旧軍関連収集品
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帝都復興記念章 |
帝國水救済会名誉会員徽章 |
帝國水難救済会 終身特別会員徽章 |
戦前・戦後、新旧の手錠 |
こちらの捕縄のついた手錠は、戦後の 警察のものと思われます。 |
警察の刻印と○に神、シリアルNo.らしい 数字の刻印があります。 |
戦前の憲兵の使用した手錠との事で入手しました。 本物かどうかは、定かでありません。別な詳しい方の 御指摘では、満州国警察の手錠であるとの話です。 |
憲兵隊も軍人の拳銃で私物が多いように手錠等も 好みにより私物として購入する方も随分と居られた そうです。これは、年季の入った手錠ケースです。 多分、私服や潜入捜査で使用する時に携帯したの でしょうか。 |
六光旭日の変形したマークの刻印にシリアルNo. の数字の刻印、外国製なのでしょうか不明の文字 とマーク。K.OTAと名前も刻印があります。 |
以下、上と違う別の手錠! |
上と違う鍵の無い手錠です。 マークは、同じです。 |
私の手元に手錠に関する資料が無いので何とも 言えませんが詳しい方によると満州国警察の手 錠との事です。確かに下の画像を見ると満州と ローマ字で書かれています。 |
一緒にあった警笛です。 |
戦時資料 : 特高警察の手錠 |
こちらは、上の物と違うハンドカフです。鎖は溶接で スプロケット(歯車式)による固定は本物です。 |
加藤 文夫 陸軍軍曹の所持品 |
珍しい紙製の外出証です。 |
幸3704部隊、つまり岐阜編成の歩兵第六十八 連隊を指します。敗戦時の上級部隊は、第三 師団で敗戦時は、支那の九江(江西省)にあり ました(連隊長:川崎貞弍大佐)。 |
昭和18年の6月で棒給支払票の記載が止まっています。 戦死した可能性もありますが、大東亜戦争前から従軍し ておりますので召集解除で内地に帰還している可能性も あります。第六十八連隊は、大東亜戦争前より後も支那 でずっと戦った部隊です。 |
元警官の横山 實 陸軍軍曹の軍隊手帳等 |
大正13年1月10日に徴兵により歩兵第四十八 連隊第五中隊に入隊する事から始まっています。 |
福岡県出身 |
入営の歳の12月には、既に伍長勤務上等兵。翌年の 5月に退営。大正15年12月1日、予備役。昭和6年4月 1日、後備役。昭和13年充員動員のため輜重兵第十八 連隊に応召。兵站自動車第六十九中隊に編入。同年 6月2日、門司へ出発。5日、上海上陸。8日に南京上 陸。同月の24日まで南京〜鎮江の輸送任務に従事。 その後は、支那国内を輸送任務で移動しています。昭 和14年2月2日に陸軍歩兵伍長に昇進。途中、転属で 第106師団で警備・戦闘などの任務に従事。10月1日 、任歩兵軍曹。10月31日、普通自動車操縦技量証明 書下付。事務普通適任証附典。同年11月30日召集解 除、退営。軍歴に精勤章、善行章、三等射撃徽章など が附与が記載されています。 |
新聞の切抜きの写真、向かって前列の 右側の兵が当時の横山伍長です。 |
この新聞の切り抜き記事の三名は、福岡県 警察部保安課交通係の同僚で、写真左から 横山實部長(上等兵)、鈴木儀平技師(少尉 )、瀬戸千太郎警部補(准尉)である。同時 に3名が召集され隊こそ違えども同じ連隊な のでいつかは逢えると再開を楽しみにしてい たとの事が記載されています。 |
横山軍曹のものと違いますが彼が 取得した”普通自動車操縦技量証 明書”と同じ物です。 |
砲兵から春川憲兵隊の憲兵に
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砲兵から憲兵になり憲兵上等兵として 朝鮮駐留の春川憲兵隊に所属した方の 軍隊手帳です。 |
