旧軍関連・戦前資料収載品
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複製品の憲兵手帳。六光旭日が睨みを効かしています。 |
純銀製の海軍の褒賞の銀杯 |
昭和十二年度 軍艦 足柄 見張競技優等賞の銀盃 |
陸軍の不明な迷彩付兵器格納嚢 |
大型特殊シート(用途不明)ですが重要な兵器を包むシート のようです。この大型シートを包む格納袋は、迷彩色を使って 偽装されています。今まで見た事の無い珍しいもののようです。 旧陸軍の装備品でカモフラージュの迷彩色は、原則として緑・ 黄色・茶の三色を使用する様に成っております。人体・野戦陣 地・砲類の偽装は、三色で染められた偽装網で囲われます。 軍装品・天幕・・等には、某複製軍装品店で昔出されたカタロ グに沖縄戦を予想して「ゴム引き雨外被」に迷彩された物が掲 載されていたそうですが、実物は未確認との事です。戦車には 迷彩が施されていました。墨書きの迷彩した装備品は現地で 書かれた物があったようです。 |
左は格納状態(迷彩色を施された格納袋は、 ベルト三本で締付る様になっています)右は、 格納袋の片方を開いた状態。 |
格納袋を両側を開くとシートが折り畳まれて 格納されてます。 |
左は、中のシートを開いた内側面(大きさ:長さ 397cm・幅226cm)大型のシートで紐の取り付 け状態から考えると、シートの長手方向、 397cm内の細長い物を包むのか?右は、シート 表面になる所に横方向に2段に丸紐が付いてま す。更に上下に丸紐と平紐が付きシートの4角 にも丸紐が付いてます。 |
シートの紐の取り付け状況 |
左は、シートにある製作納入者スタンプ 【昭・一七・京】。【京】は布製格納嚢の メーカーです。(軍用の袋物・兵器格納 袋・携帯弾薬入・毒ガスマスク入・・・等 )また右は、格納袋の表面・シートに ゴム加工した上に旧陸軍の偽装用迷彩 色(緑・黄・茶)の三色を使って描かれて います。 |
左は、格納袋の裏面(大きさ 長さ178cm ・幅116cm)、締付バンド(布製)を通す革 バンドが縫いこまれています。右は、格納袋 の取り付けベルトと紐。 |
左は、格納袋の製作納入者のスタンプで シートと同じ【昭一七・京】。右は、格納袋 とシートを折り畳んだ状態(大きさ シート 長さ56cm・幅33cm・高17cm)、格納袋 (長48cm・幅30cm・高7cm) |
参考に迷彩色を施した戦車ですが上記と同じ 基本迷彩色となります。 |
シートは完全未使用。格納袋は、かなり使い込まれ
ております。シートを運ぶのにゴム引きをして雨などか らシートを守っていますので中身はかなり重要な役目 のシートで有った事が推察されます。袋の使用回数 が多い事は、シートの常備の袋より運搬用で有った 様に考えられます。 |
珍品 陸軍 試製携行天幕・暖炉(未使用) |
暖房器具を携帯するのに格納するズック製の
格納嚢。試作品なのでどんな品なのかは判り ません。 大きさ(展開寸法) 145x150cm
(組立寸法) 75x52x(厚)12cm |
長崎に原爆を投下したB29搭乗員の
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長崎の原爆を投下したB29”BOCKS CAR機”の 第3操縦士フレッド・オリビ中尉のサインの入った ポートレート。サインは直筆でサイズは、25cmx 20cm。尚、サインをした中尉は、既に他界されて いるようです。このポートレートの入手先は、米国 との事で戦勝国アメリカでは、戦後すぐにエノラゲ イ号他、撃墜王等の有名なパイロットの記念品が 販売されており、このサイン入りポートレートもそ の1枚のようです。 |
