旧軍関連収集品
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昭和15年 自動車小隊の戦闘詳報 |
野戦重砲兵団第6旅団軽重隊自動車小隊の野戦重砲戦闘詳報 第1号です。小隊長 山口喜左エ門 騎兵少尉以下、37名の戦闘 報告書です。中国大陸での昭和15年5月12日の一日の戦闘を詳 細に報告しています。死傷者二名をだした当日の戦闘の敵兵力は 、敵第56師団の兵力1000名前後で重・軽機関銃を多数装備した 錬度の高い部隊であると分析しています。因みにこの小隊は山口 少尉以下、3個分隊からなり第一分隊が小隊付見習士官 熊手治 男(輜重兵科)以下12名を率い、第二分隊は、分隊長 松元軍曹 以下11名、第三分隊は、分隊長 山口伍長以下、11名の構成で す。第二・三分隊には、軽機関銃が装備されていました。当日は、 山口少尉が10名の兵を連れて先見隊として出発し、別働隊として 熊手見習い士官が25名の兵を率いていた模様です。最終的には 、他部隊と合同で敵を殲滅し、なおも戦闘を継続した等の記載が 報告されています。中々、興味深い和紙の戦闘報告書です。 |
昭和二十一年 第二師団
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左は、恩給の裁定通知と昭和12年の第二補充兵証書。 裏に昭和16年の簡閲点呼済の印があります。右は、 敗戦後翌年の4月の善行証書です。外征軍の中で復員 がまだ出来ない部隊は、まだ軍組織として機能をして いた事を示します。しかし何も無い外地での事ですから 善行証書は、薄い透かし紙にガリ版で型取りして作った 粗末な証書となっております。 |
上の左右は、英語と日本語での検疫証明書です。 |
部隊で発行した履歴書です。 |
この増茂兵長は、大正6年3月17日の生まれで新潟県の方です。 昭和18年4月に教育召集の為、野砲兵第二連隊補充隊に入隊。 6月、引き続き臨時召集となる。6月25日に宇品を出港し同年7月 にマニラに上陸。同年11月、一等兵に昇進。マニラを出港しマレー 半島シンガポールに到着し数日後、クアランプールに上陸。昭和19 年1月、クアランプールを出発しタイ国境を通過しベトナム入りし パコダポイントに到着。同年4月に陸軍上等兵に昇進。7月に同地を 出発、9月に支那の国境を越えて雲南省龍陵県双坡に到着。同年 10月を双坡を出発、11月にベトナム国境を再度通過しトングー県 ミョーラに到着。昭和20年1月、ミョーラを出発、7月にタイ国境 を通過し印度国境を通過して西貢(サイゴン)到着。ここで敗戦を迎 えています。9月1日、陸軍兵長に昇進。昭和21年4月復員船に乗り サイゴンを出発、同年5月4日に大竹港上陸、5月5日、復員完結、 同日、召集解除となります。戦友会の記録などより増茂兵長は、 第一大隊本部の所属だった事が判ります。 |
陸軍兵長・履歴書・従軍証明書・事実証明書等の記録 |
大東亜戦争における勇第1307部隊(野砲兵第二連隊)の 戦いは、満州より今村中将の第十六軍に編入されジャワ攻 略戦に始まります。その後ソロモン作戦に参加し連隊の第 一大隊がガダルカナル島に上陸、地獄の戦闘を行い大隊の 過半数を超える443名を失う。昭和18年1月、ガ島の撤収命 令により連隊は、マニラへ上陸、休養を行い戦力回復に務め た。増茂兵長は、この時期に補充兵として内地より到着しまし た。こうして18年8月にダウで再編成を完結した連隊は(第三 大隊のみジャワ島に残し)、ビルマ作戦に参加します。しかし インパール作戦も参加せず移動のみで昭和19年の断作戦に 参加します。