旧軍関連・戦前資料収載品 その他
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陸軍二十五周年記念盃 (本錫) |
参謀の野戦作戦用”チョーク入” |
参謀飾緒のペンシル型が廃止になってから実用的に考えられた物が、このチョーク入
となります。二本の真鍮鍍金製(径8.3o、長さ70o、全長90o)が蝶番式に繋が ってます。筒の中には径6oの赤(未使用)のチョークと青(残量無し)のチョークが入 っており、スライド式に出入りが出来る仕組みになってます。御存知のように赤と青は 作戦地図に描かれる敵・味方の色の識別となります。 |
参考に掲載しました上の画像は、中支那方面軍司令官で後に戦犯として
処刑された松井石根大将の遺品の写真です。その中に掲載されているのが これと同じチョーク入れとなります。蝶番部に付いているのは鹿皮です。机上 作戦の地図に書き入れた文字線を消す時の物です。首に紐で吊るすように なってます。 |
別のチョーク入れ |
上のものよりやや小ぶりな印象のチョーク入れ 二点です。鹿皮も残っています。 |
昭和16年11月13日 連合艦隊幕僚集合写真 |
岩国海軍航空隊で昭和16年11月13日に連合艦隊幕僚 の作戦打合せ後、記念撮影の写真です。 |
額縁の裏には藁半紙に印刷された写真に写る軍人達の 官職・姓名・所属などが記載されています。 |
まさに開戦直前の集合写真です。 |
駆逐艦 ”江風” 主計士官の戦歴図 |
駆逐艦"江風"が開戦前の昭和16年11月27日に佐世保を出航してから 昭和17年3月13日にシンガポールに入港するまでの戦歴図です。寄港 地、出航地などが日付と線入りで海軍水路部の天気図に記入されている 面白い物です。裏面には墨書きで軍機書類 海風庶務主任殿と書かれて います。公文書とは少し違う物で私的に近い資料と思います。海軍の大型 封筒に入れられていました。 |
進水式の江風 |
駆逐艦 江風 白露型一等駆逐艦の九番艦として昭和12年4月30日に 藤永田造船所で竣工する。(性能)排水量1685t、全長 110m、全幅9.9m、速力34ノット。(兵装)主砲12.7cm 連装砲2基、12.7cm単装砲1基、40o単装機銃2基、61 cm魚雷四連装発射管2基。 江風は、第四水雷戦隊の第二十四駆逐隊(海風、山風、 涼風など)に所属し開戦を迎えた。ミッドウェー海戦では 戦艦部隊の警戒隊の任務に就き、南太平洋海戦では 第二水雷戦隊に所属して参戦。ルンガ沖夜戦では、 第二輸送隊に配属されドラム缶投棄後に魚雷8本を発射 しそのうちの数本を米重巡に命中させる。ガダルカナル島 撤退では、第一次、第二次の撤退作戦に共に従事しまし た。昭和18年8月6日、コロンバンガラ島上陸に対して陸軍 部隊を輸送隊として僚艦の”萩風”、”嵐”、”時雨”等と共 に輸送中、ベラ湾において米駆逐艦6隻の奇襲を受けて 魚雷により撃沈される。所謂、べラ湾夜戦です。この戦闘 で江風ら輸送隊(司令 杉浦嘉十大佐)の4隻の駆逐艦は 、ラバウルを出航後、すぐに米軍の偵察機に補足され米駆 逐艦6隻(フレデリック・ムースブルーガー中佐指揮)が出 撃、夜間にレーダーで補足され雷撃を受け江風の他、2隻 が撃沈され1隻のみが離脱し輸送作戦は、失敗しました。 一連のソロモンでの海戦であります。 |
海軍技術見習士官の通知 |
昭和18年9月8日に海軍省人事課より送られた 速達の公用封書です。 |
察するところ徴兵検査で陸軍で輜重兵で第一乙で取られそうになり 慌てて海軍の技術将校の試験を受けてギリギリセーフで合格し、辛 い陸軍の兵士生活から逃れた記録でありましょう。 |
