旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part [












その他、資料…etc(6)









東宝映画”連合艦隊”の製作記念で作られた非売品の
戦艦大和 鎮魂のモニュメント置時計です。オルゴール
も内蔵されていて”海ゆかば”が流れます。







=敗戦後の新聞=




敗戦直後の新聞


〜特攻の父・大西海軍中将 自決〜




昭和20年8月18日 神戸新聞









昭和20年8月20日 神戸新聞







昭和20年8月20日 朝日新聞







昭和20年8月21日 神戸新聞







昭和20年8月24日 神戸新聞







昭和20年8月25日 神戸新聞







昭和20年8月25日 朝日新聞









昭和20年8月26日 神戸新聞







昭和20年8月30日 神戸新聞







昭和20年9月5日 朝日新聞













英雄 山下 奉文 陸軍大将に死刑宣告!




昭和20年12月8日 朝日新聞











陛下の人間宣言





敗戦後、昭和21年1月1日元旦の新聞です。…人間宣言











物価統制令




昭和21年3月3日 朝日新聞















国旗使用の自由の復活!




昭和24年1月1日の朝日新聞。









独立、国際社会復帰…サンフランシスコ講和条約前後
 日米安保条約調印




サンフランシスコ条約調印前の昭和26年9月7日の朝日新聞。





9月8日、講和会議始まる!!…日米安保条約調印!





9月9日、サンフランシスコ講和会議調印!







国際復帰翌日の10日の朝日新聞。













御成婚への序曲!




昭和33年月日 皇太子妃決定を一般国民に知らせる号外です。











衝撃の生還!…小野田少尉の帰国!!




孤高の侍戦士の帰国です。小野田少尉の生還のニュース
ほど清冽なイメージと美しき精神を感じた事は、ありません
でした。戦後の日本が日本人が失った全てを持っていた方
でした。







おまけ〜♪




余りに有名な日露戦争の軍神 乃木将軍です。と言っても、さっぱり判らない
若い人に簡単に…乃木希典(1849〜1912年)、嘉永2年生、ドイツに留学し
て軍制・戦術の研究をする。日露戦争では第三軍司令官。御子息を悉く日露
戦争で失う。明治天皇崩御の日に夫婦で殉死し、忠臣の鑑と讃えられる。



明治天皇の胸像










陸軍航空兵の博多人形













二宮金次郎の像です。戦前は、教科書に取り上げられ
唱歌にまでなっていました。何処の小学校にも必ず銅
像がありましたが…現在、見られる事は、滅多にありま
せん。…そうして勤勉、実直、親孝行などと言う言葉が
今の日本から消えて行っております。日教組の偏重教
育が我国をダメにした元凶の一端を見る思いがします。

昭和7年(1932年)『新訂尋常小学唱歌 第二学年用』
 二宮金次郎

 一、
  柴刈り、繩なひ、草鞋をつくり、
  親の手を助け、弟を世話し、
  兄弟仲よく孝行つくす、
  手本は二宮金次郎。
 二、
  骨身を惜しまず仕事をはげみ、
  夜なべ濟まして手習讀書、
  せはしい中にも撓まずがく學ぶ
  手本は二宮金次郎。
 三、
  家業大事に、費をはぶき、
  少しの物をも粗末にせずに、
  遂には身を立て、人をもすくふ、
  手本は二宮金次郎。