大阪陸軍病院 軍医予備員の軍隊手帳 |
大阪出身で日本医科大出身の産婦人科医の軍隊 手帳です。昭和12年日医を卒業、大阪回生病院の 産婦人科に勤務しています同年12月15日に軍医 予備員候補者として大阪陸軍病院に入隊。同日、 陸軍衛生上等兵。同月20日に陸軍衛生伍長、30日 に陸軍衛生軍曹に昇進、同日除隊になっています。 恐らく大東亜戦争で確実に軍医として召集されたも のと推察します。まあ一兵卒で苦労するより、軍医と して士官になった方が良い待遇でありましょう。何時 の世も考える事は、同じで海軍の予備学生、陸軍の 甲種幹部候補生何れも然りです。 |
戦時中撮影された四式重爆
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額の裏に来歴があります。写真は、大きく引き 伸ばされた飛竜の写真で、額に入っています 非常にシャープで、コックピット内の人影まで分 かります。 |
閑歳 修吉 海軍造兵少佐の招待状等、紙物 |
帝国ホテルでの挙式・披露宴の案内。 献立がシンプルでいいですね。 |
横鎮での軍艦”鈴谷”の命名式の招待状。 昭和九年の司令長官は、後の軍令部総長 である永野修身海軍中将です。 |
上下とも帝国ホテルでの披露宴の案内と献立です。 微妙に違いがあるのが面白いです。当時、帝国ホテ ルで挙式をあげる人とは、相当の資産家や身分の高 い方だと思われます。 |
京都ホテルで披露宴の献立 |
閑歳 修吉 海軍造兵少佐 |
博恭王殿下の園遊会の招待状 |
元香取海軍航空隊主計長を勤めた
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海軍航空隊のアルマイト色の航空眼鏡 |
この主計大尉殿は、役得でカポックやら飛行服 やら兵科将校でも無いのに航空隊関係の品を たくさん持ち帰っています。 |
経歴は、名刺から臺北在勤海軍武官附、香取海軍航空隊 主計長、横須賀鎮守府出仕で台湾の臺北在勤海軍武官 附で主計中尉、以降は大尉で、敗戦時も大尉のようです。 |
影井 梅夫 海軍主計大尉の 二種軍衣袴です。 |
飛行将校でも無い経理将校が何故、こうした品を 持ち帰り仕舞っていたのかは、良く判りません。 |
影井大尉が主計長を勤められた香取海軍 航空隊は、御存知のように昭和19年2月に 整備教育練習部隊として千葉県香取郡に 開隊されました。実戦部隊の編成・練成基 地となり、その後に本土防衛作戦基地とな りました。昭和20年2月の硫黄島米軍上陸 より特攻隊が組織され翌21日には、第二 御楯隊が硫黄島に突入しました。ここの基 地で練成を終えた各飛行隊は続々と九州 へ南進して菊水作戦に投入され特攻散華 されました。 |
海軍航空本部 配給の未使用
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襟首に’大’の小さな標記布があります。 素材は、麻のようです。末期の粗悪品で すが未使用の夏物のようです。 |
潜水艦(伊52)乗組み水兵の長袴1点と短袴2点 |
かなり使い込まれています。薄れ掛けて いますが佐世保軍需部が読めます。 |
油汚れは、潜水艦であれば必需品 でありますのでこの汚れ跡は、納得 がいきます。 |
記名布に昭和3-5年とありますので伊52 は、初代の海大U型の方と考えられます。 |
