、どうも試作機で 無く量産機型と思われるとの事です。 |
戦時資料:戦時下の日本の絵葉書 |
今も昔もこうしたものは、その当時の世相を反映します。 動乱の昭和は、戦争の時代でありました。日本人の誰し もが平和を望みながら民族同胞の為、国家の為に銃を 手に国民の義務を果たしました。敗戦前の日本が独立国 家として誰に阿る事も無く独自外交で諸外国と毅然と渡り あった時代でもありました。 |
左が大東亜戦争記念報国葉書”ハワイ攻撃”吉岡堅二 筆 と右が満洲事変・満五年九月十八日の未使用の絵葉書。 |
聖戦四年七月七日・藤田嗣治筆の日支事変四周年ポスター 絵葉書と第三十五回陸軍記念日ポスター。共に陸軍省発行。 |
勝って兜の緒を締めよ…第三十三回陸軍記念日のもの。右は、 日支事変・三周年ポスターの絵葉書。共に陸軍省の発行です。 |
陸軍中央幼年学校予科生徒願 |
身元保証人は、伯爵 福島道正とあります。 入学希望者は軍人の子息では無いらしく自 費入学生です。佐賀県の士族とあります。入 学後の外国語は、ドイツ語を選択しております。 |
仙台陸軍地方幼年学校 入学命令書 |
明治の仙幼の入学命令書です。地方学校は、13歳から3年間。 学費は、陸・海軍の士官の子息は半額。戦死者遺児は、免除。 陸軍内の出世に於いて…陸軍大学校卒業かどうか以上に幼年 学校卒業かどうかが実質的にも形式的にも問われた事もありま した。この方は福島県の平民で自費で入学しています。 |
ある陸軍将校生徒の持ち物 |
陸軍将校になったと思われる陸士卒の方の 陸軍予科士官学校の生徒時代や士官学校 の生徒時代の持ち物と見習士官の時の写真 等です。 |
上の左は、陸軍予科士官学校の武教教本で右は、戦後の予防接種 手帖のようです。中身は、昭和24年の種痘の接種の記録のみです。 |
昭和9年度の出身校の旧制中学の卒業名簿です。 |
曹長の階級章です。少尉任官前の見習士官 の僅かな期間に撮られた写真と思われます。 |
他の射撃手簿が生徒と記載されているのに比べ、こちらは 上等兵と記載されていますので予科士官学校を卒業して、 陸軍士官学校本科に進学する前の隊付の上等兵時代の ものと思われます。 |
昭和15年2〜5月の記載があります。 |
小銃だけでなく軽機関銃のもありますが、余りこの方は 射撃の方が得意な方では、無かったようです。 |
昭和16年5月の記載があります。 |
陸士本科での手簿と思われます。 |
昭和17年と18年の記載があります。この時期に 陸士本科生徒だったわけです。見習士官の写真 もありますので少なくとも19年には、見習士官を 二ヶ月ほどで終えて、晴れて陸軍少尉に任官され たものと思われます。 |
同じく軽機関銃用のものです。 |
陸軍予科士官学校の武教教本です。 |
昭和24年の種痘接種の記載のある予防接種 手帖です。この陸軍将校だった方が、無事に 復員し戦後を生きた証となります。 |
陸軍 衛生(防水)消毒包(昭和十六年) |
陸軍の衛生包帯を濡らさない様に携行するものでゴム製 です。まだまだゴムが非常にしなやかで生きています。 |
GIの水兵がみやげに持ち帰った
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米水兵の粗末な紙に止められていたアルミのプレートです。 、「日本の戦艦から取った」という手書きの説明があり、本当 に戦艦かどうか真偽のほうは、定かではありませんが、日本 海軍の軍艦であるのは確かのようです。 |
米水兵のスクラップ・ブックから切り取られたと思われる 粗末な紙に貼り付けられておりました。一緒に広島の廃 墟となった写真と五拾選札が一枚貼られています。 |
他に剥がされていますが、米軍艦ダラスの写真が貼られていた 痕跡があり、「到着1946年1月27日、出発1946年2月20日」とい う文字があるので、同艦に乗って来日した水兵の所有物だったと 思われます。 |
戦時資料 陸軍造兵廠東京工廠一覧 |
昭和十一年十二月東京工廠発行の一覧です。工廠所在地・従業員数・沿革・ 組織・主要製造品から従業員の福利厚生等。昭和十一年頃のこの工廠は、秘 密では無くオープンで有った様です。従業員応募者や来賓者は、参観する事が 可能だったのでしょうか?…知りたいところです。この工廠跡は、現在では赤羽 団地になっています。 |
在郷軍人手帳 |
戦時資料 模範的な愛国者として当り前に
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警防団・大政翼賛会・国防婦人会・国防献金等々 …各種・感謝状・認定証…その他、13点あります。 |
戦時下の帝都に住む夫婦の本土防衛に貢献した証の紙類等です。 帝都東京府東京市芝区(現 港区)は空襲で全焼しています。この 様に紙類が残っているのは、非常に珍しいものです。 |
