旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part Wh















海軍兵学校生徒の略帽用の前章です。大変珍しい希少な品です。
朝鮮総督府奏任官の制服用の釦と袖章







池田 守 海軍大尉(海兵69期)の所持
   していた海軍十六条旭日旗(軍艦旗)




この軍艦旗は、海軍大尉 池田守氏の私物と一緒に軍艦色(海軍色)
のベークライト製トランク型の専用収納函に入って出てきました。
その他の物は既に処分されたようでした。残っていたのは、中尉・
大尉の肩章と”予科練記念館竣工記念”のメダルだけでした。
池田守氏は海軍兵学校69期で宮城角田中卒です。
軍艦旗には使用した艦名は通常は書かれないと云われ、戦艦”長門”の
軍艦旗と云われる物も横須賀の”三笠”に保存されていて現在は仕舞わ
れておりますが、此れも「・・・と云われている旗だそうです」。この旗にも
艦名は有りませんが、書き込みとスタンプが有ります。収納箱は、軍艦色
のベークライト製トランク型:幅 25cm・長さ 39cm・厚み 10cm。
軍艦旗:朱色・白絹布 手縫製(染め抜きに非ず) 寸法 幅 123cm・長さ
200cm。軍艦旗に有る書き込み"軍三”は、”軍艦旗 三号”の意味と考え
られます。軍艦旗の大きさを表すのに「四幅 (ふく・はば)・三幅」と表し、
昔の長さで布の幅を言います。「一幅は2尺2寸」・”軍三”は「 三x2尺2寸
(666mm)=1.998mm〜約200cm 」とピッタリ合います。軍艦旗の最大は
「四幅・266cm」」との事ですので、戦艦や大型空母クラスが四幅の”軍四”
だと考えられます。そうなると”軍三”の三幅は、重巡クラスの軍艦旗と考え
られます。
この旗はどの様な軍艦に使用されていたかは、不明です。しかし旗の主管は、
通常、艦の航海科でしたので、池田大尉は、航海士であつたかも知れません。
想像ですが、池田氏の最後に乗っていた艦が使用していた軍艦旗に相違ない
と思います。軍艦旗は、海の塩風に吹かれ痛みが早いと云われます。後世にこ
の様な姿で残って居るのは非常に珍しいと思います。陸軍の連隊旗と同じよう
に扱われたのでしょう。ネットに、沈み行く艦の軍艦旗を体に巻きつけた士官と
艦長が艦と共に沈んで行った実話が載っていました。


cf.十六条旭日旗 (軍旗・軍艦旗)に関しまして!

はじめの十六条旭日旗は、”聯隊軍旗”と呼ばれました。明治8年、
日比谷操練場で近衛第1・2聯隊に天皇陛下より授けられました。そ
の後、明治22年10月20日、”海軍旗章条例”によって帝国海軍の
軍艦旗として十六条旭日旗が定められました。以降、軍艦の標識とし
て艦後に掲げられる”軍艦旗”と言われました。因みに、艦の国籍標
示のために艦首に掲げる艦首旗は、一般の商船と同じく”日の丸”を
用いました。また軍艦旗とは、海軍に所属する軍艦である事を表章す
る旗章であります。naval ensign(海軍の旗)と英語では表されます。
また軍艦旗は、停泊中、午前8時に掲揚し、日没前に降下しました。掲
揚降下の際は、衛兵隊が後甲板に整列し、”捧げ銃”の最敬礼を行いま
した。軍楽隊または信号兵が”君が代”を吹奏して総員が挙手注目の敬
礼、艦内・下甲板にある者は、軍艦旗の方向に面し、起立する等、極め
て荘厳な儀式の下に行われました。航海中も常時掲げました。








艦首旗または、短艇旗サイズの日の丸




上の軍艦旗と同じ生地の日の丸の国旗です。材質はウールで
日の丸は切り抜いてミシン縫いをしています。状態は未使用で
す。保管時のシミや汚れが若干あります。上部にハトメと風の
無い時でも国籍を明示する為なのか、上部にアームを付けて
使ったようです。ホックも同位置に付いています。大きさは、
150cm×119cm、日の丸の部分で73cmと大きなものです。
旗の竿への取付部分の形状が明らかに海軍の物と
異なりますので艦首旗や短艇旗、陸上でも海軍施設
で使用されたものでない国旗です。このサイズの国旗
で上に掲載した軍艦旗のような形状があれば間違い
なく軍用で使用した国旗といえます。