帝國海軍が対米戦の艦隊決戦で米海軍主力戦艦部隊を 追尾しうるるだけの水上速力をもつ潜水艦として作り出し たのが海大型です。伊52は、その為だけに建造された潜 水艦です。最初の海大型となった海大I型は、20ノットの 速力を出す為の大型ディーゼル機関が入手不可能だった 為に中出力のディーゼルを4基搭載しました。次の海大II 型では、スイスから輸入した最新鋭の三千馬力のディー ゼルエンジンを2基搭載し、合計出力が六千馬力を得る事 が出来ました。しかし新型で大型ディーゼルの整備に不慣 れな海軍では、故障が続き実用性に乏しかった現状があ り実験艦としての性格が色濃く同型艦は作られませんでし た。この伊52の経験が後に単軸で六千馬力の出力を発揮 した艦本式ディーゼルの国産化を可能としました。尚、 伊52は、日本初の大型高速潜水艦として長らく各種訓練 や実験に使用されましたが、老朽化が進み伊52から 伊152と艦名を変えましたが、昭和17年に除籍され潜水学 校の繋留練習潜水艦として呉軍港に置かれました。敗戦 後の昭和21年に解体処理されました。 |
上の下側の画像は、昭和2年度の演習で潜望鏡深度で魚雷 を2本同時発射した珍しい画像です。圧縮空気の気泡が海面 に吹き上げており、ぼんやりとですが伊52の船体が見えてい ます。尚、海大U型の魚雷兵装は、T型と同じで艦首に53 cm発射管6門、艦尾に2門を装備し、搭載魚雷数は、16本で ありました。 |
海大II 型 一等潜水艦(伊号152(旧52)潜水艦) 【性能データ】 排水量: 基準排水量:1.390t、 水上排水量:1.500t、 水中排水量:2.500t 全長 :100.9m (垂線間長:94.6m) 全幅 :7.64m 喫水: 5.14m 機関 :2軸ディーゼル 水上 6800bhp、 電動 水中 2000shp 速力 水上 22ノット、水中 10ノット 兵装 53cm魚雷発射管 8門、45口径12cm砲 1門,、 40口径8cm砲 1門 乗員 60名 |
昭和21年、旧呉海軍工廠ドックで解体される 伊152潜(左側)右は、呂13潜です。 |
昭和八年 海軍特別大演習
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東京・渋谷の海軍館 観覧招待券と絵葉書三枚 |
使用済の一般観覧券 |
鞍工兵の使用したと言われる皮製の前掛け |
鞍工兵は、非常に地味で華やかさの無い部門です。 通常は、師団隷下の兵器勤務隊の中に各工場があ り(鞍工場、銃工場、木工場、鍛工場など)あり、この 中の鞍工場で鞍工兵がおり、主に皮製品の補修等を 行なっています。扱う物は小さな物で剣差から軍靴、 馬具などに至るまで多岐に渡ります。主に専門の職人 だった兵が選ばれて配属されたようです。 |
ベークライド製の陸軍のカップ |
歩兵第二十八連隊(旭川)の
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この花瓶は、歩兵第六十六師団長をつとめられた 中島吉三郎 陸軍中将(群馬出身)が昭和13年1月 20日より、14年3月8日まで第七師団隷下、旭川の 第二十八連隊長の職にあった時に連隊長室に飾っ たものであります。かなり擦り傷や剥げ部分もありま す。歩兵将校団と刻まれています。裏になにやらあ りますが難読です。 |
この画像は、中島大佐(中将)が連隊長の頃の二十八連隊 のものではありません。福田栄太郎大佐(後に少将)が昭和 5年に歩兵第二十八連隊長をつとめた時のものです。この画 像の向かって前列の左から2番目に見える方が中島閣下の 若かりし中尉時代です。また前列右端が中島閣下の義兄弟 の契りを交わしたと言われる小園江邦雄中尉〔茨城出身 陸大38期卒 功三級 任中将〕です。 |
那覇の暁部隊(陸軍船舶工兵)の隊員からの葉書 |
昭和19年5月12日の事でしょうか、 薄く鉛筆で記載があります。 |
差出人のは、沖縄の那覇にある暁第六一六八部隊 、松井隊とあります。故郷の兵庫県赤穂の親戚また は友人に宛てた葉書と思われます。内容は、19年の 春の沖縄と言う事もあり切迫した様子も無く…一般的 な内容です。 |
