旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part Wl






















出征兵士の家(家族)の章です。旭日・矛・盾・桜・が描かれ、出征兵士
の家族が付けていた布製のワッペンです。此れを付けていると何かとお
手伝いをしてもらえたそうです。







九九式破甲爆雷と珍しい収嚢袋




この九九式破甲爆雷は、対戦車兵器として開発された
円盤型爆雷です。4個の永久磁石を敵戦車に吸着させ
て爆発させる物ですが、手榴弾のように人による投擲
もできました。昭和14年のノモンハン事件では、ソ連の
BT5型戦車の攻撃に使用されました。昭和20年5月24
日の沖縄で米軍占領下の北・中両飛行場に強行着陸し
攻撃を敢行した義烈空挺隊もこれを携行して米軍に多
大な被害を与えました。
この品は、茶褐綿布製のカバーに少々ほつれあります。
昭和16年製で磁石鉄製カーキ塗装で三菱マークにN・S
極の刻印がそれぞれに入っています。雷管・爆薬は除去
されて木製のダミーが入った安全な合法品です。


四辺に磁石の付いた、通称「カメ」と呼ばれる破甲爆雷の収納袋です。
袋の蓋の裏に、信管を装着する紐が付いています。後ろにベルトを通
すループがあり、左に2個刻印があります。状態としては未使用クラス
ですが、ほこり汚れと、ホックにサビがあります。


周囲には堅い枠が入っています。







海軍軍属 高等官四等に登りつめた技手の紙物資料




辞令が示すように叩き上げた技師で、敗戦直前に高等官四等に
なっています。この方は、東京の大田区の方との事です。
高等官四等は、奏任官であり海軍大尉に相当します。
海軍技手が軍属として判任官相当と思われますので
兵卒・下士官から叩き上げて特務士官になるのと同様
に昇進してきたものと思います。
海軍技手に任じられて以来、約21年を経て敗戦の一ヶ月前
に高等官四等に昇進しています。判任官と違い、奏任官は、
将校待遇となるので内閣総理大臣が天皇陛下の裁可を得て
任命する形式を採っています。
海軍技師兼軍需技師として昭和19年からは、軍需省の
航空兵器総局勤務となっています。







軍需省・監理官 陸軍少尉の身分証明書




広島の軍需省 中国軍需監理部の身分証です。
官職は、軍需省軍需監理官とあります。赤字で
非常通行章と記載されています。昭和20年4月
1日の日付があります。







郷里で在郷軍人会の顧問や大政翼賛会支部の
        理事になった予備役陸軍将校の遺品




昭和13年当時、支那で陸軍中尉として転戦した故 中村久五郎
氏の残された当時の日章旗や紙物等の資料です。


昭和16年には、故郷の八木荘村(滋賀県愛知郡八木荘村)は、現在の
滋賀県愛荘町(秦荘町となり合併して)で民間人として生活されている
のが判ります。


山田亮部隊は、恐らく大隊で佐野隊は、直属の佐野中隊
だと思います。中村隊は、中村小隊の事を指すと思われま
す。京漢線沙河鉄橋 警備地の旗は、小隊の駐留地に掲
げた物でしょう。
京漢線は、北京−漢口の鉄道路線を指します。昭和13年のこの時期は、
鉄道連隊が、この山西省石家荘(京漢線 北京-漢口間)の分岐点から
大原まで数100キロを改軌しています。これらの鉄道連隊の可能性と、
他にこの当時、北兵団(独立混成第七旅団)などの後備大隊を活用した
部隊を警備に宛てていましたが、編成が昭和14年なので可能性としては
鉄道第二連隊(大正7年10月、津田沼で編成)が昭和12年後半より北支
に出動して、京漢線などを占領、開拓及び運営し警備任務に当たっていま
すので、この方が高い気がしています。
御存知のように、今の上海は、古く唐代から貿易港として繁栄してい
ましたが、当時の中心地は青龍鎮でした。













極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷図解と注意書




戦勝国が敗戦国日本の指導者をA級戦犯として裁いた極東国際軍事裁判
(東京裁判)の「法廷図解」(Court Room Seating Diagram)です。図解と
いっても図はありませんが(配置図のついたバージョンもあったそうです)、
11人の判事と26人の被告の着席する位置が書かれています。傍聴券と一
緒に配られたものと思われ、裏には「いかなるときも喫煙を禁じる」や「MP
に求められたら傍聴券を提示すべし」、「各傍聴者席にはヘッドフォンが備え
られている。自席のヘッドフォンだけを用いるべし」といった注意が書かれてい
ます。東京裁判は、昭和21年4月29日に起訴が行われ、11月4日に判決が
下されましたが、これにはJuly 24, 1946という鉛筆による文字があります。
尚、これには、アメリカの判事がHigginsとなっており、資料には当初判事とな
ったJohn Higginsは、7月にMyron Cramerと交代したとありますが、7月24日
には、まだ判事を務めていた事がこれで分かります。サイズは、はがきより一
回り小さく、9.0x12.7cmです。