更に大きな日の丸




こちらは、上よりも更に大きな国旗です。艦首旗以外に
使いようが無い大きさです。こちらも上に掲載の軍艦旗
と違い紐通し部分の十分な補強がなされていないので
軍艦の掲揚に使用されることは考えにくく海軍でなく別の
民間や公共(役所などを含む)で使われた可能性が高い
ものです。







海軍 機関兵が使用した手提型工具袋




この袋の持ち主は、辻野庄九郎 機関兵曹長(入籍番号:呉志機二六〇六)です。
ヤフオクで兵曹長一種軍衣、雑嚢、煙管服等と一緒に出されていました。珍しい
工具袋なので入手しましたが、元は正面に、22cm×12cm位の布が縫い付けて
あったようです(剥がした痕があり)。又、紐の先端にも何か付いていたような形
跡があります8これは、自然に剥れたようです)。大きさは、縦25cm×横40cm程
です。







陸軍 軍医の”公用證明書・公務割引證”等






公用・公務旅行證明書と公務運賃割引證(奈良陸軍病院庶務課長印)
下士官兵旅客運賃割引證(菊池陸軍病院庶務課長印)の三枚です。
いずれも粗末な紙が使用されています。
敗戦後の日付けになっています。







ある船舶工兵(一等兵)の木箱と中身




この木箱は、敗戦時に戦友と色々と交換したそうです。持ち主だった方は、
敵地に向かう船で襲撃に合い、船が沈みかけた時、甲板から水面に板を
出し木箱を抱え海に入ったとの事です。(先日上映された”男たちの大和”
を観に行き号泣したそうです。)


海軍の兵・下士官用の短靴です。船で救出され敗戦の時に
交換したのでしょう(官給品の短靴でこのように綺麗な品も
最近では、余り見なくなりました)。
官給品の短靴で靴紐も当時のままの良い状態です。











海軍 マイクロメーター 100〜125mm






桐箱入りのマイクロメーターです。







花立になってしまった中国軍鹵獲品
             の 81o 迫撃砲弾!!




81o迫撃砲弾の上部を削り、前後の信管部、推進薬部を閉鎖して
水が入るようになっています。剣山を入れて生け花を飾り、吊るした
物のようです。面白いものです。
かつて皇軍は、支那軍のこの81o迫撃砲の威力に悩まされました。
その結果、皇軍も迫撃砲の整備開発が進みました。
この画像は、日本軍の九七式曲射歩兵砲と81o砲弾
こちらは、九九式短迫撃砲と81o砲弾。81o砲弾は、
九七式曲射歩兵砲と共用です。下は、81o迫撃砲弾
です。アメリカからの里帰り品で珍しい信管共にオリジ
ナル品です。
本体の塗装が薄れていますが信管は、
昭和14年・本体は、昭和16年の刻印があります。火薬
等の無い安全な品です。
曲射砲も迫撃砲も同じ事ですが、皇軍では、独立した
砲兵部隊が装備する物を迫撃砲と言い、歩兵部隊が
使用するものを曲射砲兵砲と言いました。現場では、
九二式歩兵砲が根強い人気が有りましたが、南方戦
線では、防楯や重い砲架が不要でかつ口径が11oも
UPしたのに砲弾重量が九二式榴弾より軽量だった為
末期は、多用されました。




こちらは、別の所持している砲弾です。横に九七式曲歩
と百式と帰記載されているのが読み取れます。







陸軍四年式15糎榴弾砲 照準器




日露戦争末期にドイツのクルップ社に発注された三八式
15cm榴弾砲は、日露戦争には間に合いませんでした。ま
た輸入後も重量が重過ぎて、余り評判が良くなく、大正四
年二月に砲身と砲架を分解して運べるように改造された、
四年式15cm榴弾砲が採用されました。この15榴は、大東
亜戦争末期まで我国の主力15榴として活躍しました。
口径15cm以上の榴弾砲や10cm以上の加農砲は、野戦重砲といわれました。
これら野戦重砲は、一般の師団に属する野砲連隊や山砲兵連隊と違い、一部
の例外を除いて軍の直轄部隊の野戦重砲兵連隊に組み込まれていました。
左は、昭和12年10月の上海で海軍陸戦隊の上陸の前に支援砲火を上げる
松井石根大将隷下、上海派遣軍の砲兵部隊の四年式15榴。右は、開戦劈
頭、シンガポール対岸のジョホールバルから英国軍陣地に砲撃を行なう野戦
重砲兵第21大隊の四年式15榴。
ガダルカナル島で各坐し遺棄された四年式15榴。砲弾を前に
記念撮影する米兵。砲弾の中央に”14.3”が見える。昭和14年
3月に火薬装填した事を示します。







