旧軍関連収集品
(軍装品...etc) Part Wi















甲種傷痍愚人証に傷痍軍人手帳、軍人手帳です。
この方は、明治三十七・八年戦役、旅順攻撃で
右眼瞼部銃創で全盲となられた傷痍軍人です。
証は、昭和15年6月3日に陸軍省が発行していま
す。







帝國海軍 内火艇の珍しい木札




てかり具合と言い年季の入った木札です。
上陸札と同じ使用だったのでしょうか。







陸軍船舶工兵(マルレの)記名札




船舶工兵の部隊章とセルロイド製の記名札です。
難読ですが裏に”島 ?四朗”と記名があります。
陸軍海上挺身戦隊の水上特攻要員の方だと思
われます。







宮田 一 海軍機関少将の
 少尉候補生時代に賢処で
         の拝謁時、記念盃




明治45年3月海軍機関学校をめでたく卒業の機関少尉候補生
遠洋航海出発に際し恒例の拝謁を受けた際いただいた盃です
。後に海軍少将にまで累進して第五海軍燃料廠(現北朝鮮在)
長などを歴任された宮田一閣下の感激の思いが墨痕から鮮や
かによみがえってくるようです。
本来であれば一族の誇りとして孫子の代まで語り継がれ
保存される品ですが…敗戦国の悲哀でしょうか、こうした
品々が遺族から始末される時代です。

        宮田 一 海軍機関少将 

   佐賀県出身 海機20期

   明治23年 7月 9日生れ

大正12年12月 1日 海軍機関少佐

大正13年12月25日 機関校教官

昭和 2年11月 1日 艦本部員(総務部三課)

昭和 3年12月10日 海軍機関中佐

昭和 4年11月30日 佐工廠造兵部部員

昭和 7年12月 1日 海軍機関大佐 (軍令部出仕)

昭和 8年 4月 1日 連合艦隊司附

昭和10年11月15日 横須賀鎮守府附

昭和11年 2月 1日 練習艦隊機関長

昭和11年12月 1日 舞鶴工廠総務部長

昭和12年12月 1日 佐世保鎮守府機関長

昭和13年11月15日 海軍少将 (燃料廠鉱業部長)

昭和14年11月15日 横須賀軍需部長

昭和16年10月15日 軍令部出仕

昭和16年10月25日 待命

昭和16年10月27日 予備役

昭和57年 7月 6日 歿 (享年 91歳)







陸軍 四式戦闘機”疾風”(キ84) 付属器具収容袋甲




上下共に保存状態の程度の差は、ありますが…未使用のki-84用
の付属器収容袋甲です。デットストックだったらしいのですが、農家
の納屋からまとめて出たそうです。戦後、どうした経緯で納屋にしま
われたのかは、今では窺い知れませんが…敗戦国の軍隊の悲哀を
見る想いがします。
保管状態が悪かった為に埃の汚れ、金具部分の塗装が色落ち
して袋に染みています。航空機の附属品袋は、あまり出ないの
で珍しいと思います。




上の画像にある上の完全品の二点と違い下の収納袋
は、残念な事に分解されています。また皮肉な事に分
解されている方が綺麗です。何故、このような分解を
受けたかも良く判りません。こうした物も敗戦後の軍流
用物資の資料の手掛かりといえるのかも知れません。


陸軍の制式戦闘機としては、最も高速の戦闘機です!
大東亜決戦機として期待されましたが戦局を挽回する
には投入時期が遅過ぎました。中島の四式戦”疾風”
は、日本軍の劣悪な低オクタン価の航空燃料でも624
km/hrの高速をマーク。戦後、米軍の高オクタン価の
航空燃料でテストした時は、684km/hr以上の最高速
度をマークする高性能機でありました。しかし搭載した
ハ-45(海軍名:誉)エンジンの性能が安定せず、また
プロトタイプの機体と違い量産機は、二式単戦”鍾馗”
の巡航速度より遅いと言われていました。

