旧軍関連収集品
(軍装品...etc) Part Wg
















帝都復興記念章


帝國水救済会名誉会員徽章
帝國水難救済会 終身特別会員徽章







戦前・戦後、新旧の手錠




こちらの捕縄のついた手錠は、戦後の
警察のものと思われます。
警察の刻印と○に神、シリアルNo.らしい
数字の刻印があります。
戦前の憲兵の使用した手錠との事で入手しました。
本物かどうかは、定かでありません。別な詳しい方の
御指摘では、満州国警察の手錠であるとの話です。
憲兵隊も軍人の拳銃で私物が多いように手錠等も
好みにより私物として購入する方も随分と居られた
そうです。これは、年季の入った手錠ケースです。
多分、私服や潜入捜査で使用する時に携帯したの
でしょうか。
六光旭日の変形したマークの刻印にシリアルNo.
の数字の刻印、外国製なのでしょうか不明の文字
とマーク。K.OTAと名前も刻印があります。



以下、上と違う別の手錠!




上と違う鍵の無い手錠です。
マークは、同じです。
私の手元に手錠に関する資料が無いので何とも
言えませんが詳しい方によると満州国警察の手
錠との事です。確かに下の画像を見ると満州と
ローマ字で書かれています。


一緒にあった警笛です。



戦時資料 : 特高警察の手錠




こちらは、上の物と違うハンドカフです。鎖は溶接で
スプロケット(歯車式)による固定は本物です。











加藤 文夫 陸軍軍曹の所持品




珍しい紙製の外出証です。
幸3704部隊、つまり岐阜編成の歩兵第六十八
連隊を指します。敗戦時の上級部隊は、第三
師団で敗戦時は、支那の九江(江西省)にあり
ました(連隊長:川崎貞弍大佐)。
昭和18年の6月で棒給支払票の記載が止まっています。
戦死した可能性もありますが、大東亜戦争前から従軍し
ておりますので召集解除で内地に帰還している可能性も
あります。第六十八連隊は、大東亜戦争前より後も支那
でずっと戦った部隊です。

















元警官の横山 實 陸軍軍曹の軍隊手帳等




大正13年1月10日に徴兵により歩兵第四十八
連隊第五中隊に入隊する事から始まっています。
福岡県出身
入営の歳の12月には、既に伍長勤務上等兵。翌年の
5月に退営。大正15年12月1日、予備役。昭和6年4月
1日、後備役。昭和13年充員動員のため輜重兵第十八
連隊に応召。兵站自動車第六十九中隊に編入。同年
6月2日、門司へ出発。5日、上海上陸。8日に南京上
陸。同月の24日まで南京〜鎮江の輸送任務に従事。
その後は、支那国内を輸送任務で移動しています。昭
和14年2月2日に陸軍歩兵伍長に昇進。途中、転属で
第106師団で警備・戦闘などの任務に従事。10月1日
、任歩兵軍曹。10月31日、普通自動車操縦技量証明
書下付。事務普通適任証附典。同年11月30日召集解
除、退営。軍歴に精勤章、善行章、三等射撃徽章など
が附与が記載されています。




新聞の切抜きの写真、向かって前列の
右側の兵が当時の横山伍長です。


この新聞の切り抜き記事の三名は、福岡県
警察部保安課交通係の同僚で、写真左から
横山實部長(上等兵)、鈴木儀平技師(少尉
)、瀬戸千太郎警部補(准尉)である。同時
に3名が召集され隊こそ違えども同じ連隊な
のでいつかは逢えると再開を楽しみにしてい
たとの事が記載されています。


横山軍曹のものと違いますが彼が
取得した”普通自動車操縦技量証
明書”と同じ物です。







砲兵から春川憲兵隊の憲兵に
       なった上等兵の軍隊手帳




砲兵から憲兵になり憲兵上等兵として
朝鮮駐留の春川憲兵隊に所属した方の
軍隊手帳です。









大阪陸軍病院 軍医予備員の軍隊手帳






大阪出身で日本医科大出身の産婦人科医の軍隊
手帳です。昭和12年日医を卒業、大阪回生病院の
産婦人科に勤務しています同年12月15日に軍医
予備員候補者として大阪陸軍病院に入隊。同日、
陸軍衛生上等兵。同月20日に陸軍衛生伍長、30日
に陸軍衛生軍曹に昇進、同日除隊になっています。