戦時資料:各種教育用・宣伝用 
       当時のフィルムやスライド等




”海軍地上整備兵”のタイトルで海軍省軍務局検閲で
中央教化団体連合会監修のスライド24枚です。
海軍航空隊のPRスライドフィルムです。24枚完結。フィルム画面
4×3cm。全体枠で10.6×6.5cm。爆撃機を整備する航空整
備兵のものです。海軍の検閲で珍しいエンジンの写真、操縦室内
、航空兵、飛行機の写真などもあります。





”仏印を語る 日本印度支那協会編”のタイトルで
中央教化連合会監修の幻灯スライドフィルム20枚
です。一部、手彩色カラーあります。





海軍省提供の”海兵団”の題名のPRフィルム(72コマ)
です。戦時期の海軍省の提供の広報宣伝用35mmフィ
ルムです。長さは、約2.6m完結。入団、訓練、家族面
会、寮生活、カッター実習、軍艦、実戦など72コマの絵
が最後まであります。少したわみ程度ありますが、大き
な傷みもありません。今となれば貴重な資料です。









字幕「突如○○師団に出動命令は下った」。母子による千人針
軍旗に続き軍人の行進など。2300コマ以上あります。









戦時中に海軍省の協力と承認で文部省が作成した”潜水艦”のフィルムです。
潜水艦の仕組みと外観を絵と実写真で詳しく説明しています。有名なドイツの
Uボートの魚雷発射装置内部のようなものも載っています。











戦時中に文部省が作成した幻燈フィルムの”爆撃機の話”です。
日本の爆撃機だけでなく米軍の爆撃機など出てきます。また、機
内の珍しいフィルムも数枚あります。28コマ完結です。











"戦線童話 子供と兵隊"のフィルムです。
行軍し野営の準備をしている兵隊が「支那人の子供」と出会い。
子供が運んだ薪で「飯盒炊爨」その後、ボール遊び、鬼ごっこ」
をして別れる。450コマ以上でストーリーのある完全版です。
優しい皇軍兵士達と現地の支那人の子供達との心温まる交流を描いています。
当時の支那全域では、こうした光景も多く見られたものと思われます。













保存状態の悪い支那事変のニュースのフィルムです。
かなり痛みが激しいのが残念です。







こちらも保存状態が悪く痛みの激しいフィルムです。
上海戦線のニュースとして上海事変での海軍陸戦隊
の活躍が載っているようです。









戦時資料:防空監視所等で使用された
        空襲警報時のサイレン(手回し)等々




重くてでかいです!…総アルミ製で航空機などの削り屑を
リサイクルして作ったもののようです。土台に固定して使用
したようです。防空の高見櫓の手摺に設置されたものと思
われます。今もハンドルを回すと大音量の音が出ます。サイ
レン部の大きさ:直径28cm、厚さ14cm、最大部の大きさ:
35×22cm。



防空監視所の防空監視当番表と拡声器(メガホン)
です。拡声器には、警察署の印が押されています。



別な警防団(防空団)の非常警報拡声器











立川飛行機 不明のアルミ製標示票 五枚




アルミ製の丸い円形に立川飛行機の刻印、そして96・1機〜96・5機
まで刻印された五枚。この票が何に使われたかは不明です。大きさは
、径35mm。御存知のように立川飛行機は、前身が石川島造船所が
中心となって出資設立された石川島飛行機製作所です。初等練習機
の赤トンボなどを生産していました。昭和15年からはロッキード輸送
機などをライセンス生産していました。昭和19年〜20年には、それま
で戦闘機設計製作の実績が無く、会社規模も三菱や中島と比べて小
さかった立川飛行機が設計した最初で最後の戦闘機”キ94試作高々
度防空戦闘機”を作っていました。このアルミ板がどうした物に使われ
たかは、不明です。












昭和十七年度 靖国神社祭神への
           遺族に対する招待状等々




山口県の遺族の方が保存されていたものです。
戦死された遺族に招待状と各種鉄道等の無料
切符が一緒にあります。























日本赤十字社 清国事変救護記念の懐中時計




清国事変すなわち北清事変(義和団の乱)で日本は
陸海軍を出兵しましたが、この時に日本赤十字社から
医療派遣があり参加者らに記念に配布された懐中時
計のようです。


WALTHAMの懐中時計です。以下のように当時の保証書が
付いています。記載されたシリアルNO.と懐中時計のNo.も一
致します(3313号)。また日本赤十字社御紋章付一銀梨地
無双龍頭懐中時計壱個で明治35年9月13日に日付けがあり
ます。東京京橋区尾張町の天賞堂本店の記載と社判に二銭
の収入印紙が貼られています。