    【中島 キ-84 四式戦闘機”疾風” 1型甲】
    
           〜性能データ〜

発動機:ハ45-21 空冷式複列星形18気筒、基数1

離昇出力:1,860hp/3,000rpm

公称出力:(1速)1,860hp/1,750rpm/3,000m、
       (2速)1,620hp/6,100rpm/3,000m

全幅:11,238mm 、全長:水平 9,920mm 、
全高:水平 3,515mm(尾翼先端)、主翼面積 21.00u

自重:2,690kg、全備重量:3,750kg、過荷重:4,405kg

燃料:翼内前縁;134リットル(航空92揮発油)
    翼内中央;346リットル、胴体内;217リットル
    落下式増槽;200リットル×2、メタノール;40リットル

武装:胴体;ホ130固定機関銃12.7mm×2(各々350発)
    翼内:ホ5固定機関砲20mm×2(各々150発)
    爆弾;250kg×2

性能:最大速度624km/h/6,500m、
    巡航速度;380km/h/4,000m
    着陸速度 138〜142km/h
    上昇時間;6'26"/5,000m(1,200m/min/S.L.)
    実用上昇限度 12,400m
    航続距離;(正規)1,000km+空戦3







戦後も使用された海軍水路図三枚!




東カロリン諸島泊地(第一)の水路図(地図)です。




赤判で押されているのは、戦後の物です。一番下の画像
にありますが地図は、大正14年7月7日に発行された物で
戦後まで改正されず使用されてきました。裏面に昭和27年
改補済、日本水路国誌との判があります。










カロリン諸島は、1525年頃にポルトガルやスペインの艦隊
によって発見されました。1860年頃には、ゴーデフフロイ商
会(ドイツ)が調査を開始しヤルート会社がそれを引き継ぎ
、1885年8月24日に、砲艦”イルテイス”がヤップ島に寄港
して、カロリン諸島の領有を宣言しました。これに対してスペ
インは猛反発し、教皇レオ13世の仲裁で、この地がスペイ
ンの植民地であること、ドイツに対しては、通商の自由とポ
ナペ島とヤップ島に石炭補給基地を作ることを認めました。
1898年、スペインがアメリカに敗戦するとドイツは、利権を
獲得し1899年この地の領有を宣言。1914年に第一次大戦
が勃発、10月7日ヤップ島とポナペ島、11日にトラック島、
12日にアンガウル島が日本軍によって占領されます。
従っ
て一般にカロリン諸島というと大きくは、パラオ・ヤップ・
トラック(チューク)・ポナベを指します。現在のカロリン諸島
は、パラオ共和国とヤップ・トラック(チューク)・ポナペを含む
ミクロネシア連邦の二つの国家が存在しています。
昭和六年のトラック諸島及びローソップ島
の海軍水路図です。
海軍水路部、昭和6年4月10日の
印刷発行と記載があります。