小田中 海軍機関大佐のマント
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この階級章とマントの襟部分の 所持者だった小田中大佐は、 日露戦役から昭和初期頃まで 海軍で活躍された方です。 |
何故このような無残な残骸に なったかは、不明です。 |
襟の形状等よりコートでなくマントの 襟部分である事がわかります。 |
上下共にマント用の桜花章が二個開いていた |
こうした無残な状態を見ると改めて敗戦国の 軍の物という事を思い知らされるようです。 |
小田中大佐は、大佐で退役したと聞き及びます ので恐らく、海機20期あたりの出身の方と想像 します。 |
その後に入手しました小田中機関大佐 の軍帽等です。 |
伊染禄朗 陸軍中将 御一家の関係資料
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〜華麗なる将官の一家の戦前・戦後〜 |
残念なことにバラバラにされてオークションで売買 された資料です。元は一揃いであった物でしょう。 残念な事です。こうした品がどんどんとバラバラと なり全国に散在するのを見ると心が痛みます。 |
上は、井染中将の最後の軍職となった第十六師団留守司令官 として統監命令と軍命令を記載したガリ版の紙です。”演習終了 ニ付キ師団ノ編成ヲ解ク…”等の記載があります。尚、第十六師 団は、御存知のように京都編成の師団です。この師団は、大正 八年と昭和四年、九年と三度に渡り満州に派遣されています。 井染中将が留守司令官を任された時は、丁度、師団主力が満州 に派遣された時期になります。この時の師団長は、松井兵三郎 中将です。その後の京都十六師団は、昭和十二年七月に華北戦 線へ投入、同年十一月には上海戦線に転用され南京攻略にも従 事。十四年八月の帰国まで支那各地を転戦。大東亜戦争がはじ まると第十四軍隷下に入りフィリッピン攻略戦に参加。マニラ占領 後は、バターン半島攻略戦やフィリッピン各地の掃討作戦に従事 しマニラに駐屯しました。昭和十九年にレイテ島に移動、マッカー サー元帥率いる連合軍のレイテ上陸を一個師団単独で迎え撃ち ました。第十六師団は、敗戦時に師団長 牧野四郎中将も死亡し 兵員1万3778名中、じつに1万3158名が戦死し生き残った将兵は 僅かに620名にしか過ぎませんでした。通称 垣兵団と言われた第 十六師団は、明治38年以来の歴史の幕をレイテで下ろしました。 |
井染禄郎陸軍中将の和歌 小色紙 昭和四年 閣下は、明治11年に山梨県山梨市 窪八幡神社大宮司家の生れ。 日露戦争時は、近衛軍参謀・大尉でした。その後は。ロシア大使館 駐在武官をされました。日露戦争の第一軍参謀 吉田護朗 大尉( 後に中佐)は実兄。大島健一 陸軍大臣(陸軍中将)は義兄。 貞明皇后(大正天皇)御用掛(蘭の局)吉田鞆子は妹さんです。 |
軍事郵便の絵入封緘封筒。出征した近衛歩兵 第二連隊副官だった大尉時代に閣下から熊本 第五高等学校寄宿舎の弟に宛た手紙となって おります。 |
第一軍37-11- 第八野戦局 肥後熊本・坪井 三十七年十一月二十四日イ便 こちらも熊本 第五高等学校生徒の弟に宛てた手紙です。 |
軍事郵便 第一軍37-5-25 野戦郵便局 肥後熊本・ |
軍事郵便 第一軍参謀部印 第一軍38-10-31 第十二野戦局 出征した第一軍司令部(第一軍 参謀吉田護朗大尉 後にベルリン大使館駐在武 官・中佐)から閣下の弟への手紙 封筒見開き。 |