第二師団と共に連隊本部、第一大隊、迫撃砲第 十、十一中隊が雲南省に入る。久留米の龍兵団(第五十六師 団)の拉孟守備隊が玉砕した有名な激戦の後、バーモ守備隊 に連隊の第二中隊が配属され圧倒的に有利な敵軍に包囲さ れ中隊は、全火砲を自爆させ全員が歩兵と共に白兵戦を行い 、援軍が到着した時には、中隊は45名の戦死者を出していま した。その後連隊主力は、雲南省を離脱し、連隊は第二・九中 隊を歩兵第四連隊へ配属させました。昭和20年一月には、第 一大隊を弓兵団に第三大隊を青葉兵団に配属させ、連隊本部 と独立迫撃砲中隊、独立速射砲中隊、第二大隊で最後の決戦 ぶつ仏印へ転進しました。一方ビルマ残留の第一・第三大隊は 、ビルマ撤退作戦に投入されました。そしてビルマ大平原にて 撤退する友軍部隊の支援砲火を張りました。この戦闘で両大隊 は、多大な兵力の犠牲を払いながら、全火砲をビルマの泥土に 埋めてシャン高原を越え昭和20年7月3日にサイゴンの連隊主力 に合流復帰しました。これら一連の戦いで連隊が失いし兵力は 既に600余命に達しておりました。昭和20年8月1日、サイゴンで 連隊は、駐留他部隊の兵も併せ、兵器廠の全火器を装備して四 個大隊編成の大増編成を完結しました。そして敗戦と相成り武装 解除となりました。しかし英仏連合軍はベトナム解放軍の強い抵 抗を受けてサイゴンに一歩も入れず、連隊に対して再武装を命じ 連合軍の指揮下で解放軍掃討作戦に参加する事を要求し、同年 9月12日、不本意ながら掃討戦に参加しました。この戦闘は、9月 より5ヶ月も続き、敗戦後の戦闘で連隊は、50名余りの戦死者を 出しました。昭和21年2月、独立解放軍をサイゴン市内より駆逐し た後、ツドツクにて連隊は、英軍に対し降伏調印を行い武装解除 を完了し敗戦処理が本格的に始まりました。そして連隊本部なら びに第一・三大隊は、サンジャックで自衛自活の収容所生活に、 第二・四大隊は、カンホイ・タンフーの収容所に移動し、埠頭作業 やゴム搬出農園作業などの労務に従事させられました。その後、 5月になり復員船リバテー号で帰国となりました。 |
昭和十一年七月 輜一六☆凱旋記念章 |
とてもピカピカできれいな徽章です。70年前の物で ある事を忘れそうです。 |
昭和十一年七月、輜重第一六連隊の凱旋を記念して 作られた記念徽章。東京九段のアキバ徽章商会製。 それとこちらは、錆びてボロになっていますが鉄製 煙草ケース。これは馬蹄の中に軍馬三頭の図柄に なっています。蓋の閉まりが甘くなっています。 |
遺族に渡された戦死将校の遺品リスト等 |
戦死された中尉(少尉で戦死後、特進した模様)の方の 遺品リストです。軍刀、夏冬の軍衣、拳銃嚢に入った拳 銃などです。実包だけは渡されなかったようです。3枚の リストに薄くなっていますが所属部隊の公印が押されて います。リストに少尉肩章となっていますので、昭和13 年以前の戦死ではないかと思われます。 |
遺族の奥様に送られた、昭和十九年の靖国神社への 招待状、市の遺族証明書です。因みに中部第四部隊 は、第三師団管区(名古屋)の岐阜連隊区で形成され た歩兵第六十八連隊と思われます。同時期、豊橋連 隊区の中部第二部隊が歩兵第十八連隊静岡連隊区 の中部第三部隊が歩兵第三十四連隊です。岐阜の 歩兵六十八連隊は、明治41年に岐阜で編成された。 大正7年シベリア出兵で動員され以降は、主に中国各 地を転戦、支那派遣軍の中で江西省九江で敗戦を迎 えております。 |
英霊伝達式の通知 |
