このページでは当サイトへの来訪者、その他の有志の方々から
提供された親族・家族の資料を基に父祖達が大東亜戦争の前
後を国民として兵役や志願で国や民族同胞の為に如何に従軍
したかを…今や多くの戦争を知らない時代の皆様に語り継ぐ
べく製作した新ページとなります。

戦後も72年、既に戦争を知る世代の多くが鬼籍に入り、生の記
憶を持つ人は僅かとなり…大多数が戦後生まれの世の中となっ
ております。そして今や米国ではあからさまなフェィクニュー
スと印象操作でトランプ大統領下ろしが…また日本でも朝日新
聞や東京新聞にTBS、テレ朝などの所謂、大手マスゴミによる
安倍倒閣運動としてのフェィクニュースに印象操作が行われて
います。…森加計(もりかけ)などは…その最たるものです。
補助金詐欺の森友の籠池夫妻に天下りで本来は懲戒解雇に
なるところを温情で退職金まで貰いながら…恩を仇で返し逆恨
みするビーチ前川のような犯罪者を持ち上げる大手マスゴミ…
なりふり構わない倒閣運動に邁進する姿に嫌悪感を覚えるのは
真実を知る愛国の国民だけなのでしょう。そして多くの未だに
新聞やテレビを唯一の情報源とする国民は、見事にフェ−ィク
ニュースや印象操作と謂う偏向報道に騙されて安部内閣への
支持率を下げてしまい、結果として反日媚中媚韓に協力すると
謂う皮肉な結果を生み出しています。

NHKにTBS、テレ朝、フジテレビ、日テレなど放送法の枠に捕
らえながら既得権益に胡坐をかき競争無きぬるま湯の中で荒
稼ぎしながら放送法に違反して中立公正を欠くどころか現政権
への倒閣を目的とした偏向報道に終始する様は、放送事業の
停止や免許の剥奪を行い…浮いた電波の割り当ては広くオー
クション等で公正に取得するチャンスを与え、再び政治目的で
の放送事業を利用した国民の洗脳を許さない正常な状態の放
送を確立するべきでしょう。

またこれ等一連の印象操作やフェィク二ュースなどの捏造は、
先の大戦の近代史観にも大きな影をもたらし…フェィクばかりが
今も横行し、正しい歴史と正論が封殺されて久しい状況を生み
出しています。それが従軍慰安婦の強制や南京大虐殺の大嘘
です。朝鮮人の女衒が自らの同胞の女性を騙し強制的に慰安
婦として売り飛ばす…当時の新聞を見ても日本の官憲はこうし
た事態を取り締まり未然に防ぐ努力をしていた事は明白なる事
実です。また南京大虐殺という捏造も単に同じ支那人同士の
南京を放棄し逃げる国民党軍が同胞に対して行った虐殺非道
の数々はあrちましたが、日本軍が南京に入場すると戦乱を避
けて避難していた南京市民が大勢が市内に戻ってきた事実は
日本軍は国民党軍や八路軍と違い軍紀が保たれ平和秩序が
保たれる事を知っていたからにほかなりません。彼等、支那人
は同胞である国民党軍や八路軍よりも略奪非道を行わない公
正な日本軍を信じたのです。しかし日本の敗戦により全ての
戦時下で国民党軍や八路軍が行った残虐非道の数々は、全
て日本のせいにされてしまった捏造は…太平洋全域で米英豪
蘭が行った捏造やフェィク二ュースに印象操作とまるで同じで
す。

そして有り得ない事後法によって裁いた東京裁判史観が今も戦
勝国の論理で日本を捏造で縛り上げている事です。最後まで和
平の道を模索した日本の首脳陣は…米国の悪意の前に屈して
自存自衛の為と亜細亜の植民地解放を掲げて無謀な戦争に突
入しました。戦勝国による一方的な断罪であり、反対尋問すら認
められず指導者個人の断罪や戦勝国の戦争犯罪不問に判事の
選定、ポツダム宣言受諾による有条件降伏の条件無視など…
まさに極東軍事裁判(東京裁判)と謂うのは、誰の目にも戦勝国
による復讐の儀式であり、茶番劇でありインチキ劇にすぎません
。そしてA級からBC級とされた戦犯者へ処刑は明らかに不当な
るリンチに過ぎない事が判ります。

