旧軍関連収集品
(軍装品...etc) Part Wj















三式軍衣に尉官隊長章の陸軍大尉の青年将校胸像です。
裏書に昭和52年7月23日、高野山法要記念
陸軍士官学校・陸軍航空士官学校・少候 
第二十二期とあります。







戦時資料 警防団の防火帽と防火外套




共に刺子になっています。
左が外套の右が帽子の方の記名布です。









戦時資料 防空団の防火帽と徳利




こちらは、上の物と別の帽子と徳利です。帽章は、警防団で
無く防空団になっています。共に加賀から出た品です。徳利
は、鳶の図柄がありますので有名な加賀鳶と思われます。







戦時資料 空襲の備え、民間鉄帽と手製の火避け布




凝った作りです。如何にも女性らしい創意工夫の跡が見て取れます。
しかし生地が薄く現実の空襲で猛火に見舞われた時に、どれだけ燃
えずに機能するかは、難しいところだった筈かと思います。当時の女学
生が作った物のようです。
こちらの民間鉄帽は、パ−フェクトに近い状態です。
一度も使われる事無く展示保存されていたのでしょう。
名古屋の三大女子校(SSK)の一つ、K校に設置されてい
た物とのことです。火避け布の目の部分には、ガラスが入
れてあり凝った作りになっています。







浦塩派遣軍 関秀吉 陸軍少尉の手紙等の資料




シベリア派遣された陸軍輜重兵少尉の物です。手紙類のほかに
ポケット版の教本や名刺などがあります。
家族・友人・知人からの軍事郵便での手紙類です。
当時の世情が良く判ります。




弟さんからの手紙です。


こちらの関少尉は、九州・福岡の御出身です。送られてくる
手紙関係も近隣の県や出身地からの物が殆どです。






名のある将官や職業軍人である高級将校と違い
こうした名も無い下級将校や兵・下士官の手紙類
(特に検閲をしない時代の)を読むと当時の世相や
一般の想いが伝わってきます。


伝令用紙は訓練中のものと思われますが、びっしりと記載されています。



















海軍兵学校、物理学教授所持の対数表など




寺田 巽 海軍教授(敗戦時の物理科長(高等官2等)を
されていた)の資料の対数表です。海軍兵学校普通学
部の押印があり一部に書き込みがあります。






同氏の所持しておられた海軍兵学校発行になる昭和20年1月現在の
海軍兵学校職員配員一覧表(栗田校長以下文武官の名簿125ページ)
および第59期生から第77期生までの生徒写真を某海軍コレクターのF
氏が所蔵されています。これらのコピーとなります。


昭和11年10月、天皇陛下が御召艦”愛宕”にて
海軍兵学校を行幸された折の記念牌です。







戦時資料 国民労務手帳















戦時資料 大陸からの引揚た民間人女性の証明書等




敗色の色濃くなった昭和十九年三月に長春から青島へ移り住み
(青島居留民團)、敗戦で引揚げを待ち、長崎は佐世保港に上陸
し帰国を果たしたのは、昭和二十一年十月でした。画像のものは
定着證明書(佐世保引揚援護局:昭和二十一年十月)と生活必
需品配給依頼書(青島居留民團:昭和十九年三月)です。
予防接種證明書(長春市日僑善後連絡處衛生股)と
證明書(佐世保検疫所長:昭和二十一年十月)です。
引揚證明書(厚生省佐世保引揚援護局長:昭和二十一年十月)




退去證明書(長春市:中華民國三十五年九月)


日本のように戦前も列強と肩を並べた大国が大きな戦争を行い
戦争に負けるという事は、非常に悲惨な事です。特に先の大戦
のように行く所まで行き…国家の消耗戦の末に国土は、猛爆撃
で焦土と化し…明治維新以降、営々と築き上げた繁栄は、灰塵
に帰しました。一般の国民・民間人は、より悲惨でした。垢を舐
め泥を啜る想いをして大陸から引揚げた人が大勢居りました。ま
さに身一つ命からがら逃げた方々は、かの地で我が子を置き去
りにしなければならなかった母親、悪鬼のごときロシア人や支那
人、朝鮮人に惨殺される同胞の姿を目にして帰国しています。こ
うした非道は、敗戦後だけでなく戦前も戦中もありました。特に支
那人の行いは、非道の一言に尽きます。敗戦で我国だけが責め
られてきましたが、戦争の現実は…そうした物で互いに争い戦争
をしていれば、どちらが一方的になどどは、有り得ません。