志願の案内です。表裏にびっしりと書かれています。 |
出願の下書きでしょう。書式に沿って便箋に記載されています。 これによりますと静岡連隊区で入営予定が昭和18年11月以降 となって入営部隊は、不明とされています。昭和18年6月の受験 ですからギリギリの処で兵から見習将校へ滑り込んだようです。 大正11年9月13日生まれで四人兄弟の長男、静岡県立見附中 学を卒業し浜松高等工業学校機械科を9月27日に卒業見込とな っています。 |
こちらも昭和18年度の3月官報掲載の海軍技術見習尉官募集の案内です。 |
左は18年9月3日に届いた海軍人事局長からの採用内定の電報。 右は、9月3日と記載された海軍人事局からの印刷文で被服寸法を 記載し東京水交社被服部まで郵送する旨の記載と兵役調書並びに 履歴書を人事局採用宛まで15日必着で送るように記載した文面で す。これらが届いた日は、恐らく家族で祝杯を上げた事でしょう。 |
ある海軍飛行兵曹長の軍人遺族記章授与証書 |
軍用時限装置(タイマー)精工舎製 |
この時限装置は、何に使用されたかは不明です。また時計部分の精工舎以外、
メーカーの刻印は有りませんが、収納していた箱に”軍用時限装置”と印刷されて いたそうです。外側は厚い紙で出来ており、小さな穴は導電線の通す穴のようで す。容器寸法・直径85o、高さ95o。内部・時限装置・頂部の突起はゼンマイ 巻き芯棒。中心はゼンマイ巻き芯棒・時間設定の針は0を差してます。時間の目 盛は0〜8まで刻まれていますが恐らく80分と考えられます。ゼンマイ巻きは古柱 時計の物が使えそうな感じです。錆も無く現在も可動するでしょう。収納箱の底 部に導電線接続の三極があります。 |
明治四十五年 魚雷発射検定優等賞受賞記念杯 |
第十七艇隊第四十六号と記載されているので、恐らく水雷艇だと思われます。 |
魚雷発射優等章が制定された翌年に授けられた記念の杯です。これより 青メダルでなく通常の以下に示す優等章を授与された事がわかります。 |
海軍 魚雷発射優等章 明治44年制定の本章は、三年連続保持すると下の 青メダルが永久に授与されます。 |
魚雷発射優等徽章 これも前期型の青メダルです。 |
軍用車輌のオイル缶と
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陸軍の軍用車輌のオイル缶と思われます。塗装も完全で内部に錆もありません。 蓋の裏側(パッキン)の皮の状態も極上の品です。 |
字が薄れ難読ですが【昭20年 四式 筒】とだけ読めます。木製で砲弾箱のようです。 取手部の綱は切れています。箱の状態は良くサイズは37.5cm×30cm×12.5cm。 |
はっきりとしませんが、該当する物を当たると昭和18年4月頃にドイツから持ち込まれた ロケット発射筒の図面から陸軍兵器行政本部技術部が製作をした対戦車ロケット砲で 当初は”試製7cm噴進タ弾発射筒”と呼ばれた物と推測されます。ロケット弾は”試製7 cmロ弾”と呼ばれました。昭和19年7月頃にロケット弾”試製四式7cm噴進穿甲榴弾”、 発射筒(試製四式7cm噴進砲)が完成し生産に入りました。小倉造兵廠と大阪陸軍造兵 廠によって生産され約3000門強が生産されたとの事です。この試製四式7cm噴進砲の 専用弾である試製四式7cm噴進穿甲榴弾の榴弾箱である可能性が強いと思われます。 この墳進砲は、移動時二分割されて一人で背負って移動でき、また装甲貫徹力は角度 60〜90mmの場合80mm、命中率は100mm前後で60%であった言われています。墳進 弾は、重量4kg、炸薬量700g、推進薬260g、燃焼時間0.4秒、噴進孔6孔となっています。 |
