旧軍関連・戦前資料収載品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
水上機母艦”千歳”乗組みで開戦以来
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自画像か戦友が描いたものか不明ですが 鈴木少尉の顔と思われるます。 |
ガダルカナル方面で戦死された時 年齢は27歳の若さでした…。 |
鈴木少尉の履歴表です。 |
昭和6年の第2期飛行予科練習生出身(乙飛)の搭乗員です。 |
当初は艦攻偵察員としてスタート。戦艦”長門”で水偵偵察員 に転じた後、空母”蒼龍”にて艦爆偵察員、横空にて水偵偵 察員、開戦前の昭和15年に准士官(兵曹長)に昇進。開戦 後は、軍艦”千歳”の搭乗員で昭和17年にガ島方面で戦死さ れています。 |
上は水上機母艦時代の千歳です。下は、昭和17年末に空母へ改装 された後の空母”千歳”です。鈴木少尉は改装前にガダルカナルで 水上機で戦死されています。 |
大正4年生まれで本籍は山形県ですが、家族が仙台市 の住所となっていますので仙台の出身の方と想像しま す。昭和6年6月に予科練に入校以来、昭和15年5月1 日の兵曹長に任じられ准士官と成り兵籍を離れ横須賀 海軍航空隊附になるまでが詳細に記載されております。 |
昭和17年8月29日イザベル島レカタ基地を拠点として R方面航空部隊(第九五八海軍航空隊)が新編されソ ロモン方面に投入された水上機母艦の艦載水上機は 丸ごと運用される形となりました。所属は外南洋部隊の 第11航空戦隊です。水上機母艦”千歳”からは、零観 16機、零式偵7機を持って参加しました。昭和17年に ガダルカナル方面で戦死とありますので…ソロモン諸 島イザベル島のレカタ基地での死闘で戦死しされたも のと推察します。 |
水偵や艦爆、艦攻の搭乗員として乗組んだ艦船は巡洋艦”摩耶”と 戦艦”長門”、空母”蒼龍”。そして准士官と成りこの履歴表には記 載されていませんが、水上機母艦”千歳”となります。この他は陸上 の基地航空隊に勤務した記録として横空隊、霞空隊、館空隊、大空 隊の記載があります。主に後半の移動は教官としての赴任で合間 に艦上勤務になり支那事変等で戦地加算が付いています。 |
水上機母艦”千歳”と鈴木少尉の乗組後の軌跡 昭和16年11月 11月23日 呉軍港出港(日米戦突入) 昭和16年12月 レガスピ・ダバオ・ホロ攻略戦 昭和17年1月〜4月 メナド・ケンダリ・アンボン・マカッサル ・スラバヤ・ニューギニヤ攻略戦 昭和17年5月〜6月 ミッドウェー作戦 昭和17年8月〜11月 トラック島進出、ソロモン沖海戦、 (鈴木少尉戦死) ラバウル・ショートランド輸送作戦 ガダルカナル作戦 |
イザベル島レカタ基地では、零観(上)か零式水偵(下) のいずれかで出撃し戦死されたと思われます。 |
上より山本GF長官、永野軍令部総長、嶋田海軍大臣の弔辞です。 |
鈴木少尉の勲七等勲記、章記1枚等です。 |
主に奥様に宛てた手紙です。非常に愛妻家である事が判る内容です。 お子様が一人誕生しており手紙でもその成長を愛でる様子が良く伝わ ってきます。 |
戦死後の除籍関係の書類や案内等です。 |
日米戦の開戦までは国内(瀬戸内海)にあって僚艦の瑞穂や千代田などと 激しい訓練に励んでいた様子が手紙に記載されており、瑞穂で起こった事 故なども軽く触れてあり・・・若く動揺しやすい奥様にもしもの時の心の準備 を怠らないように諭す内容が段々まして来るのがわかります。 |
以下、ありし日の水上機母艦”千歳”の画像です。 |
空母”千歳”に大改装されました。その後、昭和19年10月25日 にレイテ沖海戦に参加し戦没しました。 |
海軍・不銹鋼刀(耐錆鋼刀 :ステンレス刀)
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奇跡的に北海道で登録証が付いた ものです。スプリング刀で付くのは現 在では、非常に珍しい事です。 |
下の画像は、海外の日本刀サイトに掲載されて いた同じ、伊奈波兼吉の日本刀の画像です。 |
日本初、空母”鳳翔”で十式艦上戦闘機
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旧軍をはじめとする高名な航空物コレクターの方より譲り受けた 品です。2008年1月号の航空ファンで掲載されたので見た事の ある方も多く居られるかもしれません。非常に希少な黎明期の 日本の航空史だけでなく日本の空母や当時の英国の空母の歴 史を紐解く上でも希少なネガです。ここから日本の空母史はス タートしました。 |