この御夫婦は、一生懸命に様々な団体の行事に参加し 尽力を惜しんでいません。平均的な当時の国を愛した 国民の平均象が浮かび上がってくる感じがします。戦災 で焼けなかった事も勿論ですが、戦後の一時期、かなり 長い間、国家に忠節を尽くした事は、悪だったかのような 魔女狩りに近いとまでは言いませんが、愛国的な事が悪 とする嫌な風潮がありましたので…こうした物をまとめて 残す事は、珍しいと思います。 |
お子さんも優秀で頑張り屋さんだった ようです。 |
南方の戦場で米兵が持ち帰った
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入手先の方の話では、フィリッピン方面での物 らしいとの事でした。米兵が戦場で見つけて持 ち帰った物で、アメリカのミリタリーショーで入手 したとの事です。 |
戦場になる島や地域に機械整備などで派遣されて そのまま帰国出来なくなった方のものではないか と思われます。 |
昭和18〜19年までの不二機械工業の身分証明書 が付いています。裏に米軍が情報チェック済の印が 、名刺と共に押印されています。 |
財布の中には、未使用の切手、五十銭札が入っ ていました。 |
不明なバッチが一個と戦車と飛行機の釦が二個です。 釦は、子供の服のものと思われますが、この方の御子 息の物だったのでしょうか?そう考えると少し物悲しく なります。 |
南画で高名な画家の辞令など珍しい手紙 |
大本営内郵便局から料金別納郵便出だされた 海軍省副官・差出で安田半圃氏宛の封書です。 |
封書の中には、辞令がニつありました。 一通は、戦時中のもので、もう一通は、 戦後の物です。 |
戦前の物の方は、海軍省からの物でこの封書に元々 入っていたオリジナルの物です。もう一通は、運輸省 からのもので昭和22年3月14日の日付けがあり戦後 のものです。 |
安田 半圃(やすだ はんぽ)氏は、明治22年新潟県生れで 本名が安田 太郎 です。別号光見・鶴伴居。水田竹圃に師事 、南画を修める。日本南画院同人としても活躍し熱海伊豆山に 疎開して戦後も熱海に住み続けておりました。昭和22年9月8 日、東京の病院で歿。東京国立近代美術館等に作品ある高 名な南画の画家で享年58歳でした。 |
左の戦前の辞令は、安田太郎 海軍省事務ヲ嘱託シ部内限奏任官 待遇トス 昭和十八年四月二十日 海軍省 とあります。この海軍省 の辞令には、『安田半圃後援会の裏打ち』があります。右は、戦後に 運輸省が鉄道総局業務局事務を嘱託するとあります。この発行の日 付けの半年後に他界されています。やはり高名な文化人は、敗戦の 混乱期が過ぎるとそれなりに優遇され食べていけるように配慮がな されている事を知りました。 |
大正時代 近衛兵の紙物資料 |
近衛歩兵第四連隊に入隊、徴兵が明けて 上等兵で下士官適認証をもらって予備役 なった方です。 |
騎兵などでは、必需品の鞍工術のように銃器一般の 小銃器械鍛冶を専門とする銃工術を納めています。 銃工術では、小銃から拳銃、擲弾筒から軽・重機関銃 に至るまで修繕しました。 |
銃工長(適任者)として善行章を一線いただいて 上等兵で現役生活を終えています。戦時であれ ば伍長でそのまま継続召集で下士官生活に入っ たかもしれませんが、良い時代でそのままシャバ の生活に戻っています。 |
この酒肴両を御下賜いただいて除隊に なっております。 |
関東軍 独立守備隊兵の紙物資料 |
関東州は、中国遼東半島先端・現在旅順・大連地方。 独立守備第五大隊の兵士です。銃工術を修業し翌年 一等兵で善行章をを一線もらっています。優秀で班長 にも目を掛けてもらっていたのでしょう。翌九年には、 上等兵で下士官適任章をいただいて予備役に編入と なったことでしょう。もしかしたらそのまま伍長に任官し 軍人生活を送ったのかもしれません。 |
戦前に撮影された超大型の皇居二重橋の額縁写真 |
とにかく大きな写真です。額縁のサイズが105cm×76cmです。 |
橋の詰所で小銃を持ち警備する近衛兵の姿が写っています。 |
現在の皇居・二重橋 |
東宮殿下(後の昭和天皇)の御真影 |
敗戦の詔勅 |
散歩道シリーズ第二弾!
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ここも愛犬の散歩コースの一つで近隣にある施設です。 関東大震災後、このあたりの急激な都市化に対応して 建設され昭和5年に完成しました。高さが約34mで直径 は、18mあります。近くの住宅街に埋没するようにひっそ りと存在しています。哲学堂や新青梅街道、目白通り、中 野通りが近くにあります。現在では、災害緊急時用の給水 槽として存在しています。 |
先の大東亜戦争で米軍艦載機の襲撃を受け、 弾痕が今も塔の壁に残っています。 |