聯隊砲(四一式山砲)の
      75o砲弾(薬莢とダミー弾頭)




陸軍の四一式山砲弾の薬莢です。…実戦で使用した真鍮の薬莢に
アルミ製復刻弾頭を付けた品です。薬莢と弾頭は取り外しできるよう
になっています。薬莢底部の雷管は処理加工されており使用出来ま
せん。底部には日本軍による”41山”の刻印と戦後、接収した中国軍
による刻印と思われる年号”1951”が打刻されております。
日露戦争で射程が短く評判の悪かった三十一年式山砲を戦後、
砲身後座式にして改造されたのが、明治四十一年に採用された
のが、この四一式山砲です。その後、この砲は、山砲兵連隊など
に配備され日本軍の主力山砲となりました。満州事変での活躍で
歩兵部隊の行動を唯一、追及できる火砲として高い評価を受けて
昭和7年以降より、各歩兵連隊に四門ずつ配備され、歩兵連隊砲
”連隊砲”と言われました。敗戦まで歩兵砲は、活躍しました。


左右共に上海海軍陸戦隊が四一式山砲を使用している画像です。
左は、四一式山砲を六つのパーツに分解して運んでいる画像。
右は、熱河作戦で万里の長城に到達した日本兵が四一式山砲
弾を担いで運んでいる画像です。
左右共にガ島で米軍に鹵獲された四一式山砲
ニュ-ギニア戦線で豪軍に鹵獲された四一式山砲。敵の
対戦車砲で砲架が破壊されている。







九四式 37o砲弾(速射砲弾)




こちらも発射済みの物です。
下の画像の上二枚は、九四式37o速射砲(対戦車砲)です。下は
一式37o速射砲(改造九四式37o速射砲)です。







馬場 亀挌(龍山憲兵分隊長)憲兵少佐へ
           朝鮮 李王家からの招待状




昭和5年7月、馬場亀挌憲兵少佐宛ての李王家より茶菓子の招待、李王家の
梅紋入りの封筒に招待状。
天皇家、各宮家主催の各種催しよりも断然少ないので希少だと思います。
昌徳宮の仁政殿
李垠殿下と方子妃殿下
1938年、北京軍司令部付時代の英親王李垠殿下と李方子妃殿下
1940年、大阪師団長時代の垠殿下と玖殿下に方子妃殿下
1922年4月、徳寿宮内で左より徳恵姫、方子妃、尹王妃、純宗皇帝
李王世子、侍従に抱かれた晉殿下
1909年、垠殿下と伊藤博文公。



その他の馬場 少佐 夫妻の招待状等























軍艦 神威 からのの軍事郵便




消印が無いので正確な日付けが判りません。横須賀より石川県へ送られた葉書
です。

軍艦”神威”は、米国を仮想敵国とした八八艦隊計画で2万トン近い、当時、最大
の給油艦として誕生しました。上海事変後にはその巨艦を利して水上機を搭載す
る為の艤装を施されましたた。そして昭和九年に新設された水上機母艦に類別変
更されて晴れて軍艦となり、艦首に菊の御紋章をいただきました。支那事変以降
も特設水上機母艦と同様に活躍し、大東亜戦争勃発前は、主に支那大陸を中心に
大東亜戦争勃発以降は、南方攻略作戦を支援し以降は、各地方面へ航空機輸送
に従事しました。昭和19年1月28日、マカッサル附近で敵潜水艦の雷撃を受けて大
破、シンガポールで修理を受けると同時に水上機機搭載施設を撤去し4月には、特
務艦(給油艦)に復帰しました。その後は、南方と日本本土との重油輸送を行なって
いました。昭和20年4月5日、香港にて米軍機の爆撃を受けて大破着底し、そのまま
敗戦を迎えました。戦後になり現地で英軍よって解体処理されました。



河合 海軍技術大佐の所持していた
      特務艦”神威”の観艦式の招待状等











河合 海軍技術大佐の
    海軍技術研究所 竣工式の招待状など

















軍需工場の女工さんに
  支給された百姓袴(モンペ:未使用新品)




未使用新品、大号の百姓袴(もんぺ)







敗戦後に自刃した海軍中将
    森住 松雄 閣下の日の丸寄書!!