戦死公報・御遺骨伝達式は敗戦一年後の昭和 21年9月10日です。会葬用の酒が配給され、 給与金壱千円也が支払われております。名誉の 戦死ですが、一等兵のまま進級もなされていな いようです。 |
南方軍隷下の軍政監部文官(夫婦)の珍しい資料 |
この資料は、南方軍の隷下にあった馬来(ペナン州)軍政監部の 軍政部軍属(奏任扱)だった田中山城氏とその奥方の田中倭子 さんの関連資料となります。奥方は、軍属で無く州政府文教科教 員をしておりました。主に赴任時のものと帰国時の各種証明書など が軍票や写真などと一緒にあります。その内訳は、 ・赴任旅行証明書(ペナン州知事陸軍指令長官片山省太郎)1枚 ・旅行証明(婦人)1枚 ・旅行券(ペナン州)1枚 ・旅行券(馬来軍監部)2枚 ・泰馬来国境通過(鉄道)許可書2枚 ・便乗請求書(昭南港⇒台湾高雄)浅間丸2枚 ・証明(私物携行)2枚 ・証明書(入国許可書)1枚 ・ペナン州政府日本人職員表1枚 ・帰還部隊検疫証明書1枚 ・写真7枚 ・軍票3枚 ・その他(昭和十五年発行の目黒区の戸籍謄本など)5枚 総計29点となります。 |
珍しい軍政監部ペナン州支部の日本人職員表があります (昭和18年9月10日現在)。田中山城氏は、産業部農務科 の科長をしていた人物となっています。一般の奏任の 軍属より上の地位のあったようです。 |
国境通過証などは、南方軍鉄道司令官の判が押されて おり占領地域の通過は、様々な煩雑な書類が必要だっ た事が判ります。軍票や貴金属も何円相当持参まで記 載されております。外地の仕事の為でしょうか高額な生 命保険に加入しているのが印象的です。 |
この半袴の名前の宇都宮氏は、前述の日本人 職員表に名前がありません。恐らくは、昭和18 年以前かその後の職員の方と思われます。 |
軍旗(連隊旗)仕様で製作された海軍々人会旗 |
「帝国在郷軍人会・滝野川(東京・北区) 区海軍分会」の旗です。 |
連隊番号の箇所に在郷名が書かれており、総の柄違いと在郷の 記章が無ければ軍旗とほとんど同じです。実戦中にも耐えるよう に旗地に太い糸で補強が成されています(軍旗仕様と言われます )。赤い総付きの紐付きの黒い袋は防水加工が成されており、軍 旗で言えば良く戦地での行進に先頭の旗手が持つ軍旗に黒い布 を被せた軍旗の写真が見る事が有りますが、それと同じものです。 軍旗は敗戦時に焼却命令で燃やしてしまい、現存するものは少な く…近くでは、靖国神社にあるそうです。 |
本旗の仕様・・大きさ 総を含まず、縦78cm・横96cm。 総の長さ9cm 地質(布地)旗地(厚地)・総・共に正絹。 旗地の補強 太糸4.5cm升目の碁盤目縫い。 旗竿 径3cm長さ170cm(2本繋ぎ) 黒漆塗り仕上げ 旗の取り付け 旗竿袋通し 旗覆い(袋) 長さ95cm 防水加工。 ※ 竿頭 無し 収納ケース 携帯用 内面赤布貼り |
連隊旗 仕様 『太政官布告第百三十号』、 『陸軍歩騎砲三兵連隊旗並 歩兵大隊旗及ヒ同嚮導旗別紙図面ノ被定候條此旨告候事』 によれば、 大きさ 縦 二尺六寸四分(約80cm) 横 三尺三寸(約100cm) 総色 縁紫色 絹造り。 旗竿袋通し、 連隊番号を記した縦7寸横八 |
軍艦”八雲”乗組み一等水兵の服務優等証 |
帝國海軍の栄枯盛衰を見てきたかのような長寿艦 であった八雲は、まだ軍艦建造技術の無い時代の 日本でドイツへ発注され明治33年6月20日に竣工 し、日本海々戦も装甲巡洋艦として主力として戦い ました。老朽艦となり士官候補生の遠航に充てられ たりしましたが大正10年に海防艦として復帰。更に 先の大戦では、一等巡洋艦としても再復帰し兵学校 などの練習艦として敗戦まで生き延びました。戦後 は、復員兵輸送に従事しました。 |