この暁第六一六八部隊の情報は、ありませんが…船舶工兵 部隊はこの一年後の沖縄戦では、第三十二軍隷下で以下の 配置が判っています。 〜沖縄本島:暁部隊の直轄部隊〜 ◎第五海上挺進基地隊本部(北谷) 海上挺進基地第一大隊(挺身大隊は、大隊本部、勤務 中隊3、整備中隊1よりなります。) 海上挺進基地第二大隊 海上挺進基地第三大隊(真壁) 海上挺進基地第二六大隊(東風平) 海上挺進基地第二七大隊(大里、佐敷、) 海上挺進基地第二八大隊 海上挺進基地第二九大隊(北谷、東風平) 海上挺進基地第三〇大隊 (船舶部隊) ◎第一一船舶団司令部 第七船舶輸送司令部沖縄支部 船舶工兵第二三連隊(佐敷村) 船舶工兵第二六連隊 〜第三十二軍(球部隊)直轄部隊(首里)〜 (球)海上挺身第四戦隊 (球)海上挺身第二六戦隊(真壁名城) (球)海上挺身第二七戦隊(与那原) (球)海上挺身第二八戦隊(玉城) (球)海上挺身第二九戦隊(北谷) ・渡嘉敷島・阿波連島 (球)海上挺身第三戦隊 (球)特設水上勤務第一〇四中隊の1個小隊 ・座間味島 (球)海上挺身第一戦隊 (球)特設水上勤務第一〇四中隊 ・阿嘉島・慶留間島 (球)海上挺身第二戦隊 (球)特設水上勤務第一〇四中隊 その詳細については、私の持っている資料には、それ以上 の事が余り記載がありません。 |
陸軍航空総監部
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昭和二十年三月、戦局ますます悪化の一途を辿り、最早
最後のあがきとも思われる本土防衛の”と号”陸軍特攻作 戦。その特攻機の装備の全貌と特攻隊員の訓練目標など が記載された”極秘”マニュアルとなります。”と号 機種・種 別装備爆弾・信管・機材取扱等一覧”及び”と号 部隊教 育訓練課程及要求程度”など、ポケット型で34ページ・附 表2枚になっています。航空高級指揮官に限られた”極秘” なので配われた部数は、少ない為、残存数は、余り無いも のと推察されます。 |
武装商船”さかき丸” の記念文鎮 |
日露戦争で武装商船”信濃丸”がバルチック艦隊の発見 |
徴兵検査に絡む
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この方は、海軍に志願したようです。基本的 に海軍は徴兵でなく志願と言う形になります。 |
空母鳳翔会10周年記念陶板 |
空母”鳳翔”の戦友会の十周年記念 で作られた品のようです。 |
海軍経理学校 選修学生 卒業成績表 |
第5期海軍経理学校選修学生,第23期高等科 経理術練習生、第36期普通科経理術練習生 のそれぞれの卒業成績表です。 |
海兵団を上位の成績で修了し実施部隊での 成績も良好な兵が選抜試験を経て普通科練 習生に採用されいわゆるマークもちとなりま すが累進して准士官、特務士官となるには更 なる選抜試験が待っています。 |
それぞれの卒業成績表で各鎮守府より選抜された 兵員努力の足跡をガリ版刷りの藁半紙より辿る事 ができます。 |
この選修学生の主席卒業生には、将校生徒 同様に恩賜の短剣が拝受されることになって います。 |
海軍主計兵曹長襟章(旧型)です。 裏側は金具留になっています。 |
掃海艇の一等兵曹の履歴簿 |
海軍機雷学校で機雷術・水測術を学び、第二十七 掃海隊に属していた一等兵曹の履歴簿です。各兵 科中で最も嫌われ死亡確率の高いのが掃海艇乗り でした。艇長は、士官でなり手が無く下士官が務め ました。 |