補足:二宮金次郎について

金次郎は天明7年(1787年)に小田原市の裕福な農家に生まれ安政3年(1856年)
に70歳で他界されました。裕福な家に生まれましたが、河川の氾濫により田畑などを失
い、金次郎が14歳で父を亡くし16歳で母も亡くしました。その後は、叔父の家にに預け
られるのですが、明かりをともし本を読んでいると叔父に叱られました。…油がもったい
ない…と言われ、金次郎は、空き地に菜種を植え、出来た菜種と油を交換して本を読み
ますが、また叱られます。お前の時間は俺の時間だ。百姓に学問はいらないと言われま
す。それから、有名な銅像の姿の薪を背負い歩きながら本を読む姿が始まりました。い
つしか叔父の家から独立し、実家の再興に取り掛かり、勤勉と倹約に努め、24歳で以
前のような裕福な家を再興しました。それを知った小田原藩士服部家に財政の建て直
しを頼まれ、これを成功させると、その噂が広まり…今度は小田原藩の分家筋にあたる
桜町領(栃木県二宮町)の再興を頼まれました。こうして生涯に615の村々を立て直し
たと言われております。金次郎は桜町領を再興する時に、士分に取り立てられ名前を
二宮尊徳と名乗るようになりました。

その二宮尊徳(金次郎) が説いたのが勤労、分度(倹)、推譲でした。

  勤労とは   徳に報いるために働く事。
  分度とは   収入の範囲内で支出を定める事。
  推譲とは   勤労、分度をして得た物を将来の為に残したり、人に及ぼした
           りする事。

また「積小為大」 「五常講」を説きました。
五常講とは金の貸し借りの旋回の過程で、”仁”の心を持ち、それぞれの分度を守り、
余裕のある者から困っている者に金を推譲し、借りた方は、”義”の心を持って、正しく
返済し、”礼”の心を持って恩に報いる為に冥加金を差し出すなど心を配り、人に接し、
”智”の心を持って、借りた金を運転し、”信”の心を持って約束を守る、これすなわち
”仁義礼智信”の”人倫五常の道”を守ろうと言う教えでありました。





昔の少年倶楽部か何かのオマケの紙玩具でしょうか!?
切り抜いて双六の様に遊ぶのかも知れません。当時の子
供が目を輝かし遊ぶ姿が想像できそうです。


昭和19年使用期限の武田製薬のビオフェルミンの空箱です。
正露丸と同様に古い薬で今も医家用でも一般市販薬としても
現役で活躍している薬です。なぜか…ホッとする気がする容器
です。


海軍経理学校武道大会 記念文鎮 昭和7年


東郷元帥肖像牌 三笠保存会


皇太子殿下 訪欧記念


大正13年 東宮殿下御成婚記念


祈・平和 沖縄戦 文鎮 大田中将の辞世


文鎮



これは、良く判りません。多分、水難救済会の関係の品と思うのですが
不明です。



海軍 第五四号砲艦 出征記念の煙草入れ



印刷物ですが…いい味をだした山本元帥の書です。



大日本帝國最後の御前会議の様子を書いた絵です。




第一次大戦の戦地土産として書かれた物の様です。
青島あたりの土産でしょうか。軍用品の梱包にでも
使ってあったのでしょうか、ベニヤ板に裏に行軍中の
兵士の油絵が描かれています。「1915 Biscanks
 」の書き込みが見られます。裏の文字は、ロシア語
のように思えます。



随分前に入手した絵画ですが我師匠に指摘されるまで作者を考えもしません
でしたが、 平成16年6月22日に故人となられました高名な航空機画家の海法
秀一氏の作品であり…彼の実体験で想い出深い九七式戦闘機と二式高練を
描いた千葉の横芝飛行場…第三十九教育飛行隊で当時陸軍伍長で助教をし
て少飛14〜15期の教育指導に当たる傍ら、迎撃戦でこの7.7o機銃を一丁し
か積んでいない二式高練(しかも九七式戦闘機の750馬力を450馬力に落とし
たエンジンを使用)でグラマンF6FやF4Uコルせアに果敢にも挑み戦った時代
を描写したものと思われる絵画でした。