恐らく大東亜戦争で確実に軍医として召集されたも
のと推察します。まあ一兵卒で苦労するより、軍医と
して士官になった方が良い待遇でありましょう。何時
の世も考える事は、同じで海軍の予備学生、陸軍の
甲種幹部候補生何れも然りです。







戦時中撮影された四式重爆
     ”飛竜”(キ67) 額入写真




額の裏に来歴があります。写真は、大きく引き
伸ばされた飛竜の写真で、額に入っています
非常にシャープで、コックピット内の人影まで分
かります。







閑歳 修吉 海軍造兵少佐の招待状等、紙物












帝国ホテルでの挙式・披露宴の案内。
献立がシンプルでいいですね。




横鎮での軍艦”鈴谷”の命名式の招待状。
昭和九年の司令長官は、後の軍令部総長
である永野修身海軍中将です。






上下とも帝国ホテルでの披露宴の案内と献立です。
微妙に違いがあるのが面白いです。当時、帝国ホテ
ルで挙式をあげる人とは、相当の資産家や身分の高
い方だと思われます。


京都ホテルで披露宴の献立
閑歳 修吉 海軍造兵少佐







博恭王殿下の園遊会の招待状













元香取海軍航空隊主計長を勤めた
      影井 梅夫 主計大尉の所持品




海軍航空隊のアルマイト色の航空眼鏡
この主計大尉殿は、役得でカポックやら飛行服
やら兵科将校でも無いのに航空隊関係の品を
たくさん持ち帰っています。
経歴は、名刺から臺北在勤海軍武官附、香取海軍航空隊
主計長、横須賀鎮守府出仕で台湾の臺北在勤海軍武官
附で主計中尉、以降は大尉で、敗戦時も大尉のようです。
影井 梅夫 海軍主計大尉の
二種軍衣袴です。






飛行将校でも無い経理将校が何故、こうした品を
持ち帰り仕舞っていたのかは、良く判りません。


影井大尉が主計長を勤められた香取海軍
航空隊は、御存知のように昭和19年2月に
整備教育練習部隊として千葉県香取郡に
開隊されました。
実戦部隊の編成・練成基
地となり、その後に本土防衛作戦基地とな
りました。昭和20年2月の硫黄島米軍上陸
より特攻隊が組織され翌21日には、第二
御楯隊が硫黄島に突入しました。ここの基
地で練成を終えた各飛行隊は続々と九州
へ南進して菊水作戦に投入され特攻散華
されました。







海軍航空本部 配給の未使用
         大号の作業服(上下)




襟首に’大’の小さな標記布があります。
素材は、麻のようです。末期の粗悪品で
すが未使用の夏物のようです。











潜水艦(伊52)乗組み水兵の長袴1点と短袴2点




かなり使い込まれています。薄れ掛けて
いますが佐世保軍需部が読めます。
油汚れは、潜水艦であれば必需品
でありますのでこの汚れ跡は、納得
がいきます。


記名布に昭和3-5年とありますので伊52
は、初代の海大U型の方と考えられます。
帝國海軍が対米戦の艦隊決戦で米海軍主力戦艦部隊を
追尾しうるるだけの水上速力をもつ潜水艦として作り出し
たのが海大型です。伊52は、その為だけに建造された潜
水艦です。最初の海大型となった海大I型は、20ノットの
速力を出す為の大型ディーゼル機関が入手不可能だった
為に中出力のディーゼルを4基搭載しました。次の海大II
型では、スイスから輸入した最新鋭の三千馬力のディー
ゼルエンジンを2基搭載し、合計出力が六千馬力を得る事
が出来ました。しかし新型で大型ディーゼルの整備に不慣
れな海軍では、故障が続き実用性に乏しかった現状があ
り実験艦としての性格が色濃く同型艦は作られませんでし
た。この伊52の経験が後に単軸で六千馬力の出力を発揮
した艦本式ディーゼルの国産化を可能としました。尚、
伊52は、日本初の大型高速潜水艦として長らく各種訓練
や実験に使用されましたが、老朽化が進み伊52から
伊152と艦名を変えましたが、昭和17年に除籍され潜水学
校の繋留練習潜水艦として呉軍港に置かれました。敗戦
後の昭和21年に解体処理されました。
上の下側の画像は、昭和2年度の演習で潜望鏡深度で魚雷
を2本同時発射した珍しい画像です。圧縮空気の気泡が海面
に吹き上げており、ぼんやりとですが伊52の船体が見えてい
ます。尚、海大U型の魚雷兵装は、T型と同じで艦首に53
cm発射管6門、艦尾に2門を装備し、搭載魚雷数は、16本で
ありました。