支那が靖国参拝を朝日新聞がA級戦犯を合祀していると声高に叫
んでから政府閣僚の参拝を非難する事と日本の首相と閣僚が参
拝を自粛する事は…明らかにフェィクであり違法で有効性の無い
無効の筈である東京裁判史観のロジックに嵌った恐ろしき事態で
あると思います。特に最も悲しいのは日本人が崇敬してやまない
天皇陛下が靖国親拝を行っていない事です。昭和天皇が昭和50
年11月20日を最後に以降、42年の長きに渡り天皇陛下の親拝さ
れてい無い事は悲劇としかいいようがありません。昭和天皇がお
隠れになり、今の今上天皇が即位以降は一度として親拝した事は
ありません。…間違った東京裁判史観を正すべき時に来ています
。その為にも正しい歴史観の構築と教育の再興が必要であるの
は急務な事です。

先の大戦では多くの家庭から愛国の国民が国家や民族同胞を守
る為に戦争へ参加しました。そして多くの人が犠牲になりまし
た。しかしそうした人々を顕彰する事も祀られている靖国神社
そのものを否定する風潮が今もマスゴミや反日プロ市民らによる
工作活動で当たり前のようになっています。当サイトでは…提供
を受けた資料を基に語り継ぐべき父祖達の従軍の記録を公開し
多くの方々に見ていただきたく公開する事としました。…支那や
南北朝鮮半島の誹謗中傷に捏造の歴史に騙されずに…日本人
として正しい行動をとり勇気を持って戦場に出た父祖の正しい歴
史を事実として知るべきであり、語られる事なく埋もれていく恥ず
べき歴史の一ページでは決してありません。日本人は公正で弱
い者の味方をする判官贔屓の民族性を持ちます。これが結果と
して東南アジア諸国の植民地解放と独立に繋がり、支那と南北
朝鮮と謂う…所謂、特定亜細亜三国以外のアジア諸国からは
…感謝されている事で如実に表している事を知る事が出来ます
。…日本人斯く行動し戦えり…!!

                  皇紀2677年9月

                         憂國烈士










山ちゃん提供の父方の祖父の資料から

 
  山田 佐吉 海軍上等兵曹の従軍記録




こちらの右上の方が当サイトに訪問された山ちゃんが提供された父方の祖父に
あたる山田佐吉さんです。昭和9年1月10日に横須賀海兵団に入団し、海軍四等
水兵となり、すぐに機関兵に兵種変更され四等機関兵でスタート。同年5月15日
に退団と同時に海軍三等機関兵に昇進、新たに第一掃海隊の第5号掃海艇乗組
みとなります。左上の写真は同じ掃海艇の第二分隊の同年兵と撮影した写真で
す。この時、21歳の時の写真です。これから志願兵として3年間海軍の飯を食う
事になります。兵籍番号は 横志27800 です。