海法秀一氏は、少飛十三期生。昭和16年10月1日、日米開戦の2か月前に立
川の東京陸軍航空学校(八期生)に入学。昭和17年夏に大刀洗陸軍飛行学
校。続いて陸軍熊谷飛行学校新田分教場。そして北朝鮮の連浦にある朝鮮
一〇〇部隊第十一教育飛行隊。その後、配属されたのが千葉・横芝飛行場の
第三十九教育飛行隊です。初の実戦参加は昭和20年2月16日の迎撃戦です
。九七式戦闘機を複座にした練習機である二式高練で米機動部隊の艦載機
であるF6Fに挑むのだから恐れ入ります。最高速度も僅かに340 km/hしか出
ず対してグラマンは、610 km/hを優に超す最高速度を誇ります。武装と謂い
性能と謂い大人と子供の違いがありますした。この初陣で海法氏は、敵機と交
戦中に被弾しエンジンが止まりかろうじて横芝飛行場から少し離れた海保神
社に不時着します。顔に軽傷を負いますが…凄いのは飛行場から約50km離
れた海保神社で自転車を借りて、後に義父となる海保さんを後ろに乗せて基
地まで帰投し、そこで第三波の敵艦載機の襲撃を負傷した同僚の愛機である
九七式戦闘機に乗り再びグラマンを求めて飛び上り銚子沖の屏風岩の上空で
敵と交戦する前に再びエンジンが止まり…今度は滑空しながら、次に紹介する
海軍の香取基地に着陸します。その後、米軍の襲来は艦載機だけでなく硫黄
島からのP51も加わり…以降は激しい迎撃戦を繰り返します。昭和20年5月に
なると千葉の横芝基地から埼玉の狭山飛行場へ部隊ごと移動。既に訓練生は
全員が特攻や防空戦闘の実戦部隊に巣立ち残った教官・助教で独立三十九
中隊のような存在で以降、敗戦まで首都圏の防空戦闘と迎撃戦闘に明け暮れ
ています。…そして敗戦後も海法軍曹等は、9月上旬過ぎまで九九高練を白
塗りにし日の丸の国籍マークを緑十字に染めて連絡業務で東北方面や北海道
の函館までを連絡飛行で最後の御奉公を勤めたと謂います。

海法氏は一式戦”隼”T,U,V型をはじめ、三式戦”飛燕”等の操縦桿を握っ
た戦闘機パイロットでした。空戦20回。撃墜は、グラマン1機、共同撃墜6機を
記録されています。また敗戦までに実に7回撃墜されその都度、落下傘降下で
命をとりとめて戦線復帰を果たしたツワモノでもありました。

また海法氏といえば有名なエピソードがあります。昭和20年1月未、千葉と茨
城県境の上空で機体を損傷したB29爆撃機から脱出した米兵が、パラシュート
降下しました。ここに急接近する日本軍機がありました。当然、落下傘で降下
中の米兵は、戦闘機による機銃掃射を覚悟しましたが、日本機の搭乗員は、
機中から敬礼をして旋回して帰投しました。「武士道に命を救われた」と感じた
米兵は、戦後もこの敬礼した日本機の元搭乗員を捜し求め、平成12年10月
23日に55年ぶりの再会を地上で果たしました。これが海法氏でした。当時、
存命だった海法氏の千葉県船橋市内の自宅を訊問した元米兵に、再び丁重
に″返礼″したとの事です。当時、美談として新聞やマスコミで取り上げられ
ましたのでご記憶の方も多いと存じます。尚、この米兵だった方は、当時、B29
爆撃機の航法士で米カリフォルニア州在住の陸運会社元社長R・H・ハローラ
ンさん(78)でした。彼のB29は…この日、サイパン島を出撃しましたが日本の
戦闘機に迎撃され、高度約七千mで脱出を余儀なくされました。この海法氏の
敬礼の事は、彼の著作である「ハップス(私の)戦争」のなかでも詳しく紹介さ
れており、死を覚悟していたハローラン氏は、「これが日本の武士道なのか…
」と強く感激したようです。この時、千葉の第39教育飛行隊の迎撃中隊の陸軍
伍長(敗戦時、軍曹)でありました。