イギリスのセンピル飛行団が海軍に航空機の運用を 教えに来た時に、関係者が撮影したネガです。 |
鳳翔のメインマストに掲げられた大軍艦旗と見学する海軍軍人たちです。 |
着陸した一○式艦上戦闘機です。後に日米英の何れの空母運営国 も使用を中止した縦索式着艦拘束装置の様子が良く判る上下の写 真です。事故の多発で現在も使用されている鋼索を甲板と直角に張 る横索式に変更されていきました。 |
上の画像からわかるように着艦するパイロットにとって右舷に存在する艦橋 が非常に目障りで邪魔な存在でした。後にこの艦橋は大改装で撤去されま した。画像の上にあるシルエットは敗戦後の昭和20年10月に撮影された鳳 翔です。このスッキリした形が最終のフォルムとなりました。 |
まさに着艦しようとしているところです。 |
着艦後、ランディングしています。 |
まだ止まりません。横で見ている人が判ります。 |
一○式艦上戦闘機が着艦し止まった写真です。 |
一○式艦上戦闘機の着艦フックが良く判ります。 |
鳳翔に初着艦したジョルダン氏と一○式艦上戦闘機です。 |
後日、バイキングW飛行艇でゼンピル飛行団の飛行艇教官のH.G.ブラドレー少佐 が着艦実験をした際の写真です。日本側では3月16日に吉良俊一海軍大尉が初の 空母着艦に成功しています。 |
国産初の艦上雷撃機となった一○式艦上雷撃機(三菱) 写真は以下も霞ヶ浦飛行場にて撮影されています。 |
国産初の艦上戦闘機となった一○式艦上戦闘機(三菱)の一号型 です。ラジエターが機種にあるのタイプとなります。 |
水陸両用のバーキング飛行艇と興味深げに見学する海軍の将兵達です。 |
国産初の艦上戦闘機となった一○式艦上戦闘機(三菱)二号型 |
第一次世界大戦でドイツから戦利品としてもらった飛行船格納庫(霞ヶ浦で移築中) |
霞ヶ浦海軍航空隊、その後の土浦海軍航空隊のまだ水上機用の スリットが作られる以前の黎明期の霞ヶ浦の写真です。 |
臨時で作られたのか格納庫がテント状である事が判ります。 |
上は珍しく日本人パイロット達です。 |
市民達が集まって未来来る風景は今の自衛隊の基地の お祭りや観艦式と大きな違いはありません。 |
いかにも手作りの歓迎会であるのが判ります。平屋建ての兵舎が 現在も土浦基地跡に残る医務科の兵舎と同じです。 |
英国センピル飛行団を歓迎しての海軍の主催のディナーでしょうか。 |
正衣袴で写真に映る佐官達(中佐に少佐)です。副長と飛行長クラスと思われます。 後ろに写る平屋建ての兵舎が現在も土浦基地跡に残る医務科の兵舎と同じです。 |
下は海軍の日本人パイロット達です。この当時だと全員が士官搭乗員だと思われます。 |
行きなのか帰りなのか判りませんが英国への旅のどちらかをシベリア経由 で日本船のシベリア丸を使い北回りを使ったのかも知れません。最も一般 的な欧亜ルートでロンドンまで帰国すると関釜連絡船で下関〜釜山間を 船旅し釜山よりは朝鮮総督府鉄道と南満洲鉄道で新京・ハルピン・満洲里 そしてロシア側のチタを経由してシベリア鉄道に乗り継ぐもの。この他にも 神戸などから大連へ船旅し大連から新京へ満鉄でそして満洲里からチタで シベリア鉄道か、敦賀港からウラジオストック航路に乗り直接、シベリア鉄 道に乗る3つのルートがありました。 |
初期の艦橋がまだある頃の鳳翔です。ネガと写真は このごく初期の時代の物です。 |
改装後の艦橋を撤去した鳳翔の姿です。 |
敗戦後の空母”鳳翔”の最終形です。敗戦後は復員船となり 昭和21年8月末から解体が開始され翌22年5月に解体が完了 されました。現在、敗戦から空母を持たない海上自衛隊の現状 を鑑みると、まさに日本の空母史の幕開けと幕引きを行った最 初で最後の航空母艦といって良いかもしれません。その起工か ら解体完了までの28年間は、まさに帝國海軍の空母史そのも のが凝縮された濃密な期間だったと謂えるでしょう。 |
海軍 四糎側視望遠鏡
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格納箱に傷みがかなりありますが、箱の銘板のシリアルNo.と 中身の側視望遠鏡のシリアルNo.は548號で同じものでオリジ ナルの対であることが判ります。 |
現在のニコンが戦前に製作し海軍に収めたものです。 豊川海軍工廠の検定印が鏡本体と箱の銘板にあり ます。 |
驚くべきは接眼部のゴムの柔らかさです。箱の傷みからは想像付き ませんが保存状態は良かったものと思われます。製作から65年が経 過した品で今も現役で使えます。 |