尚、右上の同年兵と撮影された写真。お名前が写真の裏にありましたのでご紹介
します。左上から山田佐吉、八重樫七五郎、左下から関平七、椿熊太郎、鷲津一
太郎です。(敬称略)
上の臂階級章と善行章は御本人が最後に使われていたものです。海軍一等
機関兵曹と善行章二線です。任じられたのは敗戦の3ヶ月前の昭和20年5月
です。同年8月15日に敗戦となり、9月1日に召集解除、最後にポツダム進
級で海軍上等機関兵曹に昇進して無事に新潟に帰郷しております。
山田 佐吉 海軍上等機関兵曹の軍歴の全てが記載された履歴簿です。
召集令状が来る年に海軍に志願したのでしょう。3年満期で現役生
活を海軍一等機関兵で終えて24歳で娑婆に戻っています。予備役も
後備役も満期となり第一国民兵役も満期となりました。海軍を去った
5年後…運命の日米開戦の2ヶ月前に充員召集されたのが昭和16年
10月20日です。この一週間後の27日に舞鶴海兵団に入団します。
この方は娑婆にいる間に秋田県から新潟県に引越しをして本籍地も
移動している為、横須賀鎮守府から舞鶴鎮守府に所管が移転してい
ます。今回は召集なので兵籍番号が舞徴23808に変わっています。
そして以降、日米開戦から敗戦に至るまで約4年間、再び軍務につき
ました。









昭和10年4月、五号掃海艇 缶部員一同の記載があります。
この艇の機関科の下士官兵の集合写真となります。機関室
は最下層の最後部にあります。艦艇が沈む時には、まず助
からない部署です。
上が現役時代に所属した第一掃海隊の勇姿です。右下が乗艦勤務
された五号掃海艇です。日本の掃海部隊は実に優秀で…戦後の朝
鮮戦争では米軍の求めに応じて…旧海軍の掃海部隊が機雷除去を
行いました。その後は海上自衛隊にその伝統と高度な掃海技術が
引き継がれており…古きよき時代の写真と謂えます。



同じ時期に艇の上で撮影されたスナップです。



艦橋前甲板で撮影された集合写真です。下の拡大写真には
救命用浮袋に五号掃海艇を示す五と掃の字が記載されてい
るのが見て取れます。昭和10年10月15日の艇員一同の写
真となります。



下の写真は昭和11年5月15日の伊勢神宮参拝時の
記念撮影したものです。
昭和11年11月30日に海軍一等機関兵に昇進して現役満期と
なり同日、退団し娑婆に戻ります。同年12月1日に予備役編
入となります。この後、昭和15年11月30日に後備役編入と
なります。



上は、昭和16年10月27日に充員召集で舞鶴海兵団入りした時
の写真です。同年11月11日に舞鶴第二特別陸戦隊附になりま
す。尚、陸戦隊では山砲の要員でした。
部隊が11月20日に第四艦隊の付属となり、同日に南洋諸島に
向けて舞鶴港を発ちます。11月26日、サイパン島に到着。サイ
パンに上陸し、日米戦が開戦すると部隊はウエーキ島を攻撃。
そこからニューアイルランドを経て、ニューブリテン島へ…そし
てR作戦に参加します。つまりビスマルク作戦でラバウル占領の
緒戦の戦いです。同年2月1日に部隊が改編され第八特別根拠
地隊(ラバウル)附となります。同年2月7日から24日までS作戦
に参加。これは部隊がニューブリテン島南岸のガスマタに上陸
し、スルミ飛行場を占領したものです。部隊は第八十一警備隊
と第八十二警備隊に分割されます。第八十一警備隊はラバウ
ル守備任じられ残り、第八十二警備隊はニューギニアのラエが
任地となります。

この第八十二警備隊附(辞令は4月1日)となり、翌3月5日から
19日は叩き込むようにSR作戦に参加、こちらの作戦はラエと
サラモアの占領作戦で3月8日にあっさりと無血占領に成功し
ています。このままニューギニアのラエに駐屯します。また
警備隊は同年7月に第四艦隊の隷下を離れ、第八艦隊の指
揮下に入ります。同年11月1日に海軍機関兵長に昇進されて
います。また部隊は大元である八根の隷下を離れ第七根拠地
隊の隷下に入ります。同年9月12日にマラリアを発症し航空便
でラバウルの第八海軍病院に後送され入院となります。恐らく
キニーネ等の治療では改善が認めなかったのでしょう。9月22
日に病院船”高砂丸”に転院乗船し帰国します。非常に幸運だ
ったのは緒戦の大勝利に沸く時にラバウル入りし、無血占領
のラエに駐屯し日本出国から1年経たぬ間にマラリアによる戦
病で帰国を果たせた事です。