左が完成時の試製四式7cm噴進砲で右が2分割された移動時の状態。 |
陸軍 油脂箱(油脂缶3個入) |
明治41年、明治陸軍の油脂箱の完全品です。 |
日露戦争で軍医となった帝大エリート医師の資料 |
日露戦争がはじまった明治37年の翌年の3月末に東京帝大の医科大学助手を辞職し同年 7月に陸軍二等軍医に任官しています。二等軍医よりスターと言う事は、中尉相当官ですの で医専卒の医師でなく大学医学部卒を意味します。一般に医専卒の医師の場合、当時は、 三等軍医すなわち少尉相当官からのスタートになります。 |
広島予備病院附となっています。この病院は、当初、広島鎮台病院として 旧広島城内にありましたが日露戦争中は、広島予備病院と呼ばれ現在の 広島市中区基町17の中央公園の近くに移転しました。日露戦争後は、 広島衛戍病院と名称を変えました。昭和13年に広島陸軍病院と改称され 昭和20年には、広島陸軍病院は、広島第一陸軍病院、広島第二陸軍病院 、大野陸軍病院に大きく分かれます。広島予備病院だった病院は、広島第 二陸軍病院となりました。ここは広島に投下された原爆の爆心地の僅かに 1100m程しか離れていなく、当時の入院患者約750名と職員約30名が犠牲 となりました。 |
日露戦争後は、奉天公立病院の院長に就任されたようです。 |
こちらの桧垣先生は、同仁会のメンバーだったようです。同仁会は、1902年の創立され 中国への医師の派遣や病院・医学校の建設など、対中医療事業を中心に活動を目的に 作られた会です。計画的に中国・韓国へ日本人医師を派遣、続いて病院等を建設してい ました。手法としては、まず中国・韓国その他諸国の政府に医事衛生の必要性を説き、 学校・病院を設立させ、そこに医師等を派遣するやり方と、地元の居留民団に連絡し、そ こに医師・助産婦・看護婦などを紹介し、派遣する二通りの方法を行っており、こうして 大正元年までに計123名を中国各地に派遣しております。その中に一つに奉天公立病院 があり桧垣先生の名前が資料として出てきます。この同仁会の関与した病院としては、他 に 漢口同仁医院、大連同仁医院、大連駆黴院、広州随軍医院・医学堂、間島慈恵病院、 天津佐野病院、長沙陸軍速成学堂、武昌軍医学堂、南京三江師範学堂、吉林武備学堂 などの病院・医院(開業医も含む)、学校などがありました。 |
明治の医師の苦学の跡 |
明治初期の医師の苦学の月謝代の納金書等です。第一医局 世話係と記載されていますが、それが何処の大学か医専かは 記載がありません。先人の苦労が偲ばれる資料です。 |
戦前の獣(外科系)医師の往診用鞄 |
鞄の上部の四隅に桜花印が施され中身も機能的に詰められた高級な造りの牛革の鞄です。 外科用の手洗いブラシやその他の器具も非常に大きいので獣医用では無いかと思います。 |
軍医の携帯顕微鏡と携帯手動懐中電灯 |
携帯手動懐中電灯の”ほたる”と携帯用の小型顕微鏡です。 |
顕微鏡に刻印等はありません。まだ生きていて使用可能です。 |
その他、紙物 |
明治から大正、昭和の感謝状や在郷軍人会等のものです。 |
明治期の朝鮮総督府の下級官吏のものです。 |
特殊潜航艇搭乗員の海軍特別幹部練習生 出頭通知書 |
昭和20年4月の海軍特別幹部練習生の採用検査の出頭通知書 |