”日本光学”、”NIKKO”、”10×6°”、”548” の白抜きの刻印が見えます。 |
接眼レンズを囲むダイヤルには”4 3 2 1 - 0 + 1 2”のメモリが あり、ダイヤルを回転させることで、焦点を合わす事が出来ます。 |
レンズ内には十字のレティクルが見えます。小さな点やゴミ・ほこりが 多少、散見されますが非常に状態が良く、視認性に問題はありません。 |
海軍 九十式二連信号銃(萱場式)の拳銃嚢(ホルスター)
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珍しい九十式信号銃の実物のホルスターです。 |
斜皮は残念な事にオリジナルで無く後家合わせとの事です。 |
二連銃の大きさが判るように実物の九四式自動拳銃のホルスター に九四式自動拳銃のモデルガンを入れて比較して撮影しました。 |
拳銃嚢の膨らみ方で二連信号銃の大きさが判ります。 |
九十式二連信号銃(萱場式)です。二連と三連があります が、二連は航空機用です。昭和4年の実験で萱場式が採 用され、以降、敗戦までに2連式だけでも3万挺が生産さ れました。 |
以前、制作していただいた4分の1スケールの超精密、真鍮製模型 です。この中に九十式二連信号銃(萱場式)があります。 |
九十式二連信号銃(萱場式)は、中折れでダーミー弾の 取り外し可能です。十四年式もボルトを引けます。 |
この精巧さ…匠の職人の技術もさる事ですが…作品のモデル に対する知識や造詣の深さがなければ作り上げられないのが 良く判ります。三五年式海軍銃にベルグマン短機関銃の海軍 陸戦隊仕様に二十六年式拳銃、南部十四年式拳銃後期型、 そして萱場式(九十式)二連信号銃。陸海軍の九十式鉄帽です。 |
ベルグマンは槓桿は作動し、三五年式はボルトがオープン可能です。 勿論、ともに銃剣付きで着剣出来ます。 |
銃剣が如何にも日本軍を思わせ泣かせます。 |
この小さな弾倉にダミー弾が細部にこだわりが見てとてます。 |
小さな四分の一の三五年式小銃も実に美しい芸術品です。 |
海軍兵学校 最後の豫科生徒78期生
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明治19年に廃止された予科生徒が,59年振りで復活した78期生の生徒 二名の肩章です。この78期生は敗戦間際の昭和20年4月3日に入校。 同期生4,048名が海軍兵学校針尾分校で僅かな海軍生活を送りました。 |
中島親孝(海軍兵学校 第54期)著の『海軍兵学校沿革』よると… 約1か月の入校教育の後,基礎普通学と体育に重点を置いた日課 が開始された。英語の授業は全部英語で行われ,体操は海軍体操 生みの親として知られる堀内豊秋大佐の英語の号令で行われた。 陸戦,短艇,游泳等の諸訓練は各部毎に行われ,游泳では佐世保海 兵団に入団中の遊佐正憲,鶴田義行両オリンピツク選手の指導を 受けた。日曜外出は警報が発令されていない限り許可されたが,ク ラブはなく市街地は遠く,古鷹山に相当する山もなかったので,校内 または島内で休日を送ることが多かった。敵の九州上陸が考えら れるので,山口県防府市に既設の海軍通信学校校舎へ移転するこ とになり,昭和20年7月8日から各部ごとに移転,同月15日以後は事 実上防府分校となった。ところが、移転後間もなく敵機来襲が相次 ぐようになり,8月8日には艦載機の空襲によって,生徒館5棟が焼失 した。第1部生徒は小郡の嘉川へ,第2部生徒は四辻にある防府海 軍通信学校へ移転した。防府に残った生徒は講堂を生徒館に兼用 して急場を切り抜けたが,各分隊から1,300名におよぶ赤痢患者が 発生して,講堂の半数近くが隔離病室と化し,屋外に露天厠を急造し て猛烈な下痢に備えるという不測の事態が発生した。8月15日まで に14名の生徒が死亡し,約30名の重症患者は復員不能という不運 の中で終戦を迎えることになった。江田島本校では5,6月頃から空 襲に備えて木造の北生徒館を解体し,重要施設を地下防空壕に移 すための穴掘り作業が6時問交替制によって開始された。その防空 壕は御殿山の麓に間口1問,高さ1間の入口を10数個掘り,松材の 支柱で岩盤の崩れ落ちるのを防ぎ,トロッコのレールを敷きながら次 第に広く深く掘り進め,網目状にするもので,各分隊50名が5乃至6班 に分れて,穿岩機で穴を掘ったり,ノミでこつこつやったり,ダイナマイト で爆破した岩石をトロッコで運び出す作業を6時間連続して行った。 大原分校でも防災上,8棟の生徒館のうち1棟おきに4棟をとり壊し 本校と同様防空壕掘りが開始された。