軍事郵便 公用・航空 第六六野戦16.5.29三星 |
井染閣下の大尉時代、宮内大臣より新宿御苑での ”宴会ニ招待ス”の招待状です。陸軍武官ハ軍装( 凱旋観兵式ノ時ニ同シ但徒歩者ニ在リテハ背嚢及 脚絆ヲ除ク)海軍武官ハ軍服(長剣ニシテ勲章?用) 文官其他「ハフロックコート]高帽と記載されてい ます。明治三十九年四月ニ十五日の宴会。 |
明治三十九年四月十五日の凱旋祝賀会の招待状です。 服装 陸軍武官ハ三十八軍装と記載されています。 |
明治四十三年十二月六日、東宮太夫男爵 村木雅美 、陸軍歩兵大尉 井染禄朗殿で晩餐ニ召サセラレと記 載されています。 |
大阪より閣下が東京自宅の奥様に宛てた封書 です。中身無しです。大阪からなので第四師団 参謀長(大佐)時代の物と思われます。 |
上下共に大磯で病気療養中の娘さんから閣下に宛てた 手紙です。はじめや最後に御父上様とありますが、内容 ではパパ・ママとあります。大正14年7月の手紙ですの で随分とハイカラな御家庭だったようです。文中よりこの 娘さんの下に弟で後で出てこられる具夫氏、また上に長 男と次男の方が居られたようです。閣下への宛先が秋田 ですので歩兵第十六旅団長時代と思われます。御存知 のように十六旅団は、第八師団(弘前)隷下で秋田に 旅団司令部を構えておりました。隷下に歩兵第十七連隊 (秋田)と歩兵第三十二連隊(山形)を擁しておりました。 |
閣下宛てのハガキです。 |
大正11年、ベルリンより閣下に 届いた手紙です。 |
閣下名義の年金受入通帳 |
三男の御子息の具夫氏は、軍人の 道に進まれたようです。 |
陸軍の封書の中に新聞の切抜きと共にこの記事の 野尻少尉の生前、御父上に託した遺書、辞世、など の直筆の書が入れられておりました。中の一文に 井染少尉と、もう一名の少尉宛てに書かれている 物がありますので井染具夫氏の陸軍士官学校の 同期生で少尉時代に支那の戦線で戦死された方が 野尻少尉と考えます。 |
辞世 幾年か待ち居たりしぞ 今日の日を 斯く散りてこそ 桜士の道 |
満州の部隊より具夫氏が母親 宛てに出された軍事郵便です。 |
ガリ版の裏に書かれた想定問題…恐らく具夫氏 が陸大の受験などで記載したものと想定します。 この方は、戦後も生存されております。昭和15年 に中尉に任官していますので敗戦時は、大尉か 少佐に昇進されていたものと思います。 |
敗戦前の昭和20年4月の東京大空襲での罹災証明 と戦後の居住証明等です。戦後も長らくありますの で配給を受ける際にも必要だったものと推察します。 |
戦後、生き残り家長となったのが元軍人 の具夫氏だったようです。様々な形でお 金を捻出していたのがわかります。 |
詳細に預貯金や株など資産を分類し緊急対策 計算書として記載しています。余程、お金にこ まっていたのでしょうか。 |
空襲で焼失した株券を回復し現金化 しようと試みています。 |
伊染中将 略歴 歩兵科、山梨出身 陸大21期、ロシア駐在、功三級 大正7年 6月10日 陸軍参謀本部々員(ロシア班長) 同 8年 7月25日 ウラジオ特務機関長 同 9年 1月30日 歩兵大佐 同 9年10月20日 チタ特務機関長 同10年 4月26日 歩兵三七連隊長 同11年 8月15日 第十四師団参謀長 同13年 2月 4日 陸軍少将・第四師団司令部附 同14年 5月 1日 歩兵十六旅団長 昭和 3年 3月22日 軍事調査委員長 同 4年 8月 1日 陸軍中将・第十六師団留守司令官 同 5年 4月20日 歿(享年53歳) |