また我師匠が私に送ってくれた海法氏の著書”されどわが愛機恥ずることなか
れ 泣き笑いオンボロ戦闘機奮戦記/本土防空戦秘話(月刊 丸)”の中で記載
されていました。また先に記載した首都防衛部隊の塗装の二式高練でグラマン
に撃墜され不時着した海保神社ので介抱してくれた家の娘さんと戦後結婚した
話も嘘のような本当の話です。それにしても敗戦間際の空を日米戦の開戦前の
主力戦闘機でノモンハンで活躍した旧式の九七式戦闘機やこれを練習機にした
二式高等練習機を迎撃に現役で使用した事には正直、驚きました。またその事
より若き海法氏の水上戦闘機より劣るドン亀の練習機で7.7o機銃でも闘争心
を持って迎撃に勇んで上がる気合と根性に感銘を受けます。今の日本人が失っ
た強さを見る想いがします。手記の最後に次の文章で締めくくられています。

…”わが青春に悔いなし”という言葉通り、私は空に青春をぶつけてきた。だが
おりにふれて同期の生き残った者たちと語り合う時、必ず脳裏をかすめるのが、
今は亡き戦友の顔、顔、顔である。私は命の続く限り、今はなき戦友たちの慰
霊を第一義にと心がけている次第である。

昭和49年の丸 10月号に掲載された手記です。

海法画伯の油絵です。画像ではよく判りませんが九七式戦闘機と九七式司
令部偵察機が描かれています。九七式司令部偵察機の後方に曵的機のよ
うで吹流しを曳航し射撃訓練を終えた九七式戦闘機を描いた絵のようです。
開放型のキャノピーでない為、二式高練甲型を描いた絵では無いようです。








上は複座の二式高等練習機の乙型です。下は単座の二式高練の甲型です。(プラモの箱絵から)
このような第一線から退いた旧式戦闘機の九七式戦闘機をデチューン
してスピードを落とした練習機でよくP51ムスタングやF4Uコルセアや
グラマンF6Fヘルキャットに立ち向かわせたものだと感心します。一式
戦”隼”V型や零戦52型甲でも既に力不足であった時だけに…これで
飛び上る将兵達の敢闘精神には頭が下がる想いで一杯になります。
上下の地図のA地点が横芝飛行場です。B地点は撃墜され不時着した海保神社です。
かなりの距離です。人を一人後ろに乗せて自転車で約50kmを走破して、その日のうち
に再び迎撃に出撃しています。
下のC地点は2回目に出撃して再びプロペラが止まり滑空で緊急着陸をした
海軍の香取基地です。こちらは横芝基地と非常に近いのがわかります。


ありし日の海法氏です(伍長時代)。戦後は、競輪選手
で活躍した後、再び操縦桿を握ります。そして有名な航
空機絵画の画家として活躍されました。


まるで二式高練が落ちたとは信じられない海保神社です。





70年代の海法画伯の作品の印刷で戦友会で配られた
ものとの事です。絵は、海軍の九六式や一式陸攻の編
隊が雲上の爆撃行です。組合せからまだ大戦初期の頃
を描いたものと思います。


軍艦 高雄 の油絵です。


不沈戦艦といわれた英国海軍のプリンス・オブ・ウェールズ
が撃沈される模様を戦場画家が当時、描いた油絵です。こ
の画家の方は、陸攻隊に登場し当時の指揮将校本部に帰
還直後に描いたようです。その後、この絵は、中島飛行機
製作所に寄贈されていたようです。


昭和十一年度 練習艦隊 軍艦 磐手 遠洋航海記念
印刷ではなく直筆です。
左下に2596 Y.Setoguchi 
とサインがあります。多分、皇紀
2596年に描いたと言う事でしょう。


戦艦 伊勢 の戦友会で配布された”航空戦艦 伊勢 の戦闘絵”です。
戦友会々員に頒布するために限定で作られたもので、キャンバス地に
プリントされています。図の構成は、恐らくレイテ沖海戦での小沢艦隊(
囮艦隊)の前衛艦隊の戦闘風景と思われます。