この履歴簿の小菅一曹は、埼玉県秩父郡の出身です。 大東亜戦争がはじまる3ヶ月前の昭和16年9月1日に 横須賀海兵団に入団。四等水兵をかわきりに敗戦まで 生き延びておられます。はじめは駆逐艦”沖風”に乗組 、十二糎砲の弾薬庫員をしています。その後、海軍機雷 学校に入校し敗戦まで掃海畑を歩まれています。機雷学 校で怪我をされて昭和17年の3月から5月まで横須賀海 軍病院に入院しています。この入院で機雷学校は、中退 しています。その後は、水測員として再度、機雷学校に 入校し、受講後に第二玉園丸の乗組みになります。 第二十七掃海隊の所属になり、厚岸防備隊所属で第二 玉園丸の乗組みを継続しています。20年6月に高等科 水測術練習生として海軍封潜学校に艦艇班として入校。 横須賀警備隊付となり、卒後、久里浜第一警備隊を経て 横鎮付になり敗戦で一等兵曹に昇進、横須賀防備 隊付となり11月2日、予備役編入になり現役軍人生活に 終止符を打っています。 |
戦艦”長門”の十四糎砲の砲手の
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海軍三等兵曹、善行章ニ線の下士官で現役 満期を迎え予備役になられています。 |
軍艦”八雲”、駆逐艦”有明”、最後に軍艦”長門”の 乗組みになった方の履歴簿です。”後部五分隊員名 簿”によれば、長門後部の砲塔で十四糎砲の砲手で した。戦艦”長門”の後部砲塔の役割分担とその人数 と名前等が克明に書かれています。 |
大正7年6月1日に海軍五等水兵をかわきりに大正 15年5月末日の予備役編入まで約8年の現役軍人 生活が記載されています。 |
主に砲員として勤務しています。八糎砲員、十四糎 砲員、十四糎砲揚弾薬機員として勤務しています。 |
大正10年11月より、14年2月まで戦艦 長門 乗組です。 |
この中に十四糎砲や砲弾庫員、火薬庫員、十四糎砲揚 弾薬機員、八糎高角砲と八糎砲弾薬庫員の配置などが 良く判ります。基本的には、以下 ・十四糎砲:射撃手を務める長が一曹若しくは、ニ曹。 以下に水兵が6〜7名が配置。 ・十四糎砲弾庫:ニ〜三曹を長に3名〜6名の水兵 が配置。 ・十四糎火薬庫:ニ〜三曹を長に3〜5名の水兵 が配置。 ・十四糎砲揚弾薬機:一〜二曹を長に9〜12名の 水兵が配置。 ・八糎高角砲:射撃手で長の一〜二曹の下に4〜5名 の水兵が配置。 ・八糎砲弾薬庫:ニ〜三曹を長として4〜5名の水兵 が配置。 |
稲垣 生起 海軍中将の佐官時代の資料 |
稲垣閣下は、海軍中佐時代の昭5年12月1日 〜大佐に昇進後の昭7年11月15日の連合艦隊 参謀と第一艦隊参謀として転出するまでの間、 海軍大学校の教官を勤められています。また 大佐になられた昭6年12月 1日以降からは、 陸軍大学の兵学教官も勤められています。これ 等の資料はまさしくこの教官時代を中心に前後 する時期の資料になります。 |
陛下の御臨席の後の御立よりに関する 諸注意が記載されています。 |
昭和13年度の海大の卒業式に 居並ぶ列席の将星達…。 |
海軍大学校は、明治21年、海軍兵学校が築地から江田島 に移転した年に築地に開校しました。海軍の高級幹部を養 成する機関で、卒業生は海軍のエリートとして海軍内部の 要職を占めました。関東大震災で罹災し、昭和7年、東京 品川の上大崎に移転しました。 敗戦後、海軍大学校は、 閉鎖されます。建物は、その後に旧国立予防衛生研究所 (現在の国立感染症研究所)が使用しましたが、昭和36年 に武蔵村山市内に移転した為、跡地は現在、マンションに なっているようです。 |
海軍大学校 |
この昭和13年度の卒業生に贈られた卒業記念の 煙草入れだとは思いますが、卒業生だけでなく教 官など海大関係者にも陛下より御下賜されるもの なのかは、良く判りません。もしかしたら稲垣閣下 が海大21期で大正12年に卒業されておりますの で、この時にいただいた品の可能性もありますが、 定かではありません。 |