通知書の受取人 三好徹さん(親子三代 海軍々人の一家です) は、現在もかくしゃくとされていられるそうです。海軍に入ってから は敗戦まで特殊潜航艇の猛訓練に明け暮れる日々だったと言わ れていたそうです。当時の所属は、呉海軍工廠で訓練基地は、 江田島だったそうです。 敗戦時、訓練生の為 2階級特進は無く 訓練記録等を急いで焼却され 口外しないよう言い渡されたそうで す。この為、当時の軍関係の記録は、一切残っていないそうです。 |
米国からの里帰りした戦艦 長門の艦内備品 |
1945年9月2日、米戦艦”ミズーリー”の艦上にて連合国に対して 降伏文書に調印しました。この時、戦艦ミズーリの護衛任務及び 日本海軍艦船の武装解除任務の為、東京湾に寄港した米駆逐艦 アルヴァート M.ムーアの乗組員であったアラン ガード氏によって 記念の戦利品として持ち出された品との事です。 |
ありし日の戦艦長門 |
携帯電気信号器 安全電機工業株式会社 昭和7年12月製造とプレートに 記載されています。 |
米駆逐艦 アルヴァート M.ムーア |
こちらもムーア氏の放出品で当時、長門の備品であった手旗です。紅旗のみ2点です。 |
戦艦”陸奥” 1970年引揚記念 船体外板メダル |
1970年軍艦陸奥引揚記念メダル 陸奥船体外板を使用・加工した大きな 記念メダルになっております。メダル裏面には”深田サルベージ(株)製 陸奥引揚促進期成会” と記載されています。 |
野戦病院の赤十字灯 |
ガラス部分は、スリガラスに極薄い赤いガラスが貼ってあり、かなり手の込んだ造りです。 材質は真鍮に金塗装で明治時代特有の金色です。現在は、大阪ガス資料館に一台ある そうですが、そこの品は、ガラスが一枚割れているそうです。こちらの品は割れも無い完 品です。ヤフオクで手に入れた品ですが、元々の入手先は、旧北野ランプ博物館コレクシ ョン(現在大阪ガス所有の神戸らんぷミュージアム))に収められた所と一緒の出所との事 で、三品ありその内の一つとの事で大変貴重なものと思われます |
現在の神戸らんぷミュージアムのHPは、 http://www.kepco.co.jp/pr/ranpu/ です。 |
明治陸軍の隠顯燈 |
近糧三第五小隊十七と箱裏に墨書きされています。また本○と難読ですが 刻印があります。相当に古い物です。恐らく明治期の陸軍で使用された隠 顯燈と思われます。近糧は、後の輜重科の事かと想像します。 |
箱の大きさ 横36.5cm、高さ16.5cm、奥行20cm |
1932年 ジュネーブ軍縮会議
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1932年、アルプスの風景写真に、ジュネーブ軍縮会議に参加した 日本側代表団四名の署名があります。陸軍代表 松井岩根 陸軍 大将、後に中支方面軍々司令官。駐英大使 松平恒夫 。海軍代 表 永野修身 海軍大将(元帥) 海軍大臣や軍令部総長を歴任。 駐仏大使 佐藤尚武。四名がペンでサインをして、随行武官の 奥田喜久司海軍中佐がいただいたものだそうです。写真のサイズ は、29cm×39cm。この奥田中佐は海大23期 第十三空司令 (大佐)の時に戦死、死後 少将になっております。これだけの陸海 のビッグネームがサインしたものは珍しいものです。松井岩根、 永野修身 共に敗戦後、東京裁判被告となっております。写真の裏 面にジュネーブで撮られた写真である事を示すスタンプが押されて います。 |
海軍横須賀軍需部への徴用令書 |
宮城県知事の命により横須賀軍需部への徴用令書 |
左は、期日までに出頭を促す地域の国民勤労動員署長の手紙 右は、昭和15年9月6日の日付にて歩兵第百四連隊の軍医中尉 が書いたマラリア罹患証明です。歩兵上等兵とてして同連隊の 第二大隊第六中隊に所属し中支を転戦中にマラリアになり除隊 したようです。 |