佐世保海兵団の三等機関兵曹への服務優等証 |
第十九駆逐隊 一等水兵の服務優等証 |
昭和10年11月、当時の第19駆逐隊司令 西村祥治 海軍大佐より付与された服役優等証です。西村司令 は後に海軍中将として対米戦を戦い栗田艦隊の謎の 反転時、戦艦 山城・扶桑と共にフィリッピン スリガオ 海峡にて戦死されました。 |
〜感状〜 |
目覚しい活躍をした部隊、艦隊、戦隊など各単位で 上部司令官より感状を賜う事が良くあります。この 中で与えられた部隊の将兵であれば申請すれば誰 でも写しをいただける為、結構多くの感状が残って います。司令官の直筆を拘る向きもありますが、多く の感状で直筆とされる中で司令官が直筆せず、副官 が代わりに筆を持った話しは、良く聞かれる話です。 |
支那事変の揚子江海軍部隊 宛の感状 |
昭和13年6月、陸軍は、武漢作戦を開始。漢口攻略に向けて 海軍と協同し補給面でも容易な揚子江を使う為、陸海共同で 揚子江での関連作戦を行っておりました。感状は、その流れ のものと推察します。支那方面艦隊 司令長官 及川古志郎 中将(当時)の署名があります。 |
cf.及川古志郎 海軍大将に関しまして! 海軍大臣も経験された有名な方ですが簡単に補足しておきます。 岩手県出身、海兵31期、海大13期 昭和10年12月11日〜 昭和11年11月 30日 第三艦隊司令長官(海軍中将) 昭和13年4月25日〜 海軍航空本部長 昭和13年4月25日〜 昭和14年11月14日 支那方面艦隊司令長官 兼 第三艦隊司令長官 昭和15年 5月 1日〜 昭和15年9月4日 横須賀鎮守府司令長官(海軍大将) 昭15年9月5日〜 昭16年10月17日 海軍大臣( 第2次近衛内閣) 昭和17年10月10日〜 昭和18年11月14日 海軍大学校長 昭和18年11月15日〜 昭和19年9月14日 海上護衛司令長官 昭和19年 8.月2日〜 昭和20年 5月28日 軍令部総長 昭和16年10月18日〜 昭和20年9月4日 軍事参議官 昭和20年6月1日 科学技術審議会委員長 昭20年9月5 日 予備役 昭33年 5月9日 歿 (享年 75歳)) |
及川海軍大将 |
広東攻略に参加した海軍航空部隊への感状 |
第三航空隊、台南海軍航空隊 宛の感状 |
昭和17年1月、開戦初頭の蘭印攻略作戦における第三航空隊 および台南海軍航空隊の働きに対し連合艦隊司令長官 山本五十六大将より授与された感状です。…ラバウル海軍航空 隊の活躍が目に浮かぶようです。 |
cf.台南航空隊と第三航空隊に関しまして! 台南航空隊は、坂井三郎中尉の活躍した有名な航空隊で す。第三航空隊と共に第11航空艦隊 第23航空戦隊に所 属し台南航空隊は、零戦部隊。第三航空隊は、陸攻部隊 でありました。共に緒戦のジャワ航空戦に参加して、その 威力を発揮しました。後に台南航空隊は、第251海軍航空 隊へ…第三航空隊は、第202海軍航空隊へと改称します。 |
昭和16年10月1日に編成された台南航空隊は、17年11月1日 に第251航空隊と改称されました。この台南航空隊は、数多の 海軍戦闘機部隊の中で最も多くのエースパイロットを生み出し た航空隊として有名な部隊です。画像は、17年8月4日のラバ ウル東飛行場でのものです。司令の斉藤正久大佐を真ん中に 副長兼飛行長の小園安名中佐、河合四郎大尉、笹井醇一 中尉、西沢広義一飛曹、坂井三郎一飛曹、大田敏夫一飛曹、 高塚寅一飛曹長、山下佐平飛曹長などそうそうたる顔ぶれが 並んでおります。一時期、南太平洋の覇者となった戦闘部隊で =ラバウル海軍航空隊でありました。 |