銀製の未使用品です。 |
昭和10年十一月のロンドン軍縮会議の送別会のもの です。この会議には稲垣閣下も全権随員として参加し て渡英されております。 |
昭和4年4月3日の関東軍司令官主催の晩餐会 の招待状。この当時、閣下は第五戦隊参謀をさ れていた時です。 |
こちらは、満鉄社長主催の招待状です。将来を約束され たのエリート軍人は、佐官でも政財界からお呼びが掛か るのが良くわかります。 |
バラバラの航海日誌です。笠置、三笠、出雲、和泉、宗谷等 50枚以上有ります。笠置と和泉は、海兵を卒業して海軍少尉 候補生の時に乗組んでいます(明治43年〜44年)、防御巡洋 艦”出雲”と”三笠”は、海軍少尉時代の明治44年〜大正2年 まで乗組になっております。戦利巡洋艦”宗谷”は、大正3年か ら4年にかけて海軍中尉時代に乗組んでいます。 |
稲垣 生起 海軍中将の空母 加賀 艦長時代の手紙 |
昭和12年10月27日の消印の封書です。軍艦 加賀 より東京荻窪の自宅の奥様へ出した手紙ですが、宛 名は、自分から自分になっています。大佐時代の手 紙となります。 |
稲垣中将の少将時代の名刺です。航本総務部長 の後は、軍令部出仕、海大校長などをされていま す。封書の中身は、以下ですが余り大した内容は 、記載されいません。 |
稲垣 生起 海軍中将 和歌山県出身 海兵38期、海大21期 佐官時代までは、一貫として砲術畑を歩んでいます。海大甲種 卒後は、参謀職が多くなり、連合艦隊参謀や各艦隊の参謀を 歴任し軍令部第一部二課長を務める。昭和10年11月にロンド ン会議全権随員を務める。昭和11年 戦艦 比叡 艦長の後、 空母 加賀 艦長を昭和12年12月1日まで務めて、海軍少将に 昇進し航本総務部長に就任。17年6月1日に海大校長に就任。 同年9月15日に歿、海軍中将に昇進。 |
こちらは、別に入手した稲垣提督の大佐時代の晩餐会 の招待状です。昭和8年8月5日(土)に戦艦”比叡”に て開催、主催者は、軍令部総長の博恭王殿下となって おります。丁度、この時は、稲垣閣下は、連合艦隊参謀 兼第一j艦隊参謀をされておった頃だと思われます。 |
陸軍 手動ウインチ |
最大吊揚荷重が判りませんが余り太い鎖で も無いので50kg位と思われます。 |
プレートに日東商会製が読み取れます。 |
不明の皮製ケース |
陸軍の作戦地図等を収納する ケースだと思われます。 |
大連(ダルニー)市警務司令官命令とチラシ |
昭和20年10月28日、ソ連軍のロズロフ中将 が日本行政官に退職を命じ、大連市長及び 副市長にに中華民国人を任命した事を布告し た日本語の紙です。上のチラシは一般市民に 自由に交通する事を許可するとあり、残存する 品としては、大変珍しいものと思います。 |
関東軍法会議法律案と
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陸軍の法務将校だった方が戦後も所持していた ものと推察します。第八師団のものが中心だった ので、考課表などを作成された法務官その人でな いかと考えます。 |
昭和6年から9年の考科表が13枚あります。 |
巣鴨プリズン…試練のアルバム |
試煉のアルバム…貴重な資料ですが佐賀の 小学校の図書室で廃棄処分となっています。 恐らくはサヨの日教組教師によるものと推察 します。 |
戦争犯罪人として獄中に拘禁された軍人が巣鴨の刑務所 で作製した本です。巣鴨の暮らしや所内作業、学科、入浴 、十三階段(刑場)などの話や横浜大森収容所、上海、 グアム、ラバウル、ジャワ、スマトラ、サバン、モロタイ、 バンゼルマシン、マカッサル、アンボン、サイゴン、プロコン ドール、香港、チャンギー、オートラム、ビルマ、モンテンル パなどの収容所の様子などが豊富な挿絵とともに紹介され ています。付録として戦犯者家庭悲劇の実態調査として家 族の生活状態や戦犯拘禁中家族が自殺したもの、戦犯の 家族なるがゆえに就職を禁止されたもの、村八分の迫害を 受けたもの、結婚を拒否されたもの、子供の入学拒否など の社会的迫害を受けたものなどの調査記録がついていま す。 |