 海大II 型 一等潜水艦(伊号152(旧52)潜水艦)

             【性能データ】

排水量: 基準排水量:1.390t、 水上排水量:1.500t、
      水中排水量:2.500t
全長 :100.9m (垂線間長:94.6m)
全幅 :7.64m  
喫水: 5.14m
機関 :2軸ディーゼル 水上 6800bhp、
    電動 水中 2000shp
速力 水上 22ノット、水中 10ノット
兵装 53cm魚雷発射管 8門、45口径12cm砲 1門,、
   40口径8cm砲 1門
乗員 60名
昭和21年、旧呉海軍工廠ドックで解体される
伊152潜(左側)右は、呂13潜です。







昭和八年 海軍特別大演習
          横浜市の市電優待乗車券











東京・渋谷の海軍館 観覧招待券と絵葉書三枚












使用済の一般観覧券







鞍工兵の使用したと言われる皮製の前掛け




鞍工兵は、非常に地味で華やかさの無い部門です。
通常は、師団隷下の兵器勤務隊の中に各工場があ
り(鞍工場、銃工場、木工場、鍛工場など)あり、この
中の鞍工場で鞍工兵がおり、主に皮製品の補修等を
行なっています。扱う物は小さな物で剣差から軍靴、
馬具などに至るまで多岐に渡ります。主に専門の職人
だった兵が選ばれて配属されたようです。







ベークライド製の陸軍のカップ















歩兵第二十八連隊(旭川)の
       連隊長室にあった花器




この花瓶は、歩兵第六十六師団長をつとめられた
中島吉三郎 陸軍中将(群馬出身)が昭和13年1月
20日より、14年3月8日まで第七師団隷下、旭川の
第二十八連隊長の職にあった時に連隊長室に飾っ
たものであります。かなり擦り傷や剥げ部分もありま
す。歩兵将校団と刻まれています。裏になにやらあ
りますが難読です。


この画像は、中島大佐(中将)が連隊長の頃の二十八連隊
のものではありません。福田栄太郎大佐(後に少将)が昭和
5年に歩兵第二十八連隊長をつとめた時のものです。この画
像の向かって前列の左から2番目に見える方が中島閣下の
若かりし中尉時代です。また前列右端が中島閣下の義兄弟
の契りを交わしたと言われる小園江邦雄中尉〔茨城出身 
陸大38期卒 功三級 任中将〕です。







那覇の暁部隊(陸軍船舶工兵)の隊員からの葉書




昭和19年5月12日の事でしょうか、
薄く鉛筆で記載があります。
差出人のは、沖縄の那覇にある暁第六一六八部隊
、松井隊とあります。故郷の兵庫県赤穂の親戚また
は友人に宛てた葉書と思われます。内容は、19年の
春の沖縄と言う事もあり切迫した様子も無く…一般的
な内容です。
この暁第六一六八部隊の情報は、ありませんが…船舶工兵
部隊はこの一年後の沖縄戦では、第三十二軍隷下で以下の
配置が判っています。

       
〜沖縄本島:暁部隊の直轄部隊〜

◎第五海上挺進基地隊本部(北谷)