上の画像は、16年12月8日高雄基地にて出撃前 の第三航空隊。下の画像は、17年8月末の三空の 幹部集合写真。 |
開戦の劈頭、真珠湾奇襲の機動部隊への感状 |
空母”赤城”の第一次攻撃隊の水平爆撃隊 第二中隊長だった岩崎五郎海軍中佐が所持 していた感状の写しです。岩崎中佐は、南西 方面で戦死しております。 |
第二連合航空隊に対する感状 |
昭和15年10月31日の日附、支那方面艦隊 司令長官 嶋田繁太郎とあります。 |
大東亜戦争の開戦時、海軍大臣だった嶋田大将 (当時、中将)です。後に軍令部総長、敗戦後は、 A級戦犯とされ終身禁固刑とされるが、昭和30年 に赦免となり釈放される。昭和51年6月7日に92歳 で逝去されています。現役時代は、東條大将の イエスマンで”東條の副官”と陰口を叩かれ、 山本五十六連合艦隊司令長官とも対立された方 です。 |
第一・二連合航空隊、第十五航空隊、
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昭和15年9月21日、こちらも支那方面艦隊 司令長官 嶋田繁太郎(当時、海軍中将)の 名で出された感状です。 |
以下の通り附箋がついており高雄海軍航空隊、 二分隊士殿とあり、この感状を所持していた 中攻隊員の加藤武久 一飛に別紙感状を移牒 するように取り計うように記載されています。 |
第三艦隊司令長官より陸戦部隊への感状 |
(第二次上海事変での上海特別陸戦隊に対しての) |
左右の端も切り詰めて額にされています。 |
第三艦隊司令長官 長谷川 清中将(後の支那方面 艦隊司令長官)より大川内 傳七少将(後に中将)の 指揮した上海特別陸戦隊に出された感状です。松井 石根陸軍大将が指揮する上海派遣軍(三個師団)が 応援に来るまでの間、圧倒的に不利な戦力で包囲網 をしのいだ第二次上海事件での活躍に対する感状で あります。 |
陸軍航空隊の機上衛生材料嚢 |
準未使用の航空機搭乗時、必携の衛生材料嚢です。未使用の ”ガーゼ二包三角巾一枚”昭和十九年八月製・2個が入ってい ます。大きさは、長さ14cmx幅6,5cmx高さ10cm。中の品か らも判るように陸軍航空隊の品です。 |
憲兵の入院時の記念写真4点 |
高知憲兵隊松村隊土屋隊 三島欣哉 昭和14年8月と 記載されております。ガラス版のネガが4枚南京市太平路 28番地の室井写真館の紙包に入っています。裏には、 廣州江南憲兵分隊 検閲済の判が押されていました。 |
一番左の眼鏡の傷病兵が三島欣哉氏と思われます。 4枚の写真の全てに登場し右端の写真では、一人で 写っております。陸軍病院に入院していた時に記念撮 影をしていたのでしょう。外套の襟の階級章から一等 兵です。多分、内地で高知憲兵隊に憲兵として配属さ れる前の一般兵の時の写真であると思われます。外套 を着用しておるので季節は、秋から春までの季節かと 考えます。昭和14年8月に高知憲兵隊に配属されてい る事からそれより以前の写真となります。 |
ある憲兵の資料 |
昭和16年2月に陸軍一等兵で中部第三部隊で 剣術競技会での賞状があります。すぐに憲兵 学校を受験して合格したのでしょう。優秀な方 だと思います。連隊でも合格者を出す事は、 名誉とされていました。同年の11月14日に憲兵 学校を卒業しています。翌日の15日には、一等 兵から兵長へ二階級特進です。大体は、入校し 卒業する生徒兵は、上等兵、一等兵です。 上等兵も卒業と共に兵長に昇進しますが、割を 喰う形となります。 |
様々な軍用の印 |