7月13日,江田島は2度目の 空襲を受け,機銃掃射によって75期生1名が戦死した。7月24日に は江田内に碇泊中の巡洋艦利根,大淀が艦載機の爆撃を受けて沈 没する悲劇を目撃しなければならなかった。昭和20年8月15日の江 田島は無風快晴であった。平日より15分早い11時30分「食事ラツパ 」が鳴り響いた。不思議に思いながら食堂に急いだ生徒に対して,当 直監事は「本日,1200から,天皇陛下の御放送がある。全員急いで食 事をすませて、第二種軍装に着替えておけ」と命令してから着席を命 じた。食後歯を磨き、入浴して身を渚めてから,新しい下着と軍装に着 替えて部監事室に集合した。玉音放送はほとんど聞取れなかったが, ただ玉音から伝わってくる悲壮感と,途切れ途切れに聞き取れる「堪え 難きを堪え,忍び難きを忍び」「……止むなきに至れり」というような言 々句々に肺腑を衝かれて,両眼に涙を浮かべ,放心したように玉音放 送に耳を傾けた。海軍兵学校生徒の復員は8月24日をもってほぼ完 了した。その後,その年の10月1日に,75期生徒には卒業証書,76期, 77期,78期生徒には修業証書を渡された。 |
この米田、武藤両生徒の戦後がどのようなものであったのか知る由も ありませんが…敗戦間際の僅か半年にも満たない海軍生活を終えて の戦後の人生…多くの日本人が混乱と苦悩の戦後を過ごしたわけで すが…多感な時期の彼等の青春を想像すると複雑な心境に駆られま す。そして戦後生まれの私は、平和の有難味を改めて実感させられま した。 |
1/48 日本海軍 コマツ G40 ブルドーザー
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タミヤの完成済プラモデルです。日本初のブルトーザー のコマツ G40 ブルトーザーです。日本海軍が設営隊が 飛行場の滑走路作りに主に使用しました。 |
小松製作所は、昭和17年12月、前線の飛行場設営の為に |
先の大東亜戦争で南洋に進出した日本軍は各地に飛行場を建設しましたが |
昭和18年7月小松製作所粟津工場で製造された日本で最初のブルドーザ。 |
昭和53年(1978年)に里帰りしたG40ブルトーザー |
このG40ブルはフィリッピンで敗戦後、米軍に鹵獲され一端は海中に 遺棄されましたが、船の航行に邪魔な為サルベージされたのを豪州 に引き取られ再生され農作業などに使われておりました。何度かオー ナーが代わりコマツに引き取られ里帰りする事になりました。 |
見事…自走するG40ブルです。 |
コマツ・テクノセンターに展示された唯一の現存するG40ブルです。 |
↑ |
上の画像をクリックすると実物を展示している コマツ・テクノセンターのサイトが開きます。 |
以下のバーナーをクリックして開いた潜水記録U のページのK伯耆丸に海底に眠る実物のG40ブル があります。 ↓ |
一枚の写真から… |
小笠原 長生 海軍中将の写真 |
肥前国唐津藩藩主で老中・小笠原 長行の長男で明治6年に 家督を相続した大名です。学習院から攻玉社を経て海軍兵学 校に進みました。お殿様ですから爵位持ちます(子爵)。 海軍中将正二位勲一等功四級子爵。昭和33年9月20日逝去。 |
提督は大正10年に予備役編入し宮中 顧問官を昭和20年11月まで任じれら ておりました。写真は昭和11年とあり ますので宮中顧問官をされておられた 時期のものです。 |
一枚のネガと写真から… |
G.I.が乗り込み見つめているコクピットは、何処の基地の飛行場か不明ですが 機体は銀河です。操縦席に乗り…銀河の風防あたりのみが写っていますが 何処かの海軍基地だった場所でしょう。 |
一枚のプレートから… |
内外汽船株式会社 春日丸 進水記念プレート |
昭和11年9月に進水した春日丸は海軍に徴用されました。 昭和18年3月13日アンダマン諸島 ポート・ブレア (Port Blair)港内でオランダ潜水艦O21の発射した魚雷を 受けて沈没しました。この際、船員21名が死亡しています。 |
海軍工廠の職員が使用した腕章と鉄帽の帽章です。 |
腕章には工廠の紋章があり、片側にNO.222が印字され加藤の判が捺されています。 |
帽章のオレンジに近い黄色は海軍の鉄帽で よくステンシルで描かれる錨の色とほぼ同じ です。 |
こちらは箱附きの技術名誉章(舞鶴海軍工廠) 上の徽章は横須賀海軍工廠のものです。 |
なんとも可愛い自衛隊限定販売の 大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ ーズのキューピーです! |