中支戦線で戦死された陸軍大尉のアルバム
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故陸軍大尉 布下光雄 おもかげ草 |
左は葬儀の模様とお墓。右の画像の左が中尉で 戦死する前の最も直近の写真で野戦服のようです。 |
左は少尉時代、軍旗を持っています。右は、 出征の時の記念写真のようです。 |
甲幹で将校になった方のようです。中尉で 戦死し大尉に昇進した模様です。 |
利島(利島村)出身の陸軍船舶工兵
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出征の時の襷と船舶工兵胸章二点に 階級章に在郷軍人徽章です。 |
東京都に属する利島に利島村があります。 小さな人口300人余りの島です。 |
伊豆七島にある利島は、漁業を中心とした 半農半漁の島です。ここの出身の石川曹長 が船舶工兵になった事は、まさに適材適所 と言えるかもしれません。 |
左の船舶工兵胸章の一つは、将校用ですので 石川曹長は、准尉以上の准士官または士官に 昇進していた可能性もあります。 |
九八式と三式の曹長階級章です。 |
片方は、奥様の物でしょうか。 |
憲兵の手紙・エンタイア |
陸軍 伝令の返信用紙 |
上級部隊等からの伝令に返信をする用紙です。 表面は、黄色で速度、発信地、発信時刻、地図 上の碁盤の目があり図示が出来ます。裏面は、 黒字で受領時刻、受領地、受領印の欄があり、 ”此表紙ハ伝令使ニ返附スベシ”とあります。 |
糊代があり伝令に見られないように 封をするように出来ています。 |
陸軍☆宿営券 |
演習などで民家等に宿営する時の清算用の券です。 各階級(将官、准士官以上、下士官…)別に宿泊人 数、夕食・朝食・昼食人員数や部隊名を記載し家主 姓名を記載し公印を押して家主に手渡し、家主は後 で現金支給を受けるようになっています。破線の三 枚券が20枚15枚ほどあります。 |
南東方面艦隊で戦病死された
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池上保雄軍醫大佐の奥様へ海軍経理局より の俸給明細送金通知書になります。 |
池上閣下の戦死に伴い遺族である奥様と海軍省 でやり取りされた事務手続き上の書類です。 |
少佐時代に使用されたの大判の郵便 封筒の中に書類や写真などが複数あ りました。 |
◆ 池上 保雄 軍醫少将 ◆ (略 歴) 佐賀県出身 明治31年 3月 2日生 長崎医学専門学校卒業 大正10年 4 月 長崎医専入学 大正10年 7 月 27日 海軍軍医委託学生 大正14年 3 月 25日 長崎医専卒 大正14年 4 月 25日 海軍軍医少尉 海軍軍医校 普通科学生 大正14 年 9 月 8日 遠洋航海(磐手乗組) 東南アジア・オーストラリア 大正15 年 4 月 1 日 佐世保海兵団附 大正15 年12 月 1 日 第16駆逐隊附 昭和 2 年12 月 1 日 海軍軍医中尉 第28駆逐隊軍医長 昭和 3 年 4 月25日 駒橋軍医長 昭和 3 年12 月10日 第22駆逐隊軍医長 駒橋軍医長 昭和 4 年11 月30日 第9駆逐隊軍医長 昭和 5 年12 月 1 日 海軍軍医大尉 昭和 5 年12 月 15日 第9駆逐隊軍医長 第7駆逐隊軍医長 昭和 6 年 4 月 1 日 第9駆逐隊軍医長 昭和 6 年4 月 20 日 厳島軍医長・分隊長 昭和 6 年12 月 1 日 海軍工機学校分隊長 横須賀海軍病院 