 海上挺進基地第一大隊(挺身大隊は、大隊本部、勤務
                中隊3、整備中隊1よりなります。)
 海上挺進基地第二大隊
 海上挺進基地第三大隊(真壁)
 海上挺進基地第二六大隊(東風平)
 海上挺進基地第二七大隊(大里、佐敷、)
 海上挺進基地第二八大隊
 海上挺進基地第二九大隊(北谷、東風平)
 海上挺進基地第三〇大隊

 (船舶部隊)
◎第一一船舶団司令部
 第七船舶輸送司令部沖縄支部
 船舶工兵第二三連隊(佐敷村)
 船舶工兵第二六連隊
 

    
〜第三十二軍(球部隊)直轄部隊(首里)〜

 (球)海上挺身第四戦隊
 (球)海上挺身第二六戦隊(真壁名城)
 (球)海上挺身第二七戦隊(与那原)
 (球)海上挺身第二八戦隊(玉城)
 (球)海上挺身第二九戦隊(北谷)

・渡嘉敷島・阿波連島
 (球)海上挺身第三戦隊
 (球)特設水上勤務第一〇四中隊の1個小隊

・座間味島
 (球)海上挺身第一戦隊
 (球)特設水上勤務第一〇四中隊

・阿嘉島・慶留間島
 (球)海上挺身第二戦隊
 (球)特設水上勤務第一〇四中隊

その詳細については、私の持っている資料には、それ以上
の事が余り記載がありません。








陸軍航空総監部 
 ”航空高級指揮官 と号 部隊運用ノ参考”




昭和二十年三月、戦局ますます悪化の一途を辿り、最早
最後のあがきとも思われる本土防衛の”と号”陸軍
特攻作
戦。
その特攻機の装備の全貌と特攻隊員の訓練目標など
が記載された”極秘”マニュアルとなります。
”と号 機種・種
別装備爆弾・信管・機材取扱等一覧”及び”と号 部隊教
育訓練課程及要求程度”など、
ポケット型で34ページ・附
表2枚になっています。
航空高級指揮官に限られた”極秘”
なので配われた部数は、少ない為、残存数は、余り無いも
のと推察されます。







武装商船”さかき丸” の記念文鎮




日露戦争で武装商船”信濃丸”がバルチック艦隊の発見
をする偉業を打ち立てました。このように平時では、一般
商船。戦時では、武装商船として船を作ろうと、一般から
寄付が集められ、船舶が寄贈されました。義勇艦隊と呼
ばれた活動の一環のようです。”さかき丸”もその中の一
隻です。川崎造船所で当初から武装商船として作られま
した。この記念文鎮は、大口寄贈者などへの感謝の気持
ちから贈られたものだそうです。








徴兵検査に絡む
  学力調査出頭通知書と体力手帳等










この方は、海軍に志願したようです。基本的
に海軍は徴兵でなく志願と言う形になります。







空母鳳翔会10周年記念陶板




空母”鳳翔”の戦友会の十周年記念
で作られた品のようです。







海軍経理学校 選修学生 卒業成績表




第5期海軍経理学校選修学生,第23期高等科
経理術練習生、第36期普通科経理術練習生
のそれぞれの卒業成績表です。
海兵団を上位の成績で修了し実施部隊での
成績も良好な兵が選抜試験を経て普通科練
習生に採用されいわゆるマークもちとなりま
すが累進して准士官、特務士官となるには更
なる選抜試験が待っています。
それぞれの卒業成績表で各鎮守府より選抜された
兵員努力の足跡をガリ版刷りの藁半紙より辿る事
ができます。
この選修学生の主席卒業生には、将校生徒
同様に恩賜の短剣が拝受されることになって
います。