昭和12年 水路部発行海図 セレベス島





セレベス島北東部のもので、昭和12年
海軍水路部発行です。右下に「メナド泊
地」の部分もあります。戦後まで使われ
たらしく、改定の印があります。







陸軍船舶工兵・海上機動第三旅団
 (攘六一五六部隊)輸送隊(海上機動大隊)
    第二中隊長 中本 陸軍中尉のノート三冊




備忘録と書かれたノートが二冊、雑記と書か
れたノートが一冊。それだけの品です。表紙
には、中本中尉と記載されています。一冊の
備忘録には、海上機動研究と書いてあります。
中身の記載より陸軍船舶工兵の大発による
輸送部隊の中隊長である事が判ります。殴り
書きのような文字なので非常に読み取りが
困難なのですが、所属は、海上機動第三旅
団(轟部隊)の輸送隊大隊第二中隊中隊長
と記載されています。この輸送隊は、大発(大
発動艇)16隻よりなり千島列島を中心として海
上機動第三旅団に隷属しました。中本中尉の
輸送第二中隊は、択捉島(北方領土の)で輸
送任務についていました。非常に興味深い資
料です。
民間の徴用船(漁船等)が多いようです。船団の陣形
や一式機動砲を中心に補助の連隊砲の配備や、機関
銃など人員の配置になど色々と多岐に渡り書込みがな
されています。
中隊には、時期により徴用船7〜10隻余りに大発があるよう
です。それぞれに第一から三悌団に分けています。主な処で
桜丸80トン、第六茂登丸27トン、第六明神丸26トン、酒戸昭
神丸19トン、…などと記載されています。毎日の整備・修理や
訓練など大変そうな内容です。
ある時の第二中隊の戦力が記載されています。兵員150名、
大発10隻、重機関銃1、機動砲ニ門、軽機関銃5丁、曲射砲
一門、小銃30丁、擲弾筒4門、無線機(5号1台、六号4台)
羅針盤四個、偽装網、重油、食料・銃弾備蓄一か月分とあり
ます。
択捉島の全周の距離、拠点を結ぶ水路の時間など
詳細が記載されています。
面白い事に個人装備として兵員の装備の詳細が記載
されています。地下足袋、背嚢、天幕、防寒被服(船内
での毛布、防寒袴下、外套手袋、靴下)、糧秣10日分、
手榴弾2〜4発、銃弾(前盒120発、後盒60発)180発。
工兵は、小銃弾は、120発、手榴弾2発。迫撃砲弾は
砲一門につき99発、重機関銃弾は、一銃につき6480
発。機関砲は、80発(13弾倉)などと詳細です。
大隊の兵力で近くにある同じ隊でしょうか、定員が本部50名、
第一150名、第二150名、第三150名、合計650名と記載され
ています他の記載に第四260名と予備部隊でしょうか140名の
記載もありますので大隊の兵力は1050名程度と思われます。




当初、海上機動第三旅団の輸送隊は、小樽港を中心
に活動していました。このノートの日付けも最も早い時
期で昭和19年4月中旬の記載がでてきます。岩内〜
江差、航行隊形や序列を様々に変化して訓練を兼ねて
、江差〜福島、福島〜函館、浦河〜室蘭と航行してい
ます。下の請求書は、小樽の洋装店で中本中尉が軍服
一式にマント、外套を93円で買い求めている事が判りま
す。

cf.海上機動旅団

帝國陸軍には、海上機動旅団が四個存在しました。

海上機動第一旅団:満州で編制。昭和19年に続々とマーシャル
             諸島方面に進出しました。この旅団の船舶
             工兵部門は、昭和19年2月にフィリッピン・
             バナイ島の独立工兵第二連隊を改編し作ら
             れました。旅団のパラオに進出が決まり、こ
             の船舶工兵部隊がパラオに移動する時点で
             マーシャル諸島で旅団主力は玉砕。残存兵
             力は、パラオで第十四師団の指揮下に組み
             込まれ敗戦を迎えました。

海上機動第二旅団:ビアク島攻防戦の”渾作戦”に参加する為、
            パラオ経由でニューギニアへ進出しましたが、
            海軍の輸送部隊がビアクまで行けず、その先
            のビアクに進出できずニューギニアで消耗戦を
            強いられて敗戦を迎えています

海上機動第三旅団:海上機動第三旅団(攘部隊)は、千島列島に
            配置されておりました。昭和20年3月、轟部隊に
            沖縄転進命令が下ります4月19日攘部隊第一大
             隊の乗り込んだ輸送船"大成丸"が厚賀沖で撃
            沈され651名が戦死しています。生き残った部隊
            が6月2日に鹿児島に終結した時には沖縄戦も集
            結していました。尚、米潜水艦に雷撃され撃沈され
            た”大成丸”には、第一大隊の約1100人が乗っい
            ましたが、大発を四隻収容してあり、一部が船艇で
            陸に救助を求め、多くの兵が酷寒の海上で助けを
            待つことになったそうです。四時間の漂流後に漁船
            に救い出されたのは、450名余り、半分以上が冷た
            い海の藻屑と消えたそうです。

海上機動第四旅団:壊(ハライ)第一五五八八部隊と呼ばれ、第三旅団
             と同様に道内(美瑛)でで昭和19年に編制。千島・
             樺太方面に配置されました。多くがソ連の侵攻でシ
             ベリアに抑留されました。
            













軍用三脚(軍用托架)2脚




帆布と革製のニ脚









従三位勲三等 福岡 安治 元大審院 検事
           の勅任官(文官)正装一式




初出しで出たままの一式です。トランク、正帽、正衣、正袴、胴衣、
儀礼正剣の他、御本人の辞令、写真、名刺も付いてます。また正
剣の付属品の剣差、剣緒も勿論ですが、シャツ、ネクタイ、サスペンダ
-、白手袋に至るまで揃っています。これだけ揃って極美品の状態で
出る事は、非常に珍しいものと思います。