BC級戦犯となった陸軍法務大尉の巣鴨獄中資料 |
御本人、直筆の履歴書。南支派遣軍の法務部員で敗戦を 迎えています。敗戦後の昭和21年9月に戦時中の米戦略 空軍の裁判問題で、戦犯として上海で米軍より起訴され有 罪となり、終身重労働形に処せられています。身柄は、巣 鴨プリズンに移され服役をしています。昭和30年12月に仮 出所となり釈放されています。この履歴書は、昭和31年 3月に記載されており、これは東京千代田区の法律事務所 に就職する際に為のものと思われます。…この方は、履歴 書によると関西大学の法律の専門学校を卒業、恐らく戦前 の帝大等にあった医専(医学専門学校)と同じものと推察し ます。昭和16年に高等試験司法か試験合格とありますので 、現在の司法試験に合格したのでしょう。同年12月、立命館 大学法学部を卒業とありますので、法律専門学校卒後に 立命館大学の法学部の教養課程の2年を飛ばして専門課程 に2年間在籍したのだと思います。卒後すぐに陸軍法務官試 補に命ぜられています。まさに日米戦の幕開けと同時に陸軍 に入っています。昭和17年4月に陸軍法務中尉に任官、振り 出しは、第十(姫路)師団の法務部々員です。同年7月陸軍 船舶法務部々員、18年5月香法総督部つまり香港総督部付 、19年8月に陸軍法務大尉に任ぜられる。20年1月に最後の 勤務地となる南支那派遣軍法務部々員。 |
御国の為に命を削って働き…敗戦後は、戦犯として 断罪される…余りにも不条理で哀しい戦犯の方々で す。私の職場のすぐ近くに池袋サンシャイン・シティ があります。ここは、元の巣鴨プリズンのあった場所 です。ここを所要で訪れると時々、この方達の事に 想いを馳せる事が多々あります。今は、若い人や家 族連れの人達が大勢行きかう名所になっています が…頭を垂れ手を合わせてしまいたくなります。 |
色々な方々が慰問に訪れていたようです。 |
膨大な拘留中の裁判及び獄中資料、
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仮出所申請書になります。 |
国の為に働き戦争に敗れると戦犯の汚名を着せ られ運が無ければ処刑されてしまいます。その哀 しい悲運を想うと自然と頭が垂れます。 |
巣鴨プリズンは、現在、東京は池袋のサンシャイン シティに生まれ変わっています。サンシャイン60や プリンスホテルが立っています。私の職場から歩い てすぐの距離にあります。普段は、何気なく前を通 過しますが…時々、思い起こすと複雑な心境になり ます。土日ともなれば親子連れやカップルでにぎ合 う場所で平和を享受する風景をいつも目にする事 が出来ます。 |
このノートには、同じBC級戦犯として巣鴨に抑留 された方々の寄書きが記載されています。 |
こちらの分厚い本のようなノートは、日記 と共に新聞記事をスクラップしています。 |
やはり法曹界の方です。戦後の法律関係 のスクラップが非常に多いです。 |
戦犯から解放され、シャバに戻り弁護士になられ 活躍した時の資料です(上と下)。 |
陸軍 甲種幹部候補生への採用願等々 |
昭和16年5月20日、封筒と卒業証明、履歴書、 学校の証明書、教練検定合格証明書が添付さ れて糸で一括りにされています。 |
地元、静岡の県立浜松商業学校を卒業しています。 20歳の徴兵を前にして幹部候補生の採用試験を受 ける事にしたのでしょう。 |