もしマラリアに罹患しないで八十二警に残った場合…昭和18年
半ばにはラエ・サラモア周辺の制空権を日本軍は完全に失い
…輸送艦による補給も絶たれ潜水艦によるネズミ輸送が唯一
の補給となりますが、約1万名の将兵の飢えを癒す量は当然
確保できず、飢餓と熱帯病に苦しめられます。そして連合軍が
上陸すると…転戦と言う名の地獄の逃亡劇が始まります。飢餓
で痩せ体力を奪われマラリア、テング熱に赤痢などに悩まされ
ながら有り得ない標高4100mのサラワケット山系を越えを開始
しました。当然、富士山を遥かに越える高山です。防寒装備な
ど持つ筈も無く…道なき道を磁石を頼りに進む日本兵は川を渡
る時にワニに襲われ山中で滑落死や凍死と多くの犠牲を払い
…約8千5百名の陸海将兵のうち1000名以上がこの山越えで
命を落とし…転戦時に終結した2万名の陸海将兵のうち昭和18
年11月までに目的地のキアリやシオに到着できたものは僅かに
約7200名前後でした。その多くが半病人であり到底…銃を取
ってまともに戦える状態でなかった事を振り返れば…山田佐吉
機関兵長が如何に幸運だったかの理由がよく判る事でしょう。
病院船で帰国した山田佐吉機関兵長は昭和17年10月9日に佐世保
海軍病院に転院します。そして同年11月29日に兵籍が舞鶴海兵団
に転籍され舞鶴海軍病院に転院します。昭和18年2月3日、症状が
が軽快し退院となります。しかし此処で補足しておきますと現代と
当時では医療のレベルが全く違いますのでマラリアは恐ろしい死病
の一つで軽快していても体力を相当に消費し前線に向かうような厳
しい勤務は不可能でした。この為、以降は長らく閑職に回されこれ
も戦時下に軍人としてサバイバルする上では重要な強運であると感
じます。同年3月1日、妻入籍(長女と次女出産)で戸籍の移動届
がありますので双子の女の子を授かったようです。
昭和17年11月以降の写真との事です。11月以降で二種の夏季軍装
と謂うのも不思議ですが…。時期的には舞鶴海軍病院に入院してい
る時期なので退院をした昭和18年2月以降の写真と想像します。二
種軍装で夏肩章に識別線がある事から…恐らく18年夏前後と考えま
す。18年9月2日に舞鶴警備隊にてんじていますから…舞鶴海兵団
または舞鶴警備隊での集合写真と考えます。


左上の分隊士は識別線の色が判りませんが海軍機関兵曹長でしょ
うか…その斜め後ろで最後列の右から三番目の水兵が山田佐吉機
関兵長です。善行章一線が見て取れます。右上が拡大したものです
。…分隊士の右隣に座っている先任下士官の右胸には潜水学校卒
業徽章を佩用しています。全体を見ても若い兵隊がおらず明らかに
平均年齢が高い水兵が多く、善行章を持っている方も多く…この
事から再召集できた古参兵達と想像します。


昭和19年1月15日、内火術特技兵と看做され特技章を附与されます。
また同年19年2月12日、長男が出生します同年5月5日まで経ヶ岬特
設見張所勤務となります。6月5日から7月4日まで初任下士官特別教
育を受講。 7月5日より空山砲台勤務となります。初めの見張所は13
mm単装機銃一(後に二挺に)電探、聴音器、探光灯等を装備の対空
武装は殆ど無いに等しい見張り所です。次の空山砲台は空山の山頂
にあった高角砲台で12.7cm二連装高角砲二基、13mm単装機銃8挺
を装備する防空砲台でした。そして同年7月10日までは舞鶴海兵団内
での臨時勤務をされています。8月31日まで内火術講習員となり講習
を受けています。
経ヶ岬特設見張所の跡地は戦後に航空自衛隊の経ヶ岬分屯基地
となりレーダーサイト基地があります。今も昔も空と海を見張
る役目を担っております。
下のバナーをクリックすると航空自衛隊の経ヶ岬分屯基地
の公式サイトが開きます…。こうして振り返ると今も昔も
国土を護る見張りの役目を背負った防人達が活躍してい
る事を気づかされます。
                  ↓