海軍主計兵曹長襟章(旧型)です。
裏側は金具留になっています。







掃海艇の一等兵曹の履歴簿




海軍機雷学校で機雷術・水測術を学び、第二十七
掃海隊に属していた一等兵曹の履歴簿です。各兵
科中で最も嫌われ死亡確率の高いのが掃海艇乗り
でした。艇長は、士官でなり手が無く下士官が務め
ました。
この履歴簿の小菅一曹は、埼玉県秩父郡の出身です。
大東亜戦争がはじまる3ヶ月前の昭和16年9月1日に
横須賀海兵団に入団。四等水兵をかわきりに敗戦まで
生き延びておられます。はじめは駆逐艦”沖風”に乗組
、十二糎砲の弾薬庫員をしています。その後、海軍機雷
学校に入校し敗戦まで掃海畑を歩まれています。機雷学
校で怪我をされて昭和17年の3月から5月まで横須賀海
軍病院に入院しています。この入院で機雷学校は、中退
しています。その後は、水測員として再度、機雷学校に
入校し、受講後に第二玉園丸の乗組みになります。
第二十七掃海隊の所属になり、厚岸防備隊所属で第二
玉園丸の乗組みを継続しています。20年6月に高等科
水測術練習生として海軍封潜学校に艦艇班として入校。
横須賀警備隊付となり、卒後、久里浜第一警備隊を経て
横鎮付になり敗戦で一等兵曹に昇進、横須賀防備
隊付となり11月2日、予備役編入になり現役軍人生活に
終止符を打っています。







戦艦”長門”の十四糎砲の砲手の
           三等兵曹の履歴簿他




海軍三等兵曹、善行章ニ線の下士官で現役
満期を迎え予備役になられています。
軍艦”八雲”、駆逐艦”有明”、最後に軍艦”長門”の
乗組みになった方の履歴簿です。”後部五分隊員名
簿”によれば、長門後部の砲塔で十四糎砲の砲手で
した。戦艦”長門”の後部砲塔の役割分担とその人数
と名前等が克明に書かれています。
大正7年6月1日に海軍五等水兵をかわきりに大正
15年5月末日の予備役編入まで約8年の現役軍人
生活が記載されています。
主に砲員として勤務しています。八糎砲員、十四糎
砲員、十四糎砲揚弾薬機員として勤務しています。
大正10年11月より、14年2月まで戦艦 長門 乗組です。






この中に十四糎砲や砲弾庫員、火薬庫員、十四糎砲揚
弾薬機員、八糎高角砲と八糎砲弾薬庫員の配置などが
良く判ります。基本的には、以下

・十四糎砲:射撃手を務める長が一曹若しくは、ニ曹。
        以下に水兵が6〜7名が配置。

・十四糎砲弾庫:ニ〜三曹を長に3名〜6名の水兵
          が配置。

・十四糎火薬庫:ニ〜三曹を長に3〜5名の水兵
          が配置。

・十四糎砲揚弾薬機:一〜二曹を長に9〜12名の
             水兵が配置。

・八糎高角砲:射撃手で長の一〜二曹の下に4〜5名
         の水兵が配置。

・八糎砲弾薬庫:ニ〜三曹を長として4〜5名の水兵
          が配置。







稲垣 生起 海軍中将の佐官時代の資料




稲垣閣下は、海軍中佐時代の昭5年12月1日
〜大佐に昇進後の昭7年11月15日の連合艦隊
参謀と第一艦隊参謀として転出するまでの間、
海軍大学校の教官を勤められています。また
大佐になられた昭6年12月 1日以降からは、

陸軍大学の兵学教官も勤められています。これ
等の資料はまさしくこの教官時代を中心に前後
する時期の資料になります。
陛下の御臨席の後の御立よりに関する
諸注意が記載されています。
昭和13年度の海大の卒業式に
居並ぶ列席の将星達…。








海軍大学校は、明治21年、海軍兵学校が築地から江田島
に移転した年に築地に開校しました。海軍の高級幹部を養
成する機関で、卒業生は海軍のエリートとして海軍内部の
要職を占めました。関東大震災で罹災し、昭和7年、東京
品川の上大崎に移転しました。 敗戦後、海軍大学校は、
閉鎖されます。建物は、その後に旧国立予防衛生研究所
(現在の国立感染症研究所)が使用しましたが、昭和36年
に武蔵村山市内に移転した為、跡地は現在、マンションに
なっているようです。