昭和 7 年 2 月 5 日 第三艦隊司附 昭和 7 年 4 月 1 日 宇治軍医長 昭和 7 年11月 1 日 横須賀鎮守府附 昭和 7 年12月 1 日 大湊海軍病院 昭和 9 年 5月 1 日 海軍軍医校 高等科学生 昭和 9 年11月 1 日 常磐軍医長・分隊長 昭和10 年10月31日 海軍燃料廠医務部 昭和11 年12月 1 日 海軍軍医少佐 海軍軍医校 選科学生 昭和13 年 7月 1 日 橘丸乗組 昭和13 年 8月 1 日 呉鎮守府附 昭和13 年 8月 5 日 牟婁丸病院 昭和13 年11月15日 海軍第1病院 昭和14 年 1月19 日 医学博士 昭和15 年11月 1日 横須賀鎮守府附 昭和15 年11月15日 横須賀海軍病院・教官 昭和16 年 9月20 日 呉海軍病院・呉鎮守府出仕 昭和16 年10月15日 海軍軍医中佐 昭和18 年 8月 1 日 南東方面艦隊司附 昭和19年10月15 日 海軍軍医大佐 昭和20 年 6月 3 日 戦病死 (享年 47歳) 海軍軍医少将 |
池上軍醫大佐の少佐時代、横須賀 海軍病院勤務時代の写真です。 |
左右の写真の勲章を佩用している のが池上少佐(当時)です。 |
艦内勤務の頃の写真のようです。 |
手術中の写真です。右の執刀医が |
士官の負傷に際しては、写真の記録を残されたようです。 この負傷者の方は、木更津海軍航空隊の森永良彦海軍 少佐です。昭和14年10月3日午後2時35分に敵機が漢口 飛行場を空襲した時に負傷。下顎部貫通爆弾創、下顎骨 複雑骨折、額部・顔面・四肢火傷の記載があります。何故 か処置中の腕以外の施術者が削り取られています。 |
右の画像は、少将の肩章がはっきり判りますので左腕を 切断された一連空司令官 塚原二四三 海軍少将(後の 大将)かと思われます。左の画像は、一連空参謀 鈴木 剛敏 海軍少佐が負傷者です。こちらも上の森永 少佐と 同様に同時刻に漢口飛行場空襲で負傷されております。 鈴木少佐は、左大腿部爆弾破片創、左右睾丸喪失兼瓦 斯壊疽、左肘部爆弾破片性断創となっています。簡単に 言えば左腕は、肘関節以下を失い、左太腿に穴が空いて 睾丸を吹き飛ばし…その結果、ガス壊疽を来たしてしま いました。下の写真も鈴木少佐の悲惨な負傷写真です。 下の写真で陰茎の下の陰嚢が完全に失われているのが 判ります。傷の状態から陰嚢を削り取るように左内腿から 爆弾の破片が突き抜けたのが判ります。瓦斯壊疽を引き 起こしていますので当時の医療状態では、助からなかっ たと考えられます。 |
こちらも同じ漢口空襲で負傷された鹿屋航空隊の 副長で小川弘少佐です。左大腿部爆弾破片性切 断創、右大腿部爆弾破片創兼瓦斯壊疽となってお ります。左足は、膝関節以下を失い、右足にも爆弾 の破片で負傷…これらの傷の感染でガス壊疽を起 こしていますので小川少佐もその後間もなく亡くな られたものと考えます。 |
艦内の病室の大部屋(右)の回診風景と左は 外来でしょうか、真中で立つ軍医がステートを 握っています。多くの患者は、患者衣を羽織っ ています。 |
海軍陸戦隊での衛生班の集合写真のようです。 中央二人の士官がおりますが左の方が池上大佐 (当時の階級は不明)のようです。衛生腕章に 軍刀には、白布を巻いています。下士官が二名、 水兵が十五名で共に完全軍装です。池上軍医と 横の士官は、一種軍装に上海バンドと拳銃嚢の 斜皮が見えます。右の士官は、袖に桜花章があ り特務士官である事が判ります。軍医は、池上軍 医だけの模様です。どうも横須賀特別陸戦隊一 個大隊が派遣された第一次上海事変での写真の ようです。 |