以下のような印…一つが将兵の命令・人事・その他 |
関東軍・大連酒保之印 |
材質は石材。上の角が磨耗したか欠けあり。下の方も 磨耗しています。文字部分の枠は、約2cm×2cm、印鑑 の長さ約4.7cm。珍品です。 |
幡第三七六九部隊長之印 |
野戦重砲兵第十一連隊長之印 |
満州国軍政部之印 |
面白いベスト…!! |
寒冷地での将校用に絹製のパラシュートの切断クズで 作った物だそうです。私物扱いで隊内の器用な人が作 り、軍衣や飛行服の下に着込んだのでしょうか。…とて も面白い品です。 |
二十六年式拳銃、実物ランヤード(拳銃懸紐) |
九四式自動拳銃嚢 |
豚革の官給品の拳銃嚢です。”昭 18”と難読の刻印が読めます。 |
残念な事に斜革が欠品です。その他は、豚革に 痛み無く、ミシン掛けの解れもありません。状態 は、良好な品です。 |
軍装研究家の方が名古屋で憲兵大尉をされていた方から 譲ってもらった品です。銃と弾倉を1本収納できるようにな っています。たいていの事は、この弾数で間に合ったそう です。私服の時でも目立たないように、薄型になっていま す。ベルトの後ろに付けて、仕事のときはフラップを外して おいたそうです。内部はベルベットの様な布が貼ってあり 拳銃の出し入れが非常に容易になっています。中国軍が これを真似しているそうです。 |
こちらは、珍しく陸軍の星章のあるブローニング 拳銃嚢です。内部に所持者だった方の名があり ます。斜皮は欠です。 |
こちらもブローニング拳銃嚢です。斜皮は、 欠品です。こちらも上にだした憲兵将校の ホルスターのように内部にベルベットが張 られ出し入れが素早く行なわれる工夫がな されていて実用的です。 |
珍しいアストラ拳銃嚢です。上質な多脂牛革製です。 経年と使い込みと手入れによる素晴らしい栗色の色 艶で、顔が映りこむ程です。硬化、劣化、ひび割れな ど無し。縫製は全体を太い麻糸で手縫い、ガッチリ仕 立ててあり、糸切れ等ありません。また揃い斜革も附 属しています。こちらもしっかりしております。尾錠・鼓 釦は真鍮無垢の削り出しのごつい物が付いており、D 環は真鍮製ニッケル鍍金の完全品です。蓋留のギボ シも良く効きます。 |
陸軍 十年式信号銃の拳銃嚢 |
上は、南部十四年式拳銃のモデルガンを 試しに入れて見た画像です。 |
三八式・九九式歩兵小銃手入れ用
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各種の属品 |
洗頭(ブラシ) |
豚毛の洗頭は、真鍮製なので三八式用。 |
薬室検査鏡(三十年式歩兵小銃用) |
銃身の内部の状態を調べる器具です。機関部の遊底を後進させ、 その開口部に器具のケース内筒を挿入すると薬室に先端部が 入ります。銃口に光を当てると鏡に銃身の内部が写り様子が判 る仕組みになっています。 |
撃莖強度計(三八式・九九式共用) |
小銃の引き金を引く強度(撃莖の強度)を計る測定器具です。 これにより一定の強度基準に調整する事が出来ます。引金の 発条(バネ)の強度は弾薬の信管を撃つ撃莖の強度で4〜5 kgとされていたとの事です。使用方法は器具に付けられている 麻紐の片方を引き金に掛け、もう一方の麻紐を引き、引き金が 作用する時の秤の目盛りを計測する仕掛けです。現在では、こ うしたバネ秤でなく自動的に数値が表示される測定器が使われ ているそうです。 |
海軍の高角砲々弾の薬莢 |
九八式八糎高角砲(右)の薬莢と三年式 八糎高角砲(左)薬莢と思います。詳しく ないので間違っているかもしれません。 |
九八式八糎高角砲?? |
三年式八糎高角砲?? |