当人の所持品 |
元航空科軍曹のコレクション |
同一人物が所持していた兵下士官用の帯革と前盒と後盒(油缶付)、 三十年式銃剣と剣差の一揃えです。 |
銃剣は教練用を切断してあります。 |
プロ並みの補修能力を持った方でしたので、丁寧な補修が数カ所に みられますし。補修箇所が判るようにわわざ黄色の糸を使ってありま す。 |
帯革と前盒ともに良い状態です。 |
後盒も油缶も状態が良いものです。 |
陸軍薬盒用ベークライト製油缶 |
末期のベークライト製です。騎兵や砲兵用と言われています。 今となれば後盒用より少なく、とても珍しい一品です。 |
陸軍☆防弾胸当 |
紐が締められた形跡がない未使用と思われる防弾板です。三枚の鉄板を繋いで、 胸部、特に心臓を保護する胸当。表に星のマークと武運長久の文字が入り、裏に 御守りが入るようになっています。鉄板の厚さは0.3o位、縁が立ち上がっており、 防弾より銃剣などの防御に配慮したのかも知れません。縁の立ち上がりで、剣先が 滑って身体に刺さるのを防ぐ工夫になっているようです。 |
陸軍 週番懸章 |
紙箱(破損あり)付きの週番懸章。紅白は染め抜きで色分けされて いる物ではなく赤の本体に白い別生地を縫い付けているタイプです。 スレを防ぐ当て布付きで”第三中隊 鈴木城常太郎”と名があります。 |
別な週番懸章です。画像の通り権藤少尉と記されています。 |
昭和七年 陸軍大臣から絵葉書
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陸軍大臣 荒木貞夫大将から山梨の少年団への絵葉書 |
戦時 寄書帳”思い出の記” |
昭和13年 初期少年飛行兵募集ポスター |
昭和13年度、東京陸軍航空学校募集ポスターと説明書です。昭和9年2月に 所沢陸軍飛行学校に第一期生が誕生いたします。昭和13年現在の武蔵村山 市に、陸軍飛行学校が新設されて、その最初の募集ポスターです。各学校に 配布されたものの一部が残っていました。心得の方は、募集の細かい要項が 書かれています。 |
昭和13年 陸軍工科学校生徒募集ポスター
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陸軍工科学校生徒募集ポスターです。残念ながら上部が破損しています。 昭和12年12月31日を期限とした、昭和13年度の募集ポスターです。海軍 の予科練甲種募集要項の栞は、昭和13年4月入校の生徒募集です。志願 要綱、予想給与などの条件が詳細に書かれています。 |
海軍の不明の旗? |
陸軍 携帯燃料缶詰(未使用) |
アルコール系の燃料で構成された携帯燃料缶。一缶で約2食分の 飯が炊けたようです。戦場にあっては、焚き木などで煮炊きを行い 煙などを出す事は、死活問題となる為、このような煙を出しにくい 携帯燃料缶詰が重宝されました。使い方が缶の横に図示されてい ます。 |
陸軍 旧型将校用 飯盒 |
源田実氏 直筆の漢詩・蘭花々瓶 |
様々な評価のある方ですが…敗戦時、海軍大佐。開戦は、第一航空艦隊 航空参謀として真珠湾からミッドウェイまで…最後は、松山の第三四三海軍 航空隊で紫電改で戦い指揮した軍人です。帝國海軍の栄枯盛衰を見てきた 人といえます。戦後は、空自で航空幕僚長、参院議員となり4期24年を務め 国防族のドンと呼ばれました。平成元年8月15日に永眠。享年85歳でした。 |
源田 実 海軍大佐、直筆の軸 |
この軸は、京都の嵐山博物館、その後は若山のゼロパーク と展示されていた物だとの事です。 |