倉橋康夫君とある日章旗の寄書きです。出征兵士に贈ったものでしょう。
森住中将は、この寄書きをされた昭和20年4月1日の5ヵ月後にあたる、9
月2日に大阪の自宅で自決しております。この寄書きをされた時は、その
時が迫る事を予想もしてなかった事と思います。享年54歳でした。

       森住 松雄 海軍中将 神奈川県出身

海軍機関学校 第22期 功五級

昭19年5月1日  任海軍中将   艦本造船造兵監督長(海軍省出仕)

           大阪監理長 大阪監査長

昭20年5月10日  艦本造船造兵監督長(海軍省出仕)

           近畿監理長 近畿監査長

昭20年8月10日  近畿軍需監督部長

昭20年9月 2日  午後7時、大阪の自宅にて自刃

もう一人、海軍大佐 香春克己と署名があります。この方は、開戦の年に
機雷敷設艦”厳島”の艦長をされていた方です。海兵44期で福岡出身です。
厳島は、 昭和4年12月26日に完成、昭和17年12月に第三艦隊所属で大東
亜戦争に参加、昭和18年3月10日に第ニ南遣艦隊へ編入、昭和19年8月24
日に米軍機の攻撃を受け損傷、10月17日にジャワ海で曳航中にオランダ潜
水艦”ツバールドフィシュ”の雷撃により撃沈されました。
機雷敷設艦”厳島”【性能データ】

基準排水量:1.970トン
速力:17ノット
航続距離:5.000海里(15ノット)
武装:14cm砲 三門
    8cm高角砲 二門
    機雷 500個
乗員:230名







日露戦争に従軍した陸軍 軍属(土木技師)の資料




この方の出身校である攻玉社は、今も存続している学校です。
この学校は、明治三十年頃まで陸・海軍の測量学校を前身として、
軍と密接な関係にあったそうです。陸軍の建築関係の専門家で、
どのような活躍をされたか不明ですが、要塞建設や砲台建設などに
関係していたのが可能性として高いと考えられます。






給与辞令です。明治二十九年の給九級俸よりスタートし、明治四十一年
の給四級俸まで12年間、陸軍の軍属として奉職し俸級を上げている事が
判ります。


一番右に辞令が1枚あります。第七師団の経理部付から
臨時陸軍建築部付に配属が変わっています。




加藤 陸軍技官の金鵄勲章です。功七級金鵄勲章の勲記は出ておりませんで
したが、勲七等旭日章の勲記が勲章共に付いています。こちらは箱が欠品とな
っていました。略綬はどちらも付いていました。
加藤 陸軍技官の従軍記章です。日清戦争の従軍記章の箱は、漆塗りで
蓋に何もかかれていないのが正規のものです。箱もきれいな状態なので
すが惜しい事に蓋の横が右枠が欠品しています。日露戦争の方は、とて
も良い状態です。日清戦争の従軍記章は、鹵獲した清国軍の青銅の大砲
をつぶして作ったと言われています。
正規の軍人でなく軍属として長く従軍し金鵄勲章まで
授与され、ある程度一括で資料が残っているのは、最
近では、珍しい気がします。功七級ですので軍属でも
待遇は、兵士と同等の扱いです。従いまして下士官待
遇の判任官でも無く、嘱託員・雇員・傭人等の扱いに
あったものと思われます。
加藤技官の所持していた木杯です。右上の画像が日清戦争
の時の木杯です。下の画像が日露戦争の木杯です。目録、
日の丸も当時のものです。












上海海軍航空隊の聖戦記念の煙草入れです。



乃木大将の銅版レリーフ



明治後期に陛下主催の宮中晩餐会の出席者に配られた杯。
菊花御紋章入りで当時の共箱も残っています。