こちらは、海軍の九糎(88o)高角砲用の薬莢 |
薬莢底部刻印より海軍の横須賀工廠印から 恐らくリロードされたものと思われます。その 他、海軍マーク、昭和17年1月の等の刻印が 見て取れます。 |
三年式8糎高角砲の薬莢と思われます。 |
陸軍軍医中将の品々! |
正肩章は、一般にケースで保護されている物が 多いのでその下のケースが欠品の飾帯と違い 退色も無くきれいな感じです。相当官としては、 中将が最高位となります。 |
どうもこの飾帯に関しましては、後で星章を加星したのか …元々、星章が1個だったのに加星したものかのどちらか のようで位置が対称ではありません。 |
明治二十七年制 陸軍 軍医総監 飾帯 |
相模野海軍航空隊の図嚢 |
かなり汚れていましたがきれいにして油を入れてあげる と、かなり状態が良くなりました。珍しい相模野海軍航空 隊の焼印と持主の名前のある図嚢です。第203海軍航空 隊は、所謂、厚木海軍航空隊ですが…この厚木空の前身 が相模野海軍航空隊です。元々は、昭和16年に厚木飛 行場開設にあたり昭和17年に横須賀海軍航空隊相模野 分遣隊として開隊されました。その後、相模野海軍航空隊 となり開隊し、続いて第二相模野海軍航空隊開隊されまし た。昭和18年に併せて厚木海軍航空隊として開隊されま すが、昭和19年の改編により第203海軍航空隊と改めら れています。 |
海軍航空隊・陸戦隊士官を支給
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ほぼ未使用に近い保存状態です。支給され すぐに敗戦を迎えて未使用のまま保存された ものと思います。 |
裏面に記名があります。同様の布製図嚢は、前の 持主の方によりますと鹿屋航空隊の資料館で特攻 隊員の遺品として展示したもの(上の画像)を含め ますと(錨の縫い取りが異なるも使用材料はまった くの同一)、過去に3例程確認しているとのことです。 皮革製の海軍図嚢も珍しいものですが、布製の 図嚢は長期の使用に耐える物でもない為、現存数 が大変少ないようです。 |
士官の演習風景が画像が上に入っていますが、 図嚢を使用しているのがわかります。 |
駆逐艦 ”村雨” で使用した鉋 |
鉋の刃の部分に”海軍 村雨艦 万歳”の刻印があります。村雨の 名が付く艦は、二艦あります。共に駆逐艦ですが一つは、国産初の 駆逐艦である春雨級の三等駆逐艦の三番艦として1903年に竣工。 1922年に二等掃海艇になり除籍。1923年に雑役船となった排水量 375tの小型艦です。もう一つは、白露型一等駆逐艦の三番艦 ”村雨”。基準排水量1.685トン。1935年進水、1943年3月5日深夜 、ソロモン諸島コロンバンガラ島沖で敵の集中砲火受けて撃沈。 乗組員119名が戦死されています。昭和57年に横須賀市観音崎に 慰霊碑(村雨会による)が建っております。鉋の状態より考えると 昭和18年に戦没した村雨の建造時に使われた記念の物と思います。 |
村雨の進水式 |
完成後まもない頃の村雨 |
日本海々戦で戦った(二等)巡洋艦
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二等巡洋艦としてアメリカで建造された千歳。 排水量4760t、速力22.5ノット、主砲 20cm砲を2門、 副砲12cm砲12門、8cm砲12門、魚雷発射管4門と 二等巡洋艦と言っても装甲巡洋艦に次ぐ重装備で 第一艦隊第三戦隊(出羽重遠中将)で同型艦の ”笠置”等の3艦と日本海々戦を戦い、損傷を受けるも 戦列に復帰しロシア駆逐艦”ベズウプリヨーチヌイ”を 撃沈する。 |