陸軍少将 鈴木文次郎への宮中 晩餐会 招待状




鈴木少将は、陸士八期です。
昭和二年 ”新年宴會 ”、 昭和六年 ”紀元節 ”
、昭和七年 ”観櫻會 ”の物で、宛先は、いずれ
も陸軍少将 鈴木文次郎 で、差出は、何れも、
宮内大臣 一木喜徳郎 です。









陸軍政務次官 竹内友次郎への
     戦艦 金剛への観艦式 招待状




昭和二年 横濱港 特別大演習 観艦式

竹内友次郎、山梨県出身の官吏、政治家。陸軍省、台湾総督府で
官吏を務め、逓信属、通信書記、通信事務官、金沢郵便局長、樺太
庁事務官、樺太庁拓殖部長。独立第13師団郵便部長、東京逓信局
長、朝鮮総督府逓信局長、台湾総督府警務局長、農商務次官などを
歴任して、田中義一内閣の陸軍政務次官に就任。衆議院議員(山梨
県選出)として立憲政友会に属し4回当選。昭和11年11月10日逝去。







陸軍 営内支給(官給)の手拭




未カット2本分です。サイドに「桜」に「石川」と入った朱印と、丸印の中に
難読の朱印があります。両サイドに5ミリと1センチ幅の赤線が入ってい
ます。綿地で、1本分が幅30センチ、長さ90センチで、2本は切り離され
ていません。







第二海軍燃料廠の軍属(雇員)から
   海軍特別幹部練習生なった方の所持品




四日市市にあった第二海軍燃料廠で働いて寄宿舎に居られた
ようです。実家の岐阜県の住所が荷札の裏に記載されています。
第二海軍燃料廠は、昭和20年6月18日未明から開始された四日市空襲の
中心的な目標として、6月22日、26日、7月9日、24日、28日、30日、8月2
日、8日と反復してB29の執拗な爆撃を受けて壊滅的な打撃を受けました。
因みに第二海軍燃料廠が開設したのは、昭和16年4月21日です。


四日市海軍共済病院の診察券です。右は、内科の印があります。


理髪券です。
海軍特別幹部練習生に合格した案内のガリ版刷りの粗末な紙です。昭和20年
末期の哀しい現状が目に見えます。海軍特別幹部練習生といえば直木賞作家
で有名な城山三郎氏もこの練習生で敗戦を迎えています。御存知のように海軍
特別幹部練習生は、陸軍がかねてより陸軍が幼年学校や少年兵制度で若年兵
を上手く青田刈りされるのに対抗して海軍も予科練の他に海軍特別年少兵や、
海軍予科兵学校(後に海軍予科兵学校の生徒隊は、岩国に新設された海軍兵
学校分校に移動した)、海軍特別幹部練習生制度(陸軍の特別幹部候補生制度
に対抗して作られたもので、中三卒資格であった)が作られました。大掛かりな
海軍特別幹部練習生は、昭和20年5月第一期生が1万5千名以上が集められ
各地の航空隊や水上特攻部隊の基地などに入隊しました。…この方は、結構、
前向きな方のようでガリ版の裏に水兵から下士官〜士官と自分が進むコースの
年数を書いて皮算用していたようです。敗戦の三ヶ月前でもそうした事が出来る
のは、大物なのかもしれせん。


雇員で使用していたゲートルと軍籍を得てからの
ゲートルのようです。











陸軍 第一戦車連隊の記念の煙草入れ二個です。



戦艦”陸奥”の遺鋼で作られた鉄製の平和の鐘
昭和五十年度幣束相承記念とあり、南無妙法蓮華経と
あります。日蓮宗で荒行堂へ入る場合、二度目の方を
再行と言い、行堂の中で幣束相承と言って御幣の秘伝を
教わるそうです。日蓮宗を篤く信心する方が作った鐘と思
われます。