海軍大学校


この昭和13年度の卒業生に贈られた卒業記念の
煙草入れだとは思いますが、卒業生だけでなく教
官など海大関係者にも陛下より御下賜されるもの
なのかは、良く判りません。もしかしたら稲垣閣下
が海大21期で大正12年に卒業されておりますの
で、この時にいただいた品の可能性もありますが、
定かではありません。


銀製の未使用品です。


昭和10年十一月のロンドン軍縮会議の送別会のもの
です。この会議には稲垣閣下も全権随員として参加し
て渡英されております。








昭和4年4月3日の関東軍司令官主催の晩餐会
の招待状。この当時、閣下は第五戦隊参謀をさ
れていた時です。
こちらは、満鉄社長主催の招待状です。将来を約束され
たのエリート軍人は、佐官でも政財界からお呼びが掛か
るのが良くわかります。
バラバラの航海日誌です。笠置、三笠、出雲、和泉、宗谷等
50枚以上有ります。笠置と和泉は、海兵を卒業して海軍少尉
候補生の時に乗組んでいます(明治43年〜44年)、防御巡洋
艦”出雲”と”三笠”は、海軍少尉時代の明治44年〜大正2年
まで乗組になっております。戦利巡洋艦”宗谷”は、大正3年か
ら4年にかけて海軍中尉時代に乗組んでいます。







稲垣 生起 海軍中将の空母 加賀 艦長時代の手紙




昭和12年10月27日の消印の封書です。軍艦 加賀
より東京荻窪の自宅の奥様へ出した手紙ですが、宛
名は、自分から自分になっています。大佐時代の手
紙となります。
稲垣中将の少将時代の名刺です。航本総務部長
の後は、軍令部出仕、海大校長などをされていま
す。封書の中身は、以下ですが余り大した内容は
、記載されいません。
        稲垣 生起 海軍中将 和歌山県出身

        海兵38期、海大21期

佐官時代までは、一貫として砲術畑を歩んでいます。海大甲種
卒後は、参謀職が多くなり、連合艦隊参謀や各艦隊の参謀を
歴任し軍令部第一部二課長を務める。昭和10年11月にロンド
ン会議全権随員を務める。昭和11年 戦艦 比叡 艦長の後、
空母 加賀 艦長を昭和12年12月1日まで務めて、海軍少将に
昇進し航本総務部長に就任。17年6月1日に海大校長に就任。
同年9月15日に歿、海軍中将に昇進。


こちらは、別に入手した稲垣提督の大佐時代の晩餐会
の招待状です。昭和8年8月5日(土)に戦艦”比叡”に
て開催、主催者は、軍令部総長の博恭王殿下となって
おります。丁度、この時は、稲垣閣下は、連合艦隊参謀
兼第一j艦隊参謀をされておった頃だと思われます。







陸軍 手動ウインチ




最大吊揚荷重が判りませんが余り太い鎖で
も無いので50kg位と思われます。
プレートに日東商会製が読み取れます。







不明の皮製ケース




陸軍の作戦地図等を収納する
ケースだと思われます。









大連(ダルニー)市警務司令官命令とチラシ




昭和20年10月28日、ソ連軍のロズロフ中将
が日本行政官に退職を命じ、大連市長及び
副市長にに中華民国人を任命した事を布告し
た日本語の紙です。上のチラシは一般市民に
自由に交通する事を許可するとあり、残存する
品としては、大変珍しいものと思います。







関東軍法会議法律案と
   第八師団軍法会議裁判部
の考課表




陸軍の法務将校だった方が戦後も所持していた
ものと推察します。第八師団のものが中心だった
ので、考課表などを作成された法務官その人でな
いかと考えます。
昭和6年から9年の考科表が13枚あります。