千歳の同型艦の”笠置” |
巡洋艦 千歳、笠置型の二番艦であるが艦首の菊の御門の 位置など微妙に異なったと言われています。この型が帝國 海軍が外国に発注して建造させた最後の防護(二等)巡洋艦 でありました。 |
日本海々戦で戦った戦艦 ”富士” で使用された鉋 |
富士は、英国テームズ鉄工所建造されました。1897年 竣工で排水量12,533t、30.5cm砲を4門装備し速度は、 18ノットを出しました。日本海々戦では、第一艦隊第一 戦隊の艦隊主力として他の三戦艦と共に戦いました (戦艦”三笠”、”敷島”、”朝日”)。 |
ありし日の戦艦 ”富士” |
海軍建築部作業員の腕章と前掛 |
横須賀海軍建築部の大工の方が使用した、営門 入門用の腕章と作業用前掛けです。腕章は、赤白 の腕章に「横須賀海軍建築部」の印と、所属の組、 通し番号が墨文字で入っています。大きさは 5.5×15.5cmの大きさです。前掛けは紺綿地の帆布 で作られ、裏には薄い綿地が裏打ちしてあります。 三つあるポケットの上部は、刺し子で補強されており 、工具が摺れても傷まないようになっています。 幅43×56cmほどの大きさ。海軍で大工仕事をされ ていた方の所持品との事です。 |
陸軍建築部の鉋 |
陸軍建築部の焼印が入っています。十分現在も 使用出来ます。窓枠等のレールを造作する物と の事です。 |
陸軍 その他 |
陸軍 (軍用)中斧 |
昭十七・二号・中斧 |
軍用斧は、一般の手斧と違い斧の刃の造りが |
陸軍 円匙と鶴嘴 |
円匙はオリジナル。覆は、複製品です。 |
共に戦後60年を感じさせない状態です。 |
実物の十字鍬嚢。昭和十四年の印がある極美品 |
円 匙 |
旧軍の円匙には、海軍の投炭用や陸軍工兵の土工用を 含む十数種が有ります。この円匙は、円匙と柄は差込式 になってます。肩掛け紐用の孔と築城(塹壕)から顔を出 し敵に狙撃された際、顔面を防護する盾の役目をする覗 き孔が付いてます。”象印”の刻印が有ります。紐はオリ ジナルですが、後付けです。尖部(剣先)が磨耗無く有る のは少ないようです。全長72cm。 |
陸軍 携帯式折畳鋸(収嚢袋に予備部品付) |
陸軍の携帯折畳式鋸です。チェーンタイプの鋸に なっており、細い木なら指を通して、太い木は木 の棒を入れて切断できます。全長160cm、9cmの パーツが15個付いています。予備パーツ入れに、 予備のノコギリ二枚とジョイント、ジョイントを外す 金具二個が付いています。収納袋には、蓋の裏に 「昭 十 京」の刻印があります。収納袋は、 13cm×16cm×5cmで、綿のキャンバス布製です。 |
軍用バイクなどの警笛 |
刻印等は、ありません。ゴム部劣化 と裂けがあります。金属部分の国防 色は、残っています。 |
サイドカー…所謂、側車付単車です。陸王でしょう! |
海軍航空隊でも多用されていました。 |
こちらは、上の軍用タイプと少し違いますが戦前の バイク用のフォーンだと思われます。 |
陸軍 列車砲の資料のコピー |
未使用 陸軍帯革他 不明帯革 |
帯皮と小銃の負皮(スリング)の一部だと思うのですが… 昭和17年 山陽 阪の刻印が尾錠のある下の4点には、 あります。 |
海軍々人の慰霊幟 |
葬儀の際に幟として使われた 物でしょうか…海軍主計少佐 の慰霊の幟です。シルクで出 来ており、墨書がされています。 |
今回、収集品の虫干しの為、倉庫より一時、出した収集品の一部を
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