一等駆逐艦濱風の肉筆奉納画です。 


春水筆とあり大正三年から昭和八年頃の作品です。







松本 荘吉 画伯の描いた水彩画『海軍兵学校』
                  (1985年)




松本荘吉画伯の1985年の作品”海軍兵学校”です。
戦後の絵ですが…この水彩画の描く原風景を見ていると何処からか
…若く凛々しい海兵生徒達が唱和する五省が聞こえてきそうな気が
します。

 一、至誠に悖る勿かりしか

 一、言行に恥づる勿かりしか

 一、気力に缺くる勿かりしか

 一、努力に憾み勿かりしか

 一、不精に亘る勿かりしか  

”スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ海軍(船乗り)”





画伯の水彩画が描いた角度とまさに同じ写真です。
バックにそびえる古鷹山と夏の積乱雲が印象的です。
左は大講堂、右は赤レンガの生徒館です。下の左が
教育参考館、右が西生徒館です。…現代の江田島を
訪れると時が止まったかのような…この原風景があ
ります。残念な事に今は帝國海軍の海軍兵学校では
なく海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校となっ
ております。

















大戦末期に作られた写真の様です。山本元帥に続けという心意気でしょう。
当時の額に入っています。額が32cm×42cm、中の写真が29cm×38cmの
大きさです。”一億特攻隊”文字があります。末期の悲劇的な状況が見て取
れそうな一品です。



台湾で売られてたいう天皇旗のレプリカです。
何とも不敬な連中です。世が世ならば…という
気になります。


戦前の雑誌などの付録か何かでしょうか…
第一次大戦での青島攻略の時の地図です。











海軍機関学校蔵書の印と昭和10年11月、上田海軍中将寄贈、和1458号とあります。















満州国陸軍軍医学校の本
1492ページに及ぶ満州国軍医学校の体験記、服制図の入った官報、勲章図、
満州国軍医学校の雑誌の復刻掲載など、資料価値の非常に高い本です。





試煉のアルバム…貴重な資料ですが佐賀の小学校の図書室で
廃棄処分となっています。恐らくはサヨの日教組教師によるもの
と推察します。
戦争犯罪人として獄中に拘禁された軍人が巣鴨の刑務所で作製した本です。
巣鴨の暮らしや所内作業、学科、入浴、十三階段(刑場)などの話や横浜大森
収容所、上海、グアム、ラバウル、ジャワ、スマトラ、サバン、モロタイ、バンゼル
マシン、マカッサル、アンボン、サイゴン、プロコンドール、香港、チャンギー、
オートラム、ビルマ、モンテンルパなどの収容所の様子などが豊富な挿絵ととも
に紹介されています。付録として戦犯者家庭悲劇の実態調査として家族の生活
状態や戦犯拘禁中家族が自殺したもの、戦犯の家族なるがゆえに就職を禁止
されたもの、村八分の迫害を受けたもの、結婚を拒否されたもの、子供の入学
拒否などの社会的迫害を受けたものなどの調査記録がついています。






















全長約103.0センチ。総高約33.0センチ。幅約15.0センチ。総重量約5.5キロ。
一部の金具を除いて全て木で作られた、古い軍艦模型です。戦艦 陸奥 との
事です。全長1メートル以上の船体が醸す迫力はかなりのものです。



海軍 局地戦闘機”雷電”の1/48の木製ソリッドモデル
です。プラモデル等の製作前に作る模型で半完成品で未
塗装の木地の状態です。逆に珍しい物なのかも知れませ
ん。いずれにしてもプロが製作した珍しい一点物です。





九九式双軽爆撃機の約1/32スケールの木製デスクトップモデルです。



BBI製 1/18 零戦 虎-110














戦時中の浴衣などの布を切り取って額に入れたものです。









敗戦後の小学生の制服と思われます。カンコー学生服です!