約100年前の懐中時計ですが…内部は、時代を感じさせない
美しさをとどめています。
シリアルNO.3313が読めます。
義和団の乱で日本は、欧米列強の共同軍事行動や作戦に消極的でした。
特に陸軍の派遣に関して極めて慎重でありましたがが、度重なる英国など
の出兵要請があり、遂に第五師団の派遣を決定。また海軍も陸戦隊を派遣
し太沽砲台奪還の戦闘などで奮戦しました。陸軍も北京公使館救援作戦で
勇猛果敢ぶりを欧米列強に示し、その軍紀の見事な統制ぶりは、敵の清国
からも賞賛を得ました。こ事変では、小国である日本の存在を国際社会に示
す形になり、この事が後の日英同盟成立に大きく寄与した事は、言うまでも
ない話です。







陸軍 蚊追粉(大阪陸軍需品支廠)




昭和十九年五月。大同除虫菊株式会社製造の2本。
サイズ:全長170、径35mmで未使用/未開封。片方
にシミと下に小破れがあり中身が漏れてきてます。







昭和16年9月20日に
   大阪第二飛行場で行われた
      献納愛国飛行機命名式の招待状




場所は、伊丹大阪第二飛行場です。






大東亜戦争を勝利する為に、名も無き国民やあまり知られない
個人企業・商店・そして大企業が、こぞって献納しています。
一覧表には、現在も有る銀行、スーパーゼネコンの大林組は、
「九七式重爆撃機」を献納しています。朝日新聞の名前もありま
す。

まさしく国家総動員で国難に臨んだ戦争であった
事が判る気がします。







鎌田正信 陸軍少将の
   支那事変の功労金の証書、他




丁度、この時期は、陸軍大佐で軍馬補充部に在籍された
時期です。そのままの通りで紙の裏に上奏原簿の印があ
り、第二十八軍馬補充部第弐項とあります。
鎌田正信 陸軍少将
     (騎兵科の徳島出身)

 大正15年3月 2日  騎兵第六連隊長
 昭和 3年3月 8日  騎兵第二十五連隊長
 昭和 4年8月 1日  陸軍大佐
 昭和 6年3月11日
  軍馬補充部三本木支部長
 昭和 8年8月 1日   軍馬補充部付
 昭和 9年3月 5日  陸軍少将
 昭和 9年8月 1日  騎兵第三旅団長
 昭和11年8月 1日  参謀本部付
 昭和11年9月19日  待命
 昭和11年9月26日  予備
別に入手しました鎌田閣下の青年将校
時代のものです。







中支戦線で戦死した兵士に贈った
    分隊長の軍曹からの手紙を軸装したもの




戦死された兵士の御遺族宛の手紙を軸装したものです。
戦死にいたる経緯が直属の上官である分隊長の軍曹
が手紙に記載しています。


詳細な地図をつけて分隊長の遠藤軍曹は、遺族に贈っています。







記念品となった砲弾や信管




こちらは、発火済みで穴を開けられた記念品の
三八式75mm弾です。文字が鮮明でありません
が、ペイントで”昭和9年4月 陸軍・・不鮮明・・
分遣 名前”。本体は黒のオリジナルペイントが
30%は残っています。信管に”昭 六 12”と読
めます。


こちらも思い入れのある品なのか信管を木製の台に固定
した置物としています。陸軍の星章も付けています。下部
に館砲18とあります。砲兵だった方の思い出の品だった
のでしょうか…。







肉筆 真珠湾攻撃隊・シドニー特別攻撃隊 寄書き?




贈 片山 兵曹長とある気がします。寄書きのようです。




















戦艦”陸奥”建造時に横須賀海軍工廠に工員として雇用
された方の工員章です。真鍮製で文字はプレスされ、そ
してその部分に黒色が入れてあります。この時を振り出し
に人生を歩まれたのでしょう。大切に額縁に収めて門出と
記載してあります。初日給九十五銭の記載もあります。コ
ツコツと歩んだ真面目な日本人の姿を彷彿させます。



銅製の五箇条の御誓文の塔



明治二十八年埼玉県北埼玉郡徴兵慰労義会の征清記念記章
です。箱無しですが、面白く綬を付けています。



近衛騎兵連隊の兵士が中隊長よりいただいた
表彰状を額に入れたものです。大切な想い出
だったのでしょう。



戦時資料:物資不足時代の陶器製の湯たんぽです。







東宮殿下(後の昭和天皇)の御真影