舞鶴の防空を担当した防空砲台の一つの空山砲台です。
下の写真が今は展望台となり…二連装高角砲二基と機
銃が空襲の時に激しく火を吹いた様子など想像させな
い長閑で美しい光景となっています。




話は多少前後しますが…昭和19年9月1日、普通善行章一線が
増えて二線となります。また昭和20年1月30日から2月15日
まで海軍工作学校に機関術講習で派遣され講習を受講して
います。同年3月10日、第八十三号海防艦儀装員附になります
。この前のの舞鶴警備隊もそうですが、この第八十三号海防艦
も実に幸運な人事と謂えます。まず第八十三号海防艦は敗戦
まで完成を見る事無く終わっています。昭和17年10月の帰国以
降は外地に出る事も海上勤務に就く事無く敗戦を迎える事が出
来ています。中々、こうした幸運に恵まれる方は多くないので
実に嬉しくなります。同年3月1日に大楠海軍機関学校普通科内
火術(内火艇)の練習生教程を卒業したものと看做され、敗戦の
3ヶ月前の5月1日に海軍一等機関兵曹に昇進します。そしてそ
のまま敗戦を迎えます。昭和20年9月1日にポツダム昇進で任
海軍上等機関兵曹に、同日、召集解除となり娑婆に戻られてお
り…戦後も無事に過ごされて天寿を全うされました。
この上の艦が第八十三号海防艦です。儀装中に完成される事
無く敗戦を迎えています。下は同型艦の第一号海防艦です。
香港から輸送船を護衛中に米軍機の襲撃を受けて爆弾が命中
し沈まんとしている断末魔の第一号海防艦です。昭和20年4月
6日に厦門南方洋上で撃沈されています。様々な任地の幸運を
手にする事も生き残る上では重要な鍵となります。帰りを待つ
家族にとっては無事に帰る事が何よりの喜びです。地獄のニュ
ーギニアで死病の一つであるマラリアに罹患し生き残ッ他事か
ら運を強く引き寄せたようです。そしてその運は最後まで尽き
る事無く山田佐吉海軍上等機関兵曹を守ってくれました。
お孫さんに残された山ちゃんに残された階級章と善行
章です。海軍一等機関兵曹の階級章で上等機関兵曹
のものでない疑問をお持ちでしたが…戦前と戦中の二
回の約7年の海軍生活を示す普通善行章二線と共に
物言わぬ階級章の裏に一人の人生の一部が象徴され
ているようです。

























ご家族の従軍の記録を掲載して
 正しい歴史として日本人の記憶に
  とどめたいと思われる方の資料の
   提供を常時、受付けております!!



戦争体験として陸海軍の兵士や軍属として戦地に赴いた
体験だけでなく陸海軍の各種学校に在籍し、敗戦を迎えた
旧陸軍士官学校や幼年学校、海軍兵学校や機関学校、経
理学校、予科練や陸軍戦車学校等の生徒の方の資料でも
このページで扱い紹介します。資料の提供を希望される方
は、BBS(掲示板)の最下段にある”管理者へメール”をクリ
ックしてご連絡下さい。…それでは、宜しく御願い致します。










かくすれば
 かくなるものと知りながら
    やむにやまれぬ大和魂
        
         吉田松陰

敷島の 大和ごころを
  人問はば 旭日に匂う 山桜花
          
         本居宣長