戦時中の子供用の絵本です。







三笠保存会と彫られています。戦艦”三笠”の艦材を使用した模型です。








頑住吉製 完成品の二十六年式拳銃(合成樹脂製)




合成樹脂製ですので非常に軽いのですが…稼働してこれまた
合成樹脂製の弾丸を装填したり遊べます。文鎮タイプの置き物
の二十六年式はありましたが見た目も精巧な模型は初めて見
ます。非常に楽しい品で子供が喜んですぐ壊しそうな感じの品
です。



二十六年式は、Sアクションオンリーで実用性の高い拳銃です。
威力の点で時代遅れとなり冬装備の敵兵の外套を撃ち抜けな
い弱さが問題で次第に姿を消しましたが…明治26年に制式とし
た国産回転式拳銃 であり、日本で最初に無煙火薬を採用した
拳銃です。生産が終了し、多くが各種南部拳銃や九四式自動
拳銃に移行する中、操作が容易で扱い易すく回転式で故障も
少なく大東亜戦争の終結まで愛用され長く使用され続けました。
全ての製造期間において美しい仕上げが施されていたため、戦後に
進駐した米兵の間でも26年式拳銃は戦利品として人気があり、多数
が残されているため米国内でも現在も手頃な価格でで入手できるよ
うです。







中田商店で出している二十六年式拳銃用の拳銃嚢
と合わせて見ました。
レプリカ品の組み合わせですが中々、良い味を出しています。








珍しい九四式自動拳銃の
       可動式のモデルガン




無可動の文鎮タイプや精巧なダイキャスト製しかみない
九四式自動拳銃ですが…可動するモデルガンが発売さ
れました。一四年式自動拳銃と九四式自動拳銃は日本
軍の代表的な正式拳銃ですので合法無可動の実物拳
銃を所持していますが…こうしたものは動くと聞くと欲しく
なるもので予約して手に入れました。
可動部分があるからどうなんだ?…と謂われれば所詮はモデルガンなので
ですが…されどモデルガンでやはり動く九四式には…感動を覚えました。















実物のホルスターに納めて見ました。












オマケ…各種 文鎮拳銃




陸海軍将校の携帯する拳銃や軍刀は私費購入
によるもので公費で与えられる装備ではありま
せんでした(当然、軍服からブーツに至る全ても
です。国軍が支給してくれるのは兵・下士官まで
となります)。当然、拳銃や軍刀は高価ですから
安い拳銃を買う人、豪華な拳銃を買う人など様々
でした。現在と違い軍人や許可を得て拳銃を所持
できた時代でしたので売る店も各地にありました。
当然、日本製に限らず輸入拳銃も広く使われまし
た。


























35/1 完成品模型の陸軍九五式小型乗用車
(くろがね4起)と陸軍九七式側車付自動二輪
(陸王)です。



中々、どうしてを見事に当時を演出しています。














同じく1/35の陸軍九四式六輪自動貨車
です。
これら三種ともピットロード製です。




良く出来た九五式小型乗用車の完成品プラモです。
















フランクリン・ミント社の1:35 
      九七式中戦車の精密模型






1993年にフランクリン・ミント社からでた「九七式中戦車」です。
実存の設計図をもとに1:35の縮尺率で再現した驚異的なディテ
ィールに富むピューター製レプリカです。迷彩色に塗られ戦車砲
は22金仕上げの真鍮製です。












小西社の1:72 
    戦車シリーズ(精密模型)から




以下は、小西の1/72 戦車シリーズからチハとホニ1です。






































日露戦争で使用された二十八糎砲の精密模型




二十年前に東京書芸館で売りに出された模型のようです。
1884年(明治17年)に大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試作した
もので、1886年(明治19年)に大阪府信太山にて試射したところ、非常に優秀で
あったため、1887年(明治20年)に正式化され、量産化された。 装填は砲を水平
にしてクレーンで吊り上げた砲弾を人力で押し込んでから装薬を入れる後装式で
発射速度はそれほど高くなかったという。