巣鴨プリズン…試練のアルバム






試煉のアルバム…貴重な資料ですが佐賀の
小学校の図書室で廃棄処分となっています。
恐らくはサヨの日教組教師によるものと推察
します。
戦争犯罪人として獄中に拘禁された軍人が巣鴨の刑務所
で作製した本です。巣鴨の暮らしや所内作業、学科、入浴
、十三階段(刑場)などの話や横浜大森収容所、上海、
グアム、ラバウル、ジャワ、スマトラ、サバン、モロタイ、
バンゼルマシン、マカッサル、アンボン、サイゴン、プロコン
ドール、香港、チャンギー、オートラム、ビルマ、モンテンル
パなどの収容所の様子などが豊富な挿絵とともに紹介され
ています。付録として戦犯者家庭悲劇の実態調査として家
族の生活状態や戦犯拘禁中家族が自殺したもの、戦犯の
家族なるがゆえに就職を禁止されたもの、村八分の迫害を
受けたもの、結婚を拒否されたもの、子供の入学拒否など
の社会的迫害を受けたものなどの調査記録がついていま
す。







BC級戦犯となった陸軍法務大尉の巣鴨獄中資料




御本人、直筆の履歴書。南支派遣軍の法務部員で敗戦を
迎えています。敗戦後の昭和21年9月に戦時中の米戦略
空軍の裁判問題で、戦犯として上海で米軍より起訴され有
罪となり、終身重労働形に処せられています。身柄は、巣
鴨プリズンに移され服役をしています。昭和30年12月に仮
出所となり釈放されています。この履歴書は、昭和31年
3月に記載されており、これは東京千代田区の法律事務所
に就職する際に為のものと思われます。…この方は、履歴
書によると関西大学の法律の専門学校を卒業、恐らく戦前
の帝大等にあった医専(医学専門学校)と同じものと推察し
ます。昭和16年に高等試験司法か試験合格とありますので
、現在の司法試験に合格したのでしょう。同年12月、立命館
大学法学部を卒業とありますので、法律専門学校卒後に
立命館大学の法学部の教養課程の2年を飛ばして専門課程
に2年間在籍したのだと思います。卒後すぐに陸軍法務官試
補に命ぜられています。まさに日米戦の幕開けと同時に陸軍
に入っています。昭和17年4月に陸軍法務中尉に任官、振り
出しは、第十(姫路)師団の法務部々員です。同年7月陸軍
船舶法務部々員、18年5月香法総督部つまり香港総督部付
、19年8月に陸軍法務大尉に任ぜられる。20年1月に最後の
勤務地となる南支那派遣軍法務部々員。
御国の為に命を削って働き…敗戦後は、戦犯として
断罪される…余りにも不条理で哀しい戦犯の方々で
す。私の職場のすぐ近くに池袋サンシャイン・シティ
があります。ここは、元の巣鴨プリズンのあった場所
です。ここを所要で訪れると時々、この方達の事に
想いを馳せる事が多々あります。今は、若い人や家
族連れの人達が大勢行きかう名所になっています
が…頭を垂れ手を合わせてしまいたくなります。














色々な方々が慰問に訪れていたようです。





















膨大な拘留中の裁判及び獄中資料、
        戦後の弁護士時代の資料etc.




仮出所申請書になります。




国の為に働き戦争に敗れると戦犯の汚名を着せ
られ運が無ければ処刑されてしまいます。その哀
しい悲運を想うと自然と頭が垂れます。






























巣鴨プリズンは、現在、東京は池袋のサンシャイン
シティに生まれ変わっています。サンシャイン60や
プリンスホテルが立っています。私の職場から歩い
てすぐの距離にあります。普段は、何気なく前を通
過しますが…時々、思い起こすと複雑な心境になり
ます。土日ともなれば親子連れやカップルでにぎ合
う場所で平和を享受する風景をいつも目にする事
が出来ます。




















このノートには、同じBC級戦犯として巣鴨に抑留
された方々の寄書きが記載されています。










こちらの分厚い本のようなノートは、日記
と共に新聞記事をスクラップしています。
やはり法曹界の方です。戦後の法律関係
のスクラップが非常に多いです。


戦犯から解放され、シャバに戻り弁護士になられ
活躍した時の資料です(上と下)。











陸軍 甲種幹部候補生への採用願等々






昭和16年5月20日、封筒と卒業証明、履歴書、
学校の証明書、教練検定合格証明書が添付さ
れて糸で一括りにされています。
地元、静岡の県立浜松商業学校を卒業しています。
20歳の徴兵を前にして幹部候補生の採用試験を受
ける事にしたのでしょう。