左は、高角砲のようです。砲に砲弾を装填しており手前の 水兵が次砲弾を担いでいます。何処の艦なのか不明です。 右及び下の左右の写真は、呉淞戦闘後、呉家宅方面と 写真に記載があります。どうも昭和7年の第一次上海事変 の時の写真のようです。呉淞要塞での戦闘では、横須賀 特別陸戦隊一個大隊が2月〜3月に掛けて戦闘に入りまし たので、その時に軍医として参加した池上少佐が写した 写真のようです。 |
以下の画像は、池上軍医大佐が中尉時代 に陸戦隊で上海に派遣されて御自身で撮 られた写真のようです。 |
軍医中佐時代の一種・二種軍装の池上大佐 |
海軍軍医学校のようです。 |
右の提督は、中将時代の野村吉三郎大将 (開戦時の駐米大使)。左の方は、大将で すが誰か判りません。 |
海軍病院建設の地鎮祭のようです。 |
教官もされておったようです。学校は、不明です。 |
上海海軍陸戦隊 柔道の黒帯 |
海軍では柔剣道が盛んに行われておりましたが、 昇段審査で初段を取った時に贈られた記念の 黒帯だと思われます。一般的に贈られた人の名前 を入れるのですが軍隊ですので昇段試験で合格者 が多数の事が多いので、まとめ作って合格後、それ ぞれに贈呈していた為と想像します。こうした物が残 っているのも珍しいと思います。 |
海軍士官用食器 |
とある陸軍将校の所持品一式 |
立襟の在郷軍衣 |
比較的きれいな将校略帽 |
今井の名が読めます。 |
刻印無く4号の数字だけ読めます |
こちらは皮の硬化がかなり進んでいます。 |
短寸軍刀の皮覆 |
こちらも状態の良い拍車です。 |
この将校胴締は、程度も良いです。 |
状態の良い襟カラー入 |
南部十四年式の拳銃嚢、斜皮も 含めて状態は、良い品です。 |
状態の良いランヤードです。 |
退役後に郷里で警防団でつかった のでしょうか、戦後の品のようです。 |
珍しい憲兵上等兵の明治三十三年従軍記念章と勲記 |
北清事変従軍記章と勲記です。 |
高射砲連隊 砲兵大尉の
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これも珍しい砲兵大尉の憲兵学校の卒業証書です。 |
馬渕 直逸 陸軍中将の少将時代の資料 |
馬渕閣下は、海大の教官も勤められた事があります ので海軍とは、縁が深かったようです。 |
御皇族の賀陽宮家の晩餐会の招待状です。 |
馬渕直逸 陸軍中将 明治12年11月3日生 福島出身、陸士・陸大卒後、陸軍省参謀本部 部員を皮切りに参謀畑を歩む、陸大・海大教官 、歩兵第三連隊長、参謀本部課長、歩兵第七 旅団長、第一師団司令部付にて昭和4年1月 26日逝去、中将に栄進となる。 |
陸軍 高級軍人の名刺三点 |
右より陸軍大佐、少将、中将と並んでいます。一番左の 宇都宮中将は、後に大将になられた方です。当時の軍 人のシンプルな名刺ですが、階級と名前だけと言うのが 非常に多い印象があります。そんな中で一番右の大佐 は、チャラチャラと一杯、肩書ではありませんが、一杯つ けています。良くお医者さんの名刺なんかでも…同じで ここぞとばかりに”医科博士”、”○○専門医”等々と肩 書きにこだわる人がおりますが、今も昔も変わらないよ うです(苦笑)。このように並べると上位の将官がシンプ ルなだけに…何故か目立って鼻につきます。 |
cf.宇都宮 太郎 陸軍大将、功三級 陸軍の三太郎大将の一人と言われた宇都宮大将 ですが、佐賀県出身(鍋島藩)、陸士7期、陸大6期 恩賜、朝鮮軍司令官などを歴任されました。 |