元は沿岸砲台に対艦用として配備されていたものであったが、日露戦争において
本砲も動員され、203高地の戦いを含む旅順攻略戦では18門がこの戦いに参加、
16940発を発射した。特に旅順攻略において3週間といわれた砲床構築を9日で完
成、6門にて敵陣に大打撃を与え、更に旅順要塞陥落後は旅順湾内に停泊する
ロシア旅順艦隊(第1太平洋艦隊)にも大打撃を加え、これらをほぼ殲滅することに
成功した。(Wikipediaより転載)

   <基本スペック>
  • 口径:280mm
  • 重量:26トン
  • 初速:142〜315 m/s
  • 最大射程:7650m
  • 俯仰角:-5度〜+65度
  • 砲弾:堅鉄弾
  • 砲弾重量:217Kg



明治陸軍を象徴した二十八糎砲です。








1/40真鍮・錫合金 日本陸軍の
       精密大砲シリーズ(小西社製)




改造三八式野砲






四一式山砲










九一式十糎榴弾砲










九四式山砲










九六式十五糎榴弾砲












戦友会で製作し配られた
 九六式十五糎榴弾砲の野戦重砲仕様モデル
  そして実物の十五糎榴霰弾2個用弾薬箱(昭和十三)




靖國神社の遊就館で実物を見る事が出来ます。




 〜性能データ〜

口径:149.1mm
砲身長:352.3cm
砲重量:4.140kg
初速:540m/秒
発射速度:45発/hr
最大射程:11.900m



箱ガラスケースの裏のプレートに”元満州一〇一三部隊
石門五中会 謹製”とあります。ガラス箱は汚れてくたび
れて見えますが中身の砲のモデルは新品同様です。









発射装填作業中の砲兵と九六式十五糎榴弾砲




十五糎榴弾砲榴霰弾2個格納する弾薬箱です。蓋の裏に「昭和十三 三 
小倉造兵廠?」と思われる刻印が入っています。オリジナル塗装は95%
以上残っていますが、蓋の布に擦り切れがあります。中の仕切りと吊紐が
欠品しています。










1/100スケールの真鍮ロストワックス鋳造品
 (イブシ仕上げ)海軍の八九式12.7糎連装高角砲




中々味わいのある海軍の八九式12.7糎連装高角砲です。












超精巧…四分の一スケールの手作りの
 真鍮製精密模型の日本軍シリーズの魅力




この精巧さ…匠の職人の技術もさる事ですが…作品のモデル
に対する知識や造詣の深さがなければ作り上げられないのが
良く判ります。三五年式海軍銃にベルグマン短機関銃の海軍
陸戦隊仕様に二十六年式拳銃、南部十四年式拳銃後期型、
そして萱場式(90式)信号銃。陸海軍の90式鉄帽です。
ベルグマンは槓桿は作動し、三五年式はボルトがオープン可能です。
勿論、ともに銃剣付きで着剣出来ます。





二連信号銃は、中折れでダーミー弾取り外し可能です。
十四年式もボルトを引けます。





銃剣が如何にも日本軍で泣かせます。



この小さな弾倉にダミー弾が細部にこだわりが見てとてます。


















戦時資料 特別賜金受領注意書




憲兵を詐称して戦死者遺族の賜金を詐取する国賊・非国民有り。
何時の時代も悪い者はいる様です。”特別賜金受領注意書”とあ
ります。昭和十九年九月二十八日交付と記載されています。




戦時資料 福島県大政翼賛運動提要など




”大政翼賛会”とは何ぞや!…大東亜戦争・聖戦完逐の為、必勝完壁を
固め・皇民全て国策・政治に翼賛すべし。「福島県大政翼賛運動提要」
22ページとその他資料です。








戦時資料:昭和18年の国民徴用援護會の
        移動展ポスターで使用されたポスター























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