御本人の写真です。




勅任官ですので将官相当になります。




剣刺もきれいなのでベストから出して撮影しました。
非常に美しい状態です。
勅任官の儀礼正剣です。
惜しい事に剣は、中で錆び付いている為に、どうしても
抜けません。無理すると壊れますのでそのままにして
あります。外装は、新品のように綺麗です。


正帽の状態も極めて良く素晴らしい状態です。
白と黒の蝶タイに正剣緒、サスペンダー、皮手袋、
剣刺と小物も全て揃っています。
クリーニング屋から上がったシャツと
カラーもあります。無いのは皮靴と靴
下だけです。
浦和地方裁判所(現在のさいたま市に辺り、当時は、
埼玉県の県庁所在地)の検事正から退官間際に
大審院(高裁か最高裁と思います)の検事になられ
ております。


退官後にすぐ亡くなられたものと推察します。
下に御遺族が宮内庁に提出する届けの書式
の下書きが一緒にありました。







海軍の短艇(カッター等の)の搭載した水樽




今でも十分に使用に耐える丈夫な作りです。
七三カッターと側面に記載があります。大きなボートは、
物資の運搬に用いられ、長艇”ランチ”と呼ばれました。
それに対して、短く小型のボートが短艇”カッター”と呼ば
れ、主に人員の輸送に使われました。
カッターは軍艦の分身として、取り扱われ常に威厳を
保たれたものでした。カッター乗組員の指揮者は、
艇長として礼節を心得、外部から見て見苦しい態度は
慎まなくてはならないと言われたそうです。海軍では
、日頃から海上要員としての資質を高めるたの訓練に
大いにカッター使用していました。その流れを受け継ぎ
今でも漕ぎ手は、「礼儀正しく、言語・行動はキビキビ
と、服装は清潔・端正に、艇内では静粛にして不作法
な行為・言動を慎む」と指導されるようです。


横須賀海軍 軍需部納 昭和17年9月
の銘板が付いています。







用途不明の品




面白そうなの入手した品です。前の所持者は、導火線と
記載しておりましたが、導火線とは全く違う物のようです。
昭和のものと言うより明治・大正の頃の陸軍で使わ
れたもののような気がします。工兵や建築部で距離
の測定などに使用したものと想像します。








戦時資料:三菱重工の作業服と入門証




作業服は、機体を傷付けないために、釦が隠れるよう
二重になっています。 デットストックの未使用品のよ
うです。 アルミ製の入門証には、浜備 184の刻印が
あります。
今も昔も三菱重工は、日本を代表する国防産業
メーカーです。各種戦車に零戦などの軍用機を
生産しておりました。


昭和17年 三菱重工、名古屋航空機製作所
 社員心得 昭和17年8月(8月29日に集合)
名古屋(三菱重工業)の新規被徴用員赴任
心得です。



三菱重工 名航 水筒(陶器製の代用品)













満州銀行の算盤













九七式手榴弾




信管部は、手持ちの余り状態の
良くない品を合わせてみました。


もと京都の嵐山博物館所蔵の所蔵品で、
後に和歌山のゼロパークに引き継がれま
したが、ここも閉館…転々とした品です。さ
びの為、アバタがひどい状態です。


















程度が悪い海軍陸戦隊のホーロー水筒



”宇佐空”と入った海軍水筒です。宇佐空は大分県、
現在の宇佐市にあり、元は、海軍の艦爆基地でした。
敗戦直前に特攻隊の基地となり”鬼の宇佐空”、”地
獄の宇佐空”と言わせたそうです。



桜をあしらったブリキ板に従軍の白色文字(塗装落ち)
おなじみの出征軍人を表すブリキ表札よりも時代が
古く、日清・日露戦争、第一次大戦の頃と推測されま
す。



国防婦人会の帽章(!?)



戦前の未開封の恩賜の煙草です。
下の画像は、開封済みの恩賜の煙草です。
菊花紋が描かれています。